Hatena::ブログ(Diary)

老兵は黙って去りゆくのみ

2017-12-06

じじぃの「クオリア問題・ロボットは人間のように感じることができるのか?フューチャー・マインド」

06:17

[full]クオリアリアリティ茂木健一郎の講義 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=G_1HayfDY2g

 Universes and Minds

クオリア」私の知っている赤色は、あなたの何色? 2015年10月21日 ザ・オカルトサイト

クオリア」の種類は多彩であり、それぞれが独特の質感を持っているが、代表的なものは次のようなものである。

・視覚によるもの

その説明のしやすさから、最も頻繁に議論の対象にされるのが色であり、例えばイチゴの赤い感じ、海の青い感じなどが挙げられる。他にも大きさ、明るさ、更には奥行きなどがある。

http://occult.xxxblog.jp/archives/696534.html

『フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する』 ミチオ・カク/著、 斉藤隆央/訳 NHK出版 2015年発行

人工知能 ロボットは理解したり感じたりできるのか? より

これまで何世紀にもわたり、機械が考えたり感じたりできるかどうかについて、あまたの理論が唱えられてきた。私自身の考えは、「構成論」と呼ばれるものだ。つまり、問題について延々と議論するだけでは意味がないので、オートマトンを作ってどこまでできるのか確かめることにエネルギーを注ぐべきだという考えである。そうでないと、最終的な答えのない哲学的議論を果てしなく続ける羽目になる。科学の利点は、結局のところ、実験をおこなって問題にきっぱり決着をつけられるところなのだ。

したがって、ロボットが考えられるのかどうかという問題に決着をつけるには、作ってみるのが最終的な解決策なのかもしれない。しかし、機械はこの先も人間のようには考えられないと主張する人もいる。なかでも強い主張は、ロボットは人間より速く事実を扱えるが、扱っているものが何なのかを「理解」してはいない、というものだ。(色や音などの)感覚を人間よりうまく処理できるが、その感覚の本質を真の意味で「感じる」とか「味わう」といったことはできないというのである。

たとえば哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、AIの問題を「イージー・プロブレム(易しい問題)」と「ハード・プロブレム(難しい問題)」のふたつのカテゴリーに分類している。彼にとって「イージー・プロブレム」は、チェスをする、足し算をする、パターンを認識するといった人間の能力をどんどんまねられる機械を作ることだ。一方「ハード・プロブレム」は、クオリア(生[なま]の感覚)」と呼ばれる感情や主観的感覚を理解できる機械を作ることになる。

目の見えない人に赤い色の意味を教えられないのと同じように、ロボットが赤い色という主観的な感覚を味わうことはできない、というわけである。あるいは、コンピュータ中国語を英語にすらすら訳せるとしても、訳している内容を理解することはできない、と。この見方によれば、ロボットはテープレコーダーや計算機を見栄えよくしたものにすぎず、驚くべき正確さで情報を読み上げたり操作したりできるが、中身はちっとも理解していないことになる。

こうした主張は真面目に受け止めるべきだが、クオリア主観的な経験の問題については別の見方ある。将来、機械が赤い色などの感覚を、どんな人間よりずっとうまく処理できるようになる可能性が高いというのだ。そのような機械は、赤の物理的特性を表現し、文中で人間よりうまく詩的に使うことまでできる。ロボットは赤い色を「感じる」か? この問題は無意味になる。「感じる」という言葉が明確に定義されていないからだ。ある時点で、ロボットによる赤い色の表現は人間のそれをしのぐかもしれず、そうなると当然、ロボットはこう問うだろう。人間は赤い色を本当に理解しているのか? ひょっとしたら人間には、赤い色を実はロボットほど微妙な点まで理解できないのかもしれない。

     ・

数学者ジョン・フォン・ノイマンはこのように言っている。「数学では、物事を理解しない。慣れるだけだ」

したがって、問題はハードウエアにあるのではない。明確に定義されていない言葉が人によって違う意味をもつ、人間の言語の性質にあるのだ。偉大な量子物理学者ニールス・ボーアは、かつて量子論の深遠なパラドックスをどうしたら理解できるのかと訊かれ、こう答えている。それは、あなたが「理解する」という言葉をどう定義するかによる、と。

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どうでもいい、じじぃの日記。

「視覚」に関する本を読んでいると、人間の視覚は他の動物に比べて発達しているらしい。(鳥のなかにはさらに発達したのがいるらしい)

例えば、黄金色

色は光の波長の違いだが、黄金色という波長は存在しない。脳のなかで黄金色を作り出しているのだそうだ。

ロボットは人間のように感じることができるのか?

「その感覚の本質を真の意味で『感じる』とか『味わう』といったことはできないというのである」

まあ、人間のなかにも、「感じる」とか「味わう」に鈍感なのがいるからなあ。 (^^;;

じじぃの「科学・芸術_337_シェイクスピア戯曲集<ファースト・フォリオ>」

06:13

Kenneth Branagh and The Tempest 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=0OiDtHqOe-E

Bob Dylan album sampler: Tempest 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=Tbnb7LjwCjA

To live or To die... that is the question.

