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よこばい美術史研究 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-05-24

4点の「生まれ変わった」福沢作品について

 五月の連休が過ぎたと思ったら、冷え込んだり暑くなったり忙しい日本列島。私の生まれた北海道北見市では、五月半ばだというのに雪が降ったとか。

 気温の乱高下が続きます。皆様、どうぞお身体たいせつに。

 さて本日は、表題のとおり、この春「生まれ変わっ」て公開された福沢一郎の作品4点について、書いてみたいと思います。。

これらはいずれも、未発見だったり状態が悪かったりで、しばらく多くの人の目に触れることのなかった作品です。当然のことながら、福沢一郎の制作を知るうえではどれも貴重なものばかりです。

 まずは、「福沢一郎の『ニッポン』」(福沢一郎記念館(世田谷)、4月13日〜6月1日) で展示中の2点について。

(1)《第不詳(人ならば浮き名や立たむさ夜ふけて我た枕に通ふ梅ヶ香)》 1931年

 前回の記事でも画像でご紹介した、昭和初期の貴重な作例です(右図)

 f:id:crawl-sideward:20120524194322j:image:right一昨年、私がご遺族のところで最初に拝見したときは、決定的なダメージはなかったものの、木枠から外され巻かれていたこともあって、あちこちの絵の具が剥落した状態でした。その後富岡市に寄贈され、昨年秋に修復研究所21にて修復がおこなわれて、欠損・剥落箇所が充填・補彩されて展示に耐えうる姿となりました。

 丹前を持ち上げて寝床から起き上がる着物姿の女性。女性の視線の先にあるのは、開け放たれた障子の向こうの庭にちらほらと咲く、梅か桜かと思われる花。そしてその後ろで奇妙なポーズをとる甲冑姿の武者。その姿は、まるで舞台照明でも当たっているかのように、明暗がくっきり分かれています。ポーズといい描かれた位置といい、武者の異様さが際だちます。恐らくは絵本の図版などを切り貼りして作られたイメージを描いたものと思われますが、さて、どんな題名の作品なのだろう…と思いきや、残念ながら、この作品には裏書もなければ出品票もない。そして制作当時の雑誌図版なども今の処確認されていないので、題名が判りません。

f:id:crawl-sideward:20120524194323j:image:right では、この作品が描かれた頃の他の作例をみてみましょう。福沢はこの頃、日本の風物や人物の図版を組み合わせた作品を幾つも制作・発表しています。現存が確認されているのは群馬県立近代美術館所蔵の《定めなき世に定めなき小夜衣明日は誰が身の妻ならぬかは》(右図)のみですが、それと本作品は、赤茶をベースとした渋めの色調や、描かれるモティーフなどがよく似ています。また大きさもほぼ同じで、展覧会出品作となり得る程度(100号≒130×162cm程度)なので、とりあえず《定めなき〜》が出品された第二回独立美術協会展(1932年3月)の展覧会目録の中から、本作品と合致しそうなものを探してみると…。

 ありました。《人ならば浮き名や立たむさ夜ふけて我た枕に通ふ梅ヶ香》です。障子の向こうに咲く花が梅だとすれば、なかなかこの作品に合うような気がするのですが…いかがでしょう。いずれにせよ、現段階では断定するには至らないので、さらに調査が必要かと思われます。

 ちなみに「人ならば〜」という歌は、薗文子姫がかの菅原道真を懐妊した時に詠んだ歌という説がありますが、一方、新納忠元という戦国武将の小間使の女が詠んだという話が、薄田泣菫の「茶話」に出てきます(1)。また、「浮き名を立てる(流す)」とは山東京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』などの黄表紙にもあるような遊び人のステータスでもあったことから、他にもルーツが考えられそうです。このように題名から追っていくことで、本作品のイメージの源泉に辿り着けるやもしれません。

