2011-04-09
花曇りのなか三題
今日は、3つの話題について書こうと思います。
相変わらず地震の続く日本列島。原発事故の余波もあって、美術館業界も戦々兢々としております。
海外から作品を借りて行う展覧会が中止・開催見合わせなどの措置に追い込まれているようすは、報道でご存知の方も多いことでしょう。私が知っているのは以下のとおり。
(1)「プーシキン美術館展 フランス絵画300年」(横浜美術館、2011年4月2日〜6月26日)中止
(2)「印象派の誕生」展(広島県立美術館、2011年4月5日〜5月29日)中止
(3)「モーリス・ドニ」展(山梨県立美術館、2011年4月16日〜6月12日)中止
(4)ジョルジョ・モランディ展(豊田市美術館、2011年4月9日〜5月29日/鳥取県立博物館、 2011年6月5日〜?)豊田は中止と発表、鳥取は当面延期
(5)特別展 ホノルル美術館所蔵『北斎展』葛飾北斎生誕250周年記念(三井記念美術館、4月16日〜6月19日)中止
(6)「写楽」展(東京国立博物館、2011年4月5日〜5月15日)開催日と展示内容の変更
(7)KORIN展(根津美術館、4月16日〜5月15日)延期とそれに伴う展示内容の変更
これらは貸出側の政府機関が美術品の安全を懸念して、当面の間日本への作品貸出を見合わせるよう指示したこと、また保険会社が作品にかける保険を拒否したり、クーリエの渡航許可がおりないなど、さまざまな要因によります。大地震に原発事故とくれば、こうした判断は致し方ないと思わざるを得ません。
また、目黒区美術館にて開催予定だった「原爆を視る 1945−1970」展も、運営母体である目黒区芸術文化振興財団の理事会が「展覧会の趣旨は震災と無関係だが、イメージ的には原発事故などと重なる部分もあり、この時期にはふさわしくない」と判断(毎日jp/3月25日)したため、中止となりました。非常に興味深い展覧会と期待していただけに、中止は極めて残念です。
この余波はいつまで続くものか。列島の復興と同じく、今後の文化活動についても、我々はいろいろ考え直さざるを得ないでしょう。集客を見込んで招来しようとした作品が使えない、つまりは集客が見込めなくなったということなのですから、経営的には大打撃でしょう。むしろこの状況を逆手にとって、たとえば広島県立美術館の 「復興への願いを込めて」(仮題)〜コレクションを通して振り返る広島県立美術館の歴史〜」(4月21日〜6月12日)のように、館蔵品を駆使したキャッチーな情報発信をおこなうという戦略も必要かもしれません。
もっとも、展覧会の開催うんぬん以前に大きな問題があります。被災した美術館や博物館、図書館その他関係者の皆さんのご苦労は計り知れません。今まさに失われつつある文化財を守るために、文化庁や東京文化財研究所を中心とする所謂「文化財レスキュー事業」も動き始めたようで、全国美術館会議その他の団体も協力・支援に乗り出すことでしょう。
こうした活動と、関係者のご尽力によって、ひとつでも多くの文化財が救われることを願ってやみません。
2 生誕100年 岡本太郎展
そんな不景気なニュースのことをつらつらと考えながら、私は妻に同行してもらって、東京国立近代美術館の「生誕100年 岡本太郎展」(3月8日〜 5月8日)を見に行ってまいりました。ちょうど病院に書類の相談で行く用があったのは幸いでした。
見に行ったのは4月2日(土)。お昼過ぎに到着しましたが、入り口に群がる人々が...。行列?まさかそんなに込んでる!?(失礼)と、ようく近付いて見ますと、なんとそこには、ガチャポンの販売機がずらり。中にはレアなアイテムもあるそうで、なるほど、これは購買欲をそそりますね...。
しかし残念ながら私どもにはそんな欲も金もなく(トホホ)、いそいそと会場へと向かったのでありました。
ロビーの物販コーナーはかなりの人集り。そして会場内も、ぎゅうぎゅう、とまではいかないものの、盛況でした。特に若い人が多かったのには驚きました。
