ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-04-29(Thu)

[]『アッシュベイビー』金原ひとみ 『アッシュベイビー』金原ひとみを含むブックマーク

   アッシュベイビー

 ま、あいかわらずボキャブラリーない作家だね。この作品は作中の主人公の独白なんだからしょうがないとも言えるけど。でもね、やはりこの人はいい視点を持ってる。

 この作品の本質はコメディー。それをまた「自傷系」とか「ひきこもり」と言うか、極端に誇張された「幼児愛」&「獣姦」(コメディーですから)とかの題材でやってのけてしまうから、グロで吐き気催しそうになってしまう。でも、ココにあるのはいわゆる「ブラック・ユーモア」と呼ばれるものとは違う世界だ。どっちかっちゅーと、ラブレーとかみたいな笑いに近い(ホントかよ)。一般に「これで笑え」と言うのもキツい話だと思うけど、わたしは笑いながら読んでた。わたしも結構人非人だなァと思ったよ。こういう題材で読者を笑わせてやろうとする作者は、やはり隅に置けない。しかもデビュー第2作でね。

 但し、主人公の村野という男へのあからさまな純愛ぶり(フフ)と、ルームシェアしている「乳児愛」男(ハハハ)への感情との書き分けは、これは出来ていないのではないか。それは「殺されるほどに愛されたい」という感覚がうまく表わされていないせい(この小説では「ウソも百回言えば真実になる」的な描写だな)、というか、村野への愛のベタベタな主観描写と、館山(その「乳児愛」男)への突き放した描写とが、うまく噛み合っていないように思うのだ。ベタベタな主観描写だけで乗り切ってしまえばそれで面白いだろうし、吐き気を催すような変態性欲だけで押し切るのもイイと思う。しかしながら、ここでの相乗りはちょっと難しい事をやってしまったね、って感じかな(村野とのセックス・シーンは「うまい!」と思った)。

 しかし、本のカヴァーがハンス・ベルメールというのは、やられたな。集英社もこういう所ではニクい仕事をする。奥付を見ると、装幀は菊地信義の仕事だった。

(あらためて言っておくけれど、わたしは、綿矢りさよりも遥かに金原ひとみの方を買っている。さらに今後に期待したい。)

[]『アルファビル』(アルファヴィル)ジャン・リュック・ゴダール 『アルファビル』(アルファヴィル)ジャン・リュック・ゴダールを含むブックマーク

   アルファビル [DVD]

 「ビル」ではなくって「ヴィル」だろ〜。「R」と「L」はしょーがないにしても、「B」と「V」はちゃんとカナで書き分けられるんだから、少し意識してほしいな。『ベニスに死す』とかもね。

 さてと、この作品はゴダール1965年の作品。ゴダール作品にはチョー珍しく、超ハッピー・エンドなんだな。白黒の画像の美しい、管理社会批判の逆ユートピアSF。トリュフォーの『華氏451』では、焚書などが行われる社会が描かれていたけれど、この『アルファヴィル』では、論理的に用をなさない書物などとうに排斥されてしまっているようで、管理者公認の辞書(「聖書」と呼ばれる)から、「言葉」をどんどん削除していく段階になっている。ま、ここで主人公のレミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)が、前任者から受け取ったエリュアールの詩集『苦悩の首都』でもってナターシャ(もち、アンナ・カリーナ)に、忘れられかけた「ことば」を取り戻させるシーンが、いかにもゴダールっぽくって素敵なのだ。このあたりは、先日読んだナボコフの『ベンドシニスター』とシンクロしてくるけれど、「ことば」が人を救う、と。ま、この映画では「愛」ということばに集約させちゃっているけれど。


 さて、この作品を10年ぶりぐらいにひっぱりだして見てみたのは、先日見た『ロスト・イン・トランスレーション』の中に、この『アルファヴィル』の反映を見た、と思ってしまったからなんだけど。

 ま、そうすると『LIT』でのビル・マーレイの相手は麻生久美子でなくってはならなくなるんだけど(なんでだよ?)、もちろん残念な事に『LIT』はそういう映画ではない(あたりまえだ)。しかし、『LIT』の中にちりばめられた『アルファヴィル』的なロケーションは、ソフィア・コッポラは『アルファヴィル』を意識しているに違いないと思わせるようなところもあるのだ。『LIT』には、あともう一本、エンキ・ビラルの『ティコ・ムーン』の影もちらつく。あまり良い印象の残っている作品ではなく、もうあらかた忘却のかなたに沈んでしまった作品だけど、このヴィデオも借りてあるので、今夜あたり見てみよう。

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■ 2004-04-27(Tue)

[]『サーチエンジン・システムクラッシュ』宮沢章夫 『サーチエンジン・システムクラッシュ』宮沢章夫を含むブックマーク

   サーチエンジン・システムクラッシュ

 ダメ。つまらない。圧倒的なまでに。

 昨年の『TOKYO BODY』の公演を思い出したヨ。この小説に関しては、なにもタイトルでネタバレしなくってもいいのに‥‥と思う。キャッチーなコピーのつかみはいいんだけど(アブノーマル・レッドとか)、表層の部分だけでズルズル行ってしまっている感じ。こんなネットサーフィンのヴァーチャルな体験なんか、現実に(本当に現実に)体現できるのだ。日常へのつながり方も、この小説で書かれているようなものではなく、もっともっとカフカ的に不条理な現実はあるのだ。わるいけど、現実にはもっと奇妙な世界が現存している。三軒茶屋のマンションの中のジャズ・バーから渋谷百軒店へ飛び火し、新宿の夜を徘徊する。女と一緒にまたマンションの秘密スペースを探して見つからない。女の正体もわからないまま別れ、そのまま翌日会社に出勤する。そういう生々しさが作者の狙いではないだろうし、体験の比べっこしてみてもしょうがない。

