ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2017-07-23(Sun) このエントリーを含むブックマーク

 今夜は中野で、Aさん(六月のAさんではない)らの開催するイヴェントがある。Aさんと前に会ったときにも、「次にはぜひ飲みましょう」と話していたわけだし、こうやってわたしも転居してほとんど終電を気にせずに飲めるようになったわけだし、ま、飲むことが目的ではないけれども、そのAさんのイヴェントに行くことにしてある。

 イヴェントは午後七時半からで、ゆっくりと五時頃に家を出る。中野へ出るにはいちど乗り換えるだけで行けるので楽である。六時半頃には中野へ着き、まずは開催場所を確認する。「区民活動センター」ということで、ちょっと場所としてはわかりにくいところにあったけれども、すぐに見つけることはできた。六時過ぎになって行けばいいだろうと考え、近所のコンビニでサンドイッチなどを買って軽く腹ごしらえをしておく。六時を過ぎて会場へ行ってみるけれども、特に案内もなく、ちょっと「どうすればいい?」と、とまどってしまった。先に来ている人たちが一階のソファにすわっておられたので、「とにかくは一階で待っていればいいんだろう」と、わたしもソファにすわって待つことにした。

 七時半を十分ぐらい過ぎて、ようやく会場のB1の「多目的室」に案内され、パフォーマンスが始まった。全体の構成はAさん、出演者はAさんら五人、それに簡易照明というか、フロアの真ん中でBさんが手持ちの照明を振り回しておられる。雰囲気は「アングラ」というか、「オルタナティヴ」などという懐かしいことばを思い出したりもしたのだけれども、リンチの「ツイン・ピークス」の赤い部屋に迷い込んだような(Aさんはリンチのファンだということで、あとでこんな感想を語ったらとっても喜んでもらえた)、全盛期のマリリン・マンソン的雰囲気というか(こちらも、出演者のひとりはマリリン・マンソンのファンだということで)、時制が二十年ぐらいさかのぼってしまったようにも思えたのだけれども、しかしパワフルで、スッコーンと抜けてしまっている感じ。ふむ、「オルタナティヴ」というもの、まだまだ捨て去られるようなものではないではないか。とにかくはとても楽しませてもらった。

 一時間弱で終演で、その後あとかたづけをちょっと(ちょっとだけ)手伝って、Aさんら出演者、スタッフの皆さんと、近所の飲み屋で打ち上げということになった。わたしはAさんとも長いつきあいになるけれども、こうやっていっしょに飲むというのは記憶に残っていないな(もちろん、私の記憶が消えてしまっているせいもあるだろうが)。はたしてわたしはどうしてAさんと知り合うようになったのかも思い出せないのだけれども、そのあたりをAさんに聞くと、「crosstalk」のときにCさんのパフォーマンスにいっしょに出演したのが最初、らしい。そうか、Cさんが大仏のマスクをかぶってギターを弾いたときのことか。このあたりの記憶がちょっとよみがえったけれども、AさんとCさんという取り合わせは意外なことだった。
 Aさんとはイヴェントの開き方みたいなことをいろいろお話ししたり、楽しい会話もつづいて、「ま、十一時を過ぎても大丈夫だろう」みたいな気もちで遅くまでお付き合いしてしまい、皆さんとお別れしたのはやはり十一時を過ぎてしまった。きっと帰宅すると一時近い時間になってしまうのではないだろうか。明日は仕事もあるし、四時には起きなければならない。「これはキビシいな〜」と思いながら、電車に乗るのだった。

     

 

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■ 2017-07-22(Sat)

 ニェネントとわたしとは、いっしょに同じトイレを使っているので、ふだんトイレのドアは開けっ放しにしてある(ニェネントにはトイレのドアは開けられないから)。この写真は今日のものではないのだけれども、ついにトイレでニェネントとかち合ってしまった。かち合ってしまうだけでも「失礼」と場を外すべきなのに、写真まで撮ってしまった。本当に「失礼」である。

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 ニェネントがわたしと共有するトイレは「おしっこ」だけで、「うんち」は別のネコ用トイレでネコ砂の中にやるわけだけれども、とにかくは「おしっこ」の方をネコ用トイレでしないでくれるというのは掃除が大助かりで、ものっすごく楽だし、ネコ砂もけっこういつまでもきれいなままで、新しく取り替えるということもあまりやらなくてもいい。わたしは失礼だけれどもニェネントくんのことは「あまりかしこくないネコかな?」と思ってるんだけれども、このトイレの件だけは「お利口なコだね」と誉めてあげたいとは思っている。

