ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2016-12-02(Fri)

 この日記の「十一月のおさらい」をつくってみると、このところ、まるで外での体験がなくなってしまっていることがわかる。十一月の一日に映画館で映画を観て以来、舞台も美術展も観ていない(知人の個展には行ったのだけれども)。観てみたい舞台がないというせいもあるのかもしれないけれども、観たい美術展もあるというのに、ぜんぜん行こうという気にならないでいる。いちおう十二月には舞台の予約を入れてあるのだけれども、本心をいうと、まるで行きたくない。それはその舞台に魅力を感じていないということではなく、そういう意味では「是非観たい」舞台ではあるのだけれども、「観たい」という気もちと、「出かけたくない」という気もちとが争っている感じである。まあ外が寒いせいもあるのかもしれないけれども、ずっと家で過ごしたい。家でニェネントといっしょにいるのがいちばん幸せである。そう感じるこの頃である。


 

[]「間諜最後の日」(1936) サマセット・モーム:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督 「間諜最後の日」(1936)   サマセット・モーム:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督を含むブックマーク

 ヒッチコックのイギリス時代の作品で、原題は「Secret Agent」。原作がサマセット・モームということで、ちょっと意外な気がしたのだけれども、それはわたしが無知だっただけで、モームはロシア革命時にイギリス情報局秘密情報部に所属し、まさに彼自身が「Secret Agent」だったのである。モームの「アシェンデン」という作品名は聞いたことがあったけれども、それは彼のロシア革命時の実体験によって書かれた作品集だったということ。まるで知らなかった。それでこの「間諜最後の日」も、その「アシェンデン」のふたつの作品からつくられたものらしい。しかしこの「間諜最後の日」の背景になるのはロシア革命ではなく、オスマントルコをめぐるドイツとイギリスとのかけ引きであって、そういうところでは先日観た「アラビアのロレンス」にかぶるところも見えてくる。ただ、この作品の舞台はスイスで、ここからオスマントルコへ連絡を取ろうとするドイツの諜報員を抹殺せよ、という指令を受けた主人公らの行動を追う作品。

 主演が若き日のジョン・ギールグッドで、彼のもっとも初期の映画出演作品らしい。そして偽装夫婦として彼の妻を演じる女性諜報員を、マデリーン・キャロルという女優さん。この女優さんはヒッチコックの「三十九夜」にも主演しているらしいけれども、いかにも1930年代らしい容貌の、美しい女優さんである。ここにもうひとり、ジョン・ギールグッドをサポートする助手として「将軍」と呼ばれる男が登場するけれど、これをペーター・ローレが怪演してみせている。

 実は映画として、サスペンス極まる「スパイ映画」を期待して観ると、大いに肩すかしをくらってしまう。そのあたり、この作品ではジョン・ギールグッドとマデリーン・キャロルの仲の進展、そしてペーター・ローレの怪優ぶりをみて楽しむ作品なんだろうか。脚色はアルマ・レヴィルという人で、この人はさっきの「三十九夜」やのちの「断崖」、「疑惑の影」など、ヒッチコック作品の脚本を多く手がけているようだけれども、どうもこの「間諜最後の日」では何を狙って脚色したのか、よくわからない。原作を読んでみれば、この作品のことはもっとよくわかるだろうけれども。


 

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■ 2016-12-01(Thu)

 そういうわけで、昨日みつけた激安のいわし缶を買い占めて来た。買い占めたといってもタカが知れた量だけれども、あまりいちどに大量に買い込むのも、まわりの目が気になって踏み切れない。ほんとうはもっといっぱい買ってしまってもいいと思ってたのだけれども、とりあえず二十缶。これで、計算でいくと五千円お得ということになる。まあ五千円札が財布の中で増えたというわけではなく、ふつうにモノを買っただけのことである。こういうところが貧乏性とかいうのかもしれないと思う。しかしとりあえずこれで、災害に見舞われても非常食はだいじょ〜ぶ。

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 先月は「さあ、これからは読書にはげむぞ!」と意気込んだのだけれども、やはりその後読書ペースは遅くなってしまった。今読んでいるオルハン・パムクの「雪」が読み進めにくいというわけではなく、じっさい、読んでいてとっても面白いのだけれども、けっきょくベッドに入ってから横になって読んでいると、十ページも読むと眠くなってしまい、そのまま寝てしまう。やはり本を読むのにベッドの中で横になってしまってはいけないと、わかっているのだけれども、どうもいけない。

