ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2018-08-13(Mon)

 夢をみていた。わたしは(多分見知らぬ)若い女性と、それなりに清潔な白壁の倉庫のような建物にいる。外は雨になっているのだが、ふたりで「帰ろう」ということになって外に出る。目の前に高速道路の陸橋のような道があり、わたしたちのいるところから右側にゆるやかに上り坂になっているのだが、その道に、赤土をまき込んで赤い水となった雨水がまさに濁流になって、しぶきをあげながら流れ落ちて来るのがみえた。わたしはいっしょにいる傘をさした女性の方を振り返り、「これではとても帰れないから、戻って雨が小やみになるのを待とう」といっている。

 アラームの響きで起こされる。午前4時。今日からまた一週間の仕事がはじまるのだ。「いやだなあ」と思いながらベッドから起き出し、まずはニェネントの朝食。昨日買った「カリカリ」を出してあげるが、ニェネントはあっという間に食べてしまう。無心に食べているニェネントをみていると、とにかくはとってもおいしそうだ。「ニェネントくん! 喰え! 喰え! 太れ! 太れ!」とか思う。‥‥わたしはまるで食欲がなく、バナナだけの朝食(そういうのは朝食とはいわない)。

 世間は「お盆休み」らしく、朝の電車もいつもより空いている。仕事先にも人影は少なく、仕事量も少ない。暑いといえば暑いし、湿度が高くてムシムシするのだけれども、暦の上ではもう「残暑」ということだろうか。残らなくていいから、早く消えてほしい。帰りの電車の中では、子どもたちの姿が多かった。夏休みの思い出を、お父さんやお母さんとつくるのだな。いい思い出をつくりたまえ。

 自宅駅からの帰り道、空がどんよりと曇っているのが気になった。予報ではこの午後、関東では激しい雷雨に襲われるかもしれないといっていたけれども、ホントに来ちゃうのだろうか。
 ‥‥ホントに来た。2時半ぐらいになって、いきなり「ドーン!」と雷の音。まずは遠くの方で雷鳴が聞えてとかいうのではなく、とつぜん直近である。つづけて雷鳴が響き、リヴィングで寝そべっていたニェネントがびっくりして立ち上がり、右往左往する。さらに「ドーン!」と来て、まるで先日の花火大会。わが家の右からも左からも雷鳴がきて、ステレオ状態。窓の外を見ると、かなり激しい雨が降っていた。ニェネントは和室の方に逃げて行き、「どうしてるのか」とみてみたら、ベッドの下に避難しているのだった。臆病だなー。
 雷はせいぜい10分ぐらいでおさまり、雨もしばらくしたらやんでしまった。まさに夏の「夕立」というところで(「夕立」というには時間的にちょっと早かったけれども)、「こういうのもいいよな」と、懐かしい思いもした。ネットとかをみると東京の方の雷雨はかなり激しかったようで、千葉でこの時間に雨が降ったのは、ウチの辺りのごく狭い区域だけだったようだ。

 ニェネントくんはもう、わたしが夕食でネコ缶を出してあげるまで和室のベッドの下にこもりっきりで、今回は先週の花火大会とはちがってサラウンド効果満点だったので、けっこう怖かったのかもしれない。というか、ベッドの下の空間が居心地がいいと発見したのかもしれない。


 

[]「追い求める男」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「追い求める男」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 おっと、突然に作風が変化して、パリに滞在するジャズマンをジャズ批評家が追うという、ちょっと長めの(百ページ)作品。解説に執筆(発表)年代が書かれていないので困るのだけれども、書かれているジャズ・シーンの描写などから、これは1950年代後期のことで、そう考えると、この作品に書かれているジョニーのモデルはチャーリー・パーカーのようにも思えるのだが、パーカーはヨーロッパで暮らしたことはないだろう。特に「このモデルは誰?」などと考える必要はない。

 というよりも、ここでのジョニーと語り手のブルーノとの関係には、ケルアックの「オン・ザ・ロード」のようなものが見えてくるし、ジョニーが求めた時間感覚、世界との関係性というものはまさに、ケルアックらビートニクスの求めたものなのではないだろうか?
 たしかに、ここでのコルタサルのとつぜんの作風の変化にはとまどうところはあるけれども、この現世を越えて「ここではないどこか」を求めるジョニーの指向は、どこかでシュルレアリストたちの求道精神に通じるものがあるのではないのかと思う。だって、ジャズの「即興演奏」は、シュルレアリストの「即興詩」に通じるものではないのか?

