独裁者としてのリンカーン:トランプの時代に読むソロー(その8)
2017/03/28
トランプのオバマケア撤廃法案が議会によって事前に葬り去られました。
さて、ソローです。
ソローがジョン・ブラウンの違法行為を公然と支持したことについてはすでに述べました。
ジョン・ブラウンの行動は南北戦争のひとつのきっかけをつくったともいわれています。
ソローは南北戦争の開戦直後に生を終えていますが、あるいみでジョン・ブラウンのうちに来るべきリンカーンの決断を予見していたといえます。
ジョン・ブラウンがリンカーンの先駆けであるという見解はけっしてめずらしくありません。
ジョン・ブラウンの行動に材を取った映画『カンサス騎兵隊』(1940年)は、ジョン・ブラウンの野望を阻止した騎兵隊員が救国の英雄として描かれています。とはいえおもしろいことに、ジョン・ブラウンに「悪役」が振られているとはかならずしもいえない作りになっています。
ラストシーンでは、ジョン・ブラウンが絞首台の上で南北戦争を予言する大演説をリンカーン張りにぶちます。
後光が射しているかのようなバックライト、仰角の構図など、ジョン・ブラウンの威厳をリンカーンのそれに重ねている演出がところどころにみられます。
あまつさえジョン・ブラウンを演じたレイモンド・マッセイは、奇しくも同じ年の佳作『エイブ・リンカーン』でタイトルロールを張っています。
世間的にはリンカーンは“正義の味方”とされています。
その見方はまちがってはいません。しかし、リンカーンはその“正義”を法律の上位にあるものとみなしました。
奴隷解放宣言は事実上の憲法停止状態において発令されています。
独立宣言に謳われた自由と平等についての規定が合衆国憲法にはありませんでした。つまり憲法は奴隷制を黙認していたのです。
国家分断の危機に際してリンカーンは大統領の権限にもとづき、議会の承認を得ることなく、みずからの権限のみによって奴隷廃止を宣言したのです。
リンカーンは離れ業的な法解釈によって「例外状態」をつくりだしたようです。
ジョルジョ・アガンベンの『例外状態』には、この過程がつぎのように描かれています。
合衆国憲法第1条にこういう規定があります。
「反乱または侵略にさいして公共の安全のためにひつようなばあいをのぞき、人身保護令状[人身保護の目的で拘禁の事実・理由などを聴取するため被拘禁者を出廷させる令状]を求める特権を停止してはならない」。
この「停止」を決定する主体は誰なのでしょう?
それが議会であることが文脈から推測できるようになっていますが、明文化されてはいません。
また、おなじ第1条には、戦争を発布する権限と陸海軍を召集し維持する権限が議会にあるとされていますが、第2条には「大統領は合衆国の陸海軍の最高司令官である」とあり、この二つの文言の関係があいまいです。
アガンベンによれば、以上二点が、大統領と議会とのあいだの「主権的決定をめぐる抗争」の論点となってきました。
1861年4月15日、リンカーンは第1条の規定を無視するかたちで陸海軍の徴募を発令し、7月4日に臨時国会を開催すべく議会に召集をかけます。
「リンカーンは4月15日から7月4日までの十週間、事実上、絶対的独裁者として行動したわけである」(同書)。
翌年9月の奴隷解放宣言はこの延長線上に出されました。
つまり、奴隷を解放したのは独裁者です。ぎゃくにいえば、独裁者でないかぎり、奴隷解放という偉業をなしとげることはできませんでした。
これはフランス革命政府からマルクスのプロレタリア独裁にいたるまで人類の歴史につきまとっている逆説です。
ごぞんじのように、リンカーンは終戦後に憲法修正第13条を通すことで、事後的にみずからの超法規的措置を正当化しました。
スピルバーグの伝記映画は、リンカーンがかくして法律違反者、独裁者の汚名をそそいだところでハッピーエンドとなっています。
とはいえ、リンカーンが憲法を停止させたという事実は消えません。
そのおよそ七十年後、ヒトラーは、とうじ世界でもっとも民主的とされていたワイマール憲法に明記されていた非常事態宣言を発動し、全体主義への道を突き進みます。
リンカーンの目的が奴隷の自由そのものではなく、連邦の崩壊をくいとめることであったことは、リンカーンじしんが述べています。
「奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができれば、私はそうするでしょう」。
もちろん、これは奴隷制支持者への配慮から出た発言ともとれます。
その証拠にかれは「万人は自由である」とも語っているからです。
ソローが生きていれば、リンカーンの決断を支持したにちがいありません。
プチ隠遁者としてのソロー:トランプの時代に読むソロー(その7)
2017/03/22
ソローは森にひきこもりました。
けれども二年と二ヶ月の後にその森を後にしました。
それもみずからの意志でです。
一般に、ソローは“森に入った人”と考えられていますが、“森を出た人”でもあることをわすれるべきではないでしょう。
そこがソローと“隠者”とのちがいです。
『ウォールデン』の最初の段落でソローは書いています。
「私は二年二カ月のあいだ、そこで暮らした。現在はふたたび文明社会の逗留者となっている」。
「逗留者」の原語は sojourner です。
この語には「一時的な滞在者」といういみあいがあります。
上の一節からわかるのはつぎのことです。
まず、作者が過去において文明社会の「一時的な逗留者」であったということ。
「ふたたび」という語がそれを示しています。
そして、将来的に森に戻ってくるかもしれないこと。
作者は永久に森を去るのではなく、「一時的な滞在者」として文明社会に戻って行くだけであると読めるからです。
上に引いたのは岩波文庫版ですが、講談社学術文庫版では「住人」、小学館文庫版では「文明化した社会をうごめいて生きる身」と訳されていて、残念ながら原文のニュアンスが伝わりにくくなっています。
ソローが文明社会の「一時的な滞在者」であるということは、ぎゃくにかんがえれば、森の「一時的な滞在者」であるともいえるかもしれません。
その有名なエッセーに「歩く」(Walking)というタイトルをつけていることからもわかるとおり、ソローは「歩くこと」を人間のなによりも基本的な行為とかんがえていました。
一箇所にとどまるのではなく、「旅人」あるいは「異人」として移動しながら生きていることが人間の本来のありかたであるとかんがえていたのです。
ぎゃくにいえば、一箇所にとどまっていることは、たまたまのことでしかありません。
ソローは大学を出てから十二年間で八回も住居を変えています。
住まいというものが本質的に“仮の宿り”であるという考え方には、もしかするとそういう経験もあずかっているのかもしれません。
閑話休題。
ソローが居を構えたウォールデンの森は、けっして“人里離れた”場所にあったのではありません。
