平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 〜 永遠に


蓮の花咲く千秋公園の堀を前景にし、緑に囲まれ佇む平野政吉美術館。

1937年(昭和12年)に藤田嗣治によって描かれた、大壁画「秋田の行事」と調和した大展示室。

画家・藤田嗣治と作品の寄贈者・平野政吉の思いが込められた作品と美術館を後世に伝えたい。

 





( http: //www.hokkaido-np.co.jp/cont/leonardfoujita_tabi/33710.html )


 
         


 






        

    ( http: //weekly-akita.net/?day=20100311 )


     ( http: //takaikogyo.exblog.jp/10624777 )

     
   
   ( http: //plaza.rakuten.co.jp/EYASUKO/diary/200709040000/ )




 秋田県立美術館・平野政吉美術館開館挨拶、平野政吉

 「16才から58年間、一途に集めてきた作品だけに愛着があり、藤田画伯も秋田に『新しい奈良』を築きなさいと私に語っていた。私としてはどうしても秋田の地に飾りたかった。こどもの日を期して皆さんにお見せ出来るのにはうれしい意義がある。これからの若い人達にこれを見てもらって学んでいただき、優れた美を表現してほしいと念願しているからだ。私の願いを受けてくれた県民にお礼を申したい。」



平野政吉美術館創設寄附者ごあいさつ

昭和42年5月  平野政吉 

 私は幼時から絵が好きで、少年時代に画家にならんと志望したこともあります。かたわら、我が国の航空界の黎明期に飛行機の研究に没頭し自ら操縦桿を握り又墜落したこともありましたが、美術への愛着がたち難く戦争中も蒐集を怠らず今日にいたりました。過去57年間蒐集したものは刀剣、陶器、仏画、石器、鉄器、銅器、蒔絵、浮世絵、初期洋画、泰西洋画、日本画など美術全般にわたりますが、特に世界画壇の一人者藤田嗣治氏とは永年にわたる交友で、その名作を世界に最も多く所有しました。今回これらの蒐集品の中から320点を厳選し財団に寄附しました。純粋芸術品を通じて青少年が豊かな人間に成長することを願ってやみません。

(追記) 昭和43年文化の日を期し藤田嗣治の遺品及びピカソなど200点を寄附。昭和天皇・皇后両陛下行幸を記念し、新たに74点を寄附しました。その後の寄付を加え、現在総計601点となりました。


「藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが、最後の対面となった。」 (平野政吉「聞き書き わがレオナルド藤田」《1983年1月12日、朝日新聞》)



 「吾が国の伝統の美しさ、郷土の質朴さ、清く澄み透すこの人々の心は、戸外の一丈にも余る雪の肌の様に純であり貴いのである」(秋田への思い)

 「嬉しい吾が郷土にのみ誇り得る、純情さがこの厚い雪のお蔭で埋れて、当分は保有されて行くであろう」(秋田への思い)

 「日本の真の伝統の系統を保守して、古来の文化を味わい得るのは、全く裏日本の冬の国々にのみよって味われる」(日本の伝統文化について)

 「吾等の持つ伝来の文化は、決して欧米の機械文明に負けたり、劣ったりしてはおらぬものがある」(日本の伝統文化について)

藤田嗣治の言葉、「地を泳ぐ」より)


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先人、平野政吉が後世に残してくれた「秋田の文化」

 平野政吉美術館に行くと入口付近に、1966年(昭和41年)、平野政吉が美術館建設の報告のためパリ郊外の藤田嗣治レオナール・フジタ)を訪れた際に撮影された、二人が固い握手を交わしている写真が掲げられている。
 平野政吉の表情に、念願を達成した自信が窺え、藤田の表情は喜びに満ちているように見える。二人に固い友情、深い絆があったことを示す証拠の写真でもある。また、美術館の創設者で収蔵品の寄附者である平野政吉の挨拶のことばが掲げられている。

 昭和42年5月  平野政吉 

 私は幼時から絵が好きで、少年時代に画家にならんと志望したこともあります。かたわら、我が国の航空界の黎明期に飛行機の研究に没頭し自ら操縦桿を握り又墜落したこともありましたが、美術への愛着がたち難く戦争中も蒐集を怠らず今日にいたりました。
 過去57年間蒐集したものは刀剣、陶器、仏画、石器、鉄器、銅器、蒔絵、浮世絵、初期洋画、泰西洋画、日本画など美術全般にわたりますが、特に世界画壇の一人者藤田嗣治氏とは永年にわたる交友で、その名作を世界に最も多く所有しました。
 今回これらの蒐集品の中から320点(注)を厳選し財団に寄附しました。純粋芸術品を通じて青少年が豊かな人間に成長することを願ってやみません。