 まずは、江戸時代の錦絵や黄表紙・洒落本の類の挿絵からあたってみることにいたします。しばらく時間がかかりそうですが…。


(2)《海》 1942年頃

 こちらも前回の記事で少し触れました。作品画像は記念館ホームページの会場風景(やや見にくいですが)をご参照ください↓

 福沢一郎記念館 福沢一郎の「ニッポン」会場風景

 これは福沢と同郷の実業家・政治家が所蔵していた作品です。(1)と同様、一昨年富岡市に寄贈されました。寄贈にあたって富岡市立美術博物館・福沢一郎記念館がおこなった調査の際、作品の表面にはあちこちに塩の結晶のような白いものが多数浮いていたとのこと。何故かといえば、これは熱海のとある旅館に飾られていたことがあり、台風などで大波が押し寄せた際に海水をかぶった(!)ことが原因だそうです。戦後間もない頃その旅館に宿泊したことがあるという福沢一郎のご子息一也氏によれば、その旅館は海岸沿いの道路に面しており、それほど高い場所にあったわけでもないので、もし道路を越えるような大波があれば旅館まで水が入ってきたでしょう、とのこと。

 波頭が砕け、大きく波が盛り上がる海の風景は、ぼんやりと明るい空の色から、明け方か夕暮れのどちらかを描いたものと思われます。落ち着いた色調のせいか、私などは荒々しさよりも、かえって静かな印象を受けます。福沢はこうした海景や、《マレー沖海戦》(福富太郎コレクション)などの海戦の様子を、1942(昭和17)年に多数制作しています。描き方や使用された絵具の色合いから、この絵も同時期の制作と判断して差し支えないと思われます。

 1942 年といえば、福沢一郎が治安維持法違反の疑いで逮捕・拘禁された翌年です。嫌疑が晴れて(しかし監視や検閲は続きましたが)出所した福沢は、自らが中心となって立ち上げた美術文化協会の会員たちに「シュールぢみた絵画は絶対に止める。出たら質がよくても撤去する」と述べたそうで(2)、じっさい福沢の制作も、それまでのコラージュ的用法や不可思議な風景表現などから離れ、以前に比較してめっきり大人しくなった筆使いと、奥行きを重視したパノラマ的な構図を主に用いるようになります。こうした傾向は終戦直後まで続き、福沢の画業のなかでは最も異質なものとなっていると、私などは思います。展覧会のパネルで私は「本作品の中で荒々しくうねる波は、当時の日本が飲み込まれてゆく戦時の社会状況、あるいはその中でもがく画家自身の葛藤を示しているのかもしれません」と書きました。付け加えるなら、これは常に批判的精神をもちつつも、若い画家達に対する重い責任を感じていた福沢の、この時期におけるせいいっぱいの「主張・抵抗」だったのではないかと思うのです。

 ちなみにこの作品は、直接福沢から旧所蔵者に売却されたそうで、その代金は「パリか何処かへ行くための旅費」になったと伝えられています。ご子息一也氏の記憶や、推定される制作年代からして、この「パリか何処かへ行く」というのは、1952(昭和27)年に文化自由委員会主催の「20世紀芸術展」に日本代表のひとりとして参加するため渡欧したことと思われます。福沢の渡欧が決まったのはこの年の1〜2月頃だと思われるので、それから作品を売るなどして資金を確保したのでしょう。そして彼が羽田空港からパリに向けて出発したのは5月14日のことですが、じつはその前、3月から4月にかけてに神奈川県立近代美術館鎌倉)にて開催された「福沢一郎・海老原喜之助展」に、この《海》が出品されている可能性があります(旧所蔵者ご遺族の談、及び展覧会目録への書き込みによる)。そのいきさつは定かではありませんが、福沢自身この作品を気に入っていたのかもしれません。


 続いては、群馬県立近代美術館常設展示にて公開中の2点について。これらはいずれも伊勢崎市が所蔵していたのですが、市議会の議決を経て2009(平成21)年に同館に寄贈されました。群馬県HP報道資料から作品の画像が確認出来ます → こちら

