ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2017-01-19(Thu)

 給料日を前にして、あまり手持ちの金がなくなってしまった。実はわたしには今後大きな試練が待ち構えてるので、無駄遣いはしたくない。ただ、金があるうちにパソコンを買い、携帯を買い替えたい。試練はそれからだ。そんなことをあれこれと考えて、明後日のCowboy Junkiesのライヴ、キャンセルしてしまった。行きたかったことはたしかだけれども、けっきょくCowboy Junkiesの「おさらい」も出来ないままになってしまったし、しょうがないかと。四月にはローザスも来日して二公演やるようだし、水族館劇場の公演も始まる。やはりここはセーブしなければ。
 今日は南のスーパーで一割引きの日なのだけれども、何でもかんでも買ってしまうようなことは慎む。ただ、おでんのセットがかなり値引きされていたので買い、ジャガイモも一個38円だったので「ま、いいか」と、三個買う。ジャガイモも安いときには一個28円とかになるのだけれども、最近はなかなかそこまでに安くならない。まだ冷蔵庫にもやしが残っているので、今日はもやしを使っての献立にするけれども、明日は「おでん」で決定。ジャガイモも入れて、二日分はあるだろう。

 携帯については、いったいどこがいちばん安いのか、ネットで調べてみたりしたのだけれども、毎月の支払額でいうとTSUTAYAのものがいちばん安いようだ。ただ、最初に携帯本体を買うわけで、これが三万ぐらいするようだ。これが分割払いだと仮定すると、一ヶ月千円で三十ヶ月ということになる。はたしてそういうことを考え合わせて、ほんとうに安いのかどうか。もうちょっと検討してみた方が良さそうだ。どうもこういうことを考えるのは苦手。

 夕食には、予定通りもやしを使って、豚肉ともやしの炒め物。またシャンタンを使ってのお手軽調理だけれども、おいしく出来た。「食費をかけない」ということでは、「もやし」という食材がすぐに思い出されてしまうのだけれども、「手間がかからない」ということでも、もやしは優等生である。それに、もやしをたくさん使う分には、大きな失敗というのが起こりにくいということもある。もっと活用してあげたい食材ではある。

 このところ、ニェネントをばっちり撮った写真というのがあまりないので、ちょっとニェネントを押さえつけて撮ってみた。あら、かわいい〜。なかなかにプリティーではありませんか。このところ、「やっぱりニェネントもおばさんになって来たか」と思っていたけれども、まだまだ可愛いですよ。

    f:id:crosstalk:20170118181815j:image:w400

 

[]「バルタザールどこへ行く」(1966) ギスラン・クロケ:撮影 ロベール・ブレッソン:脚本・監督 「バルタザールどこへ行く」(1966)   ギスラン・クロケ:撮影 ロベール・ブレッソン:脚本・監督を含むブックマーク

 ずっと前に「ひかりTV」で放映されていたのを録画してあった作品で、「これは特別な作品だから」と、今の今まで観ないでしまい込んだままにしていた。そういう作品はハードディスクの中にあれこれとたまっている。こういう作品は「観てしまったから」と消去するようなことはぜったいにないわけで、ふだんは観た作品は消去して、それで新しく録画して行くというローテーションでやっているけれど、こういう「消去しない作品」を観ても、回転効率はよろしくないわけである。そういうこともあって、「消去しない作品」というのはなかなか観なかったりするのだけれども、「そんなんじゃ録画した意味がないじゃないか」と、やはりどんどん観て行くことにした。いろいろとそういう「消去しない作品」=「名作」はあるのだけれども、今日はまず、ブレッソン監督の「バルタザールどこへ行く」を観る。