彼はあの即興演奏の中で、何とか脱出しようとして問いかけたり、必死になって手さぐりしながら出口を見つけ出そうとしている。それがまた何とも言えず美しく感じられる。ジョニー自身には理解できないだろうが(それというのも、彼にとっては失敗であるものが、ぼくたちには一つの道、少なくとも一つの道を示すものになっているのだ)、(‥‥)。


 

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■ 2018-08-12(Sun)

 今朝は(昨夜飲んだことだし)思いっきり朝寝をした。ま、「思いっきり」といっても起きたのは8時半のことで、普通に考えてそんなに朝寝ではないだろうけれども、わたしにとっては「とてつもない」朝寝ではあった。とにかくは起き出してテレビを見ながらハムトーストで朝食。ニェネントくんへの朝食は、その前に(6時頃?)寝ぼけながらもいちど起きて出してあげていたのでOK。今日はニェネントくんのごはんをいっぱい、買い出しに行きますからね〜。

 だらだらとテレビを見ていて時間も過ぎ、「では昼食はまた<そば>にしよう」と、食品ストック棚から取り出して開けてみたら、<そば>ではなくって<そうめん>だった。「ま、いいかっ!」と、そうめんで遅い昼食にしたが、やはり食べたかったのは<そば>の方だったな。

 さて、そういうことで我孫子図書館のそばのドラッグストアまで、ニェネントの「ネコ缶」を買いに行く。前にも書いたけど、このドラッグストアが、同じネコ缶でも圧倒的に安いのである。「まとめ買い」すると、一気に何百円もの差になる。それで先日ちょっと調べたのだけれども、その「ネコ缶」、ペットフードの中でも相当に好評価の一品で、「ネコ缶」部門ではトップクラスの好評価。そこまで知っていて買いつづけていたわけではないが、ニェネントもいつも喜んで食べてくれるし、もうやめることは出来ない。
 それで昨日はニェネントの調子がちょっと悪そうに見えたこともあり、あの「どうぶつ病院」以来(せっかくあまり吐かなくなっていたのにまた吐くようになってしまった!)、ニェネントの食生活をちょっと乱れさせてしまったな、という責任も感じていて、「まずはニェネントの食生活をもとに戻してあげよう」という気もちもあり、今は朝も夕方も「ネコ缶」にしてるのだけれども、やはり朝は「カリカリ(固形食)」に戻した方がいいような気もするし、「カリカリ」にもいろいろといいモノがあるのだけれども、せっかく先日まであげていた「食事の吐き戻し軽減」というヤツが、たしかに効果があったようには思うわけで、ま、メーカーはあまり評判がよくないのは知っているけれども、いちどとにかく「好調」だったときの食生活にそっくり戻してあげて、それからまた考えようかな?という気分。

 で、せっかく図書館のそばまで行くのなら「何か借りようか」ということもあり、昨日Aさんに町田康の「湖畔の愛」だかが「いいよ〜!」と聞いていたので、「それを借りようか!」という気分でお出かけ。
 今日は、いくらか猛暑も和らいで、歩いていてそこまで「死ぬ〜」というわけでもない。まずは図書館に到着。‥‥あらら、「湖畔の愛」は「貸出中」ではありませんか。ま、今読んでいるコルタサルの短編集もすぐに読み終わるだろうから、(読めるかどうかわからないけれども)3冊ほど借りてみて退出。それでドラッグストアでネコ缶購入。さらに駅を越えてスーパーの「I」へ行き、「カリカリ」を買う。さらにさらに帰路の途中のコンビニの100円ショップみたいなところに立ち寄り、ネギとかキャベツ(半分)とかバナナとか、いろいろと買って帰る。やはりこの100円ショップは使いでがある。なかなかこの店の方角に出かけることがないのが残念。

