じじぃの「科学・芸術_84_世界遺産・富岡製糸場」

世界遺産へ!富岡製糸場〜群馬は文明開化の原点〜2014 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VxflzILRO2I
富岡製糸場nhk.or.jp/historia HPより)



歴史秘話ヒストリア 「富岡製糸場 世界遺産へ〜世界を魅了した少女たちのシルク〜」 2014年5月21日 NHK
●エピソード2 富岡製糸場 明治の青春物語
富岡製糸場は明治の女性の職場として先進的でした。
1日の労働時間は8時間未満。日曜休み。いわゆる悲惨な“女工”のイメージとは違います。ここで働いた明治女性の手記にあるのは、国の期待を背負う生糸生産をめぐる出来事、オシャレに夢中な様子などなど…。製糸少女たちの青春の日々とは?
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/202.html
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
繊維工業を支えた働く少女たち (一部抜粋しています)
大正に入ると、都市を中心に子供を大切にする思想が強まり、自由教育も行われました。しかし、もう一方には、このような風潮とは無関係な子供たちがいました。絹製糸工場や絹紡績工場で働く、女工と呼ばれていた少女たちもそうでした。
明治維新以来、日本は豊かな国になろうと近代工業の発展に力をいれました。このスタートには軽工業である繊維工業が最適でした。最初は政府が官営工場をつくりましたが、日清戦争前後に急速に発展し数多くの民間工場が全国各地にできました。
ほとんどは中小企業でしたが、大阪・東京などには先進国と同じ大規模な紡績工場もつくられました。そしてそこで生産された線維製品(生糸・綿糸・絹織物)は、当時の日本では外貨を獲得できる唯一の輸出商品として国の経済を支えました。特に「生糸は皇国の礎」といわれたほどです。
女工は、これらの工場で働いた少女たちです。彼女たちは初めのころは、近隣の農村から、後には全国的に募集されました。これに応募したのは小学校を卒業したての11、2歳から20歳前後の女子で、多くは今の中学・高校生にあたる14歳から19歳でした。大正期にはその数が80万人を超えました。彼女たちのほとんどは貧しい農家からの出稼ぎで、家計を助けるために結婚までの一時期を働きにでてきたのでした。そのため賃金は低くおさえられました。
実は、繊維工業は低賃金労働者がいなければ成立しない産業だったのです。そして、低賃金ほど製品が安くなるので輸出競争に有利なのです。このことは、今皆さんが着ている衣類の多くが東南アジア諸国から輸入されていることを考えるとよくわかるでしょう。このころの日本は経済的に発展途上国だったのです。
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彼女たちは1年間に平均30〜45円稼ぎました。1915年(大正4年)ごろの大卒初任給が突き25円くらいでしたから相当安かったのは事実です。それでも貧しい農家には貴重な収入でした。明治末年に長野県の製紙女工にはごく少数ですが100円稼ぐ人もいました。当時100円あれば家が1軒建ったそうです。今の2千万円くらいです。女工の賃金は出来高払いでしたから、このような高給取りも現れたのです。紡績女工の年平均賃金が100円を超えたのは大正9年でした。
寄宿舎生活はたしかに劣悪でした。しかし、これには集団の規律になじませ共働できる両動力を形成するという意味もあったのです。経営者は工場内に病院や私立小学校をつくったり裁縫を教えたり徐々に待遇を改善していきました。
昭和に入ると線維の輸出は振るわなくなっていきました。発展途上国への援助賃金とかODAなどがない時代に日本の経済成長は、これら少女たちのけなげな労働にからくも支えられていたのです。