中二病でも恋がしたい!戀 第9話

 なんかちょっとマジ入ってるっぽい。
 筋立て自体はあまり見るべきところも無く、そもそも小鳥遊がなんで中二病を卒業しかゝってたんだろ?という疑問すら湧くが、今回はそういうところはどうでもよい。一つはイタリア少女の登場で、日本人は西洋風ファンタジーに入れ込み、欧米人は和風ファンタジーに魅力を感じるって構図。最近は歴女とか刀剣女子なんてものが流行るご時勢だが、西洋ファンタジーにかぶれる前に自国の文化を深めておけよというつもりも無いが、なんかこういう図式は滑稽だわな。一昔前のハリウッド映画に見られる、忍者ならぬニンジャものゝおかしさから言うと、おそらく日本人の(大半はRPG経由だろうが)西洋ファンタジーも、本場のあちらからすると噴飯モノであるはず*1で、そういうのはもう相手に自分の妄想を押し付けるものであるという構造がはっきりと現れる。で、そういうのは別に中二病の領域だけでなくって、おそらく文化交流では避け得ないものであるんじゃないかと思う。
 もう一つはこの作品の主要テーマである恋愛部分にクローズアップしてきたところで浮かび上がってきた中二病リア充的なものとの対立。七宮は道化の役割しか果たさないのだろうと思っていたのだけども、今回はむしろ主役であって、一般化すれば「自分のやりたいことを突き詰めれば突き詰めるほど、捨てなければならないものが増える」ということ。七宮はその厳しい選択をした上で、中二病の世界に生きてきたわけだが、今回の小鳥遊の悩みを解決することによって彼女が実は両方手に入れている(と七宮には見える)ということに、激しく煩悶している。小鳥遊は七宮が悩んだ末に片方を選んだという辛い選択をしたのとは違ってその幸運な境遇を自分の努力で手に入れているわけでなく、それは大半が中二病を卒業した主人公と、理解力のある周囲の力によって得られたものだから、この不公平さは先の展開のドロドロしさを予感させる。ほんでもって、この構図は別に中二病に限定されなくて、他のいろいろなことに敷衍可能であるというのが面白い。第1期の恋愛パートが小鳥遊の不幸な境遇をお涙頂戴な展開で流してしまっていたので、その第1期と比べると格段に奥深いとはいえる。いや、そういうテーマ設定はむしろ中二病と恋愛脳の対立という卑小な題材で描かなくてもというのはあるが、いま、こゝでそれは言わないお約束ということで。

*1:日本産の西洋ファンタジーは、その大半があちらでは基本であるはずのキリスト教的宗教概念がすっぽり抜け落ちている場合が多い