 今日は土曜で仕事も休みだからちょっと朝寝をして、午前中は昨日観た「さすらいの二人」のもうひとつの音声解説で、脚本のマーク・ペプローと誰だかジャーナリストの女性(ほとんどしゃべらないし、しゃべるとかなりバカっぽいことをいい、さすがに「アメリカのジャーナリスト」だな、と思わされる)とのものをまた観る。マーク・ペプローは映画の中のマリア・シュナイダーのことをほんとうに「偶然に出会った女性」として語っていて、もちろんストレートに観ればそういう風に観られるわけだけれども、一本の映画というものがそのようにいろいろな解釈を産む「面白さ」のようなものを感じる(あたりまえのことだけれども)。

 金井美恵子の「目白雑録」を読み終え、図書館から借りている本でまだ読んでないのは、雑誌「ユリイカ」の鈴木清順の特集号だけになったのだけれども、わたしは鈴木清順の作品を何もかも記憶しているわけでもないので、読んでも解らないものが多い。彼の作品はいちどはほとんど観ているわけなので、やはり改めて記憶の失せたことをうらめしく感じる。

     

 

[]「目白雑録(ひびのあれこれ)4」金井美恵子:著 「目白雑録(ひびのあれこれ)4」金井美恵子:著を含むブックマーク

     

 この巻には2009年の四月から、2011年の四月までに発表されたエッセイ(いつもは「一冊の本」に連載されたエッセイだけなのだけれども、この巻には「附録」としてほかの雑誌に掲載されたものも載せられている)によって成っているわけだけれども、東日本大震災と原発事故については「あとがき」で触れられているだけ。そのあたりの本格的な記述は次巻を待たなければならないだろう。この図書館本にも内側ページに貼り付けられている「帯」の文句に「あれから、世界は変わった。というけれど‥‥ ―小さな神話が泡のように弾ける世界で―」とあり、これはたしかにこの書物の「いい案内」なのではないかと思う。
 この本のことはその都度この日記の中に書いてもきたのだけれども、ラストの方で興味深かったのはミッフィーちゃんのディック・ブルーナ(この二月に亡くなられたけれども)が、サンリオを提訴していたという件で、わたしはそういうのはまったく記憶になかったのだけれども、つまりは国内で報道されることがそんなになかったのではないかと思うわけだけれども、サンリオのキティちゃんのお友だちキャラに「キャシーちゃん」というのがあり、これがミッフィーちゃんとそっくりだというわけ。金井美恵子は、そもそもが「キティちゃん」自体が「ミッフィーちゃん」の盗作ではないかというのだけれども、たしかにこの「キャシーちゃん」、「ミッフィーちゃん」に酷似しているとはいえると思う。日本のメディアは中国のパクリキャラクターのことばかり報道するけれども、この日本はどうなのよ、という感じである。よく知られた訴訟なのかも知れないけれども、わたしの記憶には残っていなかった(下の左が「ミッフィー」で、右が「キャシー」)。

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 で、この訴訟がどうなったかというと、東日本大震災をうけて、ディック・ブルーナ側とサンリオは「訴訟を行うことにより費やす両社の諸費用をむしろ日本の復旧・復興のために寄付すべきである」という結論を出し、和解に合意したと。両社はお互いのキャラクターを相互に尊重する立場を堅持、係争中のすべての訴訟を取り下げたわけである。で、これ以降、サンリオは「キャシーちゃん」を使った新しい製品の企画は行なっていないということ。

 

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■ 2017-07-21(Fri)

 朝、ウチのすぐそばにネコがいた。えーっと、このコはときどき、部屋の中からウチの窓の外に見かけることのあるネコだな。振り返ってわたしのことをみて、「敵か味方か」判じようとしてるようだ。

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 七月も下旬になって梅雨も明け、学校なんかは夏休みに突入するわけで、さあ夏本番というところなんだけれども、考えてみたらこの家で、「夏の風物詩」ゴキブリの姿をまだいちども見かけていない。これはもちろん喜ばしいことで、「ゴキブリのいない夏」などというのは、絶えて久しく経験したことがなかったのではないかと思う。引っ越しの荷造りのときにはけっこうゴキブリの卵も発見し、この新居にも引越し荷物といっしょに移住して来てしまうのかと心配したのだったけれども、繁殖期といわれる春から今の夏までその姿を見ないということは、この部屋にはゴキブリはいないと考えていいのだろうか。そうであってほしい。

