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老兵は黙って去りゆくのみ

2019-01-22

じじぃの「科学・芸術_733_ポーランド・国家再生」

06:02

Multimedia Show /100 years of Polish Independence / Daniel Stryjecki 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=9yuoVnxdqyE

Polish Independence 1918

ポーランドの歴史』 イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ/著、河野肇/訳 創土社 2007年発行

はじめに より

そもそも消えたポーランドという国は少なくとも2つあった。その1つは1795年にヨーロッパの政治地図から消え、以後120年間存在しなかった。もしくは、存在したのせよ、その国の過去と何らかの絆を保ちながら未成熟な政治単位として分裂していた。しかも、その過去との絆は、広く政治の観点からも、個々の「ポーランド人」という観点からも、極めて不安定だった。まず、そのようなポーランドという国に満足のゆく具体的な定義を下すことは不可能に近い。さらに、第一次世界大戦の結果生まれたポーランドは、18世紀後半に消えた国とは著しく様相を異にしていた。しかも、その国もまたポーランド史上最も惨酷に地図から抹消され、第二次世界大戦が終った後、以前とはさらに驚くべき違いのあるポーランドが登場したのである。

2つのポーランド、つまり1795年以前のポーランドと1918年以後のポーランドは、今なお固い絆で結ばれている。ポーランド人は、何度も過去を奪われたために、つねに過去を再建しなければならなかった。このことを最も明らかに示しているのは、首都ワルシャワである。

転換期 1864年1914年 より

1904年2月に勃発した日露戦争と1905年のロシアアック名は、ポーランド王国の政治的・社会的分裂をさらに際立たせ、ロシア革命は、1864年以後ロシアポーランドに生じていた新たな状況をレントゲン写真のように厳然と写し出した。極東におけるロシアの苦戦については、すべての政治勢力は、そこから何らかの利益を引き出せるかもしれないと思っていた。王国の富裕階級の保守層はいわゆる「現実政治党」を結成し、公にツァーリに通性を示すことによって宗教、言語、法律での譲歩を得ようとした。親ソ派のドモフスキの国民民主党(ND)は一定の自治要求した。他方、ロマン主義的蜂起の伝統を引き継いだポーランド社会党PPS)はロシアに対する蜂起の準備を始めた。ポーランド独立運動の指導者ピウスツキはロシアとの戦いの援助を得るためにはるばる日本にまで赴いたが、すでに時期を逸していた。彼より先にドモフスキが訪日し、日本の軍部に対しポーランドの対ロシア蜂起を援助しないよう説得していたからである。とはいえ、ピウスツキは若干の援助金と武器を得て帰国し、PPS武装集団の装備を強化した。王国では社会的緊張が高まり続けた。日露戦争のために、貿易は途絶え、工業生産は急落し、失業者が増えた。農産物の不作とロシア軍への徴兵拒否運動が広がったことが事態をさらに悪化させた。街頭デモがますます頻繁に行われるようになり、PPS武装団が警察と本格的銃撃戦を演じ始めた。1905年1月22日、サンクト・ペテルブルクの冬宮の広場で武器をもたないで行進していた労働者に対し、ロシア軍が銃撃を加えた――この「血の日曜日」のニュースは王国全土の世論に衝撃を与えた。工場労働者たちは直ちに、1ヵ月間のゼネストに入り、王国の活動に麻痺させた。学生たちはロシアの学校をボイコットし、学校でのポーランド語の復活を要求した。国民意識を高めて政治闘争に参加し始めていた農民たちも、行政へのポーランド語使用拡大を要求して立ち上がった。

独立の回復と喪失 1914年 − 45年 より

第一次世界大戦勃発の年には、ポーランド人は政治的には何の得るところもなく、甚大な苦難と破壊にされされた。数十万人ものポーランド人が戦闘中の3国の軍隊に徴集され、1人のツァーリと2人の皇帝のためにたがいに殺し合った。また、旧ポーランド領内の東部戦線では経済的資源が交戦国双方から容赦なく搾取された。しかし、1915年8月に同盟国軍が旧王国全体を占領したことが状況を一変させた。1世紀におよぶロシア支配は終わりを告げ、親ソ派のドモフスキ、NDの幹部、現実主義派はペトログラードへ去った。彼らはペトログラードツァーリ政府に対し、ポーランド問題にもっと断固たる姿勢を示すよう、むなしい上訴を繰り返した。まったく進展の見られない交渉に業を煮やしたドモフスキは、1915年11月にロシアを去り、イギリスフランスで宣伝活動を行った。ところが、その間、ドイツが王国のポーランド人を味方につけるために大幅な譲歩をし始めた。ポーランド語も地方行政、法廷、特に教育の場で使用できるようになり、ポーランド語を使う大学と工芸専門学校も再開された。ウィーン政府はといえば、一時期、ポーランドをハプスブルグ家の王国にする案を検討した。しかし、結局、ポーランドドイツ傀儡政権をつくり、ポーランド人をドイツの弾除けにする、というベルリン政府の案に譲歩した。こうして、ドイツオーストリアの2皇帝は1916年11月5日、立憲君主制ポーランド王国創設を約束する勅令を発した。この王国には確定された国境もなく国王もいず、臨時国務会議さえ単なる諮問機関にすぎなかったが、それは大きな進展だった。

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しかし、ポーランドの運命は完全にドイツに握られたわけではなかった。ドモフスキとペデレフスキ(ポーランドの初代首相になった)が大西洋の両側で精力的な宣伝活動を行い、ポーランド独立の大義を訴え、各国政府にも国民にも強い感銘を与えた。また、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが1918年1月の「14ヵ条」宣言において、海の出口をもつ独立国としてのポーランド回復要求したことふが、国際政治に大きく影響した。また、ブレスト=リトフスク講和条約によってロシアが戦線から離脱し、1918年3月から5月にかけて西部戦線ドイツ軍の大攻勢が失敗に終わったことから、協商国側はそれまでのようにポーランド問題に対する発言を控える必要はまったくなくなった。1918年6月3日、独立国家ポーランドの再生が戦争目的の1つであることが、正式に協商国によって認められた。ポーランド人たちの方も、このような事態の進展をただ大人しく見守っていたわけではなかった。ロシアでは実数3万人ものポーランド部隊が編成され、フランス内のユゼフ・ハルレル将軍指揮下のポーランド部隊には、数千人の義勇兵が主としてアメリカポーランド人社会から集まり、フランスの協商国軍として戦っていた。

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