 とは思いながらも、頭で書いてしまったというのがみえみえな展開に吐き気さえ催す。(ま、小説なんて頭で書くものだといってしまえばそれまでだけど。)

 どうもわたしは宮沢章夫とは相性が悪いようだ。

[]『ベンドシニスター』ウラジミール・ナボコフ(加藤光也訳) 『ベンドシニスター』ウラジミール・ナボコフ(加藤光也訳)を含むブックマーク

   ベンドシニスター (Lettres)

 そうか、こういう小説だったのか。約20年ぶり再読。渡米第一作とは言いながら、東欧の濃厚な暗さが匂ってくる。

 わたしが最初にナボコフに惹かれたのは、『断頭台への招待』という作品。『ロリータ』ではない。この『ベンド・シニスター』にも、ナボコフの作品には珍しく絶望的な悲劇の匂いがする。それは同じ時期に書かれた『断頭台への招待』にも共通するものがあるし、『ロリータ』の根底にある絶望感とも通底している。その絶望を救う視点を、過去の世界から「文学」とか「芸術」とか呼ばれて引き継がれている人類の知的営みの中に求める。

 この『ベンドシニスター』では、シェイクスピアの『ハムレット』。わたしはあまり『ハムレット』のこと覚えていないし、相当なレヴェルでの原文解釈の知識が必要な論議が、この小説の登場人物間でやり取りされる。わたしはこの本の良い読者ではなかったな。

 でも、ラスト、作者の掌の上で踊らされる登場人物に、作者が慈悲の救いの手を差し伸べる一瞬には涙が流れてしまう。

[]『キル・ビル vol.2』クエンティン・タランティーノ監督 『キル・ビル vol.2』クエンティン・タランティーノ監督を含むブックマーク

 ダメ。『vol.1』はかなり面白かったから期待していたけれど、結局自己模倣に過ぎない。ラストの梶芽衣子の「怨み節」の空回りが悲しい(これこそ「Lost In Translation」だよ)。

EtsukoEtsuko 2004/04/29 10:55 はじめまして。一通り拝見させていただきました。ずいぶんたくさんのイベントにいってらっしゃるので気になっていたものなどの様子が分かりうれしかったです。ところでヴァイブレータは、原作と変えて1往復にしたようですね。廣木隆一の音楽センスのよさは業界屈指らしいです。

crosstalkcrosstalk 2004/04/30 00:35 Etsukoさんはじめまして。『ヴァイブレータ』、やっぱ原作は1往復半ですよね。確認出来ました。ありがとうございます。

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■ 2004-04-24(Sat)

[]『春の惑い』田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)監督:2002年 『春の惑い』田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)監督:2002年を含むブックマーク

   春の惑い [DVD]

 映画館で見ようと思っていて見損なっていた作品。やっと見ることができた。

 田壮壮監督は、あのヴィクトル・エリセ監督並みに寡作な作家だ。『盗馬賊』が1985年、次の傑作『青い凧』が1993年、そしてこの『春の惑い』が2002年の作品だ。この間隔で考えると、彼の次回作を見るにはまだあと5〜6年待たなくてはならない。そんなに生きていられるだろうか、わたし。(どうやら、これらの日本公開作品以外に、かなりの数の彼の作品は存在するようだね。それに、『青い凧』以降の沈黙は、中国政府から睨まれていたからだよね。訂正。)

 で、この作品だけど、中華人民共和国の映画の初期の作品『小城の春』(1946年)のリメイク作品という事だ。この田壮壮版の原題は『蘇州恋歌』。わたしなんかにはこっちの原題の方がいいな。

 しかし、共産主義国家建立から間もない時期にこういう映画が造られていたのであれば、やはり中国は奥が深い。もちろんストーリーは旧時代のブルジョワ階級の没落というテーマがメインであるとは言え、単純なプロパガンダ映画ではないようだ。単純に新時代の到来を観客にアピールするのであれば、この作品(『小城の春』=『春の惑い』として言っているけれど)のラストは違ったものになるべきだったろう。新時代としての「上海」からの客人が、旧世界の「蘇州」に解決のつかない静かな波乱を起こす。まるでヴィスコンティの映画のような、この作品の醸し出すデカダンスの匂いは、とにかく、新国家建立当初の文化事業にはまるで相応しくはないと思うのだが。いや、どうせ見てはいない1946年の『小城の春』と言う作品の事を考えるのは止めよう。眼の前にあるこの作品だけを見よう。

(おっと、わたしはバカだなぁ。中華人民共和国の建国は1949年だよ。1946年は国共内戦の時代ではないか。上記の記述は訂正するけれど、そんな内乱時代にこのような映画を作っていたのはやはり意外だ。)

 ‥‥先にちょっと書いたように、この作品は、ヨーロッパから30年遅れた貴族階級の没落を、蘇州の水墨画のように美しい風景を背景にして、ひとつの愛の(内的な)破局を通じて描いている。まるでプルーストであり、まるでヴィスコンティである。いや、おそらくは田壮壮は、作品造りの規範として絶対にヴィスコンティを意識している。主要登場人物4人が散歩に出かけてボートにのる、束の間の至福の時間の中で彼らが歌うのは、中国語の歌詞の付けられた『美しき青きドナウ』だと言う事は、何と象徴的な事ではないか。ここで日中戦争戦後間もない1946年の蘇州の風景は、20世紀が始まったばかりの、第一次世界大戦終結時のヨーロッパに見事にリンクする。