 読んでいる金井美恵子の「目白雑録」もそろそろ終盤なのだけれども、ここで書かれている2010年というのはサッカーのワールドカップの開催されていた年らしく、そういう内容の記述がつづく。わたしはこの頃の記憶が失せている上にサッカー(フットボール)というものに興味がなく、読んでいてもわからない(どうでもいい)のだけれども、たしかにこの頃は日本代表は「岡田ジャパン」とかいわれ、あの南こうせつみたいな顔の人物が日本チームの監督をやっていて、あれこれと批判にさらされていたものだということは、ちょっとだけ思い出した。金井美恵子はここでtwitterのことも書いているので、この頃からtwitterというものはそれなりにのさばっていたのだろうけど、パソコンに向かってtwitterのチェックをしている金井美恵子の姿を想像すると、何というか笑ってしまうというか。。。

 今日は炊いてあったごはんも食べてしまったので、また炊くのもめんどうで、スーパーの弁当ですませようという気になった。五時半を過ぎれば弁当類も値引きされるだろうとそんな時間に買い物に出て、この時間になれば暑さもやわらいで、外を歩いても汗ばむということもないのがいい。「食品館」まで行ってみると、弁当類は半額になっていたので喜ぶ。トマト、卵(十個88円!)、そして韓国製のビール(350ml88円!)というものなども合わせて買い、ビールを飲んで温めた弁当を食べた。このスーパーの弁当はけっこう美味しい(昨日買った寿司もおいしかった)。

 明日は仕事も休みだし、ちょっと夜更かししようかと、DVDでアントニオーニの「さすらいの二人」をいちど観て、観終わったあとに今度は、ジャック・ニコルソンの音声解説でもういちど観た。まだもうひとつ、脚本のマーク・ペプローの音声解説もあるのだけれども。

     

 

[]「学校の近くの家」青木淳悟:著 「学校の近くの家」青木淳悟:著を含むブックマーク

     

 何年か前の「私のいない高校」に次いでの「学校モノ」というか、今回は小学五年生の杉田一善君が主人公。青木淳吾氏自身の出身地である狭山市、そこにある入曽小学校、その小学校のすぐそばにある杉田家を舞台に、またまた何というのか、理系の小説的な世界が繰り広げられる。小学生たちが「自分たちの住む町」を知るため、狭山市内とかを探検したりするのだけれども、そのあたりの記述はやはり「四十日と四十夜のメルヘン」的な文体になっていて、「やはり青木淳吾は青木淳吾なのだな」と、妙な感想を持ったりする。そしてときどき、「それって何よ?」的な奇々怪々としたセリフが飛び出したり、謎が生まれたりもする。そもそも、舞台になっているのは狭山市だということはバレバレで、中に「狭山茶」や「狭山丘陵」とかの名は出てくるのに、なぜか狭山だけは「S山」という記述になるあたりもちょっとおかしいのだが。

 全体に七つの章からなるこの作品、いつまでたっても杉田一善君は小学五年生のままで、それ以前のことも回想されるとはいえ、描かれることは1992年(この時制で杉田君は小五なのである)から先に進むことはない。宮粼勤事件のことも書かれていて、そうか、この事件のさいしょの被害者は狭山市のとなりの入間市の女の子だったわけか。おそらくは同時代にこの狭山市、ましてこの入曽小学校に在籍していた人たちにとって、思い出されることの多い記述だらけの作品なのではないだろうか。

 杉田君に歳の離れた妹が産まれるとき、父親(平凡な父親のようでちょっと変?)の奇怪な性教育というか陰部処理のことが語られ、そこの部分で「恥垢山公園」などがあらわれてずっこけるし、その直後には「ハイドパーク」も登場する。ところで、お父さんが「ちょっと変」という以上にお母さんは「謎」であり、これは小学生男児が母親に感じる「謎」を越えて、たしかにどこか異常なのではないかというところもある。

