ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-05-30(Sun)

[]ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス『アメリア』
    振付・監督:エドゥアール・ロック at カナダ大使館 ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス『アメリア』    振付・監督:エドゥアール・ロック at カナダ大使館を含むブックマーク

 

 この『アメリア』の舞台版は関東では6月16日から上演されるわけなんだけど、それに先立って、このフィルム版の無料上映会が開かれた。
 こういうケースってきわめてめずらしい、というか、普通は舞台が終了してから上映されるのではないかと思うけど、とりあえずうれしい上映会ではあった。

 とにかく、前回の来日公演『SALT』が、あまりにも面白みに欠けた、というか、とにかくルイーズ・ルカヴァリエの引退と共に、このカンパニーも力を失ってしまったのではないかとまで想像されてしまい、以後の活動にもうあんまり期待も持てない気がしてしまったわたしではあったね。

 だから、今回の5年ぶりの来日も、ちょっとパスするつもりでいた。ピナ・バウシュの公演とも時期的に重なってるし、財布がね‥‥。

 どうも、今回の来日に関してはわたしのように考えていた方もかなりいらっしゃったようで、そういう人間にとって、今回のフィルム上映会は、来るべき舞台の内容を把握するいい機会だと思ったのね。とにかくフィルム見ておけば、予想通りの出来だったりしたら「あ、やっぱもうパワーがなくなったんだね」とかの判断もつくだろうし、もしもそれで見る価値あり、と思ったら本公演のチケット買えばいい、と。

 ま、そんな気持ちで今回の上映会に足を運んだんだけど、


 このフィルム版はもちろん舞台をそのまま記録したのではなく、床、そして壁の四方を白木で張り埋め尽くし、床と壁ともスロープでつないだ、特殊な正方形のスタジオのような部屋の中を使って撮影されている。ここでカメラがそのスタジオの真上から撮ったり、ダンサーの皮膚の毛穴まで識別できるほどダンサーに近寄ったり、その視点をあちこちに移動させる。照明もかなりいろんな角度からさまざまな方法で投射させているし、舞台とは別の意思で作られているのは明白(チラシによれば、舞台版ではスクリーンにエドゥアール・ロック自身の作になる3Dアニメーションが投影されるらしいよ)。振付に関してはその舞台版「アメリア」から持ってこられているのは当然なんだけど、このフィルム版は60分。で、舞台版には、このフィルム版に使われなかったシーンが45分ほどあるということだ。ま、そんな概観の作品なんだけど。

 ‥‥フィルムを見終わって。

 わたし、舞台も見に行きますよ。チケットこれから買わなくっちゃ。

 とにかく、前作『SALT』を引き継いだ、女性のポアントを男性が補助して、より高速化して回転させるようなシーン(要するにコマ回しみたいなの)もいっぱいあって、『SALT』の続編、という印象もあるのだけど、ただ芸もなくくるくる回りつづけていたような印象しか残っていない『SALT』に比べると、あれはこの新作のためのリハーサルだったのだろうと思うぐらいに完成度が違う。それはおそらく、男性ダンサーに対する振付けが変わって来ているのではないのかな?という印象。どうも『SALT』では、男性は女性ダンサーのサポートに徹していたような記憶があるのだけど、今回は、なんか、ぴしっと男と女のデュオ・ダンスとして見ごたえがある。

 それに、このカンパニーの魅力の一つに、スーツに白シャツ姿の男性ダンサーのダンスのカッコよさっていうのもあると思うんだけど、そのあたりも舞台でも堪能できそうだ。ま、お得意の、顔の側面を手のひらでなで上げるようなポーズもまたたっぷりと見る事出来るし、そういう意味では昔のやさぐれたスピード感がまた戻って来た、という感じだろうか。イケ面の男性ダンサーもいたので、女性ファンが放っておかないかも。

 あ、気になる音楽の事だけど、作曲のデヴィッド・ラングの曲は、全体に室内楽風の美しい曲なんだけど、そこにルー・リードの詩を歌う女性ヴォーカル(デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』で唄ってたジュリー・クルーズみたいな感じ?)がかぶさってくるところはちょっとアヴァン・ポップ風。で、そのルー・リードの詩、なんだけど、これがなんとVelvet Undergroundのファーストの曲の詩に別の曲をのっけた、というシロモノだったヨ。フィルム版では「I'll Be Your Mirror」、「Sunday Morning」と「All Tomorrow's Party」が使われていた。つまり、Nicoが唄っていた曲。

 うぅ、さいたま公演が楽しみになってしまった。

[]五反田団『おやすまなさい』(作・演出:前田司郎) 五反田団『おやすまなさい』(作・演出:前田司郎)を含むブックマーク

 以前この『おやすまなさい』の女×女ヴァージョンを見て、ま、ちょっと『やっぱり猫が好き』的な面白さがあったので、男×女だとどうなるのか、興味津々でのぞいてみたのだ。

 ‥‥女×女ヴァージョンとまったく同じ演出だった(怒)。しかも演じる男優(演出者の前田司郎)の演技が、要するに女×女ヴァージョンと同じにやってるから、くねくねと気持ち悪い事甚だしい。これは演技上のポリシーでも何でもなくって、都合上そうしているだけだから始末に負えない。で、その上に、セリフの途中で笑いを含ませるように「h」とか「n」とか音節をはさみ込むのも耳障りで、途中何度も席を立とうと思ったけれど‥‥。チラシの字がヘタだけならまだ許せるけれどな。

chelfitschchelfitsch 2004/06/21 08:51 こんにちは。僕もあのヴォーカルはジュリー・クルーズみたいだと思って見てました。

crosstalkcrosstalk 2004/06/24 19:47 あ、先日はどうもです。ね?やっぱそうですよね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040530

■ 2004-05-28(Fri)

[]『身体へ浸透する美術:パフォーマンス アートの30年、ニューヨークの視座から』
     講演:ローズリー・ゴールドバーグ 進行:木幡和枝
     at 東京芸術大学美術学部講義室 『身体へ浸透する美術:パフォーマンス アートの30年、ニューヨークの視座から』     講演:ローズリー・ゴールドバーグ 進行:木幡和枝     at 東京芸術大学美術学部講義室を含むブックマーク

 Kitchenの初代キュレーターでもあった、ローズリー・ゴールドバーグによる講演ツアーの最終回。どうでもいいことだが、(おそらく同一内容で)森美術館で行われた講演会は有料だったらしい。どうでもいいことだが、今回は一般に公開された無料講演会である。

 で、生まれて初めて、「同時通訳機」というヤツを渡される。Macに取り込まれた映像/音声を、プロジェクター/スピーカーを介して会場に流し、ローズリー・ゴールドバーグはまったくブレイクを入れずに講演を進め、その内容を木幡和枝が同時通訳する。おそらくはこのシステムで何度も講演して来ているのだろうから、実に流暢である(ただし、途中でMacの調子が悪くなって一時中断はあったけれど)。

 先に知っていた情報でも、当日受け取ったインフォメーションでも、『パフォーマンスアートの30年』となっていたが、会場に映された映像の出だしは「100 years of Performance Art」となっていて、その内容も、「未来派」のパフォーマンスの紹介から始まる、20世紀の通史、であった。

 先に個人的な事を書いておくと、わたしの英語能力はものすごっくおぼつかない。6〜7年前にヨーロッパに5週間程滞在した時には、いやおうなく全ての会話を英語で通し、その旅の終わりの頃には「英語でモノを考えるとはこういう事か」という境地に差し掛かった事もあるけれど、それ以来、カラオケで英語の歌を歌う時ぐらいしか英語は使っていないし、英語圏の映画を見ても、まず字幕をあてにしてしまう事もあって、何を言っているのか、本当に断片的にしかわからない。

 で、「同時通訳機」だが、左耳にそのイアーフォンをあて、木幡さんの声を聴き、右耳からローズリー・ゴールドバーグのしゃべる英語を同時に耳にすると、もう英語の方はほぼ完全にわたしの頭がオミットしてしまう。雑音としか聞こえない。この体験はちょっと面白かった。

 ところが、わたしが借りたその「同時通訳機」、講演が始まって30分ぐらいでバッテリーが切れてしまったのだな。あとはもうわたしの英語力だけが頼り。日常会話程度なら何とかついていけるけど、専門用語の飛び交うレクチャーを聴き取るには相当力不足。だから要点はことごとく聴き逃しているだろうけれど、映像などでは初めて眼にするような素材が多く、それだけでも楽しめた。そういう地点からの感想。ゴールドバーグ自身も、ここで紹介するのは20世紀の膨大な作品の中から、一面的な見方での紹介に過ぎないから絶対視しないでほしい、みたいなことを言っていたような(???)気がするから、ま、気ままな気持ちで。


 まずは、20世紀の美術が、実はパフォーマンスが先行した世紀ではなかったかという問いかけ。未来派やダダイズムは言うに及ばず、マニフェスト(こういう言葉を今さら政治的に流行させてほしくないのだけど)が先行したシュルレアリスム、さらに抽象表現主義をも含めて、「まずはパフォーマンスありき」ではなかったか? これは近年のシンディ・シャーマンやマシュー・バーニーまで含めて。そして、フィリップ・グラスにせよ、スティーヴ・ライヒにせよ、そのスタートが「パフォーマンスとしてのアートの舞台」から始まっているとの指摘。

 で、このような視点から、『未来派宣言』が、その発表からわずか3週間というタイムラグ(というより、同時性)で日本で翻訳発表された事なども踏まえ、村山知義や「マヴォ」の運動が評価紹介され、「具体」の村上三郎や、(ちょっとあいだがぬけるけれど)森村泰昌の活動が紹介される(オノ・ヨーコの1965年のパフォーマンス、「Cut Piece」のヴィデオも流されるけれど、彼女は「亡命者」だからね)。