 そうやってベッドで本を読んでいると、このところずっと、ニェネントがやってきてベッドの上に飛び上がってくる。この二、三日は、わたしがベッドに入って、布団をポン、ポンと叩くと、「あ、お呼びだ!」と、どこにいてもベッドのところにふっとんで来るようになった。これは画期的なことというか、今まで「ニェネント、おいで!」とか呼んでもぜったいに寄って来たりしなかったニェネントなのに、「おいで!」というしるしに布団を叩くと寄ってくる。わたしのいうことをきくニェネントというのはこれまでに記憶にない。すばらしいことである。
 それでベッドの上にあがってきたニェネントをなでたり、ポン、ポンとニェネントのボディをタッチしてやると、ゴロゴロとのどをならしている。そんな、のどをならしているニェネントののどのところを触ってみると、たしかにのどが振動しているのがわかる。「のどをならす」というのは本当のことなんだと実感。しかし、ここであまりしつっこくニェネントにかまいすぎると、逃げて行ってしまうのはやっぱりニェネントである。


 

[]「人間蒸発」(1967) 今村昌平:監督 「人間蒸発」(1967)   今村昌平:監督を含むブックマーク

 観はじめてみると、俳優の露口茂をレポーターにしてのドキュメンタリーなのだろう、という作品だったのだけれども、映画の半分をすぎたあたりから妙な展開になってしまう。つまりは、「ドキュメンタリー」のフィクション性を追求したドキュメンタリー映画、というようなメタな作品だったという印象。

 この作品がつくられた当時は、その「人間蒸発」という事象が問題になっていたところもあったと思う。それは社会問題のひとつで、わたしはこの作品もそういう、社会問題としての「人間蒸発」ということを、ここで取り上げた、失踪から二年という歳月が経過しようという、大島裁(おおしまただし)という三十二歳の「蒸発人物」を追うことによって、その社会的背景とかに迫っていくような作品なのかと思っていた。作品はレポーター役の露口茂といっしょに、大島という男の婚約者であったという早川佳江という女性が共に行動し、その失踪に到る謎を解こうとするのだが、なぜかその早川佳江は「ネズミ」と呼ばれることになる。ここがまず奇妙なところで、そもそも人を呼ぶときに、「ネズミ」などと呼ぶのは大変に失礼なことではないだろうか。なぜ、このようにドキュメンタリーとして出発する作品で、そのスタッフが、素人の出演者(協力者といってもいいだろう)を、作品の中で「ネズミ」などという、蔑称に近い呼称で呼ぶのか。とにかくは奇妙である。

 作品はしばらくは、「大島裁はなぜ失踪したのか」という背後の事情を求め、彼の勤務先の上司や、両親や友人にインタビュー取材する。どうも失踪の二年ほど前に会社の金を着服したことがあり、その金は二年かけて返済したこととか、仕事の上ではそれほど有能といえる人物ではなかったとか、通っていたバーのママさんといい仲だったのではないか、みたいな証言が得られる。さらにそのあと、過去に愛人がいてその愛人を妊娠させ、堕胎させたということもあったようだ、などという疑惑も持ち上がる。いつの間にか、作品はその大島の過去の女性関係を追求するような展開になり、つまりは実にパーソナルな展開である。もう「社会問題」の追求という姿勢の作品ではない、ということがわかる。そして、佳江の姉のサヨが登場するあたりから、俄然この作品の焦点は「早川佳江」という人物に当てられていくように思える。まずは、芸者として育ち、のちに二号さんになったという過去のある姉に対して、佳江は露骨に嫌悪感を語るのだが、このあとに監督と露口茂とのミーティングが映され、「映画の視点がズレてきたようだ」というような会話がなされ、「ネズミは露口を愛し始めているのではないのか?」みたいな話になる。するとそれからは、冬の海岸で露口と佳江が親密な会話を交わすシーンがロングで撮られたりする。いったいどうなってしまったのか。もう大島裁を追うことなどどうでもよくなってしまったような。

 しかしこのあと、作品は急展開というか、佳江の姉のサヨが、佳江に隠れて大島と逢っていたのではないのかという疑惑が持ち上がる。サヨと大島がふたりで歩いていたところを見たと証言する人物もあらわれるし、大島の会社の社員は、どうもサヨらしい女性から大島への電話がかなりの頻度でかかってきたのを取り次いだという。ここで、佳江とサヨとが部屋の中で向き合って対決するというか、「どうなのよ」と責める佳江に、サヨはどこまでも「そんなことがあるはずもない」といい続ける。そこに今村監督が割って入り、「これはフィクションなんだから」と語り、彼の「セット撤収!」の声で周囲の壁が取っ払われ、そこが実は撮影スタジオであったことがわかる。こういうのは寺山修司の映画にあったような記憶があるけれども、映画表現の可能性を追って行くと、この時代にはこのような結実になったということなのか。