 「私のいない高校」ではたしか、修学旅行というものがひとつのクライマックスだったように思うけれども、この「学校の近くの家」では、<九月十五日の敬老の日に五年生がクラスごとに発表する演(だ)し物>で、杉田君のクラスが「戦国武将にテーマを絞った劇」をやる、というあたりにクライマックスがあるともいえるけれども、特に確固としたストーリーラインがあるわけでもないこの本、ときどき棚から取り出して適当なところを読んで、小学生気分にひたってみる、という読み方が楽しいかもしれない。

 

[]「さすらいの二人」(1975) ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 ルチアーノ・トヴォリ:撮影 「さすらいの二人」(1975)   ミケランジェロ・アントニオーニ:監督 ルチアーノ・トヴォリ:撮影を含むブックマーク

 著名なイギリスのジャーナリストのデヴィッド・ロック(ジャック・ニコルソン)が北アフリカで取材中に、となりの部屋に宿泊していたアメリカ人ロバートソンが突然死しているのを見つける。彼が死ぬ前に話していたところでは、男は「つまらない商売人」で、世界中を駈けまわっていたという。いろいろなことに行き詰まりを感じていたロックは、死んだロバートソンの容貌が自分に似ているのではないかと思い、ふたりのパスポートの写真を貼り替えてロバートソンの死体を自分の部屋に運び、自分はロバートソンとしてホテルのフロントに「隣室の男が死んでいる」と伝える。フロントの男はロックがロバートソンに入れ替わったことに気づかない。こうしてデヴィッド・ロックは死んだことにされ、ロックはロバートソンのパスポート、手帳などを手に、ロバートソンに成り済ます。ロバートソンがメモしたミュンヘンのコインロッカーへ行き、中の物を取り出すとそれは武器のカタログで、その場にいた二人の男がロックに話しかけ、武器密売の契約が成立してしまう。男たちはロックに大金を手渡し、「次はバルセロナで」といって去っていく。一方、死んだものとされているロックの、その妻は友人と、ロックが死んだホテルで隣室にいてロックの死体を発見したロバートソンという男と接触しようとする。ロックはバルセロナへ行き、ロバートソンの書き残した待ち合わせ場所である女性(マリア・シュナイダー)と出会う。ロックは女性との出会いは「偶然」と思っているのだが‥‥。

 ちょっとした世界の「ずれ」、「偶然」。その「ずれ」を利用して異なる「生」を手に入れようとする主人公の話というと、例えばパトリシア・ハイスミスがそういう話はお得意だったのではないか(とりわけ「太陽がいっぱい」)と思うし、これから読もうと思っているナボコフの「絶望」も、昔読んだ記憶ではそういう話ではなかったかと思う。この話の主人公のデヴィッド・ロックは、とにかく「自分ではない誰か」になろうとしたのだけれども、その「誰か」というのが、とんでもない「ワケあり」の人物だったわけで、彼はその深みにズブズブとはまっていくし、「元の自分」を探す妻らの探索の手も迫ってくる。ちょっとした「サスペンス・ミステリー」という感じなのだけれども、そこはアントニオーニ。その演出で映画としてのとてつもない深淵をみせてくれるわけである。
 ジャック・ニコルソンはこのDVDの音声解説(おそらくはこの映画の撮影から三十年ぐらい経っての解説)を、「かつて<芸術映画>というものがあった」と始めるわけだけれども、まさにそういうことで、この題材なら今のハリウッド映画でも娯楽作品を仕上げることも出来そうだけれども、とにかく、そのディテールがちがうというか、つまり「演出」がちがう。
 もちろん、このラストの驚異の<長廻し>ということもあるわけだけれども(もう、この場面では画面の上では「何も起こらない」というのに、画面から目がはなせなくなってしまうのである)、それ以外にも、それぞれのディテールに娯楽映画にはない「深み」をみせつけてくれる。

 もちろん、デヴィッド・ロックは、自分が化けた存在が「激ヤバ」だとわかったとき、もっと別の行動も取れたのではないかとも思うし、バルセロナで出会った女性が「偶然」出会った存在と思うのは読みが浅すぎる気もする。彼が語ったように「カイロで小説家になる」というような逃げ道もあったのではないかと思うのだが、彼はどこかで、そんな自分の運命に身を委ねることにしたのではないのか。おそらく待ち受けるのは「死」ということは承知していたような。‥‥そう思わせるところに、この作品の「深さ」があるのかも知れない。

 

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■ 2017-07-20(Thu)

