じじぃの「科学・芸術_437_小説『ハックルベリー・フィンの冒険』」

ADVENTURES OF HUCKLEBERRY FINN (1955) Full Movie - Captioned 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Dw9wOYclp90
Adventures of Huckleberry Finn

マーク・トウェイン (1835‐1910) コトバンク より
南北戦争後のアメリカ・リアリズム文学を代表する小説家の一人。本名クレメンズSamuel Langhorne Clemens。
ヘミングウェーは〈すべての現代アメリカ文学はマーク・トウェーンのハックルベリー・フィンの冒険》という1冊の本に由来する〉と述べたが,真にアメリカ的な文学伝統は,彼のこの代表作によって確立された。旧大陸の文化伝統から遠く離れた南西部ミズーリ州の名もない開拓村に生まれた彼は,アメリカ国民独自の体験と性格を新鮮なアメリカ英語で描いた。

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『世界文学大図鑑』 ジェイムズ・キャントンほか/著、沼野充義/監修 三省堂 2017年発行
人間ってやつは、ほかの人間にずいぶんむごたらしいことができるもんだ 『ハックルベリー・フィンの冒険』(1884年マーク・トウェイン より
すべてのアメリカ文学は『ハックルベリー・フィンの冒険』から出発した、とヘミングウェイをして言わしめたのは、この作品のどんな要素からだろうか。ひとつには、これに力づけられたアメリカの作家たちが、作品の舞台をニューイングランドの植民地から、地方色や方言が豊かな場所へ移したことがある。また、同様に注目に値するのが、よぼみなく綴られる「少年自身の体験談」の中核に先鋭的な思想が宿っていることだ。この小説は南北戦争1861年〜65年)のあとに出版されているが、舞台はそれより40〜50年ほど古い時代で、そのころの南部では奴隷の所有がまだ認められ、また入植者たちが土地を求めて西方へ向かって探検していた。ハックが屈託なく思いをめぐらす物事は、当時のアメリカ社会の根幹にあった多くの矛盾を反映している。
物語の最初で、ハックは自分が前作『トム・ソーヤーの冒険』にも登場するおなじみの者だと自己紹介する。ハッタは自分が死んだように装って、ミズーリ州の街の人々や暴力を振るう父親から逃げ出し、逃亡奴隷ジムとともに筏でミシシッピ川をくだる旅をはじめる。南へと川を進むにつれ、田舎の社会の現実を見せつけられる。立ち寄った町は辺鄙なところばかりで、リンチを求める群衆が裁きをくだそうとしたり、詐欺師が人々の弱みにつけこんだり、大口を叩く酔っぱらいがあっさり射殺されたり、ハッタが仲よくなった少年が一族の宿怨のために殺害されたりということになる。
黒人の蔑称「ニガー」という差別用語が散在するハックとジムの会話では、価値の転倒が見られる。川の南へ売られそうになり、はじめて女主人から逃げ出したジムは「うん――いまあ、あっしも金持ちだ。八百ドルの値打ちがある、この体を持っとるからな。その金がありゃあええがね」と言う。
筏の上でのんびりとした自給自足の生活をつづけているうちに、ハックとジムは友情を育むようになる。のちに、ジムのことを届け出るべきとするアメリカ南部の社会通念のせいで、ハックは葛藤するが、ジムが自分にとってもはや奴隷でなく友人であることに気づく。「おいらたちは、川をくだりながら、しゃべったり歌ったり笑ってきた……どこでのことを思い出しても、おいらはジムを憎むことができねえ……」こうして、前作の主人公トム・ソーヤーが物語に登場するまでに、ハックは精神的な成長をほぼとげることになる。
初版が出版された1884年当時は「粗野」と切り捨てられた『ハックルベリー・フィンの冒険』だったが、この作品はアメリカ文学に新たな活力や形式や色合いを与えた。実際のアメリカ人のことばで語らせる手法は、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』(1939年)に登場する行き場のない農民の体験談へと引き継がれ、昨今では一人称語りの『ハイウェイとゴミ溜め』など、ジュノ・ディアスが描くニュージャージー州ドミニカ系アメリカ人の物語にもその影響を認めることができる。

じじぃの「中国人には公共心、公民意識が生まれない?習近平の中国」


スウェーデン 「大小便禁止」

習近平の絶対化でいま中国で起きている大破局 / 劉 文志【著】 紀伊國屋
習近平の神格化と言論統制が強化され、中国社会はとんでもないカオス状態に!経済、社会、文化、政治など、日本人が知らない中国の「いま」を現地ジャーナリストが赤裸々に明かす。習近平の中国はまもなく暴発する!
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784198645311
習近平の絶対化でいま中国で起きている大破局 劉文志/著 徳間書店 2017年発行
中国人には公民意識が生まれない より
日本では小学校高学年から「公民意識」の幼生が始まる。教科書には「人権の歴史」「国民の政治参加」「平等権と自由権」「三権分立」「国民を代表する国会」などの内容が目に付く。このような教育環境のなかで社会の仕組みを理解させ、社会の構成員であることの自覚と、自由と平等の権利が与えられていることを学ばせる。
共産党一党独裁の中国の学校では、当然ながら、これらは絶対に教えない。学校が教えているのは「人民を愛する」「祖国を愛する」「共産党を愛する」といった内容で、そのなかでも「共産党を愛する」がもっとも重視される。
共産党の指導があるからこそ、人民が幸せになり、祖国が繁栄する」という認識が植えつけられる。
だから、現在の中国人には「公民意識」や「公民権利」の感覚が皆無であり、共産党の言いなりになる人間が多いのだ。共産党反日を仕向けると、誰もが「そうだ、日本が悪い」と盲目的に反日に走る。
要するに、日本では国よりも個々の人権に重きが置かれるのに対し、中国では個々の人間より国(本質は共産党政権)がいちばん重要だということへの認識が強要されている。
とはいえ、中国の場合はあくまで強要されたもので、自発的なものではない。日本をはじめとする民主主義国は、個人の権利として投票権をもち、地方から国までの政治に自ら参画することで、社会の一員として、郷土愛や愛国心がより育まれていくのだろう。だから、公共心が生まれる。
ところが、中国ではただ一方的に愛国心を押しつけられるだけで、政治への参加もできず、発言の自由もない。すべてが中国共産党に統制されている。だから口では愛国心を叫ぶが、公共心などまったく育たない。自分さえよければいいのだ。中国人の公共マナーが世界で最悪なのはそのためだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
2月の放送だったか、BSフジ 「プライムニュース」で、「日本の製造業は中国に追い越されるのではないか」のようなタイトルの番組を観た。
中国に進出している日本企業の専門家がこんなことを言っていた。
「日本の方は、中国の製造業が日本の製造業を追い越すのではないかと心配しているが、我々は全く心配していません。なぜなら、モノを作っても彼らには製品を共有するこということがない。日本人は作ったモノに対しみんなで思い入れがあり共有している。だから、日本が製造業で負けるなどとは思っていない」
中国製のスマートフォンがすごい勢いでシェアを伸ばしているが、中身の多くの部品は日本製なのだそうだ。(村田製作所の電子部品など)