 ま、この講演が日本で行われる事を前提としているのであるから日本のマテリアルを、と探索した結果なのかも知らないけれど、表現が貧弱であれば、写される映像にその弱さも露呈してくるだろう。わたしは本当に不勉強な人間だから、村山知義が屋外で行った公演の写真などは初めて見たりしたんだけど、なんかこう、スコーンと抜けちゃっているような強さがある。

 個人的には、日本の現代美術のことに考えをめぐらしてみたりする事が多くって、例えば今、この芸大の美術館と木場の現代美術館で開催されている『再考:近代日本の美術』(タイトル間違えてるかも知れない)など気になっていて、ま、西欧近代の歴史性の中に参入する事を絶望的に希求しながら、椹木野衣の言う「悪い場所」の「閉じられた円環」という呪縛から逃れられない「日本」の「現代」の「美術」。このような「場」の中でいったいどのようにして主体性を獲得すればよいのか。これは美術作家(と呼ばれたいと思っているらしいよ、ワタシ。)としてのわたしの、それこそ一番の主題ではあるのよ。このくらいの認識はたいていの美術作家は認識しているわけだけど*1、そういう事で、先日わたしの知っている批評書いてらっしゃる方が、彼のホームページのご自分の日記に、先にあげた『再考:近代日本の美術』展を『ONO YOKO展』と比較されて、日本の美術総体が西欧追従に過ぎない「粗大ゴミ」だ、と切り捨てられた事に、深い怒りを感じているのだ。「再考」してほしいのだな。

 とは言え、わたしはこのような講演会で海外の講演者が日本の表現を持ち上げてくれた事を素朴に喜んでいるわけではない。そうではなく、こと日本の事はちょっと置いておいて、「正史」としての西欧の20世紀とは、はたしてどのようなモノであったのか、というヒントが、この講演会にはいっぱい詰められていたと思うのだ。つまり、西欧とはどのような場たり得るのか。

 この講演の終盤の木幡和枝とローズリー・ゴールドバーグの対談で、木幡和枝の「これからのアート・パフォーマンスの主題はどのようなモノになっていくと思うか?」との問いに、ローズリー・ゴールドバーグは、「より政治的なモノになるだろう」と答えていたが、う〜ん、わたしの苦手なテーマだなぁ。でも、確かにそうなって行くのだろう。

 そういう意味で、ローリー・アンダーソンが、「9.11」のわずか10日後のライヴで、それまでずっと封印して来た「O SUPERMAN」*2を、実にン十年ぶりに舞台で歌った、そのライヴの冒頭の、短い(実に短い)映像を見る事が出来たのが、今日の一番の収穫だったかもしれない。

 あと、パフォーマンスの記録としての写真の問題など、興味深い話題はいろいろとあったようだけど、とにかくちゃんと聴き取れていないのだから、墓穴を掘るのはやめて置こう。


 ‥‥しかし、講演会の最後、好例の質疑応答、すごかったな。「某SONYの社員」と自己紹介した英語しゃべる男が、「ロボットとパフォーマンス(というよりダンス)の可能性」についての質問をする。そういった「企業戦士」という立場で、こういうパブリックな講演会で、企業のバックアップを臭わせた設問をするのはルール違反、というか、「今すぐここから出て行け!」と言いたかったな。木幡さんの応対はミゴトだったと思う。英語だったからよくわからないけど。で、最後の質問も、また村上隆ネタ。「コスプレがアートと認定されずに、村上隆がアートなのはなぜか」って。コスプレをアートの舞台に持ち上げようとかの戦略も持ち合わせていないくせに、よくそんな設問ができるよな。これは今の美術志向のやつらの悪いクセで、一夜明けたらそれまで自分が興味を持っていたサブカル的な現象が「アート」と認定されてしまっている事を夢見ているだけ。で、「わたしもそれって昔ッから興味あったのよ」って参入しようとする。自分で方策を練って戦略作れよ。

 あ、オヤジが若いコを叱りつけるような口調になってしまった。そんなわたしって何者だよ。

*1:わたしが「crosstalk」というイヴェントを立ち上げたのも、このような認識と深くつながっているのです

*2:わたし、このシングル盤持ってます

kijiqkijiq 2004/05/28 23:56 あれ。行かれたのですね。自分はチラシ配りに行ってました。ソニー戦士、責めないでくださいな。仲良くなったし。

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 00:09 あ、はじめまして。読ませていただいてます。って、チラシという事は、霜田さん関係のお方なんですか??? 黒田さんも来られてましたが(いや、入り口で黒田さんとお会いして一緒に会場を探したんですけど)。これからもよろしくです。

kijiqkijiq 2004/05/29 00:11 霜田さんとさっきまで茶しとりました。私は仕事で途中から入ったのですが、そうですか、ニアミスですね。黒田さん、生きた芸術作品ですよね。

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 00:39 馬六明のパフォーマンスの事とか、読ませてもらいました。今日の講演でも、マリーナ・アブラノビッチがそういうパフォーマンスをやって、相当ヤバい状況になってしまった事など、ちょっと紹介されてましたね。西欧人は節度というモノを知らんようですな。

H-WORKSH-WORKS 2004/05/29 01:05 お邪魔します。行きたくていけなかった者です。NIPAF関係の方がだいぶ絡んだ企画だったのですかね。レポありがたいです!

crosstalkcrosstalk 2004/05/29 01:23 H-WORKSさん、はじめまして。(こんなに忙しいのも始めてだな。)いえいえ、NIPAF組は便乗して宣伝しただけですよ(と、いきなりkijiqさんを激怒させてみる試み)。‥‥25時を過ぎると自分の発言に責任が持てなくなって来ますが、失礼をばお許し下さい。しつれい。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040528

■ 2004-05-26(Wed)

[]『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー監督) 『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー監督)を含むブックマーク

 ま、サラ・ポーリーね。この作品のプロモーションでのインタヴューで、「この世で一番恐いモノは?」という、記者からの質問に対して、「ジョージ・ブッシュね!」と答えたと言う話を伝え聞いて、その御祝儀で見に行った。

 いや、わたしはジョージ・A・ロメロの『ゾンビ(Dawn Of The Dead)』も見ていないんで、このリメイク作品がいったいどこまで旧作のコンセプトを引きずっているのかとかまったく知らないのだけれども、このザック・スナイダー版での振幅の幅の豊かさは楽しめた。とにかく、冒頭は、9.11以降こんな視点でよく企画が通ったなぁって危うさ満点、で、これって、黒沢清の『回路』ではないか。ラストの「船」にしたってそうだし、この監督はジョージ・A・ロメロはもちろん規範にしているだろうけれど、それ以上に黒沢清の『CURE』、『カリスマ』、『回路』を規範にしているね。ま、個人の崩壊と世界の崩壊を同期させるようなエグい展開こそ、この映画では露骨な採用はしていないけれど、世界の崩壊は、実はヒトの身体(=精神/または精神の不在)から始まる。つまり、内面的な問題なのだよ、という恐ろしさが、100分間持続する。とにかくそれは、「病」の旧時代的なロマンティックな隠喩としての「白血病」という病などという陳腐な題材からスタートする『世界の中心で、愛をさけぶ』などという、そのシノプシスだけで避けて通りたくなるようなシロモノとの距離はあまりにも大きい。

 とにかく、この2004年という時点で、AIDSとかの病、または、テロリズムの暗喩としての「ゾンビ」という存在が、より切迫した実在感を増してしまった、という事を考えてみよう。だからこそ、この悪夢のようなラストから、観客であるわたしは眼をそむけることが出来ないのだ(おそらくこの映画のエンディングのクレジット*1の途中で席を立ってしまう観客はそんなにいないだろう。このラストの回収の仕方は実に見事だ)。そうすると、黒沢清が提起している問題がいかにわたしなどに切迫した問題なのか、と言う事にもなるし、冒頭にあげたサラ・ポーリーのインタヴューの答えが、いかに的を得ているか、と言う事にもなる。マイケル・ムーアなどの展開するちゃちなプロパガンダ映像(もちろんわたしはマイケル・ムーアの新作を見てはいないが、『ロジャー・アンド・ミー』、『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見てしまったあとでは、彼の新作など見る必要はまったくないのだ)の裏で、真摯なドラマ作品として世界を悪夢と捉える試みが、日本でもアメリカでも進行している。

 サラ・ポーリーのプロダクション能力は、一目に値するかも知れない。

*1:カイル・クーパーのデザインらしい

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040526

■ 2004-05-25(Tue)

[]『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督) 『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)を含むブックマーク

   シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組) [DVD]

 ‥‥ブラジル映画といえばグラウベル・ローシャ! そんな古い世代のわたしが、ン十年ぶりに見るブラジル映画。とにかく、冒頭のひとくせもふたくせもある疾走感あふれる凝りまくった強烈な映像には「おぉ!」と歓声をあげてしまい、さすがはグラウベル・ローシャの国、と期待を持たせられたのだけど‥‥。

 方法論は深作欣二の『仁義なき戦い』と同じ。出来はその『仁義なき戦い』にはるかに劣る。なぜ出来損ないなのか。ひとつには、この作品には善悪の二元論が色濃く影をおとしているけれど、その「善」なる視点がア・プリオリにスクリーンの外に置かれている。つまり、観客の視線に委ねられているのだ。そして(これはつながってくる問題ではあるが)、決定的な問題として、この作品には、深作欣二の作品にあった「どうして俺たちはこんなふうになってしまったのか」という、歴史に問いかけるような視点が決定的に欠けているのだと思う。これは、わたしのような観客がブラジルの現代史に明るくないためだ、とかいうのではなく、この作品の中で20年近い歳月が描かれているにもかかわらず、ブラジルの現代史を照射するような視点に決定的に欠けているためだろう。グラウベル・ローシャの作品を見れば、その差異は歴然とするだろう。例えば『アントニオ・ダス・モルテス』(いや、これらグラウベル・ローシャの作品は皆あまりに強烈すぎる)。


 時代を透徹する視点を持たない再現ドラマには興味はない。

[]『富江re-birth』(清水崇監督) 『富江re-birth』(清水崇監督)を含むブックマーク


   (あ、画像がない)

