じじぃの「神話伝説_05_崇徳天皇」

崇徳上皇 保元の乱 平清盛 動画 YouTube
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  75代目 崇徳天皇

崇徳天皇 コトバンクより
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2.5.28(1119.7.7)- 長寛2.8.26(1164.9.14))
平安後期の天皇。諱は顕仁。鳥羽天皇の第1皇子。母は待賢門院璋子。
保安4(1123)年父鳥羽天皇の譲りを受けて5歳で践祚。この即位は当時院政主であった曾祖父白河法皇の意によるものであるが、崇徳天皇は実は白河法皇が自分の猶子である璋子に生ませた子で、鳥羽上皇崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んでいた、との巷説もある(『古事談』)。初め法皇の執政下でその庇護のもとにあったが、大治4(1129)年法皇が崩じて鳥羽上皇院政が始まると情勢は一変して厳しくなり、保延6(1140)年源雅定左大将着任をめぐって上皇と対立。翌永治1(1141)年鳥羽上皇の意思によりその寵妃美福門院所生の異母弟体仁親王(近衛天皇)に皇位を譲らざるを得なくなった。 譲位後は新院と呼ばれ本院鳥羽との対立が激化、そのようななかで近衛天皇が久寿2(1155)年に17歳で急逝すると、崇徳上皇はわが子重仁親王の即位に望みをかけた。が、結局同母弟の雅仁親王(後白河天皇)が即位し、その子守仁親王立太子するにおよんでその願いも空しく破れた。次いで翌保元1(1156)年鳥羽法皇の死去を機に、当時摂関家で政界から疎外されていた左大臣藤原頼長と共に源為義平忠正らを召集して挙兵するに至った(保元の乱)。しかし天皇側に敗れ、配所讃岐国にて失意のうちに崩じた。

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『怨霊になった天皇 竹田恒泰/著 小学館文庫 2009年発行
甦る崇徳天皇の怨霊 (一部抜粋しています)
日本史上に登場する数々の怨霊の中でも、崇徳天皇の怨霊は、最も恐ろしい怨霊として特に恐れられた。たとえば、四谷怪談のお岩の怨霊は、恨みの対象となる伊右衛門に降りかかるだけだが、崇徳天皇の怨霊はこのような「私怨」ではなく、天下滅亡を意図する恨みであり、他の怨霊に比べれば格段と恐ろしいものであって、その効果は特定の個人ではなく、天下全体に及ぶと信じられていた。
では、なぜ崇徳天皇は怨霊になったのだろうか。朝廷に恨みを持ちながら非業の死を遂げた人物はいくらでもいたはずだ。
中国には易姓革命思想という、帝に徳がなくなると天帝に見限られ、動乱を経て新たな王朝が建てられるとの考え方がある。しかし、我が国の歴史において三輪山周辺にヤマト王権が成立して以来今日まで、王朝の交替は一度もなく、王朝を打倒しようとする動きもなかった。
これまでに天皇を政治的に利用しようとした人物はいくらでもいたが、天皇を倒そうとしたものは一人もいなかった。確かに織田信長足利義満などは、帝位を狙っていたのではないかとの説も存在するが、それを口にしたことは一度もなかった。しかし、崇徳天皇は「皇統を滅ぼす」ということを口にした人物なのである。崇徳天皇が怨霊になった一つの理由がここにある。
ある人物が亡くなってから何らかの異変が起きたとしても、直ちにそれが祟りとは思われない。怨霊が成立するには、死者が深い恨みを持っていた事実と、そのことを残された者たちが知っている事実、そして残されたものが負い目を感じていることの三つが条件になる。
崇徳天皇の場合は保元の乱で敗れ、島流しとなり、失意のうちに崩じたという経緯は明確であり、崇徳天皇が深い恨みを持っていたこと。そしてそのことを特に残された天皇と為政者たちが知っていたと同時に、負い目を感じていた。
だが、いくら崇徳天皇が皇統を呪う言葉を書き記して崩じたとしても、それを残された者たちが気に留めなければ崇徳天皇は怨霊になりはしない。事実、怨霊を成立させるのは、死者ではなく、こちらで生きる者にほかならない。
何もなければ残されたものは死者を怨霊に祀り上げることはないだろう。残された者は何も好んで怨霊を祀るのではない。祀らざるを得なくなり、すがるような思いで死者の御霊を祀り、鎮魂に励むのである。
それはなぜか。それは、崇徳天皇崩御後次々と起こる凶事に、残された者たちが崇徳天皇が怨霊となって崇っていると確信したからである。追い落した者が追い落されたものを鎮魂することは、ある種の自己矛盾であり、よほどの恐怖心を抱かなければ行われないはずである。実際に凶事の数々と崇徳天皇の間に相関関係があるかは分からない。だが、崇徳天皇が崩じてからあまりにも凶事が頻発したことで、当時「怨霊の為せる業」と誰もが信じたことは確かである。
このような条件が重なり、崇徳天皇は怨霊になった。