じじぃの「人の死にざま_1724_加藤・高明(大正時代の首相)」

加藤高明

加藤高明 近代日本人の肖像
加藤高明(かとう たかあき、1860〜1926) 外交官、政治家、首相。 愛知県に生まれる。
父は名古屋藩士東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。明治19年(1886)岩崎弥太郎の長女と結婚。官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。33年第4次伊藤内閣外相となる。35年衆議院議員に当選。東京日日新聞社長、第1次西園寺内閣外相、駐英大使、第3次桂、第2次大隈各内閣の外相を歴任。大正4年(1915)貴族院議員に勅選。翌年に憲政会総裁となる。13年護憲三派内閣の首相に就任。翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/54.html
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
最も輝かしく機能した大正時代 (一部抜粋しています)
明治憲法下での議会政治について、みなさんは学校で、あるいは学生時代、どのように学んだでしょうか。もしかしたら、今日のような議会政治はなかったかのように習っているかもしれません。しかし、明治憲法の下で大いに民主主義が発達した一時代がありました。それが大正時代です。明治は45年、昭和は64年、それに比べて大正はわずか15年です。しかし明治憲法がもっとも輝かしく機能していたのは、この15年であったといってもいいでしょう。
明治憲法下では、首相は国会に議席がなくてもよかったのですが、議会を無視して政治を行うことは不可能です。政党政治家以外の首相たちもみんな与党をバックに議会運営を行っていたのです。
大正時代には、旧勢力の政治家が衰退し、政党政治家がリーダーシップを発揮しました。2度にわたる憲政擁護運動は、世論やマスコミの応援もあって、藩閥勢力をバックにした桂太郎貴族院をバックにした清浦圭吾両首相をやめさせ、政党こそが政治の主役であることを示しました。そして大正末には、ついに衆議院の多数党の党首が首相になるという慣例を生みました。
初の本格的政党内閣といわれる原敬の内閣は、外務、陸軍、海軍以外の大臣をすべて与党・立憲政友会から選びました。まもなく政友会は総選挙で絶対多数を獲得して積極的に政治を行いました。
国民の代表として選ばれた議員が、国会でいろんな意見を出し合い、よく話し合って最後は多数決で決める。これは今の日本国憲法の下で初めて決められた原則ではありません。明治憲法の下でも、民主的な議会政治は充分に機能できたのです。
確かに、日本国憲法下のように「国会は国権の最高機関」ではなかったので、軍や政府に対して弱いという側面もありました。しかし、政府の予算も軍の予算も、政党の強力がなければ成立しなかったのは事実です。
大正時代末期に首相をつとめた加藤高明(憲政会)は高橋是清立憲政友会)、犬養毅革新倶楽部)と協力して「護憲三派内閣」を組織しました。加藤内閣は、普通選挙法と治安維持法という2つの重要な法案を通しました。
普通選挙法によって、より広い国民の声に耳を傾け、治安維持法によって、明治憲法下の政治体制(団体)を守るという、政党政治家としての決意がここには現れています。治安維持法は今日の価値観からは一方的に見られて、そのマイナス面だけが強調されていますが、苦心して築き上げた憲政をくつがえして、わが国を外国の植民地にしようと考えているような団体を取り締まるのは、当時の政党政治家としては当然のことでした。
こうして見ると、大正時代は、明治憲法下での議会制民主主義が十分に発達できたということを示す具体例といえます。