 また見ちゃった。「富江」シリーズ。これまた前半はちっともホラーではない。

 この「富江」とは、ファム・ファタールではない。「富江」とは、ほぼ全ての男性の欲望から産み出された、フェロモンの化身のような「病」なのだろう。そういう視点から、前半の、登場する男性の母親まで巻き込んでの、喜劇的なフェロモン合戦はわからないでもないけれども、題材がちと監督の手に負えない所に行ってしまった気もする。で、「富江」役の酒井美紀ってえのが、嫌いではないけれど、「富江」としてはどうかな、と。

 しかしながら、終盤の20分程は面白かったね。というのも、遠藤久美子が、恐いんだもん。ラストのSFXも効果的に恐かった。で、確信犯的に最後に花束を投げる女性が、また感染していく。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040525

■ 2004-05-23(Sun)

[] UA at 渋谷公会堂  UA at 渋谷公会堂を含むブックマーク

 UAのアルバムとか持っているわけではないのだけれど、ちょっとこの人のライヴは前から気にかかる所があったので、友だちと行って来た。その、気にかかる、というのは、例えば今回のサポートミュージシャンの名前から見てとることもできる。こんなメンバー。

Guitar:内橋和久
Bass:鈴木正人
Drums:外山明
Sax:菊池成孔
Trumpet:佐々木史朗
Keyboard/Clarinet:清水一登

 とにかく、その新譜が発売されればCDショップの店頭にずらりと並んでしまう、そんな人気アーティストのバックミュージシャンにこんな名前が並んでしまうのにはちょっと驚いてしまう。いや、実は彼女のCDを持っているわけではないので、レコーディングの際のミュージシャンとどのくらいかぶっているのか、今のわたしに確かめる術はないのだけど、去年の彼女のツアーではチェロの坂本弘道さんも参加されていた事など考えると、レコーディングとは別のコンセプトでライヴ・ツアー用のミュージシャンを選択しているのではないだろうか。

 菊池成孔や外山明は、この種のセッションにもよく顔を出す(というか、どこにでも出て来る)人たちだから、何げに納得も出来るけれど、Ground Zeroのメンバーであり、『維新派』の音楽を毎回担当されている内橋和久、Areposなどで、地味ながら息の長い活動を続けておられる清水一登の起用など、わたしにはうれしい限りの人選だ。

 舞台は、床からバックにかけて、撮影所のホリゾントのような形で、真っ白にスクリーン(?)がセットされている。で、ここに、曲によってはプロジェクターからアニメのような映像が映写されるのだけど、3曲目ぐらいに『情熱』が歌われた時、このスクリーンに映写された映像が、先日イメージフォーラム・フェスティヴァルのロビーで見た石田尚志の作品だったのにはびっくりした。他の作品に見覚えのある作家の作品を特定する事は出来なかったけれども、おそらくはどれも活動中の映像作家の作品を映写していたのだろう。

 バックミュージシャンの選択といい、映像の選択といい、このツアーのディレクションはどのようになされているのだろうか。そんな興味が拡がってしまうのだけれども、当然UA自身の意向も反影されているのだろうし、それをサポートするスタッフも存在するのだろう。なるほど、ポップのフィールドの歌手のライヴとしては極めて異例な(といって、他のポップな歌手のライヴを見ているわけではないけれど)、じつに興味深いライヴではあった。

 舞台装置に合わせた白い衣装で現れたUAは、バックの音に声で対抗して一つのトータルなサウンドを産み出そうとしているみたいだ。このメンバーでの音はフュージョンを思わせるモノで、わたしなどはチック・コリアのバンドの音などを思い浮かべてしまったけれど、どの曲もCDとは異なったライヴ用の編曲がなされていた事は言うまでもない。

 このライヴの前半では、そのUAの声と自己主張の強いバックの音とが、今一つ噛み合っていなかった気もするのだが、ミュージシャンが曲ごとに一人ずつ舞台を去り、ギターとリズムセクションになってしまったあと、再びミュージシャンが全員勢ぞろいしてからの後半には先の不安はすっかり消え去り、実に素晴らしいライヴが繰り広げられた。時にブラジル、時に沖縄とその色彩を変える亜熱帯的な音世界の2時間近い展開を堪能。そのラストは管楽器3本だけをバックに、昔のビョークの音を思い出させる静かな熱のこもった歌唱で終わる。わたしの希望として、いつまでもこの路線で活動してほしい。また機会があれば彼女のライヴを体験してみたい。‥‥はだしのディーヴァ、ね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040523

■ 2004-05-21(Fri)

[]『一瞬の夢』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督 『一瞬の夢』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督を含むブックマーク

   一瞬の夢 [DVD]

 ‥‥まいったな。ノックアウトされた。こんなすばらしいデビュー作というものが存在したんだ。ジャ・ジャンクー。

 『プラットホーム』にも出演していた王宏偉(ワン・ホンウェイ)が、この作品でも主役を演じている。この男、およそスターらしい容貌からかけはなれた、どこにでもいるような地味な容姿の持ち主なのだけれど、この『一瞬の夢』の中で、その姿と演技とは、わたしに若き日の長門裕之を、時には佐野史郎をも思い起こさせる。どこか社会から外れていて、隠されたナイーヴさを秘めているような。このDVDのジャケットに使われている長回しの場面がすばらしいんだな。なんてみずみずしいんだろう。

 で、この作品でも、『プラットホーム』と同じく、ジャ・ジャンクーの出身地だという汾陽(フェンヤン)という町が舞台に選ばれている。同じ町を選びながらも、これだけ異なる社会を描き分けられるというのも面白いけれど、とにかく、『プラットホームにしても、この『一瞬の夢』にしても、その背景となる土地が、眼の前にはっきりとした姿で浮かび上がってくる。

 一つ残念な事があって、ジャ・ジャンクーの作品ではどれも、町内放送(?)やTV、ラジオなどから伝えられるニュースなどの音声が背景として意味を持ってくるんだけど、この『一瞬の夢』では、そのような音声に対して最小限の字幕しかつかなかった事。

[]『富江』(及川中監督) 『富江』(及川中監督)を含むブックマーク

   富江 [DVD]

 及川中監督の『日本製少年』は、ちょっといい映画だった。でも、この監督の他の作品は今まで見た事がなかった。この『富江』がその及川中監督の作品だと知ったのは、ヴィデオ屋でこのヴィデオのパッケージを手にした時。

 ま、この作品を見ようと思ったのに深い理由はない。つまり、先日古本屋で伊藤潤二の原作マンガを買って、読んだからなんだけどね。で、わたしはもう「ホラー映画」を見るつもりでこのヴィデオを見てしまったので、失敗してしまった。及川中監督は、この『富江』を、ジャンル映画としてのホラー作品にしようと思って作っていないんだから。おそらく、普通の青春ドラマの展開の中から、ジャンルとして定着してしまった「ホラー映画」とは違うタイプの怖い作品を作るつもりだったんじゃないのかな。

 ん? それって、ブライアン・デ・パルマの『キャリー』の方法論か。

 ‥‥とにかく、それにしてもドラマとしての展開がまるで面白くなかったんだな。怖いとか以前の問題。わたしには。それは多分、ホラー映画として伊藤潤二的な世界を期待していたわたしの見る姿勢がいけなかったんだけど、まずは、洞口依子が、黒沢清の『CURE』とまったく同じような役で登場したあたりで、ちょっと見る気力がそがれてしまった。洞口依子は好きなんだけどね。で、このあたりの、田口トモロヲまでも登場してのこの二人のやりとりが、中村麻美とか草野康太の出ているドラマの部分と全然かみ合ってこない。いい役者が出ているのにね。途中で、見る集中力がどこかに失せてしまいました。ラストはどうなったのか知りません。どうせ富江はまた増殖するんだから。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040521

■ 2004-05-19(Wed)

[]『河』蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督 『河』蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督を含むブックマーク

 昔、どこかで、「嘔吐シーンをことさらに描写する映画にはアート志向があるのだ」という一文を読んだ記憶がある。戯れ文である事は確かだけれど、これはこれで的を得ていて面白いトコもある。では、そういう文脈で捉えて、「放尿シーン」をことさらに描写する映画も、やはりアート志向なのだろうか。

 むむ、この分野には、「つれション」という伝統文化があり、男と男が友情を確かめ合ったり、だいじなメッセージを伝えたりする時にシーンとしてはさみ込みやすいせいか、娯楽映画だろ?というような作品でも、そういう場面はかなりの頻度で出てくる。

 しかし、オヤジが一人、トイレで長々と放尿しているシーンをいつまでも見せられると、「ムム、アート志向?」と思わざるを得ない。ついでにそのオヤジが一人で黙々とメシを食べてるトコまで延々と見させられると、いっそうにその思いは強くなり、これは、「人の肉体なんて、モノを食べて排泄するだけの肉の袋にすぎないんだ」ということを観客に伝えようとしているに違いない、などと深読みをしてしまいそうになる。

 ‥‥ツァイ・ミンリャンの作品は、どうも好きになれない。それは、一つには、そうやって映像の端端までを「これはアートなのだから」という注釈を伴わせながら見てしまう事。というか、この監督は、そのように(アートとして)見てもらいたくって映像をひねり出しているとしか思えないのだ。じゃあ、実験映像とかの分野からの参入組?などと見てみても、特にそのような見方をして注目に値するような映像と言うわけでもない。ある意味では見飽きてしまった映像世界でもある。「これはアート表現なんだから」という監督のてらいだけが、画面上に怨霊のように浮遊しつづける。


 この『河』という作品、さっきもちょっと触れたけれど、「肉体論〜身体論の表現」として了解され得る部分もある。で、ここで提示されるのは、西欧的な意味での健全な身体から距離をおいた、奇矯さとしての異文化の身体? うん、これが何かね、表象的な部分で、日本の「舞踏」とかの身体表現と似ている感じ、っていうか、いや、まぁ、グロですよね。えげつないし、オットー・ミュール+舞踏とかって、今ごろやられても‥‥って感じかな。

