ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2017-02-18(Sat) このエントリーを含むブックマーク

 今日はまた午後から新宿へ行く。実は新宿の某カフェで今、わたしの娘が個展を開催しているのである。それで娘と連絡を取り、夕方に娘と待ち合わせていっしょにそのカフェに行くことにしてある。娘は大学の通信課程で美術を学んでいて、この二、三年は銀座で、その教室のメンバーらとのグループ展に参加したりしていたのだけれども、まさかこんなに早く個展をやることになるとは思っていなかった。とにかくは観に行こう。しかし、このところ連日のお出かけである。

 待ち合わせ時間は五時半なので、ちょっと早く新宿に出て買い物をしようと思うし、その前に、今まで使って来たバッグがいいかげんボロボロになっていて、買い替えようと思っていたのが、先日ホームセンターで手ごろなバッグが売られているのを見つけ、「これにしよう」と思っていたのを買うことにした。
 ホームセンターへ行き、しばらくそのバッグを「どうだろう」とチェックしてみたけれども、まずは大きさが気に入ったし、価格もまあまあと思えたので、やはりそれを購入して帰った。帰宅していろいろと中身を詰め替えていると、中仕切りが今までのバッグの方が良かったかとも思ったけれども、前のバッグのようなものはネットで調べてもどこにも見当たらず、今までいろんなバッグを扱う店をのぞいてみていてもなかったので、これはしょうがない。とにかくは今日はその新しいバッグでお出かけする。

 家を二時に出て、新宿には四時前に到着。この日は土曜日で、駅近くの量販古書ストアでは全品10パーセントオフのセールをやっていると記憶していたので、まずは行ってみる。前から欲しいと思っていた宇多田ヒカルの「Fantôme」が置かれていたので(今まで、いつ見てもこの店には置かれてなかった)、まずはこれを買う。あとは百円の文庫本、そしてなぜか五百円ぐらいになっていた、フランクルの「夜と霧」の美本などを買う。
 次に画材店へ行き、たしかウチにはペン先だけはあったはず」と思ってペン軸とセピアのカラーインク、そしてスケッチブックとを買う。ちょっと絵を描いてみようかという心境。あとは家電店へ行って、DVDプレーヤーのレンズクリーナーを買ってみる。ウチには今二台のDVDプレーヤーがあって、そのうちの一台は安物の輸入品でリージョンフリーなのだけれども、これがこのところずっと、DVDを挿入してもディスクを認識しなくなってしまっている。普段観るのはもう一台のプレーヤーでいいのだけれども、ウチには輸入盤のDVDもあれこれとあるので、いまはそれらのDVDが観られなくなってしまっている。ひょっとしたらもうプレーヤーとしてダメになっている可能性もあり、レンズクリーナーでも復帰しないかもしれない。でもとにかくはいちどトライ。

    f:id:crosstalk:20170219134424j:image:w400

 待ち合わせ時間になったので駅へ行き、無事に娘と遭遇。いっしょに三丁目にあるというその個展会場のカフェへ行く。なんだか結構このあたりでは人気のカフェということで、店内は若い女性らでほぼ満員。(まいったなー)という感想。特にアート系にシフトしたカフェというわけでもない感じで、そもそもが、展示された作品をゆっくりと鑑賞するという空間ではないと思った。
 作品点数は十点あまりあっただろうか。主に花の具象画が並び、そんな中に一点だけ抽象画があったのが目を惹いた。「これはかなりいいのではないか」と、わたしも感心してしまった。しかしはっきりいって彼女の立場はかなりコンザバなもので、わたしとしてはそういう彼女の立ち位置に不満もあるのだけれども、あまり否定的なことをいってもしょうがないからいわない(むかしはちょっといったけれども)。とにかく、当人が「やりたい」と思う方向で力を伸ばすのを、応援するしかないのかと思う。

    f:id:crosstalk:20170218190210j:image:w400

 しばらくはそのカフェでお茶しながら、娘と絵の話などをして、「店を変えて飲みましょう」ということでカフェを出る。近くのわたしのお気に入りの香港屋台の店に行ってみたけれども、やはり満員だった。娘が向かいにあったタイ料理の店がいいというので、その店へ入る。娘はつい先週、仕事でバンコクへ行っていたのだ。タイ料理にもけっこう詳しい。ちょっとワインっぽいタイ製ビールを飲み、タイ風焼き鳥みたいな料理、そしてタイの焼きそばはパッタイというのだったかな。そんなのを食べる。焼きそばはかなりおいしかった。わたしが「青いパパイヤのサラダ」が食べてみたいというと、娘が「それ、めっちゃ辛いからね」と。注文のときに辛さを調節してくれるというので、辛さ三段階のランク2に落としてもらった。‥‥しかし、これが、それでもめっちゃ辛かった。わたしは中華の辛いのとかはけっこう平気だし、好物でもあるのだけれども、このタイの辛さは性質がちがう。ウチにも例のタイカレーの缶詰があって、たしかにあれも辛かったわけで、その辛さが何倍にもなって襲ってくる感じだった。水をもらって水を飲みながら食べる。おいしいといえばおいしいのだけれども、要注意の料理であった。

