ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-06-29(Tue)

[]『白と黒の恋人たち』(フィリップ・ガレル:監督) 『白と黒の恋人たち』(フィリップ・ガレル:監督)を含むブックマーク

   白と黒の恋人たち [DVD]

 以前、来日したラウール・クタール*1のトーク・ショーを聞きに行った事がある。語られた内容は、もちろん誰もが期待した「勝手にしやがれ」撮影秘話から、クタールの長いキャリア(もう45年か)全般に渉るさまざまな逸話を含む楽しいトークだったけれども、実はわたしは、演壇に登場したラウール・クタールの容貌に、ちょっとばかり圧倒された記憶がある。人の容貌の事をあれこれ言うのは基本的にやっちゃいけないことなのだけど、彼の場合、あの独特のレンズにまで生命の通ったような撮影技術はこの身体故なのではないか?って思ってしまう所もあったので、誹謗ではないと言う事でちょっと書いておきたい。‥‥とにかく、フランケンシュタインのモンスターのような輪郭の持ち主で、がっしりした肩と大きな頭。これならば、肩の上にカメラを乗せた時の安定度は、相当がっしりしたカメラ台に匹敵するものがあるだろうと思わざるを得ない。こんな事を言っちゃ失礼なんだけど、さながら「生ける撮影台」の姿を見たような感銘を受けたのです。

 で、このフィリップ・ガレルの2001年の新作は、そのラウール・クタールの撮影による作品である。もうこの人も今年で80歳になるはずなんだけど、あのがっしりした身体はそう簡単には衰える事を知らないのだろう。とにかく、独特の余韻を映像の中に定着する技術は、ここに来てますます素晴らしいものになっている。この人あたりになると、普段の生活でも外の世界をモノクロのコントラストで見ているのではないかと思ってしまう。

 さて、ラウール・クタールの事はちょっと離れて‥‥。

 今回もまた、ガレルの映画なんだからニコ*2の話。しかしながら、いつものようにガレルの個人史に潜り込んでいくような展開ではなく*3、一種普遍性のある主題へとリンクさせ、ちょっと社会性を含んだ展開になっていた。いや、面白かったのだよ。ガレルの作品をこんなに面白がってもいいのだろうかって。ハイ、面白ガレル作品です。な〜んちゃって。

 原題は「Sauvage Innocence」。営業効果を期待しての邦題だろうし、ヒネりもあるんだろうけど、やはりこの邦題には違和感がある。とにかくこの作品は、主人公である映画監督が「Sauvage Innocence」という作品を撮ろうとする話なんだし、「乱暴な純潔」? これをもうちょっと詩的にアレンジすりゃ良かっただけではないのか。

 死んでしまったキャロルという女性(つまり、ニコ)への追慕から離れられない映画監督のフランソワが、ドラッグ批判の新作映画のシナリオを書くんだけど、資金の調達が難航(ここで大物プロデューサーにすごいコケにされるのがリアルに悲惨だ)。ようやっと得体の知れないオヤジが出資者になるというけど、条件がヤクの運び屋をやる事。ここは妥協して(強烈な妥協だ)、街角で知り合った女優の卵、リュシーと恋仲になりながら、彼女を主役にしてクランクイン。しかしそのリュシーすらも‥‥、って話なんだけど、終盤になって、スクリーンの上で展開するシーンが、この作品の中で撮影されている劇中劇としてのシーンなのか実際に進行しているシーンなのか、テレコになってわかんなくなってくるところなんか、サービスだねぇー。

 ただ、この作品の中で主人公が「ドラッグは人を破滅させる、資本主義も中東では人の命を奪う」と言うように、この作品ではドラッグが資本主義のメタファーとして捉えられている部分もあるのではないだろうか。そうするとこの作品の視点はもうちょっとわたしなどに興味深いものに見えてくるのだ。そのように物語全体を読み替える事も出来る。つまり、反資本主義の視点を貫こうとしても資本主義の論理の中で制作しなければならない矛盾。これはある種の作家にとってはいまだに根本的な問題であったりもするだろうが、たとえどのようにマイナーな表現形態をとろうとも、基本的に資本主義の影から自由な作品造りは不可能なのかもしれない。で、妥協しても又裏切られ、作品製作自体が資本主義との争いめいてくる。一面(単純な予算争奪合戦)でわたしたちはそのような映画製作裏話をどれだけ聞いてきた事だろう。

 この作品がそのような視点からのメッセージだとしたら(とりあえず、この作品にはメッセージ色が強い)、原題の中に込められたフィリップ・ガレルの意思も、また違った視点から読み取れるような気がする。思っていたより硬派な人なのかも知れないな。

*1:言わずと知れた、初期のゴダール作品とは切っても切り離せない名カメラマンです。トリュフォーの作品にも彼の撮影による作品がたくさんあるけど。

*2:もちろん、あのVelvet Undergroundのファースト・アルバムで唄っていたNico。言うまでもなく、かつて彼女はフィリップ・ガレルと一緒に暮らしていた。

*3:このあたりはわたしの偏見あふれる見方のせいかも知れないが。

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■ 2004-06-25(Fri)

[] 『シンセミア』(阿部和重:著)  『シンセミア』(阿部和重:著)を含むブックマーク

 シンセミア(上)  シンセミア(下)

 ま、当初は知人の女の子に『シンセミア』って面白いらしいよ、って薦めようとしてたんだけど、自分で読んでみて、途中で、そんな事しなくってよかったよ、って思ったよね。でも、こうして読み終わってみると、『シンセミア』って面白いよ、って薦めてしまうかも。

 30分前に読み終えたばかりだからロクな事書けないし、どうせ後で書き換えるつもりだけど、とりあえずは、ワイドショー的視点で捉えられた「R−18」な『ツインピークス』だよな、って感じ。もちろんココには大江健三郎の『万延元年のフットボール』に影響された部分もあるし、中上健次もしかり。しかし、オカルト現象と狭い社会内でのおぞましい人間関係とを絡めて描いた、という点では、この作品はデヴィッド・リンチのほぼ未完のTVドラマに一番近しい所にいるのではないだろうか。この長い小説の中で、ある登場人物が「現実が見た通りとは限らない」と思考する場面があり、それは『ツインピークス』の中に通底するテーマ、「フクロウは見かけと違う」というキーとリンクしてくる。つまり、この壮大でおぞましいまでの一つの町の惨事、その全体像を把握する人物は一人としてこの小説には登場しない(おっと、一人いるか?)。にもかかわらず、全ての登場人物がそれぞれの準備する惨劇に対して、意識的/無意識的にリンクしあっている。ほぼ全ての登場人物が現実を見誤ったまま、その糸口をつかんだかと思える時に現実に裏切られて行くあまりに凄絶な終盤の50ページほどには、一種崇高なまでの感慨を覚えてしまう。

 と言いながらも、ほとんど何も解決しないままゴシック・ロマンの世界の中に吸収されてしまう『ツインピークス』の方が、わたしには好みなのだけれども、これは映像と文章という表現媒体の違いという事も考えてみるべきだろうし、そもそも『シンセミア』と『ツインピークス』を並列して語ること自体が、わたしの妄想の産物かも知れない。ついでに妄想を書いておけば、ローカルな設定、超常現象、暴力的な陰謀、と来て、ここに虐げられる無垢な存在が一つ加わると、花輪和一のマンガの世界になってしまう。せっかく溝鼠の視点まで入れたのだから、登場する小学生からの視点をを一ケ所でもまぜてたらパースペクティヴがボコッと拡がってたのではないだろうか。

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■ 2004-06-22(Tue)

[] わたしの外のコンテンポラリー・ダンス(1)  わたしの外のコンテンポラリー・ダンス(1)を含むブックマーク

 コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド (読んでません、ごめんなさい。本文とは基本的に無関係なのです)

 コンテンポラリー・ダンスという呼称で指し示されるのがいったいどういうダンスなのか、わたしには全然解っていない。ただ、自慢ではないけれど、この4〜5年のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるような舞台の主だったものは、けっこうな数見ている。だから、例えば年間に映画を100本以上見る人が映画についてつい何か語ってしまうように、CDを週に1枚は買ってしまう人が音楽について何か言いたくなるように、ダンスを見ると何か言ってしまう。これは一つには、わたしの貧弱な思考回路が、書きながらしか先に進まないという理由からでもあるんだけれど、だいたい、こうやって見て来た事を記憶の隅をたどりながら書き留めながら、「アレは何だったのか」などと考えながら書いておかないと、一週間も経つと何もかも忘却の彼方に消えてしまうし。情けない。

 ネット上だからといってわたしはここで批評家のように振舞おうとは思っていないし、ただ単に自分の好みを書いているだけ。で、そう言った「自分の好み」を文章に落とす事で、それが多少は自分のステップのための取っ掛かりになってくれている、と信じられる所があるから、こうやって書いているに過ぎない。ただし、人の眼にさらされる場で書いているのだ、という緊張感は多少は持っているつもりだし、ここで書いた事がどこかで批判にさらされるかも知れない事態を、ことさらに避けようとも思ってはいない。

 ただ、わたしはそのような訳で「批評」と呼ばれるような文章の書き手ではない。映画に関しては映画史、映画技術に関して圧倒的に無知だし、音楽に関しても断片的な知識しか持ち合わせていない。美術では近年の状況を見渡せる視野を持つ事を怠って永い。ダンスに関して言えば技術的な事は不明な事だらけだ。演劇はやっぱり歴史を知らない。こういう視点からいろいろな表現を見れば、基本的には書く事は「印象批評」のようなものに過ぎない。

 で、このような事を前提として、今日は、いったいわたしはコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるものの中に何を見ようとしているのか、そういう事を書こうかな、などと。