 ちょっとあざとい、エディプス解釈したくなるようなストーリーを含めて、ヨーロッパの奇特な観客層に受けるというのは解らないでもないけれど、これ以上あまり見続けていたい作家ではないのは確か。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040519

■ 2004-05-18(Tue)

[]『プラットホーム』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督 『プラットホーム』賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督を含むブックマーク

   プラットホーム [DVD]

 千石の「三百人劇場」で開催中の「中国映画の全貌2004」上映作品の一本として、やっとスクリーンで見た。以前ヴィデオで見たことはあったけれど、こうして大きなスクリーンで見ると、ちょっと感動も新ただし、登場人物の着ていたTシャツにプリントされた文字も読めた(笑)。

 とにかく、20世紀における「中国」という国の歴史には凄まじいモノがあるというか、20年も経たないうちに昨日までの価値観が全て逆転してしまうような激動を、常に、何度も体験して来ている。現在ではこの国は「中華人民共和国」と呼ばれているけれども、そこからはみだした(という言い方が適切かどうかわからないけれど)「中華民国」、かつての長崎の「出島」のような「香港」と合わせて、一種強烈な歴史をくぐり抜けて来た土地だろう。中華人民共和国に限って言えば、この国からのメッセージとしての映画表現に外から出会えるのには、皮肉な事に「文化大革命」と呼ばれた時期を精算するまで待たなければならなかった。ある意味、この国の対外的な表現はその「文化大革命」を否定する事で一つの契機をつくったのではないか、と思える程だけど、その事に夢中になるあまりに『さらば、わが愛/覇王別姫』(チェン・カイコー)みたいな、下らない国家公認プロパガンダ映画までも妙な評価もされてしまうような状況も産み出してしまった。とにかく、世界的な共産主義陣営の崩壊もあって、「文化大革命」っていうのはひどかったんだよ、と言っていれば済むような状況もあり、外からの視点もそういうものを求めていたというのも事実だろう。

 わたしはチェン・カイコーやチャン・イーモウの作品にさしたる興味もないし、中国映画界の「第三世代」とか「第五世代」とかいうレッテル貼りも全然知識はない。ただ、今の中華人民共和国の映画では、田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)、そしてこの賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の二人には強烈な印象を覚える。先日見た『春の惑い』などの印象では、ティエン・チョアンチョアンという監督はもうちっと審美的な厳しい眼を持っている気がするけれど、この『プラットホーム』のジャ・ジャンクーには、強烈な自我、時代と心中してしまうような強い同時代意識を感じ取ってしまう。


 そう、実は、わたしはこの『プラットホーム』という映画を見た時、かつてゴダールの『男性・女性』を公開当時に見た時のような興奮を味わったのだ。

 この『プラットホーム』には、1979年から1991年までの12年間にわたる時間経過の中での二組の男女の愛の遍歴(?)が語られる。その背景に、文化大革命の破産のあとの西欧文化の急激な摂取、そのような「走資的」傾向への反動としての「天安門事件」がピタッと埋め込まれている。これらの動向がTVやラジオの音声、町内放送(?)などを通じて挟み込まれる見事さは素晴らしい効果をあげている*1し、その背景と登場人物との絡み方が、ちょっとタダ事ではない感動を呼ぶ。

 この作品には、いくつか、その背景の音楽に合わせて踊る登場人物の姿が描写されるのだけど、それらのシーンがどれもあまりに象徴的にこの映画の中にはめ込まれてしまっている。

 その中でも圧倒的なシーンが、主人公たちが在籍する文化劇団のミーティングで、「これからは西洋の軽音楽も取り入れて行くのだ」などと話している時にヒロインの一人がパーマをかけて登場し、団長の勧めで赤い衣装をまとって、カルメンのようにフラメンコを踊る。このシーン。「赤」という共産主義のシンボル・カラーが、カルメンの衣装とされて、しかも毛沢東の肖像の前で踊られる。西欧の資本主義原理が、この東洋の共産主義イデオローグを凌駕する、なんという強烈なメッセージだろう*2

 そして、広州への旅行から戻った男が持ち帰ったラジカセから流れる『ジンギスカン』*3に合わせて皆が踊る。この作品の中でもキャッチーな印象的なシーンだった。涙が流れるほど美しいのが、ヒロインの一人が税務署員になり、その事務所で一人ラジオを聴きながら、流れる感傷的な歌に合わせてバレエ的な踊りを踊り出すシーン。この場面は映画のストーリーの流れとシンクロした歌の内容と合わせた登場人物の内面を視覚化した、美しい場面だった。それから、主人公たちの在籍する文化劇団の後期、双児の姉妹が踊る哀しいディスコ・ソング。こういったシーンが見事に時代のアクチュアリティを表出している、というのは、この日本でも、同時代的な文化進行として同様な道をたどって来ている事を追体験出来るのだ。

 全てが回想の夢の中に回収されるようでいながらも、見るものにその十二年間の反省を促すようなラストも見事な作品。『傑作』と呼ぼう。

*1:同じ方法論の、次作『青の稲妻』では空転している印象がある

*2:注意すべきは、この視点が資本主義原理の全面的肯定ではないという事

*3:この曲を唄っていたのはたしかドイツのバンドで、このバンドも「ジンギスカン」という名前だったと思う。この曲は日本でもかなりヒットした。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040518

■ 2004-05-17(Mon)

[]『ゴッド・ディーバ』(エンキ・ビラル監督) 『ゴッド・ディーバ』(エンキ・ビラル監督)を含むブックマーク

   ニコポル三部作〈2〉罠の女 (ニコポル三部作 (2)) (これは原作?の表紙)

 実は、もうコレを見てから一週間位経つんだけど。

 とりあえず、この邦題はカンニンしてほしい。原題は『IMMORTAL (AD VITAM)』だし、誰も歌なんか唄わないぞ、この映画。それに、少なくとも「ディーヴァ」と表記してくれ、というのはムリな注文だろうか。

 とりたててストーリーが面白いとか、そういうもんでもないのだけど、いかにもヨーロッパの作品らしい、作家性を貫いた映像が、総体として見ていて面白かったのね。「いったい次はどんな絵が出てくるんやねん」てな興味が、とりあえず私の場合、この本編上映時間104分の間、とぎれることなく持続したんだから、チケット代は充分に回収できた。

 ま、この作品に出てくるニコポル(トーマス・クレッチマン)という造型は、かなり前作『ティコ・ムーン』の主人公とかぶってくるし、全体の設定もその前作を引きずっている部分が大きい。ただ、この『ゴッド・ディーバ』の物語でうまく行っていたのは、「キリスト教」原理を一切捨てて、神という概念にエジプトの神々を借用し、ギリシャ神話の神たちのようにやたら人間くさい振る舞いをさせていたあたりにあるんじゃないかな。神様、モノポリーで遊んでるし。

 まあストーリーの事はさっと忘れて、この「絵」ですね。いきなりのピラミッドにエジプトの神々というのにもやられたけれど、この21世紀の終末(これも次の世紀末)のニューヨークの町の描写も美しい、とわたしは思った。多少『フィフス・エレメント』とかとかぶる気はするけれど、フランス映画はフランス映画で結託するのも悪くはないんでしょう。

 で、この映画には生身の俳優は3人*1しか出てこなくって、あとは皆CGで描かれたミュータントみたいな人物とか妖怪みたいのばっか。‥‥どうも、一般の観客にはこのCGの人物がものっすごく不評なようなんだけど、ちゃちすぎるって言うんですか。どうも、このあたりが同時公開中で大ヒットしてしまっている『CASSHERN』と比較されて負けちゃってるところではないかと思うんだけど、生身の俳優を使って画像処理してCGっぽくしてしまった『CASSHERN』と勝負されたら、(好き嫌いは別にしても)リアルさではそりゃあ負けるだろう。でも、この『ゴッド・ディーバ』、そんなリアルさなんかはなっから求めてなんかいないだろうに。ちょっと古い作品だけど、『ロジャーラビット』でしょ。コレ。

 わたしなんか、あの中国系のギスギスした議員秘書の女性のキャラなんか大好きなんだけど。

 近年のSFって、ある程度「将来現実化してしまうかも知れない」という、予想されうるリアリズムとでもいったモノを基調としている場合が多いのではないかと思うけれど、この映画では、そのSFの「(フィクション)」という言葉が字義どおり徹底されていて、ま、そこにフィクションとしての神話的事象を配していってるんでしょ。そういったフィクションから出発しているからこそ、CG造型の基本にエンキ・ビラルの作家性が色濃く反映されているのではないだろうか。

 そうそう、しばらく前に見た押井守の『イノセンス』にしても、一番面白かったのは、北の果ての地の、ドイツ・ロマン派とかウイーン幻想派みたいな洋館での、時間的トラップのシークエンスだったな。

 でも、押井守の場合残念なのは、そのような描写において、ちょっとオリジナリティに欠けるというか、そういった規範からの引用めいてしまう、という事だろうか(ハンス・ベルメールと言われてもねぇ‥‥)。そのあたりは、バンド・デシネとしてのキャリアも豊富で、ヨーロッパでは舞台美術なども手がけているエンキ・ビラル、こちらの方が作家としての独創性では一日の長があるのではないか。


 ちょっと時間がまたなくなってしまった。続く、かも知れない。

[]『鉄人28号』TV東京:毎週水曜日:25:30〜26:00 『鉄人28号』TV東京:毎週水曜日:25:30〜26:00を含むブックマーク

 これは自分のための覚書。忘れないで見ようっと。

*1:過去のないヒロイン、ジルを演じるリンダ・アルディ、それとトーマス・クレッチマン、そして妙な医学者を演じるシャーロット・ランプリング

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040517

■ 2004-05-16(Sun)