 夜中には停電してしまう明かりをめぐって、まるで舞台劇のように展開する濃厚な愛の時間。自然光を最大限に活かした美しい撮影、まるで秘め事を覗き見するように、そぉっと密かに移動するカメラ。BGMとしての音楽を徹底的に排除した静かな展開(終盤の登場人物の一人の哀しみに寄り添うように、この場面にだけ寡黙な音楽が流れるけれど)。あまりにも完成され過ぎている。その事だけがこの作品の弱点だろう。美しい甍の波の拡がる窓の前でふたたび刺繍を始めるヒロインの、あまりに深い哀しみ(諦観)の前には、わたしは言葉を失う。素晴らしい作品。いったい、次の田壮壮の作品がどんなものになるのか、今から恐ろしくって仕方がない。

 ウォン・カーウァイの『花様年華』を、もう一度見たくなった。アジアの内なるヨーロッパか。

ここに、この映画の中のヒロインのせりふが出ています。「悶騒」という言葉も憶えました。ぞわぞわします。

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■ 2004-04-22(Thu)

[]『パンチドランク・ラブ』 『パンチドランク・ラブ』を含むブックマーク

   パンチドランク・ラブ DTSコレクターズ・エディション [DVD]

 ポール・トーマス・アンダーソンのメジャー第3作を、今頃ヴィデオで見る。なるほどね、そういうタイトルだったのか。予告より相当イタい内容の痛そうな作品だったけれど、今となってはほとんど思い出せもしない、この監督の前作『マグノリア』よりは視点もはっきりしていて、ラブストーリーを装いながらも破壊力に満ちている。

 完璧なまでに7人の姉達に抑圧された主人公(アダム・サンドラー)が、資本側のサービス(という販促)のちょっとした盲点を見つけて、それまでの(電話という道具での)世界との危ういつながり方を捨てて、自信と行動力と恋人(エミリー・ワトソン)を手に入れる。

 どこかブラックではあるけれど、スクリューボール・コメディーを引き継ぐような展開、人物のシルエットを多用した映像など、かなり50年代のハリウッド映画を意識した製作方法なのではないだろうか。なんか、この人の作品にはいつも、資本主義社会に拮抗するような個人の側の視点を見つけようとしているようで、『ブギーナイト』に続いて、興味深い作品だった。

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■ 2004-04-21(Wed)

 ‥‥今日は金がない。中野に行こうかと思っていたけれど、やめた。借りたまま未だ見ていないヴィデオが4本もあるし。

[]『あずみ』 『あずみ』を含むブックマーク

   あずみ デラックス・エディション [DVD]

 この映画の監督北村龍平の前作『Versus』も以前ヴィデオで見た事がある。前作の感想は、なんちゅうか、ポモ野郎*1、というか、地理的な背景も歴史的時間軸もすっ飛ばして、「対決」という主題だけを切り取って一品料理で出された感じがしてね、「なに、今日のご飯は刺身だけかよ」って感じだった。せめて日本酒ぐらい付けてくれよと。

 で、今日の『あずみ』、イントロは『Versus』の焼き直しって感じで、「またかよ」だったけど、でも、なぜか『隠し砦の三悪人』。ロケーションがね。で、やっぱもたもたしていてもどっかしいんだけど、『七人の侍』とか『蜘蛛の巣城』、『影武者』だかんね。途中から急速に面白くなる。もうね、あずみの百人切りなんか熱狂のるつぼだよ。わたしゃ一体どうしてしまったんだ。でも、しっかり撮影してるよ。殺陣もていねい、というか、タランティーノの『キル・ビル』並みにきちんと撮られてる。オダギリジョーの「美女丸」(だっけ?)がまたいいんだ。敵も味方もない、眼の前にいるヤツは片っ端から切り捨てまくる。あ〜、面白かった。って、まだ終わらないよ。いったい何時になったら終わるんだ、この映画。あ、やっと終わった。

 上戸彩なんてアイドルでもってこんなコアな映画造っちゃうんだから、監督としての力量は相当なものなんだろうな。まだ2つしか見てないけれど、次が楽しみ。おっと、今調べたら現在『あずみ2』の撮影に入ってる時期なんだな。次は映画館で見てみよう。

 ただ、えっと、編集ね。問題。それから音楽。他の選択肢はなかったのか。これはプロデューサーががんばってほしい。

 とりあえず、旨い刺身料理ではあった。酒に相性が良い。ごちそうさまでした(ただ、斬られたヤツが皆口から血を噴くのはいいかげんにしてほしかった。ちゃんと血抜きしてね)。

*1:ポスト・モダン・キッズの事

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■ 2004-04-19(Mon)

 職場の配置替えで今日は肉体労働な一日だった。こういうのは好きではない。

[]『ロスト・イン・トランスレーション』 『ロスト・イン・トランスレーション』を含むブックマーク

   ロスト・イン・トランスレーション オリジナル・サウンドトラック (これは国内サントラ盤のジャケット。輸入盤のジャケットの方がイイ)

 渋谷で、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション(Lost In Translation)』を見た。

 私はこの作品でのビル・マーレイとほぼ同世代なので(私の方が年下である事はここでぜひ強調しておきたいが)、どうしてもそちら側に感情移入して見てしまうし、この位生きて来ると、この映画でのビル・マーレイと同じような体験をしていないわけでもないので、ちょっと回顧モードにも入ってしまうのだな。妖精だったキミと出会った頃の事を思い出す。