 大昔にわたしの友だちが初期の天使館に在籍していたので、笠井叡の公演はけっこう古くから見ている。ま、そのあと20年ぐらいこういった舞台を見る事から遠ざかっていたんだけど、しょっぱなが笠井叡だった、という事は、その後にこういったダンスを見るようになったわたしの眼に、ずいぶんと影響を与えている事だと思う。で、インディペンデントなイヴェントを自分で立ち上げ、しょーもないプロデューサーの真似事みたいな事をはじめた時に、突然自分のまわりに身体で表現する人たちが大勢いた。そういう人たちの見なれない表現の中で、わたし自身がいっぱい勉強させてもらった。もともとわたしのイヴェントがちょっとサブカル的な諒解をされていた事もあって、今考えても、「アレを今持ち出しても相当なインパクトはあるんじゃないの?」って表現がわたしの周りに充満していた気がする(自慢じゃないけれど、当時わたしのイヴェントに参加して下さった方で、今現在第一線で活躍されている方の数は多い〜ま、これはわたしの手柄ではないのだが〜)。

 だから、今でも、舞台を見る時の興味は、一面では「こういう人に参加してもらってイヴェントをやってみたいな」ってな不埒な感想であったりする。って、そんなしょぼいイヴェント、今では誰も出たがらないし、「ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス」なんか見てそんな事考えてたら、それこそ精神鑑定が必要だ。

 ‥‥平たく言いなおそう。わたしは基本的に「技術」などと言う問題に無頓着だ。例えばそれは、「技術論としてアングルとドラクロアはどっちがデッサンが巧いか」といった不毛な論議にたどり着く。そういう意味では、わたしにとっての「コンテンポラリー・アート」とは、一種「技術論」が無用になる地点から立ち上がってくる身体表現なのだろう。それはある意味「ポスト・モダン」以降の表現と言ってしまってもいいんだけど、わたしの中で「ポスト・モダン」という言葉はその居場所を定めきれずにあっちふらふら、こっちふらふらしてしまっているので、自分的にはこれはいつも「ポスト・パンク」と言い換えて解釈している。こんな事を言い出すとこの文章が「ポスト・パンク宣言」みたいな大それたものになってしまうし、「コンテンポラリー・ダンス」=「ポスト・パンク」という大風呂敷になってしまう。ま、わたしにとってはそういう事なのだけれども、めんどくさい問題になって来たな。わたし自身、自分がモノをつくったりイヴェントを企画するようになった背景には、「ポスト・パンク」と今では呼ばれる音楽を主流とした、80年代以降の時代の空気に強く影響されている。それは、わたしにとって、単純に言えば、「インディーズ」などと呼ばれるような自主企画からの表現が、商業主義的な世界の中からの発信と対等に渡り合える時代の始まりだった*1

 単純に言ってしまえば(これは実際に現場で作品を立ち上げておられる方々には失礼な言い方かも知れないけれど)、現在日本で「コンテンポラリー・ダンス」と呼称されているようなジャンルほど、インディーズくさいジャンルは、ほかに見つけにくいのだね。演劇で「小劇場」などと括ってみても括りきれるものではないし、映画の「単館系」にしても、それこそ音楽の「インディーズ」などという呼称も、もはや一つの方向性を指し示すものではない*2。で、ただひとつ、「現代美術」と呼んでしまえるようなジャンルのみが、「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれる世界と共通した問題を抱え、近接したフィールドで活動しているのではないだろうか? ‥‥これは今のわたしの中ではまだ「仮説」にとどまる所もあるのだけれども、これゆえにわたしは足げくダンス公演の会場に足を運んでいるのではないだろうか。

 おそらく、このあたりが、わたしはストレートなダンス・ファンではないのではないか、という最大のポイントだろう。だから、今ではすっかり、「自分が表現するとしたら」*3、もしくは、「こういう表現でイヴェントを立ち上げてみたい」という個人的な視点と、ダンスの舞台の上で起こっている事とを、通底させて見てしまっている。

 こういう事を「ポスト・パンク」などという言い方で括ってしまうのはずいぶんと乱暴だけれども、乱暴ついでに、日本で現在「コンテンポラリー・ダンス」と呼称されるような動きがどこから始まって来たか考えてみると、それはおそらく、一般的には勅使河原三郎の出現以降の事ではないのだろうか? どうだろう?(この前史として『山海塾』という「ポスト・舞踏」的な存在の事も考えなければならない、とか言うとキリがなくなってしまうけど)
 これがわたしの場合では、実は『珍しいキノコ舞踊団』の出現が一番ショックだった。そして、笠井叡の日本での活動再開。極端に言えばこの二組の存在がなければ、わたしはここまで「コンテンポラリー・ダンス」などと呼ばれる世界よりは、「アート・パフォーマンス」とか呼ばれている世界に近接していたのではないかな?

(長くなるので、ここで一度〆ます。あとは二次会の方へどうぞ)

*1:この事は、「インディーズ」などという呼び方よりも、「オルタナティヴ」と言ってしまった方が解り易い/誤解を生み易い、だろう

*2:「ノイズ」と呼ばれるジャンル(海外では「Japanoise」などと呼ばれる)へ親和性は持つけれど、少し一つのジャンルの中では方向性が狭いのではないかと思う面がある。どうしても、音楽の中での一つの方向、と言うニュアンスが消しされない。

*3:しかし、いつまでもその「表現」とやらをやらないヤツだなぁ、わたし。

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■ 2004-06-21(Mon)

[]『ビッグ・フィッシュ』(監督:ティム・バートン) 『ビッグ・フィッシュ』(監督:ティム・バートン)を含むブックマーク

 アメリカで80年代から活躍する非ハリウッド系の作家たち、デヴィッド・リンチやコーエン兄弟、そしてこのティム・バートンらの作品は、そのアメリカ文化への対抗ぶり、というか、距離のとり方が好きで、ずっと見続けてきたんだけれど、どうなんだろう、最近ちょっと様子が変だ。

 コーエン兄弟に関しては、今年になって『ディボース・ショウ』と『レディキラーズ』が立て続けに公開されたわけだけど、わたし、全然見る気になれなくってパスしてしまった。そもそも見ていないのだからあーだこーだ言う事は出来ないのだけど、とにかく「見よう」と言う気持ちが起きなかった。で、この『ビッグ・フィッシュ』もちょっと、積極的に「見たい!」と言う気持ちがあふれていたわけでもない。え?そ〜んなテーマの作品なの?と見る前に思ってしまったのが、コーエン兄弟やこのティム・バートンの新作。
 先に挙げた三組の監督たちの内、デヴィッド・リンチは『マルホランド・ドライブ』(01)の次がまだ、と言うわけだけど、どうなんだろう。 これは、見る側の私の意識が何か変わってしまったのだろうか? ひょっとしたら、それは、2001年9月11日と関係ある?

 先に妙な仮説を出してしまったけれど、とりあえずこの作品、ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』を見る。

 結論から言えば、やはりつまらない。彼の作品でこんなに失望したのは初めてだな。しかも、微妙にやばいぞ。

 主人公の父親の『ホラ吹き男爵』的な冒険譚を映像化するのはそりゃ楽しいだろうけど、ここで描かれる時代が、第二次世界大戦以後、70年代位までのアメリカの姿であるとすると、この作品でのティムの姿勢、ノン=ポリティックス、経済原理優先、という視点は、多くの現実をごまかして隠蔽するだけではないだろうか。いやいや、少々ナイーヴすぎはしないか?‥‥ティム・バートンの映画にそんな事を要求しても、などと言われてしまいそうだけど、『スリーピー・ホロウ』のようにあくまでフォークロア・ストーリーに限定するとか、『マーズ・アタック』とか『猿の惑星』みたいに、荒唐無稽に見える未来の設定のから微妙に現実を逆照射するようなのはまったく問題ない(というか、そこにティム・バートンの持ち味がある?)と思うんだけど、どうもこの『ビッグ・フィッシュ』に関しては素直に見ることが出来ない。で、それはやはり9.11と言う問題が影を落としているのではないか、と思ってしまうのだけど、その影が、スクリーンを見ている私の側にある問題なのか、この作品を作ったティム・バートンの側の問題なのか、ちょっとどうとも言い切れないところがある。

 勝手にコーエン兄弟とかデヴィッド・リンチとかと一緒にしてしまったけれど、ここにデヴィッド・フィンチャーとかの名前を並べてもいい。ま、コーエン兄弟の作品は見ていないし、デヴィッド・リンチは9.11以降の作品があるわけではないので、並べて書いてしまうのはちょっと問題あるか。でも、デヴィッド・フィンチャーの場合、『ファイト・クラブ』の後が『パニック・ルーム』というのは「へ?」だったよね、って感じが、このティム・バートンの新作にも感じてしまう。

 もしも今の時点で彼の『マーズ・アタック』や『猿の惑星』みたいな作品が公開されたのなら、「おいおい、キツイなぁ」という反応もあるだろう。デヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』なんか、日本人の精神構造ならばすべて廃盤回収破棄ぐらいの現実とのカブリ方で、『バトル・ロワイヤル』などの比ではないだろう。

 で、デヴィッド・フィンチャーにしても、このティム・バートンにしても、9.11以後の作品で双方とも妙に家族の絆みたいなのを全面に押し出した作品になってしまったのは、これは偶然なのだろうか? こういう疑問は、彼らの次回作、次次回作を見るまで保留にしておくべき所もあるので、ちょっとした疑問、という程度にとどめておくけれど、とりあえず、もう少しこの『ビッグ・フィッシュ』という作品を見てみよう。