[]『ニールトーキツ』(猫田家プロデュース) at サンモール.スタジオ 『ニールトーキツ』(猫田家プロデュース) at サンモール.スタジオを含むブックマーク

 とにかく、「tsumazuki no ishi」ファン、いや、猫田直ファンとしては見逃さないでよかった公演ではありんした。スエヒロケイスケ作、寺十悟演出というコンビは、このしばらくの「tsumazuki no ishi」の路線の引き継ぎなんだけど、とにかく今回は猫田直出ずっぱり。

 出演者は3人だけ、本来は男性役者のために書かれたホンを強引に女性版にしてしまったプロデュースは、これは強引と言えば余りにも強引なのだけども、「こいつ、女子プロレス出身かよ?」という強烈ながたいの安元遊香の客演に助けられて、基本的にはそんなに違和感は持たずに見ることは出来た。まったく不条理な展開の中から悪夢のような現実が立ち上がって来る基本的な作劇は、詐欺師的な新聞勧誘営業の飯田孝男の登場を含めてもデヴィッド・リンチ的で無気味。

 意味不明の『ニールトーキツ』というタイトルは、「ニール」と「沖津」という二人の登場人物の名を並列したに過ぎないんだけど、沖津の過去の問題(離婚訴訟問題?)にまで踏み込んでしまう部分は、いらないだろう。もうちょっと取捨選択すれば、あと3歩ぐらいでもっとおぞましい世界に突入できていた気はするけれど、その目指す方向性は気に入っている。

 8月の「tsumazuki no ishi」公演に期待。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040516

■ 2004-05-15(Sat)

[]『記憶、或いは辺境』(風琴工房) at ザ・スズナリ 『記憶、或いは辺境』(風琴工房) at ザ・スズナリを含むブックマーク

 この劇団を見るのも久しぶりだけど、今回はチラシなどのアートワークがちょっと力が入っているようにも思えたし、ま、しばらく見てなかったからどんな感じになったのかなぁ、と。

 今回は、樺太の日本人の経営する理容店を舞台として、戦中戦後を通じた8年間にわたる、在樺太の日本人と朝鮮人との確執と友情(&愛情)の物語? って書くとあれだけど、今日、こういうのだったよと知人に話をしたら、「じゃぁ、それって、新宿梁山泊みたいなの?」って聞かれた。‥‥ちがうんだなぁ、これが。NHKの社会派ドラマなんだな。視点が下に降りて来ない。いや、ホンはディテールを含めてとってもお上手に書けているんだけど、ただうわべだけをなぞってしまった作劇。

 相変わらずケレン味たっぷりの演出は、それはそれでいいんだけど、結局はお涙ちょうだいの歴史メロドラマに収縮してしまっている。ひとつには、「戦争」の姿が舞台の上に見えない事。おざなりに玉音放送が舞台に流されたりするけれど、この劇では、先に前提として戦中の天皇を中心とする日本の国家体制がナンセンスなものであった、との思い込みがある(いや、視点としてそうなるのはしょうがないけれど、描写の基点をどこに置くかと言うことでは大事な問題だと思う)。そのような後からの刷り込みの視点ですべてが構築されている。その下で働く戦時下の労働の姿が見えて来ない。妙に器用な分、見終わった後によけい腹立たしくなってしまった。

 いったいどのような立脚点から自分達は演劇を続けるのか、再検討すべきだと思った。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040515

■ 2004-05-10(Mon)

[]『リアリズムの宿』(山下敦弘監督) 『リアリズムの宿』(山下敦弘監督)を含むブックマーク

   リアリズムの宿―つげ義春「旅」作品集 (アクション・コミックス)(これはつげ義春の原作マンガ)

 ‥‥さびれた宿、砂浜、二人の男の間に突然割り込んで来る少女、少女に服を買ってやる男、男たちを残して勝手に出立してしまう少女。さらに、成り立たない男たちの会話、オフビートなエピソードの積み重ね。

 わたしがここで書いているのは、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という映画の事なのだけれども。

 これらのキーワードはすべて、昨日見た『リアリズムの宿』という映画と重なってくる。‥‥偶然? そうなのか? それですませていいのだろうか。この映画は、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の模倣である。もしも脳内コピーガードシステムなるものが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という作品に施されていたならば、この『リアリズムの宿』という映画は、撮られる事さえなかっただろう。それとも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が製作されてからすでに20年、製作者はもう時効だと考えたのか、もう誰もそんな昔の映画は覚えていないだろうと踏んだのか。観客もバカにされたものである。そういうわたしもはっきりした記憶がないのだけど、この『リアリズムの宿』の中のカメラ・ワークも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の中で見た事があるような動きもあった気がするのだが。

 しかも、この『リアリズムの宿』には、逃げ道が用意されている。この映画に描かれた時と場所は特等の非現実/非日常であり、この映画のラストで彼らの後ろすぐ近くまで迫っている現実と巡り会えば、この映画の中の時と場所はすべて笑い話の中に回収されてしまうだろう。もちろん、そのような軽さで映画が造られてしまう事までも否定しようとは思わないけれども、そのような逃げ道まで用意しながら、いったい何が欲しくってこの監督は映画を造っているのだろう。

[]『彗星の住人』(島田雅彦) 『彗星の住人』(島田雅彦)を含むブックマーク

   彗星の住人

 読んでいる途中で気がついてはいたのだけど、この本は『無限カノン』と題された三部作の「その一」なのだった。しかし、三部作、というのであれば、この『彗星の住人』という本単独で了解出来る部分があるはずだ、いや、一冊の本として独立して読書出来るはずではないか、と思いながら最後まで読み通してみたが、三分冊の長編小説の第一巻を読み終えたという感覚を持っただけだった。すべてはその二冊目、三冊目に続いている。19世紀の終わろうとする時点から20世紀の終わりまでの間の、親子三代にわたる、それこそ「海を越えた恋」の話を聞かされたが、「で、これからどうなるの?」と言うしかない。こういったシロモノを「三部作」という呼び方で売るのは、何か間違っていない?

 ‥‥仕方ない、とにかく、そのうち続きを読むしかないわけだ。だまされたね。

[]『ハリガネムシ』(吉村萬壱) 『ハリガネムシ』(吉村萬壱)を含むブックマーク

   ハリガネムシ

 この小説の中には、先日読んだ金原ひとみの『アッシュベイビー』と同じように、セックス・プレイの最中に、女性の傷口に男が指を突き込んで、欲望を増大させる男女の話が出てくる。別にそんな本ばかりを選んで読んでいるつもりはないんだけど、まいったね。

 しかし、この吉村萬壱の小説での描写に比べると、金原ひとみのそれは、いかに無邪気で美しくもロマンチックである事か。いや、この小説に比べれば、バタイユにしろセリーヌにしろ、実に優雅で、気品さえ感じさせるのである。このおぞましさ、このえげつなさを「読書の楽しみ」などと了解する事は不可能だ。読んだ事など忘れてしまいたいし、読んでいる途中で本を投げ捨ててしまいたくなる。

 例えば、つげ義春のマンガの中にも、日常のえげつなさの中に自己を沈澱させ、いっそ自己消滅までも謀ろうとする、一種自虐的な主人公が登場したりもするが、吉村萬壱の場合は、その日常のえげつなさの中に、犯罪に身を染めてしまうかもしれない恐怖から自分を守りきれないような主人公がいる。その恐怖が狂気(または狂気への親和感)とは呼べない所に、彼の小説の本当に奥深い恐ろしさがある。

 ただ、この『ハリガネムシ』では、根拠なくおぞましさだけを目的にされた描写もあり、作為が目立つ事もある。そういう意味では、この春に雑誌に発表された『岬行』の、静かなやりきれないおぞましさの方が恐ろしい。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040510

■ 2004-05-09(Sun)

[]『永遠のモータウン』(ポール・ジャストマン監督) 『永遠のモータウン』(ポール・ジャストマン監督)を含むブックマーク

   永遠のモータウン

 実の所、この映画を見たのは、ミシェル・ンデゲオチェロ(Meshell Ndegeocello)が出ていたからに他ならないのだけど、とりあえず、わたしは何度か来日している彼女のライヴはいまだに眼にしたことがない。だから、スクリーンの上で彼女がベースを弾くなり歌を歌うなりしてくれれば、それ以上はあえて求めようとはしていなかった(この映画ではベースは弾かなかったけれど)。あ、ミシェルはモータウンのアーティストであったわけではないのだが。しかし‥‥。

 わたしが最初に聴いたモータウン・サウンド*1は、The Supremesの「Baby Love」だ。リアルタイム。このあと、Marvin Gayeの「What's Goin' On」あたりまでは、リアルタイムにこの辺の音は体験している。後日後追いでSmokey Robinson & The Miraclesの「Shop Around」あたりまでは復習しているから、わたしにとってのモータウン・サウンドは、「Shop Around」から「What's Goin' On」まで、って感じ。で、これはそのまんまモータウン・サウンドのピークの時期でもある。この時代のモータウンを代表するアーティストは、先に触れたDiana Rossの在籍したThe Supremes、Smokey Robinson & The Miracles、Marvin Gayeの他にも、The Temptations、Four Tops、Stevie Wonder、Martha & The Vandellas、Isley Brothers、Gladys Night & The Pips、etc.etc.と、本当に名前を挙げていくとキリがない。

 とは言いながらも、わたしがモータウン・レコードの音造りにそんなにとり憑かれていたかというと、そういう事でもない。モータウンといえばリズム&ブルースの基本なんだけど、実際、わたしはもうちょっとあとに出て来るアトランティック系のソウル、スタックス系のホーン・セクションがブロウしまくる音造りに、よりハマってしまった記憶がある。ただ、このあたり(65年から70年にかけて)のモータウン・サウンドは、わたしの耳の一番キャパシティのあった頃にさんざん耳にして来ている音なので、どこかからこれらの音楽が流れて来ると、とにかく先に身体の方が反応してしまう。