 だから、物語の骨子を中年オヤジのためのフェアリーテール(おとぎばなし〜妖精物語)と読み取って涙する。ベタな読み取り方。いきなりのスカーレット・ヨハンソンのヒップからノックアウトされてしまう。あとはもう為されるがまま。何度も繰り替えされるホテルの大きな窓の縁に膝を立ててちょこんと座っているスカーレット・ヨハンソンの映像、大きな海に浮かぶ孤島に独り取り残された少女(東京の寺を訪れ、そこの僧侶の読経から何も感じ取れなかったと電話で語りながら涙する女性から、いったいどのようにして目をそらせばよいのか)のような映像のすばらしさが体感されるに必要な年月は、私は充分に(無駄に)消費して来てしまっている。これはソフィア・コッポラ(&ヒロミックス?)の策略なのだけど、私にはもう抗う事は出来ない。

 いや、もう少し冷静にならなくては。

 異国の地で、只の消費されるべき商品として扱われる男が、アイデンティティーを見失いそうな少女(とは言っても既婚なんだけど)と同じホテルに宿泊してしまう。最初の出合いはお約束のエレヴェーターの中、出合いを堅固なものにする何度も繰り替えされるラウンジ・バーの描写。一回性と反復の描写が心地よい。もう誰がどう見ても、この二人の出合いは必然であり、定理である。

 ビル・マーレイは幸運である。これが映画の世界でなかったら、連夜の某サントリー社のスケジュール管理の中で、スカーレット・ヨハンソンとあそこまでプライヴェートな時間など持てる可能性は皆無だっただろうから。

 そのプライヴェートな時間、SFのような東京の夜の時間の中で、スカーレット・ヨハンソンはピンクのウィグを被り、まるでエンキ・ビラルの『ティコ・ムーン』のジュリー・デルピー(あの映画では真っ赤なウィグだったけれど)のように、時間軸から逸脱してしまった妖精のように男性の視線を魅了する。ここでビル・マーレイが、カラオケでロキシーの「More Than This」を唄おうとするのは、実にもってして当然の選択である。「More than this, you know there's nothing」なのだ。そして、泥酔した彼女をホテルの部屋に連れ帰るビル・マーレイは、まるでゴダールの『アルファヴィル』のエディー・コンスタンティーヌの相似形であり、ホテルの廊下は、見知らぬ惑星の迷路に変ぼうする。そして、スカーレット・ヨハンソンは実はアンナ・カリーナの化身であり、「愛」と言う言葉を学ぶのかも知れない。この「Tokyo」という惑星で(ま、これはあまりに感覚的な言い方だけど)。

 このように、この作品においても(『ヴァージン・スーサイド』でのように)、ソフィア・コッポラの造型は実にヨーロッパ的な美意識に貫かれていると思う。そして、現在のヨーロッパの作劇術では、このようなフィルムはおそらくは生み出せないだろう。いや、これはエンキ・ビラルの次回作を見てから言ってもいいのだけど、ジュネ/キャロもおそらくは道を踏み外してしまっている。ベルトリッチ? う〜ん、どうかなぁ。

 とにかく、この後も実にデリケートで繊細な描写が続き、まるでラブ・ロマンスの古典のような、風格のあるラストに引き継がれるのだけど、途中でちょっと驚いたのは、ビル・マーレイが大きな富士山のふもとのゴルフ場でゴルフをしている短いショット。こ、こ、こ、これ、どうやって撮影してるんだろ。光の関係とか全然現実の光でないし、富士山の明るさも奇妙だ。ものすごいインパクトのあった一瞬。映像ってまだまだ可能性が山ほどあるんだなぁ。

 とりあえず、又もう一度見に行こう。

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■ 2004-04-16(Fri) 横山光輝氏死去 このエントリーを含むブックマーク

 という事で、悲しい。私は手塚治虫よりもずっと横山光輝のマンガの方が好きだった。

 そういえば、つい先日、「劇画」の生みの親、横山まさみち氏もお亡くなりになったばかりだった。戦後マンガの隆盛を築いた作家の方々も、皆いいお歳になられているんだよね。

 なんて思ってたら、今関あきよしが児童買春かなんかで逮捕された。この人の映画を見た記憶はないけれど、最近、ロシアの少女が主人公(ヤバ!)の映画を完成させたばかりのはず。ヤバいなぁ。こんな事で作品がお蔵入りになってしまったら、関係者は泣くに泣けないよね。(あ、思い出した。『タイム・リープ』というのを見た事がある。ダメな作品ではなかったが。)

 一方では、鈴木清順が新作を撮るらしい。「狸御殿」モノらしいが、主演がチャン・ツィイーとオダギリジョーらしい。たしかにどちらも狸っぽいが、チャン・ツィイーの狸になら、化かされてもいいな。

 100円で、ちょっとがっちり造られた傷物のライターを買った。点火する時にボディの透明な部分がワイセツに赤く光り、しかも発火口が二つある。75°くらいの角度で付いていて、全く無駄に二つの炎が燃え上がる。スプリット・ファイアーである。二人同時に使える可能性はあるが、そんな妙なライターだとは知らなかったヨ。人前で使いたくないな。

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■ 2004-04-13(Tue) 『ラブ・アクチュアリー』etc.