  (注) その後さらに寄附を加え、現在総計601点となっている。

 命を懸け収集した美術品を、ふるさと秋田のために残してくれた、秋田の偉大なる先人、平野政吉からのメッセージと言えるでしょう。
 このメッセージに込められた平野政吉の理念は、平野政吉が命を懸け建てた平野政吉美術館とともに後世に末永く伝えるべきである。



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千秋公園の堀と平野政吉美術館

      



       



      



 千秋公園は、初代秋田藩佐竹義宣が自然の丘陵を利用して築城した久保田城の城址を、1896年(明治29年)、造園家、長岡安平が日本庭園として、設計し、整備した公園である。1988年(平成元年)には、日本の都市公園100選にも選ばれている、秋田市民の憩いの場所である。
 平野政吉美術館は、秋田の資産家、平野政吉の収集した美術品を収蔵し、公開するために、1967年(昭和42年)に開館した。特に1937年(昭和12年)に藤田嗣治秋田市内の平野政吉の土蔵で描いた、縦3.65メートル、横20.5メートルの大壁画「秋田の行事」を展示、鑑賞することを主目的に建てられている。また、「秋田の行事」の展示を床から6尺(約1.8メートル)の位置に上げること、両端を少しずづ迫り出して据えることなどを藤田嗣治が直接アドバイスしている。
 40数年の歳月を重ね、千秋公園の堀と堀を前景にした美術館は季節の移ろいとともに風情ある光景を醸し出している。美術館が建てられたこの場所は、将来を見据え、恒久的な場所として、当時の秋田県知事、秋田市長によって決められたものだ。秋田の先人達が残してくれた素晴らしい風景、街並みを今度は私たちが次の世代に残していきたいものである。


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藤田嗣治画伯の「秋田の行事」はあの建物と一体になってこそ秋田の宝

 蓮の花咲く千秋公園のお堀を前景にして眺める平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、秋田市で私が一番好きな風景です。その風景が消えてしまう日がくるとは ― 。

 平野政吉美術館の移転計画は多くの秋田市民、秋田県民を悲しませた。昨年2月1日には、知事が「私の価値基準は、築100年以上の建物が文化的価値があり、それより短いものは好みの問題」と言い放つなど、現美術館を取り壊す姿勢を見せたが、その後、保存を求める市民、県民の声の高まりにより、方向を変えたのか「現美術館の文化施設など美術館以外の再活用も可能だ」と発言するなど他の施設に変えようとする意図が窺える。

 藤田嗣治画伯の「秋田の行事」は、あの場所で、あの建物と一体になってこそ、秋田の宝なのです。美術館は、稀有な秋田の先人、平野政吉が命を懸けるほどの情熱を注ぎ込み建てたものです。

 平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、平野政吉が収集した藤田嗣治の作品、大壁画「秋田の行事」を収蔵し、恒久的に展示、公開するために建てられた美術館だ。藤田嗣治の助言が忠実に守られ、優美な曲線の屋根に付けられた丸窓からは、自然光が採り入れられている。「秋田の行事」や平野政吉が収集した藤田作品に最も相応しい場所であり、最も相応しい美術館である。貴重な秋田の文化遺産として後世に伝えていくべきである。


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レオナール・フジタ最後の作品「平和の聖母礼拝堂」と平野政吉美術館

 レオナール・フジタ藤田嗣治)は自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」を制作した。フジタはこの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラス、彫刻などの制作を自ら手掛けた。

 この「平和の聖母礼拝堂」と秋田の「平野政吉美術館」はフジタの助言によって結び付けられている。

 「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」(1983年《昭和58年》1月12日、朝日新聞聞き書き わがレオナルド藤田」) 

 1966年(昭和41年)5月、平野政吉が念願の美術館建設の報告を兼ね、パリ郊外のフジタを訪ねた際、フジタは平野政吉にそう語っている。

 美術館の採光形式を、自らの人生最後に制作した「平和の聖母礼拝堂」と同じ、採光の形式にするよう平野政吉に託したのである。

 平野政吉は「私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ」(1983年《昭和58年》1月12日、朝日新聞聞き書き わがレオナルド藤田」)と証言している。