 この映画のキャッチ・フレーズ。

 「エルヴィス、ビーチ・ボーイズ、ストーンズそしてビートルズ。全てのNo.1ヒットを足しても、“彼ら”にはかなわない。しかし“彼ら”の名前を知るものはいない。」

 ‥‥そうなのだ。わたしの頭の中には、かなり数多くのモータウンのヒット曲が記憶されている。しかし、実際に、それらのヒット曲のバックで演奏していたミュージシャンの事に思いをめぐらせる事は、本当になかったね。単純にスタジオ・ミュージシャンだよね、以上の認識は抱いた事がなかった。こうしてみると、ダメだね。外からの情報だけを入り口にして聴いている。ま、この頃のヒット曲というのは、基本的にスタジオ・ミュージシャンのサポートでこそ成立しているのだけれど、考えてみれば、このモータウン・レコードはそんなにメジャーなレコード会社ではない訳だし、地方都市デトロイトという町の中で、そんなにスタジオ・ミュージシャンを楽曲ごとにとっかえひっかえ雇い入れるような体制はとれなかったはずだ。このあたりを勝手に、豊富なスタジオ・ミュージシャンを抱えての録音体制と思い込んでしまっていた。実際にはこの映画で紹介されるように、ごく限られたミュージシャンが全てのレコーディングをこなしていた訳だ。で、レコーディングしたミュージシャンの名前がアルバム・ジャケットなどにクレジットされるようになるのは1970年前後から*2の事になるから、よけい彼らの事は忘れ去られていたのだ。

 ただ、この映画を見て驚いたのは、そのような状況の中で、モータウンのイギリスへのパッケージ・ツアー(1965年)の際、イギリスには彼らバック・ミュージシャンのファンクラブが存在していて、皆が彼らの名前を知っていたという事。本当にこの当時のイギリスの音楽シーンには濃いモノがあったんだなぁ。

 しかし、1972年になって突然、モータウン・レコードはロスアンジェルスに引っ越ししてしまう。この事は彼らバック・ミュージシャンにとっても寝耳に水の知らせだったようで、多くのミュージシャンはそのままデトロイトに居残り、ここで確かにモータウン・サウンドは大きく転換するんだけど、ま、この後にJackson 5などのデヴューとかあるんだけど、先に書いたようにわたしにとってのモータウン・サウンドは「What's Goin' On」で終わり。その期間は、この映画の背景になっている時代とピッタリ重なるのだけど。

 ‥‥ちゅう訳で、この映画、そうした彼らモータウンのバックミュージシャン(「Funk Brothers」という名前が彼ら自身によって名乗られているようだけど)にスポットを当て、インタヴューと再現映像(笑)を交えて、モータウンの歴史と各ミュージシャンの紹介、それにゲスト・シンガーを迎えての再結成ライヴの映像がはさまれる。‥‥という構成だと、主役のミュージシャンたちがかなりのご高齢に達せられておられる事を合わせて、あの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を連想してしまうのだけど。

 でも、今まで栄光の陰に隠れて注目される事もなかったこの映画の主役のミュージシャンたちは、こうして華やかなスポットを浴びるのは、彼らの長い音楽生活の中でも初めての事だろう。ようやく世界が彼らに微笑みかけた。もちろん、モータウンの設立者であったベリー・ゴーディー・ジュニアの存在があってこその栄光なのだけど、ベリーはその栄光にすでに充分に身を浸して来た。余りにも遅すぎた事だが、今こそThe Funk Brothersにスポットを。それがこの映画である。

 まず、前史として、この映画の製作された背後には、1989年に出版された、アラン・スラッキー(ペンネームはドクター・リックス)の著作「Standing in the Shadows of Motown: The Life and Music of Legendary Bassist James Jamerson(邦題『伝説のモータウン・ベース ジェームス・ジェマーソン』/リットー・ミュージック/1996年)」が評判を呼んだ結果であり、実は、この映画のプロデューサー/音楽監督は、そのアラン・スラッキーその人である。

 この映画では13人のミュージシャン*3が紹介されるのだけれど、お手頃価格でついつい買ってしまったプログラム*4で彼らの経歴を見ると、皆だいたい1930年代の生まれで、全員が影響を受けたアーティストにジャズのアーティストを上げているのが眼をひく。ピアニストであればトミー・フラナガン、アート・テイタム、ギタリストはウェス・モンゴメリー、ベーシストはミンガスやポール・チェンバース、ドラムはバディ・リッチ、といった具合なのだ。そうか、モータウン・サウンドからジャズを思い浮かべる事は決してなかったけれど、考えてみれば、コンボ演奏としてこの時代に規範となる音楽は、ジャズが最も豊かな鉱脈だったんだよな。わたしはもっとブルース的な世界とか、ナイトショーとかでのポピュラー歌手のバックのビッグバンドあたりから出て来ている人たちかと思っていた。時代柄、モータウンのナイトクラブでも夜通しジャズが演奏され、このモータウンのミュージシャンたちも、レコーディングの後にはそういったナイトクラブで朝まで演奏していたようだ。なるほどね、あのモータウン・サウンドのゴキゲンなグルーヴ感の裏では、50年代のハード・バップからの音楽的引き継ぎが密かに行われていたんだ(この映画の中には、そういったクラブで今も演奏するメンバーの姿も写されている)。

 これらのミュージシャンがいったいどうしてモータウンの裏方になっていったかとか、そのモータウン時代の裏話の数々など、もうメチャ面白くってその上に泣けるのだけど(ジェマーソンが「モータウン25周年」のイヴェントに招待されず、客席からかつて自分のレコーディングした楽曲を聴き、その4ヶ月後にこの世を去っていく話や、The Temptationsの、誰でも知っている大ヒット曲「My Girl」のイントロのギター・リフを生み出したロバート・ホワイト(彼も故人)が、レストランで「My Girl」がかかった時に、ウェイトレスに「なぁ、この曲は‥‥」といいかけて止めてしまう話など。なぜ彼は途中で止めたのか、その理由が涙モノ)、やはりうれしいのは彼らのライヴシーン。

 いきなり、The Four Topsの最大のヒット曲、「Reach Out, I'll Be There」の、あの、馬に乗った韃靼人が荒野を駆け抜けるような印象深いイントロが演奏され、ジェラルド・レヴァードがまるでリーヴァイ・スタッブスそのまんまのようなヴォーカルを披露すると、もうこれだけでわたしのつぶらな瞳は涙でウルウルしてしまう。しかし、ここまでオリジナル音源に忠実で、しかもエキサイティングな演奏に出会えるとは。本当に生きていて良かったと思ったね。モータウン・サウンドのライヴなんて、あまり想像した事もなかったんだけど、素晴らしい! そんじょそこらのロックのライヴなんかどーでもよくなっちゃうね。

 この他にも、ジョーン・オズボーン、ブーツィー・コリンズ、チャカ・カーン、ベン・ハーパーなどのゲストが続々と登場するんだけど、やっぱりわたしにはお目当てだったミシェル・ンデゲオチェロの歌唱が良かったな。Smokey Robinsonの「You've really got a hold on me」と、The Temptationsの「Cloud Nine」の2曲を披露してくれた。派手さはないけれど、自己の内面に一度取り込んで歌われる内省的なシンギングは、どちらの曲でも奥深いものがあった。彼女らしい立脚点からベーシストのBob Babbitにインタヴューする姿も印象に残った。

 ただ、とっても残念だったのは、そのライヴ演奏が、ほとんどの曲で完奏されずに途中でフェイドアウトされてしまっていたこと。ほぼ唯一の、曲のエンディングまで見る事の出来た曲、ジョーン・オズボーンの歌った「What becomes of the brokenhearted」の終わりで、映画を見ていた観客が思わず拍手をしてしまった場面があったんだけど、そうなんだよ。もっともっとライヴをちゃんと見たかった(映像にはストリングスの姿は見えなかったけれども、音にはストリングスが入っていた。後からのダビング?)。

 さて、この映画、その幻のベーシスト、ジェームス・ジェマーソンのクラブでのベース・ソロで幕を閉じる。

 映画の上映が終わった後、わたしは本当に久しぶりに、映画の観客がスクリーンに向かって拍手をする現場に立ち会ってしまった。もちろんわたしも拍手をした。それは、30年以上の長きにわたってその功労に正当な評価を得られなかったアーティストたちへの、せめてもの賞賛の拍手だった。

 ダメだ。ノックアウトされた。時間があれば毎日でも見に行きたくなってしまった。

*1:1959年にプロデューサー/作曲家ベリー・ゴーディー・ジュニアによってデトロイトに設立された「モータウン・レコード」のヒット曲の音の総称。リズム・セクション+キーボード、ギターがタイトなリズムを刻み、時に管楽器、ストリングスが歌の絶妙なサポートをする。ポップからロックヘの過度期の中、黒人音楽としてロックに与えた影響は大きい。

*2:モータウンのレコードでミュージシャンの名前が初めてジャケットに記載されたのは、1971年のMarvin Gayeの「What's Goin' On」だったそうだ。

*3:この映画の制作時点ですでに5人が他界、その後も二人のミュージシャンが亡くなられている

*4:500円でもって充実した情報が得られる、CDジャケットサイズの、なかなか優れモノのパンフです

sujakusujaku 2004/05/24 14:01 すごくすごく見たくなりました。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040509

■ 2004-05-07(Fri)

[]『真珠の耳飾りの少女』(ピーター・ウェーバー監督) 『真珠の耳飾りの少女』(ピーター・ウェーバー監督)を含むブックマーク

    「真珠の耳飾りの少女」オリジナル・サウンドトラック

 銀座・有楽町方面で見たい映画を探したらコレだったので、仕事が終わってから見に行った。あ! 今日はレディーズ・デイだよ。劇場の外にまで連なる行列。80%(後日訂正:95%です)は女性である。まいったなぁ。とりあえずはギリギリ座れそうなので並ぶ。

 とりあえず、美術のディレクションが、かつてピーター・グリーナウェイの所で美術やってた人なのと、それからスカーレット・ヨハンソンだよ!ってえので見に来たんだけどね。

 だから、まずはフェルメールの光をどこまでフィルムに定着させられているか、という興味があるんだけど、これは、フェルメールのアトリエの中は相当成功している。まずはスカーレット・ヨハンソン扮するグリードという少女が、フェルメールの家に家事手伝いとして入居して来るんだけど、最初にフェルメールのアトリエの掃除をし、閉ざされていた窓を開けて行き、窓の外から黄色い光がそそいで室内を照らす時には、やっぱ、おぉ!って思ったね。で、これが、映画の中のところどころで、フェルメールの作品の構図でフェルメールの光でもって、という映像がひょこひょこと挟み込まれて、それは決してフェルメールの絵の再現ではなくって、ただ背景とか光とか構図を借りて来るわけ。見ていると、「おっ!おっ!おっ!」って感じなんだけど、とりわけ、ラストにグリードがかつての同僚からあるものを受け取るシーンなんか、あれですよ、あの作品。そのちょっと前はあの作品だしね。ま、そういう楽しみ方は随所で出来るから、やっぱコレ見る前に、一度、フェルメールの画集を見て予習しておきましょう。わたしもけっこう見過ごしてしまっていると思う。

 でもね、それ以外の部分では、コレは劇場の設備のせいかもしれないけれど、画面がちょっと暗すぎる。レンブラントじゃないんだから。それに青みも強すぎないかな?