「われわれはとかく、類いまれな楽しい場所というものは、喧噪の巷から遠く離れた、太陽系のはるかかなたの、より天上的な一角に、たとえばカシオペア座の向こう側にでもあると想像しがちだ。わたしはじぶんの家が、ほんとうに宇宙のそうした片隅にあって、しかも永遠に新しくけがれを知らない場所であることを発見したのである」。
ソローはまわりよりも低い位置にあって、うまい具合に森に隠れるようになっている願ってもない立地の住まいを近場に見つけることができたので、わざわざ人跡未踏の僻地に赴かなくても済みました。
しかし、これはたんなる偶然でしょうか。
ソローは森での生活を「実験」と形容しています。
本格的な隠遁ではなく、“ごっこ”とはいわないまでも、いわば“プチ隠遁”であることがソローにとっては重要なのです。
ですから、町から二マイルしか離れていない森をあたかも人跡未踏の奥地であるかのように“見立てて”いることがミソなのではないでしょうか。
「どの隣人からも一マイル離れた森の中」という位置どりを、遠いととるか近いととるかは微妙なところです。
そしてこの微妙さこそが重要なのです。
そもそも、ソローが森に入った理由は何でしょうか。
ソローはこう書きます。
「わたしが森へ入ったのは、思慮ふかく生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものをじぶんが学びとれるかどうかたしかめてみたかったからであり、死ぬときになって、じぶんが生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった」。
つまり、ソローが森に行ったのは、生きるためです。
しかし、生きるためとは、食べていくため、「ビジネス」のためということでもあります。
「わが同胞市民が、わたしに郡役所の仕事も、副牧師の職も、ほかの生業も提供してくれる気配はなく、じぶんでやりくりしていかなければならないことがわかったので、わたしはまえよりもひたむきになって、もっと自分の顔がきく森のほうに顔を向けるようになった」。
擬人法によって森が就職斡旋者であるかのように表現されていることに注意しておきましょう。
『ウォールデン』のなかで、ソローは自然を「血縁関係」によって結ばれた「友人」となんども形容しています。
引用のつづきです。
「わたしはおきまりの資本というものが手にはいるまで待ったりはしないで、前から手元にあったわずかばかりの資金をもとに、さっそく仕事にとりかかる(go into business)ことにした。わたしがウォールデン池へ行った目的は、そこで安上がりに暮らそうとか、贅沢に暮らそうとかいうのではなく、ある個人的な仕事をなるべくひとから邪魔されずにやりとげるためであった」。
「ある個人的な仕事」の原語は some private business です。
岩波文庫版の注は、この「仕事」を処女作である『コンコード川とメリマック川の一週間』執筆と特定しています。
ジェフリー・クレイマー編になる「完全注釈版(A Fully Annotated Edition)」も、この「仕事」にはすくなくとも同書の執筆が含まれるとしています。
小学館文庫版は、「一市民としての大切な仕事」と踏み込んだ訳語をあて、
「家を建て畑を作り、豆を育て、日雇い労働者として収入を得て」「余暇を観察と著述に使い、二冊の著書の原稿の多くを書き、二回の講演をし、三冊目の著書の最初の三分の一を書いた」と注釈しています。
すぐ先のくだりには、こんな一節もあります。
「わたしは、いつもきちょうめんな実務家の習慣(strict business habits)を身につけようと努力してきた」。
「完全注釈版」は、家業であるグラファイト製造業および監視人としてのソローの「商才」に触れています。
いずれにしても、ソローが森に赴いたのは、「ビジネス」のためであり、隠居生活のためではありません。
「邪魔(obstacles)」が入らない環境でいかに「ビジネス」を効率的に遂行するか(transact)を考えた結果のことです。
資本主義社会は効率性を追求する社会だとおもわれていますが、ソローは資本主義の世の中がどんなに不効率であるかをくりかえし説いています。
世間で「必要な品」とされているものは贅沢品にすぎません。現代人はそれなしでも生きていける贅沢品を購入するために貴重な時間を犠牲にして労働に励みます。
結果として、生きるための時間を“無駄”にしているのです。
世間で「貧しさ」と言われているものは、実のところ、「わずかなもので満足できる豊かさ」にほかなりません。
資本主義の世の中になる以前に、「貧困」ということばは存在しませんでした。
ついでに言うと、「孤独」ということばがネガティブないみあいを帯びるようになったのも、世の中が社交にふけるようになり、同じ会話を義務のように反芻することに満足を覚えるようになってからです。
実際には、ひとは他人といるときにしか孤独を感じることはありません。
「わたしはひとりでいるのがすきだ。孤独ほどつきあいやすい友には出会ったためしがない。われわれはじぶんの部屋にひきこもっているときよりも、そとでひとに立ちまじっているときのほうが、たいていはずっと孤独である。ものを考えたり仕事をしたりするとき、ひとはどこにいようといつでもひとりである。孤独は、ある人間とその同胞をへだてる距離などによっては測れない。ハーヴァード大学のにぎやかな寮の一室にいるほんとうに勤勉な学生は、砂漠の修道者とおなじように孤独である」。
有能なビジネスマンは、本質的に「孤独」であるということでしょう(笑)。
スタンリー・カヴェルは書いています。
「『ウォールデン』の言いたいことは、隠遁してひとりになれということではない。そうではなく、われわれがひとりであるということ、そして、けっしてひとりではないということである」(『センス・オブ・ウォールデン』)。
ひとはひとりになるために森へ行くのではなく、ひとりであるからこそ森へ行くのです。
森でひとはじぶんがもともとひとりであることを発見するのです。
つまり森は現実逃避の場所ではなく、現実と向き合うための場所です。
ソローにとって、自己を発見することは、すぐれて世間から隔絶された場所において実現されます。
「迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめる」(第八章「村」)。
カヴェルによれば、ソローにとっての「わが家」とは、そこでひとがじぶんを発見することのできる場所です。
「わたし」が誰であるかがわかるからこそ、その「わたし」のいるところが「わが家」であるとわかるのです。
ぎゃくにいえば、ひとがじぶんを発見するところは、それがどこであれ、「わが家」となり得ます。
「わたしには、どこに腰を下ろそうと、そこがわたしが暮らすさだめの場所におもえた」。
ソローにとって、ひとはたえざる移動、たえざる生成変化の相に置かれています。
