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精神分析と映画をめぐる読書案内

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その2)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995.

 承前。そのような科学の観念をラカンはコイレおよびコジェーヴに負っている。それは古代的エピステーメと現代(近代)科学との「切断」という観念に依拠している。ガリレイ数学化された物理学によって対象から感覚的な質を剥奪することで科学をモダニティの次元にもたらした。「現代的であるすべてのものはガリレイ的な科学とシンクロしており、ガリレイ科学とシンクロするもの以外に現代的なものはない」。

 精神分析誕生の条件はガリレイ科学によってもたらされた。あるいみでガリレイ主義をつきつめた地点に精神分析が誕生したといえる。それゆえラカンの「第一の古典期」は、「拡大されたガリレイ主義」というかたちをとる。

 古代のエピステーメにおける数が普遍的なもの(イデア)を表していたのにたいし、ガリレイは数を自然界の諸対象をさししめすための「文字」(=言語)に還元した。現代科学において自然界は感覚的質を欠いた記号に還元される。

 人間科学が対象とするのも、身体をそなえた個人とは区別される「質なき思考」、すなわち「主体」となる。そのような主体をもたらしたのはデカルトであり、フロイト的無意識はデカルトコギトと同じものである。

 しかしこのような命題はそれじたいではなにもいみしていない。それは問いを別の言い方でくりかえしているにすぎない。ミルネールによれば、科学史についてのラカンの言及は「衒学的なおしゃべり」にすぎず、ラカンの「知」の本質にぞくするものではない。ラカン科学の観念はコイレの歴史主義に依拠しているが、ラカンにとって古代的エピステーメと現代科学の切断は歴史的というよりも構造的なものである。

 『精神分析入門』のフロイトは、反コペルニクス主義が進化論精神分析の登場に際して反復されていると述べている。ここで問題になっているのは歴史的ないみでの反コペルニクス主義というより、反コペルニクス主義の「特徴」すなわち自己愛ないし自我(想像界)のことである。

 哲学観念論に支配されていた状況下で道を切り開くためにフロイト科学主義に依拠した。科学主義に支配された状況下で道を切り開くための教育的な(protreptique)手段としてラカン相対主義唯名論に訴える。

 そのような歴史主義的ならざる構造的な切断は、1969年に導入される諸言説(discours)の理論によって理論化されるだろう。ひとつの言説には[場と項の]異質性と複数性が内在的であり、言説の切断を時系列的な切断には帰すことはできない。言説の切断は、ひとつの言説の体系の内部におけるそれではなく、ひとつの体系から別の体系への変容において生ずる。同じ命題は、別の言説内部においては別の命題になる。二つの言説の関係は切断というかたちでしかありえないが、この切断は現実的な(réel )差異である[つまり関係の不在ではない]。共時性(synchronie)は同時代性ということではなく、あくまでシンクロしているといういみである[可能世界論]。かくしてラカンはコイレを非歴史主義的に読みぬき、いわばコイレ理論を純粋化する。(つづく)