 この作品、わたしは高校生の頃にアートシアター系で封切られたときに観ていて、おそらくは日劇文化で観たのだと思う。パンフレットも買って持っていたけれども、そのパンフレットもいつか処分してしまった。惜しいことをした。それ以降今まで、この映画は観たことはないと思う。ひょっとしたら、もういちどぐらい観ているような気もしないではないけれども、まあ四十何年ぶりに観ることになるのだろう。
 そして、去年だかに、この作品で主役のマリーを演じたアンヌ・ヴィアゼムスキー、彼女の書いた「少女」という<小説>を読んだこともあり、この映画でのロベール・ブレッソンの演出姿勢というか、そういうことにも興味を持ってしまっていた。そしてついに、この「バルタザールどこへ行く」を観た。

 ‥‥いかん。わたしはそもそも、動物モノ映画に極端に弱いのだった。しかもこの演出。もう、映画の後半には目に涙がたまってしまい、それが終盤にはポロポロと目からこぼれてしまう。ラストはもう嗚咽というか、映画館で観たのではなくって、家でひとりで観ていてよかった、と思うのだった(こうやって今、この文章を書いていても、思い出して涙目になってしまう)。

 原題の「Au hasard Balthazar」とは、「バルタザール行きあたりばったり」とかいう意味合いらしい。そこからは運命に翻弄されるロバのバルタザールの、そのさまざまな遍歴を考えてしまう。主人公のマリーの家と、農園主の息子ジャックの家とが蜜月時代にあったときに買って来られたロバの子は「バルタザール」と名付けられ、マリーら子どもたちに「洗礼」のまねごとを施される。ジャックとマリーは無邪気に、「将来はいっしょになろう」と誓い合うような仲だったけれども、蜜月時代は終わり、ジャックの家族はマリーの家を訪れなくなってしまう。マリーの父とジャック家とは裁判で争うことになり、バルタザールの持ち主も変わり、バルタザールは荷役に酷使されるようになる。何年も経って、そんな主のところから逃げたバルタザールは、今は住む人もなくなった昔過ごした家へとやって来る。そこでマリーと再会し、バルタザールはふたたびマリーとの生活をはじめる。近所のパン屋の不良息子のジェラールはマリーを手に入れようとし、バルタザールに暴力を振るう。こじれた裁判の結果、なんとバルタザールはジェラールの家に譲渡される。裁判をなんとかしようとしてか、ジャックがやって来てマリーと再会する。しかしマリーは「もうあの時代にはもどれない」と、ジャックを拒絶する。マリーはジェラールへとなびいて行く。
 バルタザールは、ジェラールら不良グループと関係のある、おそらくは人殺しもしている浮浪者のアルノルドのもとへ行くことになる。いちどはアルノルドの元を逃れ、サーカス団に拾われて「計算の出来るロバ」と、サーカスの呼び物にされるが、サーカスを観に来たアルノルドに連れ戻されてしまう。アルノルドはバルタザールに乗ってあてどない旅に出ようとするが、すぐにバルタザールの背から落ちて死んで行く。ふたたびマリーに会いに来たジャックに心動かされたマリーは、ジェラールらのところへ行くけれども、そこでジェラールら不良グループに暴行され、姿を消してしまう。バルタザールはジェラールの密輸の手助けをさせられ、警官に見つかって発砲される。ジェラールらは逃げてしまうけれども、バルタザールは弾で傷ついてしまう。ひとりさまよい、羊の群れに囲まれて息絶えて行くバルタザール。

 説明を極力排した演出は、時にわかりにくいこともあるけれども、その分「力強さ」を秘めているだろうか。そして、まずは洗礼を受け、そして信仰者のように死んで行くバルタザールをからめたストーリーのすばらしさ、さらに、演出の強烈さというものがあるだろう。バルタザールの悲劇は、一見、マリーの悲劇とシンクロするところもあるようにみえるけれども、はたしてそれだけなのだろうか。ここにバルタザールの「死」の原因となり、マリーを躓かせたジェラールという存在があるのだけれども、どこまでも「悪」を具現化したようなこのジェラールという男、それでも教会の聖歌隊の唄い手であったりもする。「ジェラールとは誰か」ということは、単純なことではない気がする。そして、そもそものすべての堕落の原因になったのは、マリーの父のプライド故なのではないのか。マリーの父がほんとうにマリーの幸せを考えたのなら、もっと違った解決策を出すことも出来たのではないのか。そしてそのことが、ひいてはバルタザールの幸福でもあったのではないのか。
 そしてもうひとり、アルノルドという浮浪者の存在がある。彼は不幸な存在であり、バルタザールのことも理解していたようでもある。彼とジェラールとの関係はいまひとつ読み切れないところもあるけれども、この映画で語られる「悪」、「錯誤」という問題の中で、彼の存在は重要だと思う。

