ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-09-28(Wed)

 今日は曇天で、ときどき雨模様の空。しかし気温はそんなに下がらずにわたしの室内はちょっと蒸し暑い。
 このところしばらく、半額とかに値引きされていたもので、ちょっとクラスが上の日本酒をずっと飲んでいたのだけれども、そんな酒もついに底をつき、紙パックの安い日本酒を買ってきた。で、さっそく飲んだのだけれども、コレが信じられないぐらいにマズい。とても飲めたものではない。これはこの紙パック酒がそもそも格段にマズい酒なのか、それとも、このしばらくの間それなりにクオリティの高い日本酒を飲んでいたために舌が肥えてしまった結果なのか、どうもよくわからないのである。どちらにせよ、買ってきたこの紙パック日本酒は今のわたしにはとても飲めたものではなく、料理酒にでもするしかないものだろうかと思っている。しかしやはり、旨い酒が飲みたいものである。そう思って、夜に缶ビールを買ってきたのだけれども、飲んでもそんなに美味しいとは感じなかった。

 ニェネントとわたしとの距離はますます縮まった(と思う)。テレビを見ていると寄って来るニェネントと手先でじゃれ合って、抱き寄せて胸の上に乗っけてやる。このところのルーティンだけれども、そうやってニェネントと遊ぶ時間が長くなった。夜も、ニェネントはわたしがベッドに寝転がると近寄ってきて、「おいで、おいで」と呼ぶとベッドの上に跳び上がってきて、わたしの横で丸くなるのだけれども、今日は三十分ぐらいはわたしの横でまどろんでいた。このまま朝までいっしょに寝たりするんだろうかと期待したのだけれども、けっきょくはベッドの下に行ってしまった。それでもそういうニェネントがかわいくて、顔を見ても、この頃はクリッとしてかわいい。わたしにとっては世界一かわいいネコである。


 

[]「真夜中のサバナ」(1997) クリント・イーストウッド:監督 「真夜中のサバナ」(1997)   クリント・イーストウッド:監督を含むブックマーク

 原題は「Midnight in the Garden of Good and Evil」というもので、ベストセラーになった原作のノンフィクション・ノヴェルがあるらしい。イーストウッドとしては「マディソン郡の橋」につづいてのベストセラー小説の映画化で、このあたり、何か思うところがあったのだろうか。そのあたりのことはよくわからない。

 邦題にあるように、アメリカ南部の町「サバナ(サヴァンナ)」を舞台とした作品で、メインになるのはケヴィン・スペイシー演じるジムという富豪が起こした殺人事件の顛末なのだけれども、とにかくはその周囲に奇妙奇怪な人物がたくさん登場するわけである。このあたり、原作でも二部構成になっているそうで、Wikipediaによると、第一部は「土地で出会った(奇妙な)人間たちの交流を描いた」もので、第二部がそのジムの殺人事件(実話だそうである)の裁判傍聴記録みたいなかたちになっているらしい。それをこの映画では一部、二部と分けることなく描いているわけで、正直、その分だけ観る気分が分散されてしまうきらいはあったと思う。
 また、このサバナという町はアメリカポピュラー音楽の大作曲家、ジョニー・マーサーの生誕地でもあり、じっさいにこの映画、南部の湿地帯を抜け駈けて行くカメラが、墓地のジョニー・マーサーの墓をクロースアップすることで始まるわけでもあるし、映画中で使用される音楽はほとんど全部、そのジョニー・マーサーの作品なのであった。このあたり、イーストウッド監督の嗜好のあらわれでもあるだろうけれども。

 映画はそうやって、まずはジャーナリストのジョン・ケルソー(ジョン・キューザック)が、クリスマス・パーティーの取材のためにジム・ウィリアムズの邸宅を訪れる。ジムは美術作品や骨董品のコレクターでもあり、町には上流階級による前時代的な社交界というものがまだ存在している。一方でブードゥー教の呪術師の女性もそんな町を観察しているし、奇人変人といわれても仕方がないような人々もいる。ジョンが出会った優雅な黒人レディのミス・シャブリ(御本人の出演)は、実は男性なのであったりして、ジョンをおどろかせる。

 ジムのところには粗野な青年のビリー(ジュード・ロウ)も出入りしていて、ジョンの目の前でジムとビリーは荒々しく言い合ったりもするのだが、あとでジムはビリーを射殺して殺人容疑で逮捕されるのである。はたしてジムは正当防衛なのかどうかということが裁判で争われることになるのだけれども、ジョンはその事件〜裁判を取材して著作にすることを条件に、裁判でジム側に協力することを承諾する。
 こういうところがメインのストーリーなのだけれども、その周辺で先に書いたような奇人変人がジムの目を惑わせるし、花屋で働くマンディ(アリソン・イーストウッド〜クリント・イーストウッドの実の娘)と親しくなったりする。