 基本的には、「人は自分の体験したことは多少オーバーに他人に伝えるものだ」という話を、先に触れた「ホラ吹き男爵」譚的に、ティム・バートンらしいタッチで描いているわけだけれども、芝生付き庭のある家の並んだ、50年代風モダンな市民生活の映像は『シザーハンズ』だし、幽霊屋敷は『スリーピー・ホロウ』だったね、という自己模倣も気になる所だ。で、サーカス小屋が出て来た時には、「これこそティム・バートンにぴったりの主題ではないか!」と、ちょっと客席で小躍りしそうになったのだけれども、ただヴィジュアル的にさっさと通り過ぎてしまったのにもがっかりした。例えば『マーズ・アタック』でも、大統領は宇宙人に殺されても、勇敢に戦って最後まで生き残るのがヴェガスの芸人達だったりとか、彼はもうちょっとこういった芸人達へのシンパシー溢れるフィルムを造るはずなのだが、なんかおかしい。「水族館劇場」ではないけれど、こういった定住を拒否されたマイノリティが、実はアメリカという国の中に存在することを彼は今回語りたくなかったのではないのか、とまで勘ぐってしまう。で、登場人物の全てがこの映画のラストで、「善きアメリカ市民」として居場所を明らかにしてしまうのには、ネオコンの匂いまでしてきてしまうわけだ。

 一つだけ嬉しかったのは、かつてリチャード・トンプソンと一緒に来日した事のあるミュージシャン、「ラウドン・ウェインライト3世」が、市長役でちらっと姿を見せてくれた事。彼にはちゃんとしたヒット曲が1曲だけあってね、それは「Dead Skunk (On The Road)」って曲でね、要するに道の真ん中にくっさいスカンクの死体が転がってるよ、って唄。かつてわたしたちは、ライヴの会場でこの唄を、ラウドン・ウェインライトと一緒に皆で大合唱したのだよ。ははは、懐かしー。

 どうも、気に染まなかった映画の事を書きはじめるとキリがないので、このあたりで。

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■ 2004-06-19(Sat)

[]『SHIKAKU』 Noism04 (演出:金森穣)at 新宿パークタワーホール 『SHIKAKU』 Noism04 (演出:金森穣)at 新宿パークタワーホールを含むブックマーク

 金森穣、初めて観た。とにかく、全部立見だって言うからちょっとひいてたんだけど。

 会場の中にでっかいハコが仕込まれていて、それがさらに複数の区切りに区切られている。そんな中に観客はボコって放り込まれて、うろちょろしてると、パツキンでアフリカ部族みたいな衣裳着たダンサー達がが客をかきわけてやって来て、あちこちで同時多発的に踊り始める。あぁ、こういう光景はかつてどこかで観たなぁ。そうそう、ギャラリーでのパーティーで伊藤キムと輝く未来が踊った時だ。あの時はもっと客がたくさんいたし、もうダンサーは客にぶちあたりながら縦の動きしか出来ないような状況で、すっごく面白かったんだけど、ここではダンサーの邪魔にならない数しか客を入れていないし、ダンサーたち同士で勝手に遊んでいるだけ。だからこ〜ゆ〜ストリートっぽいの苦手なんだけど。あちこちで違う音が鳴ってるのも、そりゃそうでしょって、あまり面白い音でもないし。ストリート連中のトレンドみたいな音。

 これが30分ぐらい続いて、突然場内が真っ暗になる。で、そのでっかいハコに寄り掛かって「どうなるのよ」って思ってたら、ハコがグッて動いてね、あ、ごめんなさい、もう寄り掛かったりしませんから、って思ったら、ハコが全体にぐいって持ち上がって行って、会場は四角い広大な体育館みたいな空間に。で、ここから全員揃ってのダンス。なんかさ、マイケル・ジャクソンの「スリラー」とか思い出すのね。こういうストリート系のダンサーのやる事って。で、「ビリー・ジーン」って、めちゃカッコよかったよなぁ、負けてるじゃん、20年経つのに、なんて勝手な感想。んなことしてたら、全員で積み木積み上げて、明かりをもって並んでぐるぐる回りはじめる。新興宗教の儀式かよ? 政治結社の入団式? ごめんなさい、とってもついていけません。しかし、どうしてこう、観客に対して威圧的なパフォーマンスになるんだろう? 又は、どうしてこちらは「威圧的」と感じてしまうのだろう?

 ‥‥もう途中で帰ろうかな、なんて思っていたら、ふとしたきっかけから、あれ?なんか面白いじゃん。なんか昨日から男性の群舞にはまっているせいか、ちょっと惹き込まれて観ていたら、不覚にもどこかのだれかのように「グッ」と来てしまった。やばい、オレってファシズムの大衆煽動にノセられるタチだな。

 なんて言うんだろうね、これって、つまりは椹木野衣なんかの言う「悪い場所」としての現代・日本への視点を持ち得ない人物(ずっと海外にいたからしょーがないんだよね)が、「現代的」であろうとしてやってしまった表現、っていうか、一般に「J−POP」とかって呼ばれて流通している世界との親近性は大きいのではないのかな。美術、この美術の罪は大きいね。彼は国内事情は解っているはずだから。これではレトロ50年代モダニズムではないか。ダンサーの持っていたライトとかも含めて。

 とにかく、もう会話も成り立たない程に違う所に位置している表現であるはずである。しかし、以後、「コンテンポラリー(ダンス)」などと言う呼称は、このような存在に回収されてしまうようになる気がする。それはそれで「ロック」という言葉が国内的にどのように流通してしまっているかを考えればさけられない事、というか、ある意味喜ばしい事なのかも知れない。

 とにかく、今後もガンガン客を呼んでビッグな存在になるべし。わたしは多分もう見ないと思う。

[]リンゴ企画『私の恋人〜暇さえあれば体当たり〜』 近藤良平+黒田育世 at 神楽坂セッションハウス リンゴ企画『私の恋人〜暇さえあれば体当たり〜』 近藤良平+黒田育世 at 神楽坂セッションハウスを含むブックマーク

 リンゴ企画というのは、以前からこのセッションハウスでずっと続いている企画なんだけど、とりあえず入場料500円で観覧し、観たあとで観客が自分で値段を決めて払って帰るのね。投げ銭みたいなの? で、今年ここで4回開かれるリンゴ企画の現場監督を「コンドルズ」の近藤良平が勤めるという、その一回目のゲストが黒田育世。

 もう、タイトル通りの内容で何も言う事はないのだけれども、楽しい。楽しすぎ。

 近藤良平は、その「コンドルズ」の公演でもって、しょ〜もないギャグを連発することでも有名だけど、ま、今回はある意味その延長と言うか、ほんっとうにしょ〜もない。しっかし、その近藤良平と一緒になって吹きながらもしょ〜もないギャグを演じていっしょに飛び跳ねまくる黒田育世が、この企画にぴったりすっぽりとはまってしまっているのが驚くばかりにアホくさくもおもろい。近藤良平は以前にも野和田恵里花と組んでこのようなカップルを演じたこともあったけれど、アホくささにおいては今回に及ばないこと甚だしい。

 とにかく、思っていたよりもずっと長尺の舞台で、休憩をはさんで1時間半。おかげでコイツが終わってからもう一つ見に行こうと思っていた企画は、パスせざるを得なくなってしまった。

 一体全体、何がここまで楽しかったのか考えてみたんだけど、「異物」の挟み込み方が見事だったのと、その「異物」への向かい方が、二人ともとってもいいバランスだったんだな、って思う。それは、「音」も一つの「異物」(ラジカセから聞こえる音としてコントロールする)として扱っていた訳だし、「スイカ」(見事!)とか、「血」とか。このね、間違えれば観客がひいてしまうような「血」とかの使い方が、強烈だったかな。黒田育世が口からその血を吹き出した時に、もっと近藤良平のTシャツとかに飛び散ってたら凄絶なまでにすごいことになっていたと思うけれども。

 つまりは、この二人のダンサーが、普通では考えにくい取り合わせでありながらも、実はメチャ相性がよかったのだ、という驚きもあるんだけれど、で、これ以降、近藤良平の現場監督で面白い展開になりそうな人って、いったい他に誰がいるだろう? 黒沢美香? う〜ん、それはそれでスゴイことになりそうだけど、今回の黒田育世のように絶妙のバランスを醸し出させるような人は、もういないのではないだろうか。

 金森穣のチケットが5000円だったらこっちは10000円ぐらいになっちゃうんだけど、ごめんなさい、そんなに持ってないので、ちょっとケチッちゃいました。いくら入れたかは内緒。

lottalotta 2004/06/21 00:59 時々こちらを拝見していて、ものすごく感じるところがいっしょだなあ、と思っていたのですが、今日は違いました。

lottalotta 2004/06/21 01:03 私は「shikaku」にやられて動けないほどになっていたのです。で、ここを読んでハッと我に返っています。まあ、言われてみるとへんなパフォーマンスだったかも。でも、なぜか動けないほどの衝撃を受けてしまった。理屈ではなく体が勝手にそうなってしまったので、説明はできませんが、催眠術など暗示にかかり易いのでしょうか私は。

crosstalkcrosstalk 2004/06/21 12:58 lottaさん、意味深いコメントありがとうございます。この問題は、わたしがコンテンポラリー・ダンスなどの表現にいったい何を求めているのか、とでも言った根本的な(?)問題に結びついていますので、このあたりの事を含めて、ここへのコメントではなく、この日記の中に出来るだけ早い機会に、コラムのような形で書いてみたいと思います。もう少しお待ちください。

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■ 2004-06-18(Fri)

[]『アメリア』 ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス La La La Human Steps at さいたま芸術劇場 『アメリア』 ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス La La La Human Steps at さいたま芸術劇場を含むブックマーク

 ‥‥ど、ど、どうなんだろうと、期待と不安の入り乱れる公演がついに。

 とにかく、前回の『Salt』の出来にはそうとうがっかりしていただけに、本当はもう見るつもりもなかったのだけれど。ルイーズ・ルカヴァリエのいない「ラララ」は、もう終わってしまったのではないかと。まわりの反応も同じような感じで、こんな理由で今回の公演をパスした人も多かったのではないかと思う。しかも前回の来日から5年経っているわけだし、ちょっと忘れられかけた存在?

