じじぃの「科学・芸術_675_オスマン帝国・スルタンの奴隷」

The Rise Of The Ottoman Empire 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YMpfdpHPNDE
オスマン帝国 (1451年)

デヴシルメ実施の様子 (1558年)

デウシルメ 世界史の窓
デウシルメとは、オスマン帝国常備軍制度であるイェニチェリの制度のもとで、主にバルカン半島キリスト教徒の少年を強制的に兵士として徴用すること。デウシルメはトルコ語で「集めること」を意味し、オスマン帝国に特異な常備軍兵士の補充方法であった。
他のイスラーム諸王朝でのマムルークは奴隷として購入しなければならないので費用がかかるが、デウシルメ制は強制徴用なので費用がかからない利点があった。徴用されるのはキリスト教徒の子弟で、一人っ子を除く8歳から20歳ぐらいの健康な少年が選ばれ、護送されて中央に送られてイスラーム教に改宗させられ、訓練を受け、イェニチェリとして歩兵部隊の兵士となった。
https://www.y-history.net/appendix/wh0803-036_0.html
オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』 林佳世子/著 講談社 2008年発行
バルカン――1350〜1450 より
オスマン侯国がアナトリアのライバルの小国家群から抜きん出たきっかけは、それがヨーロッパ側に展開したことにある。ダーダネルス海峡を渡った30年ののちは、オスマン侯国はバルカン地域の大国家に成長し、そこで蓄えた実力をもって、次第にアナトリア側の諸侯国を圧倒することになるのである。それでは、バルカン地域におけるその成功の理由はどこにあったのだろうか。まず、オスマン帝国が進出する以前のこの地域の情勢から確認しておこう。
オスマン帝国にとってその出発点となったバルカンであるが、実は地名としてのバルカンはこの当時、まだ存在していない。というのも、南東ヨーロッパのオスマン支配下にあった領域をバルカン地域と呼ぶというのが一般的な用法であり、しかもそれが広まったのは20世紀に入ってからのことだからである。
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図(画像参照)に示すミニアチュールは、16世紀中葉にバルカン出身と思われる宮廷画家が描いたデヴシルメ(奴隷・官僚の徴収制度)実施の図である。宮廷画家も宮廷の「スルタンの奴隷」から養成されたから、彼自身もおそらくデヴシルメにより徴用されたのであろう。この絵には、徴用されて赤い衣服を着せられた少年たち、淡々とそれを台帳に記録する書記、金銭の授受をする有能そうな軍人、そして、少年の徴用に抗議をする母親たち、とりなす司教とおぼしき人物の姿が、教会の中庭とみられるバルカンの景観のなかに、冷静に描かれている。
画家がこの絵を、彼が少年時代に最後にみた故郷の町と母親の姿をとどめるために残したと思うのは、想像がすぎるかもしれないが、全体に無表情なミニアチュールのなかで、赤い衣服を着た少年たちは不安げにも、楽しげにもみえる。画家がそうであったように、デヴシルメは未知の世界への出立であり、多くの場合、安定した生活と出世へのスタートであった。「スルタンの奴隷」のなかからは、この画家のように才能に応じた職業の道が開かれていたことも私たちは知っている。多くは歩兵として活躍し、時には戦場に散ったであろう少年たちの人生は、こうした故郷の町との別れによってスタートしたのである。
ヴシルメで徴用された少年の一部は、選抜され、宮廷に送られた。ただし、その事例が増えるのは16世紀のことである。
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こうした人質の慣習は、バルカンやアナトリアでは、オスマン帝国以前から続いてきたものである。王族間、支配者間での人材のやりとりは、力関係に応じて自在に行なわれていた。ビザンツ帝国の宮廷にならい、オスマン帝国も征服や服従のたびに、旧支配層の適正な年齢の子弟をオスマン宮廷に受け入れ、みずから教育し、オスマン帝国の軍人に育てあげていったのである。スカンデル・ペグのようなまれな例もあるが、オスマン軍人としてその人生をまっとうし、オスマン帝国とその命運をともにしたのである。
本章では、おおよそ1350年から1450年の間に、主にバルカンを舞台にオスマン侯国が帝国に発展する過程をたどった。そこでは、アナトリア出身のトルコ系イスラム教徒とならんで、バルカンのキリスト教徒からの登用が積極的に行われ、結果として両者を内包したオスマン支配層が形成された。アクンジュ、在郷騎士団の騎士、「スルタンの奴隷」と称されるイェニチェリや宮廷出身のエリート軍人のいずれにも、バルカン出身の人々が加わっているのである。前述のようにキリスト教徒のままでオスマン支配に参加している人々の存在も確認される。
続く16世紀になると支配層のなかにキリスト教徒の姿はほとんど見られなくなる。キリスト教徒がオスマン支配層から排除されたというよりも、改宗により、その姿が見えなくなったというほうが適切だろう。支配者はイスラム教徒であることが求められる時代が訪れたためである。