 けっきょく、ジョンの暴いた警察側のミスからジムは無罪となるが、じっさいの真相は不明のままである。ジムはいちどはジョンに「正当防衛ではない」ということをもらすけれども、それは殺人罪で起訴されるよりは偽証罪で起訴された方がマシだという判断だった可能性もある。判決の夜、ジョンはブードゥーの呪術師に誘われてビリーの墓に行き、ブードゥーの儀式でビリーの魂を鎮めようとするのだが、どうやらビリーの怒りは治まらないようである‥‥。

 やはりどうしても分裂した印象の作品、という印象は免れないのだけれども、そんな中でイーストウッド監督はやはり、「サバナ」という町の奇妙な「生態」みたいなものを撮りたかったのだろうか。そしてそういう面ではやはり、あの「ミス・シャブリ」という人物の奇妙な魅力にノックアウトされてしまう。そういう映画なのかな、と思う。


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■ 2016-09-27(Tue)

 歯が折れた。虫歯になっていた上の犬歯が、朝食のトーストを食べているときにグラッと来て、口の中に落ちてきた。‥‥なるほど、折れるまでに虫歯が進行していたのか。まあ犬歯だからふだんはそんなに(大笑いとかしなければ)目立つものではないとは思うけれども、早めに歯医者に行かなくてはならないのである。‥‥とは思いながら、「障害物が消えた」という意識になってしまうのも止めようもなく、「あわてて歯医者に行かなくてもいいではないか」とも思ってしまうわけである。

 今日もまた晴天。気温もかなり上昇して、午前中には三十度を越えたらしい。また夏が戻ってきたみたいで、「今日こそは洗濯」と、朝からあれこれと洗濯のお仕事。昼食も、暑いのでインスタントの冷し中華にした。

 ニェネントはいよいよ、わたしに寄り添ってくることが多くなった。いったいぜんたい、どうしたというのだろうか。ずっと「マイペース猫」で、わたしのひざに乗ってくるようなことは決してやらないし、かまってあげようと追うと逃げる。ただ食事の時間だけ「早く食べるものを準備せよ」と催促するだけの、そういう意味ではかわいげのないネコなのだけれども、このところ、わたしがテレビをみているとそばに寄ってきて、わたしの脇のところで丸くなっていたりする。「それでは」と、手を伸ばしてニェネントを抱き上げ、わたしの胸の上に乗せてやるのだけれども、「いや〜ん、いや〜ん」とはなくのだけれども、暴れて逃げて行こうともせずに、そのまましばらく、わたしの胸の上でじっとしているのである。とにかくは前から、わたしに寄り添うことはなくっても、わたしを遠巻きにして、わたしのことが見えるところでまどろんでいることが多かったのだけれども、このところ、その距離が縮まったようである。何がきっかけでそうなってきたのかわからないけれども、ニェネントがわたしにまといつく「かわいいネコ」になってくれることは、大歓迎である。


 

[]「クリント・イーストウッドの真実」(2010) リチャード・シッケル:監督 「クリント・イーストウッドの真実」(2010)   リチャード・シッケル:監督を含むブックマーク

 先日観た「イーストウッド 語られざる真実」と同じ監督による、「語られざる真実」より前に撮られたドキュメンタリーで、ナレーションはモーガン・フリーマン。彼の出演作、そして監督作を一作ごとに時間を割いて解説するような内容で、「語られざる真実」のような出演者らへのインタビューのようなものはない。どの作品でも「この作品の制作意図はこうである」みたいな、いささかなりと踏み込んだ解説と共に、それぞれの映画のクライマックス・シーンも見せてしまうわけで、観ていても「そこ見せちゃうのかよ」みたいな感覚にはなってしまう。こういうのは昔、黒澤明監督の作品をずらりと紹介するような番組で、こういうかたちの演出を観たことがある。ひとつの定式として、このようなつくり方はあるわけだなあという感想。イーストウッドも、すでにそういう紹介をされるような大監督ではあるということだろう。


[]「HANA-BI」(1998) 北野武:脚本・編集・監督 「HANA-BI」(1998)   北野武:脚本・編集・監督を含むブックマーク

 北野武がバイク事故のあと、「キッズ・リターン」に続いて製作した作品で、自ら主演もしているし、彼の絵画作品が全篇あちらこちらに見られることになる。
わたしは彼の絵画作品というものは「お遊び」の域を超えず、人に見せるようなものとも思えないわけだけれども、そういうところで、自分の映画の中でそういう自分の絵をたっぷりと見せるというあり方が、わたしには理解出来ない(たぶん、北野武氏に面と向かってこのようなことをいえばぶん殴られてしまうそうな気がするが)。おまけに、そんな絵の中に「自決」なんて文字が書かれていたりもする。そういう風に、絵でもって映画をリードして行くという演出、わからないでもないけれども、なんだかあまりに自分自身をあらわにしすぎる気もするし、こういうのって「センチメンタル」というのか、わたしにはよくわからない。とにかくは彼のバイク事故のこともあるわけだろうから、生半可はことはいえない。