 ブレッソン監督の演出は、先に書いたように極力説明を避け、映像に語らせていくスタイルだろうか。そんな中で、「外」と「内」を隔てる「扉」というものが、演出の上で重要な機能を果たしているように思えた。う〜ん、もういちど、大泣きするのを覚悟で、すぐにでも観直してみたい誘惑に駆られる作品だった。やはり傑作。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170119

■ 2017-01-18(Wed)

 昨日受けたPET検査というもの、いったいどういうものなのだろう。MRI検査というものは、磁気と電波によって脳などのスライス断面を撮影するものだと、だいたいのことはわかっているけれども、PET検査というもののことは、実はよく知らない。調べてみると、これは一般にはガンの早期発見に使用される検査らしく、ガン細胞を可視化した断面映像が得られるらしい。これは一般に保険適用外で費用のかかる検査で、五万から二十万ぐらいかかるというような検索結果。なんだかツアー旅行と組み合わせた検査コースとかがあるようで、つまりはなんというか、富裕層の健康チェックという側面があるのだろうか。ではわたしの場合のように脳の検査というのはどういうことかと調べると、これは脳の血流量や酸素、ブドウ糖の消費量を測定出来るということらしく、そこからてんかん発作の原因となっている脳の部分、てんかん焦点という箇所を特定出来るということらしい。したがって、てんかんを含む精神疾患の治療の一環とみなされ、自立支援医療の対象とされるようである。そうでなければ、この最先端の医療検査、わたしはン万円の検査費を請求されていたことだろう。ここは「自立支援医療制度」というものに感謝である。

 今日は、NHKのBSで放映された「ロンゲスト・ヤード」という映画を録画し、録画が終わったあとにさっそく観始めたのだけれども、冒頭からなんだか気もちはフィットしないし、主演男優の顔はイヤだし、十五分ぐらい観たら、「このあとどんな展開になるのか」全部わかってしまったので、もう観るのをやめてしまった。もちろん、先の展開が読めるから観るのをやめるというのは正当な映画の観方でないことはわかっているけれども、今のわたしには、観ても得るものはないという気がしたわけである。何でもかんでも、話題作ならば観てみるというような映画の観方は、もういいかげんにやめなければいけない。そういうことである。

 夕食は、もやしとウィンナとを炒めて玉子もプラスした、お手軽献立。中華調味料のシャンタンで味付けすれば、他は不要でおいしく食べられる。この頃はなんか、自炊といえるような、労苦をともなう調理をまるでやっていない気がする。やはり、それなりにめんどうなことをやってのけて、それで美味な料理を仕上げるということに、料理の楽しさはあると思うのだけれども。


 

[]「スティーヴンソン怪奇短編集」ロバート・ルイス・スティーヴンソン:著 河田智雄:訳 「スティーヴンソン怪奇短編集」ロバート・ルイス・スティーヴンソン:著 河田智雄:訳を含むブックマーク

