ただ一瞬の気持ちの波立ち*[本]

どこから行っても遠い町

どこから行っても遠い町

事件というほどのものでもない、人生の一コマというほどでもない、
ただ一瞬の気持ちの波立ちだったけれど、男の人が死んで
しまったのかもしれない、と思ったあのときのことをあたしは
そのあと何年もたった後にも、ときどき思い出しました。
「ゆるく巻くかたつむりの殻」


川上弘美の連作短編集。
yomyom vol.2で読んだ「四度目の浪花節」がすきですきで、目次を見て
あっ、やった!と思う。
どこかの町で起こった、どんな人にもある生活と思いとその中にある
苦味みたいなものが一つ一つの短編から、全体へと繋がって流れていく。


振り返ってみれば小さな出来事と心の中の事件は、何もなかったかのような
日々の暮らしの中に隠されて、均されていくのだけれど、一瞬の、気持ちの
波立ちは、静かに自分の中に新しい風景や言葉を重ねていく。

好き、っていう言葉は、好き、っていうだけのものじゃないんだって、
俺はあのころ知らなかった。いろんなものが、好き、の中には
あるんだってことを。いろんなもの。憎ったらしい、とか。
可愛い、とか。ちょっと嫌い、とか。怖い、とか。悔しいけど、
とか。そういうの全部ひっくるめて自分の何かを賭けにいっちゃい
たくなる、とか。俺の「好き」は、ただの「好き」だった。
央子さんの「好き」は、たくさんのことが詰まってる「好き」だった。
「四度目の浪花節


15歳違いの二人の15年の間の3度の恋愛。
20の俺、23の俺、27の俺、今35の俺が振り返って、その時々わからなかった
央子さんのことばや気持ちを少しだけわかって、央子さんの嫌いな「浪花節」の
意味もわかって、また追いかけて。でも、永遠にわかれないんだろうな。
かわいらしくていい女の央子さんのルックスは、川上弘美に思えてしょうがない。


これまでの短編や長編の中で見た、死んでしまったもののやさしい語りや怖さが
この小説の中にも小さく見え隠れする。そして私の中になつかしく心地よく、
すこしこわかったり、満たされたりする風景を重ねていってくれる。

芝居の声が私に*[本]

芝居語り 渡辺えり子対話集

芝居語り 渡辺えり子対話集

渡辺えり子対話集「芝居語り」を
大事に大事にちょっとずつ読んで


それぞれの俳優の俳優らしい
受け容れる言葉、少女のような
言葉に感応する。
渡辺えり子も。芝居の好きな
女の子のまま現場で生きている。


書く言葉について思うとき、
ものごとをすっきりといいかたちで伝える言葉を、
気に障ったり、どこかで止まったりしない
すっきりしたゆるやかなタイトな言葉で表現したい
と思う。


役者の言葉は独特だ。
心地よく耳に届く訓練を
受けた音。


いれものとしての自分を
衒わずに表す言葉。


そして肉体的である。


よく思われたい、さらけだしたい
などの手前の欲望をこえて
あるがままに立って表現する、


生きることが演劇、な人々


それが私はとてもすきだったんだ
と気づく。


自分が演じることではなくて


その目撃者でありたい


その助手でありたい


その世界を一緒に
生きたい思いが
あった。


役者ってすごい、尊敬する
そんな言葉ではなく


役者の近くで、溺れ
客観し、決して役者に
なることはなく



その姿をしっかりと
見つめていたかった。

ほねと*[本]

がいこつ

がいこつ

ちょっと絵がかわいすぎるんだけど、谷川俊太郎の詩と
手を組むと詩としてだけ読むより、あったかさを増しているかな?

詩そのものも大好き。

ぼくはしんだらがいこつになりたい
がいこつになってようこちゃんとあそびたい

(中略)

ぼくはようこちゃんにがいこつのきもちをおしえる
いきているときにはわからなかったきもちをおしえる

なんて、恋だなあ。



あがた森魚が歌う「骨」は久住昌之の詩。

ミッキーオの伝説(紙ジャケット仕様)

ミッキーオの伝説(紙ジャケット仕様)

この骨は誰のもの?
ボクの体の中にひそむ白い骨
(中略)
どこのだれに返されるの?白い骨
だから君を抱きしめる こんなに強く
今はぼくの中 白いガイコツ
今はぼくの中 硬い骨


生きてる体の中にあって、死んでしまっても
残っていく。
ぼくのものであって誰かのものみたいな骨。
だから、生きてるときは、ぼくの意思で
君を抱きしめることに働かせる。

ガイコツってそんな二重構造で、さらに生と死を
両方あらわしててどこかユーモラスでかわいい。

もう一人の自分って概念にもってくのは
ちょっと遠いけど、友だちなら近いかな?

