考える脳髄プラスα

森羅万象への好奇心と人間精神への探究心を動力源にして、様々な事柄を学び、考えていきたいと思います。

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April 30, 2005 『ブッダの言葉』を眺めながらもの思う。

[][]『ブッダの言葉』を眺めながらもの思う。


気がつけばいつの間にか今日で4月も終わり、人によっては10連休以上のゴールデンウィーク突入しますね。

ここ数日急激に気温が上がり、うららかな春を通り越して既に初夏の気候となりつつあります。

特定の話題やテーマについて掘り下げて考える時間が乏しいので、気軽にブッダの言葉を借りながらつらつらと頭に思い浮かぶことを書き留めることとします。

中途半端メモや断片的な知識の備忘録のような更新でもしようと思うのですが、短く手軽に更新するというブログの書き方に慣れていないせいなのか、ラフでアバウトな記事の作成がなかなか出来ないといった感じです。

知恵の手帖シリーズというとても薄い冊子があり、そのシリーズの『ブッダの言葉』(isbn:4314007397)から困苦なる人生を行き抜く指針となるようなものを幾つか引用し、私の簡単な感想を添えておこうと思います。

表題は、私が恣意的に気の趣くままにつけました。

克己―この世界に生を授けられし者の普遍的な目的

戦争で幾千万もの敵を倒した者と

自分自身に打ち勝った者とでは

自分自身に打ち勝った者こそが、

より偉大な勝利者である。

(中略)

真実のところ、悪は自分自身によって為されるのである。

人は自分自身によって穢れる。

だが、自分自身によって、悪を避けることもできるし、

真実のところ、人を清めるのも、自分自身なのである。

純粋であるか不純であるかは、その人にかかっていて、

他人を清めることなど、自分以外の誰にもできない

(中略)

どんな征服も憎しみを生む。敗れた者たちが、不幸に見舞われることになるからだ。

あらゆる勝ちや負けの考えを捨て去って、穏やかに生きる事のできる者だけが、いつまでも幸福にいられる。

この言葉の左側には、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)が誕生したルンビニ―の地、母親から産まれた釈尊の彫刻が付されている。

