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精神分析と映画をめぐる読書案内

パーカー・タイラーを読む(その8)

 
 




 (承前)

 パーカー・タイラーのエッセー Charade of Voices のさいごのパートは「アンチクライマックスの声」と題されている。

 考察の対象となるのはディズニーの音楽アニメーション「メイク・マイン・ミュージック」シリーズの一篇『くじらのウィリー』。

 歌うクジラの噂を聞きつけた興行師が捕獲に乗り出す。三つの喉をもち、三声を唱い分けるウィリー。興行師は三人の歌手がウィリーに呑み込まれているのだと思い込み、救出すべくウィリーを殺してしまう。ウィリーは天国で永遠に美声を奏でる。

 声はいいが巨体でルックスに難のあるウィリーはメトの歌手の寓意である(「集団の声」のパートではメト歌手が鳥になぞらえられていたのをおもいだそう)。

 ネルソン・エディーがすべての歌のパートを担当している。タイラーによれば、ネルソン・エディーはルックスはいいが声に難があるためにメト歌手の夢を絶たれた数知れぬ歌手たちのひとりである。

 タイラーはこのキャスティングにハリウッドの声の charade をみいだす。

 ほんもののメト歌手を起用しなかったことが妙味である。

 物語のうえではネルソン・エディーの声がメト歌手級の声ということになっているわけだ。

 それによって、この物語に、いまひとつの寓意がつけくわわる。

 メト歌手の夢やぶれた歌手たちの復讐というそれである。

 殺されるウィリーはメト歌手でもあり、元メト歌手志願者たちでもある。

 本作が涙を誘うのはそれゆえである。

 ネルソン・エディーのキャスティングゆえにこの物語が一篇の moral tale となる。

 タイラーは本作ではじめてネルソン・エディーの声に聞き惚れた。その理由をおおよそ上のように分析している。

 本作においても声は反リアリズム的な作為として用いられている。そして声という要素が演出の要と位置づけられている。

 あるいみでこのさいごのパートが本エッセーのなかでいちばんタイラーらしい文章かもしれない。