 もしもそういうことをセンチメンタルと呼んでいいのなら、この映画はそういうセンチメンタルと、北野武らしい過激なヴァイオレンス、そして過激なギャグとの混合物という印象になる。というか、たいていの暴力はギャグと混合され、観ていても不思議な感覚を呼び起こされる。「あほらしい」という思いが、それでも恐怖と結びつくような感覚なのだろうか。

 ラストに北野武の奥さん役、ずっとしゃべることのなかった岸本加世子が、ひとこと「ありがとう、ごめんね」と語るわけだけれども、わたしはここで「ごめんね」というのはないと思った。つまりは彼女の病気のせいで夫である北野武の人生をもいっしょに狂わせてしまったことへの悔悟なのだろうけれども、それは「病気になってごめんなさい」ということなのか。そういうことには違和感を感じるのだけれども、どうなんだろう。

 「キッズ・リターン」のときも撮影がとっても良かったのだけれども、この作品での撮影もよかった。クレーンを使ったシーンがいくつかあり、どれも印象に残った。この撮影は「キッズ・リターン」と同じ人かと思ったのだけれども、「キッズ・リターン」はたいていの北野武作品を手がける柳島克己という撮影監督で、この「HANA-BI」は山本英夫という人だった。


 

[]「狙撃者」(1952) エドワード・ドミトリク:監督 「狙撃者」(1952)   エドワード・ドミトリク:監督を含むブックマーク

 日本では公開されず、ソフト化もされていない作品。おそらくは知名度のある俳優が誰も出ていないこともあるだろうし、この内容もある意味ではかなり地味なものではあるだろう。わたしは監督がエドワード・ドミトリクということもあって観てみたのだけれども、この作品はちょっとした掘り出し物というか、かなりの秀作(というか傑作)だと思った。原題はそのまま「The Sniper」である。製作はスタンリー・クレイマー。白黒映画である。

 映画はまずは「上映開始前にひとこと」ということで、「警察にとって性犯罪は頭の痛い問題である。被害女性の数は去年一年間で三万人を超えている。これは女を敵視する男の物語を通して、法の不備の前には無力である法執行官の姿を描く作品である」というテロップが入る。「性犯罪」って、つまりは痴漢とかそういうのかと思ったら、男性による女性を狙った犯罪はすべて「性犯罪」ということみたいである。

 まずは部屋の中を移動するカメラがある引き出しにフィックスし、その引き出しの鍵を開けて組み立て式のライフル銃(M1カービン銃)を取り出す男。男は銃を組み立てて、窓から外に狙いをつけ、向かいの家に帰宅してきたカップルの、互いに抱き合う男女のその女性の頭部に狙いを定める。引き金を引くけれども銃弾は装填されていず、彼は銃を引き出しに戻してその鍵を放り投げる。

 男は夜の街を歩いているが、そこで女性たちの醜い行動にばかり目が行ってしまう。母にぶたれる子供に反応するあたり、彼にはそういう幼児体験があったのかもしれない。そのあと彼は自分が収監されていた刑務所に電話をかけ、「自分を刑務所病院に入院させてほしい。これは人の生死に関わる問題なんです」というのだが、無視される。自宅に戻った男は、自分の右手を電気コンロで焼いて病院へ行く。医師はそれが自傷であるとわかり、彼に事情を聞く。彼は刑務所に収監されていたことも話して「入院したい」というのだけれども、病院は入院患者がいっぱいで手がまわらず、彼を帰宅させる。

 男はクリーニング店の配達をやっているのだけれども、彼に親切にしてくれるジャズクラブの女性ピアニストがいる。配達で訪ねた彼女の部屋でビールをごちそうになるのだけれども、そんなときに彼女の彼氏が訪ねてきて、彼は追い出されてしまう。夜になり、男は彼女の勤めるジャズクラブの出口を狙える場所を探し、そこでライフルを構える。まず第一の犠牲者は彼女だった。彼女を狙撃したあと、男はバーでひとり酒を飲むのだが、そんな彼を気に留めて話しかけて来る女性があった。彼女と話しているうちに男の嘘が暴露して、女は怒って行ってしまう。男にはそんな仕打ちもガマン出来ない。
 翌朝、男は寝坊して会社に遅刻する。女性上司は彼に厳しく注意する。バーの女性も、この上司も男の標的になるのだろうか。男は警察に「止めてくれ オレを見つけて止めてくれ さもないとまたやってしまう」と書くのだが‥‥。
 男が二人目の女性を撃つ時、窓の外からしばらく室内の彼女の動きを追うカメラがいい。つまり男の視線であるのだが。男は自制できなくなり、テレビに出ていた女性市民権連盟のリーダーも標的にするようになる。遊園地に行った男は、ボールを的に当てれば脇にすわっている女性を水槽に落とすことの出来るゲームで、執拗に何度も何度も的に的中させて、女性を水槽に落下させる。このシーンの狂気じみた感じがいい。