(3)かちどき 1959年

(4)地痕 1959年

 同じ年に制作されたもので、両方とも非常に大きな(193.9×259.1cm)作品です。いずれも画面に石膏やその他イロイロなもの(材質は目視だけではよくわかりませんでした…)を盛り上げたり貼り付けたりして、立体的かつ即物的な効果を狙っているようです。《かちどき》は人体と思しきかたちがあらわれていますが、《地痕》は全く具体的なかたちを伴っていません。

 1959年当時、福沢はこれらの作品にみられるような、立体的・即物的な表現を多く用いて制作しています。その具体的なきっかけのひとつは、前年の欧州旅行の際に見た、古びた壁やガラスのペンキなどにあらわれた「偶然と作為の交錯が織り成すアンフォルメル的崩壊感覚」に触発されたため(3)と思われます。もちろん、当時日本を席巻していた芸術運動「アンフォルメル」にも大いに刺激を受けたことでしょう。

 そしてこの2点は、同年11月に開催された個展(10〜15日、渋谷東横)に出品されたものと思われます。うち《かちどき》については、展覧会場風景らしき写真や、個展に際して作られたと思われる絵葉書があるので、出品されたことはほぼ間違い無いと思うのですが、《地痕》は「地痕シリーズ」云々と展覧会評にあるものの、当該作品が出品作であるかはまだはっきりしません。

f:id:crawl-sideward:20120524194324j:image:right ここで当時の《かちどき》の作品図版をみると絵葉書、右図)、現在の作品と比べて、ずいぶんと明暗の濃淡が違うことに気付きます。特に画面の周縁部はもっと明るい色だったのではないでしょうか。ここで伊勢崎市への寄贈後に出品された『文化勲章受章記念 福沢一郎展』(群馬県立近代美術館 1992年)所載のモノクロの掲載図版をみると、現在の作品画像と同じように全体的に暗いものです。これは、伊勢崎市への寄贈よりも前に、画家自身によって作品の改変が行われていたことを示すものと思われます。

 福沢に限らず、以前描いた作品を画家が後になって改変することは珍しくありませんが、改変が大きければ大きいほど、展覧会評など当時の世間の反応と作品じたいが乖離してしまうので、当時の図版がいっそう大事になってきます。その意味で、《かちどき》の発表当時の図版が残っていたのはとても有難いことです。

 逆に《地痕》は画面の剥落が激しいうえに制作・発表当時の図版がまだ発見されておらず、当時のすがたをまだ知ることは出来ていません。画面下辺に連続して並ぶ楕円形の剥落痕などが、当時どうなっていたのかが非常に興味深いのですが…。いや、他の小品には絵の具のひび割れと思しき痕を積極的に画面に取り入れているようなものもあるので、ひょっとすると発表当時からこうした剥落の大きな姿だったのか…。いずれも推測・憶測の域を出ませんが、頭の隅に留めておきたいと思います。

 この大作2点は、6月17日(日)まで展示予定。ご興味のあるかたはぜひ、群馬県立近代美術館へ。また同館では6月10日(日)まで「平川典俊展 木漏れ日の向こうに」を開催中。こちらも必見。

 →群馬県立近代美術館ホームページ

 

  *  *  *  *  *

 こうして少しずつ作品のトピックを書き留めておかないと、私自身忘れてしまいそうで怖いです(汗)。今後も地道に、こうした話題を記事にしていきたいと思います。

1 薄田泣菫「腸から歌」〈茶話〉大阪毎日新聞 1916(大正5)年7月6日夕刊 (谷沢永一・浦西和彦編『完本 茶話』(上)より引用)

