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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・ランシエールのストローブ&ユイレ論

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*Jacques Rancière : Conversation autour d'un feu : Straub et
quelques autres, in Les écarts du cinéma (La Fabrique édition, 2011)

 少し前に Sight & Sound が恒例のオールタイム・ベスト10のアンケート結果を発表したが、なかでベルナール・エイゼンシッツがストローブ&ユイレの『雲から抵抗へ』を挙げていたのが印象に残った。

 ジャック・ランシエールは2010年6月にポンピドゥーセンターで行われた講演のなかで、この作品をストローブの映画における転換点として位置づけ、さらに政治映画一般の新たな地平を切り開いた作品と見なしている。

 その根拠は、

1)政治と映画の関係を、政治と芸術という、より広い視点から問題にしている。(ブレヒト的)

2)互いに異質な諸断片や対立物の弁証法的解決を超えて「解決なき緊張」を提示している。(ポスト・ブレヒト的)

3)10年間の左翼の時代の総括である。

 『雲から抵抗へ』は、パヴェーゼの二つの別々の作品を原作としている。第一部はギリシャ神話の人物たちによる対話篇『異神たちとの対話』からの六篇、第二部は第二次大戦中のレジスタンスに取材した長編小説で、パヴェーゼの遺作でもある『月と篝火』にもとづく。

 ランシエールがとくに注目するのは、『雲から抵抗へ』の第一部の最後のエピソードであり、第二部との結節点ともなっている「篝火」のパートだ。

 羊飼いの父子が篝火を焚いて雨乞いをしつつ、古代の人身御供の是非について語り合う。草の上にならんで横たわる父と子。ムルナウの映画のなかで浮かんでいるような満月のショットのバックで、父親が息子にアタマース王の人身御供の物語を語って聞かせる。つかのまの平安は、犠牲にたいする意見の食い違いによって乱される。「最大多数の最大幸福」のために共同体のなかのもっとも弱い者らの命を犠牲にすることが許されるべきかどうか。父親はそれを不正とする考えに傾きつつも、それが世の中の道理である以上、受け入れなければならないとする。それに対し息子は、不正を受け入れることで人間は不正に値する人間に成り下がってしまうとたどたどしく反抗する。幕切れは息子が決然と立ち上がり、首から上をフレームからはみださせたまま、なかば握りしめ、前方にあいまいに差し出された手のアップでしめくくられている。

 いかにもこの人らしく、ランシエールはこのエピソードを西部劇で焚き火を囲んで会話する夜営の場面に連なるものであるとしている。これについては前回扱ったかれのアンソニー・マン論を参照してほしい。ただし、西部劇では夜間の反省にその正しさを証明する行動が続くのだが、この作品では省察にそのような行動が伴わない。

 ちなみにセルジュ・ダネーはこの作品をホークス的であるとほのめかしていた。

 対話というスタイルとその政治性にランシエールは注意を促す。これは、古代以来、相容れない複数の正義を対峙させる形式として活用されてきた。
 
 古代悲劇にあっては、二つの正義ないし不正義の対立は、神々の対立ゆえ根本的に未解決なものとされる(アガメムノン vs クリュタイムネーストラー、アンティゴネー vs クレオンetc.)。

 それに対し、不正義が人間たちの咎に帰される現代の演劇において、対峙する二つの立場は弁証法的に関係づけられる。

 たとえばブレヒトの『処置』。街を守るために若い同志の命が犠牲にされる。あるいはサルトルの『悪魔と神』。虐げられた者らの抵抗を導くために不正と嘘が受け入れられる。要するに、犠牲と贖いというかたちで対立に折り合いがつけられるということか。

 ランシエールによれば、「篝火」は対立をめぐるこの二つの態度(「偉人たちの倫理的弁証法」と「人間的闘争による政治的弁証法」)の関係を問うている。

 ストローブはすぐれて演劇的なスタイルである対話体を映画という媒体に適用している。その意義はどこにあるのか?

