alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

西部小説の復権のために

 2015年フランス出版界が西部劇の当たり年であったと前号に書いたけれども、重要な言い落としがあったので補足しておきたい。
 「ポジティフ」編集長ミシェル・シマンがパーソナリティを務める Projection privée という France Culture のラジオ番組があって、わたしも Podcast で愛聴しているのだが、去る5日、この番組がベルトラン・タヴェルニエとDictionnaire du western の著者の一人クロード・アズィザを招いて「西部劇 特集」というのを組んでいた(ゲストの紹介に際して、Encyclopédie du western の著者パトリック・ブリオンの不在を残念がる一言がしっかり添えられた)。

 シマンの盟友タヴェルニエはここ数年、アーネスト・ヘイコックスやW・R・バーネットといった作家による西部小説のクラシックを鋭意翻訳紹介する l’Ouest, le vrai (「これが西部だ!」)という企画をお膝元の Acte Sud において監修しており、昨年もヘイコックスの Le passage du CanyonCanyon Passage, 1945)、バーネットMi amigoMi Amigo : A Novel of The Southwest, 1959)、Saint Johnson(1930)、および既刊 Terreur apache Adobe Walls : A Novel of The Last Apache Rising, 1953)の文庫化、A.B. ガスリーの連作 The Big Sky 完結篇にあたるDans un si beau paysThe Way West, 1949)、ハリー・ブラウンDu haut des cieux, les étoilesThe Stars in Their Courses, 1960)、トム・リー L’aventurier de Rio GrandeThe Wonderful Country, 1952)を立て続けに刊行した。

 『駅馬車』『大平原』の原作者としてその名を轟かすヘイコックスは、ヘミングウェイガートルード・スタインにもリスペクトされた大作家。このほど仏訳成った Canyon Passageジャック・ターナーの『インディアン渓谷』の原作。
 W・R・バーネットは、『暗黒街の顔役』『ハイ・シエラ』の脚本、および『犯罪王リコ』『廃墟の群盗』『死の谷』『アスファルト・ジャングル』などの原作で知られる犯罪映画および西部劇の巨匠。 Adobe Walles は、チャールトン・ヘストン主演による『アロウヘッド』の原作。
 ハリー・ブラウンは『激戦地』として映画化された A Walk in The Sun(脚色ロバート・ロッセン)でピュリッツァー賞を受賞した作家で、The Stars in Their Coursesホークスの『エル・ドラド』の原作。『硫黄島の砂』『凱旋門』『陽のあたる場所』『オーシャンズと11人の仲間 』など多くの名作(迷作)の脚本も手がけているが、そのなかには『怒濤の果て』(エドワード・ルドヴィク)や Apache Drums (ヴァル・リュートン=ヒューゴ・フレゴネーゼ)という大傑作もふくまれる。
 やはりピュリッツァー賞の受賞歴があるA・B・ガスリーは、 ダドリー・ニコルズが脚色した『果てしなき蒼空』の原作(The Big Sky の最初の巻に基づく)のほか、あの『シェーン』(原作ジャック・シェーファー)の脚本を担当。
 ムーヴィーゴアーにとってはこれらの人にくらべて知名度において相対的に劣るが、トム・リー(Tom Lea)はメキシコ革命時代のエル・パソ市長の息子で、もともとは戦争を題材にした壁画で知られる画家。第二次大戦中に Life の特派員として発表したイラスト入りルポルタージュが評判になり、後に作家に転向。前号で紹介した The BFI Companion to The Western でもしっかり項目化されている。 The Wonderful Country ロバート・パリッシュの同名映画の原作。

 タヴェルニエはジョン・フォードジャック・ターナー西部劇がいかにその原作に多くを負っているかを説き、出版者や批評家がこれらの西部小説を蔑視してきたと嘆いてやまない。フェニモア・クーパー(アズィザによればアメリカシャトーブリアンもしくはルソー)にはじまる西部文学という領域が同じく西部の写真史や絵画史(F・Sレミントンはもとより、ジャクソン・ポロックの師として知られるトーマス・ハート・ベントンなど。ベントンについては昨年 American Epics : Thomas Hart Benton and Hollywood という研究書がアメリカ刊行されている)と併せて今後の西部劇研究の重要な課題となることは間違いのないところだろう。さいわいBFI の Companion にはこのテーマに捧げられた充実した記事がみつかるが、アズィザもその Dictionnaire において、 Guide de l’Antiquité imaginaire : Roman , cinéma, bande dessiné (Les Belles Lettres, 2008)の著者らしい博覧強記ぶりを発揮して、ブレット・ハートマーク・トゥエインからコーマック・マッカーシーに至るまでの西部文学史を、先住民サイドの書き手たちやフランスにおける受容史にも目配りしつつ、明解な筆致で一覧している。それによると、こんにちスクリーンでは影の薄い西部劇が、意外なことに文芸の世界では「百花繚乱状態(extrêmement vivace )」なのだそうだ。モンタナ州(The Big Sky!)のミスーラ大学で詩人リチャード・ヒューゴーが主導してきた文芸講座から数多の才能が輩出し、Nature Writing という文芸の分野が生み出されているという。