 で、先月のカナダ大使館での『アメリア』フィルム版の上映を見に行って、今回の公演も見に行く事に決めたいきさつはココに以前書いたけれど、とにかくその舞台が今日。

 客席はほぼ満員。当初チケットの売れ行きが全然伸びなかったようだけど(やはりコレは冒頭に書いたような理由からなのだろうか)、ここがこの『アメリア』の世界巡回公演の最終地でもあることから、招聘元も最後にはe+の得チケにダンピングして放出するなど(ちょっとコレはやらないでほしかった)苦労されたようだけど。

 ‥‥幕が開く。舞台中央、かなり客席に近い位置に、盾のようなかたちのスクリーンが上から吊るされ、ここに女性ダンサーの映像が写される。CG。まるでベルメールの関節人形のようにカクカクした動き。このスクリーンの前面、舞台の幕の位置全面に、枯枝を組み合わせたような、クモの巣のような幕(?)が降りていて、これが、そのスクリーンが降りて来て映像が写される時とか、後々まで何度も降りて来たり上げられたりする。観客の視覚に対して何か仕掛けようとしているのだろうけれど、わたしにはこれがどう機能しているのかわからなかった。もともと眼悪いし。

 映像が終わり、スクリーンも枯枝も上に去って行くと、真っ暗な舞台中央奥にほのかにスポットがあてられ、そこに座っていた男性ダンサーが、このカンパニーのトレードマークっぽく掌で顔を撫で上げる。スポットが消え、脇にいた別の男にスポット。こちらもちょっと顔を撫で上げて、姿勢を変えるとそれはピアノの前で、彼はこの舞台での音楽担当である。彼がピアノを弾き始め、その音に唱和してチェロ、ヴァイオリンも加わり、ヴォーカルが聞こえる。舞台中央に二つのスポットライトがあてられ、そこにスーツ姿の男性とレオタードの女性が現れ、踊り始める。このスポットといい、ここでの男女のデュオといい、あきらかに前回の『Salt』の発展型であり、とくにこの冒頭では女性は終始ポアントの姿勢をくずさない。で、その合間に、『Salt』でおなじみになった、ポアントの女性ダンサーを男性が補助してコマのようにクルクル廻す、あのシークエンスが挟み込まれて行くわけだ。

 こうして、基本にそういった男女のデュオを配置しながら、カンパニーのメンバーが入れ替わり立ち代わり現れては消えていく。って、これだと『Salt』とおんなじじゃん、って事だけど、少なくともダンサーの個性をそれぞれ引き出すような振付の変化、複雑な動作、そしてスピード感において、『Salt』をはるかに凌駕するものであった事は間違いはない。これは先日のカナダ大使館でのフィルム版上映の時、このカンパニーの振付家エドゥアール・ロック自身が、『Salt』の時の3倍複雑だ、って言ってた事だけど。

 しかし、疑問に残る点もあれこれと感じてしまう舞台でもあった。一つには先に書いた「枯枝カーテン」の効果。そして、あくまでもスポットライトにこだわり続け、執拗なまでにあちゃこちゃ動き回る照明に関しても、全編コレばかり、ということになると少々疲れてしまう(全てのスポットが一点に集中して、スポットをあてられた男性の白いシャツが、恐ろしいほどに真っ白に光って見えたシーンは、とてつもなく美しかったが)。この照明の問題は結局は振付の問題にもつながるのだけど、『Salt』にくらべると(いつまでも『Salt』とばかり比較し続けて、碌な客ではないな、わたし)格段に進化した、とは言え、やはりコマ廻しの振りはちょっと全体の比率で多すぎる。間にこれとは異なるソロや群舞が挟み込まれる事で救われてはいたけれど(実はわたしにはこれらの群舞の方がず〜っとエキサイティングだったのだ)、もう途中で「又かよ」などとついつい思ってしまう。作品として大きな流れ、展開はちゃんとあるのだけれども、表象としてはどの場面も均質すぎる。で、これに絡んで音楽。これがちょっと優等生的な「いかにも」という音楽であり、全体の構成の中で同じ音楽が繰り返される意味もわかるのだけれども、これも「均質」という印象を抱かせられる。あ、わたしが一番気に入ったのは録音音源での場面だったのだね(わたしとしては、今回の音楽は、その内容と照らし合わせれば、"Dead or Alive"の「You Spin Me Around」が最適だった、と思うけど。ははは、自分で書いて自分でウケまくりだよ)。

 わたしは、この「ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス」というカンパニーは、80年代にやっと現れた、ロック・エイジによる唯一無二のロックのダンス的表現ではなかっただろうか、と思っている。ま、ヤン・ファーブルにせよ、フォーサイスにせよ、ローザスにせよ、ロックという表現からの影響は見逃せないとは思うけれども、デヴィッド・ボウイやフランク・ザッパと共演したからなどというのではなく、表現自体の中にロックとの親和性をここまで内包しているカンパニーは、わたしの知る所では今ちょっと思い出せない(マイナーな所では、あれ、とか言えない事はないけれど)。
 で、その、「ロックとの親和性」とは何か、って考えてみると、それは、それまでの価値観を否定した所から立ち上がる「速度」であり、「暴力」であったりするのではないだろうか。それがこのカンパニーにおいて最大限に具現されていたのは、これは間違いなくルイーズ・ルカヴァリエ在籍時の事であっただろう。この時期の「ラララ」に特徴的だったのは、例え男女のデュオであったとしても、タンゴやバレエなどでのデュオとは異なりパートナーとの親和性は希薄であり、ロックをバックにして踊られるようになった「ツイスト」以降のユース・カルチャーのダンスのように、パートナーは基本では不要になってしまった、とも言える。で、荒技をやってのける時にサポートしてくれる存在としてのみパートナーがいる。サポーターがいないと自分は吹っ飛んで行っちゃうから。または、自分の技を加速させてくれる存在としてのパートナー。そういうのが80〜90年代の「ラララ」ではなかったのだろうか。そういう面にわたしなどは熱狂していたのではなかったのか。

 そういう意味で、『Salt』の失敗は、ルカヴァリエの脱退で速度も暴力も抜け落ちた時、非常に関係性の希薄な彼らのデュオの形態だけが残ってしまったゆえではないのか、とわたしは思っている。

 で、今回の『アメリア』、非常にそういう面では微妙、というか、とにかくかろうじてデュオが「見られる」ようになったのは、そこに男女の「関係性」を復帰させているためのように思える。それは、ある意味「ラララ」の方向性からすれば「後退」なのではないか、ということだ。結局、今回の『アメリア』でわたしが熱狂したのは、そういったデュオ以外の部分、途中の男性陣だけによる群舞とか、終盤の複数のメンバーによるルカヴァリエ在籍時の振付けの再現のようなシーンに見られた「暴力性」とでもいった部分になのだ。つまり、あの回転横っ跳びや、転がるダンサーを飛び上がってよける、などの、トレードマークと言ってもいいようなシーンに対してだったのだけど。‥‥これは、例えばディープ・パープルのライブに行って、「Smoke on the Water」のリフに熱狂してしまうようなもので、ムムム‥‥、である。

 この『アメリア』という作品のテーマを解きあかす作業も、それはそれでやってみたい気もするけれど、ちょっともう疲れた。ううん、トランス・ジェンダー? そういうテーマは以前から抱えていたようだけれども。とにかく、途中の男性たちのダンスがやさぐれていてカッコよかった。男だけのカンパニーになってもいいんでないの? ま、とにかく、このままではまさしく、過去のヒット曲で食いつなぐヘビメタ・バンドになってしまうぞ?

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■ 2004-06-17(Thu)

[] 「yes i said yes i will yes」 Bloomsday 100  「yes i said yes i will yes」 Bloomsday 100を含むブックマーク

   ユリシーズのダブリン (本は柳瀬尚紀訳のジョイスのアンソロジーみたいなの。読んだ事ないけど)

 ま、コラムってほどのモノでもないけれど。

 昨日は6月16日、ジョイスの『ユリシーズ』に書かれた1日はちょうど100年前のこの日にあたる。以前アイルランド旅行をした知人の話では、毎年この6月16日には「ユリシーズ・ウォーキング・ツアー」とか言うのが催され、「ユリシーズ」ゆかりの土地を歩き回るのだそうだ。当然それはこの小説の主人公であるブルームが彷徨した道筋にそっての行程なのだろう。このツアー以外にも、この日は「ブルームズデイ」と名付けられて、ダブリンの町中でいろいろなイヴェントが開催されるらしい。今年は100周年と言うことだから、その盛り上がり方も半端ではなかったことだろう。

 わたしが『ユリシーズ』*1を読んだのは、もう遥かに昔、前世紀の話になる。なんてことだ。とにかく、「コレは教養なのだから」と無理矢理読んだものだから、ほとんど何も頭には残っていない。で、ずいぶん経ってから、Kate Bushが「Sensual World」をリリースした時に、そのタイトル曲の主題が、『ユリシーズ』のラストの、有名なブルーム夫人の独白からとられたものだった事で、あ、そうだったなぁ、と『ユリシーズ』のことなど思い出した。
 ちょうど個展を控えていたわたしは、Penguin Bookの「ulysses」を買って来て、そのブルーム夫人の独白の部分(最後のページ)を開いてアクリルの箱の中に固定し、その表面に大きく「yes」という文字をプリントして、作品を一つでっち上げた。

 御承知のように、この『ユリシーズ』の終末、ブルーム夫人の独白の文章には句読点が(たしか、大文字も)一切なく*2、その文中には実に数多くの「yes」の単語が浮遊している。これは視覚的にもとっても美しいページだった。もちろん、この小説の最後の言葉は「yes」である。

 わたしも一度はオノ・ヨーコであり、ジェイムズ・ジョイスはオノ・ヨーコの先駆者だった、というお話*3

 BLOOMSDAYは終わってしまったけれど、このサイトはまだ生きているのかな?(日本語のページもあるよ)

 http://www.rejoycedublin2004.com

*1:今では文庫本で読めるのだね。

*2:日本版の翻訳(たしか伊藤整とかの手になる)では、すべてひらがなだけにしてあったと思う。「yes」は「そうよ」と訳されていたんではなかったかな?