それゆえ、自己とは「たえず発見されつづけるもの」(カヴェル)です。
言い換えれば、生きるということが、自己を新たに発見することの連続としてあるのです。
ですから、ひとは「わが家」をいくつももっているということになります。
ソローにとって森へ入ることは、ビジネスのためであり、いわば出張とおなじです。ですから、仕事が済めば引き上げてくることになります。
ソローにとって、居心地のよい森も数ある「わが家」のひとつにすぎないのです。
ソローは書いています。
「わたしは、森にはいったときとおなじように、それ相応の理由があって森を去った」。
「完全注釈版」によれば、この「理由」とは、とりあえずはヨーロッパへの講演旅行に出るエマソンの留守中に一家のお守りをする役目を仰せつかったことです。
しかし、その五年後ほどあとの日記にソローはこう書きつけています。
「わたしはなぜ心変わりをしたのだろう? なぜ森を去ったのだろう? わたしにそれが説明できるとはおもわない」。
さきほどの引用をつづけます。
「おそらく、わたしにはまだ生きてみなくてはならない人生がいくつもあり、森の生活だけにあれ以上の時間を割くわけにはいかないと感じられたからであろう」。
「人生」(lives)は文字どおりに「生命」のいみでとるべきかもしれません。ソローはつづけます。
「おどろくなかれ、われわれはそうとは知らぬ間に、いともたやすく一本のきまった道を歩くようになり、じぶんの道を踏み固めてしまう」。
踏み固められた道は「すり減ってほこりだらけとなり、そこには因襲や順応という深い轍が刻まれてしまうだろう」。
そしてこうつづきます。
「わたしは、一等船室に閉じこもって旅をするよりも、ヒラの船夫としてこの世界のマストの前に立ち、甲板上にとどまりたいと願っていた。そこにいると、山あいを照らす月の光がじつによく見えたからである」。
これは『ウォールデン』最終章からの引用ですが、章の序盤で用いられている“人生=航海”という比喩を引き継いだ言い方です。
ソローが森に入った日が独立記念日と重なっていたことにはすでに触れました。
カヴェルによれば、そのいみで、ソローが森に居を構えたことは、ピルグリム・ファーザーズらの入植の「再演」であるとも解釈できます。つまり、森とはアメリカそのものなのです。
いずれにしても、文明と自然を対立的に捉え、ソローにおける森を“文明”と対置されるかぎりでの“自然”と同一視することはミスリーディングな見方です。
ソローはこう言っています。「野生とは、人間の文明とは相容れない、もうひとつの文明なのだ」(1859年2月16日付け日記)。
ソローと反知性主義:トランプの時代に読むソロー(その6)
2017/03/20
トランプ当選の余波で森本あんり氏の『反知性主義』が部数を伸ばしているようです。
同書で森本氏は、その「独自の近代知性批判」を以て、ソローが反知性主義の伝統の「一角を占めるかもしれない」としています。
アメリカの反知性主義は、入植者であるピューリタンにおける知性の尊重が権威と結びついたことへの反発として起こったものです。
森本氏が強調しているように、単なる知性批判ではなく、知性と権力の結託への抵抗であることが重要です。
反知性主義がすぐれてアメリカ的な現象である所以もそこにあるといえるでしょう。
重要なのは、アメリカ人にとって知性なるものが旧大陸の権威を象徴するものであったことです。
開拓期のアメリカ人たちのなかには、故国で人生に挫折して新大陸に流れてきた敗北者たちも多かったはずです(そもそも人生の成功者なら、わざわざ苦労して海を渡ろうとなどしないでしょう)。
そういう人たちは旧大陸の権威をなんとしても否定したいという根深い怨恨を抱いていたにちがいありません。
「神の下での万人の平等」という福音主義思想が、権威である旧大陸と新参者である新大陸の「平等」を訴えるための絶好の道具になったのは必然であったのです。
ソローはどうでしょうか?
『センス・オブ・ウォールデン』のスタンリー・カヴェルはソローのうちに旧大陸的な哲学への批判を読みとっています。
カヴェルによれば、『ウォールデン』はアメリカの「建国の叙事詩」たろうとした「英雄的な書物」であり、アメリカに固有の言語をもたらそうという野心の下に書かれました。
ソローがウォールデンの森に居を構えたのがほかならぬ7月4日であることはよく知られています。
ソロー自身は偶然を装っていますが、カヴェルによれば、『ウォールデン』においてソローがなしていることはいわば「超越[主義]的独立宣言」なのです。
ドイツにおいていわば国語がルターによる聖書の「翻訳」によってもたらされたのに似て、アメリカの言語も、ヨーロッパ的な「神話」(端的に「聖書」と言い換えてもよいでしょう)の「書き換え」としてもたらされたのです。
カヴェルによれば、ソローの『ウォールデン』は、ヨーロッパ人が「不可解」で「むずかしい」言葉に“翻訳”することで伝わらなくしてしまった「父の言葉」、つまり神の言葉を、地上の人間にはじめて正しく伝えるという使命感に貫かれています。
それは頭でっかちではない、あるいみでいかにもアメリカ的な、地に足のついた「日常言語」への書き換えによって実現されるのだとされます。
ソローはまさにそういう日常的な言葉を使って、とても深い思想を書き綴りました。
アメリカ人にとっての「母の言葉」、つまり母国語は英語であり、そのかぎりでアメリカはイギリスに言語的に従属しています。いわば植民地の民衆が植民者の言葉を押しつけられているのとおなじことです。
アメリカ固有の言葉は、ヨーロッパ人がついに聞き取ることのできなかった(それどころが歪曲してしまった)「父の言葉」すなわち神の御言葉としてもたらされます。
「母の言葉」とはすぐれて話し言葉であり、母親に口伝てに教わるものです。
たいして父の言葉は聖書に記された文字、すなわち書き言葉です。
カヴェルは『ウォールデン』が「書物」という形式をとっていることをことのほか重視しています(ソローが生前に単行本として刊行した著作はごくわずかでした)。
反知性主義においては警戒の対象となることの多い「書物」という形式にソローはあえてこだわっているのです。
その背景には、自然とは神によって書かれた書物であるという福音主義の教えがあります。
このへんは森本氏の本に詳しいのですが、ソローの同時代に、反知性主義を推進した第二次信仰復興運動(リバイバリズム)という福音主義のムーヴメントが起こりました。
その指導者であるチャールズ・フィニーという説教師によれば、神は二冊の「書物」を書きました。その一つは聖書であり、もうひとつは「自然」です。
自然が、そこに神のメッセージを読みとるべき「書物」であるという考え方は、ソローの盟友エマソンにも共有されているものです。
ソローはウォールデンの森を歩き、目を凝らし、耳を澄ますことで、自然のなかに神のメッセージを読みとろうとしたのです。