 演劇では、正義といった主題は主として言葉によってダイレクトに扱われる。対して映画は、言葉と映像とのずれ、すなわち「現前と不在の戯れ」をその本質として孕む。父子が議論の対象にしている正義や不正といったものは、それ自体としては不可視である。かれらが議論しているあいだ、われわれ観客が目にするのは、かれらの身体であり、あるいは月や野や風といった自然である。映画において、これらは観念的な対話の単なる背景ではない。それらは言葉をその出どころである身体やそれが発される現実の空間のなかに置き直すことで、その言葉が練り上げられ、口にされるまでに経てきた歴史や経験の重み、およびその過程でその言葉が帯びるに至った数々の細かな意味あい(多義性)をとりもどさせる。カメラは対立した者たちを対立させたまま、視覚的なレベルで同じ自然に委ね、対等な存在として映し出す。

 この対等性をたしかなものとするために、映画作家は大胆な介入をしている。原作のテクストへの厳密な忠実さを映画づくりのおおもとに置いていたかれらが、こともあろうに原作の幕切れの台詞をカットしてしまう。息子の未熟さをやさしく笑い飛ばす父親の台詞を削り、息子の反抗の台詞でエピソードを閉じているのだ。同時に、息子の手をクロースアップで映し、その身振りのあいまいさを強調する。それによって、身振りの解釈ともども、かれらの議論のつづきを観客に委ねる。

 『雲から抵抗へ』は、対話形式を復活させつつ、古代悲劇のように対話の根本的な不可能性に居直ることもしなければ、現代演劇のように対立を弁証法的に解消することをも拒み、その対立が孕むさまざまな可能性を探り出すべく観客にそのまま差し出す。

 それは弁証法の約束を宙吊りにし、つねに「理性的」であるとされてきた不正への同意と、その拒絶の純然たる宣言とのあいだに横たわる隔たりに感性的な力をとりもどさせることである。しかしそのことはまた、弁証法的な議論のきまりきった型(トポス)を挫折させ、それらの型を歴史的な経験を孕んだ言葉の塊に変容させることでもある。太古の神話と運命はもはやそこでは正義のための戦いの道を閉ざすものではなく、集団的な経験およびその経験を口にする能力の豊かさである。この観点からは、父親の知恵と息子の拒絶は平等であり、そのいずれもが、羊飼いたちがみずからの運命および万人の運命に見合うレベルで語る能力を確証している。対立する議論の感性的な平等がここで非職業俳優、トスカーナ地方の小さな共産主義部落のプリモ・マッジョ・サークルに集う人たちのなかから選ばれた工員や会社員によって担われていることは重要である。誰であろうともっとも骨の折れる言葉に最大の感性的な強度をもたらすことができる力こそ、ストローブのその後の諸作品の核心にあるからだ。ストローブのカメラはこの感性的な力(puissance)を増幅させることを務めとする。息子の身振りはたんに父親の言葉を遮るだけではない。その身振りはこのような言葉と経験の塊の感性的な経験の豊かさをも体現している。この身振りはこのような豊かさをここにある光と風景と風の豊かさに撚り合わせる。[……]ストローブの映画の政治は、分割の弁証法的な力を言語化するとともに一つの身振りのうちにあらゆる議論に対する正義の抵抗を要約することのできる民衆的身体を住まわせる技術に宿る。この抵抗そのものはその対立物と視覚的に対等である。正義と不正をめぐるあらゆる議論に対する自然からの抵抗である。

 このあとの部分では近年ゴダール作品(『愛の世紀』『アワー・ミュージック』)との興味深い対比があるが、ここでは触れない。

 むしろ、「篝火」の息子の抵抗を溝口やブレッソンやエリセやタル・ベーラの映画のなかの抵抗する子供たちの系譜に位置づけている観点にわくわくさせられる。子供はすぐれてランシエール的テーマであるといえよう。

 ランシエールの論は、さらにペドロ・コスタやTariq Teguia らの映画にも及んでいる。

 レネとストローブ夫妻は、おそらく西洋現代の映画における最も偉大な政治的映画作家である。しかし奇妙なことにそれは、民衆を現前させるのではなく、反対にいかに民衆が欠けているもの、現存しないものであるかを、彼らが示しえているからなのだ。(宇野邦一ほか訳『シネマ2*時間イメージ』)

 すでにドゥルーズがこのように述べていた。ランシエールの立論はこの観点とじかに響き合うものであるといえるだろう。