 帰宅して、まずはニェネントくんの夕食のネコ缶を出してあげる。皿にネコ缶を出そうとしていると、ニェネントがわたしのすねをペロッとなめてくれるのである(帰宅してすぐズボンを脱いでるので、パンツ一丁なのだ)。あんまりわたしに甘えたりしないニェネントだけに、こういう「ありがとね〜」みたいなサインはいちばんうれしい。
 テレビをつけると高校野球。どことどことのゲームだかわからないけれども9対9とかいう熱戦で、面白そうだから見ていると延長戦になだれこみ、今は延長12回を越えると「タイブレーク」という制度が導入されていて、得点が入りやすいようになっているのだな。先攻チームが2点入れ、「さあ、どうなるかな?」と見ていたら後攻チームは満塁になり、「面白いなー」という感じで、なんと「逆転サヨナラ満塁ホームラン」で決着がついた。夏の高校野球100回の歴史の中で、「逆転サヨナラ満塁ホームラン」というのは初めてのケースだったらしい。負けたチームのキャッチャーが号泣していたのが印象に残り、「やはり高校野球というものも面白いものだ」などと思ったりした。


 

[]「悪魔の涎」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「悪魔の涎」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 ミケランジェロ・アントニオーニがこの短篇からインスパイアされて、「欲望」を撮ることになる。
 主人公のロベルトは翻訳家で、余暇をアマチュア・カメラマンとして過ごしている。彼はパリのこじんまりとした公園である女とそして少年という、年の離れたカップルを目にする。ロベルトはふたりを見ながらその背後にあるドラマを想像し、ふたりをこっそり撮影する。しかし女性に気づかれてしまい、フィルムを渡すように要求される。そのあいだに少年は逃げて行き、それまで無関係と思っていたそばの車の中の男が降りて来て、ロベルトに近づいて来る。ロベルトは「このフィルムはぜったいに渡さない」と決めて逃げ帰り、現像した写真を大きく引き延ばして壁に貼って眺める。
 するとロベルトの目の前でその写真が動き出すように見え、そこであらわされた光景は、実はロベルトが見たと想像したドラマとはまったく異なるものだった。

 ‥‥ここでも、先に読んだ「夜、あおむけにされて」のように、いったい何が<現実>で何が<想像されたもの>なのかということがあいまいになるのだけれども、主人公は覚醒していて、幻覚の中にいるのではないだろうというあたりが、「夜、あおむけにされて」との差異になるだろうか。翻訳もやっているという主人公の文学趣味というか、そういう文学的な世界へのまなざしこそが、彼にこのような体験をさせたのではないかとも思える。そしてこれまで読んだ短篇のようなシュルレアリスムからのダイレクトな影響から、作者自体が一歩抜け出したような印象もある。

 次のようなパリの街の描写に何を感じるか。

十五歳の神秘の町。家々のドアには暗号が記してあり、うす気味の悪い猫がいる。一袋五十フランのフライド・ポテト、四つに折り畳んだポルノ雑誌、空のポケットのような寂しさ、幸運な出会い。町は未知の事物で埋めつくされている。風や街にも似た気易さと貪欲な好奇心に駆られて彼はそれらの事物を熱愛する。


 

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■ 2018-08-11(Sat)

 土曜日だ。毎週聴いているピーター・バラカンの「ウイークエンド サンシャイン」。この朝は途中からゲストに鈴木慶一氏を迎え、「1968年」の特集だった。今のわたしにとって1968年といえば、Incredible String Bandの「The Hangman's Beautiful Daughter」、そして「Wee Tam & The Big Huge」のリリースされた年であり、先日「実はIncredible String Bandが好きだった」とカミングアウトされたバラカン氏、ひょっとしたら「The Hangman's Beautiful Daughter」から何かかけてくれるかな?と期待したのだけれども、ま、やはりあのアルバムからかけるなら代表曲の「A Very Cellular Song」だろうし、それはやはり長尺すぎるわけだったろうというわたしの勝手な判断で、かかることはなかった。
 わたしはこの1968年というのは、やはり大衆音楽(なんて変な言い方だが)にとって画期的な年だったろうと思っていたのだが、こうやってこの日の特集を聴いてみると、いわゆるロックの分野よりも、R&Bだとかブラック・ミュージックにとっての最良の年だったのではないか、という感想にもなった。Aretha FranklinとかMarvin Gaye、そしてJames Brownなど、転回点となるような音をリリースしているのが1968年だ。
 例えばFairport Conventionの「Liege & Lief」も、Frank Zappa(Mothers of Invention)の「Uncle Meat」も、翌1969年のリリースだった(Frank Zappaは、1968年には「We're Only In It For The Money」という傑作はリリースしているが)。
 とにかくはこの1968年、わたしにとっては、それまでのBillboard Top 40とかのヒットチャートを追いかけることから離れて、アルバム単位で音を聴きはじめた、その端緒になるような年だったと思う。いろいろと楽しくも、あれこれと考えてしまう番組だった。