 事件の捜査に当たる警部補の名前が「フランク・カフカ」というのがおかしいのだけれども、そういう警察の捜査ぶりも、短いけれどもけっこうリアルに描かれている印象がある。ここで登場する精神科医の意見は、そういう性犯罪者は初犯時にもっと適切な処理(病院での治療)を行なっていれば、再犯は防げるはずということで、つまりは初犯時に犯人の病根があらわになっているはずということだろう。初犯時に強制入院させることが重要だと彼はいう。このことが冒頭にあった「法の不備」ということに関連するのだろうか。

 ついに、狙撃の準備をしていた男は発見されて逃亡する。なぜか人っ子一人いない街角を、どこまでも走って逃げる姿が印象に残る。自室にたどり着いて、窓のカーテンを降ろして部屋にこもった男に警察が迫ってくる。ドアをぶち破って部屋に踏み入ったカフカ警部補の前には、ベッドにすわって銃を抱き、涙を流している男の姿があった。

 


 

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■ 2016-09-26(Mon)

 夢をみた。わたしは机にすわって試験を受けている。何の学科だかわからないけれども、けっこうむずかしくって、わたしは時間内に終えられるかどうか不安になっている。とにかくは答えられるところだけでも先に答えを出しておこうと思うのだけれども、答えは問題の末尾に綴じられた解答用紙(赤い色で枠がついていた)に書き込むようになっていて、そっちに書こうとしていたわたしは、間違えてちがう紙に答えを書き込んでしまう。間違えたことに気づいたときにはもう時間も残り少なく、とても書き直している時間はないようだった。わたしは前の机にすわっていた女の先生に何かを聞くのだけれども、解答用紙が違ってもかまわないのかどうか、そういうことではなかったかと思う。とにかくは試験の時間が終了し、解答用紙が集められる。同じ教室にDさん(しばらくお会いしていないのに、こうやって夢には登場されてきた)もいて、彼とわたしは何か試験のことについてしゃべっていた。先生がわたしに何か語りかけ、わたしはそのことばにユーモアを込めて返答し、教室の笑いを誘うのだった。
 ‥‥試験? いったい何の試験だったのだろうか?

 さて、昨日の腰痛はずいぶんと楽になった。というか、もうほとんど気にならない。とにかくは長引かないでよかったけれども、いったいあの腰痛は何だったのだろう。

 今日は朝から晴れていて、久しぶりに洗濯するにはもってこいの日だったのだけれども、けっきょくそんなことやらないで過ぎて行ってしまった。今日はしごとも休みだったわけだけれども、けっきょく家から一歩も出ないで終わる一日になりそうだった。そんな「引きこもり」も、夜に起きたちょっとした出来事で破られてしまうのだけれども、そのことはもうちょっとあとで。

 昼から、ジョディ・フォスターとアビゲイル・ブレスリンの出ている「幸せの1ページ」という映画を観はじめたのだけれども、観はじめてすぐに、「あ、これは子供向けの映画だな」と気づき、まあ子供向けの映画であっても観てみてもいいのだけれども、そこまでに面白い作品でもないようだったので、途中から8倍速早送りでちゃっちゃっとスルーさせてもらった。まあアビゲイル・ブレスリンというコも、順調に成長されているようだけれども、成人してからはどうなんだろうか。例えばダコタ・ファニングなんかも子役時代はもてはやされたけれども、成人しちゃったら妹に完全に抜かれちゃってるよね(妹はすばらしい)、みたいな残酷な現実はあって、アビゲイル・ブレスリンちゃんも危うい気がしてしまう。
 この映画の中にそのアビゲイル・ブレスリンと仲のいいアシカが出てくるんだけれども、その名前が「セルキー」というわけで、これはわたしには懐かしい、チャイルド・バラッドに「The Great Silkie of Sule Skerry」とかがあるわけで、ジューン・テイバーなんかもこの曲を唄っている。そんなことを思い出したりもした。
 今日はこのあと「ギャング・オブ・ニューヨーク」も観たわけで、そこでも懐かしいトラッド・ソングをいっぱい聴くことが出来、そういう一日になってしまった。

 さて、夜になってブザーの押される音が聞こえ、つまりは注文してあった炊飯器が届いたのである。ハンコを押して現物を受け取り、持って戻ろうとしたら、あれ? 炊飯器ってこんなに薄っぺらで軽かったっけ? おかしいなと思ってよく見たら、それはわたし宛ての荷物ではなく、どこかよその人宛ての荷物だった。ダメじゃん配達人。彼はもうドアの外に行ってしまったので、あわてて靴を引っかけて外に行き、「待って! ちがうよ!」と大声を出すのだけれども、配達人はそのまま行ってしまう。靴をうまく履けなくって、そのまま靴はうっちゃって、裸足で追いかけましたよ。行ってしまいそうな車を追いかけて、「ちがうよ!」と。なんとかちょっと先で車は止まってくれて、品物が違うことを知らせ、わたし宛ての正しい荷物を受け取って帰った。これが、この日唯一の外出体験ではありました。