2 弘中智子編「吉井忠の日記(1936-1945)」より 『池袋モンパルナス』展図録 板橋区立美術館 2011年 p.133

3 福沢一郎「カメラで描いた絵」『芸術新潮』第10巻第5号 1959年5月 pp.104-109

2012-04-04

《題不詳》1931年

4月のお知らせいろいろ

 昨日(4月3日)は猛烈な春の嵐。全国各地で被害が相次ぎました。

 新生活が始まった途端にこの手荒い歓迎。新入生、新入社員の皆さんはいろいろ慣れていなくて大変だったことでしょう…。

 自分が社会人になった春はどんなだっただろう、と、ふと思い出してみましたが、あまりハッキリとした記憶が残っておりません(汗

 ただ、その後のアレヤコレヤは憶えております。若気の至りとはいえ、ああ怖ろしい。

 …そんなことよりも、春のお知らせを3つばかり。


(1)展覧会「福沢一郎の『ニッポン』」福沢一郎記念館(世田谷

 今年は福沢一郎の没後20年にあたります。その記念展第一弾として行われるこの展覧会は、「ニッポン」がテーマです。

 福沢の画業全体を眺めてみると、若い頃フランスに渡って前衛芸術の感化を受けたり、中南米アメリカギリシャなどを旅して作品のテーマやモティーフを得るなど、おいて凡そ「日本的」なるものは深い意味を持たないように思われます。しかしある時期に限って、日本特有のテーマやモティーフを登場させることがありました。それが彼の制作にとってどんな意味を持つものなのかを考えるというのが、今回の展示の主な目的です。

 展示の目玉はなんといっても、一昨年に相次いで発見され、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館に寄贈され修復された2点の作品です。1点めは題名が不明ですが、「-31」の年記があることと、絵の具の状態や描かれたモティーフなどから判断して、1931年に描かれたもので、さらにモティーフの検討から第2回独立美術協会展(1932年)出品作の《人ならば浮き名や立たむさ夜ふけて我た枕に通ふ梅ヶ香》ではないかと思われます。この時期の同じ傾向を持つ作品は、群馬県立近代美術館所蔵の《定めなき世に定めなき小夜衣明日は誰が身の妻ならぬかは》(1931年)しか現存が確認されておらず、非常に貴重な作品です。

 もう1点は、波頭がはじける海原を描いたもので、1942年の海の連作、また《マレー沖海戦》(1942年、福富太郎コレクション)などと作風が似ていることから、同年の制作と推定されます。旧所蔵者は福沢と同じ群馬県甘楽郡富岡町(現在の富岡市)の出身で、熱海で営んでいた旅館にこの作品を飾っていたといいます。また、旧所蔵者の記憶と、「福沢一郎・海老原喜之助展」(1952年神奈川県立近代美術館)の作品リスト(同館美術図書室所蔵)にある書き込みから、同展に出品された可能性があり、福沢自身この作品を気に入っていたことを思わせます。

 前者は帰国後、日本でシュルレアリスム絵画の諧謔性と反骨の精神を存分に発揮せんと意欲的に挑んだものであり、後者は治安維持法違反の嫌疑により逮捕・拘禁された後国策に従い黙々と制作していた時期のもの。画家のモチベーションとしては真逆ではないかと思われますが、ともかく、当時の「ニッポン」に福沢がなにを見たかを知るうえではどちらも大変重要な作品といえるでしょう。

 全部で10点ほどのこぢんまりとした展示ですが、作品解説のパネルとあわせてご覧いただければ、叙情に流れることなく鋭い目をもって「ニッポン」を見つめ続けた福沢の視線と制作の意図が垣間見えてくるのではないかと思います。この機会に、ぜひご覧ください。


(2)福沢一郎記念館ホームページ、リニューアル

 この春の展覧会開催にあわせて、記念館のホームページをリニューアルしました。今までもホームページのお手伝いをさせていただいたのですが、今後は全面的に担当させていただくことになります。