 見た感じだけれども、今日はニェネントの元気がない。「あれ、いないな」と思うと、和室のベッドの脇の狭いスペースで横になっていたり、キャットタワーの隅に丸くなっていたりする。そういうことはこれまでなかったことだし、このところ食事の内容をコロコロと変えたせいではないのだろうかと、ちょっと心配になる。実は今朝もわたしが寝ているときに吐いている声が聞えたし、決して今健康な状態ではないように思える。動物医の指示に従ってやったこととはいえ、ニェネントには悪いことをした。せっかく体調も良くて吐くこともなくなっていた、この前の状態にとりあえずは戻してあげたい。

 今夜は、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターに、イデビアン・クルーの「排気口」を観に行く。観に行くにはウチを4時ぐらいに出ればいいのだけれども、午後から眠くなって昼寝をする。アラームをかけていたのだが、アラームで起こされてもなお強烈に眠く、「行きたくない。このまま寝ていたい」という気もちが強い。でもこの日の公演は「観たい公演」だったし、去年のイデビアンの公演を(チケット買ってあったのに)スルーしている前科もあるだけに、「がんばって行こう!」と起きて、支度をして(ニェネントくんのことは心配だけれども)出かけた。っつうか、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターにはどうやって行くのか、よくわからない。この日記で調べると前に行ったのはちょうど2年前のことで、この千葉に転居してから行くのははじめてのこと。「乗換案内」で調べると、千代田線をどこまでも乗って行って、表参道で半蔵門線〜田園都市線に乗り換えると、乗り換え一回だけで行けるという。楽ではないか。千代田線はけっこう万能である。

 そういうわけで久しぶりの「世田パブ」。ま、今まで何十回も通った、見知ったシアターである。「誰か知っている人が来てるだろうか」と思ったのだが、ちょっと見回してみて、そういう知人の姿は見当たらなかった。やはりクラスタがちがうかな?という感じ。

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 この「排気口」の公演は、10年前の初演のときも観ているのだけれども、もちろん何一つ記憶に残っていない感じ。それでもめっちゃ楽しくも興味深い舞台で、堪能した。感想は下。

 ‥‥終演。「さ、帰ろうか」と席を立ち、出口に向かうと、思いがけなくもAさんとばったり出会ってしまった。‥‥あららら、先週日暮里でお会いしたばかりじゃないですか。それでつまりは「じゃ、飲みに行きましょうか」ということになり、ほんとうに久しぶりに三軒茶屋で飲む。「すずらん通り」の居酒屋ね。ふたりで差し向かいではなく、並んで飲んじゃいました。きゃんきゃんといろいろとおいしいものを食べ、おいしい酒を飲み(って、わたしはいつも「ホッピー」なのだが)、音楽、文学、舞台とかの話題で話もはずんで楽しい時間をすごした。しかしなー、話の流れで、「"crosstalk"をやれよ!」みたいなことになってしまいましてね。‥‥むむむむ。悪酔いしそうだ。

 帰宅して、ちょっと心配な様子だったニェネントも出迎えに出てくれてひと安心。明日は、ニェネントのごはんをまとめて買いに行きますからね!

 

 

[]イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアター イデビアン・クルー「排気口」井出茂太:振付・演出 @三軒茶屋・世田谷パブリックシアターを含むブックマーク

 十年前の作品の再演。実はわたしはその十年前の舞台を観ているのだけれども、例によって<これっぽっちも>記憶していない。この日記にそのときの感想を書いてあるのだけれども、どうもその十年前にそろそろ「コンテンポラリー・ダンスの危機」みたいな空気があったのか、わたしはけっこう面倒なことをぐちゃぐちゃと書いているようだが、そのほとんどはイデビアン・クルーの舞台とは無関係のことだし、今日その十年ぶりの再演を観たあとに読んでみると、「オレ、けっこういいかげんな見方をしているな」みたいな感想にもなる。そもそもが安藤洋子さんを見間違えている気配があるし(再演で配役が代わったという可能性も、ないわけではないが)。