 この本は1988年初版の、今はなき福武文庫の一冊。まあ福武文庫もかなりマニアックなものを刊行していたわけだけれども、このスティーヴンソンの短編集も、そういう一冊だったようにも思う。
 ボルヘスが、何かの評論の中でスティーヴンソンをかなり絶賛していた憶えがあるけれども、わたしはさまざまな小説を読んだ記憶が残っていないので、今回スティーヴンソンを読んでも、どこが優れているとか、そういうことはわからない。ただ、この文庫本の「訳者あとがき」には、「スティーヴンソンは凝った、外国人にはわかりにくい表現を随所に用いている。気軽に原文を読み飛ばしている時にはさほど感じないが、いざ訳してみると、意外に手ごわい作家である。最も日本語に訳しにくい作家の一人と言っていいのではないだろうか。」とあるのだけれども、じっさいにこの翻訳書を読んでいると、「それは奇妙だ」という表現が、随所にみられるように思う。読み通せば意味が分からないことはないのだけれども、読んでいるときには妙にひっかかる。そんな七作品。

●死骸盗人
 薄気味悪さ満点の短編。じっさいにこの時代には、こういう墓荒らしがあったのだろう。年代を隔てて、「おまえはあの時の」みたいな告発になっていて、そのことがいわゆる正義とか、モラルとか、そういうことと無縁の空気感になっているところがいいと思った。

●ねじけジャネット
 うーん、よくわからない。奇譚としての面白さはわかるけれども、なんかあっさりしている感じがする。訳者はあとがきで、「原文では、スコットランド人の老人が物語る形式になっているが、今回は普通の文章体で訳してみた」と書かれているが、読んでいると途中で「視点」というか、見ている位置が変わってしまうことが気になってしまう。これはちゃんと原作通りに、「老人が物語る形式」として翻訳すべきだったのではないかと思う。「原作に忠実に」というのは、基本ではないのか。

●びんの小鬼
 これは面白かった。ある面で「リング」の元ネタになっているみたいなところがあるのだけれども、「望みを叶える」ということと「地獄落ち」ということを同時にはらみ持つ「びんの小鬼」という存在のあり方は面白い。

●宿なし女
 スティーヴンソンには、「女性」なるものを転移させて恐怖の対象とするような、いわばミソジニー的な視点もあるみたいで、この作品でもそんな醜い女性像が描かれる。わたしはこの短編の展開はみごとだと思った。

●声の島
 先の「びんの小鬼」、「宿なし女」に続いての南海の島国での物語で、じっさいにその長くはない生涯の晩年にサモア諸島で暮らしたという、その体験が活かされているのだろうと思う。西欧的論理思考とは異なる、超自然現象というものへの思い入れとか、そういうものが不可思議なタッチで描かれた傑作ではないかと思う。

●トッド・ラプレイクの話
 これもまた、南太平洋の島国を舞台としたような、怪奇幻想譚。

●マーカイム
 これはロンドンの下町を舞台とした一挿話というおもむきで、強盗殺人を犯してしまう男の、その心の動きをみごとに定着させた、佳作だと思う。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170118

■ 2017-01-17(Tue) このエントリーを含むブックマーク

 今日は小平の「国立精神・神経医療研究センター」というところへ、つまりはわたしの脳の検査をやりに行く。検査はMRI検査が午後一時半からで、PET検査というのが三時半からということだけれども、その前に今通っているクリニックへ十二時に行き、紹介状を受け取ってから行くことになる。逆算すると家を九時前に出なければならないし、PET検査の前六時間は何も食べないでいなくてはならないということ。まあ家を出る前に朝食をとって、そのあと何も食べなければ、自然に六時間の絶食になる。ちょっと早めに七時半頃に朝食をとり、八時半頃に家を出た。今日も空は晴れていい天気。

 いつもより多少混んでいる電車で新宿まで行き、中央線に乗り換えて国分寺へ。クリニックへ行って紹介状をもらおうとすると、自立支援医療の対象医療機関を今回だけ国立精神・神経医療研究センターに変更しているので、通常通り三割負担になりますといわれ、ちょっとドキッとしてしまった。前に地元で近郊の大学付属病院への紹介状を書いてもらったら何千円もかかった記憶があるので、今回も相当額払わなければならないかと思ってしまったのである。でも、会計は750円で済んだので、かなりホッとした。