 しかしフィクションということは、出てくる人物は虚構を演じているということになるだろうけれども、佳江にしてもサヨにしても、何かを演じているようにはみえないから困る。映画はさらにつづき、先の佳江とサヨとの衝突がかつてのサヨの住まいの近く、じっさいにサヨと大島がふたりで歩くのが目撃された、という場所で再開される。呼ばれて来た証人も加わって、かなり血気を孕んだ展開にもなるのだけれども、その周囲には野次馬も群がり、カチンコを持って走るスタッフや、台の上に乗って撮影するカメラの姿も写される。これが今村監督のいう「フィクション」ということだろうか。

 「人間蒸発」という主題はどこへ行ってしまったのかよくわからないけれども、とにかくは大島裁という「蒸発」してしまった男の、その不在が、佳江とサヨとのふたりの女性に大きな影を投げかけてしまったことは確かである。他にもこの映画から考えることはあるけれども、とりあえずはこのあたりで。


 

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■ 2016-11-30(Wed)

 南のスーパーに、いわしの缶詰が一個70円で売られている。そもそもが缶詰が一個70円というのもずいぶんと安いものだし、「いわしのコンソメ味」、「いわしのグリーンカレー味」というネーミングもおいしそう。とりあえず、二個ずつ買ってみた。持ち帰って「コンソメ味」の方を開けて食べてみたら、これが異様においしかった。しっかりと煮込まれていて骨もやわらかく調理されているし、あまり塩味が強くないのもわたしには向いている。
 そもそもこの缶詰、紙パッケージにくるまれた包装もそんなに安物とは思えないわけだし、ちょっと待てよ。このメーカー名は聞いたことがある。これはひょっとしたらかなり高級な缶詰なんじゃないだろうか?と思い、パソコンで検索してみた。そうしたらやはり、出て来た。このメーカーはさんま、さば、いわしの缶詰で知られたメーカーで、この売られていたいわし缶、一昨年の茨城県水産製品品評会で「農林水産大臣賞」を受賞している、由緒ある缶詰なのであった。メーカーでの小売価格は一缶330円である。やはり激安。

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 これではあまりに激安すぎて、何か理由があるのではないかと思ってしまうのだけれども、賞味期限も一年以上先だし、理由がわからない。とにかくはめっちゃ「安い」のである。それではもうちょっと買っておこうと、またスーパーへ足を運んでみる。けっこうな量が棚の一番上に置かれているのだけれども、どうやらお客さんもこれが実は激安商品だということに気づいていないというか、先に買ったときからまるで減っていない。そう、明日は木曜日で、このスーパーは全品一割引の日になるから、明日になったらまとめていっぱい、買い占めてしまおうかと考える。まあヘタをして今日のうちに誰かが買い占めてしまったりしたらくやしいから、とりあえず四個ずつ買っておいた。合計12個。これで税込みで900円ぐらいのものであるが、これがちゃんとした(?)価格で売られていたとしたら、4000円にはなってしまうのである。すでに3000円ぐらい得をした気分。今日はそんな日だった。

    

 

[]「アラビアのロレンス」(1962) デヴィッド・リーン:監督 「アラビアのロレンス」(1962)   デヴィッド・リーン:監督を含むブックマーク

 むかし観て、断片的に憶えている場面もあるのだけれども、そもそもがいったいどういうストーリーだったのかとか、まるで記憶にない。ただ、ロレンスに扮するピーター・オトゥールが、アラビアの衣服を身にまとい、砂丘の背後からそのアラビア服を翻して叫び、アラビア人らを鼓舞するシーンのカッコよさ、そのシーンはいちばんよく記憶している。