 WordPress.com というブログサービスを使っての試み。ただ単に展覧会のご案内だけではなく、作品集や関連文献などについても充実させ、また展覧会やイベントのレポートなども掲載していけたらと思っております。新しいアドレスは以下のとおり。

 http://fukuzmm.wordpress.com/

 ぜひご覧いただければと思います。またご指導ご助言もお待ちしております(汗


(3)退職いたしました。

 すでにお葉書やメールにてお知らせ申し上げた方もいらっしゃいますが、改めてこちらでもお知らせをば。

 この3月をもって、群馬県館林美術館を退職いたしました。2001年の4月以来、実質8年ほど勤務をさせていただいて、その後は病気療養しておりました。ツライ治療にも耐えてリハビリも続けてきましたが、快復に至らず、職場復帰が叶わぬまま職を辞することになり、職場の仲間はじめお世話になった皆様方には大変申し訳なく思っております。

 脳と神経の病気なので、身体はそれなりに元気なのですが、頭痛やら神経痛やらで外出するのがなかなかしんどい状態です。それでも、家で文章を書いたりパソコンを使った仕事を少しずつ、なんとか続けていこうと思っております。

 そして、この春からは世田谷の福沢一郎記念館の展覧会やイベントのお仕事、また先に申し上げたホームページのお仕事などを、お手伝いさせていただくことになりました。甚だ頼りないことで恐縮ですが、今後も勉強を続けながら、画家福沢一郎に興味を持っていただける皆様のお役に立てるよう、精進してまいります。

 このブログも、もう少し更新頻度を上げられるように…はい、努力いたします。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 以上、お知らせでした。

2011-12-16

crawl-sideward2011-12-16

「池袋モンパルナス展」

早いものでもう師走。今年も無為に過ごしてしまいましたが、未だ病状はよこばい状態。もう少し粘ってみようと思いますが…さて。

本日の話題はこちら。

■「池袋モンパルナス展」(2011年11月19日-12年1月9日 板橋区立美術館

一昨年の「新人画会」展、そして昨年の「福沢一郎絵画研究所展」に引き続き、日本近代の前衛絵画の動向をさぐる「20世紀検証シリーズ」第三回として、「池袋モンパルナス展」が、板橋区立美術館で開催されています。

1985年の「東京モンパルナスとシュールレアリスム」以来、何度もこの時代、この地域の若き芸術家達を追う展覧会を開いてきた同館。このテーマを扱うなら必須の小熊秀雄長谷川利行靉光といった作家はもちろんのこと、小川原脩、佐田勝、浜松小源太、大塚睦などの美術文化協会所属作家の展示が、コレクションの強みを活かした同館ならではの成果といえましょう。また、アトリエの間取りを再現したコーナーがあったり、戦時中の美統から配られた絵具配給票(!)なども展示されていたり、作品とあいまって、画家達の生活感・空気感まで感じられる内容です。

私がおじゃましたのは日曜の午前中。すでに二階のロビーでは関連ビデオに熱心に見入る方々の姿が。そして年配の方だけでなく、私よりも若い世代の方々が多く来館されていたのは少々驚きでした。美術だけでなく、演劇や文学からのアプローチで「池袋モンパルナス」に辿り着いた方が多いそうで、何事もさっぱりと片付ける現代の風潮にはない人間的な魅力を、若い世代の人々はかの住人達に求めているのかも知れません。

展示本体もじゅうぶんに楽しめるものですが、カタログにも注目。今回は池袋モンパルナスの住人であった画家吉井忠の1938-45年の日記が掲載されています(展示会場にも一部抜粋がパネル展示されています)。彼を取り巻く状況が独立美術協会から美術文化協会へ、そして戦時下の活動へと変わってゆくさまは、その時代に興味を持ち続ける人間としては、実にリアルに響いてきます。