 その国分寺から、西武線で萩山という駅へ。「検査が終わったら断食あけにおいしいものが食べたいな」と思い、駅前に目ぼしい食事どころがあるかどうか、チェックしておこうと思ったのだけれども、その萩山駅で降りてみると、駅前にはな〜んにもないのだった。

    f:id:crosstalk:20170117132942j:image:w400

 手元にあるそのセンターへの案内地図をみると、武蔵野線の新小平という駅にも歩いて十分ほどらしく、それでは帰りは新小平駅の方へ行ってみて、そっちで食事出来るところを探そうと考えた。

    f:id:crosstalk:20170117133729j:image:w400

 一時ちょっと過ぎに「国立精神・神経医療研究センター」到着。木立の中の、学校のような建物。ロビー受付あたりは、前に行った大学付属病院と同じ仕組みになっているので、すぐに見当がついた。まずはMRI検査。いかにもハイテク医療機器がある部屋という感じだし、放射線も使用される検査だから外とは隔離されている。担当インターンっぽい若い無精ヒゲの男が、わたしに軽く検査の説明をするのだが、わたしの目を見て話そうとしないので、なんかアブナい感じ。わたしがMRI検査する前に、この兄ちゃんを先にMRI検査やった方がいいんじゃないかとか思う。
 大きな縦に立てられたドーナツの、その輪っかの中に頭を突っ込むようにベッドが設置されていて、そのベッドに横になる。頭を固定する枠の中に頭をおさめ、「音が大きいですから」と、ヘッドフォンをつけさせられる。この姿勢で、約二十分動かずに我慢するのである。目を開いていてもしょうがないので目を閉じていたけれども、特に目を閉じるようにとはいわれなかった。
 検査開始。「ピコピコ」と、電子音のような音が聴こえる。パルスのように一定のリズムを刻んで聴こえることもあるのだけれども、不規則に、まったくランダムに聴こえるときもある。聴いていると、電子音によるインプロヴィゼーション、ノイズ音楽みたいでもあり、「こりゃあ面白いや」と、フリー音楽でも聴くつもりで音の中に身を委ねた。なかなかに楽しい。
 よくあることだけれども、ノイズっぽいフリー音楽のライヴなどへ行っても、「こんな雑音っぽい音の中でなぜ」という感じで、眠くなってしまったりするわけで、今回も、ハッと気がつくといつの間にか眠ってしまっていたという感じで、何度かふいに目が覚めて、自分の置かれている情況がわからずにビックリしたりしてしまった。

 MRI検査終了。検査を始めたのは一時半だったけれども、時計をみると二時二十分になっていた。検査に要する時間は二十分と聞いていたけれども、四十分はたっぷりかかっていたのではないか。眠ってしまったりしていたので、自分の中では時間の感覚がわからなくなっている。十分か二十分ぐらいしか横になっていなかったような気がする。

 次は、PET検査である。こんどは点滴だか注射だかをされ、それが全身に回るまで、四十分ぐらい横になっていなければならない。案内されたところは何だか物置きみたいな部屋で、さっきまでのハイテクっぽい雰囲気とはまるでちがう。「こんなところでやるの?」って感じ。今回はなぜか外が見えないようにアイマスクをされた。注射をして横になっても、はたして体を動かしちゃいけないのかどうか、よくわからない。とにかくはあまり動かないようにしていたけれども、やはりまた眠ってしまい、体が「ガクッ」と動いてしまって目が覚めたり。
 寝ちゃったので、いつの間にかの四十分。感覚としては十分ぐらいの感じ。医師に起こされて、まずはトイレに行かされる。そのトイレに、「尿には放射性物質が含まれているので、必ず水を二回流して下さい」と書いてある。えええっ、そういうものを注射されていたのか。まるで知らんかった。
 さて、これからが検査の本番なのだけれども、検査室はやはり今いた物置きのようなところではなく、MRI検査室のようなハイテクっぽい部屋。検査機器もさっきのMRIのとほぼ同じ形で、やはりドーナツの穴に頭を突っ込むのである。こちらの本番検査はせいぜい数分のもので、この日の検査はすべて終了。時計をみると三時半ぐらいだった。会計は「自立支援医療」の限度額目一杯で、やはり普通にかかると大変なことになる検査だったのだろうなと納得。