*3:こう言う事をネット上で公開して書くと、必ずこういう文章を本気(マジ)に受け取ってしまう人間が出てくるが、少なくともわたしは本気(マジ)ではない。

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■ 2004-06-14(Mon)

[]『愛情十八番』Dance Company 枇杷系 (at 三軒茶屋シアタートラム) 『愛情十八番』Dance Company 枇杷系 (at 三軒茶屋シアタートラム)を含むブックマーク

 当日配布のパンフに「『翔ぶ娘』からの2年間、私達は遊んでいたというわけではなく、」などと書かざるを得ないほど、この二年間でちょっと「枇杷系」という存在は陰が薄くなってしまった。とにかく、誰もが認めるすばらしい資質を持ったダンサーが何人も在籍しているんだから、もうちと個々の作品発表の機会を持つべき。そのためには「枇杷系」という枠からはみ出るような活動を、個々のダンサーがもっと模索した方がいいと思うんだけど。

 てなことは置いといて、今回の公演。とりあえず連日満員で立ち見も出たようで、それだけ観客の期待も大きかったということだろうけれど、喜ばしいことではある。

 とりあえずフロントを天野由起子と尹明希、加藤奈緒子の3人が勤め、北島由里香、山本彩野がちょい役。清水啓司と服部晴子かゲスト待遇。トータルな舞台構成というわけではなく、その都度暗転して出演者が交代していく感じで、全体で五〜六部ってな構成。‥‥ということで、観客の感想は一様に「好きな所もあった」「いい所もあった」といった局所評価になってしまう。これはわたしにしても同じような感想で、そういう風にしか見ていけないのだから、これはもう仕方がない。

 率直に言えば、加藤奈緒子はどんどんいいダンサーに変身して来ているし、天野由起子も尹明希もその力量を見せてくれたと思う。しかし、これでもって「枇杷系健在なり」とはどうしても言えない。例えば、パンフに掲載された稽古ノートから読み取れる試み、(大地に痕跡を残す)とか、(シャックリのダンス)とか、課題としてはやりがいがあるのだろうけれど、観客の視点から見ればそれほどのインパクトがあるものでもなかった、ということだろうか。

 照明、音楽、美術もどこかおざなりで、特に美術に関しては、春のパークタワーでの黒田育世の公演の後、ここまでクリソツでしかもしょぼいもの見せられると、ちょっとあきれてしまう。どうひいきめに見ても、カンパニーという呼称では中途半端な舞台であり、ここまでそれぞれ資質の異なるダンサーたちが、こうして同一平面に立って同時に踊る事にどれだけ意味があるのか、とまで思ってしまう。はっきり言ってしまえば、この「枇杷系」で私が見たいと思っているのは各ダンサーのソロなりデュオであったりするわけで、それはつまりは「枇杷系」が自分たちのスタディオでやっていた『ダンスの発明』ではないか、と言うことになるのだけれども、この問いに対して「そうだ」と言わせないような力のある公演ではなかった、ということだろう(まわりくどい言い方だなぁ)。

 とにかく、もっといっぱい活動してほしい。(とりあえずは尹明希が6月30日の「横浜ダンス界隈」に出演、その後もモレキュラーシアターの公演に客演するらしい。楽しみ。)

武藤武藤 2004/06/14 14:55 ぼくはもう少し評価しますけどね。でも黒田育世はモロだし、あと砂連尾+寺田みたいな部分もありましたね。冒頭部分が終わって三人で並んで上手から下手へ移動してくるの。『跳ぶ娘』の天野さんのタバコはピナ・バウシュだし、山田せつ子は作家としてはパクり(カブり?)に対してはかなり無防備と見ました。

crosstalkcrosstalk 2004/06/14 20:21 ちょっと期待が大きかった分辛らつになっちゃいましたかねぇ。えんぺの1行レビューとかでは、武藤さんも含めて好評みたいですね。つい、皆があまりに誉めるからって気持ちも入っちゃった。でも、やっぱ、「いい所もあった」、までかなぁ。あ、ニブロールっぽい所もありましたね。カーテンコールのせつ子さんはピナ・バウシュ‥‥(うそです)

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■ 2004-06-12(Sat)

[]『春の惑い』田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)監督 『春の惑い』田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)監督を含むブックマーク

   春の惑い [DVD]

 三百人劇場、『中国映画の全貌2004』も明日まで、そのわたしが見る最後の作品は、4月にヴィデオで見たばかりの作品。つまり、わたしはこの作品がとっても気に入っている。おそらくは生涯ベストテンの上位にも入れてしまうんだろう。素晴らしい作品。

 で、この作品、ヴィデオ版とフィルム版ではちょっとした違いがあったのだ。つまり、このフィルム版では、本編が始まる前に状況を説明する日本語の字幕が挟み込まれている。で、この字幕のバックに陳敏(チェン・ミン)の二胡によるオリジナル音楽が流されるのだ。これは何でも「日本公開版イメージ曲」という事だけど、この字幕自体がまったく不必要なものであり(ちゃんと見ていればすべて映画の中から読み取れることばかり)、単にチェン・ミンの音楽を挿入するための方便だと言うことはミエミエである。ま、こういった事が配給会社の角川大映映画の意向なのか、上映したル・シネマの意向なのかはわからないけれど、こういった映画の内容にそぐわない企画はあまり納得出来るものではない。大げさに言えば、この作品の興行的な失敗の原因もこういう所から来ていたりもするのだ。

 それから、ヴィデオを見た時にここに書いた事で、二つ程誤りを書いてしまっているので、ここで訂正しておく。まず、この作品の原題。これはオリジナル版と同じ『小城之春』(英語題「Springtime In a Small Town」)だった。
 あと、わたしはこの作品にはほとんど音楽が使われてはいない、と思っていたんだけれども、非常に静かにではあるけれども、冒頭からもう音楽はひそかに流れ続けていた。

 そう、この作品は実に「ひそかな」作品なのだ。おそらくは胸が張り裂けそうな胸の高なりを押さえて、「平常」をふるまおうとする登場人物たち。その静けさの中で、夫の妹の16歳の誕生日の夜に一枚のガラスが割られる。そこにいたる妻の行動はほんとうに胸に迫る。可能であれば運命を動かそうとし、その運命が動いてしまうかもしれない展開に「おそれ、おののき」を覚え、それさえも乗り越えようとするのだが、そこには越える事の出来ない「倫理」がある。

 とにかく、ヒロイン(フー・ジンファン〜この役者が実にもってヨイ!)の造型がみごとなので、つい彼女を中心に見てしまうが、夫にせよ、かつての彼氏にせよ、その内面には強烈な葛藤を抱え込んでいるわけで、結局はみなが「倫理」の前で自分を殺す道を選択する。夫なんか本当に死のうとするし。このそれぞれの選択の重さ。「愛だよ愛!」などと、感覚だけで生きようとするヤツらに見せてやりたいけれど、そういうヤツらが見捨てたから、興行的には失敗したんだよね。

 ウチにはDVDプレーヤーとかないけれど、そんな文明の利器を入手したら、このソフトなんかはまっ先に入手したいな。

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■ 2004-06-10(Thu)

[]『ふたつの記憶 Illuminate Cabaret』羅天乃響 (at 両国シアターX) 『ふたつの記憶 Illuminate Cabaret』羅天乃響 (at 両国シアターX)を含むブックマーク

 この公演に特別出演されている小林嵯峨さんにすすめられて見に行った。とにかく、競技ダンスの世界でかつて何度も日本一になられた事のあるデュオとの事。わたしはてんで「競技ダンス」の世界の事などわからないのだけど、たしか、何種類かのダンスをペアで踊って採点するのではなかったかな? フィギュア・スケートのアイス・ダンスとかなら見たことあるけれど。

 だから、内心では、一体どんな派手でラテンなダンスが見る事が出来るのかと、ちょっと期待度は高かったのだけど、そういう気持ちは見事に裏切られた。すごい。動かないんだもん。あくまでもフロントは小林嵯峨にゆだね、当の本人二人は背景に沈んで行く。

 大野一雄のダンスを見て、「競技ダンス」からこういうダンスの世界に亡命(?)して来たというけれど、なるほどね。自己表現の中で表現を封印してしまう、とでも言えばいいのか、異様なまでに禁欲的な「羅天乃響」の二人をバックに(いや、これは「バック」ではないのだけど)小林嵯峨が踊る。小林嵯峨さんの探究精神の旺盛さにも圧倒される舞台。

