じじぃの「人の死にざま_1592_李・経方(清末の外交官)」

黄文雄】 日本人とはこんなに違う中国人と韓国人[桜H24/10/19] 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=elLWWzaQJFk
李経方 ウィキペディアWikipedia) より
李 経芳/李 経方(り けいほう、Li Jingfang、1855年 - 1934年9月28日)は、清末の官僚・外交官。字は伯行、号は端甫。安徽省合肥磨店出身。李鴻章の弟李昭慶の子で、同治元年(1862年)に伯父李鴻章の養子となる。
光緒16年(1890年)より駐日公使に就任。光緒21年(1895年)、李鴻章と共に下関条約を結び、台湾割譲の全権委員となった。6月2日、基隆沖に停泊していた日本船「西京丸」上で初代台湾総督樺山資紀との間に台湾接受の手続きを行った。樺山が「何故台湾に上陸しないのか」と問いかけた所、李経方は「上陸すれば台湾住民に暗殺されるだろう」と答えたという。
光緒31年(1905年)に商約大臣となり、光緒33年(1907年)には駐英公使となった。宣統3年(1911年)、郵伝部左侍郎となった。それまで郵政事業は外国人が担当していたが、交渉の結果、李経方が漢人ではじめての郵政総局局長となった。清朝滅亡後は実業家に転向した。

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『韓国人に教えたい 日本と韓国の本当の歴史』 黄文雄/著 徳間書店 2013年発行
朝鮮総督府台湾総督府はどこが違うのか (一部抜粋しています)
台湾総督府朝鮮総督府は、ともに戦後、「日本帝国主義の植民地統治機構」と考えられてきました。しかしもちろん、新領地である台湾総督府と、日本の一部である朝鮮の総督府は法的地位や性格がまるで違っています。
運営方針としては、どちらも植民地ではないという内地延長主義に基づき、憲法の施行は台湾の「六三法」、韓国の「三〇法」という特別時限立法で定められていました。この点はすでに触れました。
所属としては、朝鮮総督府天皇・内閣の直属、台湾総督府は拓務省に属していました。地位的にも、朝鮮総督府は総理経験者やその有力候補が中心で、天皇に直隷して陸海軍を指揮する権限を持っていました。一方の台湾総督は拓務大臣によって総理大臣を経て裁可されており、朝鮮総督ほどの権限は与えられていません。
この差異は宮中の席次にも表れています。首相は2位、枢密院は3位、朝鮮総督は6位でした。台湾総督について規定はありませんが、陸海軍大将なら10位、親任官であれば11位です。年俸も、朝鮮総督、各省大臣は8000円、台湾総督は7500円と差があり、附属する官僚の地位や格式も台湾のほうが格下とされていました。
しかし、朝鮮の三・一独立運動朝鮮総督の権限が縮小され、また台湾では軍人に代わって文人総督が任命されるようになりました。大正デモクラシーで朝鮮台湾の総督の権限が縮小されたこともあって、昭和16年には同等の立場となります。
総督府の初期における現地民族の対応も、きわめて対照的でした。
台湾が清から日本に割譲されたときの抵抗運動は激しいものでした。清の全権大使・李鴻章の跡取りだった李経方は、住民が「剽悍(ひょうかん)強暴」であることを理由に、「台湾受渡公文」を首府の台北ではなく、洋上で交付することを切望しました。日本側の代表である樺山資紀も陸上での譲渡式典を断念し、船上で手続きを済ませています。
その後日本は、台湾住民の平定に苦労しました。1895年には割譲に抵抗するため、アジア初の共和国「台湾民主国」が建国されています。日本は半年かけてこれを平定したものの、全島平定には20年以上を要しました。その後も1915年の西来庵事件(タパニー事件とも)、30年の霧社事件といった抗日蜂起がたびたび起こっています。
一方の朝鮮半島では、1910年の合邦から19年の三・一独立運動までの間、治安にあたる憲兵警察は数千人いましたが、その約半数が朝鮮人でした。軍隊も1個師団か1.5個師団で、ほとんどはロシアの南下に備えるものでした。仮に韓国人が一致団結して反日運動を起こせば、この人数では到底歯が立たなかったでしょう。
しかし実際、小規模な抵抗運動は散発したものの、全国的な蜂起など起こりませんでした。近代国民国家としての意識がまだ育っておらず、合邦に賛成・黙認する人が多かったからと考えられます。
韓国の「日帝36年」は反日の歴史で、台湾の「日本統治51年」は飼いならされた歴史だった、という印象を受けがちですが、事実は正反対だったのです。