 それで今日の舞台。これは十年前も書いているけれども「喜劇・駅前旅館」みたいなもの。ただ、じっさいに「喜劇・駅前旅館」という映画は存在していて、1958年に井伏鱒二原作、豊田四郎監督で撮られていて、これはけっこうヒットしたようで配給の東宝は以後「駅前」シリーズを連続してつくることになったみたい。YouTubeでこの「駅前旅館」の予告を観ることは出来るのだけれども、いや、イデビアンの舞台とはまるっきし違う(ま、同じなわけもないのだが)。わたしは舞台の井出さんの番頭がしらは、これはフランキー堺がモデルだろうと思って観ていたのだけれども、映画「駅前旅館」にフランキー堺は出演はしているけれども、番頭役ではなかった。映画での番頭役は森繁久彌と伴淳三郎なのだった。

 その「排気口」の舞台はまさしく旅館が舞台で、奥行きの深い舞台は白木の柱と枠だけの障子戸だけで奥の部屋、廊下、手前の部屋と分けられて、いってみれば映画の「縦の構図」を現前させたものともみえ、総勢17人のダンサー(「踊り子」といいたくなるが)も前景、中景、後景と分かれて、それぞれまるで異なったダンス(踊り)を見せたりもして、これがとっても刺激的というか、「見たことのない構成ではないか?」という感じになる。出演者は井出さんが番頭で、あとたいていの女性ダンサーは女中陣(中にひとり、ヒゲづらの男性も)、それから女中頭とか女将さんとかいるわけだろう。旅館付きの芸者が二人に板前、そして「ご隠居さん」みたいな老人らが旅館スタッフで、そこに黒服につばひろの帽子の梶芽衣子みたいな女性と、やっぱ黒っぽい服のイケイケ系みたいな男子とがカップルで旅館の客。このメンバーで全体では何かしらストーリーが展開しているようだが、小ネタとしてはわかるように思うのだけれども、大きなストーリーはよくわっかりませ〜ん。どうも客の男女はケンカして女が出て行ってしまい、それでなぜか男客の方が番頭らにいたぶられるという展開はある。
 ま、そういう「どういう意味?」とかあまり考えないで、このユニークなダンス世界を楽しむことこそ<いちばん>だろう。動きにくいであろう「和服」をまとっての、そういった制約を考えてのドメスティックなダンス展開なのだろうけれども、それは時に「昭和の日本映画で<ウエストサイド物語>をやったら」みたいなダイナミックさと娯楽性とを感じさせてくれる。先に書いたように、奥行きの深い舞台をうまく使っての立体的な演出、そしてあちらこちらで感じさせる昭和の日本映画からの引用っぽい演出など、「このシーンは何の映画だろう?」*1みたいな引きずり方など、観る人の興味をどこまでも引っぱる演出(振付)はすばらしい。やはりこの作品、「和製コンテンポラリー・ダンス」の、最高水準の作品のひとつだろうとは思う。観終わったあとの「爽快感」もまた、相当なものだった。


 

*1:小津映画みたいなシーンもあったし、「貞子」も、いっしゅん登場するのだ

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■ 2018-08-10(Fri)

 インクレディブル・ストリング・バンド関係で自分勝手にヘタな翻訳をやっていると、やはりイギリス詩の古典というものをもういちど読みたくなってしまい、そういった翻訳詩を包括的に読める本というのは、もう60年も昔に刊行された平凡社の「世界名詩集大成」こそが、今になっても<いちばん>なわけで、前にもフランス詩のシュルレアリスム時代の巻を購入したのだけれども、またAmazonで検索して注文した。ほんとうはウィリアム・ブレイクとかジョン・ダン、キーツとかシェリー、スウィンバーンとかの収録されている第一巻の方だけ買えばいいかな、と思っていたのだけれども、第一巻単独で売っているところと、第二巻と2冊いっしょに売っているところが同じ価格だったので、迷わず第二巻といっしょに注文した。第二巻にはジョイスの詩やエリオットの「荒地」全訳なども載っていて、OKである。

 それと、しゃれのつもりで「肉球新党」というところから缶バッジを購入して、それが今日届いたのだけれども、思っていたよりも本気(マジ)にリベラルな活動しているところのようだ。「猫の生活が第一」という党則、異議があるわけはない。党員証ももらってしまったことだし、これからは「肉球新党」党員として活動するのだ。