 で、こんな音を一体どこで見つけて来たのか?と問いかけたくなるような不思議な音楽。おそらくは「競技ダンス」などの世界で使われれば効果的であるだろうような、没個性的な、ビート(リズム)だけが前面に打ち出されるような不思議な音。コンテンポラリー・ダンスとかのジャンルの人であれば、とてもこのような音では踊れないだろう。とにかく、まずはリズムに乗らなくては踊れない。そういう意味で、客演の小林嵯峨という選択は的を得ている。彼女にしてもこのような曲をバックに踊ることはなかっただろうけれど、そのリズムに乗るような無視するような、微妙なスタンスを保ちながら踊れるのは彼女ぐらいしかいないかも知れない。その背景に、「静物」のように「羅天乃響」のふたりが、ただ存在する。

 後でチラシを見たら、音楽はJ・A・シーザーではないか。やっぱ、ちょっとこの人は不思議だ。終盤はドイツ/イタリアあたりのキャバレー・ソングを使っていい味を出していたが。

 ただ、視覚的に楽しめる舞台かどうかと言うと、これは微妙だな。ある意味「ポーズ集」と言った展開ではあるし(いや、そりゃぁポーズをとることに命を賭けているのだよ)。

 とにかく、観念に奉仕して自己表現を封じ込めたような展開に娯楽性はないし、作品自体の完成度が高いか、と問うと、舞台美術を含めて再考の余地はあると思う。とにかく、今はまだ「実験段階」ではありますので、とでも言った舞台ではあった。大化けするかな?という期待はある。

 この「羅天乃響」は、7月の横浜での「大野一雄フェスティヴァル」の、何だっけ、大勢があちこちで踊る日、に、出演するらしい。6月30日だっけ?

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■ 2004-06-06(Sun)

[]『大いなる幻影』(水族館劇場)at 駒込代観音境内 特設野外劇場[風の城] 『大いなる幻影』(水族館劇場)at 駒込代観音境内 特設野外劇場[風の城]を含むブックマーク

 この劇団を「演劇」と呼んでしまうのも何か抵抗もあるのだけれども、わたしはこの劇団の公演はかなりな数見ている。特に現在の公演地、駒込大観音境内で興行をぶつようになってからは、毎回かかさずにその公演を見つづけている。って、要するに自宅から歩いていける距離、という次第でもあるわけで。団子坂を登ってどこまでも、本郷通りの方まで行っちゃうのだよ。

 そんなに通い続けるからといって、誰にでもオススメできるような完成度の高い芝居が毎回見れるわけでもなく、いつも3時間をゆうに越える上演時間は、観客にとっては間の持たない冗長で空疎な時間としか捉えられなかったりする。それでも毎回通ってしまうのは、そりゃあ、こいつが年に一度の「お祭り」だから、だろうか。とにかく、わたしの中では、この劇団の興行とは「反権力の意志に貫かれた手造りアトラクション」であり、見世物小屋やサーカスなどのすぐ隣にいる大衆演劇、なのだ。

 ま、わたし自身も、「いつまでも見つづけていても仕方ない」などと思ってしまう事もあるのだけれど、3年程前の公演(たしか、『パラダイスロスト』)が、予想外に、痛快なまでに面白かった事もあり、また、その後、一昨年、昨年の公演もそれなりの質を保ちながら、一貫して近代日本で虐げられてきた異民族日本人、定住を拒否された被差別民などの過酷な運命を描きながら、時空を越えてそれらが救済される視点を求め、それなりに完成度が高い作品ではあったのだね。だからついつい、今年もまた見に来てしまった。

 この日は朝から雨、やばいなぁと思っていたら夕方には雨も上がり、水族館日和である。去年もわたしが水族館を見た日には4時ごろから大雨が降り始めたのに、開演時刻にはすっかり止んでしまった。おそるべし、水族館劇場。


 この劇団の作品は、必ず特設テントの外、野外から始まる。この導入部を経て観客はテントの中に導き入れられるのだけれども、毎回この導入部のつかみはすばらしい出来栄えなのだ。とにかく、畳み掛けるようなテンポで大技小技、動物(!)を繰り出しながら、作品のテーマを提出して先に期待を抱かせる。もう、この導入部だけを取り出せば、こんなにすばらしい芝居というものもそんなにあったものではない。今回も、ラバ*1は出てくるわ、テントの上の(7〜8メートルの高さのところ)木製飛行機はプロペラを回しながら(ちょっとだけ)空を飛ぶわ、観客からは歓声と拍手喝采の嵐である(ほんとだよ)。しかし、雨が降らなくてよかった。

 こうして観客は劇団員の口上に案内されてテントの中に入っていく。テントとは言ってもその大きさはちょっとしたもので、300人は入れるだろう。そんじょそこらの小劇場よりもずっと大きいのだ。しかも毎年その外観は大きく変化する。時には高さ10メートルを超える廃墟ビルが、突然駒込にその姿をあらわす。
 えっと、今年は例年テントを建てる場所から移動して、少しいつもの年よりインパクトに欠けるかな。ま、このあたりはこの劇団のホームページを見てやって下さい。

 テント芝居にとって客入れは命。ま、命とまではいかなくっても、ここでもたもたしてしまうと、客の気持ちが離れていってしまう。とにかく、座長(?)の桃山邑自ら、ユーモアを交えて観客を誘導、20分程で300人からの観客を全員座らせてしまうのだから、ちょっとしたものである。

 てなことで本格的に芝居が始まるんだけど、もう大体この劇団の作劇法は定形が出来ている。千代次という、かなりブリっ子で実は年増な役者が毎回ヒロインを演じ、彼女の登場シーンではセンチメンタルな音楽が流される。物語は過去や現在を自在に行ったり来たりし、舞台セットはぐるりと回って、まったく別の空間に瞬時に転換する。客席最前列のすぐ前には水がはってあり、役者はそこに飛び込んだりそこから突然現れたりする。最前列の観客の前にはビニールシートが設置されていて、観客は「あぶない!」と思ったら、そのビニールシートを顔まで上げて水しぶきから身を守る。あと、たまに観客席にはヘビやカエルの類が投げ込まれる。クライマックスではストロボと共に上からも下からも大量の水がほとばしり、壮大な屋台崩しの後、ポッカリ空いたテントの外の景色を借景し、ラストになだれ込む。

 ‥‥こういう構造の上に、毎回異なるストーリーが展開する。これが「水族館劇場」の芝居である。

 で、今回の芝居だけど、ううん、ちょっとこじんまりしすぎた、と言うか、去年までの壮大(?)なスケールがない。チラシなどからアイヌ民族の話かな、などと思っていたんだけど、シベリアの話だった。見終わった後、観客があちこちで「今回は話がわかりやすかった」って言ってたけど(皆、リピーターなのね)、わたしはなんかわからなかったよ。

 ちょっと役者の事に触れておけば(あ、この劇団に「演劇的」な演技を期待しても仕方がないのですが)、去年までは姫草ユリという名で出ていたはずの、朽木幸子という女優が、突然の大化け。海から現れて男を破滅させる、オンディーヌのような妖しい役を、この劇団には珍しく、エロティシズムを発散させながら好演していた。胸も顕わな赤い襦袢姿で、頬に髪をまとわりつかせて(これがまたサマになってるのだ)、舞台の奥から眼を光らせるさまは、まるで丸尾末広の世界から抜け出してきたようだ。去年まではほとんど印象に残っていない女優だったのだけど、この一年間に、彼女にいったい何が起こったのだろう???

 ま、この劇団でエロティシズムといえば、この劇団に在籍するピンク映画界の大スター、葉月螢の存在を忘れるわけにはいかないのだけれど、彼女の場合は「水族館劇場」の舞台でそんなエロい演技をするわけでもないので、今回の朽木幸子はいっそう異例ではある。葉月螢、今回はおさげのセーラー服姿でも登場、「わたしは13歳よ」というセリフでわたしをわらかして下さいましたが。

 てなことで、さて、来年はどうしようかな。行くとしたら朽木幸子目当てだな。

*1:わたしはロバと思っていたけど、ラバらしい。って、どこがどう違うのか、彼ら

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■ 2004-06-05(Sat)

[]『盗馬賊』(ティエン・チョアンチョアン(田壮壮)監督) 『盗馬賊』(ティエン・チョアンチョアン(田壮壮)監督)を含むブックマーク

 『中国映画の全貌2004』4本目。いや、この『盗馬賊』は未だヴィデオ化されていない作品だし、このフェス全体で一番見てみたい作品だったのだけど、スケジュールの都合がつかず、半分あきらめかけていた。ところがもうそんなスケジュールなど無視せざるを得ない事態になってしまって、こちらの作品も晴れて見る事が出来るようになった。めでたしめでたし。

 『盗馬賊』は1985年の作品だから、もう20年も昔の作品なのだけど、この映像の力は、どんなに時を経ても色褪せる事はないだろう。傑作。

 この作品は、1923年から2〜3年間のチベット部族、その部族の中の、馬泥棒としてしか生きられなかったある男の流浪の軌跡を追いながら、チベット民族の宗教儀式、生活習慣などを再現して映像として収めているのだけれども、もう、この作品、ドラマを描いた劇映画と言うよりも、チベット民族の宗教と生活をフィルムに定着した、素晴らしいドキュメンタリー作品として捉えられ得るだろう。

 政治的に見れば、1959年の中華人民共和国によるチベット統合以来、「民主化」と言う名目で、チベットのこのような旧的な文化、生活は、改革されるべきとして消滅の憂き目に遇っていたはずであり、文化大革命の終焉以来の製作の変化があるにせよ、「超」がつくほどの他民族国家として、中華人民共和国が自分達の立脚する足元をこのような形で捉え得た、ということは、この作品が国内でどのように評価されたかは知らないけれど、非常に価値のある業績だと思う。

