ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-05-10(Mon)

[]『リアリズムの宿』(山下敦弘監督) 『リアリズムの宿』(山下敦弘監督)を含むブックマーク

   リアリズムの宿―つげ義春「旅」作品集 (アクション・コミックス)(これはつげ義春の原作マンガ)

 ‥‥さびれた宿、砂浜、二人の男の間に突然割り込んで来る少女、少女に服を買ってやる男、男たちを残して勝手に出立してしまう少女。さらに、成り立たない男たちの会話、オフビートなエピソードの積み重ね。

 わたしがここで書いているのは、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という映画の事なのだけれども。

 これらのキーワードはすべて、昨日見た『リアリズムの宿』という映画と重なってくる。‥‥偶然? そうなのか? それですませていいのだろうか。この映画は、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の模倣である。もしも脳内コピーガードシステムなるものが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』という作品に施されていたならば、この『リアリズムの宿』という映画は、撮られる事さえなかっただろう。それとも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が製作されてからすでに20年、製作者はもう時効だと考えたのか、もう誰もそんな昔の映画は覚えていないだろうと踏んだのか。観客もバカにされたものである。そういうわたしもはっきりした記憶がないのだけど、この『リアリズムの宿』の中のカメラ・ワークも、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の中で見た事があるような動きもあった気がするのだが。

 しかも、この『リアリズムの宿』には、逃げ道が用意されている。この映画に描かれた時と場所は特等の非現実/非日常であり、この映画のラストで彼らの後ろすぐ近くまで迫っている現実と巡り会えば、この映画の中の時と場所はすべて笑い話の中に回収されてしまうだろう。もちろん、そのような軽さで映画が造られてしまう事までも否定しようとは思わないけれども、そのような逃げ道まで用意しながら、いったい何が欲しくってこの監督は映画を造っているのだろう。

[]『彗星の住人』(島田雅彦) 『彗星の住人』(島田雅彦)を含むブックマーク

   彗星の住人

 読んでいる途中で気がついてはいたのだけど、この本は『無限カノン』と題された三部作の「その一」なのだった。しかし、三部作、というのであれば、この『彗星の住人』という本単独で了解出来る部分があるはずだ、いや、一冊の本として独立して読書出来るはずではないか、と思いながら最後まで読み通してみたが、三分冊の長編小説の第一巻を読み終えたという感覚を持っただけだった。すべてはその二冊目、三冊目に続いている。19世紀の終わろうとする時点から20世紀の終わりまでの間の、親子三代にわたる、それこそ「海を越えた恋」の話を聞かされたが、「で、これからどうなるの?」と言うしかない。こういったシロモノを「三部作」という呼び方で売るのは、何か間違っていない?

 ‥‥仕方ない、とにかく、そのうち続きを読むしかないわけだ。だまされたね。

[]『ハリガネムシ』(吉村萬壱) 『ハリガネムシ』(吉村萬壱)を含むブックマーク

   ハリガネムシ

 この小説の中には、先日読んだ金原ひとみの『アッシュベイビー』と同じように、セックス・プレイの最中に、女性の傷口に男が指を突き込んで、欲望を増大させる男女の話が出てくる。別にそんな本ばかりを選んで読んでいるつもりはないんだけど、まいったね。

 しかし、この吉村萬壱の小説での描写に比べると、金原ひとみのそれは、いかに無邪気で美しくもロマンチックである事か。いや、この小説に比べれば、バタイユにしろセリーヌにしろ、実に優雅で、気品さえ感じさせるのである。このおぞましさ、このえげつなさを「読書の楽しみ」などと了解する事は不可能だ。読んだ事など忘れてしまいたいし、読んでいる途中で本を投げ捨ててしまいたくなる。

 例えば、つげ義春のマンガの中にも、日常のえげつなさの中に自己を沈澱させ、いっそ自己消滅までも謀ろうとする、一種自虐的な主人公が登場したりもするが、吉村萬壱の場合は、その日常のえげつなさの中に、犯罪に身を染めてしまうかもしれない恐怖から自分を守りきれないような主人公がいる。その恐怖が狂気(または狂気への親和感)とは呼べない所に、彼の小説の本当に奥深い恐ろしさがある。

 ただ、この『ハリガネムシ』では、根拠なくおぞましさだけを目的にされた描写もあり、作為が目立つ事もある。そういう意味では、この春に雑誌に発表された『岬行』の、静かなやりきれないおぞましさの方が恐ろしい。

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