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 いや、ほんとうの党員は、ニェネントの方なのか。

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 今日は「生活が第一」ということから、ちょっと物価の調査を。「物価の優等生」ともいわれ、スーパーで売られているあらゆる商品の中でも最安値なのが「もやし」。わたしが茨城にいたころはどこのスーパーでも一袋19円が基本だったけれども、その後「これではやっていけない」という生産者の声もあがり、徐々に値上げされて来ている。すると今では店によってかなり価格もバラバラになり、その価格差が大きくなっている。それで、ウチの近郊の店での「もやし」一袋の価格を比較してみた(じつは一袋の容量をチェックしていないので、公平な比較ではないのだけれども、だいたい少なくて250グラム、多いと350グラムの範囲内だろうと思う)。
 19円:スーパー「m」
 28円:スーパー「K」
 29円:スーパー「O」(ここは「m」に近く、たまに対抗して一袋10円になる)
 39円:コンビニ「F」
 48円:農家直営のスーパー「N」(ここは野菜類は激安だが)
 そもそもの価格が低いので、比率で考えると店によって倍以上の価格差があるわけだけれども、売れる量も相当なものだろうから、個々の店舗の収益もそれなりに大きいものだろう。価格を安く抑えた店はそれだけ「あそこはもやしが安い」と皆が買うから大量に売れ、利益率が低くてもOKだろう。逆に「いちおう品揃えの上でかかせないから」ともやしを置いている店は、それなりの利益率の出る価格設定をするから、大きな価格差が出る。
 しょうじきわたしだって48円のもやしは買いたくないのでスルーするけれども、じっさいには生産者のことを考えれば、そのあたりが「適正価格」なのかもしれない。
 ま、あまり突っ込んだ「調査」ではないけれども、これだけの価格差があるということには興味がある。こういうのでやはり興味深いのは「玉子」の販売価格だけれども、それはまたいずれ。

 それで台風も行ってしまい、また「暑さ」が戻って来た。朝、自宅から駅まで歩くときは空は少し曇っていたけれども、勤め先の地下鉄通路から外に出るとき、青空が見えて陽射しがまぶしかった。この時間はそこまでの暑さでもなく、この陽射しがうれしかったのはたしかだ。

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 仕事を終えて帰宅するときには、また相当の暑さになっていた。今日もまた昼食は「ざるそば」(「ざる」がないので「ざる」には乗っていないのだが)。残りの夏は<そば>で乗り切ろう!

 

 

[]「占領された屋敷」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「占領された屋敷」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 これはほとんどブニュエルの「皆殺しの天使」の原形みたいな。「皆殺しの天使」のように「(理由なく)出られなくなる」というのではなく、こちらは「(理由なく)部屋から追い出される」のである。ま、「理由なく」というか、「音」がして、「ああ、もうこの屋敷のあっち側には入れない」と登場人物は思ってしまうわけだ。

 コルタサルの描く「不条理」は、まさにシュルレアリスム的不条理であり、そういうプロットの展開で読ませる小説家としては、もっとも優れた「シュルレアリスム小説家」という印象を受ける。


 

[]「夜、あおむけにされて」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「夜、あおむけにされて」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 バイクに乗って交通事故を起こし、病院に緊急搬送された男の心象風景。病院のベッドの上で「夢」というか「幻覚」を見るのだが、その「夢」、「幻覚」がリアルな現実だったのか、どちらがどうなのかわからなくなる。それはもちろん、読み手の方で「どちらがどうなのかわからなくなる」ということで、読み手として「ああ、これは<幻覚>なのだ」とか判断するのではなく、自分もまたその「どちらがどうなのかわからない」世界に巻き込まれてしまう。わたしはそんな世界の中を遊泳するしかない。


 

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■ 2018-08-09(Thu)

 台風が来た。上陸こそはしないようだが、昨夜からこの朝にかけて、関東地方に最接近することになっている。昨夜は「明朝目覚めたときに暴風雨だったら大変だ」と思いながらベッドに入ったのだが、起きてみると枕のそばの窓は静かなものだった。風はおろか、雨が降っている気配もない。「今回もよくある<空振り台風>だったか」と起き出し、にゃんにゃんないているニェネントに朝ごはんを出し、自分も着替えてから朝ごはんを食べて出勤。ドアを開けてみると雨はぽちぽち降っていた。風はさほどでもないようなので、「最悪はレインコートを着て駅まで行こうか」というわけでもなく、ビニール傘をさして家を出た。
 しかし事情は昨日と同じで、国道に出てみるとそれなりに風が強い。特に道路を大型トラックが走り抜けたあととか、傘が飛ばされそうな風が巻き起こる。「駅まであと一歩」というところで、傘がおちょこになり、骨折三ヶ所。これはもう使えないな。勤め先で廃棄出来るから捨ててしまおう。
 それで電車に乗って飯田橋で降りてみると、さすが千葉よりは台風から距離があるわけで、ただの曇天で雨も風もない。これで仕事を終えて帰宅する頃には、ウチの近くもおだやかな天気になっているだろうと想像できる。今回の台風の個人的被害:ビニール傘1。
 勤め先の外のコンクリート地面に水たまりが出来ていて、そこにきれいな絵が映っていた。こういう絵を描いてみたいと思ったりする。