ソローは生き生きした比喩や擬人法を駆使して、自然界のドラマを、まるで神話の物語のようにエキサイティングに活写しました。
ところでヨーロッパにおいて、伝統的に話し言葉は書き言葉の上位に位置づけられてきました。
文字を媒介させた間接的なコミュニケーションである書き言葉とくらべて、話し言葉のほうがダイレクトでストレートなコミュニケーションを可能にしてくれるからです。
デリダによれば、ヨーロッパの哲学的伝統を支えていたのはこのような「音声中心主義」です。
デリダはヨーロッパ的な主体の「同一性」が、話し言葉における「じぶんが話しているのを[ダイレクトに]聞く」という無媒介性によって保証されているといいます。
ですから、ヨーロッパ哲学において、文字を媒介としたより間接的なコミュニケーションである書き言葉は、そうした主体のアイデンティティを揺るがせる脅威と見なされていたのです。
カヴェルによれば、ソローもヨーロッパ哲学における自己同一的な主体を問いに付したことになります。
超越主義の考えによれば、人間ひとりひとりに「内なる神」(エマソン)が住まっており、ひとは自己を高めることによって(“自己啓発”?)、「内なる神」をこの地上において顕しめることができるのです。
いわば自我を「脱皮」して内部の神性が姿を現すのです。ちなみに「脱皮」は『ウォールデン』のキー・コンセプトのひとつです。
これを、“じぶんイコール神“と解釈するべきではありません。それではトランプ流の唯我独尊の考え方とえらぶところがありません。
むしろ「内なる神」はじぶんにとっての“他者”なのです。
ひとはもともとじぶんのうちに他者を住まわせているのです。
自己の内部での自我と他者のこの分裂をひとは受け入れなければならないのです。
こういう考え方はヨーロッパ哲学にもないことはありませんが、あくまでマイナーな位置づけに甘んじていました。
というわけで、ソロー(およびエマソン)は、ヨーロッパ哲学の亜流ではないオリジナルな哲学を打ち立てたのです。
カヴェルの『センス・オブ・ウォールデン』は1972年に刊行されています。
その六年ほどまえに出たデリダの『グラマトロジーについて』『声と現象』をカヴェルが読んでいた形跡はありませんが、ヨーロッパ哲学批判が「音声中心主義」批判というかたちをとるという、デリダとどうようの見取り図を提出しているのはおもしろいですね。
書き言葉を知性批判の武器に選んだソローの特異性は、アメリカという、スピーチの能力をことのほか重んじる風土においてはなおのこと際立ちます。
その点ではソローは、ジョナサン・エドワーズからドナルド・トランプへと繋がる反知性主義の説教師的伝統とは袂を分かっているともいえます。
ながらくアメリカ哲学はヨーロッパ哲学の下に位置づけられてきました。現在もなおそうでしょう。
カヴェルは『センス・オブ・ウォールデン』において、ソローをカントら旧大陸の大哲学者たちに劣らぬ哲学者として評価することで、アメリカ哲学をヨーロッパ哲学のくびきから解放しようとしたのだといえましょう。
そのいみではカヴェルの本そのものがあるいみで反知性主義的な伝統につらなるといえないこともないですね。
ソローの政治的信条にも、反知性主義的なところがあるとおもわれます。
森本氏が前掲書で「セクト型」の福音主義の特徴として挙げている「地上の制度、組織を絶対視せず、自分自身の理性や信仰を唯一の判断の拠り所と」し、「『権威』とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ」という思想は、ソローの思想と重なるところが大いにあります。
とはいえ、上に述べた哲学批判そのものがすぐれて「政治的」な射程をもつものであることは、カヴェルも指摘しているところです。
森本氏は、ソローは「説教壇をもたない説教者」であるとするエマソンの言葉を紹介していますが、言い得て妙ですね。
ちなみに森本氏がみずから自著の“ネタ本”として挙げているホフスタッターの『アメリカの反知性主義』では、ソローは機械文明への「人道的抵抗」者として、ごくあっさり触れられているだけです。
また、森本氏はエマソンの「反知性主義」にも頁を割いていますが、ホフスタッターの著書では政治的ないみでの「反知性主義」と純粋に哲学的ないみでの「反合理主義」とが別物とされており、エマソンはもっぱら後者のカテゴリーにくみこまれています。
ホフスタッターによれば、ソローには「アメリカの未来への情熱は無縁」であるということになります。
ホフスタッターも森本も、ソローを文明に背を向けた隠者であるとする俗見にとらわれているようにおもわれます。そこでは文明と自然の素朴な二項対立が前提されています。
森本氏の本にはこうあります。「『超絶主義者』の一人として、ソローも森には神的なものが宿っていると思っており、そこに住めば堕落前の自然な楽園に住む純粋無垢なアダムのようになれると考えていた」。
カヴェルの本を読むと、どうやらそうではないらしいことがみえてきます。
森本氏は「ウォールデンはコンコードという町からほんの二キロしか離れていないが、それでも森は森である」とヤケ気味に書いていますが、カヴェルによれば、じつはこの微妙な距離のとり方にこそソローの“隠遁”のいみがあったりするのです。
そのへんについてはいずれ稿を改めてお話することにいたしましょう。
ソローからウィトゲンシュタインへ:トランプの時代に読むソロー(その5)
2017/03/16
ソローは民主主義の先にある政治形態として、「個」にもとづく体制を夢想しています。
ソローは絶対君主制から立憲君主制、そして民主制への移行を“発達”として捉えているようにみえます。つまり、諸体制をヒエラルキー化し、現時点での最良の形態として民主制を位置づけているようにみえます。
けれどもソローの「個」にもとづく体制とは、もしかしたらとくていの体制としてではなく、むしろ諸体制間のヒエラルキーを相対化する民主主義として実現されるべきものであるかもしれません。
シャンタル・ムフは、最良の政治のあり方を合理的に導出しようとするハバマスやロールズを批判し、いかなる体制をも特権化しないような多元主義的な民主主義(“ラディカル・デモクラシー”)を唱えています。
その構想においてムフが参照しているモデルのひとつがウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念です。
ゲーム理論の一変種としての「言語ゲーム」概念を政治哲学に応用しようとする試みは、英米では早い時期からなされてきました。
たとえば先駆的な仕事であるピーター・ウィンチの『社会科学の理念』は、『哲学探究』の刊行からわずか五年後に発表されています。
ウィトゲンシュタインが想定する「ゲーム」の特異性は、クリプキがクローズアップしたつぎのような「パラドクス」です。いわく、
「規則は行為の仕方を決定できない」(『哲学探究』)。
「言語ゲーム」という「ゲーム」においては、奇妙なことにルールが明らかにされていません。
