ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-08-31(Tue)

[] 『パーク・ライフ』 吉田修一:著  『パーク・ライフ』 吉田修一:著を含むブックマーク

   パーク・ライフ

 有楽町一帯を誕生日ケーキに例え、スパッと切ってみるとスポンジ部分はスカスカ。そんな導入部から、小さな気球で空高くから日比谷公園を見下ろすと人体の構造に似ているだろうといった視点とか、都市を人の目から離れて俯瞰しようとしているのだろうか。著者の外へのイメージの描写力に頼ったような、旧的な小説という印象。そこに「日比谷公園」という妙に実態の捉えにくい場所をセンターに持ってきて、一般的な東京という概念からすこし距離をとっている。

 一人称記述からは主人公以外の人物の内面は想像もつかない、というか、この主人公はあまり他者の内面に踏み込もうとはしない。で、表象としてしか認識されないような他者たちと、自分の事もあまり多くは語らない主人公との、あいまいでつかみ所のない日常。で、そういった、都市での人と人との関係の希薄さ/曖昧さを人肌程度のぬるさで語る。これが今のリアリティ、らしい。

 しかし、この小説の主人公が外に向ける眼は、一種クレヴァーで的確なのだけれど、社会人になっても高校時代の片思いの女性が忘れられないとか、電車の中で知り合った名前も知らない女性に、ダ・ヴィンチの描いた性 交中の「人体解剖図」の話をする*1とか、なんちゅうか、童 貞っぽい。変な男だ。で、これは作者の意図なのかもしれないけれど、リアリティとして「それはないんじゃない」って言うのがこの作品の中に何ヶ所かあって、それが気になって仕方がない読後感。

 例えばこの主人公は毎日昼休みに日比谷公園に行くのだけど、その昼休みが終わるのはどうも午後3時らしい。で、電車の中で会ってその後も日比谷公園で会う女性も、同じ時間帯の昼休みらしい。日比谷周辺ってそうなの? 主人公の勤める会社は、女性雑誌に見開き3ページのカラー広告を掲載するというのに、主人公に言わせれば「小さな会社」らしいし、こんな箇所が他にもあれこれあって、すごく変。どうなのよ? こういう所で、この作者が目指しているであろう「リアルさ」がこちらに伝わってくる事が出来ないもどかしさを感じるのだが。

 実は、ちょうどこの小説を読むのと並行して、あの『電車男*2』をやっと通読したのだけれど、こちらを「文学作品」として捉えるか否かという問題は別にして*3、都市に住む青年男女の物語として、ある面では『電車男』の方がよほどリアリティがあると思ってしまった*4。例えば、この『パーク・ライフ』では「スターバックス」がキーワードのひとつとして引き合いに出されるが、この小説でのいかにも内省的な読み解きに比べ、『電車男』において、「HERMES」というひとつのキーワードから出発して皆で世界を読解し、その通路を探り求める展開は、冒険小説の王道と言うか、そこから近年味わったことのない爽快なカタルシスを得ることになってしまった。そう、この『電車男』は、ある意味で、共同作業として「都市」や「他者」、「現在」を読み取ろうとした試みと解釈できる。

 この『パーク・ライフ』という本にはもうひとつ、『flowers』という作品が掲載されているのだけれど、主人公の勤務先との心的距離とか、近しいところも読み取れないではないのだろうが、同じ本の中で『パーク・ライフ』という作品と並べるには違和感を感じたし、この作者は肉体労働を軽蔑しているのではないのかと、少し思った。主人公の妻が所属する劇団というのも、いろいろとリアリティのない変な存在だ。

 

 

*1:こういう、作家の衒いのために非現実的な男女の会話がでっちあげられる好例。文学少年はこ〜ゆ〜ののマネをして悲惨な目にあう。対称的なものとして、サリンジャー(好きなわけではないけれど)の小説では、ある女性が気取った男の吐く「睾 丸的」という言葉で卒倒してしまう。ま、そこまでオーバーにビビッドに反応しなくってもいいとは思うが。

*2http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/7075/trainman.html

*3:わたしは『電車男』を読み終わって、これは「文学作品」だと思ったが。

*4:もちろんこれは、『電車男』が「現実」の話だから、と言っているのではない。

summercontrailsummercontrail 2004/09/01 20:21 そうした非現実的な会話の例として、私は村上春樹の作品を思い浮かべてしまいます。それほど熱心な読者ではありませんし、おそらく少数派でしょうけど…。
電車男は微細なレベルでのビルディングス・ロマンとして読むことも可能かな、と今少し思いました。

crosstalkcrosstalk 2004/09/01 23:51 あ、そうか。村上春樹ですね。このイヤな感じはどこか既読感があると思っていたけれど‥‥。ずっと村上春樹には手を触れていないので、忘れていました。
「電車男」は、みるみる育っていきますからね。ラストのデートに出かける時の、自信溢れる出発の言葉には感動します。

