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老兵は黙って去りゆくのみ

2017-11-04

じじぃの「科学・芸術_310_メンゲレとその息子」

06:06

My Father, Rua Alguem 5555 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=k6pQKM7sQ8w

ヨーゼフ・メンゲレ

「双子の多い村」とヨーゼフ・メンゲレ 2011年8月8日 skeeem

かつてナチスヨーゼフ・メンゲレという医者がいた。

彼はアウシュヴィッツで残酷かつ学術的には無意味で苦痛を与えるだけの人体実験を行ったことで有名。特に双子に異常な興味を示し、研究がエスカレートして健常な双子を人為的に手術をして人工の「シャム双生児」を製作するという異常な人体実験まで行っていた。彼はナチス崩壊後、捕虜として捕まらずに南米に脱出することに成功。戦犯として裁かれることなく逃亡生活を送っていた。結局モサドもついに彼の行方を捉えることは出来ずブラジルで一生を終えている。

http://www.skeeem.jp/archives/587

『ナチの子どもたち 第三帝国指導者の父のもとに生まれて』 タニア・クラスニアンスキ/著、吉田春美/訳 原書房 2017年発行

ロルフ・メンゲレ 「死の天使」の息子 より

ノート(人口過剰、優生学安楽死などにかんする自らの理論を書いたもの)は2004年、それらの文章を書いた者を宿泊させていたサンパウロの夫婦の家から押収され、のちに、生物学上の唯一の息子であるロルフに返還された。彼がノートを売ったのだろうか。それはなわからい。売り手も匿名を希望していたからだ。

寄る年波で徐々に腰の曲がったヨーゼフ・メンゲレは、毎日、小さなテーブルに向かい、栄光の時代を、そして果てしのない逃亡の時代を思い返していた。逃亡の時代は、ノートが書かれる15年前に始まった。それ以来、彼の信念は変わらなかったし、逃亡して34年たっても、最後まで変わることはないだろう。自分にはなんの責任もないと確信する彼は、逃亡生活を続けるうちに、強迫観念にとりつかれた作家になった。サンパウロ郊外の小さい家に身を潜め、大半の時間を執筆にあてるようになった。バイエルン風のデッサンや、家や動植物のスケッチで、ノートのページを埋めていった。さらに、庭いじりや家具づくり、たわいのないおしゃべりに精を出し、草花や動物を眺めるのを好んだ。

1977年、長年待ち望んでいた日がついに訪れた。たったひとりの息子がヨーロッパから到着したのである。21年間息子の顔を見ておらず、最後に会ったのは1956年のことだった。息子は当時、偽名で潜伏しているこの男が自分の父親だとは知らなかった。だから、その日が本当の親子の対面となるが、それにはリスクもあった。悪名高きヨーゼフ・メンゲレ博士は、地球上で最も行方を追われていたナチのひとりだったからだ。「死の天使」というニックネームは、アウシュビッツで人体実験を行ったことに由来する。

息子がナチ・ハンターに見つからないよう、旅に出るまでに5年以上の準備期間が必要だった。ブラジルへ出発する前に、メンゲレ家が信頼をよせる弁護士ハンス・ゼードルマイヤーの手引きで、ロルフ・メンゲレはいとこのカール=ハインツに会った。カール=ハインツアルゼンチンで数年間、ヨーゼフ・メンゲレと暮らしたことがあった。ドイツの若者が考えている第三帝国と、その時代を生きた人々の認識とのあいだにはギャップがあると、ハンス・ゼードルマイヤーは若いロルフに注意を促した。また、メンゲレにまとまった金を渡したいとも考えていた。メンゲレは家族からずっと支援を受けていたのである。

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メンゲレ一族から長いあいだ除け者あつかいされてきたロルフは、現在、ドイツフライブルク弁護士をしている。一族から極左とみさされており、世間で最も憎まれている男をとおして血がつながっていることを除けば、一族と共通するものはなにもないと、ずっと考えていた。旅に出たとき、ロルフは33歳だった。父がアウシュビッツの医者として、簡単な手ぶりで何千人もの人々の生死を決めていたときと、同じ年齢だった。

生存者はだれひとり、乗馬用の鞭を手にした男、南欧風のエレガントなこの男を忘れることができなかった。非の打ち所のない制服に身を包み、完璧に磨き上げたブーツをはいたこの男は、実験台に選んだものを指さすだけだった。右は生と彼の実験室、左は死である。男、女、子ども、赤ん坊をガス室や闇の人体実験へと送り込むとき、彼の顔にはいかなる感情も見られなかった。彼が好んで口ずさむワーグナープッチーニの調べとともに、彼は殺人装置の中心にいた。

ロルフはようやくひとこと、「やあ、お父さん」と言った。ふたりの男はそっけなく短い抱擁を交わした。どちらも感情をさらけ出すことに慣れていなかった。「やはり、父親なんだ」から、情愛のこもった態度をとろうと思っていたが、実際にそれができたのは、父の涙が自分の頬をつたわって流れるのを感じたときだった。

父が逃亡して以来、息子のロルフが父に会ったのは2度目で、それが最後となった。最初に会ったとき、母は彼に南米に住んでいる「フリッツおいさん」だと言った。ずっとあとになって、おまえの父だと教えられ、ドイツ暗黒時代に父がどんな役割を果たしたかを知った。親への愛情と、非人道的な行為をした男をどうしても受け入れられないという気持ちとに、ロルフの心は引き裂かれていた。

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1985年にロルフは、父との再開とメンゲレが書いたものをメディアに明らかにすることに同意した。他の親族とはそのとき決定的に縁が切れた。

ロルフはナチの他の子孫とは異なり、残酷な性質を伝える遺伝子が存在するとは考えていない。そのかわり、過去を清算しようと、子どものために姓を変えることを選択した。1980年代に妻の姓になり、ミュンヘン弁護士をしている。

3人の子ども祖父の行為の責任を負う必要はないと、彼は考えている。子どもたちに真実を伝え、その重荷から解放された人生を送らせる義務を、彼は負っている。彼にとって、そのような遺産をもつ唯一のメリットは、命の本質そのものと、善と悪の戦いについて考えさせられることである。ヨーゼフ・メンゲレの息子であること、その不都合に耐えることは、彼の宿命である。彼は政治に深くかかわることも、ユダヤ人実業家や戦争の犠牲者といった一部の人々が自分と仕事をしたがらない理由を表立って知ることもできなかったのである。

2008年、彼はイスラエルの新聞で、どうか自分を恨まないでほしいとユダヤ人コミュニティーに呼びかけた。イスラエル、とくにヤド・ヴァシュム記念館を訪問する予定もあるという。「でも、ショア(ホロコースト)の生存者とその子孫が私の出目を知ったら動揺するのではないかと心配している」

本書に取り上げた子孫で、長年父親がだれであるかを知らずにすごしながら、殺人装置への関与について父にきくことができたのは、ロルフ・メンゲレただひとりである。この親子の対決はすれ違いに終わった。メンゲレはまだ自分の理想を確信しており、自分は残虐行為の主導者でなかったと考え、多くの命を救うことに貢献したとまで主張したからである。けれどもロルフは、父が死んだあとでさえ、父を裏切らなかったし、裏切ろうとも思わなかった。そのいっぽうで、自分の子どもには、「メンゲレ」の名から身を遠ざけるよう望んだのである。

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