淡路島付近の地震

05:33、M6.3、深さ15km、最大震度6弱淡路市)、体感震度4(計測震度4)

揺れ始め数秒で目が覚める。
ものを引きずるようなガガガという感じの揺れから、砂利道を走るようなガタガタ、ガッタンガッタンという具合の揺れ。
コーヒーのこぼれ方は北北西-南南東方向、転げ落ちた小さい置物は東南東方向に1つ、西南西方向に2つ、西方向1つ。
食器棚内、バランスの悪いコーヒーカップの転倒2つ。コップ1つ、開けた拍子に落下して破損。
最大振幅直後?に携帯への緊急地震速報


揺れの間、震源近そう、というのと、棚が倒れるレベルではないかな、というのを思った。
起き上がったぐらいで特に行動は取らず。揺れがほぼ収まってからテレビで情報確認。
震度3以上の揺れは2008/04/17大阪湾震源のM4.1の地震以来。

対立構造の危うさ

ツイッターのトレンドで見かけた記事について
すぎやまこういち 今の日本は「日本軍vs反日軍の内戦状態」|NEWSポストセブン

トレンドが香ばしいと思ったらすぎやま大先生かー。安易に単純化した対立構造つくるのはよくないとおもいます

地方と都市もそうだけど境界はもっと曖昧なはずで、その曖昧な部分に多くの改善の余地があると思う

二極化が進めば改善の余地が縮小していき、集団を破滅へと導く

ちょうど地方と都市について考えてたから蛇足がくっついてるけど。分類するための枠を設けるのは良いと思うものの、対立構造にするのはよくないんじゃないって話で。一つの対立構造でまとめ上げるのはとてもわかり易く、それ故に人気が出るものなんだけどもさ。内部には程度の差や更に細かい様々な項目があり、またそれが刻一刻と変動する。とても複雑でわかりにくいけど、その多様性が意見をより良いものにする切欠だと思う。対立構造を作るとこっち側かあっち側かという2つの項目しか存在しないかのように扱われてしまい、曖昧な意見は話にならんてことで存在しない扱いになり、延々自分達の正しさと相手の誤りを指摘する理屈をこねまわし、溝は深まるばかり、ということになりかねず。
世の中の複雑さは人間の処理能力を軽く超えているはずで、だからこそ単純化した理解を求めてしまうのだろうけど。

集団への依存と日本的個人主義の罠

チューハイ飲んだ影響で漏れだしたツイートの補足

日本社会は主観的判断を根拠とした影響力が大きいと思うものに強く影響される性質がある…というのが日本独自かどうかはともかく、欧米は個人主義でーみたいなこと言うんじゃなくそういう性質を踏まえた上でどう振る舞うか考えたほうが良いのではないかと思うこれ140字に届かなかった

日本において所属コミュニティへの依存は大きくて、依存が大きいが故に個人の意識がコミュニティの空気に寄って行ったり、コミュニティにダメージを与えるような意見が言えなくなり、その結果「〜ムラ」などと言われる、外から見るととんでもないことを平然とやらかす組織が生まれたりするのだけど、これの対抗手段として欧米では個人主義が云々とかいうのはあまり有効とは思えず。というのはざっくり言えば日本は欧米とは文化が違うわけで。安易に隣の青い芝生を羨むのではなく、現状このような状態にあることを認識した上で対抗手段を考えていかにゃならんのじゃないか、という話。

日本的個人主義は自分の把握、理解できるかたちが世界のすべてという方向になりがちで、結果同じような把握ができる人で集まり結局個人主義でなく集団に依存する状態に帰結するという罠がある。このループから脱出する鍵は認識外の世界の存在を許容出来るかどうかにあるのではないか、と思うのであった

認識外の世界の存在を許容するというのはもちろん理解できるかたちに変換して把握するということではなく、理解不能だが存在はするという寛大な態度によって達成されるものである。そしてこれを相対化して再評価するプロセスを繰り返すことが集団の呪縛から抜け出す方法といえるかも知れない

このあたりは山本七平著「比較文化論の試み」「空気の研究」あたりで拾った概念だけども。個人主義的に振舞おうとすれば簡単に崩されない安定した基礎が必要となるものの、日本では行動の規範となるものの根拠が存在はすれどとても不安定*1なので、この基礎を自分の考え・認識こそが絶対であるというもので構築してしまう傾向がある。で、自分の考えにないものは自分が築いた安定した基礎を崩す存在ともなりうるわけなので、これをどうにかして排除しようということになり、排除するためにはそれなりの根拠が必要となり、それを同じ意見を言う他の人達に求めてしまい、結局集団に依存している構図に戻る。他方、同じ意見の他人に依存しない場合は、もはや孤立主義というか社会的動物としての性質が摩滅しているだけともいえる。
集団に依存しがちでその結果、集団が力を持つという社会の状態においてこれを解決する方法は2つのツイートで書いてるように、自分の考えや認識を出来るだけ多くのサンプルを比較することで修正していくという姿勢じゃないかなというあたりで。
ひとりで考えることには限界があり、同じ意見の集団が考えることにもまた限界があり。

*1:多くの人が言っている、そう思っているが根拠だったり

人間が有限であること

ツイッターに寝ぼけながら思いつきでぶっ放したものの補足。

全ての人が様々な方向から要求される膨大な基礎知識を一様に備えることはもはや不可能で結局のところ期待はずれに満ち溢れた世界でやってくしかないのだからせめてひどく不一致な環境を常識の名のもとに強要することのない世の中を構築できるよう進んでいって欲しいものであるとかなんとかいう140字

まあつまるところ人間は物理的存在として縛られているわけで、忘れるし間違えるし怪我するし死ぬし、とまあそういうモノでして。情報化社会が著しく進歩するまでは、人間に無限の可能性*1を感じながらやっていくことができたわけですが、人間が時間的なものも含めて物理的に限界があるという有限性がぼちぼち明白になりつつあるわけで、ここらでいっちょ整理して、無限の可能性を信じて闇雲に前に進むのをやめて、有限なものとして最大限効率的にやっていけるように組み直すことを考えたほうが良いんでない?とかそういう話。
尤も個人において自分が何に向いているのを知るためには幅広い視野を持つ必要もあるというところでもある。学校教育も可能な限り幅広い経験から何かを見つけられるようなものであったほうが良いかもなー


コンピュータが人間を支配ないし対立するってテーマは火の鳥やらターミネーターやらマトリックスやらその他いろいろ何十年も前から言われ続けているモノだけど、そろそろ現実的な課題として考えても良い頃かもねっていう。尤もここまでの人類の流れから考えると、技術によって人間の有限の壁をぶち壊して突き進んでいくんじゃないかと言う気がしないでもないんだけども。あれ。そうだとすれば闇雲に前に進みつつ有限である壁をぶち壊して突破口が開くのを望むってのもアリか。遺伝子操作万歳!


なんの話だっけ

*1:限界をハッキリ射程内に捉え切れないという意味で