 そんな事はさておいても、この作品の圧倒的な映像の力には、完全にノックアウトされてしまう。荒れ地の中で生きてきた民族の生命力と、生き続けるための掟、そのような厳しさが見事に映像化されている。

 とにかく、中国映画、ジャ・ジャンクーと、このティエン・チョアンチョアンだけは見続けて行かなければならない。それがこのフェスから得られた事。

[]『いぬ屋敷vol.13 寿の間』
    SABOTEN
    原マスミ
    2004年の変身キリン
     at MANDALA2(吉祥寺) 『いぬ屋敷vol.13 寿の間』    SABOTEN    原マスミ    2004年の変身キリン     at MANDALA2(吉祥寺)を含むブックマーク

 ま、わたしは80年代のポスト・パンク(当時は「ニューウェーブ」とか呼ばれていた)にどっぷりとはまっていた人間で、輸入音楽に夢中になるだけではなく、同時進行していた国内の動向にも、眼を配れる範囲ではあちこち音を漁っていた。そんな中では「かげろうレコード」や「ゼロレコード」を中心とした、関西ニューウェーブ・シーンの動きが、一番興味深かった。そんな中に「変身キリン」っちゅうバンドがあったわけだけど、実は、残念ながら、わたしはこのバンド聴いてないのだな。年譜を見ると、メンバーを替えて87年ぐらいまで東京の方でも活動していたらしいけれど、当時のわたしのアンテナには引っ掛かって来なかったようだ。

 ただ、このバンドの初代メンバーでもあった須山久美子、わたしは彼女の「追っかけ」だったね。ま、追っかけとまではいかないけれど、彼女の東京でのライヴはだいたいチェックしていたんじゃないかな。アルバムも発売される度に買っていたし。(断わっておかなければならないのは、その後須山久美子が自作曲を中心とした活動を展開するとはいえ、「変身キリン」での中心は須山久美子ではなく、本田久作という人物のオリジナル曲を演奏する、本田久作のバンドだった、という事。)

 とにかく、彼女の何にそんなに惹かれたか、というと、やはり、それは「うた」という事になるのだろうか。ま、その「変身キリン」を脱退してソロ活動を始めた頃の須山久美子は、ジャンル分けすると「自作シャンソン」とでも言った世界を開拓しつつあったのだけれども、そんな中で、ライヴで唄われる『蘇州夜曲』や『'Round Midnight』などの既製曲で聴かれる圧倒的な力、これはもう完全にシャンソン、ロック、ジャズなどのジャンルを超越した、「うた」そのものの力に溢れていた。‥‥このあと彼女は、「結局シャンソンから学んだ事は何もなかった」とのコメントを残し(確かそう言っていたと思う)、ブレヒト・ソングの世界に飛び込んで行くのだけれど、このあたりでわたしは彼女のライヴからちょっと足が遠のいてしまったし、アルバムも買わなくなってしまっていた。それにはいろいろと理由があるのだけれども、ま、今回はそんな事は抜かして。

 ンな事してるうちに、昨年の夏に「変身キリン」の過去の音源がCD化されて再発された。このニュースはわたしは相当遅れて聞いて、もう冬になろうとする頃に、やっとそのCDを入手する事が出来た。そして、今年になって、須山久美子を中心に「変身キリン」が再結成され、関西でライヴが行われるニュースを聞いた。そのライヴがCD化されるであろうという事も。

 前置きが長くなってしまったけれど、今回のライヴは、その「2004年の変身キリン」によるCD発売に合わせた、東京でのライヴである。対バンは、これまた80年代からの長いスパンのキャリアを誇る「SABOTEN」、それから「ストレイシープ」の原マスミ、である。


 ‥‥とにかく、会場は超満員ではあるのだけれども、こ、こ、この客層は一体なんなんだろう???

 3/4、いや、4/5は女性客かもしれない。しかも、30代から40代の、ちょっとライヴハウスなどという空間とは不釣り合いなような、ごく普通の女性。で、メチャおとなしい。とにかく椅子に座ったまま不動。アーティストの演奏中も、全身これ微動だにしないのだな。無気味だ。皆、ライヴハウスでフルーツ・パフェとか食べてるし。とりあえずこれら出所不明な客と、今風のインディーズ大好きっぽい男の子たち、それから80年代に思い入れありそうなオジサンたち(わたしもこの中に分類されるのだ)など。

 こんな客に囲まれて、とりあえずライヴは定刻ピタリに始まる。

 ●SABOTEN

松本里美(vocal,guitar)
宮川いづみ(bass)
宮川篤志(drums)

 このバンドも一種「伝説のバンド」なんだけど、ちゃんと聞いたのは初めて。この観客の静寂感はあまりにもかわいそうだったけれど、いいパフォーマンスだった。かつては女性三人での3ピースバンドだったんだけど、今は、ベースの宮川いづみの旦那さん、「グンジョーガクレヨン」(!)のドラマー、宮川篤志さんがサポートしている。

 ‥‥とにかく、宮川いづみのプレイに惹きつけられる。一言も二言も多い、自己主張の強いベース・ラインには、この背後にはなにか強烈な現象があるのではないか?と、勝手な想像がふくらんでしまい、このバンドのカラーを決定付けている。よろよろと不安定に勝手にリズムが変化し、あるべき音がいつのまにか別の音に挿げ替えられる。基調はネオアコ風なギター・ポップなんだけど、何かがどんどんずれて行く。

 この宮川いづみ、滝廉太郎の血をひき、しかもあの「ダダカン」(糸井寛二)を叔父に持つという。「ダダカン」の親戚だという事がキャリアとしてどこまで有効なのかわたしにはわからないけれど、彼女にとってはそれは重要な事なのだろう。この「SABOTEN」とは別に彼女が進行している「Kobayashi」というユニットでは、もっとパフォーマンスじみた実験的な音世界が試みられているという事だ。そちらも見てみたい。

 ●原マスミ(guitar,vocal)

 ‥‥すいません。わたしには興味の持てない音世界でした(わたしのとなりにいたオジサンは彼目当てだったみたい)。

 ●2004年の変身キリン

須山久美子(vocal,accordion,piano)
小間慶大(guitar,vocal)
大熊ワタル(clarinet,bass clarinet,glockenspiel,accordion,vocal)
関島岳郎(tuba)
中尾勘二(drums)

 とにかく、あくまでもフロント・アクトは須山久美子。ある意味、須山久美子&Her Bandといった感じなのだけど、何と豪華なバックバンドであることよ。このバックの4人に共通しているのは、あのアングラテント芝居小屋「野戦の月」のライヴ音楽をが全員担当していた事がある、という事なんだけれども、そういう意味では、近年ブレヒト・ソングへの傾倒を深める須山との相性はばっちり、というか、そういう意味ではシアトリカルな音世界が展開されたのだ。このポイントで見る限り、再発されてわたしもはじめて体験した、オリジナルの「変身キリン」の音との乖離は大きい。本当はわたしなどは、もっとてらいのない、ストレートなロックの世界への回帰を須山などには期待していたのだけど、このような展開はこのメンバーならば最初ッから予測できたことだ。いや、それが気に入らないという事ではない。

 ちょっと余計な説明をしておけば、このライヴでフロントに立った3人、須山久美子、小間慶大、大熊ワタルの3人は、80年代の音楽シーンでは皆それなりのスタンスを保って来た人々だ。小間慶大は町田町蔵の「INU」のメンバーであり、関西パンクの展開の中で当時から須山との交流はあったらしい。その後の小間慶大は、向井千恵さんの「Che-shizu」のメンバーとして先頃まで活動を続けて来た訳だけど、向井さんが先日「Che-SHIZU」を本当に解散してしまったらしいので(なんでやねん)、今後の活動をどうするのか、ちょっと気にはなっている人物。大熊さんは、80年代に東京組としては珍しく「ゼロ・レコード」からアルバムをリリースしていた「ルナ・パーク・アンサンブル」の創設メンバーであり、今は「CICALA-MVTA」のリーダーとしてね、超有名。また余計な事を言っておけば、関島岳郎にせよ、中尾勘二にせよ、故篠田昌己の「コンポステラ」のメンバーなんだね。

 そういう意味では、80年代にそのスタートを切り、いまだに独自の活動を継続するアーティストたちが一同に介しての、ある意味スーパー・バンドとしての側面が、この「2004年の変身キリン」にかいま見る事ができる。

 ま、そういう中で今回のライヴを見て感じたのは、須山久美子というのは、いかに「ことば」を大事にする歌手(唄い手)になったか、ということ。こんなに言葉をクリアに唄える(観客に伝えられる)歌手は、そんじょそこらにいるわけではない。これは彼女が「シャンソン」から「ブレヒト」を経ながら手に入れて来たモノなのだろう。そして、その声をサポートするバックバンドとしての他の4人が、やはりただならぬ力量である。同窓会じみた和気藹々たる雰囲気の中で、なおも真摯な音表現が実現されたこのライヴ、稀に見る「楽しい」ライヴであった事は間違いない。あくまでも大人しい観客の事は、わたしにはいまだに謎だけれどもね。で、今回はオリジナルな楽曲ではなく、「変身キリン・ソングブック」とでもいった、本田久作(この人、今では新作落語の脚本を書いているらしい!)へのオマージュという基本姿勢もまた、このライヴを心温まるものにした基本要因ではあるだろう。