 九時頃になって娘と別れ、帰路に着いたのだけれども、ターミナル駅に着くとローカル線の最終からひとつ前の電車が出たばかりで、次の最終電車まではなんと四十分も時間がある。たいていの店はもう閉まってるし、これから飲み食いしようとは思わない。時間をつぶすのがたいへんである。「しょうがない」と、待合室で読書して電車を待つ。けっきょく、久々に終電での帰宅になった。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170218

■ 2017-02-17(Fri)

 四連休の二日目。昨日勝手に中断してしまった映画鑑賞、今日は実行しようと朝早くに家を出る。十一時前に新宿に着き、まずは映画館でチケットを買い、座席を決める。ふたつ並んだチケット売り場の空いている方でチケットを買おうとすると、となりでチケットを買おうとしている人もわたしと同じ「アラビアの女王」を観ようとしているようだった。その人が「シニアでお願いします」といい、「身分証明を見せなくていいんですか?」とか聞いている。担当の人が「いえ、特には」と答えているのに、「健康保険証を持っていますが」とかいっている。ちらっととなりを見ると、もうどう見たってシニア、八十歳ぐらいにも見えてしまうご老人である。「この人が年齢を証明するものを見せなくてはならないのならわたしはどうなるんだ、わたしは健康保険証も何も持って来てないぞ」とか思ってしまう。

 ちょっと時間があるので外に出てタバコを一服し、映画館に戻って持って来たパンでちょっと早い昼食にする。映画が始まるので映写室に入ると、さっきのご老人も近くの席にいらっしゃったし、わたしのすぐ隣にはやはり相当にお年を召されたご老人が座っておられる。何なんだろう? 老人に人気の映画なんだろうか?

 期待していた割りにちょっとイマイチな感じだった映画が終わり、このまますぐに駅に戻って湘南新宿ラインに乗れば、三時半からの「この世界の片隅に」にちょうど間に合う計算なので、駅へ行く。ところが沿線で人身事故があったとかで、湘南新宿ラインはストップしているといっている。これはもう「この世界の片隅に」を観るのには間に合わない。先にわかってれば新宿で買い物でもしたのだけれども、もう改札を越えてしまっているのでどうしようもない。「しょうがない、今日は帰るか」という感じで、電車を待つ。次に来る予定の湘南新宿ラインの電車は、先に行かないで新宿駅どまりになるとかいっている。事故があったのは「さいたま新都心駅」だということなので、大宮まで行ってしまえば何とかなるだろうと、止まっていた埼京線に乗る。ところが、その電車に乗ってしばらくすると、湘南新宿ラインも動き出したというアナウンス。わたしが乗るつもりだった湘南新宿ラインの電車も、新宿どまりではなくってそのまま動いたようで、なんと、わたしの乗っていた埼京線は、その湘南新宿ラインにとちゅうで追い越されてしまった。どちらにせよ「この世界の片隅に」を観るには間に合わなかっただろうけれども、無駄な労力だった。どうも今週はついていない。

 もうさっさと家に帰ることにして、まだまだ明るいうちに自宅駅到着。それで駅からウチに向かう途中、道沿いの民家の、庭のところに野良ネコが集合しているのに出くわした。四匹いる。どうやらその民家の人が野良たちにエサをあげているみたいだ。野良たちの憩いの場なんだろう。こんな時間にここを通ることもなかったのでわからなかった。

    f:id:crosstalk:20170217174722j:image:w400

    f:id:crosstalk:20170217174635j:image

    f:id:crosstalk:20170217174756j:image

 四匹のうち三匹は、うちのベランダにも来ていて見覚えのある野良だった。あのちょっと小さな黒白のネコ、黒ネコ、そして白茶の目に病気のあるらしいネコと。もう一匹は見たおぼえはないネコだったけれども、つまりこのあたりに少なくともこの四匹の野良は棲息しているわけだ。まだ別にいるのかもしれない。もうちょっと北に行って線路を越えると、コンビニのそばに三毛の野良が誰かにネコ缶をもらっているし、それで五匹か。さすがに、しばらくウチで育ったニェネントのお母さんのミイの子はやはりもういないようだけれども、黒白の小さなネコはミイの血を引いている、子孫である可能性がなくもない。つまりニェネントの親戚かもしれない。
 野良ネコに迷惑している家もあるかもしれないけれども、わたしなどはこうやって野良ネコが生き抜いている姿を見ると、それがその土地の豊かさのように感じてしまって、うれしくなってしまう。

 帰宅してちょっとのんびりし、ニェネントに夕ごはんをあげ、わたしは昨日買って残っているパンで夕食にした。けっきょく今日は一日中、パン食で過ごしてしまった。


 