 1968年(昭和43年)1月、フジタは、二人にとって念願であった美術館を観ることなく生涯を閉じ、今は生前の希望により、自ら制作した「平和の聖母礼拝堂」に永眠している。

 平野政吉美術館と美術館の採光形式には、レオナール・フジタ尊い思いが込められており、その思いはレオナール・フジタの最後の作品「平和の聖母礼拝堂」に通じている。

 フジタの思い、それを守った平野政吉の思いが込められている平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は世界に誇れる秋田の貴重な文化遺産であり、末永く後世に伝えていくべきである。




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平野政吉と藤田嗣治の美術館建設構想 … 大壁画「秋田の行事」の制作


 
 平野政吉は、1936年(昭和11年)に、藤田嗣治の初期の傑作「眠れる女」を購入したのを始め、「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を購入した。平野政吉は藤田の作品を集めた美術館の建設の夢を抱き、「あなたの絵を集めた美術館を建てたい」と藤田に打ち明けた。藤田はこの話を受けて、美術館の壁を飾る壁画の制作を表明した。この時期、藤田は各地で壁画制作に取り組んでいたが、秋田で描くことになった壁画はその集大成と言えるものになった。藤田は秋田の中に日本を見い出し、平野との約束で世界一の壁画を描くことを構想した。

 翌年、1937年(昭和12年)2月に、秋田を題材にした壁画が、平野政吉の米蔵でいよいよ描かれることになった。藤田は僅か15日間、合計174時間で、縦3.65メートル、横20.5メートルの大作を一気に描き上げた。興が乗った時は徹夜もしたと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」と興奮して話していたとのことだ。藤田は用意していた絵具から紫の絵具1個と白のビン2個を残しただけだったと言う。緻密に計算された天才ぶりに平野政吉は改めて感心した。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、洩らさず描くという意図で描いたと言う。こうして完成した「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの祭りが描かれ、秋田の産業、歴史までも描かれている。線と色彩が融合し、生命力、躍動、情熱が画面に溢れている傑作である。

 「秋田の行事」は、平野政吉と藤田嗣治が構想した美術館の壁を飾る壁画として描かれたものだ。その後、平野政吉は苦難の末、30年の歳月を経て、1967年(昭和42年)5月5日に念願の美術館を完成させた。その美術館は日本宮殿を思わせる双曲線の屋根、正倉院を模した高床式の造りなどに藤田嗣治と平野政吉の理念、構想が生かされている。また、藤田の助言を受け、美術館の採光形式は、藤田が最後に手掛けたフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」と同じように自然光を採り入れたものとなっている(注)。また、「秋田の行事」は、藤田の指示により、床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えられ、両端が少しずつ迫り出して据えれて展示されている。

 大壁画「秋田の行事」と「秋田の行事」を展示することを主目的に建てられた平野政吉美術館は、平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史を示す証でもある。このままの形で後世の伝えていく義務が私たちにある。この貴重な文化財の価値を壊すようなことは許されないだろう。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治の助言通り、丸窓からの自然光の採光形式にすべきと考えます。


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平野政吉と藤田嗣治の出会い … 美術館建設の夢

 

 明治28年(1895年)、秋田市の江戸時代 から続く米穀商の家に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、経済的に恵まれ、十代の頃から美術品を収集していた。

 藤田嗣治とは、昭和9年(1934年)、上野の二科展の会場で初めて出会い、自信満々に話す藤田の人柄と作品に平野政吉は強い衝撃を受けた。日本洋画壇の巨匠、藤島武二との挨拶を終えた藤田嗣治に平野政吉が「私も藤島さんの絵が好きです」と話しかけた時、藤田は言った。「ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなただになりますよ。ぼくの絵は全部国宝ですからね」

 最初、平野政吉は藤田をおかしなこと言う人だと思ったという。しかし、展示されていた藤田の「カーニバルの後」(1932年)を見て、その細密な線描、画面全体を包み込む倦怠感、足元に散乱する紙テープの描写の緻密さなどに強く心が動かされ、衝撃を受けた。その出会いから二人の交友が始まり、平野政吉は、美術館を建設したい、そのために藤田の作品を収集したいと強く思うようになったと言う。

 平野政吉は、若い頃から培ってきた審美眼で、藤田嗣治の作品に着目し、才能を見抜き、その後、美術館建設の夢を実現するため、藤田嗣治作品を人生を懸け、収集していくこととなる。


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