じじぃの「科学・芸術_357_水戸学・大日本史」

GHQ焚書図書開封 第139回 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NUk6EC9FjU4

日本独特の思想って、陽明学とか水戸学とか? 2017/8/23 Yahoo!知恵袋
回答
国学」ですね。
四書五経」など、仏教や儒教中心の学問に対する否定的な見地から、日本独自の思想体系を構築しようとした学問です。
尊王思想」や「水戸学」は、国学の影響を受けています。
元禄時代の僧・契沖によって始められ、賀茂真淵本居宣長平田篤胤塙保己一伴信友などの学者を輩出しています。
陽明学は、明の時代に王陽明が興した「儒教」の一派で、日本独自のものではありません。明の時代には栄えましたが、明が滅亡し清の時代になると学問の主流から外れて衰退し、日本以外では発展しませんでした。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12178460032
『日本思想大系〈53〉 水戸学』 今井宇三郎、瀬谷義彦、尾藤正英/著 岩波書店 1973年発行
解説 水戸学と「大日本史」編纂事業 より
徳川光圀による修史事業は、寛文12年(1672)に江戸小石川の藩邸内に編纂所として彰考館を設置して以後、本格化したが、この時期における編纂は、紀伝、すなわち本紀と列伝の部を中心としていた。本紀・列伝・志・表の4部から成る紀伝体史書を編纂することが、光圀の当初からの計画であったが、実際に進行したのは本紀と列伝のみであった。やがて元禄13年(1700)に光圀が没し、正徳5年(1715)には紀伝が脱稿して、享保5年(1720)に幕府へ本紀73巻・列伝170巻を献上した。
このころまでが前期における編纂事業の最盛期であって、それ以後、志表の部の編纂に着手したが、多くの困難に直面し、まもなく1740年頃から約50年間にわたって、ほとんど事業が停滞するにいたる。この空白期をはさんで、編纂事業の前期と後期が区分されるのであり、天明6年(1788)に立原翠軒が彰考館総裁に任じられ、再び事業が活発化して以後を後期とする。この再出発に際して当面の課題とされたのは、前記の遺産である紀伝に校訂を加えて出版することと、志表の編纂とであった。
前期の編纂事業が紀伝を中心にしていたのに対し、後期には志表の編纂が主な課題となったことは、その編纂を支えた思想の性格が変化したことと、無関係ではなかった。志表とは、今日の観念でいえば、法制・経済・軍事・宗教など各部門別の制度史に相当するが、これに対し紀伝は、歴代の天皇の事蹟と主要な人物の伝記を集成したもので、いわば人物本位の歴史叙述である。前期における紀伝の編纂に際しては、本紀に記述される歴代の天皇をふくめて、それぞれの人物に対する道徳上の評価を確定することが、思想上の主要な課題とされた。
光圀が晩年に作った「梅里先生碑文」の中で、自己の修史事業を回想して、「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す」と記したのは、その意味であって、天皇について正統と閏統とを区別し、人臣の行動について是は非かを判定したのは、いずれも一定の道徳的規準にもとづくものであったが、さらにこれを「一家の言」と称したところに、既成の価値評価や世間的な栄枯盛衰にはとらわれず、自己の信じる道徳の規準に従って歴史を描いたとの自信が読みとられる。これをたとえば有名な南朝正統論についてみれば、明治以後の社会通念とは異なり、当時においてはそれは京都の朝廷が北朝の系統をひいているという事実とは相容れない主張と考えられることが多く、少なくとも京都の朝廷ではこれは公式見解に対する挑戦としてうけとられた。完成された紀伝が、幕府には献上されながら、朝廷への献上が実現せず、また大日本史の署名について勅許を得ようとする案があったが、それが放棄された(同上)のも、すべてそのためであった。
このように世の通念に反してまでも、道徳的信念にもとづく歴史把握を貫おうとする態度は、春秋や史記いらい、中国における歴史叙述の特色をなしてきたものであって、従って当然にもその際に道徳的な規準として立てられたのは、儒教とくに朱子学の道徳理念であった。これを普遍的な道徳理念にもとづく歴史認識であるとすれば、これに対し後期における編纂事業は、対象が制度史的な部門に移ったことにふさわしく、日本社会に固有の構造ないし伝統といった、民俗的個性あるいは特殊性の側面の方に、主要な関心が指向されることとなる。南朝北朝か、そのいずれが正しかったかを判定することよりも、南北朝の対立関係をその中にふくみながら、皇統が古代以来一貫して存続し、天皇の君主としての地位は失われることがなかったという事実の方が重視され、その点にいわば日本における君主制の特色が見出されるとともに、それを中心とする国家組織や社会制度また国民道徳のすべてにわたって、日本固有の特色のあることと、多民族に対するその優越性が解かれる。この固有の伝統についての自覚を表現した概念が、すなわち「国体」であった。