じじぃの「人の死にざま_1593_楢崎・皐月(物理学者)」

 カタカムナ文字

カタカムナ 楢崎皐月カタカムナ】の解読をした。
カタカムナは太古から密かに連綿と伝えられてきた謎の古文書です。
ここで言う「太古」とは今から数万年〜10万年以前の時代のことで、そのころ日本列島に住んでいたといわれる謎の人類が残した古代科学の書です。 一説にはこの人類 → 「宇宙人」であったと言われております。  カタカムナの真実をを証明できる物証は残念ながら何もありません。 アカデミックな社会では認められていませんが、これが本当とすると、今までの人類起源の説をひっくり返すような 一大事になります。
http://www.jp-spiritual.com/kata_outline1.htm
楢崎皐月 ウィキペディアWikipedia) より
楢崎 皐月(ならさき さつき、別資料では「ならさき こうげつ」、 1899年5月9日 - 1974年7月31日)は、日本の物理学者・電気技術者。
1917年、日本電子工業・電気学校で学んだ。卒業後、20代で国産の特殊絶縁油を開発。日本石油と契約を結び、フリーランスの技術者として活躍。
1966年、「日本の第一次文明期の特徴」で、昭和19年〜24年に体験した先住古代文明カタカムナ)の知識について語り始めた。昭和43年(1968)、「古事記」等の古文書の読解を始めた。
カタカムナ文明 ウィキペディアWikipedia) より
カタカムナ文明は、物理学者の楢崎皐月らが主張する、先史時代の日本に存在したとされる文明。その実在を示す遺構や遺物は一切見つかっていない。カタカムナ文字が書かれていたとされる書物の出所がわからないため、その真偽が検証できていない。このためカタカムナ文明は偽史に分類されている。

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『日本人が知らない「人類支配者」の正体』 船井幸雄太田龍/著 ビジネス社 2007年発行
西洋に破壊された日本型文明の復活 (一部抜粋しています)
船井 先ほどの「創造の科学」ということでいえば、日本には楢崎皐月さんの「カタカムナ」という科学があります。
 楢崎さんは明治33年(1899)生まれで、昭和49年(1974)に75歳で亡くなっています。この人は一種の天才ですが、そのすばらしい実績に比べると知名度は高くありません。長い間、埋もれた存在でした。ある事情で大学に進むことができず、学歴は電気関係の専門学校卒業のみというのも影響したかもしれません。
 学究の徒とはならなかった楢崎さんですが、社会に出てさまざまな発明をし、頭角を現します。その優れた開発能力を認められ、産業界や軍部の一部に重用されるようになっていきました。
たとえば、20代のときに特殊絶縁油を発明して、その事業化に成功しています。その後には人造石油を発表し、この技術は軍に採用されました。戦時中は軍の要請で旧満州に派遣され、陸軍製鉄所兼技術研究所長を務めています。楢崎さんは敗戦を満州で迎えました。
 満州を占領した旧ソ連軍は、この日本人天才科学者を血眼になって探し回ったようです。どうしても捕まりたくないと、彼は狂人のふりを装って日本に逃げ帰ってきました。
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太田 「カタカムナ」の研究をした楢崎皐月先生の業績というのは、もっともっと高く評価されるべきだと思います。彼は、「現象」に対して「潜象」という概念を建てました。現象に対して「潜象」という目で物事を見る、これは昔の日本人がごく普通に身につけていた考え方です。ところが明治以降、西洋化すると、太古から維持されていた日本人の精神構造が失われて、敗戦後、現代に近づくにつれますます失われていったのです。
 ここのところを、ちゃんと意識して回復するように努力することが大切だと思います。楢崎先生の説の要点や「カタカムナ」の文字をどう読むかということに拘(こだわ)る
と、本質が基本的に見えなくなります。問題の本質は、「カタカムナ」の文化と文明をつくった太古の日本人の世界観の本質が「現象に対して潜象」と見るという精神なのです。
 そこで、「潜象」で見るためには何が必要か、どういう教育が必要かということが問題なのです。それが現在の日本人には失われています。「潜象」というのは、100年先とか1000年先とかそういうレベルではないのです。それは何億年とか何十億年とかいう、無限の過去から未来、そういう時間のレベルで現に存在しているもの、現に出没しているような現象を判断し識別する能力なのです。
 楢崎さんは自然科学者であり技術者でしたが、晩年、「潜象」という概念に辿りつきました。「潜象」というのは、宗教とか神さまとかという領域のものとして、いまの日本人は認識しています。しかし楢崎さんは「潜象」を科学の領域で、科学の問題として設定しなければいけないということを唱えました。
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 「潜象」ということを無視して設定される必然性を批判しなければいけません。私は「カタカムナ」を1980年代にずいぶん勉強しましたが、「潜象」というのは「現象」が消えて、「現象」というのは常に消えるから現象なのですが、まったくなくなったのではなくて、それはどこかに潜っている。潜っている場所というのは見えないけれど、どこかに潜っているわけです。潜っている場所はなにかというと、東洋の古代の教えではそれを「無」といったのです。「有」が消えてなくなって「無」に帰る。「無」というか「空間」にはそういう消えたものたちがたくさん充満しているわけです。それは宇宙の空間です。宇宙の空間には非常に多くのものが潜っているのです。
 今の物理学の「素粒子論」では、素粒子が分割されどんどん小さくなっていくと粒子が100億分の1秒くらいでパッと生まれて、パッと消えるというのです。パッと消えてどこへ行くかというと、なくなるのではなく、どこかに潜っているわけです。だから「無」のなかに、そういう非常に多くのものが潜んでいるわけです。
 そういう考えを突き詰めていくと、「先祖崇拝」というものは昔の日本の呪術的な世界観というか考えでした。それは先祖が死んで消えたということではありません。先祖はずうっと存在しています。それは目には見えないけれどどこかに潜んでいると考えないと「先祖崇拝」ということはよくわからないのです。