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老兵は黙って去りゆくのみ

2018-10-28

じじぃの「科学・芸術_647_インド・分離独立の勝利と悲劇」

06:03

India Independent - Documentary on the Independence Movement 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=r7f35A96WhE

インドの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)』 バーバラ・D. メトカーフ、トーマス・R. メトカーフ/著、河野肇/訳 創土社 2006年発行

第二次世界大戦と分離独立の勝利と悲劇 1940年 より

1939年から42年にかけての数年間、会議派(1885年インド国民会議から生まれたインド最初の国民的な政党)とイギリスはたがいに相手の出方を慎重にうかがい、戦時の緊迫した状況を利用し相手から決定的に有利な条件を引き出そうとした。しかし、1942年の夏、予想外の行き詰まりが生じた。1939年第二次世界大戦が始まった時、会議派は1814年の第一次世界大戦の時のようには会議派は無条件で戦争に協力しようとはしなかった。第一次世界大戦での対英協力が当然視され、戦争が終った後で冷遇されたと感じていた会議派は、第二次世界大戦の時には戦争協力の相当な代価をイギリス要求しなければならないと決意していた。しかい同時に、会議派の人々は「ファシズムとの戦い」という第二次世界大戦に対しては共感を覚えていた。特に、1930年代ヨーロッパを視察したジャワハルラール・ネルーのようなリベラル国際主義者たちは、この戦争目的に賛同した。ただし、会議派内にも異論を唱える人たちがいなかったわけではない。ガンディーは非暴力の信念から戦争に反対した。また、のちに見るように、スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945年)をはじめとする数人の会議派は、ファシスト勢力と連合してインド自由を獲得しようとした。しかし、結局、ネルーの主張が会議派執行部を制し、イギリスとの交渉方針が決定された。それは、インド自由のための世界的戦争に参加すべきだが、そのためにはまずインド自体が自由を獲得しなければならないというものであった、1940年にはフランスドイツに占領され、42年の初めにはシンガポールビルマ日本軍の手に落ち、イギリス軍の敗色が濃くなった。会議派はそのために交渉を急ぎはしたが、「イギリスは即刻、実質的な権限をインドに委譲すべきである」という根本方針については決して妥協しなかった。

イギリスもまた、会議派と同様、事態がますます切迫していると認識していた。

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RSS(民族奉仕団)は選挙候補者を立てず、一般大衆の支持を求めようともせず、その会員に制服を着用させて民兵集団にした。確かに、ガンディー自身、「マハトマ」と呼ばれ、ヒンドゥー教徒と見なされることが多かった。しかし、ガンディーは、独立国インドはすべてのコミュニティー宗教集団)をよろこんで受け入れなければならないと説いた。これに反し、RSSは、インドヒンドゥーの国であり、ヒンドゥーのための国であると主張した。RSSは神秘的ナショナリズムを唱え、ドイツファシズム人種差別思想への共感をにじませ、ムスリムに対する敵意をむきだしにした。RSSが特に激しく反対したのは、インドの分割――RSSの支持者たちは、インドの分割は母国の「生体解剖」であると叫んでいた――の交渉で、ムスリムに妥協することであった。独立の日が近づくにつれて、RSSは、暴力行為や暴動の広がりを恐れた学生、難民、都市の中・下流階級の人々から支持され始めた。これらの人々は必然的に、彼らが嫌悪する弱々しい女性的なインドを明らかに体現している人物、すなわち「マハトマ・ガンディー」を抹殺すれば、ヒンドゥーの「聖なる母国」を守ることができるのではないかと考えた。ガンディー暗殺後、当然、ヒンドゥーナショナリズムは大衆の人気を失った。暗殺者ゴードセーがRSSの支持者であり、サーヴァルカルの心服者だったからである。その後の数年間、RSSは非合法組織に指定され、暴力行為に反対する国民感情のために、公然とヒンドゥーナショナリズムを唱える他の組織が結成されることもなかった。ヒンドゥー右翼がふたたび組織化の動きを見せるのは、やっと1970年代後半になってからであり、彼らがガンディー暗殺の汚名をついに払拭することができたと考えるのは、ガンディーの死後40年以上たった1990年代のことだった。

1950年までのインドの10年間は、他国に例を見ない驚くべき10年であった。この期間内にインドは独立を達成し、同時に戦争の悲劇、国土の分割、さらに他に例を見ない市民暴動を経験した。しかし、大局的に見れば、インドはこの痛手によく耐え、国内情勢の流れにはあまりに大きな変化は見られなかった。会議派はインドナショナリズムを代表する政党として党勢を強化し、独立後実施される選挙の準備を整えていた。会議派はまた、ガンディーが会議派指導者の地位をネルーにゆずることのよって、会議派の25年間の歴史で初めて派閥抗争ぬきの指導者交代を実現した。特に注目すべきことは、イギリス統治機構のすべてが、訓練された官僚制度と軍隊とともに、ほとんど混乱もなくインドパキスタンの両政府へ移譲されたことであった。こうして、1950年1月26日に独立国インドの新憲法が施行され、以降、インドは国家建設と経済発展の新時代を迎えることになる。

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