 さて、くだんのトークは『レヴェナント』のフランスでの大ヒットの話題を枕に振り、タランティーノらが西部劇をもっぱら搦め手から( au second degré) 参照しているのにたいし、いわば正面から( au premier degré) ジャンルを継承せんとするイニャリートの野心が讃えられる。ちなみにこの監督をほぼ黙殺してきたライバルの「カイエ」にたいし、「ポジティフ」の方は一貫して高い評価を与えており、その最近の号においても『レヴェナント』におけるディカプリオの勇姿が表紙にフィーチャーされていた。
 『レヴェナント』が奇しくも少し先立って公開された『ヘイトフル8』とともに雪景色を舞台とする西部劇であるという事実も手伝って、自然とその元ネタ探しがはじまり、タヴェルニエがアンドレ・ド・トス、アズィザがセルジオ・コルブッチ、シマンがリチャード・C・サラフィアンと、それぞれの口にいかにもの固有名詞が呪文よろしく上せられ、さらにはだれの口からともなく、『大いなる勇者』、『北西への道』と列挙がつづいて話題はありし日の西部劇へとおもむろに移っていき、近年発見されたジョン・フォードの第六作目にあたる作品がサイレント時代にあってペキンパーをはるかに先取りするかのような西部への挽歌をすでに高々と歌い上げていたことへの驚き(あるいは先住民の描き方においてもサイレント期のあるしゅの作品が時代に先駆けて現代的であった事実)、同じフォードが『誉れも高きケンタッキー』から『駅馬車』に至る十数年ものあいだ西部劇に手を染めなかったという謎、個人の運命を重視してきたこのジャンルにおける共同体という主題の位置づけなど、興味のつきない話題が展開される。
 トークの終盤にいたってやっと Dictionnaire du western が話題にされ、「括弧つき(entre parenthèses)」の西部劇である『アメリカン・スナイパー』が項目化されていることを突っ込まれたアズィザは思わず苦笑、イラクの砂漠が西部の風景を思わせるしィ……などとあいまいに呟いたあとでけっきょく責任を共著者に押しつけていた(笑)。

 蛇足だが、個人的に『ヘイトフル8』で釈然としなかったのは、巻頭近く、馬車のシーンでの、捕虜収容所へのきわめて中途半端な言及だ(すべてが中途半端な残念至極な作品ではあるのだが)。サミュエル・L・ジャクソン演ずる北軍将校あがりの賞金稼ぎ捕虜収容所で味方の北軍兵をも含めて虐殺のうえ逃亡、おたずね者になったとかいう設定であったと記憶する。周知のように、南軍が運営していたアンダーソンヴィルの捕虜収容所はアウシュヴィッツになぞられられることさえあるアメリカ史の汚点であり、じゅうらい西部劇におけるタブーと見なされてきた。セルジオ・レオーネはアンダーソンヴィル以外にも北軍の運営する同様の施設が存在したはずだという歴史学者の説に依拠して『続・夕陽のガンマン』(タラのフェイヴァリットでもある)で捕虜収容所を正面から描いてみせたが(皮肉にもめっぽう美しいシーンに仕上がっている)、サー・クリストファー・フレイリング教授の名著『セルジオ・レオーネ——西部神話を撃ったイタリアの悪童』(鬼塚大輔訳、フィルムアート社)などによると、実際にはサイレント時代にすでにアンダーソンヴィルからの脱走兵を描いた作品があり、フォードの『騎兵隊』でもアンダーソンヴィルの名前がちらっとだが言及されている。BFIの Companion にも アズィザの Dictionnaire にも、南北戦争に長い記述が割かれてはいるが、ざっと眺めてみたところでは捕虜収容所についての言及はみつからない。『ヘイトフル8』のタラには、賞金稼ぎだのゲリラ団だのレイシズムだの ”frontier justice”(相手に先に抜かせて正当防衛を装った殺人)だの、とにかくどぎつさをもとめて西部の悪という悪をこれでもかと数え上げてみせたいという意図がありありで、そのうちのひとつとして捕虜収容所への思わせぶりなほのめかしをちりばめておいただけであるとおもわれるが、いずれにしても西部劇が今後、このテーマにどう向き合って行くのか(あるいは行かないのか)にわたし個人は興味津々でいる。