 

[]「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002) マーティン・スコセッシ:監督 「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)   マーティン・スコセッシ:監督を含むブックマーク

 これはいろいろと面白い作品だった。1846年のニューヨークから始まり、メインの物語はそれから16年後の1862年。まず思ったのは、いったいこのニューヨークの街の造形は何なのか。地下に迷路のような洞窟は掘られていたりして、まるでダーク・ファンタジーの舞台としてつくられた架空の街みたいだ。登場して来る人物らも、魔女のような女性もいるし、「ネイティヴズ」のリーダーのビル・カッティング(ダニエル・デイ=ルイス)は義眼だし、現実に存在した人々だとは信じがたいような人物がいっぱい出て来る。しかし物語はそのニューヨークを舞台にしての、「ネイティヴズ」(先にアメリカに移民してアメリカを開拓したイギリスからの移民だろう。つまりはWASPか)とアイルランドからの移民との抗争を描き、そこに南北戦争の徴兵の問題などなどの政治的な事柄も絡め、1846年にビル・カッティングとの戦いに敗れて殺されたヴァロン神父(リーアム・ニーソン)の息子のアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)を主人公に、壮大な叙事詩に仕上げた映画ではある。
 ‥‥と、まあ、考えてみればとっても面白い要素てんこ盛りの作品なのだけれども、観ているときにはどうも落ち着きが悪い。先に書いたように、どうしてもこの作品がヴィジュアル的にはダーク・ファンタジーに見えてしまうわけで、どこかリアリスティックなプロットとの折り合いがよろしくない感じである。「あ〜、なんか、ネイティヴズってえのはアイルランドからの移民を排斥するわけで、さしずめ現代ならばドナルド・トランプみたいなもんかいな」なんて思ってしまうし、けっきょく、そんなネイティヴズと移民軍団が闘争を繰り拡げても、実は得をするのは陰にいる政治家なんだよ、などという構図も、観る目を冷めさせてしまうのかもしれない。ラストのネイティヴズと移民軍団との決戦が、徴兵拒否の暴動と時を同じくしてしまうのも、あまりに一気にカオス状態みたいな感じ。

 そんな中でわたしがぜったい楽しめたのは音楽。とにかくはアイルランドからの移民らが唄ったり奏でたりするトラッド・ナンバーの数々。これはもう涙ものでありました。まあいちばんわたしを喜ばせてくれたのは、ぼろい木造のダンスホールみたいなところで皆が踊るバックで唄われる「New York Girls」という曲で、この曲はわたしはSteeleye Spanのヴァージョンで親しんだ曲でしたが、この映画ではわたしの好きなアイリッシュ・ミュージシャンのFinber Fureyによって唄われていたのでした。最後のエンド・ロールをみると、Chieftainsの演奏も含まれていたようだし、Maura O'connellやMary Black、そしてなんと、Linda Thompsonもどこかで唄っていたことがわかるのであった。
 それで、この日記で「ギャング・オブ・ニューヨーク」と検索してみると、やはりわたしは過去にこの映画を観ていたらしいことがわかったし、そのサントラ盤CDも買って持っていたらしいではないか。そういうこともすべて記憶から消えてしまっているし、たいていのCDも売却してしまって手元には残っていない。何と悲しいことだろう。

 あとで思い出したのだけれども、この映画のラストで、アムステルダムとジェニー(キャメロン・ディアス)とが、最後の抗争でアムステルダムに殺されたビルの墓を訪れるシーンがあるのだけれども、その墓には「〜1863」と書かれていたのだけれども、字幕ではこれを「〜1860」などとしている。たしかにその墓に書かれた文字の「3」は「0」に見えなくもないのだけれども、ちゃんとドラマの方を観ていれば、ビルが死んだのは1863年だということはわかるはずである。字幕を担当していながらそんなことにも神経が配れないというか、「ちゃんと観ていないのか?」という感想も生まれるし、配給会社はソフト化してもまだその間違いに気付かずにそのままにしているわけか、ということでもある。

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■ 2016-09-25(Sun)

 腰痛である。昨日、変な体勢でテレビを見ていたせいだろうか。すわっていて立ち上がるときもかなり痛いし、いちばん痛いのは寝ていて起き上がるとき。普通は腕の補助など不要で起き上がれるのだけれども、痛みで手のささえがないと上半身を起こすことが出来ない。今日はしごともあったのだけれども、そこはなんとか乗り切ることが出来た。明日はしごとは休みだからゆっくり休むけれども、痛みが取れずに長引いたらどうしよう。医者に行かなくてはならなかったりするのだろうか。こんな腰痛というのも記憶がなく、とにかくは早く回復することを願うだけである。