ふつうであれば、ルールがわかっているからゲームがはじめられるわけです。
「言語ゲーム」においては、そのルールが知らされていません。
ですからプレイヤーは、プレイをおこないつつ、じぶんがルールに則っているかどうかがわかりません。
アダム・スミスやロールズが想定しているような、規則に則り合理的にふるまう個人がここでは前提されていません。
それどころかウィトゲンシュタインはこう言っています。
「私は規則に盲目的にしたがう」。
そもそもウィトゲンシュタインによれば、「意志」なるものは行為の主体に内発的なものではなく、行為が行われた諸状況から遡って事後的に想定されるものにすぎません。
これは政治的な行為においてもどうようです。
早くも初期の『論理哲学論考』でつぎのように言われています。
「倫理的なものの担い手としての意志については語ることができない」。
政治哲学におけるウィトゲンシュタインの参照は、行為主体の「意志」を問題にする規範的なものから数理科学的なものへのパラダイム転換に対応していたともいえましょう。
ウィトゲンシュタインによれば、むしろ意志そのものがひとつの行為なのだということになります。
「意志活動は行為の原因ではなく、行為そのものである」(『手稿』)
くだんの「パラドクス」をクリプキはつぎのような例によって説明しています。
57までしか数を勘定したことのない人が、「57+68=?」という問題の答えを「125」と答えたとします。
これが正解とみなされるのはつぎの二つの条件が満たされたばあいのみです。
(1)算術的ないみにおいてであれば、正解です。
(2)「+」を計算主体がこれまで加法をいみするものとみなしてきたのであれば、正解で
す。
とはいえ、ある人が正解は「5」であると答えたしても、これに反論することはできません。
もしかしたら、「+」は、57まではプラスとおなじいみなのに、57より大きな数においてはすべて「5」になるというルールの記号かもしれないからです。
「+」のいみはプラスではなく、そのようなルールにもとづく「クワス」かもしれないのです。
ルールが明らかにされていないので、あらゆる行為がルールに適っているとみなしうるのです。
すくなくとも、それがルールに背いていると証明することはできません。
そのいみで、ルールに背くということは不可能なのです。
このケースにおいて、正解を決定するのは私という計算主体ではなく、この規則(プラスなり「クワス」なりの)を共有している共同体です。
ウィンチによれば、何が社会的に有用な行動であるかを決定するのは行為者じしんの意志ではなく、共同体であるということになります。
とはいえ、その「共同体」とは、われわれが現にそこに住まっている共同体のことではかならずしもありません。
柄谷行人が言うように、「言語ゲーム」の舞台はひとつの共同体内部ではなく、いわば共同体と共同体の間です。
わたしたちは、わたしたちが現に住まっている共同体内部での行動の規則なら知っています。
しかし、わたちたちの共同体でのルールを共有しない「他者とのコミュニケーション」(柄谷)においては、あらかじめルールがわかっていません。
ルール以前にまず行為があり、試行錯誤のすえにこうふるまえばよいというルールがみえてくるのです。
ムフが考えているのは、このように習慣や価値観を共有しない他者どうしが形成する共同体のことだとおもえばよいでしょう。
言語ゲームにおいては規則にしたがってプレイすることが目標になります。とはいえ、その場合の規則を共同体内部のルールととらえてしまうと、わたしたちが所属する共同体への順応が目標であるということになってしまいます。
ウィトゲンシュタインによれば、わたしたちはとくていの「生活形態」(生の様式、Lebensform)に文脈づけられています。
ハイデガーなら「世界内存在」と言うところです。
世の中は、あらゆる文脈から自由な普遍的な個人から成り立っているわけではありません。
とくていの共同体に所属しているということも「生活形態」のひとつのあり方でしょう。
しかし、「生活形態」という「所与」はわれわれじしんには隠されています。
すでにのべたように、わたしたちがじぶんの行為の理由を知ることができないのとおなじです。
おなじように、わたしたちはじぶんのつかう言葉のいみをはっきり知りません。
ウィトゲンシュタインによれば、わたしたちがつかう言葉のいみを決定するのは、発話者であるわたしたちじしんではなく、共同体の規則です。
『哲学探究』ではつぎのように言われています。
「正しかったり誤ったりするのは、人間の言っていることだ。それは意見の一致ではなく、生活形態の一致である」。
むずかしい一節ですが、ことばの表面上のいみ(「意見」)で合意することはほんとうの合意とはいえません。
ひとつのことばは文脈しだいでいろいろないみをもちうるからです。
たとえば、多くの政治哲学者が「自由」とか「平等」というタームを使っていますが、その使われ方はさまざまです。
ですから、あるひとがあることばをどのような文脈でつかっているかを明らかにしないかぎり、意見の一致は望めません。
もっと厳密にいうと、そのひとがどのような「生活形態」のなかに埋め込まれており、その「生活形態」がどんなことばのつかいかたを発話者に強いるかをあきらかにしなければなりません。
ここから、スキナーやタリーといった政治哲学者は、どの理論が正しいかを判断するためには、政治哲学のタームが各論者らによってどのような文脈すなわち「生活形態」に基づいてつかわれているかを解明することがひつようだとのべています。
ムフがおもいえがくのは、このように多様な「生活形態」に文脈づけられている人々が共存し、どの「生活形態」も特権化されないような民主主義であるといえましょう。
そこでは合理的な討論においてハバマスが想定しているような最終的な「合意」は目指されず、永続的な討論によって限りなく合意に漸進していくしかないようなヴィジョンが前提されています。
ウィトゲンシュタインが語の「意味」とはその「使用」であると述べているように、そこでは規則が最終的なかたちで確定することがなく、規則のさまざまな「使用」がいごこちわるく共存(ムフのことばでいうなら「敵対」?)していることになるでしょう。
そのいみでラディカル・デモクラシーは、いつの日か到来することを約束されたとくていの政治形態のことというよりも、いわばつねに“来るべき”というかたちでしかあり得ない民主主義であるといえます。
そのようなデモクラシーのあり方についてムフがヒントを仰ごうとしているのは、ウィトゲンシュタインの批判的な継承者であるスタンリー・カヴェルです。
カヴェルはソローの代表的な注釈者でもあり、『センス・オブ・ウォールデン』というソロー論があります(同書にしっかり邦訳があることを『ヘンリー・ソロー / 野生の学舎』の今福龍太氏はご存じないようです)。