 センターを出て、さあ、あとは断食あけで何かおいしいものを食べたい。考えたように持っていた地図を見て、歩いて十分ぐらいの新小平駅の方へ向かった。‥‥駅はすぐに見つかり、その小さな駅の前の広場のようなところに、向かい合って二軒の中華点心料理の店があった。ちょうどそういう中華が食べたいと思っていたので、この二軒のどちらかにしようと決める。駅の右にある店の方がメニューも豊富でちょっと安く、そちらへ入ろうと思ったのだけれども、まだ時間は四時半で、こっちの店は開店前だった。残念。それではしょうがないのでもう一軒の方へ入り、「お得セット」とかいうのにした。生ビールに餃子、それとおつまみ一品で千円と、それほどに安いわけでもないのだけれども、ま、いいかと。おつまみにはピータンを頼んだ。

    f:id:crosstalk:20170117171907j:image:w400

 ‥‥う〜ん、これは失敗でしたね。悪いけど、餃子もピータンも、わたしの満足出来る味ではなかった。残念。ちゃっちゃっと飲んで食べて外に出ると、さっきまだ開店していなかった向かいの店、もう営業を始めていた。もうちょっと遅くに来ればよかったと、ちょっと悔やまれる。

 あとはもう帰宅するだけだけれども、時間的にもちょうどよかったので、またターミナル駅で降りて、駅ビルのスーパーでお弁当とか買って帰ろうかと。ところがこちらでも、もうたいていのお弁当は売り払っていて、つるつるの白い棚が光っているだけ。かろうじて残っていた「鶏唐揚げのタルタル弁当」とかいうのを籠に入れ、店の中をまわってみると、先日ここで買って非常に美味だった日本酒「玉乃光」が、また(まだ)値引きされて売られていた。「よし、これを買おう」と、弁当と日本酒とを買って帰宅。今日は残念ながら、ニェネントくんへのお留守番のごほうびはありません。
 で、買って帰ったお弁当を温めて食べたけれども、これがちっともおいしいものではなかった。がっくり。今日は食運のない日だった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170117

■ 2017-01-16(Mon)

 晴天がつづいている。今日も快晴。空をみると、薄青く澄んだ空に白い雲が薄く拡がっている。空とはつまり宙で、宇宙につながっていることが実感できる。それというのも、こうやって雲が地表近くにへばりついているからわかること。背を伸ばせば雲に近づき、その上には無限の宙がある。冬にはそんな感覚がある。

    f:id:crosstalk:20170116095202j:image:w400

 明日は小平に検査に行くので、夕食は遅くなるだろう。またスーパーでお弁当を買って帰る方がいいだろうと思う。朝もあわただしくなるかもしれないので、すぐに手軽に食べられるようにパンとかを買っておいた方がいいと思う。そして今日の夕食も弁当ですませてしまおうか。
 弁当やパンの値引きされる七時半頃を待って、南のスーパーへと出かける。意外にも弁当類はまるで値引きされていなくて、逆にパン類はすでに100円まで値引きされていて、ほとんどが売れてしまっていた。パンは袋に詰められて元値が450円ぐらいになるものを、七時頃には300円ぐらいになり、普段は七時半になって150円になる。それが時に100円まで安くなるのだけれども、どういう基準で150円までの値引きになるのか、100円までにしてしまうのか、まるでわからない。弁当にしてもなぜこの日値引きされていなかったのか、わからない。
 とにかくは残っていたパンを二袋買い、海鮮コーナーにあった海鮮丼がいくらか安くなっていたので、それを買った。ついでに、ニェネントくんに小さな刺身パック、半値に値引きされて140円なのを買って帰った。