 昨日エアチェックした「ウイークエンド サンシャイン」を聴いていて、紹介されたマデリン・ペルーという人の新譜に心を持って行かれた。三曲ほどそのアルバムから紹介されていたけれども、どれもすばらしかった。このシンガーのことは不勉強でまるで知らなかったけれども、もうすでにかなりのキャリアを積んでおられるシンガー。基本はシンガー・ソングライターということらしいけれども、積極的に他のミュージシャンのカヴァーも取り上げているようで、今までもレナード・コーエンやトム・ウェイツのカヴァーが評判になっているみたい。今日紹介された曲の中にもトム・ウェイツの「Tango Till They're Sore」が含まれていたけれども、これが本当にすばらしかった! トム・ウェイツのオリジナル(「Rain Dogs」に収録されていた)は特に「タンゴ」というのではないのだけれども、このマデリン・ペルーのカヴァーはちゃんとタンゴとしてアレンジされていて、ムードもばっちり(トム・ウェイツのヴァージョンもいいのだけれども)。
 調べると彼女、三年ほど前には来日公演もやられているようで、こういうシンガーのライヴなら生で聴いてみたいものだと思ったし、その紹介された新譜も買ってしまおうかと思っている。もう最近はほとんど新しくCDを買ったりしなくなったので、ここで彼女のCDを買うと、「今年初めて買うCD」ということになるのではないだろうか。

 ニェネントの皮膚病は、少しずつ良くなって来ているようにも思う。肩口で毛が抜けていたところはわからなくなったし、腰や耳の部分もうっすらと毛が生えて来てるみたいだ。もう発病してから一ヶ月にもなるし、いいかげん治ってもらわないとねー。
 ニェネントもこのところは気まぐれぶりを発揮して、またわたしと遊んでくれるようになった(わたしはニェネントのしもべである)。テレビをみていると近くに寄って来て、わたしがニェネントの方に手を差し出すと、いろいろとちょっかいを出して来る。夜寝るときには、わたしが寝ているとふとんの上に跳び上がってきて、わたしのそばに寄ってくる。腰のあたりをポン、ポンと軽く叩いてあげると、のどをゴロゴロとならして満足そうである。こういう、寝ているわたしのそばに寄り添ってくる、ということはめったにやってくれないことなので、わたしとしてはとってもうれしい出来事ではある。それでそのままわたしのそばでわたしといっしょに寝てくれると最高なんだけれども、しばらくしたら下に降りて行ってしまうのである。

 今日の夕食は、冷凍庫にあった「サンマのみりん干し」を焼いて食べた。冷凍庫の中ではその「サンマのみりん干し」がまだまだ凍り付いているし、ほっけの開きだとか、「さばの昆布つゆ干し」などというものもころがっている。しばらくは、そういう冷凍庫のお魚を片付けて行こうかと思う。
 夜になってからメールで、注文した炊飯器を発送したとの知らせがあった。早ければ明日には到着するだろう。


 

[]「ビッグ・フィッシュ」(2003) ティム・バートン:監督 「ビッグ・フィッシュ」(2003)   ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 ティム・バートンが、それまでのゴシック・ホラー的な怪奇趣味を捨てて、「いいお話」的な枠組みの中に幻想をちりばめるようになった、そのきっかけの作品がコレみたい(まあこの前に「猿の惑星」なんていうのも撮ってるわけだけれど)。こうやってこの作品を観ると、「アリス」なんかもしっかりこの作品の延長線上にあることがよくわかるし、「アリス」がなんであんなことになってしまったのかもわかる気がする。

 わたしはティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」のことをしっかりと記憶しているわけではないけれども、とにかくは「面白くない」映画ではあったはずである。ルイス・キャロルのあの諧謔性はどこへいってしまったのか。宇宙論的ミクロ=マクロの世界は? などと不満を感じた記憶はある。それはこの「ビッグ・フィッシュ」でも同じようなもので、単なる「ホラ話」を越えるものでもないように感じられ、そこにきれいな「オチ」をつけました、みたいなものだと思う。ティム・バートンがこういう路線を選びはじめたこと、わたしにはほんとうに残念なことである。