 で、わたしゃコレって「画家とモデル」的なラヴ・ストーリーなんだろうって高を括ってたんだけど、どうしてどうしてなかなか硬派な作品だったね。ここで提示されるのは、アーティストの崇高な魂とか、画家とモデルのラヴ・ロマンスとかという話でなくって、世俗の中で画家の扱うイメージはどのように交換されていくかという話。で、まず画家に一つのイメージを注文する、非常に世俗的なパトロンがいて、受注した作品をできるだけ早く描き上げてほしいとかいろいろなプレッシャーをかける画家の家族がいて(有能な営業担当としての画家の義母の存在が面白い)、ま、画家の妻なんかは画家のモデルになるグリードに嫉妬するし。結局の所、画家はモデルからイメージを盗むだけなんだよね。それがこの作品では「真珠の耳飾り」に象徴されて、あたかもモデルであるグリードがそれを盗んだかのような展開になるところが、とっても面白い。もちろん盗んだのはフェルメールであって、それを陰で「営業担当」が手助けしている。で、本当に盗まれたのは、フェルメールがグリードから引き出したイメージなんだけど、ここの描写が面白いのね。フェルメールはグリードに口をちょっと開くように言い、下唇を舐めさせる。これを映画の中で続けて三度やらせる。ついに必要な「真珠の耳飾り」が入手出来た時、グリードがフェルメールに耳たぶに穴をあけさせて涙を流し、その涙をフェルメールがグリードの下唇にもっていく所なんかも、もう、あれですよ。あれ。この後にグリードが夜道を走ってボーイフレンドの所に身を捧げに行くのなんか、ほんとうにあれですね。

 その、盗まれたイメージがこの作品のラストで、300年以上の歳月の流れを超えて、しばらく私たちの眼の前にその姿を見せる。

 ‥‥この、グリードという架空の存在の造型がいいですね。この作品には元になる小説があるようだけど、むかしっから、この「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」は、他のフェルメールの作品とは異質ですからね。いろいろな推測の的だった訳だけど、その人生に大きな波乱もなかったはずのフェルメール像を逸脱する事もなく、この絵画作品にもフェルメールにも似合ったフィクションから、社会の中での経済的な観点からのアーティストの存在について思いを巡らさせてくれる。

 フェルメール役のコリン・ファース、決して「芸術とは」などとしゃべり出す訳でもなく、職人的なアーティスト像を演じて説得力あり。グリードを演じるスカーレット・ヨハンソンも、内に強さを秘めながらも、初めて社会に出る処女の世間へのおそれを表わして初々しいではないか。

 ‥‥サウンドトラックは、ポール・モーリアではなかったのでホッとした。あ、アレは『真珠の首飾り』か。

[]イメージフォーラム・フェスティヴァルから(5月5日観賞) イメージフォーラム・フェスティヴァルから(5月5日観賞)を含むブックマーク

プログラムD 『日本4(日本招待作品+一般公募部門入賞作品)』 /6作品82分

 夕方から見るイヴェントまでの時間が中途半端に余ってしまったので、見てしまいました。要するに今年の一般公募部門の入賞作と、過去の受賞者の新作、イメージフォーラム周辺のエラいセンセエ方の作品を集めたもの。

1.『九十九里浜の女』 岩澤実穂/8ミリ/10分/2003 ※一般公募部門奨励賞

 失恋して九十九里浜で入水自殺した女性の魂が魚に宿り、かつての恋人に食べられるという話を、実に濃厚な女性のナレーションで見せる作品。このナレーションが、実にもって、情念がこもっていると言うか、凄みがある。映像は九十九里浜の漁風景、魚を三枚におろすちょっとコマ撮り風のと、女性の裸体とか。こういう日本的情念の世界に興味をもつ作家って、いつも居ますね。


2.『生態系-13- 本影錘』 小池照男/ビデオ/16分/2003

 これは見なかった事にしましょう。実に苦痛の16分間だった。


3.『De-Sign(脱記号)15 <6月6日-12月27日>』 ビジュアル・ブレインズ(風間正+大津はつね)/ビデオ/10分/2004

 この作者の一人は、去年亡くなった画家、風間完の息子さんらしい。その父の病院での6ヶ月の「記号的な」映像と、風間完が病床で描いた最後のスケッチ、メモのインサート。当事者であることを昇華した上で伝えてもらわないと、観客に了解出来る事柄はほとんどない。


4.『考える練習』 野上寿綿実/ビデオ/6分/2003 ※一般公募部門奨励賞

 アニメーション。このプログラムではこの作品に一番好感を持てた。と言っても、実にシンプルなたった一つの画像をメインにして、入れ子構造の空間を延々と繰り返すだけなんだけど。そのシンプルさがこのようなフェスティヴァルの中ではホッと一息出来た、というか、


5.『small LAND JAZZ』 佐藤義尚/ビデオ/5分/2002

 これ、わたしの知人の中西義久さん(彼もずっとこのイメージフォーラムフェスティヴァルに出品されているけど)と同じ路線ではないか。オリジナリティーは先に中西さんにあったんじゃないの? いいのかな?


6.『極私的に臨界2003』 鈴木志郎康/ビデオ/35分/2004

 このフェスティヴァル特有の、センセエの独り言的エッセイ風プライヴェート映像。越後妻有トリエンナーレのヴィデオの審査をした経緯などが語られる。「作品には開かれた作品と閉じられた作品がある」との、有名な木村拓哉理論の応用が、ここでも語られる。すいません、タイムリミットが来てしまったので、途中退出させていただきました。


 はい、今年のイメージフォーラム・フェスティヴァルも、これでおしまい。また来年見ましょう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040507

■ 2004-05-06(Thu)

[]イメージフォーラム・フェスティヴァルから イメージフォーラム・フェスティヴァルからを含むブックマーク

プログラムG 『ポイント・オブ・ビュー:映像のアンソロジー』 アメリカ/11作品72分

 このアンソロジーは、NYの「New Museum」という所(初耳の美術館だが)が出したDVD作品集を丸ごとまんま上映したもの。このDVD、買おうと思えば買えるらしいけど(あたりまえか)*1。とりあえず、全11作品。

1.『ガイジン』 フランシス・アリイス(5分)

 原題は「GRINGO」。ま、なんか、メキシコの国境地帯か、メキシコの国内。手持ちカメラで道ばたのサボテンなどを撮影しながら、撮影者歩いて行く。道の向こうで犬がこっちに吠えてる。カメラマン、ちょっと後退。最初一匹しか見えなかった犬の数が増えて来る。カメラマン、逡巡しながらちょっとづつ前進。ひゃぁ、犬が歯をむいて襲って来たよ。犬たち、何度もカメラマンにアタック。カメラにもぶっつかって来る。猛烈なアタックにカメラは路上に投げ出され、横に転がったまま垂直に地平線を写す。カメラマンは逃げちゃったのかのびちゃったのか。地平線の向うで犬が吠え、またカメラの方に近づいて来る。ずいぶんと絶妙な位置にカメラを放り出したもんだ。そのカメラのレンズに、犬の鼻先が猛烈アタック! ‥‥レンズの部分に犬の好物でも括りつけて置いたのかな。犬の呼吸音が間近に迫り、鼻先が何度もどアップ。ついにカメラが壊れたのか、画面は真っ暗になってしまい、犬の吠え声、呼吸音だけが観客に届く。もう犬嫌いの人にはたまらない一作。排除される「ガイジン」ですか。アイディアと技術がピッタリ一致した娯楽(?)作品。


2.『そのとき』 ダーヴィッド・クラボウト(3分)

 また手持ちカメラが道を進む。今度は夜の森の中。ホラー映画みたいな大げさな音楽が流れ、「なんやねん!」と思ってると、森の奥から一匹のかわいい猫が現れて、カメラの前を横切って行く。つまり、「大山鳴動して鼠一匹」をそのまま映像化したと。あまりの空疎なバカバカしさに、怒る気も起きない。何でこんな活動を美術館がサポートするかね。つまらない。

3.『私の肩越しに』 ダグラス・ゴードン(14分)

 原題は「Over My Shoulder」。白いシーツの前で繰り広げられる、「手」のさまざまな姿。音楽はまるで窓の外から聞こえて来る近所の商店街のBGMみたいなの。まずは裸の足に手首を踏み付けられて、もがく腕。手首にゴムバンドをきつく巻き付け、うっ血して変色して行くさまを見せる。片手を握り、その親指と人指し指の輪の中にもう片手の中指を突っ込み、入れたり出したり、万国共通のセックスの暗喩。この直前にうっ血する手を見せられているから、よけい生々しい。あと、カメラのレンズに掌をしつっこく打ち付け続けたり(ヴィデオ、ほとんど壊れそう)、その他いろいろな動作でもって、手だけで暴力とセックスの問題を描写して見せてる感じ。