 今日はわたし的には映画の日なので、仕事の後、有楽町のみゆき座で『ラブ・アクチュアリー』を見た。ちょっとしたアンケートに答えてこのチケットもらってたからタダ、だったんだけど。

[]『ラブ・アクチュアリー』 『ラブ・アクチュアリー』を含むブックマーク

 こういったライトなラブ・コメディーは嫌いなわけではなく、けっこうヴィデオやTVなどで見て楽しんだりはしている。ただ、どれが何というタイトルの映画だったのかとか、監督が誰かとか、基本的な情報はほとんど頭に残っていない。

 だから、この映画の冒頭での結婚式のシーンで、「愛こそがすべて(All You Need Is Love)」の演奏がいろいろな人に引き継がれていくのとかは、昔見たこのテの映画で、食事のテーブルを囲んだ人々が「この小さな願い(I Say a Little prayer)」を次々に唄いだして輪が広がっていく、実に気持ちのいいシーンの基本的には模倣だよな、と思っても、その元の映画がなんだったのか思い出せもしない。

 どうも最近のラブ・コメディというジャンルは、オールディーズ・ナンバーを頻繁に使用してポップな感覚を際立たせようとしているようだけど、この映画で「Christmas is All Around」として使用されたモト歌、「Love is All Around」(オリジナルはThe Troggs)もたしか何かの映画で使われていた記憶がある。いや、これは映画ファンならすぐに何の映画だったか答えてくれると思うけれど。ちょっと脱線してそういうのを自分の見た範囲で思い出してみると、『メリーに首ったけ』のラスト(テロップの部分)で出演者皆が唄っていたのは、The Foundationsの「恋の乾草(Build Me a Buttercup)」(この邦題は奇怪だ)だったし、オースティン・パワーズは、バカラック自身まで出演していた。ま、こういうのは別にラブコメに限った事ではなく、ハリウッド製のアクション映画にせよ、スコセッジやタランティーノとかのシリアスな作品にせよ、クラシック・ロックなどをサントラに滑り込ませるのは、一つの映画界全体の潮流でもあるのだろう(スコセッジの『カジノ』などは全編脈絡のないクラシック・ロック大会で、見ていてへきえきしたものだ。これはロビー・ロバートソンの悪趣味な側面だったわけだけど)。

 しかしながら、ラブ・コメディの場合は、選ばれる音源は基本的にライトなポップ音楽であり、ヘヴィーなロックではない。このあたりのしきいは常にきっちりと守られているようで、この『ラブ・アクチュアリー』にしてもそうである。そういう面からちょっと突っ込んでみよう。

 おそらくはこの映画で、その主題ともっとも密接な関係で使用された音源は、間違いなくラストのビーチ・ボーイズの『神のみぞ知る(God Only Knows)』だろう。このヒースロー空港での、出演者である俳優以外の一般の人々も含めた実にさまざまな人々の映像、そのバックにこの曲が流れる。私なんか、この映画はもうここだけでいいのね。あとの130分とかはいらない。ま、私にとってこの『神のみぞ知る』は、ビーチ・ボーイズのベスト・トラックでもあるし、60年代の最良のポップ・ソングの一つでもある。こういう曲を使うのはずるいという事もあるが、この曲が流れていれば映像なんか何だっていいんだよね。正直。又余談になるけれど、何ヶ月か前にビルボード誌が「All-time Greatest Album 500」とかって無謀な(めちゃくちゃな)企画をやったんだけど、そこで1位に選出されたのが、この曲を含むビーチ・ボーイズ(というよりも、ブライアン・ウィルソン)の『Pet Sounds』。どうでもいいことだけど。

 で、この曲が使われていたのはうれしいんだけど、どうもこの映画、音楽的な魅力にはいまいち欠ける。著作権料の問題とかもあるのだろうけれど、ちょっと知名度に欠けるB級ヒットソング集って感じ。リーアム・ニーソンの奥さんの葬式でのベイ・シティ・ローラーズは、その前の結婚式での「愛こそはすべて」との並列で納得できるけれど、やっぱ一番まずいのはヒュー・グラント演じる英首相がアメリカを批判したエールとしてラジオ局が流す曲。それに合わせてヒュー・グラントが踊り出したりするんだけど、その曲がポインター・シスターズの「Jump」。‥‥アメリカの曲じゃん。文脈無視かよ。その他の本編の中で使われた音楽もちょっと魅力に乏しい。ちょっとしたクライマックスで文化祭の舞台で演奏された、マライア・キャリーのあのクリスマス・ソングにしても(決して愛聴している曲ではない事は申し添えて置く)、編曲が全然ダメだから高揚感が全く生まれない。この曲の編曲はクレイグ・アームストロングなのか?

 と、まずは音楽面からダメ出しをしてみたが、映画自体の作りにもう納得が出来ない、というのが本当の所。ま、いくつものラブ・ストーリーが並列して描かれて行って、基本的にラストの空港シーンで全員集合という構成で、基本的な世界観は「愛の前で世界には悪意はない」というメッセージなんだけど、ひとつには「そりゃあんまりにも悪意なさ過ぎ」ではないか、という事。イギリス男である事を利用して、渡米してモテまくろうとする男の話とか、「こりゃ夢落ちだろうが」と思ってたらマジだったりとか(これはイギリス流のキツいジョークかも知れんが)、友達の花嫁にイカれてしまう男のクリスマスでの行動なんか、成立しないだろうが。それはコリン・ファースの小説家のエピソードでもそうで、根拠のない思い込みから生まれた行動がすべて肯定される。こういう直情型の人物ばかりを肯定して描いてしまって許されるのか。この映画の倫理で行けば「ストーカー犯罪」などというものは成立しなくなってしまうのではないか。