 ただ、わたしが映画で得る楽しみのひとつに、「どんな音楽を使っているか」ということもあるわけだけれども、特に既製のヒット曲などのチューンをどんなところでどう使うのか、というのも、いろいろな映画を観る楽しみ。ティム・バートンの映画にはそういうところで楽しめることもあまりなかったように思うのだけれども、この作品の時代背景が50年代から以降ということもあって、当時のポップ・チューンがかなり使われていた。このあたり、ティム・バートンの音楽をいつも担当しているダニー・エルフマンのチョイスが生かされているのだろう。
 この作品では、まずはバディ・ホリーの曲あたりから、朝鮮戦争のときにはプレスリーの「All Shook Up」が使われる。その後の60年代になって、まずはVoguesの「Five O'Clock World」が聴かれるあたり、わたしも好きだった曲なので懐かしい思いがする。そのあとはAllman Brothers Bandときて、ユアン・マクレガーがこころならずもスティーヴ・ブシェミの銀行強盗を手伝ったシーンのバックに、Canned Heatの「Let's Work Together」が流れたのには笑ってしまった。ダニー・エルフマンもこういうセンスを持っているのだから、スコセッシ監督作品でのロビー・ロバートソンみたいな役を果たすようになるといいな。まあそれにはティム・バートンの作風が変わらなければならないけれども。


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■ 2016-09-24(Sat)

 今日も天気はよろしくない。ずいぶんと長いこと、こういう天候がつづいている気がする。
 ついにようやく、炊飯器を買い替えることにした。けっきょく、今使っているものと同じ5.5合炊きに決めた。「大は小を兼ねる」ということもあるし、つまりは新しいものが今使っているものよりも小さくなってしまうと、なんか侘しくなってしまう気がする。いちおうAmazonのユーザーレビュー(あまりアテにならないのだけれども)をよく読んでみて、「これなら大丈夫だろう」と決めたもの。注文してすぐにコンビニで代金も払い込んだので、来週早々にも到着するだろう。そういうわけで今使っている炊飯器に、おそらくは彼の現役さいごの米炊きをやってもらった。どのくらい使ったのかわからないけれども、十年以上は使って来たんじゃないかと思う。もうボロボロだけれども、今までよくがんばってくれた。そんなこと思ってると、単なるマシーンなのに情が移ってしまう思いがした。もう近々「燃えないゴミ」で捨てちゃうんだよな。さようなら、炊飯器。悪く思わないでおくれ。って感じである。
 Amazonをみていて、こんどは「猫クッション」が欲しくなってしまった。すっごく安いし、評判もいいみたいである。今はニェネントも和室の畳カーペットの上でゴロッとなっているだけなので、そういう猫カーペットがあると喜んでくれるんじゃないだろうかと思う。というか、そんな猫カーペットの中で寝転がるニェネントをみて、わたしが喜びたいわけである。

 ニェネントは昨日わたしとちょっと遊んだもので、「そうか、コイツは遊び相手にもなるんだった」と思い出してくれたみたいで、今日も昨日と同じ遊びを繰り返すのである。しかし今日は噛み方がハードで、「甘噛み」なんかではないではないか。「いてっ!」って感じで、「痛いじゃないか!」と𠮟るのだが、ニェネントには通じないのである。遊びというものはエスカレートするものなのか。

 昨日つくったウィンナーとキャベツと玉子の炒め物がおいしかったので、昼食のおかずにまたつくってみた。今日はウィンナーの代わりに魚肉ソーセージでやってみた。やはりおいしい。コストパフォーマンスも最高で、これは重要なローテーションとして記憶しておきたい。


 

[]「イーストウッド 語られざる真実」(2013) リチャード・シッケル:監督 「イーストウッド 語られざる真実」(2013)   リチャード・シッケル:監督を含むブックマーク

 観ている「ひかりTV」のチャンネルのひとつで今、クリント・イーストウッドの特集がやられていて、わたしの録画スケジュールも大変なことになっているのだけれども、この作品もそんなイーストウッドの特集の中で放映されたもの。懐かしい「ローハイド」のフォトから(この番組、わたしも幼いころに見ていた記憶がある)、このドキュメントの時点での最新作「J・エドガー」の撮影風景までがインサートされ、イーストウッド映画の出演者、スタッフ、そしてスピルバーグやスコセッシらが、イーストウッド作品の魅力、演出の特色などを語っていく。もちろんアメリカ映画の歴史の中にイーストウッドを「名監督」として位置づけるスピルバーグ、スコセッシのコメントもいいのだけれども、出演俳優のコメントがいろいろと「なるほどねぇ〜」という感じで心に残った。特に「マディソン郡の橋」のメリル・ストリーブ、「ミスティック・リバー」のケヴィン・ベーコンのコメントなどが興味深かった。「撮影現場が和気あいあいと楽しい」ということ、しかしリハーサルもなくいきなり本番という緊張感とか、イーストウッドの独自性も垣間みれるようだった。

 とにかうはもう、アメリカを代表する名監督であることは間違いなく、その作品のテーマの振幅ははげしくとも、そこにはまぎれもなく「イーストウッド映画」という刻印が見出せるのではないかと思う。次作の「ハドソン川の奇跡」も楽しみである。