[]「アラビアの女王 愛と宿命の日々」ヴェルナー・ヘルツォーク:脚本・監督 「アラビアの女王 愛と宿命の日々」ヴェルナー・ヘルツォーク:脚本・監督を含むブックマーク

 「ヘルツォークがアラビアを撮る」ということで観てみた作品。主演はニコール・キッドマンで、二十世紀初頭、今から百年前にアラビアで活躍した実在のガートルード・ベルをモデルにした伝記作品。ヘルツォークの作品には、アマゾンを舞台にした「アギーレ/神の怒り」とか「フィツカラルド」とかの怪作、傑作が過去にあったわけで、つまりはそういうものを期待してもいたのだけれども、思ったよりもオーソドックスな作品だった印象。

 イギリスで育った青春期、社交界の付き合いがうとましく感じたベルは、叔父の提案でテヘランへと。その地で砂漠の美しさに魅せられたベルは、その地でひとりの男と恋に落ちるのだけれども、その結婚を男のギャンブル癖、借金故に認められず、男は自殺してしまう。その悲しみはベルをさらに砂漠へと向かわせ、新しい男との出会いも待っていた。

 この映画にもT・E・ロレンスが登場し(演じていたロバート・パティンソンという人は、先日観た「シークレット・オブ・モンスター」にも出ていた人だった)、ベルとも遭遇するというのは史実だということだけれども、やはりここでのガートルード・ベルの活動はどうしてもT・E・ロレンスと比較したくなってしまい、つまりは「アラビアのロレンス」と比べてしまう。個人的なモティヴェーションが砂漠の中で強烈な自我の拡散となった感のある「アラビアのロレンス」に比べ、この作品、どうしてもベルの恋愛事情と政治的中東情勢、そして砂漠の魅力というものが一体となって感じ取れない気がする。というか、そのベルの個人事情と砂漠との絡みが、まさに「アラビアのロレンス」的な演出を求めているように思えてしまい、あまりにかぶりすぎている気がした。ちょっともういちど観てみないと、わたしの脳の状態ではついて行けなかったかな?

 登場するラクダの啼き声の強烈さ、そして砂漠の中での着衣での入浴など記憶に残ったけれども、あと、ベドウィン族の要塞に到着したときに外で長く待たされ、それは「殺そうか歓待しようか考えているのだ」というあたりが、いかにもアラビア的な思考法と思えて面白かった。


 

[]「知ってても偉くないU☆S☆A語録」町山智浩:著 「知ってても偉くないU☆S☆A語録」町山智浩:著を含むブックマーク

 アメリカ在住の映画批評家の町山智浩が、2012年から2014年まで週刊文春に「言霊USA」として連載していたコラム。この連載の始まった2012年がまさに前回の大統領選の時期で、リベラルな立場の町山氏は共和党候補のロムニーをこき下ろす。これを読むと、アメリカの政治的情況というのはいつでもそんなに変化していないわけだなと思うし、ドナルド・トランプみたいな奇矯な人物が登場する下地はずっとアメリカにはあったのだと納得する。じっさい、このときにもオーウェルの「1984」が売れたりしたというのも、まさに今とおんなじではないか。前にこの日記の中でも書いたけれども、そういったアメリカの<病根>というものに、全米ライフル協会、そしてキリスト教原理主義というものがあるのではないのか、ということが改めてよくわかる。

 前半はそういう時事ネタで書き連ねられているのだけれども、後半になるとネタ切れしてしまったのか、著者お得意の映画ネタにシフトしてしまう。それでもハリウッド映画の反動面をしっかりと伝えていて読みごたえはある。ただ、章ごとについているイラストはグロテスクというか不気味で、そこだけ破り捨てたくなってしまう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170217

■ 2017-02-16(Thu)

 今日からしごとは四連休である。ま、そのうちに(今の仕事に関しては)永遠に休みが続くことになっちゃうんだけれども。昨日の行動はまったく空振りだったりしたわけだけれども、そういうことに懲りることなく、これからはもうちょっといろいろと積極的に動こうと思った。それで今日はまた東京に出て、ちょっと観たいと思っているヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画「アラビアの女王 愛と宿命の日々」を観ようかと。それで東京でその映画を観たら地元へとんぼ返りして、ターミナル駅の映画館で先週から公開が始まった「この世界の片隅に」をつづけて観てみようかという計画。「アラビアの女王」は朝の十一時半ぐらいから一回きりの上映なので、こっちは九時前に出なくっちゃいけないだろう。そのように計画し、じっさいに九時前に家を出たのだけれども、「いけない、忘れ物をした!」と引き返したらちょっと時間が遅くなってしまい、電車に間に合わなくなってしまった。う〜ん、それでは映画を観るのは明日ということにしよう。今日は二週間に一度の内科医の検診を一日早くして、そのついでに内科医の先にあるハローワークへ行ってみようか、ということにした。