 海鮮丼を食べていると案の定、ニェネントが寄ってくる。「ではキミにはこれをあげましょう」と、刺身パックから刺身を出してテーブルにおいてあげると、すぐに前足で引っかけて床に落とし、あっという間に食べてしまう。それで、海鮮丼を食べているわたしをのぞき込んでくるのである。先日の「めかじきの刺身」はまるで「ネコまたぎ」だったのに、大きな差である。そんなに味がちがうのだろうか。


 

[]「蜜のあわれ」(2016) 室生犀星:原作 石井岳龍:監督 「蜜のあわれ」(2016)   室生犀星:原作 石井岳龍:監督を含むブックマーク

 石井岳龍つまり石井聰亙だけれども、わたしはこの人の改名後の作品を観るのはこれが初めてになると思う。石井聰亙時代の「エンジェル・ダスト」から「五条霊戦記」にかけての作品はどれも大好きだったけれども、改名されてから観ていないのは単にわたしの情報収集力不足から来るものだと思う。「生きてるものはいないのか」という作品など、原作は前田司郎の戯曲だったわけだし、「なぜ観なかったのだろう」と、解せない気がする。そしてついにその、石井岳龍の作品を観ることができた。

 原作は室生犀星で、出演は二階堂ふみ、大杉漣、真木よう子など。大杉漣演じる老作家と、彼の飼う金魚の化身である小悪魔的な少女(二階堂ふみ)との関係をとらえた作品である。基本はその二階堂ふみのコケティッシュな小悪魔ぶりをみせるというか、全体のタッチはかなりユーモラスなものではないかと思う。ただ、映像的にはつまり昭和情緒というか、古き日本の情緒を感じさせられ、「耽美」といってもいいのだろうかと思う。
 実はこの作品、去年わたしの娘が観ていて、それでわたしに教えてくれたものだけれども、彼女がいうには「ツィゴイネルワイゼン」の模倣ではないのかと。そうやって観ると、う〜ん、映像的にはちょっと「ツィゴイネルワイゼン」を思わせられるところもあるけれども、演出のタッチはちがう。しかしちがうといっても、そこにやはり鈴木清順の「ピストルオペラ」とか、「オペレッタ狸御殿」にみられるような、奇妙なユーモアのセンスは受け継がれているのかも知れず、やはりどこかで鈴木清順を思い浮かべるというのも「あり」なのかもしれない。そう思って観ると、その「ピストルオペラ」でデビューした韓英恵がちょっと出演しているところとか、意識的な配役なのかなとか思ってしまう。

 しかし、けっきょくのところ、わたしはこの作品をさほど熱心に観ることはできなかった。つまり、わたしにはそういうユーモアセンスと、一種耽美的な映像、そして二階堂ふみのかもし出すエロティシズムというようなものとかが、お互いに相殺し合っているように思えてしまったようである。観ていてとっても居心地が悪かったというのが正直なところで、それがなぜそうなのかというのはよくわからない。
 ただどうも、わたしにはこの老作家のことなどどうでもいいと思っているというのか、彼がどんな幻想にひたろうが、それがここで描かれるような幻想世界なのであれば、興味を持てないということだと思う。もうちょっと、心的なコンディションがいいときに観直せば、もっと興味深く観ることもできるのではないかと思ったりもするけれども、とにかく今回はパス!という感じであった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170116

■ 2017-01-15(Sun)

 今日のことではない、二〜三日前のことだけれども、ニェネントがお立ち台の上で、いつものように窓の外を眺めていたのだけれども、どうも見ていると、ニェネントが外を見ているさまが「何か外に来ている」という雰囲気で、またあの子ネコが来ているのかとわたしも窓の外を見てみると、あの子ネコではなく、茶トラのネコがベランダから降りようとしているところだった。わたしと目が合ったその茶トラネコは、しばらくそのままの姿勢でわたしの方を見返してくる。すっごく栄養状態もよさそうで、でっぷり丸々とした体つきにみえる。けっこう毛並みもきれいな感じで、どこかの飼いネコかもしれないとも思った。先日来ていたネコはやはりこのネコだと思うけれども、間近に見るのはこれが初めてだった。