あわていきもののうた

あわていきもののうた

ほねをならすと
でんわにでる
ふしぎなともだちが
ぼくにはいる


ねつがでると
やいのやいのと
じぶんから
はなしかけてくるやつだ


(中略)


しぬまでぼくと
いっしょだよと
かってにきめてる
へんちくりんなやつだ


うるさいけれども
おいはらえない
かげよりしつこい
かくれたやつだ


そんな友だち。
子どもの時は誰にもいたんじゃないかな?

若くはないっていうことは*[本]

バカみたいなのはわかってるけどバカみたいに
重ねていく年齢のことを気にしていた時期も過ぎて
やっぱり中身はそのままだと安心し、無用に
というより自ら確信犯的に、ひとの言う無意識の言葉に
傷つけられることもなくなってきた。
一つは非常に女の子じみた外観的な変化、
そして立場・役割的な変化の中でなすべきことから逃れて
いるという思いなどなどの。


キスで作ったネックレス―ウィーツィ・バット ブックス (創元推理文庫)

キスで作ったネックレス―ウィーツィ・バット ブックス (創元推理文庫)

ウィーツィが「わたしのこと、知っているのかしら」ときくと
ヘヴンは「お客さんにそう思わせるのがわたしの仕事よ」と答えた。

ヘブンの悲しみと優しさに満ちた声がうたうバラードは
まるでウィーツィの物語のようだった。

キュートでおしゃれでパンクで愛に満ち溢れたウィーツィの物語シリーズ
最新刊。
ウィーツィも年を重ねて、20年間、はしごのように体をのぼりあったり
キスで地震さえ起こしてきたマイ・シークレット・エージェント・ラヴァーマン
(理想どおりの最愛の人)との間になくなってしまったキスを探して、
スーツケースに荷物をつめて、一人家を出る。

そこで起こる魔法のような出来事や出会った普通じゃない人たち。

相変わらず、ファッションや食べものなんかのPOPなカラーにいろどられた
おとぎ話の世界は、その繊細な感性で現実世界の暗さと取って替わられ
そうな均衡の中できらめいている。いつもこの世界をリードしてきた
ウィーツィの言葉も、とてもリアルに痛みと甘さを感じさせる。
ウィーツィの物語はまた、私と私たちの物語でもある。


そしてあるバンドに起こったメンバー脱退に対するリーダーのこの言葉に
涙が止まらなかった。

もしキミが若者で、この話を読んで「勿体無い」とか「パンチねぇ」とか思うんだったら、
それは間違っている。歳を取ると、若い時には考えもしなかったような思考をするようになるのだ。
誰だってそうなる。これはキミの頭の片隅に置いておいて損は無い。

もう、ハタチそこそこではない、家庭を持った大人が好きなことややりたいことを
続けるために、その人自身が選ばなければいけないことがある。
そしてそれは挫折でも断絶でもない。

年を重ねたから理解できることがあって、それは深い共感とつながりを感じさせてくれる。
若い人たちへのこんな役割・メッセージをさらりとやってくれることに脱帽。


私もそんな風に示してあげられるかな?大人の楽しみを。

仕方がない女の子*[本]

「あしたはうんと遠くへ行こう」角田光代

あしたはうんと遠くへいこう

あしたはうんと遠くへいこう

章ごとのタイトルはTEENAGE FANCLUBなんかの曲名で、
最初の章では高校生の主人公が、好きな男の子にテープを作ってる。
音楽と恋がからまった女の子の15年にわたる恋愛模様を描く小説。


もちろん、疑いや迷いを持たずにいる人なんていないんだけど
やたらと自分という存在のカタチをたしかめたい、いわゆる
トンガッタ女の子には、すごく共感できるお話。


恋する相手に自分の思いを投影して巨大化させたり
恋してなければ自分がないような気がして、
この人違うかも?って思いながらやり過ごしたり
自分を本当に大事にしてくれる人には我が儘ばかりしたり。


同じような経験があるわけでもない、タイプも違うし
自分の輪郭やモヤモヤを小説の中に見出そうなんて若さは
もうない・・・少しはあるけど、この子の、学習しないまま
年を重ねてしまう女の子なあり方の中に、ほんの少しの
自分のかけらを見て、かわいくも情けなく共感する。


そして女の子はまたくりかえす。スタートを。
そこに明るい諦念はあるけど、絶望はない。

ただ私は、どこか遠くにある自分自身の中身を
これからとり戻しにいくような気がしている。
不安や失望や心細さや疑問や、そんなものの合間を
すり抜けて、電車はフルスピードで私を、どこか遠く、
想像すら及ばない場所へとつれていく。