 内科医は今日は心電図検査。特に異常なし。そのままハローワークへ行った。もうハローワークを訪れるのは六年ぶりとかになるし、記憶が消えてしまっていることもあるから、いったいどのように利用したらいいのかさっぱりわからない。とりあえず「どうやればいいんですか」と職員に問いかけ、まずは「ハローワークカード」というのをつくってもらった。担当の人に「こういう感じの条件の仕事を探しています」と告げる。つまり、「運転免許なし」ということで、このことはこの地ではハンディが大きい。わたしとしては、この土地の個人経営みたいな小さな会社の職場ではわたしは勤まらないだろうという考えがあるので、どっちにせよ車で行かなくっちゃならないような職場は選びたくはない。そしたら担当の人が「これで町名とか調べる目安にして下さい」と、近隣の駅周辺の地図をコピーしてくれた。じっさい、助かる。
 ひととおり話を聞いて、帰る前に端末で今出ている募集案件をチェックしてみた。意外とすぐに、「ここがいいのではないか?」というような募集案件がみつかった。条件などいろいろ考えてみても、悪くはない気がする。勤務時間は今までよりも長くなりそうだけれども、今までのように早朝出勤ということもない。つまり、朝は七時ぐらいに起床して、夜は十一時ぐらいまで起きていられるという、ごくノーマルな生活に戻ることが出来る。どうせ最低賃金ではあるだろうけれども、勤務時間が増えるから収入も多少は増えるのではないかと想像する。いいのではないか。ほんとうはもう、すぐにでも履歴書を書いてもういちどハローワークへ行き、紹介状をもらって面接に行くべきだろうけれども、そこは来週のことにして(そんなのんきなことでいいのか?)、とにかく今日は休養、明日は考えていたように映画を観に行くつもり。

 明日はしごとも休みなので夜はゆっくりし、南のスーパーが値引きされる時間を見計らって買い出しに行った。百円になったパンの包みを三つ買い、ひとつは今日の夕食、残りは明日の朝食と昼食にしようと。それでもまだ余りそうなので、明日の夕食も残ったパンになるだろうか。一日中パン食になるかな。


 

[]「ハーロー」(1965) ゴードン・ダグラス:監督 「ハーロー」(1965)   ゴードン・ダグラス:監督を含むブックマーク

 1930年代、アメリカ映画のセックス・シンボルとして一世を風靡し、わずか26歳で早逝したジーン・ハーロウの伝記映画で、ハーロウを演じるのはキャロル・ベイカー。1958年に刊行された「ハーロー‥‥秘められた伝記」からの脚色らしい。

 ハーローの母(アンジェラ・ランズベリー)は再婚していて、ハーローの義父(ラフ・ヴァローネ)は、映画のエキストラで稼ぐハーローの収入をあてにして無為な生活をおくるぐうたら。母もそんな夫に文句いえないダメ家族である。あるとき、ランドー(レッド・バトンズ)というエージェントがハーローの将来性に目をつけて契約、いろいろありながらも映画界の大物レドマン(マーティン・バルサム)に認められ、アメリカ中が彼女のファッションを追いかけるような大スターになって行く。レドマンの右腕のバーンに結婚を申し込まれ、承諾して結婚したハーローだけれども、新夫バーンは性的不能者だった。バーンは自殺し、ハーローも自分を見失い、ひとり海辺をさまようのである。

 なんかよくわからん映画。まずはストーリーに一貫性がないというか、まずはぐうたら男の義父はどうしようもないクズ男に見え、母もまた「困ったものだ」という前半なのに、ハーローが成功してリッチになると、義父はハーローにアドヴァイスするような「いい義父」になってしまう。これでは、「人は金があればいい人にもなるものだ」ということかよ、みたいな感じになってしまう。ハーローのエージェントのランドーにしても、ただハーローが売れるきっかけをつくったぐらいの存在で、人物の描き込みがまるで足りない。
 いちばん困ってしまうのは、この映画を観たあとでジーン・ハーロウのことをあれこれ調べると、根本的なところでこの映画に描かれていることが事実とは違っていること、そして、ハーロウ当人と、彼女と結婚したバーン以外の登場人物が皆仮名で、そういうところでまったくリアリティがかんじられないこと、だろうか。

 ジーン・ハーロウを演じるキャロル・ベイカーはけっこう美しく、役者としての力量もあるように思った。共演者たちもそれぞれいい役者さんたちで、そういう顔ぶれは悪くはないというのに、映画として何を訴えたいのか、よくわからない作品になってしまっている印象。


 

[]「肉体のすきま風」(1961) テネシー・ウィリアムズ:原作 ピーター・グレンヴィル:監督 「肉体のすきま風」(1961)   テネシー・ウィリアムズ:原作 ピーター・グレンヴィル:監督を含むブックマーク

