Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀2 第2話

 うーん、なんで日本でウケないんだろとは思う。
 自分と同じようにヒットする層にはしてるんだろうけど、こう事実としてヴォリュームゾーンにピッタリと当てはまって売れているというふうにも見えないんだよな。まぁ適当なのでよくわかんないというのが正直なところだが、続編が次々と作られるのもおそらく台湾ではヒットしてるんじゃないかと思うわけで。
 この作品、確かに焦点は殤不患に当たっていて、彼が主人公なのはそうなんだけど、物語としていわゆる世界を救っているのは凜雪鴉のほうであり、殤不患は彼の道具として扱われている。だからエンドクレジットでも凜雪鴉のほうが上位にあるわけで、今回も西幽から来たという、殤不患にいわれのない罪を着せて追っかけてるあの眼鏡との腹の探り合いこそが個人的には面白く感じるのだが、そのへんどうなんだろ?。ジャパニメーションでこういう描写はあんまり無い気がするんだが、あったとしても少なくて、やはりこう脚本家も日本の視聴者のレヴェルに合わせて程度を低くしてるんかなと思わざるを得ない。サクラダリセットも頭を使ってトラブルを解決していくって流れだったような気がするが、結局和解で解決って、個人的には「え゛〜」という感覚のほうが強*1かった。世の中和解がそんなに成るなら、こんなに酷いことになってないよって感じ。むしろ和解が成るような人間関係なら酷いことにならないから、それでダメならどう切り抜けていくか?というステーヂに入っているわけで、共同体に巣食う内部の悪党が最初っから自分の利益のために他人や共同体を平気で傷つけている現状、動機からして和解が成るはずがないのにこう人間の関係性という蛸壺に入ってオナニーを繰り返す作品が多数作られるのもやはりそれが麻薬として効果的だからなんだろうかと思ったりする。だからといってこの作品のように。そんなダメな世の中をくゞりぬけていくためにはそれこそ1人でゴジラを倒しかねない卓越したスキルが必要ってのもこれまたファンタジーであって、だからこそタイトルもそうだと思うわけなんだが、しかしそういう強さのインフレでバトルが行われる少年ジャンプ的世界観がメインというよりは、危機を乗り越える際の機転のきかせ方あたりや、武侠モノに見られる個人の生き様あたりに焦点があって、そういうのが今必要なんじゃないかとは思うし、おそらく虚淵もそのへんに少しは思いを至らせてるんじゃないかとは思う。

*1:殤不患のほうはあの性格が災いして他人に利用されやすく何度も裏切られたり辛酸を嘗めることも多かったろうが、だからこそ彼を慕う友人らの支えもあって今に至るっていうのが容易に想像できるが、サクラダのケイはそういう経験に裏打ちされた強い動機などが全く感じられない。