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 それで昨日買い物に行けなかったものだから、今日は帰りにふたつ手前の駅で途中下車して、駅のすぐそばにあるスーパーでお買い物をして帰る。‥‥このスーパーはちょっと大きくて、自分でレジをすませて支払いする「セルフレジ」のコーナーがある。四つのセルフレジがまとめて設置されていて、そこをひとりの店員がサポートしている。通常のレジには行列が出来ているけれども、この「セルフレジ」コーナーは空いているので、前からわたしはこの「セルフレジ」を使っている。固定されたバーコードリーダーに商品のバーコードを読み取らせるのだけれども、これがけっこう面白いといえば面白い。「バーコード、強力!」というか、これはたしかに「物流革命」だねと実感できる。野菜類とかはバーコード付いていないのだけれども、サポートの店員さんに聞いてやり方を教わる。ま、うまいことシステムの中に取り込まれてしまっているだけでもあるだろうけれども、今は商品を店で買うということは、すべてこういうことなのだ。
 ‥‥そのスーパーで「ざるそば」が売られているのをみて、「そうだ、<夏>といえば、<ざるそば>とか<そうめん>とか<ひやむぎ>、というものがあったではないか!」と思い出し、ウチにも「そば」のストックがあったはずと、帰宅して食品ストックの棚をチェックして、(賞味期限の切れている)「そば」をみつけて、昼は「ざるそば」にした。とにかくイージーな調理だし、夏向きだし、なぜこんな食材の存在を忘れていたのだろうと(食品ストックの棚が今は自分の目線よりはるかに高いところにあり、ついその存在を忘れてしまうのだ)。これからはまだいっぱいあるストックの「そば」で、夏を乗り切ろうと思う。

 昨夜、沖縄県知事の翁長雄志氏が在職中に急逝された。日本の戦後は、沖縄に「負」を背負い込ませることで成立したところがある。そのことに抵抗し、まさに戦い続けられた翁長氏の死は、「殉職」というにふさわしいものだと思う。沖縄の「平和」は、日本の平和の第一前提だと思う。
 今日見つけた写真は、沖縄の慰霊祭に出席した安倍総理を厳しい表情で見つめる翁長氏の表情の印象的な写真。翁長氏だけでなく、周囲の人物すべての表情が険しい。特に安倍首相のすぐ右に見える少女の顔は記憶に残さなくてはならない。翁長雄志氏に追悼。

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[]「パリにいる若い女性に宛てた手紙」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳 「パリにいる若い女性に宛てた手紙」(「悪魔の涎・追い求める男 コルタサル短編集より)フリオ・コルタサル:著 木村榮一:訳を含むブックマーク

 先に一部読んでしまったあとがきの「解説」によると、コルタサルは若い頃にアルフレッド・ジャリに傾倒していたという。その解説にはジャリは「シュルレアリスト」と書かれているが、1907年には夭折してしまったアルフレッド・ジャリが「シュルレアリスト」なわけはない。つまり「先行したシュルレアリスト」というところで、彼の代表作は「ユビュ王」であった。
 わたしはそんな「ユビュ王」をしかと記憶しているわけではないが、この「パリにいる若い女性に宛てた手紙」におけるユーモア感覚というのは、アルフレッド・ジャリから来ているものではないかと思ったりする。ここにあるのは「ロジック」から成り立つ世界ではなく、いってみれば「不条理」の世界なのだけれども、そこにプレ=シュルレアリスム的なユーモア感覚が加味されていると思った。主人公が吐いて産み出してしまうかわいい兎、その兎が、主人公が借り受けて住む部屋に居住しつづけることを困難に追い込むのだ、とここまで書いてみて、それがどこかカフカの「変身」の変奏曲のようにも思えてしまう。

 コルタサルの作品はどこか「視覚的イメージ」を喚起させられるのだけれども、その「視覚的イメージ」というのが既視のイメージではなく、どこか、「これまでに観たことのない造形作品」を想起させられるところが好きだ。


 

 

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