 三時間半の作品、一気に観た。この作品、その主人公のトマス・エドワード・ロレンスの著作「知恵の七柱」を原作とするものというけれども、まずは二十世紀初頭のアラビア情勢と、ロレンスという個人の体験とを巧みに合わせて描いた脚本が、あまりに見事であると思った。この脚本はイギリスのロバート・ボルトという人物と、マイケル・ウィルソンという人物とによるもので、ロバート・ボルトはこのあとに「ドクトル・ジバゴ」の脚色も担当している人物。そしてそのみごとな脚本を、映像の魔術とも呼びたくなるようなすばらしい映像にしたのが、デヴィッド・リーン監督。とにかく、この「砂漠」の映像。いったいどうやってこんな情景を撮影出来たのかと、驚愕するような映像の連続である。今だったらこういうのはみ〜んなSFXとかCGとかのお世話になって、スタジオで出来てしまうんだろうけれども、この作品はもちろん、すべて実写である。広大な砂漠の中を行くラクダと人。どうやって砂漠の中にこれらラクダや人を移動させ、その上に撮影をするという驚き。砂漠の蜃気楼をじっととらえる画面の奥に、やがてひとつの点があらわれ、それがだんだんに大きくなってくると、その点がひとりの人間だったということがわかったりする。いったいあの人物がどれだけ離れたところからカメラに向かって歩き始めたというのか、気が遠くなる思いがする。これはもう尋常なこととは思えないし、しかもその映像が極上に美しい。これぞまさに「映画」という感じ。

 イギリス軍の軍人としてイギリスの命を受け、オスマン帝国に抗して独立運動を起こすアラブ民族らに協力するロレンスだけれども、そこは当然、そんなアラブ民族のイギリスとの同盟が期待されてもいる。アラブの人たちに自らを同化させ、そのことに喜びをもおぼえ、彼の指揮のもとに「アカバ攻略」というめまぐるしい成果があがり、その後もオスマン帝国の鉄道襲撃のゲリラ活動を継続する。しかし、ダマスカス侵攻の時期からロレンスには変化が見られるようになるし、アラブの部族らの統一を目指すアラブ民族会議は成果をもたらさない。イギリス軍にとって、すでにアラビアの地にロレンスの存在は必要ではなくなるのだった。

 なぜ、ダマスカス進行の頃にロレンスには変化が見られるようになるのか。その前の鉄道襲撃の際、ロレンスの年若い召使いのような部下のファラージが失敗を犯し、自ら大ケガを負ってしまうのだが、敵軍に身柄を拘束されると残酷な拷問が待っているので、その場で大ケガを負ったものは慈悲として味方軍が殺すことにしている。このときはロレンス自らがファラージへの引き金を引く役を引き受けるのだが。
 この映画には女性はまったく登場してこないのだが、微妙に性的なことがらは描かれているように思う。そのひとつがロレンスとファラージとの関係で、ここには同性愛というか少年愛というか、そういうものがほのめかされていたのではないだろうか。さらにそのあと、アラブ人の服装でダルーアの町に偵察に行ったロレンスは、オスマン帝国軍に連行されてしまう。連行されたロレンスはその正体こそバレないのだけれども、帝国軍将校に服を破かれて上半身裸にされ、「この肌の色」と胸を触られて、そのあとむち打たれて放置される。このシーンもまさに性的蹂躙を思わせる場面ではあり、映画でも、その後の彼の心変わりにはこの事件が大きく影響しているようには描かれている。それまでの彼のファナティックな行動は消え、目的を見失った人間になってしまったようにみえることになる。

 さいごに、帰国するためにロレンスが乗ったジープを、オートバイが追い抜いていって映画は終わるのだけれども、もちろんこのオートバイは、映画の冒頭でロレンスが乗り、事故を起こして死ぬという、そのオートバイにつながるのである。


 

[]二〇一六年十一月のおさらい 二〇一六年十一月のおさらいを含むブックマーク

映画:
●「ダゲレオタイプの女」黒沢清:監督

読書:
●「大統領たちが恐れた男 FBI長官 フーヴァーの秘密の生涯」アンソニー・サマーズ:著 水上峰雄:訳
●「赤毛のレドメイン家」イーデン・フィルポッツ:作 宇野利泰:訳

DVD/ヴィデオ:
●「忘れじの面影」(1948) シュテファン・ツヴァイク:原作 マックス・オフュルス:監督
●「地上(ここ)より永遠に」(1953) フレッド・ジンネマン:監督
●「アラビアのロレンス」(1962) デヴィッド・リーン:監督
●「オーソン・ウェルズのフォルスタッフ」(1966) ウィリアム・シェイクスピア:原作 オーソン・ウェルズ:脚色・監督
●「特攻大作戦」(1967) ロバート・アルドリッチ:監督
●「華麗なるギャツビー」(1974) F・スコット・フィッツジェラルド:原作 フランシス・フォード・コッポラ:脚本 ジャック・クレイトン:監督
●「ダーティファイター」(1978) ジェームズ・ファーゴ:監督
●「ブレードランナー ディレクターズ・カット 最終版」(1982/1992) リドリー・スコット:監督
●「柔らかい殻」(1990) フィリップ・リドリー:脚本・監督
●「J・エドガー」(2011) クリント・イーストウッド:監督
●「雪の轍」(2014) ヌリ・ビルゲ・ジェイラン:監督
●「醜聞(スキャンダル)」(1950) 黒澤明:監督
●「空の大怪獣 ラドン」(1956) 円谷英二:特撮監督 本多猪四郎:監督
●「青空娘」(1957) 源氏鶏太:原作 白坂依志夫:脚本 増村保造:監督
●「ヴィタール」(2004) 塚本晋也:監督・脚本・撮影・美術・照明・編集・製作