シェークスピア観劇のススメ 13 April 2006 英国ニュースダイジェスト

●演劇を知り尽くした男、シェークスピア

英国で最も偉大な作家の1人として、今も文学界に燦然と輝くシェークスピアの存在。

シェークスピアがここまで英国人に愛される理由は何だろうか。劇作家としての彼を、演劇という側面から探ってみよう。

http://www.news-digest.co.uk/news/features/510-shakespeare-play.html

『世界文学大図鑑』 ジェイムズ・キャントンほか/著、沼野充義/監修 三省堂 2017年発行

人は生涯にいくつもの役を演じる <ファースト・フォリオ>(1623年)ウィリアム・シェイクスピア より

1999年にシェイクスピアイギリスで「この千年紀最大の人物」に選ばれ、2012年のロンドンオリンピック開会式では『テンペスト』の台詞が使われた。イギリスの文化を輸出する有数の担い手であり、毎年80万人近い人々がストラトフォード・アポン・エイヴォンにはるばるやってきて、シェイクスピアの人生がはじまった家屋を訪ねる。

いったいなぜシェイクスピアが、現代の読者や芝居好きにとってこれほどまでに特別な存在でありつづけるのか、その魅力の多くは、人間にありがちなものをことばでとらえる能力にある。シェイクスピアはことばを巧みに操って、こみ入った感情をきわめて効果的かつ簡潔に伝えることができた。観客が靴直しから廷臣までそろっていたという事実は、社会的地位も教育も年齢も網羅して訴える詩的な台詞をシェイクスピアに生み出させた。その劇は中庭の立見席の人々の心を動かす必要があったが、その一方で、しばしば君主や宮廷人の好みも満足させた。それゆえ、その作品がいまも広範な受け手に親しまれやすいのは少しも不思議ではない。その想像力に富む物語には、子供たちと目の肥えた芝居好きの両方を楽しませる力がある。

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<ファースト・フォリオ>は、シェイクスピア戯曲を喜劇、史劇、悲劇に分類している。3種類の区分はいささか恣意的で、シェイクスピアが自分の戯曲をどう見たかはあまり示されていない。たとえば『ジュリアス・シーザー』は悲劇として載せられているが、これは史劇だと言って差し支えないだろう。一方、『リチャード3世』は史劇に分類されているが、これは悲劇だとも呼べよう。

シェイクスピアはかならずしもひとつのジャンルだけをめざしていたわけではない。革新的な作家として、異なる特性をしばしば混ぜ合わせ、自身の作品に変化を生み出そうとした。たとえば、大きな悲しみの場面で、ときおりブラックユーモアの要素をいれ、『ハムレット』では、墓堀人が墓を堀りしながら歌う。マクベスと妻が手についた血を洗い流そうと退場しているときには、門番が観客に戯れ言を聞かせる。『アントニオとクレオパトラ』では、クレオパトラ自殺を考えながらも、感情を高ぶらせて浮かれ騒ぐ。同様に、シェイクスピアの喜劇は肩の凝らない軽い調子のものと思われがちだが、暗く危ういこともしばしばある。『尺には尺を』では、イザベラアンジェロに性的な問題で悩まされる。『夏の夜の夢』では、オーベロがテイターニアの目に薬液を塗って魔法をかけ、最初に見たものに恋をしてしまうようにする。『十二夜』では、マルヴォーリオが堅苦しい気質のせいで公然と大恥をかかされる。

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<ファースト・フォリオ>におさめられた戯曲のうち、いくつかの作品はシェイクスピアの傑作という評価を得ている。『ハムレット』を読んだり観劇したりした経験がなくても、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ということばにはだれでも聞き覚えがある。ハムレットと言えばふさぎこんで思索にふける、ということは、いまでは世界じゅうに知れ渡っている。この主人公のなかにシェイクスピアは、歴史上屈指の詩的な表現を作りあげ、掻き乱された良心の文学的幻影を生み出した。ハムレット道義心と死の問題にもがき苦しんで、右に左に心を大きく揺らすとき、その台詞を聞く者は同じように心を揺さぶられる。ハムレットは「どんな夢がやってくるのか、この人間世界の煩わしさを振り払ってしまえば」と思い悩む。数えきれないほどの詩や小説や戯曲が示すとおり、悩むのはハムレットひとりではない。リア王は悲劇的人物として作られた別の例で、リア王のことばはシェイクスピアが理解する人間の状況に対して直接発せられる。年老いたリア王による自分自身と周囲の世界のとらえ方は、若い世代の見方とは相容れない。自負心から性急な判断をくだしたが、それゆえ友人と家族から見放され、ひとり取り残されたリア王は、自分のおこないや他者との関係を顧みる。シェイクスピアが生み出した何人もの悲劇の人物と同様に、リア王もみずからも思いに苛まれ、おのれのあり方を見なおして「もっとよく見る」時間が長くつづいていく。

夏の夜の夢』はシェイクスピアの喜劇のなかでも最も親しまれた作品で、ボトムはシェイクスピアが生み出したとりわけ印象深い人物である。森で芝居の稽古ををしているとき、ボトムの頭はいたずら好きな小妖精パックの魔法でロバの頭に変えられる。舞台の上では、見た目の効果が本で読むよりはるかに強烈な印象を与える。俳優の姿がすっかり変わるのを見て感じる高揚感をまるごと味わえるのは演技を通してだけだが、ボトムの人生経験がすっかり覆され、つかの間、自分が別のだれかとして人生を送る気がしてくることは、戯曲を読む者にもじゅうぶん伝わるだろう。この技法シェイクスピアのほかの喜劇でも繰り返され、そこでは変装することで登場人物が自分の正体を変えることができる。『お気に召すまま』のロザリンドと『十二夜』のヴァイオラは、どちらも男装する。そして『まちがいの喜劇』では、2組の双子が互いにまちがわれてなんとも愉快な結果になる。