母の摩耶夫人から産まれた釈尊は、即座に立ち上がって七歩歩き『天上天下唯我独尊』と高らかに降誕宣言をしたという伝説が残っている。

『この天下に私ほど尊貴なものは存在しない』という宣言を、特別な人類救済の任を得た釈尊にのみ許された言葉と取るのは早計であろう。

この言葉を私は、歴史上初の自我意識の発露として受け止める。

そして、この言葉を躊躇なく発することの出来る人間は、克己を成し遂げたものであり、独尊であるが故に他者との相対的比較による優越を獲得する必要がそもそもない。

真の絶対的な自負や自尊の念に至る道は、他者との競合や闘争によって切り開かれるのではなく、ただ我一人、我が精神の実相と正対することによって得られる。

その具体的な道筋を説いたものが、仏法でいう八正道なのかもしれないとふと思った。

ちなみに、釈尊の名シッダールタとは、『目的を成就せし者』という意味が含意されている。

自我意識は、仏法では否定されるべき煩悩の源泉とも解釈され得るが、私は自我意識を滅却する方策による悟りの境地には真の救済も幸福もないと感じる。

それは無為なる生命の残滓に成り変わることと等価であり、欲求の執着に悩み苦しみながらも歓喜を得るところに人生の醍醐味がある。

生命を危機に陥れる苦行三昧は、釈迦悟りへは導かず、ただ静謐な死の調べを彼の耳元へ柔らかに注ぎ込んだに過ぎなかった。

自分自身の生の責任と運命を毅然として受容せるところに、人間の清浄なる尊厳が屹立する。

形而上学的な対象としての苦悩や憂慮を捨象し、現実に生きること

もしも修行者が、正しい智慧によって、物事をあるがままに見るならば、過去についてこんな考えは持たないだろう。

『私は過去存在していたのだろうか。それとも、存在しなかったのだろうか。私は過去において何者だったのだろうか』

彼は未来についてもこんな疑問は抱かないだろう。

『私は未来にもあるのだろうか。それともないのだろうか。私は未来において何者となるだろう。』

彼はまた、現在についても、こんな疑いはもたないだろう。

『私は存在しているのか、それとも、いないのか。私は何者であり、友情として、どこから来て、どこへ行くのか』と。

このような考えが彼に生じることはない。

私達は、現在、享受している生命の起源を受精以前に遡ることはできず、現在の生命が燃え尽きた後の未来を知ることはできない。

原理的に知り得ない誕生以前の生や死滅以後の生についてあれこれと思い煩う事に意味はない。

過去記憶の想起の中にしか存在せず、未来は想像力が生み出す推測のイメージの域を超え出ることはない。

『今。ここ』から精力的に生きる事、過去の苦難や悲哀を引きずり過ぎない事、未来における不幸や絶望の予感に脅かされない事、極めて簡単な生き方に思えるが、記憶と想像に苛まれる人は現在を全力で生き抜く事がなかなか難しい。


因果応報と自業自得憎悪と怨恨は復讐となって連鎖する

ある男が、他人の財産を奪って、目的を果たしたとする。

しかし、その男は別の男から、身ぐるみを剥がれてしまった。

そうすると、彼はまた他人の財産を奪うことになる。

悪の果実がまだ熟さないうちは、愚かな者はこう考える。

『今がチャンスだぞ。今こそ好機だ。』

ところが、その行為が果実をもたらす時、彼のために、あらゆるものが損なわれる。人を殺めた者は、次には自分が人から殺められ、勝利者には次の戦いの相手が現れ、人を侮辱した者は、いずれ自分が侮辱され、他人を迫害する者には心配事が絶えないだろう。

このように、行為は連鎖をなし、人の財産を奪う者は、次に自分が財産を奪われる。

倫理規範根本は、同害復讐法に根拠づけられるような憎悪と復讐の連鎖を抑止するところにある。

孔子の語る『仁』の徳性も、血縁者への隣人愛をより遠方へと拡大していく過程において実現される。

その本質は『己の欲せざるところ人に施すことなかれ』だが、人間社会にある絶望的な貧困や凶暴な破壊衝動、利己的な繁栄への欲求が他者を虐げ、他者から収奪する行為へと人を駆り立てる。

相互的な権利の不可侵が実現されるには、公正としての社会正義が生まれながらの環境において整備されていなければならないが、それを達成する具体的政策についての論議は突き詰めることが難しい。


過ちを改めるに憚ることなかれ

他人の過ちを見つけるのは簡単だが、自分の過ちを見つけるのは難しい。

実際、私達は、穀物の粒をふるうようにして、他人の過ちは細かい笊にかける。

ところが、ずるい賭博者が都合の悪いサイコロの目が出そうになったらうまく誤魔化してしまうように、自分の過ちはそっと隠してしまおうとする。


苦難を消尽する果てしなき渡河の旅路

どうやって激流を渡るのですか?

どうやって海原を越えるのですか?

どうしたら苦しみは消え去るのですか?

そして、どうしたら穢れることなくいられるのですか?

これらの問いに、世尊は次の詩をもって答えられた。

信によって、激流を渡るのである。

努力によって、海原を越えるのである。

正しい認識によって、苦しみを消し去るのである。

そして、穢れを去るには、智慧によるのである。

敬虔な信仰心とは無縁の私ですが、早朝の陽射しを浴びながら釈尊の言葉に触れることもまた悦ばしきことです。

宗教教義としての仏法を離れても、世界を解釈する正しい認識や生を豊かに彩る智慧を集める営みの大切さ忘れずに日々の生活を楽しんでいければ良いと考えたりします。

たかはしたかはし 2005/05/02 19:28 私は「スッタニパータ」という現存最古のお経の日本語訳を枕元に置いて読んでいます。

釈迦を過去に実在した人間としてみたとき、いったいどういう性格だったのだろうか、友人、知人でいったら誰が近いだろうか、そんなことを考えることがあります。

かなり後ろ向きな性格だったんじゃないか、そう思います。

きれいな女性を見ても、その中身は糞尿が詰まっている、体からは常に汚れたものが流れ出ている、そんなものに追いすがっても苦しみを生むだけ、そんなふうに考えるというのは、なんとも・・・。