展覧会場はかなり刺激的。原色を使った展示台や壁、ドラマティックな照明、そして部屋ごとの展示手法の変化。岡本太郎の仕事を俯瞰するために集められた作品は130点。立体あり絵画あり写真あり、そして映像あり関連資料ありとくれば、これだけ変化に富んだ会場にもなろうというものですが、はじめのコーナーの強烈な立体展示(真っ赤な展示台、そして怪獣映画のような照明!)と、1930〜40年代の平面作品(再制作含む)の妙にオーソドックスな展示とのギャップが凄い。展示の終盤では、座ることを拒否する椅子にこしかけながら、おびただしい「目」の作品にぐるりと取り囲まれるという仕掛けもあり。個人的にはすごく楽しみ、また考えさせられもしました。
企画担当の大谷省吾さんがカタログで書いておられるとおり、既成概念としての「美術」「美術館」を否定し続けた岡本太郎という芸術家を、国を代表する「美術館」たる東近美で取り上げること自体、矛盾を孕むものです。しかしまた岡本太郎なしに昭和という時代の美術・芸術のありようを捉えることは不可能であることも、また事実です。相反するこれらの課題をうやむやにせず、あえてその「対立」をまんまテーマとしたのはさすが。文章を読みながら、私も思わず、うんうん、と頷いてしまいました。
しかし、もしかしたら今の若い人には、「対立」はピンとこないのかもしれませんね。逆説的ですが、権威的(と見なされがち)な国立美術館で行われる展覧会が作家に付与する「評価」を、大多数の鑑賞者はそのまま受け容れます。対決の意味するところを実感できる世代はともかく、若い人々が「対決だってよ、かっけぇ」という雰囲気に引きずられてしまうのは少しコワイ気もします。だからこそきちんと書き記すことが重要なのですね。同じ時代を生きてきた人間が、彼をどう見たかということを。この展覧会、特に若い方にはぜひぜひカタログを読んでいただきたいのです。
それにしても。
大阪万博の年に生まれ、子どもの頃テレビを通じてしか彼を知らず、ゆえに彼を奇想天外なただのアブナイおっさんとしか捉えられなかった田舎育ちの私が、大人になって、ビジュツカンという場所で、「ナンダコレハ」と目をひんむいている彼を思い出しながら、おとなしく彼の作品に向かっている...。これまた異様な情景ではありませんか。
いわゆる美術好きの方々のウケがあまりよろしくないという本展。それに比して学生や建築家、デザイナーなどの評価が高いといううわさの本展。これまた思わぬ「対立」があって面白い。まだご覧になっていない方、ぜひトウキンビへ。
...さて、私としては「岡本太郎と福沢一郎」をここで書かねばならぬのですが...。いろいろ準備不足。きちんと資料を揃えて、いずれ書いてみたいと思っております。
3 追悼 瀬木慎一氏
最後に、「岡本太郎展」にも寄稿されている美術評論家 瀬木慎一さんの思い出を書かせていただきます。
瀬木さんと始めてお会いしたのは、1998(平成10)年、世田谷の福沢一郎記念館で講演会をなさった時でした。そのとき「生誕100年 福沢一郎展」を抱えていた私は、確かその場で、同展カタログへの寄稿をお願いしたのでした。初対面でとは、なんと不躾な。今思うと冷や汗が出ます。
その時私は瀬木さんの『戦後美術の空白期』(思潮社 1996年)を読んでいたのでした。戦後の芸術復興の過程を、実体験をまじえて語る貴重な書であり、私はおおいに刺激を受けたものです。そして鶯谷の「綜合美術研究所」にも何度か伺い、話を聞きました。
瀬木さんは福沢一郎をほんとうに尊敬されていて、「巨人」という印象を何度も話してらっしゃいました。また私が印象深いのは、1957(昭和32)年の美術文化協会脱退にまつわる騒動に関し、当時の美術文化の面々に対して、強い憤りを隠さなかったということです。私はそれを、はあ、と聞くしかなかったのですが...。その渦中にあった古沢岩美さん、岡田徹さんの話をすでに聞いていただけに、これは一筋縄ではないぞ、とビクビクしたのを憶えております。
最後にお会いしたのは、私が多摩美術大学美術館で講演をさせていただいた2008年冬のことでした。その時私は風邪の引き終わりで頭がぼうっとしており、実は講演会で何を話したものやら憶えていないのですが(汗)、なんとか講演を終えてそそくさと会場をあとにしたとき、ちょうど入り口におられる瀬木さんを見つけてご挨拶したのでした。二言三言交わしてお別れしたきり、お会いすることはありませんでした。
3月15日、震災報道の沸騰するなか他界。享年80歳。多岐に亘るご活躍の軌跡と、多数の著書は、これからも私たちに示唆を与えてくれることでしょう。改めてご冥福をお祈りいたします。