 ふっと思い出してみると、明後日は小平で精密検査の日で、いろいろと朝からたいへんな一日になりそうだ。明日はそのことを考えて動く必要もあるし、今日だって、いちおうはそんなことを考えていなくってはいけない。とりあえずは「ゆっくりと休養だね」という感じで、昼からは午睡。

 長かったカレーライス生活はようやく今日の昼で終わり、夕食には最近おなじみのメニューになったチャーハンをつくった。つくり方がひとつ落ち着くと、大きなハズレのない出来上がりになる。そのかわり、クッキングの醍醐味、「新しい味に挑戦」という面白みはなくなってしまい、ルーチンワークになってしまう。


 

[]「月光の囁き」(1999) 喜国雅彦:原作 塩田明彦:脚本・監督 「月光の囁き」(1999)   喜国雅彦:原作 塩田明彦:脚本・監督を含むブックマーク

 昔観て「お気に入り」だったはずの映画だけれども、もちろん記憶に残っていたわけではない。この作品は塩田明彦の監督デビュー作で、彼の作品としてはこのすぐあとに「どこまでもいこう」があり、「ギプス」「害虫」「黄泉がえり」「カナリア」と続くはずで、わたしはこの頃は塩田監督作品は全部観ていたはずである。記憶が消えてからは「害虫」だけは観直す機会があったけれども、それ以外の作品のことはまるで記憶に残っていない。また観返してみたいのだが。

 原作は喜国雅彦による漫画。ギャグ漫画家と知られた喜国の、初のシリアス作品だったということ。わたしはこの原作漫画も読んだような気もするのだけれども、残念ながらそのあたりの記憶は消えてしまっている。とにかくは高校生男女のアブノーマルな愛の形を描いた作品。言い換えれば、「変態」である。
 この映画、そのあたりの「変態」具合、その「成長」(?)を、じっくりを描いてくれる。主人公の日高は、同じ剣道部で同級の北原のことが好きなわけだけれども、そのことは彼女の足の隠し撮りで昇華し切っているというか、満足しているというか、つまり「足フェチ」である。そして北原もまた自分に好意を持っているとわかり、自分の部屋で彼女といっしょになるのだけれども、肝心のセックスよりも、彼女のトイレの音の隠し録りの方に熱心なのである。そんな彼女の足ばかりの写真や盗録したテープを北原に見つかってしまい、北原は日高を軽蔑し、別れようとするのだけれども、日高は「オレは北原の犬になる」と。ここで日高は「マゾ」としての自分を主張し、北原はそんな日高を嫌いながらも、だんだんに「サド」的に日高に惹かれていってしまう。日高を押し入れに閉じ込め、先輩とのセックスを聞かせたり、セックスのあとにかいた汗を日高になめさせたりする。さいごに北原は温泉宿に先輩と日高を呼び寄せ、先輩に日高の性癖を話す。日高に近くの滝に飛び込んで死ねといい、じっさいに日高は滝に飛び込み、九死に一生を得る。病院に見舞いに行く北原だが、それは見舞いではなく、SM関係の完成を確認するようなものだった。

 面白い。とにかく面白い。ひとつにはその日高の変態ぶりを段階を追って見せていく演出が巧みで、さらにそれを受ける北原の対応をねちねちと見せているあたりから来るのだろうか。雨の使い方、押し入れの中に潜む日高の目を印象的にとらえるカットだとか、ある意味でとってもスマートである。撮り方によっては卑猥な、それこそ悪趣味な映画になってしまいそうなところを、うまくすくい上げている印象で、ラストの土手でのふたりの語らいなど、まるで純愛映画なのである。

 塩田明彦という監督、まさに「シネアスト」という呼称のピタリとする監督というところで、ここでも、破綻のないみごとな映画づくりをみせてくれていると思う。もっともっと、彼の作品を観たくなった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170115
   2632465