 これはテネシー・ウィリアムズの戯曲が原作ということで観てみた作品。原題は「Summer and Smoke」というもので、これではいったい何のことだかわからない。この監督さんの名は聞いたことはないけれども、主演はジェラルディン・ペイジとローレンス・ハーヴェイで、ローレンス・ハーヴェイのことは多少知っている。この人はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の古い映画作品でロミオを演じたこともあって、つまりは二枚目。インテリっぽい顔立ちなので、そういうスマートな役を多くこなしたけれど、胃ガンで四十代ぐらいで亡くなられた人という記憶がある。いったい何でわたしが、こうやってローレンス・ハーヴェイのことをいろいろ記憶しているのかさっぱりわからないのだけれども、若い頃にこの人の主演する映画を何か観ていたのだろう。相手方のジェラルディン・ペイジのことは、その名前をかろうじて知っているぐらい。

 さてこの映画、やはりいかにもテネシー・ウィリアムズらしい、しょっぱい作品だった。舞台は南部の田舎町で、アルマ(ジェラルディン・ペイジ)は牧師の娘。近所の医師の息子のジョン(ローレンス・ハーヴェイ)とは幼なじみで、お互いに好意は持っていたみたい。歳月が経ち、アルマは自宅で音楽の教師をやっていて、とにかくは敬虔なクリスチャンらしい生活をおくっている(母親がちょっと痴呆症気味で苦労している)。そこに医科大を卒業したジョンが戻ってくるけれども、都会で酒と女の遊びを覚えて身を持ち崩していて(彼の父は「わしはおまえが生まれる前に500人もの赤ん坊を取り上げたが、まさか我が子がいちばんのクズになるとは」という)、町のカジノの娘ローザ(リタ・モレノ)と付き合うようになる。アルマは町の生活の孤独に耐えかね、やっぱりジョンが好きなんだけれども、どうしても彼の遊び人体質には我慢出来ないし、あまりにキリスト教的モラルに囚われすぎてもいる。一方、町にはネリーという思春期真っ最中で大人の世界に興味津々の女の子もいて、ジョンに接近しようとしている。
 ついにある夜やっと、アルマはジョンとデートするのだが、ジョンに体を求められたアルマは拒絶してしまう。ジョンも実はアルマに惹かれるものを感じていたのだが。アルマに拒絶されたジョンは、父が別の地で往診しているとき、自宅でローザとの結婚ということでパーティーを開く。ジョンの家の向かいに住むアルマは騒ぎを聞いてジョンの父に電話連絡する。駆けつけたジョンの父はローザやローザの父を追い出そうとし、逆にローザの父に撃ち殺されてしまう。父の死の責任をアルマの偽善と責めるジョンだが、自らの過ちにも目覚め、以降は献身的な名医へと変身する。そんなジョンにアルマは「ここぞ」とばかりに愛を告白し、誘惑しようとするのだが、ジョンはネリーを選ぶ。まさに「肉体のすきま風」を感じたアルマは、町に来た見知らぬセールスマンに誘いをかける。

 う〜ん、観ていて、ジェラルディン・ペイジの容貌の「おばさん」ぶりに引いてしまうところがあるかな。この映画撮影時に彼女は36か37。最初っからオールドミスという感じでの登場なので、一方のローレンス・ハーヴェイ(彼もこのとき32とか33になってるけれども、見かけは若々しい)に比べて「どうなのよ」というところはある。まさにその「オールドミス」っぽさこそがこの作品のかなめでもあるのだけれども、やはり共演のリタ・モレノやネリー役の女優に比べ、ちょっと極端すぎる気がしないでもない。

 ヒロインの「アルマ」という名前が「魂」を意味しているということが、ヒロインのよりどころではあったりするし、そこで医師であるジョンの唯物論的な考えと衝突もする。しかしそんなジョンが「魂」の存在を理解したとき、逆にアルマは「肉欲」に囚われてしまっている。このすれちがい。ジョンはアルマとの関係で人間的な深みを得て、医者としても個人的な幸福としても前途洋々とみえるのだけれども、おそらくはアルマには「破滅」しか待っていない。いかにも演劇舞台的なラストだけれども、観ていても「テネシー・ウィリアムズらしいラストだな」と思ってしまった。なかなかの佳作かな。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170216

■ 2017-02-15(Wed) このエントリーを含むブックマーク

 ダイエットを本格的に始めてそろそろ一週間。食事量を減らしてもそんなに空腹で空腹で、ということもなく、そうすると今まで不必要にいつもたくさん食べていたのかもしれないな、などと思う。昨日の夕食は久々にスパゲッティなどゆでてみたのだけれども、普通一食分は100グラムというところ、半分から三分の二ぐらいの量にしてみた。ぜんぜん問題ないというか、外食でスパゲッティとか食べると、だいたいこのくらいの量なのではないのか。やはり今まで食べ過ぎていたのだと思う。
 今日も朝食はトースト一枚にして、昼食には「皿うどん」にしようと考えたのだけれども、この一食分は今のわたしには多すぎる。どうせ野菜とか入れるのだから、半分でいいじゃないかと、乾麺のかたまりを包丁でふたつに切り分け、「あんかけスープ」も一袋の半分にする。まさにちょうどいい分量だった。こりゃいいや。ダイエットにもなるし、食費もこれからは半分で済むかもよ。