 昨日、関東地方も「梅雨明け宣言」というのが出されたらしい。今どき、「宣言」などという持って回ったような言い方というのも、ほかではあまり聞かないような気もするけれども、ちょっと前にイラクの首相が、「イスラム国(IS)」掃討を目指したモスルでの戦闘に勝利したとの「勝利宣言」をしたというニュースがあったばかり。ふむ。あとは「宣言」といえば「シュルレアリスム宣言」か、「共産党宣言」か。百年前のものか。
 しかし今年の梅雨はどう考えても「空梅雨」で、ニュースでも貯水池の水量が少ない、取水制限が行なわれる、などと語っている。

 今日はなんだかものっすごく眠くって、これは今週から朝起きる時間を二十分遅くして、つまり単純に考えて今までより二十分多く寝ているわけで、それでこんなに昼間に眠くなるというのも解せないのだが、まあ二十分ぐらいの睡眠は「睡眠時間」の中にカウントされないというか、考えてみれば、前の日に就寝するのが今までより二十分は遅くなっているわけだろうか。
 それで今日は午後からの昼寝が長くなり、目覚めたらもう五時に近い時間になっていた。三時間から四時間の午睡で、これはちょっと睡眠の取りすぎというか、その睡眠時間を読書とか他のことに使えたのにと思うと無念である。

 今日は北のスーパー「ストッカー」で全品一割引の日で、この頃消費量の多くなったマーガリンのストックがなくなり、買っておかなくてはと、昼寝から目覚めたあと、買い物に出かけた。ついでに「食品館」にも立ち寄ると、にぎり寿司のパックが半額になっていたので、「おつまみ」のつもりで買って帰り、夕食の前につまんでみた。これがなかなかに美味で、スーパーの寿司としては今までに食べたなかでもいちばん美味しかったような印象。玉子焼きがあったので、「ノラや」のなかでノラが寿司の玉子焼きが好物だったことを思い出し、ニェネントに声をかけて、玉子焼きをちぎって分けてあげた。ふん、ほかのネタはあげませんよ!

 ニェネントの「発情期」は今回は軽く終わってしまったようで(まだ続いているのかもわからないけれども)、二日ほど「夜啼き」をし、ちょっとわたしにベタベタして来ただけだった。今日はもう、わたしに甘えて来ようとかいう考えもないようで、こうやってわたしがリヴィングで机に向かっていても、いったいどこでどうしているんだかわからない。多分、和室のタンスの上のカートの中にいるんだろう。

     

 

[]「菩提樹の蔭」中勘助:著(昭和文学全集 第7巻より) 「菩提樹の蔭」中勘助:著(昭和文学全集 第7巻より)を含むブックマーク

     

 この、今読んでいる昭和文学全集の第7巻というのは、かなり雑多な選集になっているというか、収録されている作家に共通点とかいうものは見つけにくい気がする。まだ最初の梶井基次郎、牧野信一、中島敦、嘉村礒多あたりは「夭折」の作家としての共通項をみてもいいのだろうけれども、そのあとは内田百里箸てこの中勘助になる。まあ内田百里箸海涼羇助は夏目漱石との関係があるともいえるのだろうか。どちらにせよ、わたしはまるで知ることのなかった作家である(一時期、この我孫子を仮寓の地としていたらしいけど)。

 それで、この「菩提樹の蔭」を読んでみた。友人の娘のために書いた童話を、その十数年後に書き改めたものということ。これは古代インドを舞台とした愛の物語で、愛のエゴイズムが生む悲劇というか、「子どものための童話」とは思えない、「大人のためのメルヒェン」という読後感になる。
 主人公はプールナという彫刻を学ぶもので、その師の彫刻師ナラダにはチューラナンダという娘があり、プールナとチューラナンダとは恋仲になり、師のナラダも二人を添い遂げさせようと考えるのだけれども、チューラナンダは熱病で死んでしまう。嘆いた父のナラダはその思い出に娘の大理石像を刻み、プールナはその仕上げに石像を磨き上げる。プールナはその石像に恋痴れ、密かに神に、死せるチューラナンダの魂を彫像に還して欲しいと願う。神はその願いに怒るのだが、プールナにこう答える。「愚な者よ 汝チューラナンダの魂を還さんとならば命をもって命を購(あがな)えよ」。プールナは迷わず己の命をささげると答え、そのうえ、二人の寿命をおなじにまでと願った。神は「厚かましい祈願者をして自ら褻瀆の報いを知らしめんがため乞われるままにその願いをききいれた。」
 朝になり、石像は命を得て動き始める。プールナはもちろんいのちを得た石像(生前のチューラナンダとしての記憶はないようだ)と愛し合うようになり、(実は凡庸な石彫師だった)ナラダは「石にいのちを吹き込んだ」として名声が上がり、裕福になり、ナラダは慢心する。プールナが石像のチューラナンダと恋愛関係にあると知ると、「身分不相応」とプールナを放逐するのである。そのときにはチューラナンダはプールナの子を宿していたのだけれども、来るべき身分の高い男との婚礼のため、その子は誕生とともに捨てられてしまう。そして、運命のいたずらからか、そのチューラナンダの子は放浪するプールナに拾われることになる。