じじぃの「モルヒネ・夢の神モルペウスに抱かれて!世界毒草百科図鑑」

Morphine: What You Need To Know 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UjIJd2J2c7M
ケシ

『世界毒草百科図鑑』 エリザベス・A・ダウンシー、ソニーラーション/著、船山信次、柴田譲治/訳 原書房 2018年発行
モルペウスに抱かれて アヘン より
ケシは古代から治療薬として利用され栽培もされてきた。古代アッシリアの多くの工芸品にははっきりケシの螬果(さくか)とわかる図柄が描かれ、古代エジプト墓所壁画にもケシの花が描かれている。古代エジプトの最初期の医学文書が掛れているエーベルス・パピルス(C.1552-1534BC)では、泣き止まない子どもにケシの抽出物を与えることが推奨されている。こうしたケシの用法は19世紀まで続き、「ローダナム」というアヘンチンキを処方箋なしで購入することができた。ケシの薬物依存性がよく知られるようになってからも、顕著な鎮痛効果があるため、この卓越した植物の有益な特性を利用する安全な方法を発見する試みが繰り返された。
モルヒネ1800年代はじめにアヘンから最初に単離されたアルカロイドで、夢の神モルペウスにちなんで命名された。モルヒネが大量生産されるようになり1850年代に注射器が発明されると、小手術の術後慢性痛の管理に、また一般的な麻酔薬の補助としてモルヒネが利用されるようになった。鎮静と麻酔の効果に加えモルヒネには強力な呼吸抑制作用がありかつてはコフ・エレキシール(咳止め薬)として用いられることもある。副作用として便秘になるが、この作用も逆手にとりモルヒネを陶土に混ぜて止瀉薬としても利用されてきた。
しかし、アヘンそのものと同じモルヒネにも習慣性があり乱用の恐れがあることがわかった。さらにこうした習慣性と誘発される多幸感、そして治療領域が小さいことから、モルヒネの使用は特に安全なわけではない。そこで常習性のない安全で効果のあるオピロイドの開発に多大な労力が傾けられ、その結果半合成誘導体のジアセチルモルヒネ(ジアモルフィン)が開発された。最初に合成されたのは1874年のことだったが、人気が出るようになったのは1898年に再合成された「ヘロイン」という商品名で市販されるようになってからである。残念ながらこの薬はモルヒネより格段に毒性が高く常習性も強かった。現在は多幸感を得るための違法レクリエーショナル・ドラッグとして蔓延している。
アヘンには習慣性のあるモルフィナン構造のもつモルヒネコデイン、さらに非習慣性のテバインなどいくつかのイソキノリンアルカロイドが含まれている。モルヒネコデインなどのオピエート(天然のオプオイド)は、脳に広く分布し脊髄や消化管にもみられる特定のオピオイド受容体を刺激して中枢神経(CNS)に作用する。これらの受容体は内在性神経伝達物質(体内で生産されるペプチド、いわゆるエンドルフィンのこと)にも、この受容体に結合する投与された植物アルカロイドのどちらにも反応する。コデインモルヒネより作用は弱く、偏頭痛などの激しい痛みを緩和する鎮痛剤として利用される。しかしコデインを連用した場合の問題も明らかになってきていて、コデインの作用に対する耐性が増し、また異常な痛覚感受性などの副作用があることがわかっている。

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どうでもいい、じじぃの日記。
アヘンは、未熟のケシの実を傷つけ、そこからしみ出す乳状の液体を集めて乾燥させた麻薬である。アヘンにはモルヒネを主成分とするアルカロイドが含まれ、アヘン中毒になると、極めて重い依存症に陥る危険性があることでも知られている。
現在、世界最大のアヘン生産国はアフガニスタンである。きっかけはイスラム主義組織のタリバンだった。当初麻薬撲滅をめざしていたタリバンだったが、2001年、アメリカ軍主導の多国籍軍アフガニスタンに侵攻して、タリバン政権が崩壊すると、タリバンは一転してアヘンを活動の資金源として活用する道をとった。現在、アフガニスタンのアヘン生産は世界の生産量の8割を占めているといわれる。
終末期鎮静にはモルヒネが使用されることが多い。特に末期がん患者へのモルヒネによる疼痛コントロールは標準的な治療とされている。