春立つ*[本]

神様 (中公文庫)

神様 (中公文庫)

せつなくてかわいらしくてたまらない小説だった。

「猫屋」という飲み屋を一人でやっているおばあさん、
カナエさんが語ったごく若い頃の話。
雪の多い街に住んでいた頃、夕方にずんずん歩いていたある日
町はずれへの道は途切れることがなく、眠りに入りたくなるような
目眩におそわれたカナエさんは、丘陵をどこまでもどこまでも
滑り落ちて辿りついたのだ。男のいる所に。
どこともしれない場所で、呼ばれるままに男と連れ添いはじめた。
帰ったり、帰らなかったりする男を待って暖炉を温め、食事を作った。
帰ると男はカナエさんを抱きしめたりくるくる丸めた。


淋しいと最初に思ったのは、雪が溶けはじめるころだったか。
男が帰らなくて、淋しい。男が側にいなくて、淋しい。
(中略)
「あんたが好きみたい」カナエさんがある日ためしに言ってみると、男は、
「好きたあ、なんのことだ」と返した。
「好きっていうのは、好くことよ」
「なるほどなるほど」男は言い、カナエさんをまるめに来た。
「好きっていうのは、好かれたいことよ」まるめられながら、カナエさんは続けた。
「なるほどなるほど」男はもう一度言い、さらにカナエさんをまるめた。


これ以上ないくらいまるめられて、わからなくなった時、目眩を感じると
男はいなくなってしまった。男の声が聞こえたと思うとカナエさんは
自分の家の玄関に立っていて、雪は溶け、春の終わりが来ていた。

こうして毎年、雪が降ると男のもとへ行き、帰されることを怖れて、
好きと言葉にしないようにしていても

カナエさんの体じゅうが淋しくなった。身体のうわっつらも中身も、
ぜんぶが淋しくなった。最後まで残っていた淋しくない部分が
淋しいにくるりと裏返ったとき、


「帰ってほしいのです」と叫んだカナエさんはやはり戻される。


男の側にはいるのだが、男に触れることができないのと一緒
それはほんとにさみしいんだけどでも、好きなんだなぁ。
カナエさんは、雪の季節のその存在が。


「神様」はどのお話も不思議な生き物たちと出会って別れて
いくお話。どれもいいけど、このお話は本当にいとおしい。

曖昧だしどんどん形を変えるけど確かにあるもの*[本]

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな  その意味するところは

もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやってほしい。


ってこと。たどたどしい、どこかのなにかの真似事のような動きでも
本人たちにはそれはたった一つの特別な出来事なのだ。

しかし恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ。オレのファンタジーにぴったりな形がある訳ではない。そこにある形に、オレの心が食い込むのだ。


恋なのか、身近な人に優しさを注ぎたいだけなのか、本人にも
わからないまま思いに翻弄されている一人と一人。
二人の人間の思いは結局のところ別物で、いつか通じ合っていたのか
なんてわからない。何を考えて離れるのか、次の恋がいつできるのか
わからない。そしてこんな正直でさみしい言葉を吐く。

会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう


カツラ美容室別室

カツラ美容室別室

「カツラ美容室別室」で描くのはもっと、恋とも友情とも呼べない
ふわふわした心のありよう。

こんなにも人間関係が曖昧であることで、先行きが不安になる。もっとこまめに他人と連絡を取り合わなくては、人間の形としておかしいのではないか?


大人のゆるやかな友情関係は、学生の延長のような馴れなれ
したものよりずっとリアルで

相手の心を覗くことは、相手の心を予想することとは違う。ただひたすら注意深く、全身を耳にして耳を澄ますのだ。答えは出さない。相手の心がわかることはないから。ただ自分たちが平均台の上にいるということを知っておく。理解は不可能で、誤解だけが可能。知らないということを深めたくて、心を覗くのだ。


そんな覚悟を持っている。そして男女の友情は可能か?
という永遠のテーマにもはっきり答える。

男女の間にも友情は湧く。湧かないと思っている人は友情をきれいなものだと思い過ぎている。友情というのは、親密感とやきもちとエロと依存心をミキサーにかけて作るものだ。ドロリとしていて当然だ。恋愛っぽさや、面倒さを乗り越えて、友情は続く。走り出した友情は止まらない。


山崎ナオコーラは曖昧な人間関係、曖昧な恋愛感情の
持つ真実味を描くのがうまい。するすると手ごたえなく
読めてしまうので見過ごしそうだけど、本当は丁寧に、
流れてしまいそうな一瞬の思いや、移り変わる関係性を
丁寧に掬い上げて、言葉にしてくれる。
男性性、女性性のゆるやかさも心地よい。