 

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■ 2016-11-29(Tue)

 今日はニェネントのおかあさんネコのミイの命日。六周忌の日になる。たいていの記憶を失ってしまったわたしだけれども、ミイと過ごした短い時期のことは比較的よく憶えている。多分、ミイのことは頭で憶えているのではなくって、心で憶えているせいじゃないかと思う。ミイのことを思い出すと涙があふれてくる。もうポロポロと涙がこぼれてくるほどで、外にいるときはミイのことを考えないようにしないといけない。でも、このあたりの場所にはミイの思い出が焼き付いてしまっている場所もあるので、今日のような日に思い出さないでいるのはむずかしい。思い出して涙っぽくなってしまったときは、ミイの楽しかったところを考えるようにする。
 ミイの楽しい一面、すぐに思い出すのは、ミイが公園で、例のニェネントのお父さんネコと出会ったときの反応である。わたしもその瞬間をよく目撃できたものだと思うけれども、つまりはニェネントのお父さんネコはおそらくは「ラグドール種」か何か、とにかくはペルシャ猫系の血統正しそうな美猫ではあったのだけれども、そのネコの前に近よったミイは、そこでおもいっきりカッコつけて、しっぽを高くあげてつま先で歩くような姿をみせたのである。まさにその恰好は、キャットウォークを歩くモデルみたいではあった。みていたわたしは、「あ、ミイがカッコつけて、イケメン男子を誘惑してる!」って笑ったものだった。しかしそうやって、まさにあのネコの子だとしか思えないニェネントを産んだのだから、ミイの誘惑はみごとに成功したわけだ。大したネコであった。このことを思い出せば、今でもわたしは何だか楽しい気分になれる。

 夜になって、ニェネントが外のことを気にしているようにみえた。和室の「お立ち台」の上からじっと外を見ているので、「お、ついに例のネコが来たか!」と、ニェネントといっしょに外をのぞいてみた。暗がりでよく見えないけれども、なんだ、子ネコなんかではない。けっこうでっぷりした、ブチのネコだった。夜の暗さではよくわからなかったけれども、ひょっとしたら、前からいるあのブスネコだったかもしれない。‥‥けっきょく、あの子ネコはもう来ないみたいだ。どこへ行ってしまったのだろうか。でもしかし、ミイの命日にこうやってベランダにネコがあらわれたということ、何かがつながっているのかもしれない。そんなことを考えた。

    

 

[]「忘れじの面影」(1948) シュテファン・ツヴァイク:原作 マックス・オフュルス:監督 「忘れじの面影」(1948)   シュテファン・ツヴァイク:原作 マックス・オフュルス:監督を含むブックマーク

