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老兵は黙って去りゆくのみ

2018-08-05

じじぃの「地中海に栄えた文明の崩壊・謎の海の民とは?B.C.1177」

06:05

The End of the Bronze Age 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=oz5uFA9IWJ8

エーゲ海文明

ミノア文明 (クレタ文明)

3千年前に絶滅した「海の民」とは? 第0次世界大戦で滅亡した東地中海文明の謎! 2016.05.20

神話か? 史実か?」いまだ専門家の間でも議論が行われているトロイア戦争だが、最新の研究では、この戦争の引き金となり、その後皮肉にも掃討されて滅亡した「海の民」ルウィー人がいたことが指摘されている。

戦いに勝利したルウィー語族連合はその後しばらくの間さらに勢力を拡大し続け、現在のギリシャ北部からレバノンにまで支配地域を拡げたという。これまであまり顧みられることのなかったルウィー人だが、実は今から3000年以上も前に世界の表舞台で光り輝いていた時期があったということになる。

しかしルウィー人に訪れたこの栄華は残念ながらそう長くは続かなかった。古代ギリシアのミケーネ諸王国の連合軍が、皮肉にもルウィー人がヒッタイトを攻めた時と同じように西から攻め込んで沿岸の港を次々と奪取。そのまま快進撃を続け、これがトロイア戦争と呼ばれる大戦争に発展したのである。支配地域を拡大しすぎたルウィー語族連合は海の守りがまったく手薄になっていたということだ。「海の民」勝利におごって海を忘れてしまったということなのかもしれない。

http://tocana.jp/2016/05/post_9802_entry_3.html

『のB.C.1177─古代グローバル文明の崩壊』 エリック・H. クライン/著、安原和見/訳 筑摩書房 2018年発行

まえがき より

ギリシャ経済は滅茶苦茶だ。リビアシリアエジプト内乱に呑み込まれ、部外者や外国の戦士がその火をさらに煽っている。トルコイスラエルも、それに巻き込まれはしないかと気が気でない。ヨルダンには難民が押し寄せている。好戦的なイランは周辺の脅威となり、イラクは混乱の極にある。これは西暦2013年の話だが、紀元前1177年、3000年以上も前にもこの地域は同様の状況にあった。青銅器時代地中海に栄えた文明はひとつまたひとつと崩壊していき、西欧世界の進む道と未来はがらりと変わった。それは歴史の決定的な瞬間――古代世界のターニングポイントだった。

エーゲ海エジプト、近東地域では、青銅器時代は2000年近くも続いた。およそ前3000年から前1200年の少しあとまでである。文化的・技術的な進歩の時代が何世紀も続ていたわけだが、その青銅器時代がついに終ったとき、文明化され、国際化された地中海世界の大半に劇的な終末が訪れた。西はギリシャイタリアから、東はエジプト、カナン、メソポタミアにいたる広大な地域で、強大な帝国が、何世紀もかけて発展してきた国々が、あれよあれよというまに滅亡していった。その滅亡とともに移行の時代が訪れたが、かつてこの時期は「世界初の暗黒時代」と呼ばれていたものだ。なにしろ、あおりを食らったギリシャをはじめとする地域では、その後に新たな文化的再生が起るまで何世紀も待たなくてはならなかったのだ。

エピローグ 崩壊のあと より

後期青銅器時代終焉鉄器時代への移行も事情は同じだ。つまり、その崩壊と移行は段階的に進行し、およそ前1225年から1175年まで、また場所によっては延々前1130年までかかっているということである。しかし、”海の民”の二度めの侵入――ラムセス3世の治世第8年、すなわち前1177年に、そのラムセス3世との大決戦に発展した――は納得できる水準点であり、重要でありながらとらえどころのない瞬間に、そしてひとつの時代の終わりに、はっきりした年代を与えることができる。確実に言えるのは、エーゲ海および古代近東では、前1225年には広域にわたる文明がいまだ繁栄を誇っていたのに、それが前1177年ごろには消滅に向かいはじめ、前1130年には完全に消えていたということだ。強大な青銅器時代の王国や帝国は、その後に続く前期鉄器時代のあいだに、徐々に小規模な都市国家に置き換わっていった。その結果、前1100年尾地中海・近東世界の景色は、これまで見てきた前1200年のそれとはかなり変わってきているし、前1000年ともなればまるで別世界である。

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どうでもいい、じじぃの日記。

エーゲ海文明は古代ギリシアにおける最古の文明である。

ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、ペロポネソス半島で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられている。