 今日は横浜の神奈川芸術劇場へ、アピチャッポン・ウィーラセタクンの「フィーバー・ルーム」という舞台(?)作品を観に行くつもり。今年に入ってまだひとつも舞台を観ていないし、そろそろ何か観ておかないと、みたいな考えではあるけれども、せっかくウィーラセタクンの映像作品はだいたい観に行っているわけだし、やはり彼の作品は観ておきたい。チケットが発売された頃には「いつ行こうか」と考えていたのに、そのまま放置してしまって忘れていたら、もう今日が最終日になっていた。チケットを持っていないので当日券目当てなわけだけれども、午後五時半開演のところをこちらを一時に出て、四時前に現地に到着して一時間か一時間半ぐらい並べばなんとかなるのではないかと考えた。

 計画どおり、昼食を終えて一時の電車に乗って出発。横浜で「みなとみらい線」に乗り換えて、神奈川芸術劇場のある「日本大通り駅」には三時半ぐらいに到着した。ここで「いくら何でもまだちょっと早すぎるだろうか」などと変なことを考え、あたりをぐるりとのんびりと歩いてみたりして、ゆっくりと神奈川芸術劇場へ行く。行ってみてびっくり。その二階には、今日の当日券狙いの人たちがすでにずらりと並んでいる。百人はいるだろうか。これはちょっとこれから並んで当日券のゲットは無理なんではないかと思うけれども、とりあえずは最後尾に並んでみた。う〜ん、少なくとも地元は十二時に出て、二時間以上並ぶ覚悟でなければいけなかったのだ。って、そんなことは想像もつかなかった。
 しばらくして係員の方が来て、わたしの前の列のところで「ここから後ろの人は確実にチケットはありません」と、のたまわれた。うん、まあ想像はついていたけれども、ダメだったか。わたしゃいったい何をしに、二時間以上も電車に乗ってココまで来たんだろうね。JRを儲けさせただけだった。家でニェネントくんと遊んでればよかった。

    f:id:crosstalk:20170215171715j:image:w400

 寄り道して遊ぶところもなし、しょうがないので電車が混み始める前に帰路に着く。電車の中は読書室。読んでいる「わたしの名は紅」はけっこう読み進んだけれども。ターミナル駅でいつものようにいちど下車して、駅ビルスーパーでチケットを買ったつもりで「まぐろの刺身」の小さなパックを買い、となりの酒屋で、おそらくはお正月用の、金箔入りの大吟醸酒が安くなっていたのとを買って帰路に着く。「まぐろの刺身」は当然ニェネントへの「おみやげ」なんだけれども、やっぱり人間が「おいしい」と思うようなものは、ニェネントの食いつきもいいですね。すっごいいきおいで食べてくれるから、こっちもうれしくなる。そんな刺身をちょっと分けてもらって、わたしは酒を飲む。ちょっとワインみたいな、フルーティーな日本酒だった。

 さて、わたしは明日から四連休。ここはハローワークにでも行ってみましょうか、という考え。果たしてわたしの未来はどうなるのでしょうか。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170215

■ 2017-02-14(Tue)

 アメリカのトランプ大統領が、暴走している。中東アフリカのイスラム圏七ヶ国からの入国禁止令を発動し、これに対していくつかの連邦裁判所は「これは違憲であるから無効」との判断を示し、現実には現在「入国禁止令」は失効している。するとトランプはtwitterで「万が一何か(テロなど)あったら、判事の責任だ」と攻撃をやめない。また、デパートが自分の娘のブランド商品の販売を中止したところ、そのデパートを非難攻撃する発言を、これもtwitterで行なっている。自分の地位を自らの親族の利益誘導に利用するというのは、いったいどこの部族の首領なんだコイツは、という感じだが、今そんなトランプのところに安倍総理が行き、どうやら「ご機嫌取り外交」をやっているらしい。いっしょにゴルフやったりして、ふたりの親密さをアピールしているみたいだ。安倍は「ここはトランプに追従しておいた方がいい」と踏んでいるのだろうが、どうも今までのところ、「言うことは乱暴だけれども、けっきょくちっとも政策を実現出来ていない」トランプにとって、「あなたのいうことなら何でもお聞きいたします」みたいな安倍の存在は、そりゃあうれしいことだろう。けっきょくトランプはそんな日本に対してむちゃくちゃなことをいい出し、安倍はもう「ノー」といえずにいいなりになってしまうのではないのか。そのしわ寄せはいったいどこに来るのだろう。
 図書館から借りている、町山智浩の「知ってても偉くないU☆S☆A語録」という本をちょこちょこ読んでいるのだけれども、週刊誌に連載されていたこのコラム、最初の方ではちょうど四年前(もう五年前になるのか)の、オバマとロムニーとが争った大統領選挙のことが話題になっているものが多い。これを読んでると、トランプに限らず、そもそもがアメリカの共和党の連中がトンデモないことをいう連中であることがよくわかるし、その背後に全米ライフル協会、そしてキリスト教原理主義者らの影がいつもみえていることがわかる気がする。トランプもまた、これらの団体の後押しを強く受けているわけで、マイノリティを抑圧し、歴史を修正しようとする人物だという点で、安倍晋三と気が合うところはあるのだろう。しかし、わたしはトランプは任期を終える前に辞任せざるを得なくなるのではないかと思っている。おそらくその時期にも安倍は日本の首相の座にあるだろうけれども、トランプに入れあげた責任を問う声は大きなものになるのではないだろうか。