苦しみから逃れるためには、執着を捨てればいいと考えるのはいいとして、妻や子まで執着の元、苦しみの原因であるとして、すべて捨てろと言っている。性欲もだめ。

生に対する執着も、死という概念も、喜びも、あらゆるものを捨てたところに、真のやすらぎがあると考える。

これは、知性による本能への反逆ですよね。

そのやすらぎは、本当にやすらげるのだろうか。

ただ、執着を捨てたところにやすらぎがある、本能を充足して何になる、苦しみを生み出すだけ、そう考えた人が過去にいて、それを生涯かけて実践した人たちがいたという事実は、うまくいかなくてもいいか、たいしたことじゃない、と私を気楽にさせてくれるので、とてもありがたいと思っています。

それで私は仏教にハマってしまいました。

ただし、御利益信仰を取り入れたものや、葬式仏教などは気に入りませんけどね。

amarillankamarillank 2005/06/05 15:21 cosmo_sophyさん、らっこです。
私は瀬戸内寂聴さんを通して仏教に触れいています。3泊4日の鎌倉・円覚寺での座禅も学生のときにやっていました。心の平安を求めるために、仏教などを勉強することは必要なことだと思います。大学はプロテスタント系の大学だったので、自主的に毎日朝の礼拝に出ていました。賛美歌を歌いたい、パイプオルガンを聞きたいばかりに言っていたのですが、今思うとあの日課は私が落ち着くのに必要なものだったのだなぁと思います。一つの宗教に固執せず、広く良いところを吸収するのは人生を豊にしてくれると思っています。

zero-alpha(永澤護)zero-alpha(永澤護) 2005/07/21 15:56 cosmo_sophyさん、お元気でしょうか。長らく更新がないので、ちょっと寂しいです。

RR 2005/08/20 15:14 説明が長すぎるのでもう少し簡単に説明してくれませんか??

みんなのプロフィールみんなのプロフィール 2005/08/21 00:36 ブログ開設おめでとうございます!!

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Like_an_ArrowLike_an_Arrow 2005/10/22 20:48 cosmo_sophyさん、こんにちは。新米ブロガーのLike_an_Arrowと申します。以前から沈黙のオーディエンスのひとりとして、cosmo_sophyさんの文章は楽しみに拝読させていただいていました。最近、自分のブログを立ち上げたのを機会に、以前の記事にトラックバックさせていただこうと思いつきました。ファンのひとりとして、cosmo_sophyさんの文章がまた読める日が来ることを楽しみにしております。
http://philosopher.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_5e9f.html

あかむしあかむし 2006/05/14 02:30 こんにちは、はじめまして。
すごいブログです・・・。今日発見したのですが、これからここのブログを読み解いていくのが楽しみです・・

こちらとくらべたら相当はずかしいブログなのですが、私もファンの一人として、もし差し支えなければリンクさせていただけませんか?

http://akamushi.blog63.fc2.com/

zeroalpha(永澤護)zeroalpha(永澤護) 2006/05/14 21:53 「説明が長すぎる」というコメントがありますが、ここまで簡潔にしてもそうなんでしょうか---と感じますが。
もう更新がないのでしょうか。また新しい文章に出会えることを楽しみにしています。

男だけど潮ぴゅっぴゅしたよwww男だけど潮ぴゅっぴゅしたよwww 2009/06/14 21:53
すげっ!!! 昨日の女に潮 吹 かされた!!!!!
イった後もキトー攻めされたら急に力入んなくんなって頭真っ白になってさぁ、
したら凄ぇ勢いで透明の液がチソコからブシャー!って出てマジ焦ったよww
女が潮 吹 くのは当然として、男が潮 吹 くなんて思わなかったわぁwwwww
頭がブッ飛ぶぐらい気持ちいいからやってもらってみー??

http://shiofuki.navi-y.net/DTvYqfu/

むきゅっもきゅっ?むきゅっもきゅっ? 2009/06/22 08:08
いつもマヌコに空気入れてブリブリ音出させて遊んでんだけど
昨日の女動物の鳴き声みたいな変な音出たwwwwwwww
かなり締まりのイイ女だったんだがもしかしてそれが理由かな?
5万しか貰えなかったけどある意味貴重な経験出来たからおkだろwww

http://ahan.yumenokuni.net/NPpXg8E/

ぎょはぁ!!!!!ぎょはぁ!!!!! 2009/08/15 14:52
ヘイヘイ!!あひひひほはぁwwwwwww ちょwwいきなりごめwwwwww
寝てるだけで5 万もらっちゃって真面目な自分がヴァカらしくなってさwwwww
はぁーいま女シャワー浴びてんだけど、もう1ラウンドでまた5 万くれるってYO!wwwwww
またマグロでさっさと中 出 しするわwwwwwwwww

http://kachi.strowcrue.net/HgoAzMu/

April 23, 2005 反日デモに内在する中国共産党の危機

[][]反日デモに内在する中国共産党の危機:共産主義は何故、挫折せざるを得ないか。


中国韓国で連日繰り広げられた反日デモの原因には、中国共産党独裁体制に対する人民の不満や反発の鬱積、日本国連安全保障理事国加入への反対、中国側の内政的観点による人民のガス抜きなど幾つかの要因を考える事が出来る。