 そして、ラストの空港でもその前のクリスマスでも排除されてしまった(クリスマスのシーンはちょっとあったけれど、あまりに悲しい)、ローラ・リニー演じる所の、精神的な障害を持った身内を抱えている人物。彼女だけに日の光はささない。いったい何のためにこの挿話は挿入されたのか。作品全体の中で全くバランスが取れていない。渡米してモテまくろうとする頭脳紛失男性がハッピーしまくりで、真摯に幸福を求めようとする彼女に幸福は微笑まない。いったいどう言う映画なんだ。

 てな感じでがっかりした映画だった。見終わってちっとも幸せな感じになれなかった。

 役者的に見れば、アラン・リックマンのひょうひょうとした演技は楽しかった。ヒュー・グラントと合わせて、この映画での演技賞。リーアム・ニーソンは、いつユダヤ人を救う演説をはじめてしまうのかとハラハラした。お父さん役、ムリ。その子ども役の子は、「あぁ、この子も成人する前にドラッグに溺れてアル中になって、人生の辛酸をなめ尽くして成長して行くのだろうな」と思わせる魅力があった。ローラ・リニーは、急にオバサンになってびっくり。わざと変なメイクさせるなんて、この映画はどこまでも彼女に意地が悪いな。

 私の友達がキーラ・ナイトレイのような女性と結婚したら、私も平常心は保てないだろう。ヴィデオ記録係はごめんこうむりたい。

 以上。

ななしななし 2005/10/03 13:34 >その元の映画がなんだったのか思い出せもしない。
ベスト フレンズ ウェディングですよ。
ジュリア ロバーツの。
わたしも大好きなシーンです。

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■ 2004-04-12(Mon) 『ドッグヴィル』etc.

 どうしようかな、ココは、見た映画とか読んだ本のことを書こうか。とりあえず、なぜか『ラブ・アクチュアリー』のチケットとか手元にあって、今週中に見ないと終わってしまう。

[]『ドッグヴィル』 『ドッグヴィル』を含むブックマーク

 『ドッグヴィル』ね。この作品はブレヒトの『海賊ジェニーの唄』にインスパイアーされて創られた、という事だけど、たしかにそういうプロパガンダめいた所があるのは確か。

 ナレーションにせよ、カメラの動きにせよ、観客が否応もなくグレース(ニコール・キッドマン)に感情移入するようにしむけているわけだけど、そういうのがラース・フォン・トリアーの帰来のストレートな作劇法なのか、それとも作劇構造の中に悪意が秘められているのか、わからないのだね。これはもう『奇蹟の海』も『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も同じ。おまけに今回は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に関して、「アメリカに行った事もない癖にアメリカを舞台になんか出来るわけないだろうが」と宣った批評家(こういうアホみたいな事言う奴はいつだっているモノだが)に激昂して、この『ドッグヴィル』以降「アメリカ三部作」を造るつもりらしい(ん?スター・ウォーズ? リング? マトリックス?)から、こちらも大人気ない。そう見てみると、やっぱこの人はベタな人なんだろうな。

 ま、なんていうか、こういう心の美しい(?)人が不幸な目に遇い続けるという話だと、テイストは全然違うけれども、私なんかは花輪和一の時代モノのマンガを思い浮かべる。

 花輪和一の場合は、もっとブラックな味わいでありながらも一種仏教的な無常観が作品の根底に流れている。超熱心なカトリック信者だと言うラース・フォン・トリアー(映画を撮っていない時は、いつも教会で涙を流しながら祈っているとの噂がある)との、そこが根本的な差異なのか。

 でも、今回の『ドッグヴィル』は、その倫理観が興味深いと言うか、ちょうど今わたしが興味を持っている問題に近接した問題を取扱っているように思われたので、実はこの映画私なりにとても面白く見る事が出来た。

 ナレーションに導かれて、とっても説話的な、誰にでもわかる語り口の物語が進行する。冒頭、スタジオの真上からセット(と言っても、ご承知のようにこの作品は、床に白い線を引いて建物の境界を区切っただけが基本)を見下ろしていたカメラ(撮影:アンソニー・ドッド・マンデル*1が、すぅっと降りてきて、登場人物と同じ目線になる。

 私はこのカメラの動きに、一種の「箱庭療法」めいたものを感じたのだけど、そう捉えると、このセット〜まさしく「箱庭」〜で癒されているのは、実は観客ではなくって、監督のラース・フォン・トリアー自身ではないのだろうか。

 もちろん、「アメリカに行ったこともないくせに」という批判から、そう言うならば、具体的な土地と結びつけるような作劇は止めてやろう、という意識もあっただろうし、発想の原点にブレヒトがあるのなら、そこからのつながりも考えられる。しかしながら、このようなセットの中で、まるで俳優たちを人形のように動かして、自分好みの世界を作り上げてしまったラース・フォン・トリアー本人にとってこそ、その「箱庭療法」的に、この作品が作者に意味を持つものだとも言えるではないだろうか。そう、観客の問題は、ラース・フォン・トリアーにとっては、ひょっとしたら二の次の問題なのかも知れない。そう見てみると、この人の作品のベタさ加減の理由も読み取れる気もするのだが。

 そうすると、なんだぁ、自己満足作品かぁ、で終わってしまいそうなものだけど、そこからはみ出して、観客に圧倒的な力をおよぼすような作品でもあるから、この人は始末に負えない。うぅん、それはひょっとしたら、彼がカトリックの代弁者なのだよ、という事でもあるかも知れない。などと言いながら、実は私は「カトリック精神」について知る所は、何もないのだけれども。