 昨日届いた「ひかりTV」の虚偽契約書の件、午後から電話してみた。指定された電話がなかなか通じなくて、「これは会社ぐるみでニセ契約のキャンセルを阻止しようとしているのかよ!」などと考えてしまったが、なんとか通じて女性の担当が電話口に出た。「こんな契約はしていないんですけど」というと、「あ、そうですか」という感じで契約はキャンセルされ、わたしとしてはその契約のやり方に疑問があるのだけれども、ということまでは話が出来ないで終わってしまった。その点で大いに不満はあるけれども、ま、キャンセルさえされればいいともいえるわけで、「あんたのところは何やってるんじゃい!」というクレーム的なことで時間を費やすことは、時間の無駄でもあるし、何よりも自分自身の精神の安定を乱すことにもなる。不快なことではあったけれども、早く過ぎ去ってくれればそれに越したことはないだろう。

 ネットをみていると、横浜で上演されているアピチャッポン・ウィーラセタクンの舞台作品が明日でおしまいらしい。前に気になっていて予約しておこうと思っていたのに、いつ行けばいいのかはっきり決められずに、そのまま放置して忘れてしまっていた。このところ、こういう「予約し忘れていた」みたいなことばかりである。関係サイトをみると明日は当日券も出るようなので、やはりこの際行ってみようかと考えた。明日は久々の横浜行きになるだろうか。


 

[]「イージー・ライダー」(1969) ピーター・フォンダ:製作 デニス・ホッパー/ピーター・フォンダ/デリー・サザーン:脚本 デニス・ホッパー:監督 「イージー・ライダー」(1969)   ピーター・フォンダ:製作 デニス・ホッパー/ピーター・フォンダ/デリー・サザーン:脚本 デニス・ホッパー:監督を含むブックマーク

 わたしがこの映画を最初に観たのは高校を卒業したあとだっただろうか。もうマジに「ドロップアウト」を目指して生きようと思っていたわたしに、この映画で描かれるディストピアじみたアメリカの姿はショックだった。おかげでこのあとに観たアントニオーニの「砂丘」とか、リアリティを感じられなかったという後遺症もあったような。

 今回久しぶりに観て、この撮影がラズロ・コヴァックスだったということを知ったのだけれども、わたしはそこでラズロ・コヴァックスをゴダール映画とかに出演していたラズロ・サボと混同してしまい、「ゴダール映画も撮影した人物がこの映画の撮影を担当したわけで、つまり、アメリカン・ニューシネマにはヌーヴェルヴァーグから持ち込まれたものがあるわけだ」などと、勝手な解釈をしてしまった。いや実際のところ、ラズロ・コヴァックスはハンガリー生まれではあるけれども、60年代からずっと、アメリカ映画の撮影監督として活躍をつづけた人物なのではあった。まるでヌーヴェルヴァーグとは関係ない。

 しかし、ヌーヴェルヴァーグというものがフランス全体の文化の動向を反映し、五月革命の動きとも共振したように、アメリカン・ニューシネマというものにもアメリカ文化、社会との共振はみられると思う。そのことをこの「イージー・ライダー」でみてみれば、まずはビートニク文学の影響というのはあると思う。アメリカ大陸を横断する(といっても、この作品で描かれるのはカリフォルニアからニューオリンズまでの道のりだけれども、彼らはフロリダまでは行くつもりであったことが語られている)主人公らはやはりケルアックの「オン・ザ・ロード」を思わされるし、ドラッグの使用もまたビートニクから引き継がれたものだろう。ヴェトナム戦争参戦の暗い影の中、ビート・ジェネレーションはヒッピーへと転身して行く。この映画でも主人公ふたりがヒッピー・コミューンを訪れたとき、そこに演劇グループが滞在していたというあたりに、そういった文化的な前の世代からの引き継ぎを読み取れるように思うし、この映画にはそのようなビート・ジェネレーションの影響がダイレクトに、色濃く出ていると感じられる。そういうところでは、アメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群の中でも特異な位置を占めているのではないのか。まあデニス・ホッパーという人物が、まさにビートニク文学に生きた連中の後継者のようなところもあるわけだろうし、そうみていけば、ピーター・フォンダもジャック・ニコルソンもロジャー・コーマンの影響を大きく受け、この作品に「非ハリウッド」的な視点を取り込んでいくことになったのではないだろうか。

