抑うつスパイラルによる悪循環からの離脱の為の認知転換


認知療法創始者であるアーロン・ベックが、うつ病の認知の三徴候(cognitive triad)と呼んだのは『自己に対する否定的な認知・世界に対する否定的な認知・将来に対する否定的な認知』でした。
以前(id:cosmo_sophy:20050119)、認知療法の理論による気分障害うつ病等気分の変調を主症状とする病態)の抑うつ感の生起を説明する場合に必要不可欠になってくる図式『外界の事象→認知(思考)→感情・気分→行動』という行動メカニズムを説明して、その原型としてのアルバート・エリスのABC理論を参照しました。

その時には、認知→気分という『一方向の影響』しか示しませんでしたが、認知が感情・気分に影響を与えるのと同様に感情・気分は認知に影響を与えて歪曲したり偏向させたりします。
つまり、『認知→感情・気分と感情・気分→認知の双方向性』を人間の行動メカニズムは有しているということです。

うつ病の状態にある時には、人は、自分に関係する外界の出来事に対する認知(認識・評価・解釈)を、自己否定的かつ自己嫌悪的な方向へと歪曲します。
その為、デビッド・D・バーンズが提示した認知の歪みの一つである『心のフィルター(mind filter)』あるいは『選択的抽象化(selective abstraction)』が生じやすくなって、自分にとっての肯定的な出来事や高い評価を得た経験を想起して注目することが出来なくなります。
恣意的な心のフィルターを介在して認知する為、過去の屈辱的な拒絶や不完全な失敗ばかりを選択的に想起して、自分にとって良くも悪くもない“中立的な出来事”を全て失敗や否定といった悪い方向へと解釈して受け取ってしまうようになります。
自分にとって悪い出来事や自分の価値を引き下げるような思い出ばかりを思い出し、中立的な出来事を歪んだ認知で解釈して受け取ることで、抑うつ気分が生起して、その抑うつ的な気分に合わせた形で認知が歪曲されていきます。
認知と気分の双方向的な影響がどのような結果を生み出しているのか、相互に気分を落ち込ませ、絶望感に陥るような自己否定的な作用を及ぼしあっていないかに注意を向ける必要があります。


抑うつ気分を長期化させ、強化させていく心理メカニズムとして“円環構造を持つうつ病の悪循環”を考える事が出来ます。
アーロン・ベックは、うつ病を発病させる根本的原因として、無意識領域に存在する憂うつ感を引き越しやすい知的枠組みである抑うつスキーマを仮定しました。
抑うつスキーマ』は、正常な気分の状態からうつ病への道筋をつなぎやすくする根源的な前提であり、非適応的な確信として理解することが出来ます。
抑うつスキーマが存在する人は、格段にうつ病発症のリスクが高まりますが、他人から批判されたり低く評価されたりすることを極端に重要なものとして認知し、同時多発的に『自己・世界(状況)・将来に対する一連の自己破滅的な自動思考』が駆動されることとなります。




“円環構造を持つうつ病の悪循環”

抑うつスキーマうつ病発症の根本的原因となる前提・確信)”→“一連の否定的な自動思考”→“憂うつ感・抑うつ感・億劫感といった気分の低減”→“自己否定的に歪曲された認知と自己破滅的に偏向された記憶の再生”→“抑うつスキーマ”→“一連の否定的な自動思考”→……ぐるぐると円環を構築してマイナスのループを描き続ける。

ティーズデイルの提唱した抑うつスパイラル理論も、基本的構造はこれと同じであると考えて良い。

一般的に、抑うつ気分が生じると、意欲が顕著に引き下げられ、活動性が異常に低下し、活動性低下によって生じた空き時間に『答えの出ない憂うつな内容の考え事や絶望的な内容に行き着くしかない心配事』を延々と考え続ける事になります。
その結果として、更なる抑うつ気分が引き起こされて、生き生きとした活動が障害され、自分の意欲の低下を嘆いたり自責感に苛まれたりして、またもや抑うつ的な心配事を思い悩むことに長い時間を費やしてしまい……といった形で抑うつスパイラルを描いてしまう可能性が出てきます。

抑うつのスパイラルから離脱する為には、一日の時間の大半を憂うつ感を感じるような悩み事に費やす行動パターンから脱け出さなければなりませんが、その為には完全に心配や悩みをやめてしまおうとして無理な努力をするのではなく、苦悩に沈む時間を自分で決めた一定の時間帯だけに限定するといった方法が有効なことがあります。

前記した悪循環の要素である“否定的な自動思考”“抑うつ気分”“認知の歪み”のどこかの部分を切断することが出来れば、円環構造は崩れて自己否定的な気分の落ち込みは循環する力を失いますが、一般的に最も改善しやすいのは自動思考から類推される認知の歪みであるとされています。
抑うつ気分そのものを良い方向へ変容させる方法や手段が皆無なわけではないですが、イメージやリラクゼーションを用いて気分を上向きに改善させる為には一定以上の内観的方法に対する適性と訓練が必要となるでしょう。
認知療法では、自動思考を明確にして、そこから歪曲された認知を洞察する為に『DTR(Dysfunctional Thoughts Record:非適応的な思考記録)』と呼ばれる簡単な記録用紙を用いる事もあります。

DTRを使用する最大の目的は、『非適応的な自動思考の自覚と認知の歪みの特定』であり、認知の歪みを修正する合理的かつ妥当な思考や行動を考える事です。
そして、思い切って、合理的な思考を実際の行動に移してみる、つまり、それまで確信していた不合理な自動思考を裏切る行動を意図的にとってみる逆説療法的な試みも効果を期待できます。
こういった逆説療法と呼ばれる『自分が望ましいとは思わない行動や不安や恐怖を感じる行動』を敢えて意図的にやってみる方法というのは、エクスポージャー(暴露)法やフラッディングという行動療法の一環でもあります。

うつ病に見られる認知の歪みを修正するという意味では、特に、完全主義的な態度を打ち破る不完全で適当な行動をとってみることが、悪循環のループ離脱の端緒となることがあります。
『どうせ中途半端にやったって何の意味もないのだから、はじめから何もしないでいるほうがましだ』といったネガティブな思考を頭の中でぐるぐると考え続けるのではなく、まず要求水準を実現不可能なレベルから現実的なものへと引き下げて、完璧を目指さずに、いい加減でいいからまずやってみることが気分を改善する有意義な行動へとつながっていきます。
とりあえず不十分で良いから、出来る事から実際的な行動や社会的な活動に移してみるということが持つ『抑うつ感改善の意義』は計り知れないものがあり、不活発生の促進を抑止して、物事を決断できない苦悩を和らげ、物事を先延ばしにする時間感覚の麻痺から回復を図らせてくれます。

論理的思考や理性的考察というものは、確かに人間精神が持つより有効な結果を得る為の素晴らしい機能ですが、あらゆる角度から瑕疵のない万全な結果や完全な業績を得ようと計画を練り上げてしまうと実際の行動がそれに付いてこない画餅で終わる危険性が高まります。

広大なジャングルの中には無数の宝物や美味な果実が隠されていますが、最高に高価な宝石や美味な果実のみを的確に探し出すことが出来ない以上、自分の手に届く範囲から宝物を集めて、食べやすい場所にある果実から食べていく事が、最も合理的かつ効果的な行動の指針かもしれませんね。