 うれしい事に、このメンバーは、しばらくはパーマネントなバンドとしての活動を続けるらしい。ここからさらに、2000年代を射抜くような新しい展開が生まれる事を期待しつつ、また聞きに行きたいと強く思うわたしであった。というか、今や、ロックというジャンルは、演奏者が40代以降になってはじめて、コマーシャリズムとは離れた真摯な表現が可能になるジャンルでもあるのだ。

■ 2004-06-04(Fri)

[]『たまゆらの女』(スン・チョウ(孫周)監督) 『たまゆらの女』(スン・チョウ(孫周)監督)を含むブックマーク

   たまゆらの女 [DVD]

 千石の三百人劇場、『中国映画の全貌2004』3本目。スン・チョウ監督というのは見た事なし。『心の香り』とか『きれいなおかあさん』という邦題に、まずは食指が伸びない。これだって、『たまゆらの女』、普通、見ません。川端康成読んでた方がいいや。

 って、なんで見ちゃったんだろーね。普通の自分の判断通りスルーしときゃよかったんだよ。回数券5枚買っちゃったのがいけない。『グリーン・ディスティニー』にしておけばよかったんだよ。いや、ついね、この映画の舞台が雲南省だと聞いたもんで‥‥。

 とにかく、週に二回、恋いこがれる詩人のところへ片道5時間の列車に乗って遇いに行く、長距離恋愛話なんだけど、この作品では「場所」とか「距離」とかはどうでもいいんだね。おまけにその詩人はチベットに行って教師になっちゃう。どうもそういう辺境という場を、ロマンチックな想念を沸き立たせるためにだけ使っている。『北の国から』みたいなものか(見ないからいい加減な事は言えないが)? しかし、チベットはやばくない?

 で、詩人と獣医(スゲエ取り合わせだな)、二人の男の間で揺れる女性心理、というふれこみだけど、それって『突然炎のごとく』?って思ってたら、ほんとうに車(バス)が川に落ちて死んじゃった。

 とにかく、がさつでデリカシーに欠ける画面(脚本)が、これでもか!と連続して来て、途中何度席を立とうと思った事か(唐突に妙なスローモーションが始まった時には吹き出してしまった)。ま、ある種のヨーロッパ映画を規範にしたいんだろうけれど、風景も人物も時間も瀕死状態の中であえいでいる。ただ、コン・リーだけが、「フランスにイザベル・アジャーニあれば、中国にコン・リーあり」と大きな看板を掲げるに値する妖怪ぶりで、恐れ入りました。

[]『阿修羅ガール』(舞城 王太郎:著) 『阿修羅ガール』(舞城 王太郎:著)を含むブックマーク

   阿修羅ガール

 つーか、面白かったんですけど。一気読み。「純文学」、死ね!っつーか、んなことは思っていないけど、島田雅彦より面白いぞ! 舞城!

 いや、実はコレより前に舞城王太郎の作品としては、雑誌に載ってた福井の山奥の背中に鬣(たてがみ)生えてる男の子の話(タイトルを忘れたのだね)を読んではいるんだけど、あっちはどうも「???」と、イマイチ面白みがわからなかったんだけど、この『阿修羅ガール』を読んでみると、もう一回読みなおしてみたくなっちゃうんだね。森の中の世界。21世紀型大江健三郎かよ、って感じ。
 この作品では「森」が福井県にいっちゃってるわけではないけれど(いや、フィンランド?だよ)、「ヴァーチャル・リアリティ」なんて言っちゃうとお門違いになってしまう、「仮想空間」としての「森」という空間が世界を逆照射するような痛快さ。足を踏み入れてみると、意外とその地平は彼方まで拡がっている。これは痛快な文体の力だけではないだろう。

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■ 2004-06-02(Wed)

[]『ゾンビ:ディレクターズ・カット・エディション』(ジョージ・A・ロメロ監督) 『ゾンビ:ディレクターズ・カット・エディション』(ジョージ・A・ロメロ監督)を含むブックマーク

   「ゾンビ」(1978)ディレクターズ・カット・エディション [DVD]

 先日『ドーン・オブ・ザ・デッド』を見たものだから、ついでに本家本元版を見ちゃったのだね。

 ザック・スナイダーのリメイク版は、先日書いた通り、やはりいいんだけれど(こちらのオリジナルを見て基本的に見方を変えた部分はない〜疾走するゾンビに違和感を覚えるオリジナル版のファンの戸惑いは理解出来るが〜)、こちらもこちらで、想像していたのとはまったく違った、いい作品。もっとエグい作品だと思ってた。

 とにかく、主要登場人物4人が皆、どのような意味ででも、どこまでも人間的であろうとする意志を持ち、その意志が映像表現の中に貫徹されている事。特に、ラストに一度は自殺を考えながらも、翻って生への希求へ手を伸ばすピーターの「悲しみ」の感覚が、この作品の基調低音のように常に響いていて、作品の深みを増している。そういった意味でも、まずは脚本の上手さ。誰も「そんなバナナ!?」といった、ストーリー展開のためのあり得ない行動を取らないし、実にクレヴァーで理性的。そこがこの作品に説得力のあるリアリティを与えている。その脚本を、まるで映画造りの教科書のような見事なカット割りと編集が支えている。余りにも破綻がなさ過ぎる事こそがこの作品の欠点でもあるのだけれども、あっという間の140分だった。

 ‥‥で、どうもこの作品を見ていると、これって「アンチ・ドラッグ・キャンペーン映画」ではなかろうか、などとも思ってしまうのだけれども、わさわさと出て来るゾンビ連中は、基本的にウザったいだけでほとんど恐くない。まさしく脳死状態で、こういうヤツは今のこの東京で電車に乗っていても町を歩いていてもいっぱい出くわすヨ。ところがその数があまりにも多いから、その渦に飲み込まれてしまったり、「まさかこんな所では出くわさないだろう」と思うような所で、ふいをつかれたりしてしまう。って、この作品ではンなゾンビ野郎共よりも、まだ人でありながらも倫理をなくしたヤツらの方が、ずっと始末に悪いという事でもある。

 というより、この作品で一番印象に残るのは、登場人物4人がショッピングモールを占拠して、「何一つ不自由のない無人島暮し」を始めるくだりなのだ。もうストーリー展開から外れてしまって、ほとんど「無駄」と言ってしまってもいい位に、管理システムや他者に邪魔されずに自分達の生活を始める主人公たちの描写を長々と挿入する。いったいこの作品の主題は何なのか。隣人たちは脳死状態の「ゾンビ」であり、自分達の外のシステムは皆停止してしまっている。この作品の主題は、実は厭人感(人間嫌い)の表明であり、どこに行っても溢れている見知らぬ他者、その見知らぬ他者の集合で成り立つ現代社会のシステムからの離脱の表明なのではないか、と思ってしまうのだ。そうすると、先に書いたピーターの「悲しみ」とは、現代社会へのペシミズムであり、そこにわたしのような観客は共鳴してしまうのではないだろうか。


 ‥‥この世はすでに「ゾンビ」に溢れている‥‥のか?

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■ 2004-06-01(Tue)

[]『ソラリス』(スティーブン・ソダーバーグ監督) 『ソラリス』(スティーブン・ソダーバーグ監督)を含むブックマーク

   ソラリス [DVD]

 ま、一種『2001年宇宙の旅』のリメイク企画(などというものがあるわけない)に匹敵する暴挙なんだから、どうも見る側もついつい野暮な感想しか持てなくなってしまう。

 とにかく、タルコフスキー版とは「別物」と、すっかり言い切れるような作品ならいいんだけど、いきなり「水」だしね。較べろ!と言われているような気分になる。

 だから、このすっかり無機的な、ジョージ・クルーニーの家のキッチンの寒々としたアトモスフェア。ここで生き残るのかよ。「愛」があれば、って?

 この作品では「ソラリス」という「観念」がまったく描かれていないから、結局ラストの選択にしても、生涯マスターベーションをやりつづける道を選択したのだよ、という事にしか受け取れない。それはそれで蠱惑的だろうが、チンパンジーでも選択できる道だろう。あ、倫理がなくなってしまったというだけの話だから仕方ないのか。タルコフスキーの『惑星ソラリス』で選ばれた「生き残る」という意思との隔たりは、あまりに大きい。

 ソダーバーグの『カフカ/迷宮の悪夢』は相当に好きな作品なんだけど、いつまでたってもアレに匹敵する怪作を創ってくれない。

[]『赤い部屋の恋人』(ウェイン・ワン監督) 『赤い部屋の恋人』(ウェイン・ワン監督)を含むブックマーク

   赤い部屋の恋人 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 原題は「The Center of The World」。ひょっとしたら「愛を叫ぶ」ような映画なのか、と思ったら、その通りだった。

 この作品、脚本にポール・オースターが協力しているように伝えられているようだけれども、彼は最初にアイディアをいくつか提供しただけで、この作品の脚本には一切かかわっていないということだ。

 パソコンを介してのヴァーチャルな世界としか接触していない男が、リアルな存在を求め、行きずりの女性(ストリッパーなんだけど)に金を払って、ヴェガスのホテルに一緒に泊まってもらう。わたし、実はこの女性をモリ−・パーカーが演じているもんで、つい見てしまったんだけどね。

 とにかく、「大きなストーリー」を持つ映画ではないんだけれども、実にきっちりと撮られていて、物語とかそういうものを離れて、「映画自体」を楽しむ事が出来た。こういう、人物と人物との関係をじっくり見据えるような作り方は、50年代のハリウッド映画を思わせるところがあって、ある意味ウェイン・ワンのお勉強の成果、という感じもする。クリント・イーストウッドの前の作品『ブラッド・ワーク』とかを、ちょっと思い出した。

 佳作でした。

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