じじぃの「人の死にざま_1553_麻田・剛立(天文学者)」

風之荘「円相」42麻田剛立 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RPVQ2dmopsw

こよみの学校 第60回『渋川春海麻田剛立-江戸前・中期の天文学者
暦学には天文学と数学の知識が不可欠でした。数学のほうは和算が幅を利かせ、関孝和のような和算家がおおくの暦学研究書を刊行しています。他方、天文学のほうは、オランダの知識や技術が先をいっており、その翻訳と和製の機器による天体観測が急務でした。そこで活躍した天文学者の一人に麻田剛立(あさだ・ごうりゅう、1734 - 1799)がいます。
http://www.543life.com/campus.html
麻田剛立 コトバンク より
麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19(1734).2.6 - 寛政11(1799).5.22)
江戸時代中期の蘭方医天文学者。本名綾部妥彰。豊後杵築藩の儒者,綾部安正の次男に生れ,藩医にあげられたが,明和6 (1769) 年頃に脱藩,姓を麻田と改めて医で生計を立てながら星暦を研究した。

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『頭が良くなる! 雑学の王様』 幸運社/編 PHP研究所 2007年発行
地動説をとなえた日本人が! (一部抜粋しています)
地動説といえば、1543年、ポーランド天文学者コペルニクスが最初にとなえたことで知られていますが、なんと日本でも、地動説を主張した学者がいます。
浪速の天文学者麻田剛立がその人、麻田が地動説をとなえたのは、1769年と、コペルニクスからは200年以上も遅れていますが、もちろん麻田はコペルニクスの説などまったく知らず、独自の理論構想から地動説にたどりついたのですから、それはそれで立派な業績だと思います。
麻田は子どものころから太陽や星をみるのが大好きな天文少年。庭に日時計をつくり、城下に時刻を知らせる太鼓が間違っていると言い張ったり、当時は不動の星といわれていた北極星も、「一晩瓦一枚分は動く」と主張したりしていました。
聖人すると長崎で医学を学び、23歳で故郷、豊後藩の藩主の侍医となりますが、天文観測をやめることはありませんでした。手製の望遠鏡にススを塗り、太陽の黒点観測に熱中しました。その結果、のちに太陽自転の原則を発見します。
25歳のとき、天文観測の時間が欲しいばかりにご法度の脱藩をこおろび、大坂に移ります。浪速の地でも医者を続けて生計をたてていましたが、天文観測に熱中したため、生活は苦しいもの。しかし、麻田を慕った、気鋭の学者が集まってきます。日食を予言し、予言は的中して、幕府は暦の誤りをただしたほど。
しかし、こんなことは、麻田にすれば朝飯前。1769年には地動説を主張して世間を驚かせます。これは、天文学的な観測に基づいた主張で、太陽と惑星の距離や周期もほぼ正確に把握していました。
麻田は月面の観測や木星の4つの衛星の動き、土星の輪の観測なども行なっています。
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長年の天文観測のために、晩年の麻田はほとんど失明状態だったとか。彼の側には、老いた女郎が1人。晩年は、もはや、あれほど夢中になった天文観測もおぼつかないほどの視力になってしまい、老女と2人、静かに暮らしたと伝えられます。