カヴェルはソローの盟友エマソンの道徳的完成主義(moral perfectionism)に依拠して上のようなヴィジョンを提示しています。
カヴェルのエマソン論の一冊は、ソローの『メインの森』からとられたとおぼしきつぎのようなタイトルを戴いています。
「このあたらしき、しかしいまだ至り着くことなきアメリカ」(This New Yet Unapprochable America)
「アメリカ」という大いなる理念はまだ実現途上にあります。新大陸はいわばまだ発見されてさえいないのです。アメリカの国境はいまだ閉じられてはおらず、おそらくアメリカという国が存在するかぎり、永久に閉じられてしまうことはないでしょう。これがどんなに反トランプ的な考え方であるかはわかっていただけるとおもいます。
ジョン・ブラウンからアンティゴネーへ:トランプの時代に読むソロー(その4)
2017/03/05
ジョン・ブラウンは奴隷制を認める政府を、神の名の下に破壊しようとしました。
絞首刑に処されたジョン・ブラウンの行為は、同じく縊死したもうひとりの反逆者の運命を思い起こさせます。
ギリシャ悲劇のヒロインで、オイディプスの娘であるアンティゴネーです。
反逆者である兄の遺体を葬ることを禁じた王クレオンの言いつけに背き、アンティゴネーは衆人環視のなかで兄の亡骸に砂をかけ、反逆罪で死刑を宣告されます。
生きながらにして岩屋に閉じこめられたアンティゴネーは、首を括って自殺します。
アンティゴネーの行為を“暴力”と言えるかどうかはわかりませんが、かのじょの行為には、ジョン・ブラウンの“神的暴力”につうじるところがあるとおもいます。
ヘーゲルの有名な解釈によれば、クレオンとアンティゴネーの対立は、国家の法と家族の法の対立、もしくは地上の法(ノモス)と神々の法(フュシス)の対立ということになります。
アンティゴネーは、人間の法は生きている人間だけに及ぼされるものにすぎず、死者を縛ることはできないと訴え、神々の法の名の下に法を侵犯します。
アンティゴネーの考えを敷衍すれば、人間の法は普遍的ではありません。それがより根本的なさだめに背いたとき、人間の法は破壊されなければなりません。
そのための手段が神的暴力です。
アンティゴネーの行為を神的暴力に帰すことはかならずしも根拠のないことではありません。
スラヴォイ・ジジェクは神的暴力の究極的な現れをフランス革命政府による恐怖政治において見てとっています。
独裁者ロベスピエールはもともと平和主義者であり、フランスを戦争に巻き込まないために恐怖政治を敷きました。
独裁は、人民をあやまった政府から守るという大義の下になされました。
ジジェクによれば、マルクス主義的な「プロレタリア独裁」の出発点がここにあります。
マルクスやレーニンが唱えたプロレタリア独裁は、国家から権力を奪い取るための過渡的な体制であり、最終的には人民に権力を委譲することでみずからは消滅しなければなりません。
『リバティ・ヴァランスを射った男』のジョン・ウェインのように、神的暴力をふるった者は消え去らねばならない運命なのです。
ところでジョージ・スタイナーによれば、アンティゴネーのリヴァイヴァルはフランス革命と軌を一にしています。
18世紀までのヨーロッパは、ギリシャ的な理想をホメロスのうちにみてきました。
18世紀末頃から、アッティカ悲劇がそれにとって代わります。そのなかでもアンティゴネーには特別な待遇があたえられました。
スタイナーによれば、その背景にあるのは、この時代に政治的なものと私的なものとの齟齬が前景化したことです。
その“悲劇的な”葛藤を当時のひとびとはギリシャ悲劇に重ねみていたというわけです。
ソローによれば、ジョン・ブラウンはその狂信的なまでの使命感によって「超自然的な存在」とおそれられていました。
いっぽうソフォクレスの『アンティゴネー』においては、合唱隊がヒロインのことを「非人間的」と歌う有名なくだりがあります。
ジョン・ブラウンもアンティゴネーも、神的な秩序にみずからを完全に委ねることによって、人間としての存在を捨て去っていたのだといえます。
いわばかれらは生きながらにしてすでに人間としての生を放棄していたのです。
アンティゴネーはじっさいに生きながら埋葬される罰を受けます。
ソローはジョン・ブラウンが“死ぬことのできた”数少ない人間のひとりであると述べています。
ジョン・ブラウンは死に方を知っていたからこそ、人間らしい生き方を知っていたのだと。
この場合の“死ぬ能力”とは、いうまでもなく生物学的な死とは別次元の死です。
ソローに言わせれば、生物学的な死とは「いつの間にかいなくなる」ことでしかありません。
ここでいう“死ぬ能力”とは、みずからの内なる絶対者のまえにおのれをどこまでも虚しくし、ついにはおのれの存在を抹消し去る覚悟のことであるといえましょう。
ソローはジョン・ブラウンの死刑を屈辱ではなく栄誉であるといわば言祝ぎました。
アンティゴネーも死刑判決に抵抗しませんでした(そのいみでは暴力というよりも無抵抗主義に近いかもしれません)。それどころかかのじょはみずから首を括って果てたのです。
じっさいラカンはアンティゴネーに「死の欲望」の純粋な現れをみてとっています。ここで問題にされているのは、生物学的な死とは別の「第二の死」のことです。
一頃はやった「生きさせろ」というコピーの代わりに「死なせろ」と訴えるべきときがきているのかもしれません(?)。
ソローと西部劇:トランプの時代に読むソロー(その3)
2017/03/04
ハリウッドの“良識派”がしきりにトランプにかみついていますが、売名行為にしかみえません。
人種間の比率をクオータ化(?)すれば“多様性”が保てるとでも言うかのようなアカデミー賞をめぐる単細胞的デマゴギーにも心底辟易します。
閑話休題。
ソローは南北戦争開戦の翌年に生を終えています。
ソローが生きたのは西部劇映画の舞台になっている時代です。
ソローが熱烈に弁護したジョン・ブラウンの行動も、『カンサス騎兵隊』(マイケル・カーティス監督)などの作品で描かれています。
西へ西へと領土をひろげつつあったアメリカ。フロンティアの最先端は無法地帯どうぜんの土地です。
守ってくれる法律がないので、開拓者はじぶんでじぶんを守るひつようがありました。
アメリカにおける自警の伝統はこうして生まれました。銃社会となったアメリカは、いまなおそのツケを払い続けています。
なにをなすべきかの判断は法律にではなく個人に委ねられ、それゆえ個人はじぶんじしんを裁く責任をも負わねばなりません。
ソローが理想とする「個」に立脚する社会のありかたがここにあります。
一歩まちがえば無政府主義に陥ります。
たとえばリンチです。
事件の容疑者を住民がリンチにかけようと追いつめ、保安官が「法と秩序」の名の下にそれを必死にとめるというシーンを西部劇映画ではひんぱんにみかけます。
西部劇映画では法がすぐれて相対的なものとみなされています。