中国政府の見解では、日本との歴史認識の差異が中国人民の反日感情を高揚させ、反日デモを過激化させたのであり、中国当局には一切の責任はないという事である。

しかし、中国政府が、日本歴史認識に対する人民愛国心に基づく怒りを思い知らせる為に、この反日デモ警察権力で強制的に鎮静化しなかったというよりは、沈静化できなかったという方が正しいように思う。

この反日デモ中国政府が主導したという見方は全く正しくないし、反日デモで暴徒化した民衆の破壊行動は、民衆が潜在的に孕んでいる政権転覆のエネルギーの片鱗を窺わせるものでもあり、現支配階級である共産党上層部無意識的な不安や疑念を喚起するものだからである。

絶対的な政治権力は必然的に腐敗するし、既得権益の階層の新陳代謝がなければ権益から排除されている階層の不満や反発は抑圧され蓄積されていく。

中国共産党の現状は非常にアイロニカルなものであり、彼らが党名に掲げている共産主義の理念が表層的な欺瞞的理想に過ぎないことを歴史過程において自己証明する事になる予感を感じる。

そもそも、情報技術が発達してインターネットで世界の個別の情報リンクされる現代において、政治的な独裁体制と経済的な自由化の相性は、非常に悪いものである。

現代の情報産業社会の中で経済を自由化すれば、市場やネットを通して無数の情報資源が飛び交うこととなり、国内の一党独裁体制維持の為の情報統制やイデオロギー統一は事実上不可能になる。

市場経済が近代化して、中国人民の生活水準が向上してくれば、必然的に浮かび上がってくるのは、先進民主主義国の市民社会モデルとした市民意識である。

共産党の従属者としての人民から国家の主権者としての市民アイデンティティの意識がシフトする転換期において、反日デモで表出した抑圧されたエネルギー民主化の熱狂と欲望として中国共産党に叩きつけられることになるだろう。

日本アジア諸国の歴史認識の食い違いに基づく対立と歴史学の持つ本来的な性格について書こうと思ったが、中国共産党からの連想で共産主義が何故、挫折せざるを得ないのかについて略述しようと思う。

共産主義とは、プロレタリア革命によって実現の第一歩を踏み出すとされた政治的理想主義であり、本来、資本主義階級(支配者階級)に対する労働者階級(被支配者階級)の鬱積したルサンチマンを、暴力的な革命の原資として燃え上がらせ、既得権益階層を暴力粛清あるいは放逐して、財や資本の分配をコペルニクス的に転換させるものである。

つまり、共産主義の理念は、原義に基づけば既得権益や独裁体制を破壊し、庶民や民衆の自治的な主権体制を構築し直し、自分自身の身体を使って疲労という苦役を得る労働者が主役となる社会を作ることにあった。

しかし、共産主義の理想と現実の落差から生まれた歴史的陥穽は、社会主義の実験的国家ソビエト連邦成立から日を待たずして明らかになった。

共産主義思想を構築したマルクスエンゲルスの致命的な誤謬は、人間の本性である利己主義や支配欲求を完全に見失っていたことだった、即ち、人間は本来的に完全平等な世界を願望しておらず、共産主義を信奉し革命に協力した民衆の大部分は、現在の貧困や支配から逃避する為にあるいは今まで自らを虐げ抑圧してきた階級を嫉妬や憎悪を元に抹殺する為に暴力と破壊による転換点を欲していただけだったのだ。

理念としての平等や支配者階級の廃絶は、現在の自らの社会的地位を向上させる為の方便に過ぎなかった、その証左として革命を遂行した指導者の多くは自らを神格化しあるいは絶対権力者としての地位や名誉を当然の報酬として受け取った。