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■ 2004-08-28(Sat)

[]  『団地の奥さん、同窓会に行く』 サトウトシキ:監督
 日本映画考Vol.1 -A New School of Pink-Moviesより。at アテネ・フランセ文化センター   『団地の奥さん、同窓会に行く』 サトウトシキ:監督 日本映画考Vol.1 -A New School of Pink-Moviesより。at アテネ・フランセ文化センターを含むブックマーク

   

 わたしは熱心な「ピンク映画」のファンというわけではないけれど、日本という国での表現の重要な「エッジ」の領域として、ある種の美術や音楽、小劇場演劇、コンテンポラリー・ダンス*1などと同じようなフィールド*2でクロスしてくるような表現だと思って、機会があれば見るようにはしている。

 ま、そんなにたくさん見ているわけではないけれど、わたしにとっての「ピンク」の最大の収穫は瀬々敬久監督の存在で、彼の『雷魚(黒い下着の女)』などは、わたしの生涯ベストテンに必ずランクインするね。現実に起きた事件に想を得て、日本の風景を巧みに取り入れながら進行する、現実と隣り合わせに強烈なまでに空転する人々のドラマは、ある意味わたしが映画という世界にもっとも求めていた世界であり、彼の作品はできる限り全部見たいと思っているし、『トーキョー×エロティカ』とか、『汚れた女(マリア)』なども、相当の傑作である(とわたしは思っている)。

 で、サトウトシキ。この監督の作品は3本ぐらい見ているかな。『迷い猫』、『不倫日記 濡れたままもう一度』、『夢なら醒めて』、かな? 他にも見てるかもしれないけれど、この監督の作品の魅力はもっと映画的なものであり、それは例えて言えば、台風の眼に入ってしまったような、ピーカン晴れの無風状態でありながらも異様に気圧が低い世界なのだ。そんな地平から一種すっとぼけた絶妙の間合いのユーモア世界が生まれ、また、どんなフィルム・ノワールも手本にした方がいいんじゃないの?と言うようなクールで醒めた世界が繰り広げられる。

 例えば『不倫日記 濡れたままもう一度』では、ヒロイン(これが葉月螢だったりするのだが)が途中で殺されてしまうのだが、絶妙のタイミングでの「こうしてわたしは死んでしまいました」とのナレーション(とにかく観客爆笑。ヒロインが死んでしまったと言うのに客が笑ってしまうとは何ごとだろう)の後、ヒロインは幽霊として以後も主役の座を勤め上げる。『迷い猫』や『夢なら醒めて』での、リアリズムから距離を置きながらも実にリアルにクールな世界を現出させる手腕も素晴らしいと思う。

 この『団地の奥さん、同窓会に行く』は「喜劇」である。脚本は、ピンク映画界でいくつもの傑作を書いている小林政広。で、内容は「ピンク業界自虐の歌」てな感じで、現実にピンク映画界で数多くの作品で主演している川瀬陽太が、この映画の中で新婚で新人のピンク男優の役で出てくる。ま、この男優がピンク映画の撮影現場でしごかれるありさまを、内状暴露的におもしろおかしく作品にしたって感じなんだけど、これに並行して、その新妻(佐々木ユメカ‥‥この女優がいいんだな)が高校の同窓会に出席して、かつての同級生とホテルに行っちゃう話とが交互に描かれる。で、とにかくこの編集手腕とかがすばらしいのだね。前半は、これはもう映画作りの教科書にした方がいいのではないかと思えるような見事なカット割りであり、後半にはハッと驚くような美しいショットがあれこれ挟まれてもくる。ま、この夫婦が夜にセックスに励んだ直後のカットが、バイトしてる旦那が工事現場でせっせと穴掘ってる、なんてえのはひょっとしたら定番なのかも知れないけれど、わたし的には笑った。

 ‥‥なんか、この文章長いな。ピンク映画だと延々と書いてしまうというのも困るな。この後にそのサトウトシキ監督や瀬々敬久監督、今岡信治監督*3などのトーク・ショーがあったのだけれど、もうその事を書くのはやめておこう。


 

[] BATIKダンス公演『SHOKU-Full Version-』 黒田育世:振付 at 三軒茶屋 シアター・トラム  BATIKダンス公演『SHOKU-Full Version-』 黒田育世:振付 at 三軒茶屋 シアター・トラムを含むブックマーク

 「SHOKU」とは「触」の事。使用している音楽との関係で組み立てて行く所とか、先日見た「yummy dance」をちょっと思い出したりもしたけれど、このBATIKのダンスをそのまま表わせば「naughty dance」。実にお行儀が悪いダンス。これが終盤ではもう「nasty dance」てな所まで行っちゃうんだけど、ちょっと乱暴すぎるのではないかと思ってしまうような舞台空間の上で、実に楽しそうな表情で嬉々として踊っている黒田育世の姿を見ると、これは彼女にとっては実に自然な表現なのだと納得される。