それを典型的に示す傑作がクリント・イーストウッドの『許されざる者』です。
主人公は、いまや保安官におさまっている男に妻を殺された復讐を遂げます。
かれの行為は違法行為です。かれはもじどおりの outlaw です。
しかしわれわれはかれの行為をもっともだとおもい、喝采さえ送ります。
犯罪者が英雄(正確にはアンチヒーロー)になり、法の番人が悪役にまわります。
イーストウッドは、ときには法を無視してまで犯人を追いつめるダーティ・ハリーを演じて人気者になりました。
ダーティ・ハリーはいわば西部のアンチヒーローの現代版です。
『許されざる者』の保安官はサディスティックな人物ですが、法をやぶった者にたいするかれの厳格な処罰ゆえに町の平和が守られています。
かれには、マイホームの完成を心待ちにする小市民としての側面もあります。
というわけで、『許されざる者』において、善悪の基準はきわめてあいまいになっています。
ジョン・フォードの『リバティ・ヴァランスを射った男』は、しぶしぶ保安官を引き受けた武器の扱いさえろくに知らない男が無法者を撃ち殺し、町に法の支配をうちたてます。
しかし、じつは無法者を仕留めたのはもの影から保安官を掩護射撃したかれの恋敵でした。
すぐれた銃の使い手であるこの男は、保安官と同時に引き金を引き、まるで保安官の放った銃弾が相手を倒したのだと誰もに信じこませます。
一般市民でしかないこの男の仕業は違法行為です。
しかし、この男のしたことは誰も知りません。完全犯罪です。
この男の行為は、あるいみでベンヤミンのいう「神的暴力」といえます。
町に法の支配を敷くためには、その法を法として認めさせる「上位の法」(ソロー)がひつようです。
根拠のない法には誰もしたがおうとしないでしょう。
ただし、みずからが権威たりえない法にしたがおうとするひともいません。
ですから、法をうちたてる「上位の法」は、法がうちたてられると同時に消滅しなければなりません。
『リバティ・ヴァランスを射った男』はこのような法なるもののぎゃくせつを描いたひとつの寓話として読み解くことができます。
西部劇映画の主人公がよく口にする台詞に「為すべきことを為す」というのがあります。
たとえば決闘に赴く主人公を止めようとする恋人に向かって主人公がそう答えます。
「為すべきこと」とは何でしょうか?
それは保安官という職務かもしれず、愛するひとをころされた復讐かもしれません。
しかし職務や復讐それじたいがかれの目的でないことを西部の男は知っています。
かれが命を賭けて守らなければならないのは、「個人」としての名誉です。
じぶんの唯一の導き手である内なる声に殉ずることです。
アンソニー・マンやジャック・ターナーやクリント・イーストウッドの西部劇の主人公は、どこか幽霊然としています。
かれらは自由意志によって行動しているのではなく、人知のおよばない内なる存在にあやつられているかのようです。
じぶんの行動のいみをかれらは説明できません。
「為すべきこと」とでも言うほかにないのです。
「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」のソローも生きることのいみを同じ言葉でいいあらわしています。「為すべきことを為し遂げよう」と。
誰がアメリカン・スピリットを殺したか?:トランプの時代に読むソロー(その2)
2017/03/02
つい数時間前のこと、トランプは施政方針演説において「アメリカン・スピリットの復活(renewal)」を唱えました。
トランプがいかにアメリカン・スピリットを葬り去ろうとしている張本人であるかについては前号でお示ししたとおりです。
みずからがもたらした社会的分断を修復しようというお涙頂戴の呼びかけがもくろんでいるのは、“他者”を丸め込むことにほかなりません。
トランプにとって“他者”は排除するか、それができなければ内にとりこむことで亡き者にするべき存在でしかありません。
いまひつようなのは、ぎゃくにアメリカ社会の分断を正面から見据えることではないでしょうか。
ソローは南北戦争によって引き裂かれた祖国のただなかで生を終えました。
いまのアメリカはあの頃と同じふかい亀裂を内に抱えてくるしんでいます。
内戦の悪夢を再来させないためにも(その内戦はすでにはじまっているのかもしれません)、“真実” をしかとみつめることがもとめられているのです。
さもないとアメリカはほんとうに滅びてしまいます。
南北戦争開戦前夜の1859年、奴隷解放運動家ジョン・ブラウンが息子らの一隊を率いて政府の武器庫を襲撃し、反逆罪のかどで死刑判決を受けます。
ブラウンの意図はじぶんが先陣を切ることによって奴隷に一斉蜂起を呼びかけることでしたが、その呼びかけに応えてかれにつづく者はいませんでした。
奴隷解放論者らも暴力反対というたてまえからブラウンへの支持をつぎつぎにとりけしました。
そこでソローは地域の名士らの反対を押し切って集会を開き、村民らをまえにブラウン弁護の熱烈な演説をぶちました。
「シャープ式ライフル銃と連発ピストルは、今回はじめて正義のために使用されました。これらの飛び道具は、ついにそれを使うにふさわしい人間の手に握られたのです」(「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」)。
人殺しの道具である銃そのものをソローは否定しません。
「問題は武器にあるのではなく、それを使う者の精神にあるのです。かれほど同胞を愛し、やさしく扱った人間は、いまだかつて、アメリカに出現したことはありませんでした。かれは同胞のために生きたのです。かれはみずからの命を拾い上げると、それを同胞のために投げ出しました」。
ソローはジョン・ブラウンの“暴力”を、政府による「野獣的な暴力」「悪魔的な暴力」と区別しようとしています。
「兵士ではなく平和を好む市民、俗人よりも牧師、戦闘的な宗派よりもクウェーカー教徒、しかも男のクウェーカー教徒よりも女のクウェーカー教徒――こうしたひとびとによって奨励される暴力は、ふつうの暴力とは異なっているのではないでしょうか」。
「暴力批判論」のヴァルター・ベンヤミンであれば、これを「神話的暴力」と区別して「神的暴力」と言うかもしれません。
人間のつくった法律は、為政者が国民を縛って言うことをきかせるための暴力をともなっています。ベンヤミンによれば、これが「神話的暴力」ということになります。
それにたいして、法を法として認めさせる上位の法、ソローのことばでいうなら「法の上の法」、あるいは「人間を正当に束縛する永遠の法律」があり、人間をこれにしたがわせるためにいわば神の手によってふるわれる暴力が「神的暴力」です。
悪法もまた法です。法がひとの道を踏み外したときに、しょせんはひとのさだめたものにすぎない法を破壊するための暴力が「神的暴力」と言えるでしょう。
ソローの考えを押し進めれば、くだんの暴力は人間ジョン・ブラウンによってというよりも、ジョン・ブラウンという人間のなかの神によってふるわれたということになります。