この日記中に登場する人物のなかで、私が直にお話を伺うことが出来たのは、古沢岩美と鷹山宇一の二人だけですが、彼らのことばを聞いていただけに、日記の中の出来事がより鮮明に想像出来ました。そしてなんといっても「福沢一郎」は、登場人物のなかで四番目に多く195回(よく数えましたね!)現れるそうで、大抵何かの相談のために「福沢氏訪ねる」ことが多かったようす。ときに「福沢さん」「先生」と呼んで信頼感を表したり、「大将」などと呼んで揶揄したり、「福沢は通俗的だ」と絵を批判したりと、若い画家が大先輩に向ける複雑な心情・まなざしも見て取れます。

ざっと拝見して、やはり吉井忠の記述は正確かつ誇張が少ないので、福沢の年譜の改編にも大いに参照させていただこうと思います。今までは不確かだったところも、こうして典拠を明らかにしつつ補充できそうです。ありがたいことです。改めて、労を厭わず書き起こしをなさった学芸員の弘中智子さんに感謝。

展覧会は年明けまで開催。今までとはひと味違った「池袋モンパルナス」を感じるには良い機会となるはず。ご興味がおありの方は、是非おでかけを。

2011-11-08

デコラの《雪男》について

f:id:crawl-sideward:20111108170611j:image:w240:left今回は、現在世田谷の福沢一郎記念館にて開催中の展覧会「福沢一郎は《何を》《如何に》描いたか」に展示中の作品《雪男》(左図/1959年 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵)に関する新たなトピックを、備忘録がわりに書いてみたいと思います。

先日、福沢一郎記念館からお電話をいただきました。《雪男》の制作に関わったという方が来館され、福沢一郎の長男ご夫妻がお話を伺い、私にも話を聞いてもらいたいとのことでした。早速お電話を代わっていただき、詳しいお話を伺うことができました。

その方は、和紙を使った造形で活躍中の作家、齋藤一郎さん。多摩美術大学の卒業生で、卒業後、1960年から63年頃まで、「アルモニー工房」という工房で「デコラ(高圧メラミン化粧板)」という素材を使った壁画の制作に携わっていたそうなのです。

「アルモニー工房」は、加藤清という、工業機器の輸入で財を成した人物が開設した芸術工房で、当時開発されたばかりの「デコラ」を使った壁画の制作を模索していました。その過程で、原画の制作を依頼できる画家を紹介して欲しいと、美術評論家の瀬木慎一さんを尋ねたところ、何人かの画家を紹介され、その中に福沢一郎の名前がありました。

新しい工業製品という「現代性」のある素材を使うことに、福沢は強い興味と意義を覚え、原画制作を快く引き受けたそうです。



f:id:crawl-sideward:20111108170839j:image:w240:leftただ、いきなり巨大な壁画を制作する需要もなければ、技術的な問題も検証されたわけではありませんでした。そこで、福沢の近作《雪男》(左図/『造形』第53号 p.36より)をもとに、試作品を作ることとなりました。それが、現在記念館で展示中の《雪男》というわけです。

齋藤さんの記憶によれば、福沢一郎は、もとの《雪男》、つまり原画に忠実であることにはあまりこだわらなかったといい、下手に原画に従うよりも、それを再構成した新たな作品がよければ問題はない、と述べていたそうです。

デコラの《雪男》は、次のような手順で制作されました。

(1)原画《雪男》の白黒写真を撮影し、それをもとにモノクロの濃淡を幾つかの階調に分け、パズルのようなパーツに分解した原図と型紙を作ります。

(2)原画から抽出したモノクロの濃淡を表現するために必要なデコラを、数ある製品の中から選びます(後に工房でデコラを自作したこともあったとか)。

(3)型紙に合わせてデコラ板をカットし、支持体となるベニヤに、原図どおりに貼り付けます。

(4)目地の部分を白セメントで埋めます。

この試作品の出来映えに、福沢はたいそう満足し、改めて壁画の制作に意欲を持った、ということです。


f:id:crawl-sideward:20111108172443j:image:right

同工房にて同様の技法で制作された壁画としては、以前の記事(2009年6月14日) でも取り上げた横浜美学園(現英和学院)本館と、上智大学学生食堂のものが挙げられます。