 もう、きっちりとフォルムの決められた作品というか、はみ出しようがない。つまりこれは一通の手紙の映画(原題は「Letter from an Unknown Woman」)で、男がその手紙を受け取って、そして読み終わるまでの映画。男が手紙を読み始めると、物語の視点はその「見知らぬ女性」へと移行する。まず手紙の書き出しは「あなたがこの手紙をお読みになるころ、わたしは死んでいることでしょう」というもので、「え? どういうことだろう?」と、観ている方も「なぜ、その手紙を読んでいる男が<知らない>という女性が、そういう書き出しの手紙を送ってくるのか?」と、興味津々になってしまう。
 で、手紙を読み継ぐと(物語が進行すると)、その女性が、新進売れっ子のピアニストである読み手の男性に、少女時代からあこがれていたことがわかる。彼女の家族(母と子のふたり暮らし)とピアニストは同じアパートに住んでいたのだけれども、彼女はただドアのかげから男をみつめるばかりであったが、母親が再婚するためにそのアパートから引越しせざるを得なくなった。やがて彼女は成長し、結婚話も断って洋装店のマネキン・モデルとなり、ひとり暮らしをはじめる。それもまた彼と再会することを願ってのことである。男はピアニストとして成功し、人気絶頂。ついに彼女と男とは、かつてのアパートの前で出会うのだが、男は当然彼女を覚えてはいない。しかし男は彼女を誘い、女性にとっては究極のデート、夢のような一夜を過ごす。男は次の公演に向かうために列車に乗り、駅で「二週間後に戻ってくるから!」と彼女に約束して去って行く。そして二週間がたつが、男は彼女のもとに戻っては来ない。
 女性はその一夜でみごもっていた。父親の名は秘めたまま男の子を出産し、のちに裕福な貴族と結婚する。そして九年がすぎ、彼女は夫と出かけたオペラ・ホールで、ピアニストとして落ちぶれてしまった男と再会する。様子を目撃していた夫の手前、いちどは夫と共に帰宅するのだが、やはり彼女は男のもとへ行こうとし、事情を飲み込めた夫の制止を振り切って、息子を連れて家を出る。息子をしばらく施設に預けるために、駅で息子を列車に乗せるのだが、息子は彼女に「二週間で戻ってくるから!」といって去っていく。彼の住まいへ駆けつける彼女だが、男は彼女のことを覚えておらず、ただ「前に逢ったことがある気がする」というだけ。そして彼女を見知らぬ女性のように、甘い言葉でかき口説こうとするのである。絶望した彼女は、そっと男の部屋から外に出る。
 その当時その地域ではチフスが流行し始めていて、つまり息子は列車でチフスに感染し、帰らぬ人となってしまう。同じく彼女も感染し、自分の死期が近いことを悟って、病院でその手紙をかいているのであった。手紙の末尾には病院からの書き込みがあり、彼女が亡くなったことを告げていた。実は彼女の夫から決闘を申し込まれていたらしいこの男、映画の冒頭ではその決闘から逃れようとしていたのだが、手紙を読み終えた今、彼女の夫との決闘に向かうことを決めるのだった。

 女性の視点であるがゆえに、男のふらちさが際立つことにもなるし、それが「手紙」としてその男も読んでいるわけだという構成がにくい。そして、そこにもうひとり、ピアニストの初老の使用人がいて、この人物は口がきけないのだけれども、冒頭からラストまで、ピアニストにはずっと付き添っている。この使用人がさいごに、男に「彼女のことを知っていたのか?」と聞かれ、うなずいてみせる。これが、使用人が男にその愚かさを思い知らせるようでもあり、女性にとってのさいごの救いのようにも思える。

 主演はジョーン・フォンティーンで、ヒロインの女性の十代から三十代までの二十年ほどの時代を演じてみせ、まったく不自然ではないと思った。そもそもわたしはこの女優さんのことが好きでもあり、彼女の魅力が堪能出来る作品でもあると思う。ピアニストの男を演じたのはルイ・ジュールダンという俳優さんで、この人もその絶頂期、そして落ちぶれた時代とをしっかりと演じ分けていた。ピアノを弾いている手もちゃんと映されていたけれども、もともとピアノの素養があられたのだろうか。容貌はちょっと、オマー・シャリフを思い出させられるようなところがあったと思う。

 あとは、やっぱり絵のきれいな映画だな、という感じ。その男と女の究極のデートの一夜、その映像が美しいし、カメラワークも流れるようになめらか。そんな中で、たとえばアパートのドアのところ、そして列車を見送る駅のホームなど、同じ構図の同じ場面が繰り返され、「時の流れ」のはかなさ、残酷さのようなものまで感じさせられるという印象。味わい深い作品だった。


 

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■ 2016-11-28(Mon) このエントリーを含むブックマーク

 今日も、ベランダに出してあったネコご飯はきれいになくなっていた。ベランダにネコが来るところをうまく目撃したいのだけれども、ベランダの外に注意を払うということもむずかしく、どうしてもその姿をみることができない。ニェネントの動作に気をつけていれば、外にネコがくればニェネントも反応するはずなのでわかると思うのだけれども、昼間のニェネントは寝てばかりだからダメである。それに、わたしまでもが午後からはまた長い昼寝をしてしまうのであるから、よけいにダメである。まあ用心深いネコであれば、昼間は来ないで、夜になって人の気配がなくなってからやって来たりするだろう。

 長く昼寝をしただけで、今日はほんとうに何もしなかった。夜は本を読もうと思っていたのに、いざ読み始めると眠くなってしまい、すぐに寝てしまうのだった。

    

 

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