 実はわたしはもっともっとつまらない作品ではないかと思っていたのだけれども、意外と面白く観ることが出来た。トニ・ベイジルが出演していることはおぼろげながら記憶していたけれども、カレン・ブラックも出演していたというのは記憶に残っていなかった、というか、前に観たときにはカレン・ブラックなど知らなかったのだろう。


 

[]「ローマの休日」(1953) ダルトン・トランボ:原案 ウィリアム・ワイラー:監督 「ローマの休日」(1953)   ダルトン・トランボ:原案 ウィリアム・ワイラー:監督を含むブックマーク

 オードリー・ヘプバーン主演の、ファンタジー・ロマンスの傑作。だいたいのストーリー展開は知っているけれども、こうやってちゃんと観るのは何十年ぶりのことだろう。う〜ん、やっぱり、ヘプバーン! ヘプバーン! ヘプバーン! である。この作品一作だけでも、ヘプバーンは映画女優を代表する存在のひとりとして、永遠に記憶されつづけるだろう。というか、この作品の魅力とはつまりはオードリー・ヘプバーンの魅力であり、オードリー・ヘプバーンという女優を思い出すとき、まずこの「ローマの休日」こそが思い出されることだろう。

 出演者はほとんどそのヘプバーンとグレゴリー・ペックだけ、それとちょこっとエディ・アルバートが絡むぐらいのもので、基本グレゴリー・ペックとエディ・アルバートはオードリー・ヘプバーンを引き立てるがためにこそ存在する。まさにそこにも王女と従者という関係は引き継がれているのではないのかと思うけれども、けっきょく、アン王女は王室の閉鎖された空間から外に逃れても、新たな従者をみつけて冒険をするのだと、そういう話なんだろう。そういう風にみると、おとぎばなしの世界の王族の冒険譚を、うまく現代の現実の「ローマ」という街によみがえらせた話、ということも出来るのだろうか。ちゃんと退治すべき黒服の秘密警察団は登場し、ボート上のダンス・パーティーで撃退されるわけだし。

 しかし今回こうやって観直すと、互いに惹かれ合ってしまうオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、その冒険の終わりにはグレゴリー・ペックの部屋でちゃんと結ばれてしまっている、と読み取れる展開にはなっている。そこの演出は「おとぎばなし」として「そんなことはなかった」とも取れるし、つかの間のラヴ・ストーリーとして、行くところまで行ったのだとも取れるようにはなっているけれども。ま、そういうところで何というのか、老若男女だれでも楽しめる作品になっているというか。

 いろいろと読んでいると、当初はアン王女役にはエリザベス・テイラーが考えられていたのだという。今となってはアン王女=エリザベス・テイラーなどというのは想像することすら出来ないけれども、実のところエリザベス・テイラーはオードリー・ヘプバーンより三歳も年下で、この「ローマの休日」製作時にはまだ20歳そこそこだったわけで、ヘプバーンとはまた別のかわいらしさ、美しさを持つ女優さんだったわけではある。でも監督がウィリアム・ワイラーに決まったとき、ワイラーは「主役は大スターである必要はないし、アメリカ訛りのない王女の風格のある女性を探したい」と、イギリスに出向いてスクリーン・テストを行ない、そこでオードリー・ヘプバーンを「発見」したのだと。これはある意味、「映画」という世界での最大の「発見」のひとつではなかっただろうか。
 有名な、「嘘をつく人は手を噛み切られる」という「真実の口」のシーンでのオードリーのかわいいリアクション、あのシーンはグレゴリー・ペックと監督とで仕組んで彼女に知らせずに撮り、あのリアクションを引き出したのだという。つまりあのシーンは「素」のオードリー・ヘプバーンが出ているわけだけれども、彼女は何という可愛らしい女性であることか。「胸キュン」などという言葉を思い出してしまう。

 映画の中で、スペイン広場の階段のところでヘプバーンがジェラートを食べるシーンがあり、そこにグレゴリー・ペックが偶然再会したフリをして話しかけるのだけれども、この場面でバックにある時計台の時計が写っている。これがカットが変わるたびに指し示す時刻がコロコロと変わってしまっていて、観ていて「こりゃあマズいじゃん」と思ってしまったけれども、この件はWikipediaにも書かれていて、デジタル・リマスターされたとき、この時計の針も修正されているとのこと。ということは、今日わたしが観たNHK-BSでの放映は、デジタル・リマスター版ではなかった、ということなんだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170214
   2647914