ジョン・ブラウン自身がこう語っているそうです。
「わしは、だれかにそそのかされてここに来たのではない。わし自身と、わしをおつくりになった神様とにうながされてやってきたのだ。人間のかたちをした主人など、いっさい認めるつもりはない」。
ソローはこう書きます。
「ある書き手によれば、ブラウンはその異様なまでに執念ぶかい性格によって『ミズーリ州から超自然的存在として恐れられていた』そうです。たしかに英雄は、われわれ臆病者のなかにあっては、つねに大きな恐怖の的となります。かれはまさしくそうした人間でした。かれは自然を超える存在であることを、みずから証明しています。内部に神性のひらめきをもっているのです」。
ジョン・ブラウンは内なる神の声にしたがって行動を起こしたというわけです。
ソローによれば、自分個人の都合によってこの声にしたがわない自由は人間にはあたえられていません。
「みなさんは内なる光にさからってまで、自分の意志であれこれしようという契約を自己とのあいだに結ぶ、いかなる権利をもっているというのでしょうか? 自分でものごとをきめ、なにごとであれ自分で決断する、などという身勝手が許されてよいものでしょうか? また、正しいと確信せざるを得ない場合でも、自己の理解を越えたものについてはこれを受け入れない、などという身勝手が許されてよいものでしょうか?」
ソローが救おうとしているのはもはやジョン・ブラウンという一個人ではありません。
「わたしはかれの命乞いをしているのではなく、かれの人格――かれの不滅の生命――を弁護しているのです」。
ソローはつぎのように言うことさえ辞しません。
「きわめて重大な事件においては、人間のつくった法律をやぶるかどうかということは、まったく問題にならないのです」。
もはや無抵抗主義に甘んじることなく、ソローは暴力による抵抗を力強く肯定するに至ります。
「ひとは奴隷を救出するためなら、暴力で奴隷所有者に干渉する完全な権利をもっている、というのがかれ独特の教義でした。わたしはこの意見に賛成します」。
納税を拒否して投獄されたソローは、「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」という考えから、刑罰を甘んじて受け入れました。
ジョン・ブラウンにたいする死刑判決をもソローは同じように受け止めました。
「絞首刑こそ、この国がかれらにささげることのできた最高の賛辞だったのです。[……]国家は長きにわたって裁判をひらき、多数の人間を処刑してきましたが、これまでは、処刑されるにふさわしい人間をひとりも見つけることができなかったのです」
死刑判決はジョン・ブラウンの栄誉であり、勲章なのだというわけです。
「今回の事件は、アメリカがこれまで耳にしたこともないほどすばらしいニュースです」とニュース嫌いのソローは皮肉まじりに述べ、すこし誇張した言い方でつぎのようにも述べています。
「わたしは、かれが釈放されたというニュースがいまにもとびこんでくるのではないかと、はらはらしているくらいです。たとえかれがさらにいきながらえて、どのような人生を送ったところで、その死ほどには世の中を益することはないのではないかとおもわれるからです」。
これは悪趣味なジョークではありません。
ソローによれば、ジョン・ブラウンとその一隊は、「われわれに死に方を教えてくれることによって、同時に生き方をも教えてくれた」のです。
「今回の事件は、死という事実が存在すること、つまり、人間には死ぬ可能性が残されているのだということを、わたしにはっきりと思い知らせてくれます。アメリカにはかつて、死んだ人間などひとりもいなかったような気さえするのです。死ぬためには、まず生きなくてはならなかったからです」。
ベンジャミン・フランクリンやジョージ・ワシントンといった傑出した人物にして、ソローにいわせれば「死をまぬがれた」ということになるようです。「かれらはある日、ふと行方不明になっただけです」。「天地創造以来、死んだ人間はわずか六人くらいのものです」。
会場に上がった遠慮がちな笑い声が聞こえてきそうです。
ジョン・ブラウンはいかに死ぬかを示してみせることによって、ぎゃくにどう生きるべきかをおしえてくれています。
「われわれはいまや、どう死ねばよいかをすっかり忘れてしまいました。とはいえ、みなさんは、死がかならず訪れることをけっして忘れてはなりません。なすべき仕事に取り組み、それをやりとげようではありませんか。幕の開け方がわかれば、幕を引く時期だってわかるものです」。
これこそアメリカ的な精神というべきではないでしょうか?
しかし、ジョン・ブラウンの教えを受け止めた人はわずかでした。
「新聞編集者たちもまた、ジョン・ブラウンがこうした仕事の遂行を自己の使命と考えたこと、つまり、じぶんというものを一瞬たりとも疑わなかったことを、かれの“狂気”の証拠だとしています。[……]かれらの言い草では、人間が死ぬことは失敗であり、どんな生き方であろうと生きながらえることが成功だ、ということになるようです」。
ソローによれば、何をすべきかを教えてくれるのは他人ではないし、ましてや政府ではありません。自己の内なる声に耳を澄ますことによってのみ、ひとは何をなすべきかを知るのです。内なる声にしたがおうとする人間の意志にさからって、そのひとに言うことをきかせようとする権利など、政府にも、だれにもありません。
「どんな人間でも、じぶんが正当であれば、おのずからそれとわかるものであり、その点にかけては、世界中の知者もかれを啓発することはできません。殺人を犯した人間は、つねにじぶんが罰せられるべきであるということを知っています。けれども、ある政府が当人の良心の同意を得ることなく、そのひとの生命を奪うとすれば、それこそ無謀な政府というものであって、政府はみずからの崩壊に向かって一歩を踏み出していることになります。個人のほうがただしく政府のほうがまちがっているということもあり得るのではないでしょうか?」
「市民の抵抗」というエッセイのなかで、ソローは行動の判断を「個人」に完全に委ねるような政体の到来を夢想しています。
「絶対君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進歩は、個人にたいする真の尊敬に向かっての進歩である。現在、われわれが知っている民主制は、はたして政治において可能な進歩の最終的段階を示すものであろうか? 人間の諸権利を認め、それを体系化する方向に向かって、さらに一歩前進することはできないものであろうか? 国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は現れないであろう」。
「つながる」ことばかり考えているわたしたちには耳の痛い話です。つながるのではなく、ひとりの「個人」として政府に対峙せよ。ソローはそう教えているのです。