じじぃの「人の死にざま_1605_葛西・純一(盧溝橋事件・軍人)」

盧溝橋事件 運命の4日間 中国派兵への 重大決意 その時歴史が動いた 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uufTdgnMUT4
蘆溝橋での日本兵

知らされなかった日本: 中国
葛西純一編訳『新資料・盧溝橋事件』に次のような記述があります。
葛西氏は昭和二十年八月の終戦後、中国に残留し、共産党軍に参加して国民党と戦った経歴がある方です。
兵士向けに配られた小冊子の中に以下のような文言があったということです。
「七・七事変は劉少奇同士の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、暗闇の盧溝橋で日中両軍に発砲し宋哲元の第29軍と日本駐屯軍を相戦わせる歴史的大作戦に導いた。
これによって蒋介石南京政府は世界有数の精強を誇る日本軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石南京政府日本帝国主義であった」
つまり共産党軍が国民党と日本軍を戦わせるために双方に発砲したという意味ですね。
http://daikichi1966.cocolog-nifty.com/blog/cat4504789/index.html
昭和史の謎を追う 上』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
盧溝橋事件(下)――中共謀略説をめぐって (一部抜粋しています)
1987(昭和62)年は、盧溝橋事件の50周年に当たるので、日中両国で事件をテーマにかかげた研究大会など各種の行事が催された。その残響も薄れはじめた88年5月、奥野国土庁長官が「盧溝橋事件は偶発事件だった」に始まる一連の失言で閣僚を解任するはめとなり、あらためて事件の真相に対する一般の関心を刺激した。
最初に書いた学術論文が盧溝橋事件だった因縁もあって、ここ30数年、そのウォッチャーを任じてきた筆者にとって、世間の関心が高まるのは嬉しいことではあるが、一方では歪んだ方向にそれないだろうかという心配もしている。これまで真偽とりまぜた臆説や怪説に何度も降りまわされた苦い経験も持っているからだ。
奥野の「偶発」論を新聞報道で知ったときも、奥歯にモノのはさまったような言いまわしから、「例の話の筋がからんでいるな」と直感したが、この推測は当っていた。辞任後の奥野が『文藝春秋』の88年7月号に「侵略発言どこが悪い!?」と題して発表した論稿に「盧溝橋発言の真意」として、次のような記述があったからだ。
奥野失言の波紋
 1937年7月7日、盧溝橋で起きた日中両軍の衝突が日中戦争の発端となった。どちらが先に攻撃をしかけたかということになると、日本謀略説もあれば、中国国民党謀略説もあれば、中国共産党謀略説もある(中略)。
日本緒敗戦後、中国共産党の軍隊に入り、その後日本に帰国した葛西純は盧溝橋事件についてこう言っていた。
「あの地域の中国共産党の責任者であった劉少奇が決死隊を募り、日本の軍隊と蒋介石の国民党の軍隊との両方に向かって発砲させ、それぞれが相手方から撃ち込んだと誤解するようにした。そうやって日中を相戦わせるようにした」(中略)
 「偶発的」と言ったのも、ライシャワー氏の記述をかりたのも、むしろ日中の対決をさけ、反発を緩和したいと思ってのことだった。
つまり、中共謀略説を信じているが、国会で持ち出すと刺激が強過ぎるので自制して、ライシャワー博士の「偶然説」(わが国の学会でも最近までは通説だった)にとどめておいた、というのが奥野の言い分と見受けた。
では奥野が、中共謀略説のよりどころとした葛西純一説とは何かだが、実は1987年秋、筆者のところへ「自主憲法、教科書を守る会」というところから「中共政治部発行《初級事務戦士政治課本》1947年版(ろ溝橋事件に関する記述部分)という一通の文書が配達された。
ワープロのコピーで出所は記していないが、一読して葛西純一編訳『新資料盧溝橋事件』(1975年)1月、成祥出版社刊)5ページからの抜粋とわかった。
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ふしぎなことに、彼の中共謀略説が初登場するのは第1作ではなく、3作目の『意地悪中国論』なのである。著者によれば、1949年末、洛陽勤務時代に中共軍兵士へ無料で配布される『戦士政治課本』なる「ポケット版の薄ッぺラナ教本」を読んだ。「救国英雄・劉少奇同志」という題名だったそうである。
引用された内容はすでに紹介したものと同工異曲なので省略するが、いずれも日本訳の要旨で、中国語の原文やその写真版があればぜひ拝見したいものであるが、それを見た人はいないようだ。
しかも同じ本に一問一答の形式で、
問 その証拠文献を今見せて貰えないか。
答 今は所持していないが、某所に保管してある。もし北京政府が「そうした事実はない」とシラを切ることがあれば、内外記者団に公開するし、私は北京と対決する。というくだりがあるのを見ると、著者は帰国のさい、現物を持ち帰ったととれる。
筆者はついに葛西に会う機会がなかったが、名越荒之助は生前に本人に会って申し入れたところ、「銀行の貸金庫に入っている」といわれ、現物は見せてくれなかったそうである。
晩年の葛西と親しかった人に、戦争中、北支那方面軍の特務機関員だった塩田喬がいる。塩田の記憶によると、葛西は半月刊紙『れいめい新聞』を発行し、中共謀略説を書きまくっていたが、周恩来が200万円で買収に来たのを断わったため、いつ殺されるかわからない、と話していたそうだ。そのうち現物は「君にゆずる」と約束したが、見せてもらわないうちに急病で亡くなってしまい、未亡人と一緒に心当りの貸金庫を探したが、見つからなかったという。
 もはや政治課本の現物が出現する可能性はなく、むしろ現物は持ち帰っていない。あったとしても葛西は洛陽時代にそれらしい記述を読んで、おぼろげな記憶を頼りに復元を試みたのではあるまいか、と筆者は推測する。