レーニン毛沢東スターリン金日成カストロ、有名な共産主義を掲げたリーダーを思い浮かべるだけでも、特別な政治権力を自らに付与した指導者ばかりであり、労働者と全く同等の地位という建前を持っていても、実際には絶対的な権力と軍隊を掌握していたし、質素な庶民的生活水準に甘んじた人物は一人としていない。

そもそも、自らが支配的権力者でない事を役職名の改変によって欺瞞しようとする姿勢が、総書記、書記局長、国家主席といった肩書きを生むきっかけになっている。

共産主義マルクスエンゲルスが夢想した地上の楽園を生むイデオロギーから遠ざかり、既得権益を廃絶して平等な資源の分配を実現するはずの共産党自体が既得権益の集積場となり、新たな身分制を生み出し、階層的な支配構造を固定的なものとした。

マルクスの理想は、政治権力(国民国家)や経済制度(貨幣システム)からの人間の解放と自由の享受であったはずなのに、マルクスの信奉者達が起こした革命は、ソルジェニーツィンが述懐したように地上の楽園ではなく地上の監獄列島を創造したに過ぎなかった。

現在よりも豊かな生活水準をあらゆる人々が隈なく享受できる平等な社会、抑圧と支配のない完全な自由が保障された理想社会を作ろうという思想は、言論・思想・表現の自由がない暗黒の領土、現在の政治体制のイデオロギーに逆らうものを粛清する恐怖の監獄を地上に拡散するという皮肉な結果に至ったのである。

人間の利己的な本性は、一度、獲得した権力や財力をなかなか手放そうとしない事にあり、幾ら既得権益の階級を排除しても、その排除を主導した指導者層とそれを取り巻く周縁のグループが新たな既得権益を貪りあって新しい権力と財力の階層構造を構築してしまう。

また、マルクスの人間解放の思想と貨幣廃絶の思想が見失っていたのは、人間の労働のモチベーションであり、マルクスの夢想した世界では、人間は自分の為ではなく他人の為に働くバカ正直といってもよい善人であり、社会改善の為には自分の権利も利益も無償で奉仕して惜しまない人物なのである。

『能力に応じて社会の為に働き、必要に応じて自己の為に受け取る』という人間観が現実的なものであれば、共産主義思想の実現に可能性の光明が差し込むかもしれないが、現実的な人間の大部分は『能力や成果に応じた報酬を当然のものとして要求し、必要以上に蓄積し独占する』のであって、他人よりも自分と自分の家族幸福や繁栄を願う近しい者への愛の精神は、倫理的にも簡単には否定できないものである。

『私は、利己的な人間ではなく、社会や他人の為に滅私奉公できる人間である』と語る利他主義を根底におく倫理を実践する人物も社会には確かに存在するが、そういった人物が社会の多数派になることは未来永劫望むことが出来ない。

人間も生物の一種である以上、自己保存欲求や利己的な遺伝子が要請してくる遺伝子の保存欲求を完全に否定し切ることは不可能であり、市場経済が浸透した先進国に生きる人間は『自分の経済状況は、自分の行動が招いた自己責任の範疇に収まるものである』という経済に対する自己責任感が非常に強い。

だから、仕事をせずに路上生活をするホームレスに一日の給料の半分を上げようという博愛主義的な人は滅多にいないし、相当にお金に余裕があっても自分の自尊心を満足させる高額消費にお金を使うか、残りは貯金投資に回してしまう。

また、自分の生活水準や経済状況には、自分の行動の選択による自己責任を負うという資本主義の原則を完全に否定して、政治権力が社会に存在する資源を全て回収して平等に分配するようにすると、他人からの寄付や施しによって自分は何もせずに生活をしようとする層が増大するだけでなく、真面目に労働する層が働けば働くだけ損をするという不公正な社会構造が生まれ、結局、誰も働かなくなり経済社会は機能不全に陥るだろう。

現実の国家体制である国民国家の枠組み、現実の経済体制である資本主義市場経済の枠組み、現実の人間観である自己保存欲求(自己の幸福の為に働く欲求)に規定される大部分の人間、これらは近代主義の強靭極まりないフレームワークであって、この枠組みは尋常な社会変動や技術革新では破壊されることはないし、現段階で考え得る最善の政治体制であり経済体制でもある。

