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老兵は黙って去りゆくのみ

2018-11-12

じじぃの「科学・芸術_662_カルタゴ・フェニキアの宗教と社会」

06:02

Kerkouane Vacation Travel Video Guide 動画 Youtube

https://www.youtube.com/watch?v=W2V9HORxhg4

カルタゴ、カナンの地

フェニキア人の古代都市ケルクアン遺跡

通商国家カルタゴ (興亡の世界史)』 佐藤育子、栗田伸子/著 講談社 2009年発行

カルタゴ宗教と社会 より

フェニキアで崇拝された神々は、すでに青銅器時代カナンの地信仰されていた神々の系譜に連なる。しかし、ウガリトで崇拝されていたエル、ダガン、アナトなどの伝統的神々に代わり、紀元前1千年紀以降信仰対象の前面に出てくるのは、メルカルトやエシュムン、アシュタルテといったそれまであまり目立たなかった神々であった。カナン時代の多神教の名残をとどめながらも、フェニキア時代に新しく登場したこれらの神々は、各都市の守護を司ることになった男神女神である。

鉄器時代フェニキア諸都市の独立性が強いのは、このように各都市が独自に一対の主神を戴(いただ)いていたという宗教的背景に由来する。たとえば、ビュブロスでは、「ビュブロスの女主人」を意味するバアラト・ゲバルと天空の主バアル・シャメンが、シドンでは癒しの神エシュムンとメソポタミアイシュタルと同一視されるアシュタルテが、そして、テュロスでは、「都市の王」を意味するメルカルトとアシュタルテがそれどれ最高神の地位を占めた。

フェニキアでは、伝統的に王家神殿勢力が結び、一種神権政治を展開したことはよぅ知られている。

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第2次ポエニ戦争後のカルタゴの衰退がどれほどのものであったのか、現在、再びさまざまな観点からその見直しがなされている。近年の発掘の成果によって、前2世紀初頭から前146年の滅亡に至る約50年間に栄えたポエニ時代の住居跡が、ローマ時代の遺構の下から掘り出された。発掘者のフランス人考古学者S・ランセルが、名将ハンニバルの名にちなんでハンニバル街と名づけたこの住居跡は、現在ビュルサの丘の南斜面に静かにたたずんでいる。

ビュルサの丘は、第2次ポエニ戦争ローマ軍と最後の死闘を演じたカルタゴ軍の砦であり、のちのアウグストゥスの時代、破壊された街並みの上に、フォルム(公共広場)やバリシカ(裁判所)などの巨大建造物が造られ、ローマ帝国属州アフリカの政治・宗教の一大中心地として生まれ変わった。ローマ時代のフォルムを支えた巨大な支柱壁の残骸をハンニバル街に隣接して見ることができる。

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敗れたとはいえ、雇兵制をとっていたカルタゴでは市民の人的被害は少なく、また軍船の保有は制限されたが、彼らの生命線とも言える商船は無傷のままであり、以前と同じように地中海を航行するカルタゴの船舶が沿岸の港町のいたる所で見られたに違いない。前述したハンニバル財政改革が功を奏したことと相まって、前2世紀前半のカルタゴはけっして衰退していなかった。たとえ居住範囲は以前より狭まっていたとしても、むしろ、最後で最高の輝きを見せていたといってよいだろう。

これとは対照的に、前3世紀、第1次ポエニ戦争の最中、ローマ軍によって破壊されたのち、2度のと再建されることなく、その後、20世紀まで忘れさられた純粋なポエニ時代の住居跡が現在のチュニジアに残っている。ボン岬突端のエル・ハワリアから半島を東に車で20分弱走ると、1985年世界遺産に登録されたフェニキア人の古代都市ケルクアン遺跡が見えてくる。歴史の片隅に埋もれ忘れ去られたこの町は、今では創建当時の正確な名前さえわからない。

20世紀半ばに偶然発見され、発掘作業によって現代によみがえった二重の城壁に囲まれた都市の規模は9ヘクタールほど。最盛期には、約2000人の住民が住んでいたと考えられる。出土した遺物から彼らの職業は、石工、陶工、ガラス職人、染物師、金細工師など、まさにここが職人の町であったことが明らかになった。共同浴場とは別に、個人用の家屋にも、排水設備のついた半身浴のできる小さなバスタブがついているのが微笑ましい。フェニキア人の専売特許である染色産業は、染料を抽出する工程でひどい悪臭を伴った。汚れた身体を洗い、清潔に保つためには「風呂」が必要であったろうし、目の前に広がる地中海の青いさざ波の音を聞きながら、1日の疲れを癒すためにバスタブにつかる一瞬は、何ものにも代えがたい至福の時であったに違いない。

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