数年前、東京上野にある東京都美術館で開催された「地中海 四千年のものがたり」を観に行った。

展示されていた壺にはタコイルカが描かれていた。

繁栄を誇った地中海の”海の民”は、なぜ崩壊したのだろうか。

一説には、ヒッタイト(今のトルコ)や、エジプトに戦いを挑んで、返り討ちにあったのだという。

もし、エーゲ海文明の人々が戦争をしかけなかったら世界の歴史は変わっていただろうとか。

じじぃの「科学・芸術_566_芥川龍之介『トロッコ』」

06:03

紙芝居紫織屋「トロッコ」(語り・川尻亜美) 原作/芥川龍之介 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=md35JjCg5jY

 トロッコ

短編小説のレシピ』 阿刀田高/著 集英社新書 2002年発行

芥川龍之介 <トロッコ><さまよえる猶太人>そして、その他の短編 より

芥川龍之介明治25年(1892)に東京で生まれた。生後9ヵ月ごろ母が発狂、龍之介は母の実家に預けられ、後に養子となって芥川姓を襲うこととなるが、ものごころのついたときから数年間にわたり、みじめな実母の姿をかいま見たことが龍之介の精神形成に大きな影響を与えたことは疑いない。長じて自分の発狂を極度に恐れたことも充分に頷ける事情である。

学校生活ではつねに抜群の秀才、読書を好み、広汎な知識を蓄えたが、このことは同時に文字通りのブッキャシュ(bookish)、本による知識こそが彼の脳みその主要な養分となったことも事実であった。

東京帝国大学の英文科に進み、卒業間近に短編小説<鼻>を発表して夏目漱石の絶賛を受け、作家としてデビュー。ほんのいっとき海軍機関学校の教員を務めたが<芋粥(いもがゆ)><手巾(ハンケチ)><煙草たばこ)と悪魔>など名作を次々に発表して新進の寵児となった。

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<トロッコ>は四百字詰めの原稿用紙で12枚ほどの分量、短い中に少年の心理が巧みに捉えられている名作だ。この特徴のせいで小・中学校の教科書や童話集に採用され、多くの日本人が読んでいる。おなじみの名作と言ってよい。

幼いころの恐怖体験……。べつに妖怪変化が現われるわけではないけれど、太古から人間が抱いてきたであろう大自然へのおそれ、夜への恐怖、未知なるものへの畏怖、プリミティブではあるけれど、だれの胸にも潜んでいるセピア色の不安をこの作品にほのめかしている。

私も中学生のころに読んで、一定の感銘を受けたと思うのだが、そのときの記憶は明らかではない。30歳を越え、文筆家となってあらためてこの作品に触れ、とりわけ最後の数行に気づいて思案を深めた。職業的な思案と言ってよいだろう。作品の主人公・良平は少年時代の体験を……トロッコに乗せてもらって遠くまで行き、ひとりで帰らなければならなくなった恐ろしさ綴ったあとで、

  良平は二十六歳の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然なんの理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路(みち)が、細々と一すじ断続している。……

と、述懐し、作品を終えている。

――うまいな――

と思った。この数行により作品の奥行きが一気に深まった、と感じた。

小説というものは過去を描きながら現在に響くものがなければつまらない。大事件や英雄の登場がテーマとなるものではなく、些細な過去を描いた場合は、とりわけこの配慮が必要だ。取るに足らない過去をポンと置かれて「はい、どうぞ」そのまま終わられては挨拶にしようにも困ってしまう。

少年としての良平の体験は、当人にとっては大変なものであったとしても、それ自体はさほどのことではない。笑い話にもなりかねない些細な出来事でしかない。だから、それだけで終わったら、つまらない話でしかないだろう。

だが、最後の数行を書くことにより、過去と現在が関わって響きあった。子どものたわいのない不安が、大人の不安、生きていくことの不安、大げさに言えば人間存在そのものの不安と共鳴した。ほどよく、明瞭に鳴って響きあった。

この共鳴は、作品の最後ではなく、進行のプロセスで響かせることも可能であるけれど、ことさらに最後で示せば、印象が濃くなりこれはこれで、

――ひとつの有力な手法だな――

と私は目を止めたのだった。

――盗めるかもしれないぞ――

と、そのとき思ったかどうかは忘れたが、心に強く残ったのは本当だった。

そして、後日、私は本当に盗んだ。