『人間は基本的に自分を犠牲にしてまで他人の為に恒常的には働かない』……この厳然たる事実を覆す事はおそらくイデオロギー政治制度では不可能ではないだろうか。

また、現状でこの自己責任にもつながる事実を覆す意味も価値も見出せない。

故に、現代社会において共産主義の理想は必然的に挫折せざるを得ない。また、暴力革命への熱狂は、ニーチェの説く弱者の強者に対する怨恨であるルサンチマン暴力の形態をとって憂さ晴らししているに過ぎないという事になるだろう。

ただ、マルクスの語った経済学の言説に面白いものが一つあり、そこから未来の想像を拡大することが出来ないでもない。

『下部構造(物質的基盤)が上部構造(精神的な形成物)を規定する』

即ち、経済的な生産状況と豊かさとしての下部構造が、法・政治倫理・思想・哲学芸術といった精神の創造物を規定していくという考えである。

そこから展開される夢想とは、遥か遠い将来において人間が自らの身体と頭脳による労働を義務としてではなく娯楽として楽しめるようになる時、つまり、ロボット工学や都市建設技術進歩等により生活の為の労働から人間が切り離される時、労働にまつわる公正感や金銭にまつわる執着心が無意味なものとなり共産主義的な世界が実現できる可能性はあるかもしれない。

しかし、その安楽と倦怠が支配する世界に、現代の私達が希望する豊かさがあるかは分からないし、虚無を超克する生きる意味や価値がその世界に内在しているかも定かではない。

KEN_NAITOKEN_NAITO 2005/04/23 07:07 お久しぶりです.相変わらずのスコーンと胸のすくような文章ですねえ.とっても興味深く読ませていただきました.今後の更新も楽しみにしております.

cosmo_sophycosmo_sophy 2005/04/23 07:41 KEN_NAITOさん、最近すっかりご無沙汰してしまっていますが、久しぶりの更新へのコメントどうもありがとうございます。
日々のニュースや読書、私的な思索の中で文章にしてまとめたい事柄は数多くあるのですが、思考や意見を文章化する時間が十分にとれない日が続くと、ついつい更新を先送りしてしまいます(苦笑)

ブログ自体は今後もスローペースではあっても、継続していきますのでよろしくです。
今回は、日中関係から共産主義と人間心理の話にずれ込みましたが、反日デモに見られたような愛国心を育む歴史教育が他国を攻撃する道具として作用することを悲しく思っています。

国家の学校制度の中で行われる歴史教育は、国民アイデンティティの強化という政治的意図を内包しているものでしょうが、隣国への憎悪や復讐を子々孫々継承していくことは建設的でもなく倫理的でもないように思います。
その意味で、私は日の丸や君が代は嫌いでもないですし、日本の文化や歴史もどちらかといえば好きで誇りにも思っていますが、殺人・暴動・戦争などの肯定につながるような愛国心のあり方(国の名誉や利益の為ならば何をやってもよいという感覚)には大きな疑念を覚えます。

国民国家の枠組みの中で、自己の存在の価値・尊厳を国家に投影してしまう心理が愛国心ですが、他国にも寛容な愛国心を育むには、まず国家とは別の自己の存在を本心から肯定することが必要でしょう。

小さく弱き者は、大きく強き者に、内面の劣等コンプレックスを投射し同一視するというのが精神分析的な防衛機制のあり方ですが、この寄る辺なき世界で自己の存在の基盤を確認する為に、国、民族、宗教といったものに自己の存在意義を投影したくなる心理というものは人類の悠久の歴史に通底するものでしょうし、私もその心理から完全に自由になることはできないとも思いますが。

長々とコメントと無関係な話をしてしまい、失礼しました。
それでは、またです(^^)

たかはしたかはし 2005/04/23 08:52 デモに参加している人達ってどういうレベルなんだろう、テレビ見ていてそう思います。愚という意味での「大衆」なんだろうな、そんな気がしています。そういう人はどこにでもいますよね。子供の頃にそういう教育されてたら尚更でしょうね。

鬱積したエネルギーを日本に向かわせることで、現体制への不満を表面化させないで安定化を図るなんて、なんとも、やはり人間の考えることは、みな同じ、そんな気がします。

理想を考えるのは簡単ですけど、人間とは何か、どういうものか、それを見落とすと、それに対する対応策も同時に考えないと、とんでもないことになりますよね。

KEN_NAITOKEN_NAITO 2005/04/24 19:10 またトラックバックさせていただきました.と言っても,ワタクシは知識量も思考能力もcosmoさんには遠く及ばないので,本当に引用させていただいただけなんですが…本当,いつも勉強になります.

