命について思わされたここ最近

 6月9日に彦根市の主催した「人権のつどい」に参加したことと、6月15・16日に神戸で開催されたDPI日本会議の総会と全国集会に参加したことから、命について感じた事や考えた事を書いてみたい。

 まず9日の人権のつどいには、看取りを中心に撮影しているカメラマンの國森康弘さんが講師に招かれ、その写真を見ながらのお話を拝聴した。
 そのお話の中に、出生前に医者から「この子は生まれてもすぐに死ぬかも知れないし、おなかの中で死ぬかも知れない」と言われ、それでも生むことを決意されたご夫婦の話が紹介されたのだが、実際は生まれて10分だったと思うが、生きて死んだという一つの人生だったという。この事実に対し、「たとえ10分という短い命でもこの子は幸せだったと思う」という両親の思いを知り、そうやなぁ〜と心より思った。長く生きた高齢の方の看取りから、生まれてすぐの看取りまで、いろいろな生き方・死にざまがあることを思った。

 そしてDPIの全国集会では、「生命倫理・優生思想」の分科会に出たのだが、その中で話題にされたのが、「尊厳死法制化」の動きが超党派の国会議員の中で広がり、かなりの現実性を持って、国会への法案提出が迫っていることを受けての反尊厳死法の議論と、今世間を騒がせている「出生前診断」の問題を、これも反対の立場から議論だった。

 「尊厳死」は「私はあのような状態では生きていたくない」という意思を残しておけば、緊急のひん死の状態になった時、医者が治療を放棄できるというものである。
 例えば人工呼吸器を付ければ楽に生きられる事が分かっていても助けられない医者も出てくるだろうし、国が法として定めようとする最大のメリットは、「終末期医療」の費用の削減だ。現実に、生まれてすぐに人工呼吸器を付け、徐々に地域生活に戻っていき、今は単身での自立生活をしている平本歩さんは、「この法律ができてしまえば私たちのような人たちは死んでいくしかなくなる」と国家に殺される怖さを主張されていた。

 また、出生前診断は、70年代から色々な方法が開発されてきたが、最近マスコミがにぎやかに取り上げているのが、「新型」というもので、妊婦の血を取り、遺伝子レベルの検査をすればかなりの確率でダウン症が分かってしまい、産まない選択をする人たちが増えてくるという問題である。
 その根底にあるのは「障害者はかわいそう」「障害者の家族は大変だ」という思い込みだ。そして、ダウン症の人たちは「生まれて来なかった方が良かった者」という社会の自分たちへの観方に気付き、傷付いている人たちも多くいるという報告もあった。
 また、出産・育児に「女」に責任を負わせ、障害を持った子が生まれたら、「女」のせいだというように、障害児を生みにくい現実の問題を提起し、「生む」というのも勇気がいるし、「生まない」というのも勇気がいるといった女性差別に関連した問題も出された。

人権のつどいとDPIの分科会とに参加し、看取りのお話と、尊厳死出生前診断の問題とを重ね合わせて考えることが出来たことはとても良かったと思った。

身体や精神も合わせて、命にはいろいろな形があっていいし、命の形を国家が決めるのはやはり問題だと思い、改めて命の尊さを思い、誰もが命のつながりの中で生きられる地域を、社会を築いてゆこうと改めて決意させられたのだった。