放課後のプレアデス 第10話

 こりゃまた技巧を尽くしたテキストではあるな。
 視聴直後はよく理解できなくてポカーンだったのだが、自分的に解釈してみると、この作品で示されるエピソードは無数にある可能性の一つであって、しかもそのエピソードは必ずしも時間的にも空間的にも連続しているとは限らないって事か。こりゃまたわかりにくい。
 いろいろ混乱する要素が(おそらく意図的に)散りばめられているのでアレだが、こうなってくると、みなとは病院で生命維持装置をつけられて植物人間状態にあり、自分的な予想だとそのみなとが結果的に奇跡の目覚めを果たして(救われて)ENDって感じかな。ほんでもって、幼少時のすばるは母親の見舞いのときに偶然植物状態のみなとの病室に迷い込んで彼をかわいそうに思って何らかのアクションをし続けていたとかいうのが真相とかそんな感じで。すばるの幼少時のエピソードが担当回を与えられる形で語られてないから、そういうのをクライマックスに残しておいているって構造?。
 なんかズるい手法のような気がしないでもないが、そもそも量子力学的知見から因果律は実はないということを主張する科学者もいるようで、そのへんの知識を概念化して物語に織り込んだ形になっているのかな。
 量子力学には有名な思考実験があって、それは原子をある容器に閉じ込めたときの電子の挙動に関してのもの。まづ、原子核の周りを電子が回っているという原子モデルを考える。その原子をせいぜいその原子の平均直径程度の大きさの容器に閉じ込める。すると、普通はその容器のなかに原子が入っているのなら、その原子を構成している原子核もその周囲を回っている電子も両方とも容器の中に入っていると考えられる。
 ところが、量子力学的には電子はあくまで確率で存在するものなので、容器の外にも存在することができる。普通はというか古典力学ではそういう現象はありえないことなんだけど、実際にいろんな実験をしてみるとそういうことがどうしても容器の外にも電子が漏れていると考えざるを得ない結果が得られて*1いる。驚くべきことに計算上は原子核すら容器外に存在しうる。しうるんだけど、原子核は電子と比べて質量が何千何万倍も大きいから当然電子より容器の外に存在する確率は少ない。少なくとも電子が容器の外に存在する確率と原子核が容器の外に存在する確率を比べると、実質原子核は容器の外に存在しないと断言してもよいぐらいの差があるということにはなるが。でも完全に0じゃない。
 普通電子というか物体が運動するときは、一定の連続した軌道があって、その上を連続して位置を変化させ続けているわけだ。直線AB間を動いているとして、時間を細切れにすれば物体の位置を特定することができ、その位置は連続している。ところが量子力学的知見だとこれが成り立たない。先述の容器の中に閉じ込めた場合、計算すると大部分の時間原子核も電子も容器内にあることは確実なんだけど、一定確率でやはり「確実に」容器外に電子も存在しているという結論が導かれる。ということは、直線AB上の運動についても、もちろん存在確率は微小だが物体は直線AB上に存在しないことも確実にあるわけで、これは現象についてもいえるのではないかということになる。つまり過去から現在まで事象は連続していると普通考えるが、量子力学的にはそれは確率の問題であって、連続しない現象もありうるわけなんだから原因→結果の過程の中に因果律に従わない事象があいだに存在してもおかしくないと考えるのだ。
 ほんでもってそういう知見を物語に織り込んだのがこの作品であって、そのへん概念を理解していないとおそらく結末はポカーンものだろう。量子力学的知識は、別にシュレーディンガー方程式を解くだけの学力で自在に使いこなせないといけないというのではなく、せいぜいシュレーディンガーの猫(箱に閉じ込められた猫の生死はわからないが、箱を開けて観察してはじめて決定されるというアレ)の概念を知っている程度で構わないとは思う。別にそのへんスタッフも、量子力学的知見がなくてもなんとなく感動できるようにテキストを構成しているとは思うが、まぁこれだけSFっぽくしてるだけあって、知識があればなるほどアレを応用したのねぐらいに評価してもらえるだけの作りにはしている。
 とはいえ、因果律が成り立つ前提で物語を作らないと、何でもアリになってしまって崩壊するから禁じ手だとは思うんだけど、そのへんあまりかけはなれない範囲にしてさすがにトンデモ展開にはしないだろう。そのへんのバランスは話を尽くして作りこんでいるはず。

*1:コンピュータチップの配線あたりがそう。電気は配線上だけを通ると普通考えるが、昨今の微細な配線技術だと、あまりに配線が細いので、対策しないとある配線上を流れる電流が隣の配線に飛んでしまうので誤作動を起こす。もう人類の技術はとっくにそこまで来てる。