cosmo_sophycosmo_sophy 2005/04/25 00:23 たかはしさん、コメントありがとうございます。

国が学習指導要領という形で学校教育の枠組みを規定する際に、歴史教育の中に『自分の国を愛する精神・自国に対する誇りや尊厳』を盛り込む事そのものは間違いだとは思いませんし、適切なレベルでの愛国心や共同体への帰属意識は社会の治安維持や相互扶助的な繁栄へとつながることもあると思います。
愛国心によって個人の生命や財産を国家に奉仕させたり、敵国を破壊して蹂躙することを正当化するような行き過ぎた愛国教育には、賛成できませんが。

しかし、おっしゃるように、衆愚的な態度で、歴史教育で与えられるままに歴史認識を構築し、群集心理に突き動かされるままに破壊や暴動の行為に及ぶというのは関心しませんね。
一部の報道では、中国の反日デモ自体が、政治的主張の目的というよりもお祭り騒ぎ的なストレス解消の場として企画されたという見方もあるようで、直接的な暴動を起こしていた熱狂的な人たちは大群衆の中の一部に過ぎないのかもしれません。

人間の欲求や要求は、衣食住といった物質的次元で満たされてくると、今度は精神的次元での自由や承認を求めるようになってくるでしょうから、経済だけを自由化して政治体制は閉鎖的に独裁体制を維持するというのは困難でしょうね。

人間の理想と現実の落差は非常に大きなものですが、軍事・警察といった暴力装置を統御する政治体制というような大掛かりな権力システムに、観念的な理想の実現を依拠し過ぎると、その反動は破滅的なものとなることがあります。
人間の本性というか基本的な欲求を踏まえた場合に、市場経済のメカニズム以上に効率的に人々に資源を配分し、公正感や満足感を振り分けるシステムがあるのかと考えると非常に難しいように思います。
理想的な分配だと優秀な天才的個人やエリート集団が綿密な計算をして考えても、その分配を維持しより豊かな社会を構築していく為には、大多数の国民がその分配に納得して、働くモチベーションを高いレベルで維持し続ける必要がありますから、机上の空論と現実社会への適用には大きな壁が立ちはだかっているでしょうね。

それでは。

cosmo_sophycosmo_sophy 2005/04/25 00:33 KEN_NAITOさん、トラックバックをどうもです。
日中関係や日朝関係のニュースは連日のように流れていますが、確かにマスメディアの報道には、人間心理や政治思想、国家アイデンティティの根本を問い直すような内容の報道が少ないようには感じます。

共産主義や社会主義の思想自体がソビエト崩壊後顧みられることがなくなりましたが、それらを現実の政治経済と絡めずに哲学や人間論として再読してみると新たに面白い発見があるようにも思います。

よく日本では、少年犯罪や自然災害、社会問題が報じられる度に、『心の闇』だとか『物質的繁栄を超えて心の豊かさへ』とか『心のケアの重要性』といった曖昧なスローガンだけが掲げられますが、人間の本質や欲望の源泉といったものに踏み込まずに、法規範のレベルで心理的な異常性を解釈し続けることにはあまり意味がないのではないかという感想を持ったりします。
人間の欲望の源泉を遡行する考察において、マルクスの解放思想や近代の国民国家や市場経済の諸特性というのは一つの思考材料として興味深いものだと思います。
少年犯罪や不登校、いじめ、ニートやフリーターの増加現象など、全てが人間の本性的な欲望と抑止を統御する社会システム(学校・企業・市場など)と関わっているというと話が飛躍し過ぎかもしれませんが、いつかゆっくりと考えてみたい問題ではあります。

それでは。

・・・・・・ 2005/04/25 19:44 序盤〜中盤は当たり前すぎてつまらない。中盤以降は妄想的で読むに耐えない。

つーか大した内容じゃないのにわざわざ難解な文章で、しかも回りくどく書く必要ってあるのかな。

zero-alphazero-alpha 2006/05/14 21:46 # っていう方のコメント。最悪ですね。最低限自分自身の内在的な読みのレベルを情報公開すべきなんじゃないのか?

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