前者は純粋な抽象形態による、福沢一郎の作品としては非常に珍しい図柄ですが(右図)、これについて福沢は、制作の際「女学生が通う学校に、女学生の一生とか何とか物語を描くのはつまらん」と語り、それならばいっそ純粋に装飾的なものにしてしまえと、当時手許にあったフランスの雑誌(詳細は不明)を見ながら、「こんなかんじで」と、イメージを決めていったそうです。

また後者は、太い描線による顔の絵が、原画として制作されました。ただ、福沢が描いた原画は縦長だったのに対し、設置する壁画のオーダーは横長だったのです。福沢は何のためらいもなく、自分の原画をエイヤッと横に90度倒し、プロポーションを調整するだけで、原画として使うことを決めてしまったといいます。

福沢曰く「壁画は絵画というより装飾の領域にあるものだ。だから何が描いてあるとかいうことは関係ない。装飾として面白くあればいい。人の顔だって、横にしてみたら結構面白いじゃないか」。

このことばを聞いてはたと思い出すのは、東京駅の丸ノ内口、横須賀総武快速線へと下ってゆく階段の上に掲げられているステンドグラス《天地創造》(1972年)です。あの巨大な作品も《埋葬》(1958年東京国立近代美術館蔵)を時計回りに90度回転させた図が原画として使われたと、ステンドグラス作家の大伴二三弥氏から伺ったことがあります。自分の作品からも、予期せぬ偶発的効果を引き出してしまうところは、福沢一郎が一貫して持ち続けた反逆精神の為せる業、といってもいいかもしれません。

工房での作業が終了したあと、じっくりと時間をかけて壁画にサインを入れる福沢の姿を、齋藤さんは鮮明に憶えている、とおっしゃっていました。

「アルモニー工房」は、福沢一郎の壁画制作以後ほどなくして、短い活動を終えてしまったそうです。ですから、デコラによる壁画もまた、おそらくは福沢一郎の二作品しか、この世に存在しないのでしょう。そう考えてみると、デコラの《雪男》はたいへん貴重な作例です。

そして、制作年についても再考を要すると思われます。現在表示されている「1959年」は疑いなく原画の制作年であり、デコラの作品はその後、少なくとも「アルモニー工房」の活動に福沢が関わって以降の制作となります。そして、齋藤さんの記憶によれば《雪男》は成美学園の作品を作る以前の試作品だったのですから、当然壁画が制作された1961年よりも前に位置づけられなければいけません。工房の活動時期が詳細に判明しているわけではないので、正確を期するなら1959-60年頃とするのが妥当でしょうか。

こうして少しずつ事実が明らかになってゆくのも、記念館で展示活動を継続されているからこそです。改めて、地道に活動を積み重ねることの大切さを、感じずにはいられませんでした。

この記事を書くにあたり、電話でたくさんのお話をお聞かせくださり、記事を公開することを承諾してくださった齋藤一郎さんと、福沢一郎記念館の皆様に、感謝申し上げます。ありがとうございます。

なお、齋藤一郎さんは、今月5日までオランダ画廊で個展を開催されていました。因州和紙を素材とした作品のイメージは、画廊のホームページでごらんになれます。ご興味のあるかたは、ぜひご覧ください

 → 紙の向こうに - Beyond the PaperBergarde Galleries



そして、福沢一郎記念館での展示「福沢一郎は《何を》《如何に》描いたか」は、来月2日まで開催されています。ぜひおでかけを。

 → 福沢一郎は《何を》《如何に》描いたか(福沢一郎記念館/東京都世田谷区

2011-10-22

展覧会「福沢一郎は《何を》《如何に》描いたか」

前回の記事アップから4ヶ月。どうせ自宅療養の身なのだから、も少し頻繁に更新できてもよさそうなものですが、どうもぼんやりとしてしまい、文字を打つ手がなかなか動きません。

