Hatena::ブログ(Diary)

老兵は黙って去りゆくのみ

2019-01-24

じじぃの「科学・芸術_735_ポーランド・EU加盟」

06:03

Poland is pushing the EU into crisis 動画 YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=P8MQTgdjcLE

Poland in the European Union

ポーランドの歴史』 イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ/著、河野肇/訳 創土社 2007年発行

はじめに より

そもそも消えたポーランドという国は少なくとも2つあった。その1つは1795年にヨーロッパの政治地図から消え、以後120年間存在しなかった。もしくは、存在したのせよ、その国の過去と何らかの絆を保ちながら未成熟な政治単位として分裂していた。しかも、その過去との絆は、広く政治の観点からも、個々の「ポーランド人」という観点からも、極めて不安定だった。まず、そのようなポーランドという国に満足のゆく具体的な定義を下すことは不可能に近い。さらに、第一次世界大戦の結果生まれたポーランドは、18世紀後半に消えた国とは著しく様相を異にしていた。しかも、その国もまたポーランド史上最も惨酷に地図から抹消され、第二次世界大戦が終った後、以前とはさらに驚くべき違いのあるポーランドが登場したのである。

2つのポーランド、つまり1795年以前のポーランドと1918年以後のポーランドは、今なお固い絆で結ばれている。ポーランド人は、何度も過去を奪われたために、つねに過去を再建しなければならなかった。このことを最も明らかに示しているのは、首都ワルシャワである。

共産主義衛星国から第3共和政 より

第二次大戦の試練をへて生まれた新生ポーランドは、戦前のポーランド共和国とは著しく異なっていた。それは国境、人口の規模と民族構成、政治・社会制度、隣国関係において、明らかに異なる国であった。東部で領土を失い、その埋め合わせとして北部・西部で領土を拡大したことは、ヨーロッパ地図上のこの国の形と位置を大きく変えた。新しいポーランドは、広さでは20パーセント狭くなったが、質的には充実し、300マイルにわたるバルト海沿岸部を持つことになった。旧ドイツ領は、多くの施設が破壊されていたものの、ソ連譲渡された地域より開発が進んでいた。人口面でも著しい変化が見られた。1939年ポーランドの人口が3500万人だったのに対し、1946年の新生ポーランドの人口は2400万人足らずだったが、その圧倒的多数ポーランド人が占めていた。戦前の政治や社会のエリート層は、死亡、罷免もしくは追放のために一掃された。さらに、ポーランドヨーロッパで最も激しい戦災を受け、物的破壊によって製造能力の5分の1を失い、その上に栄養失調、深刻な住宅不足、結核性病の蔓延に見舞われた。戦争はまた、数千人の傷病兵と孤児を残した。

新生ポーランドソ連軍事力政治力によって厳しく管理された。国の主要なポストのすべてに共産主義者が就任し、公安省が国の隅々まで警戒の目を光らせていた。

      ・

無党派の学者だった新外相クシシュトフ・スクビシュフスキ教授の方針のもとで、新独立国は注意深く国益を確保した。国家の安全保障と西側諸国との関係で最も重要だったのは、1990年11月にオーデル・ナイセ国境の承認を統一ドイツから得たことと、1991年6月にポーランドドイツ友好善隣条約終結したことであった。モスクワ政府との関係はその後も正常だったばかりでなく、大いに改善された。1940年のカティンの虐殺については、1990年ゴルバチョフソ連の責任を正式に認め、その2年後のエリツィンワルシャワで個人的に謝罪の意を表した。しかし、ソ連邦が崩壊したとき、ポーランド直ちにウクライナリトアニアベラルーシの独立を承認した。こうして、旧ソ連邦内の少数民族としてのポーランド人の福祉・安全に対しては、当然のこととして関心を示したにもかかわらず、独立国家ポーランド1945年以降の東部国境を容認したのである。このため、ポーランド国内に大規模な少数民族がいなくなった(今日では約100万人と推定され、その中ではドイツ人が30万人で最も多い)ことから、1939年以前のポーランド「第2共和政」をさんざん悩ませ、その後もいくつかの旧共産主義国の悩みの種となっている民族紛争や独立闘争――その最も悲劇的な例がユーゴスラビアの場合である――は、今日までポーランドには発生していない。1991年6月と7月には、コメコン経済相互援助会議)とワルシャワ条約機構解散され、1993年秋には最後のロシア軍がポーランドから撤退した。

      ・

1991年ワルシャワ条約機構解散して以来のポーランド外交政策には、明白な一貫性が見られた。当初は中立政策も検討されたは、結局、すべてのポーランド政権は西側組織への参加を目標にし続けた。そのために、軍隊政治家ら分離され、シビリアン・コントロールの下に置かれた。1999年3月には、ポーランドハンガリーチェコスロヴァキアとともに正式にNATOに加入した。数世紀にわたって侵略され続けた自国の脆弱さを知っているポーランド人にとって、NATO加入は政治的かつ精神的に大きな意味を持つものであった。そして現在、3900万人の人口を有するポーランドは、EU加盟への準備を進めている。(訳注・2004年5月、EU加盟を果たした)。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20190124/1548277401