 ふむ。ここにストーリーを全部書いてしまうのはもったいないのでやめておくけれども、これはすばらしい作品だと思った。「悲劇」のポイントをしっかり押さえているというか、神が出てくるからといって宗教的になるわけでもないのがいい。プールナと、いのちを得たチューラナンダの石像と、その二人の寿命を同じにするということが叶えられれば、ふつうに考えればそれは「幸福な愛」なのかも知れない。しかしこの作品ではそのポイントに「悲劇」がある。プールナのエゴ、ナラダの慢心、「恋」をさまたげるものは多々ある。過去の記憶を持たず、「無垢」の象徴でもあるかのような石像のチューラナンダ、そしてその乳飲み子の悲劇が哀しい。

 この作品を読むと、中勘助の代表作である「銀の匙」というのが読みたくなってしまうのだけれども、どうしてこの全集にその「銀の匙」を収録しなかったのかと残念に思うことになる。どうも、「銀の匙」が発表されたのが大正時代だったせい、ということのようだけれども。とにかくは「銀の匙」も読みたいね、そういう「菩提樹の蔭」を読んでの感想だった。

 

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■ 2017-07-19(Wed)

 今横浜の方で、<溝口健二&増村保造映画祭>というのをやっていて、前から観たいと思っていた溝口監督の「噂の女」も上映される。この映画祭はこの冬にも新宿の映画館でやっていたのだけれども、観ることが出来ないで終わってしまった。今回は是非とも観たいものだと思うのだけれども、その「噂の女」はつい最近新しいDVDがリリースされたようで、Amazonでみると2000円ぐらいで買えるみたいだ。そうすると、横浜までの交通費、映画館入場料とかを考えると、DVDを買った方が安くつくではないかと思ってしまうことになった。もちろん映画というものは映画館の大きいスクリーン、あの音響(これは映画館にもよるけれども)で観るのがいちばんなんだけれども、調子が悪いと観ている途中で眠くなってしまったりとか、観ることに集中できないような情況もいろいろと起きたりもする(例えばわたしのとなりでイビキをかいて寝てしまう客とか、わたしのとなりでモゾモゾ動く客とか、わたしのとなりでひとりごとをブツブツいう客とか)。そうすると一回限りの鑑賞にベストの状態で観られなかったりもするわけで、そういうことになるとDVDを所有した方が何度も観ることもできるし、途中で巻き戻してもういちど観直すとか、自分勝手な見方もできていいではないか、ということにもなる。それでやはり、遠方の映画館へ観に行くよりも、DVDを買ってしまう方がいいかな、などという気もちにも傾くのである。DVDの収納した棚をみると、わたしは意外と溝口健二監督作品のDVDは持っているわけで(一枚五百円とかいう廉価版が多いけど)、数えてみると6枚あった。ここにもう一枚増やそうか?

 DVDといえば、読んでいる金井美恵子の「目白雑録」のなかで、彼女が新しく買った液晶テレビの初期設定を電気屋に任せっきりにしていたら、その画面設定が16:9ではなくって4:3になっていたとかで、つまりは少しばかり横にひしゃげた絵になってしまうのだけれども、金井美恵子はそれをそのままにしてサッカー番組などをみていたらしいのである。‥‥ふむ、あれだけ映画にうるさい人が、そういう不自然な絵に気づかなかったのかよ?と、ちょっとばかし意外に思ったりした。
 この件はわたしも先日買った安価なDVDプレーヤーで苦労してしまったことで、そのDVDプレーヤーでDVDを見ると、どう設定を変えても、その「ちょっと横長」の絵になってしまうのだった。これはけっきょく、テレビの方の「画面サイズ設定」というところで切り替えて正常に見られるようになった。しかし、正常にはなったのだけれども、画面がひとまわり小さくなり、画面左右にも黒い部分が出来てしまうようになった。まあこのDVDプレーヤーはリージョンの制約でもう一台のDVDプレーヤーでは見られない、輸入盤のDVDを見るために買ったものだから、ふつうのDVDを見るにはそのもう一台の方を使うようにしている。