(1)展覧会「福沢一郎は《何を》《如何に》描いたか」

世田谷の福沢一郎記念館で、10月14日(金)から12月2日(金)まで、上記タイトルの展覧会が開催されています。

《如何に》といっても、技法をこと細かに解剖するほど小難しいものではなく、時代ごとに現れた福沢一郎の「描き方」をおおまかに知ることのできる展覧会です。福沢の絵画については、《何を》の部分には幾度となく焦点があてられてきましたが、《如何に》の部分はさほど取り上げられていないのです(はい、これは私の課題そのものでもあるのです)。

最も「描き方」のバリエーションが多くあらわれたのは、1950年代末から60年代初頭にかけてです。50年代後半、日本ではいわゆる「アンフォルメル旋風」が吹き荒れ、猫も杓子も、洋画家も日本画家もアンフォルメルに触発された表現ー不定形のイメージを用いたり、絵の具を盛り上げて質感を前面に押し出したり、絵の具でない材料を貼り付けて即物的な効果を狙ったりーをさかんに取り入れました。福沢もこの時期、石膏や砂、板や紙箱などを使って立体的な画面を作り上げるほか、まるで象嵌細工のようなきわめて平面的な作品も制作しています。アンフォルメルの影響は大きかったと思われますが、それ以外にも、ヴェネツィアビエンナーレの副代表として赴いたヨーロッパでの体験や、壁画制作の依頼など、いろいろな要因が彼に多種多様な「描き方」を試させたのだと思われます。今回はこの時期の作品も数点展示されるとのこと。私ももう少し動けるようになったら、出かけてみたいと思っております。


(2)Evernote その後

今年一月の記事 で、汎用メモのストレージサービス Evernote のことを書きました。その後ちまちまと使ってみた感想などを書いてみます。

やはり、非常に便利です、Evernote。特にWebでの拾い物をさっさと作品データに貼り付けてしまえるのは有難い限り。フォールドに縛られない検索機能もとても快適です。私のように、古いデータをのそのそ整理している身としては、ドラッグ&ドロップだけでデータ作りがほぼ完了してしまうという手軽さは大きな魅力です。サムネイル状に表示される作品の画像をみれば、参照したい作品がすぐに判りますし、動作がさくさく素早いのもうれしい限り。そしてなんといっても、携帯端末(私はiPod Touch+WiFi)での参照と編集が可能なので、出かけた先でちょいとデータを手直ししたり追加したり。忘れっぽい私にとってこれ以上のメリットはありません。

ただ、あくまで簡易ノートの蓄積なので、いざ使うとなればそれなりの工夫が必要です。データベースソフトのように制作年や技法などのフィールド項目で並び替え、なんていうことはできませんので、自分の頭に作品データ全体のおおまかな傾向や重要ポイントが入っていないと、蓄積が大きくなればなるほど、使い勝手は悪くなってゆきそうです。

それから、サムネイル画像に、ノートに貼り付けられている画像のうち最もサイズの大きなものが使われるという仕様なので、作品画像より大きなサイズのメモや文献の画像をクリップしてしまうと、それがサムネイルとして表示されてしまいます。

f:id:crawl-sideward:20111022162222j:image

(画像は《男(黄土に住む人)》のノート。左側の一覧に表示されたサムネイル画像(灰色の部分)は、作品画像ではなく、クリップした文献の画像になってしまっています)


こうした短所をふまえると、私のような作家研究をする者にとっては使えるかもしれないけれど、総論を書くためのデータベースとして使ったり、あるいは不特定多数の利用者に供するのは、相当な工夫をしないと難しいかもしれません。やはりなにごとも、全てうまくはいかないものです。

とはいえ、私にとっては非常に便利で快適なこのサービス。自分のために、そしていつか使ってくださる誰かさんのために!ちまちまとデータを積み重ねてゆくのに、おおいに活用したいと思います。