[]「荒鷲の要塞」(1968) ブライアン・G・ハットン:監督 「荒鷲の要塞」(1968)   ブライアン・G・ハットン:監督を含むブックマーク

 そんなイーストウッドの出演していた、彼にとっては「奴らを高く吊るせ!」「マンハッタン無宿」につづいての作品。いちおう主演格はリチャード・バートンで、つまりはドイツ軍に捕えられ、難攻不落の城塞に収容されているイギリス軍の将校を、六名のイギリス軍情報部員(「MI6」らしい)と、アメリカ陸軍から赴任したイーストウッドとの七人で要塞に侵入、救出しようというものである。イギリス軍将校は最重要機密事項を知っているわけで、その情報がドイツ軍に漏れてしまうのはぜったいに阻止しなくてはならないと。

 七人のリーダー格がつまりはジョン・スミス(リチャード・バートン)で、七人は偽装した飛行機でドイツ領内に入り、要塞近くでパラシュート降下する。しかしあれあれ、七人が降下したあとに、機内に隠れていた女性がまたパラシュート降下するのである。なんか変だぞ。しかも先に降下した七人のうち一人は降下してすぐに殺害されるし、変装して要塞のふもとの村の居酒屋に潜入した残り六人、また一人殺されてしまう。どうも内部に敵に通じたスパイがいるのではないのか。しかも、リチャード・バートンは居酒屋から出て、後から降下した女性のメアリーと密会し、いちゃいちゃしちゃうのである。なんやねん! どうも、この任務自体が怪しいんじゃないか、というのが、ここまで観てのわたしの感想である。しかもその居酒屋には先に潜入している女スパイのハイディがいて、彼女の手引きでメアリーは城塞内での仕事を得るのである。そういう下準備はそのイギリス将校が捕えられてから準備するのでは間に合わないはずで、いよいよもってこの作戦にはウラがありそうである。いや実は拉致されたイギリス軍将校はニセモノで、彼がニセモノだとバレる前に救出し、ドイツ軍の情報をも得ようという任務らしいのだが。
 しかしその直後に居酒屋の一斉捜査が行なわれ、スミスら五人は捕まってしまう。やはり、情報がドイツ軍に漏れてるんじゃないかという感じ。連行される途中でスミスとシェイファー(クリント・イーストウッド)はうまく逃亡し、城塞内へと潜入。スミスはメアリーと連絡を取るのである。城内ではイギリス軍将校と先に捕まった三人の潜入員との取調べが始まろうとしている。その現場に侵入したスミスは‥‥。

 いちおう、「え? どういうこと?」という展開が待っていて、素直なわたしはどうしたらいいかわからなくなってしまったりする。しかしつまりはこの作戦全体は、MI6内に潜むドイツスパイを一気に洗い出すという目的があったようだ。とにかくはスミスはそのスパイの名を記したメモを入手する。
 けっこう、作品としてはこれ以降の脱出もきっちりと描くわけで、作戦の全貌が明らかになってメモを手に入れて、作戦成功ではないか、というところからじっくりと一時間ぐらい、スミスとシェイファー、そしてイギリス軍将校に扮していたジョーンズ、そしてメアリーとハイディの五人での逃走劇が描かれるわけである。そんな中でスリリングなのがロープウエーを使っての城塞からの脱出で、この部分は時間をかけてていねいに、高所恐怖症にはたまらない格闘をみせてくれる。イーストウッドの二刀流機関銃掃射も楽しめて、このシーンがこの映画のイーストウッドの見せ場だろうか。

 しかしパラシュートで降下した潜入メンバー、パラシュートで降ろせるだけの荷物しか運べなかったはずだけれども、とにかくものすごい量のダイナマイトを使いまくる。もうほとんど、ダイナマイト爆破が命みたいな演出になって来て、「どんだけダイナマイト持ってるんだよ〜」と、いささかなりとあきれてしまうのである。まあドイツ軍の撃つ弾はぜ〜んぜん当たらなくって、潜入部隊はすっごい銃の腕前よ(五人全員が生還するし)、っていうのはしょうがないけれども、ちょっと、「いくら戦時下でもそういうことやっちゃいけないんじゃないの〜」みたいなこともある気がする。アンフェアだよね。

 二時間半を越える長い作品だけれども、そういう「使命達成」後の脱出にも時間を割いた演出はいいですね。その分、前半をもう少し要領よく出来なかったものかと思うけれども、中盤の「実は‥‥」という急展開を示すためには、ちょっとめんどい説明もしておかなくってはならなかったわけだろう。そういうことでは、スパイ戦らしい頭脳戦という側面と、「とにかくはダイナマイトで何もかもぶっ飛ばすんだぜ〜」という、「思考力は不要」という側面とが合体してしまった映画なわけで、「そりゃダメでしょ」みたいなところもあるし、「面白かったかも」みたいなものでもある。ま、思考面はリチャード・バートンが受け持って、「ぶっ飛ばす」のはイーストウッドの受け持ち、などと考えるのは短絡的かな。



 

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