 でもね、やはり、「倫理」の問題として、この作品が投げかけている問題は興味深いんですよね。

 つまり、ドッグヴィルの住民が部外者であるグレースという女性を受け入れようとする時に、まず彼らドッグヴィルの住民が、これを契機として、集団としてのコレクティヴな「善」を成そう、としている事。ま、これは、ドッグヴィルの精神的な主導者であろうと欲している「トーマス・エディソン」君の意志でもあるのだけれども、その「善」を成す、良い契機が、グレースという部外者の闖入。だから、グレースという存在は、最初っから「契機」でしかないのだね。

 で、このスタート時点で、ドッグヴィルの住民がグレースを村で匿うに対して要求する見返りは、要求というにはあまりにささやかなもの。「やってもらう必要はないけれども、そういう事をやってくれれば助かるような事柄」を、グレースにやってもらう事にする。

 このスタート時点でのドッグヴィル村民(というか、トーマスの考え)は、『こちらはあなたの存在を契機として「善なる事柄」を遂行したい。それと等価な「善」として、私達はあなた(グレース)に、「やってもらう必要は特にないけれども、そういう事をやってくれれば助かるような事柄」を期待するのがバランスが取れているのではないでしょうかね?』、みたいな感じ? ま、ここで一つ大きなごまかしがあるんだけど、たしかにアメリカという国は、そういう事を他の国に要求しているようなフシはある。これは何なのか。

 私達は「善」である。それは私達がその「善」ゆえに庇護してあげられる存在、そういう「他者」が存在しているゆえに証明する事が出来る。ドッグヴィルの住民が「善」である事を証明するための手段として、他者であるグレースは利用されている。しょっぱなから対等な関係(契約)など結ばれてはいないのだ。

 例えば、かつて大昔に「We are the World」というチャリティ・ソング(?)が大ヒットした事がある。確かこの曲を作ったのはライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンで、唄っていたのは、作者を含む、ノーギャラで参加した当時のビッグネーム(セレブ)たち。ボブ・ディランまで参加していたのは驚きだったけど、このレコードでは、彼らのアーティスト名は「U.S.A. for Africa」というものだった。この映画は、今思い出してもこっけいな、この「We are the World」欺瞞劇の構造をちょっと思い出させてくれる。このタイトルを並べて読むだけで、彼らが言いたかった事は、実によく解るのだね。「アフリカのためのアメリカ合衆国*2」と名乗る歌手たちが、「私たちが世界だ」というタイトルの曲を唄っていたわけだ。しかも、確かこの曲の内容は、「世界の片隅に暗い所がある。私たちの力で明るくしよう」ってな事だったよね。この曲の作られた背景には、当時のエチオピアの飢餓問題などがあったんだけど、このちょっと後には、アメリカはそのアフリカにあるリビア(カダフィ大佐)に対して空爆、経済措置をとることになるわけだけど、その見事なまでの応援歌としても機能していたのがこの唄。爆弾で明るくしようと。

 話題が古臭くてアレだけれど、アメリカの現在の南北問題への姿勢は、このあたりから顕わになって来ているのだろうし、この作品のように、結果として「安い労働力」に依存するような体制に移行した面もあるだろう。

 ま、こういった面を、ラース・フォン・トリアーのアメリカ批判の一面と捉えて見てみたけれど、善行の契機として他者を捉え、他者の主体への想像力が欠如した行為は、やはり「偽善」と呼ばれてしかるべきものだろう。結果としてその行為は他者を隷属させ、他者を搾取する目的に貶める事になるだろう。

 いったいなぜこんな事になってしまうのか。ドッグヴィルの住民は、トーマスは、いったいどこで躓いてしまったのだろう。

 単純に言ってしまえば、この作品でのドッグヴィルの住民に欠けているのは、『倫理』なのではないだろうか。ラース・フォン・トリアーはカトリック的な視点からこの作品を組み立てているのではないかと思えるが、ちょっと私には手に負えない問題なので、そのあたりへの考察はパスしておいて。

 で、作品ラストでグレースの導き出した結論があまりにベタすぎるので、この作品は大いに誤解されてしまうのではないかという危惧もあるけれども、(『倫理』の欠如)への対処として、その責任のとり方、とらせ方には、全面賛成ではないのだが納得がいく部分もある。

 『倫理』について考えをめぐらせるのは観客の一人一人であり、私はここで牧師めいた説教を繰り広げようとは思っていないので、この『ドッグヴィル』についての文章は、ここで終わらせる。何かのついでにまたひょこっと書いてみることもあるだろうけれど。

*1:アンソニー・ドッド・マンデル=『ジュリアン』などを撮影している、基本的に「ドグマ95」畑の人らしい。手持ちだけどカメラを振り回したりせず、心理的な奥行きのあるデリケートな撮影だと思った。

*2:「U.S.A.」という略語に関しては、これは「アメリカ合衆国」ではなく、「United ??? Artists」の略だと言う事だった記憶があるけれど、字面として「U.S.A.」である事にはかわりはない。というか、そこにこそポイントがある。

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■ 2004-04-11(Sun) 谷中散策 このエントリーを含むブックマーク

 日曜日。暖かい。

 2時頃まで、最近又映りが良くなったTVを見て、その後団子坂の鴎外記念図書館へ。このあいだお会いしたMさんが、先日初めて千駄木の駅で降りたらしく、根津の駅よりずぅっと開けているんだねぇ、って驚いていたけれど、そうか、言われてみればねぇ。同じような地形の同じような立地条件の駅だよなと思っていたけど。根津はちょっと裏通りが面白い。千駄木はだいたい全部表に出てる。そんな感じかな。でも、団子坂の所にあったジャズのライヴをやる店が消えてしまっていた。