4.『ブラインド・スポット』 ゲイリー・ヒル(13分)

 楽しみにしていた一本。元になる映像は、ゲイリー・ヒルが南フランスの街角で捉えた一人の男の画像なんだけど、この映像の一コマ一コマの間に真っ黒な画面を挟み込んである。この暗黒の画面の占める時間が、最初は最小限から段々に引き延ばされて行く。だから始まって直ぐはまるでストロボの点滅するような映像なのだけど、徐々に暗黒画面の占める時間が長くなり、この作品の最後には、20秒ほどもある暗黒の間に束の間のその男の画像が挟み込まれる。おそらくは無断で撮影されている事への抗議からか、別の理由からか、その男がカメラにはっきり示すその手、突き立てられた中指のアップで作品は終わる。実に深い余韻を残す、期待に違わない作品だった。


5.『0.5』 ピエール・ユイグ(5分)

 画面は左半分だけ。夕空をバックに、プリンのような形をした山のシルエット。音楽はエドガー・ヴァレーズではないか?と思うのだけど、自信はない。「アメリカ」か「アルカナ」。まるでただスチール写真を5分間撮影しただけのように、何も起こらないまま作品は終わるけれど、あとで解説を見ると、この山はスピルバーグの『未知との遭遇』で撮影された山という事で、それをアンディ・ウォーホール式に(エンパイア・ステート・ビルのやつだね)提示した作品だとの事。だったら時間が短すぎないか? 百回ぐらい繰り替えして観たら、無我の境地とかに達せられるような気がする。


6.『ワルツ』 ジョーン・ジョナス(7分)

 なんかね、森とか海岸とかでピクニックみたいな事やってるオジサンオバサンたち。鏡を持って写してみたり、赤とか白の旗を振ってみたり、ガイコツのお面をつけて踊ってみたり。意味不明だ〜。あとで解説を読むと、「偶然の出来事に神秘的な意味を重ねる、18世紀フランス野外演劇へのオマージュ」だとの事。肉食人種のやる事はわかんねぇ。18世紀フランス野外演劇について調べてみるか。


7.『アンコール(帰ってきたパラダイス・オメロス)』 アイザック・ジュリアン(5分)

 海辺に立つ男。波の映像や森か畑の中の葉っぱの映像が画面中央で二分され、鏡合わせの映像になる。あ、やばい。英語のナレーション字幕なしだ。聴き取れない。オーストラリア? 何かの詩の一節? とにかく、「アンコール」というより、ずっと長い作品の予告編みたい。鏡合わせの映像は別に目新しくもないし、何を見ればいいのか解らないまま終わってしまった。


8.『自動筆記』 ウィリアム・ケントリッジ(3分)

 いわゆる「木炭アニメーション」。文字と人物、風景が一緒に動き回る。まったくつまらない。完全につまらない。なるほど、アニメーションに関しては、日本で産み出されるものが世界レヴェルでいかに高水準かが納得される。ほんと。


9.『WGG(イカレた女たち)』 ポール・マッカーシー(6分)

 出ました! ポール・マッカーシーのエロ・グロ・ナンセンス! WGGって、つまりは"Wild Gone Girls"の事らしい。イっちゃってる女たち(直訳)? しかしまぁ強烈。今回はトレイラーのような狭い密室の中で、ビキニ姿の女の子たちがニコニコと踊りながら斧を振り上げ、真ん中に横たわっているデブのオヤジの足を切断しようとするかのように切り裂き続ける。あたり一面の血しぶき。血まみれになりながら笑って踊る女の子たち。一瞬だけ、その足はホンモノではないと判る描写があるんだけど、とにかく最初の内は「ひょっとしたらホンモノ?」と思い込みそうになるほどよく出来た足。作者によると、「暴力や虐殺シーンが観客に与える影響についての考察」らしいが、ハイ、ショックでした。ブッシュさん、辞めて下さい。


10.『あなたが見るように私も見たい』 ピピロッティ・リスト(5分)

 人物と自然などの映像の重ね合わせられた、エフェクトかけまくリの、ちょっとサイケでアシッドな人体のマクロコスモス。作家性のよく出た素敵な映像。


11.『タイム・アフター・タイム』 アンリ・サラ(6分)

 夜中の道路際に佇む黒い馬。つまり、『闇の中の黒い馬』というわけだけど、ごくたまに道を通り過ぎる車のヘッドライトに照らされる時にだけ、馬の輪郭がはっきりと画面に現れる。馬もじっとしているし、カメラも動かない。時々カメラのピントが故意にぼかされたりする。暗示的な美しい作品だった。


 今年はこのイメージフォーラム・フェスティヴァルにもあまり足を運ばなかったけれど(サリー・ポッターの作品など見落としてしまった)、これは見ておいて良かったプログラムではあった(クソも混じってはいたけどね)。

*1:見つけました。コレ。えっ! 1000ドル???

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040506

■ 2004-05-03(Mon)

[]『ナイン・ソウルズ』 豊田利晃監督(2003年) 『ナイン・ソウルズ』 豊田利晃監督(2003年)を含むブックマーク

   ナイン・ソウルズ [DVD]

 原田芳雄を筆頭に、鈴木卓爾、唯野未歩子、京野ことみと、かなりわたし好みの出演者たちが揃っていて期待したんだけど、純朴というか、ひねりがないというか、まるで社会的視点に目覚めたばかりの中学生かなんかが書いたような幼稚な脚本を、なぜか予算をたくさんもらってしまって、ぜいたくに実直にフィルムに収めただけ。ただひたすら「青臭い」。いとも簡単に大勢(たいせい)に回収されてしまうような、こんななまぬるい表現で事足りると思っているのかと、怒りすら覚える。

[]『ミレニアム・マンボ』(千禧曼波)侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督(2001年) 『ミレニアム・マンボ』(千禧曼波)侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督(2001年)を含むブックマーク

   ミレニアム・マンボ スペシャル・エディション [DVD]

 例えばブラックライトによる照明、例えばローソクの明かり、そういった夜の人工照明の美しさを見事に捉えた撮影/美術が、まず素晴らしい。そのあかりがこの世代のカルチャーと不可分な刹那的な雰囲気を醸し出し、この作品の基調低音になっている。

 どうしても自立しきれない、誰かに寄り掛かっていないとやっていけない主人公ベッキーのやるせない哀しみの描写は、これは見事というほかはないが、最後にベッキーが頼ろうとする男、ガオという名のまるで高倉健のようなやくざのボス的な男が出てくる。そのガオが、追って来るベッキーを置いて日本でその姿を消す。ここから映画は(と言ってももうラストだけど)、それ以前にベッキーが一度夕張を訪れた時の映像にフィードバックされ、その「夕張映画祭」開催時の、雪の街の中に乱立する日本映画の看板の中に、そのガオが吸収されてしまったような、不思議な、実に映画的なラストになる。この作品が映画であることの感動に満ちた、見事な幕切れだと思う。やっぱ、ホウ・シャオシェンってすごいわ。ほんとうに胸がゾワゾワしてしまった。

 ここまで日本映画にオマージュ捧げるか、との驚きもあるけれど、なんかまばゆい気持ちにもなる。彼の次回作は、一青窈主演での小津安二郎へのオマージュ作品らしいが。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040503

■ 2004-05-01(Sat)

[]『Hole』蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)1998 『Hole』蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)1998を含むブックマーク

   HOLE [DVD]

 わたしはツァイ・ミンリャンの言うところの「現代人の孤独」っていうのにはあまり興味がないんだけど。この作品でも登場人物がしくしく泣くところとか、「メソメソしてんじゃねェ!」とか、叱り飛ばしてあげたくなってしまう。

 ほとんどSARSを予見したような、謎のウィルス(感染するとゴキブリ人間になる)のために隔離された、マンションの上下の階の男女。とにかくずっと雨が降っている。雨漏りで部屋がグチャグチャになる。降りしきる雨音のノイズと、登場人物の内面を具象化したような不条理な展開の映像から、実はわたしはデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』を思い浮かべていた。階下の女性が突然にマンションの中でミュージカルを繰り広げるのも、『イレイザーヘッド』の中のラジエーターガールを思い出させられるし。

 ‥‥なんというか、全体の展開は日本の小劇場演劇的、というか、舞台でやったら面白いだろうな、と。でも、上と下だしな。水も使うから難しいか。ちょっとペンギンプルペイルパイルズあたりに似合ってる気もするんだけどね。

 ラストにはちょっとこちらがヤラれた気配があって、「ま、いいか」なんて思うんだけど、要するにマンションの床に穴あけた、っていうネタひとつで突っ走ってるだけではないかと。

[]『ティコ・ムーン』エンキ・ビラル 『ティコ・ムーン』エンキ・ビラルを含むブックマーク

   ティコ・ムーン [DVD]

 ‥‥なんか、ケバいジャケットではありますが。

 面白い作品ではないでしょう。全部ディテールだけで上滑りしている。今公開されている『ゴッド・ディーバ』も心配になるなぁ。

 「異国(この場合舞台は「月」)」、「ホテル」、「ラヴロマンス」などというキーワードで『アルファヴィル』(こちらはさらに「スパイ」とかのキーワードが重なるけれど)や『ロスト・イン・トランスレーション』などと合わせてみてみようと思ったんだけど、ジュリー・デルピーの真っ赤なウィグとスカーレット・ヨハンソンのピンクのウィグが重なるだけだね。ヒントにはなってるかも知れないけど。

mmmmmmmmmmmmmmmm 2004/05/02 00:32 映画と映画を関連付けながら続けて見られるのって、レンタルならではの楽しみ方ですね。うちの近くにはまともなヴィデオ屋ないので、羨ましい。ミンリャンはぼく苦手です。

crosstalkcrosstalk 2004/05/03 01:02 図書館とかレンタルヴィデオ屋は、近郊に充実した所があるかどうかで人生を左右しますよね。まだ見たい作品はあるのですが。わたしもミンリャンはね〜。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20040501
   3229965