 それで、昨日「ゾンビ」のジョージ・A・ロメロ監督が亡くなられたとのニュースを聞き(NHKのニュースでも報道していた)、なんとなく棚の録画したDVDをみていたら、その「ゾンビ」があったので、観てみた。自分でコピーしたDVDだけれども、意外と絵がクリアできれいなのにはびっくりした。

 夜は寝る前に「昭和文学全集」。遅々としてはかどらず、もう読み始めて二ヶ月半になるのに、ようやくこの巻の半分に達したところ。こんなペースでは一巻読み終えるのに半年かかってしまい、ウチにある十何冊全部読むには十年近くかかってしまうことになる。もうちょっとペースをあげるとか、考えなくっては。今日からは中勘助である。

     

 

[]「ゾンビ (ダリオ・アルジェント監修版)」(1978) ジョージ・A・ロメロ:脚本・編集・監督 「ゾンビ (ダリオ・アルジェント監修版)」(1978)   ジョージ・A・ロメロ:脚本・編集・監督を含むブックマーク

     

 観始めてすぐ、「この登場人物の顔には見覚えがあるぞ!」と思うわけで、この日記でチェックすると、わたしはこのジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」は、いろんなヴァージョンで何度も観ていることがわかる。街にあふれるゾンビの群れから逃れて、四人の男女がショッピングモールに立てこもる、という大まかなストーリーラインもけっこう記憶している。そんな過去に書いた感想を今読んでみると、だいたいの感想は今回もそんなに変わらないんだけれども、ちょっと書き足しておこうかと思うこともある。

 主に描かれる四人は、テレビ局に勤めるフランとその恋人のスティーヴン、スティーブンの友人でSWAT隊員のロジャー、それとロジャーが誘った同僚のピーターと、なのだけれども、この四人では、ピーターがリーダーシップをつかさどるに最適任の人物というところで、スティーヴンとロジャーとの抱え持つ欠点をうまくフォローしようとする。ショッピングモールに到着してすぐに、スティーヴンがかなり自分勝手な行動を取ってハラハラさせられるのだけれども、ピーターはそんなスティーヴンに怒りをぶつけるでもなく、あたりまえのようにスティーヴンを助ける。ロジャーにも「調子に乗って舞い上がるな」と何度も忠告するわけではある(残念なことにロジャーの耳には届かなかったようだが)。フランもまた良い情況判断の出来る人物というか、時間のあるときにスティーヴンにヘリコプターの操縦を習い、これがいちおうラストの「脱出」につながる。
 とりあえずはショッピングモールである意味平和な生活をする四人だけれども、そこにならず者バイク集団がやってくるわけで、このバイク集団、何となく「イージー・ライダー」みたいなところもあり、リーダー格の男なんか、かなりデニス・ホッパーに似ている。おそらくは「イージー・ライダー」で虐殺された仕返しをココでやってやろうという気なのだろうか。ここでショッピング・モールの金目のものをかっさらって行こうとするバイク集団に、スティーヴンが「オレのものだ!」みたいに所有欲丸出しに立ち向かってしまい、「やり過ごせば何とかなる」と考えるピーターの目論みをぶちこわしてしまうわけでもある。「人は自ら破滅の道を選ぶ」というところか。

 さて、この日記でこの映画のリメイクの「ドーン・オブ・ザ・デッド」を観た感想を書いてあるところに、「地獄が満員になったのでゾンビがあらわれたのさ」みたいなセリフがあり、それが黒沢清の「回路」の「ゴーストが、あの世が満員になってあふれて来た」というセリフに対応し、やはり「回路」はゾンビ映画の影響を受けているのだと書いているのだけれども、その、「地獄が満員になってゾンビがあらわれた」というセリフは、この本家本元の作品の中でいわれてるのだった。

 

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