 昔一度読んでるけど、ナボコフの『ベンドシニスター』を借りた。だいぶ改訳訂正されているようだし。あとは鈴木清順の『花地獄』と言うエッセイ集と、宮沢章夫の『サーチエンジン・システムクラッシュ』。

 CDは、Velvet Undergroundの1stのデラックス・エディション2枚組、ミンガスの「Mingus Presents Mingus」(愛聴盤だったけど)、James Blood Ulmerの「are you glad to be in america?」(ううん、今現在も刺激的なタイトルだなぁ)、クレイジーケンバンドの「777」(まぁいいじゃないの)の4枚。

 帰りは三崎通りを登って、谷中墓地の中を通って。三崎通りの上に新しい蕎麦屋が出来ていた。ちょっと入ってみようか迷ったけれど、又今度ね。谷中墓地の桜はもうおしまい。最後に残されたわずかな花が風に散らされて、時々私の顔の前を過って行く。その後に残された赤い萼と新らしい黄緑の葉とが独特の雰囲気で、これは又花の満開の時とは違った趣。

 朝倉彫塑館の近くに来たら、すれ違ったバンがクラクション鳴らしてる。「オイオイ、オレだよ」って挨拶みたいだけど、私の知り合いで車を運転していて私とすれ違うような人はいないはずなので、ぜったい私ではないだろうと、通り過ぎようとする。バン、私の後ろで停車して、運転してる人がこっち見てる。あ、なんだ、Jonny Walkerさんではないか。彼には去年の暮れも押し迫った頃に谷中銀座で遇ってるし、けっこう谷中ファンなんだな。あわてて運転席の側に回っていって挨拶して、「今日、どうしたの?」って聞いたら、「ウン、今日はネ、今来てるアーティストを朝倉彫塑館に連れて来てあげたのヨ。ハイ、こちらチャップマンさん、こちらが奥さんネ。今水戸で展覧会やってるから見てネ」と、同乗者を紹介された。

 え??? チャップマン??? 水戸??? それって、ジェイク&ディノス・チャップマン??? ウソ!!! って、ここで人違いしたら申し訳ないから、「え? あのチャップマンさんですか?」と聞くのとかやめにして、「ハーイ! 私も水戸に見に行きますよォ!」って挨拶して別れたけど、ウチに帰って調べたら、やっぱそのチャップマンさん達だったヨ。おぉぉ〜う!‥‥もうちと過剰反応しておけばよかったな。「オウ! ミスター・コサカ、チャップマン知らない。不勉強。ダメだネェ」とか思われたりして。

 でも、Johnnyさんえらいな。人はいろんな事言うけれど、やはり海外から来たアーティストとかの日常をしっかりフォローしてあげられる人って、大事だと思う。彼が昔やっていたみたいな、パーティー攻めの連続のようなもてなし方よりも、今のようなフォローの方がイイと思うな。あの頃はJohnnyさんも主役になりたかったんだよね。

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■ 2004-04-01(Thu) 春だから本でも読んでみよう

 今日は、誰が一番大きなウソをつけるかというのをネット上で競い合う日なんだけど、私にとってはウソをつくと言う事はやってはいけない悪徳なのだ。だから私にはウソは書けない。

 ダメだよ、笑っちゃ。

 最近はこれまでになく本を読んでるなぁ。と言っても1週間に1冊ぐらいだけど。基本的には図書館で借りた本。

[]柄谷行人『倫理21』。 柄谷行人『倫理21』。を含むブックマーク

 これには刺激を受けたなぁ。ずっと漠然と疑問に思っていた事の答えが突然に現れた、と言う感じでもあって、しかもこの文章の平易さはすばらしいな。また読み直してみたい。カントとかもう自分の世界からオミットしていたし。

[]A・E・ホッチャー『涙が流れるままに−ローリング・ストーンズと60年代の死−』。 A・E・ホッチャー『涙が流れるままに−ローリング・ストーンズと60年代の死−』。を含むブックマーク

 これは先週古本屋でかなり安い値段で買った。60年代の精神をブライアン・ジョーンズに託し、彼の死とオルタモントの悲劇をもって60年代のスピリットの死と捉える、多くの人物へのインタビューを交えたドキュメンタリー。筆者は60年代にどっぷりだった同世代の人なのかと思ったら、1920年生まれの人。この本が出版された時には70歳だよ。ミック・ジャガーに対して、私怨ではないかと思うほど「60年代の精神を裏切った人物」として告発している。面白かった。あ、ブライアン・ジョーンズの死は、彼の家に出入りしていた改装工事の使用人による殺人だったということだ。ミックが裏の犯人だと言う説も聞いた事はあるが。

[]阿部和重『ニッポニア・ニッポン』。 阿部和重『ニッポニア・ニッポン』。を含むブックマーク

 あきらかに2000年代での大江健三郎の『セヴンティーン』の位置をとる作品だと思う。性的抑圧が(政治)行動に代替されて行く。「引きこもり」はこの作品ではあまり関係ない。サーチエンジン検索からのみ世界認識を拡げて行けるのではないかという実験でもあり、大きな勘違いが実は象徴的に的を得た認識でもあった。ここでの「鴇」はもちろんもちろん天皇家へのアナロジーなのだが、主人公にはその認識はない。最後の、少女への行き場を見失った心情吐露は哀しい。

 しかし、なぜQueenの「Bohemian Rhapsody」なのか。小説の主題はすでにほとんどポップソングに取り上げられてしまっているのだ、という認識を示すためなのか。村上春樹への嫌味(彼の作品の多くがポップソングからタイトルをとっている)からか。

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