 この春のパークタワーでの公演でも感じたのだけれども、バレエへの悪意、というか、バレエ的表現を否定して自分なりの表現を発見するまでの、黒田育世のダンス史のようなものが構成の根底にあるように受け止められる*4。で、それがバレエ音楽としてのクラシック音楽から緩いサンバ、そしてロック(Led Zeppelin!)へと追って使用される音楽とうまくリンクされ、大きなグルーヴ感を舞台から送り届けられる*5

 中盤の、上から4つのマイクスタンドが降りて来て、それをロックのバック・ヴォーカルのように使って*6ソロが繰り広げられる場面は、初演の時からわたしの好きな場面で、まるでティナ・ターナーのエキサイティングなライヴみたいだ。

 ただ、終盤の、女性の身体の生理的側面を前面に出すような演出は「ちょっとこまったなぁ」という感じもあって、ま、「股間ライト」はいいんですけどね、股間からの赤い布というのは残念だけど少し凡庸。ここまでずっと、凡庸さに陥らない刺激的な演出だっただけに、ちょっと残念。

 しかし、パンキッシュなまでにダンスの持つ暴力的側面を舞台化し、なおかつ原初的グルーヴ感を失わずに踊りきった舞台は、エンターテインメント性と実験的試みの幸福な融合であり、一観客として楽しくもあり刺激的だった。次回が楽しみ。


 

 

*1:あたりまえだけど、ピンク映画を見るようなスケベ心でダンスを見ていると言う事ではない。また、そもそも今のピンク映画は、そんなスケベ心を充足させるようなハードなものではない。時にはハリウッド映画とかの方がよっぽど過激にエッチだ。

*2:それを「サブカルチャー」と呼んでもいいんだけど、「サブカルチャー」という言葉から派生する誤解からは距離をとっておきたい

*3:この監督も評判は聞くのだけれども、まだこの監督の作品を見た事はない

*4:この「SHOKU」では、「靴」という、ダンスから切り離せないオブジェ(道具)をうまく使って構成していたのだね。

*5:ちょっと最近はダンスとか見ても、このような音楽のグルーヴ感が伝わってくるような表現に出会う機会が多くなって、個人的にはうれしい。

*6:実はマイクの位置にあるのはマイクではなくて、懐中電灯のようなライトなんだけど。

hibikyhibiky 2004/08/29 01:57 こんばんは。私もピンク映画について書きだすとダラダラ長くなるので一言だけ。瀬々敬久監督は『雷魚』以前が実は最高のような気がいたします。AVコーナーの片隅でしか見つけられなかったりしましたが、最近は一部DVD化されて見られるようになってるかと存じます。
ちなみに、題名は失念しましたが、一度、秩父一揆を元ネタにした監督の作品にエキストラに行き、しっかり映りました(笑)。

crosstalkcrosstalk 2004/08/29 02:11 hibikyさん、あなたはわたしのSoul-Brotherですか!?(笑)
いや、『雷魚』以前の瀬々監督の作品の題名が、全然思い出せんのですよ。なんか、宮沢賢治の詩から採ったのとかありましたよね。アレも傑作でした。あれこれと素晴らしい作品を思い出すのですが、もうちょっと思い出しやすいタイトルにして欲しいものです。で、その秩父貧民党のも見ましたよ。葉月螢のデヴュー作。最後に疾走する人たちの中にいらっしゃったのですか? あの中には瀬々さんもいましたね。

hibikyhibiky 2004/08/29 02:39 いやぁ、あっしは主に亀有名画座で見てたんですが、アテネでも瀬々敬久監督作を見てるんです、ハイ(新・日本作家主義列伝、93年11月19、20日)。学校の先輩方は監督と知り合いですし。
>『雷魚』以前の瀬々監督の作品の題名
デビュー作が『課外授業 暴行(羽田へ行ってみろ〜以下略)』(89年)ですね。コレはDVD化されてますね。
>宮沢賢治の詩
『禁男の園 ザ・制服レズ(わたくしといふ現象は仮定された〜)』『痴漢電車 いけない妻たち(わたくしの汽車は北へ〜)』(92年)の2本ですね。
ちなみに、あっしが映ってるのは『未亡人 喪服の悶え』(93年)だったと思います。最後に疾走させられました。何度もなんども(笑)。疲れましたですねぇ。監督はピンピンされてましたけど。

crosstalkcrosstalk 2004/08/29 13:18 ありがとうございます。わたしは、2年前のぴあフィルムフェスとか、アップリンクでの特集上映とかで見てるんですね。だからhibikyさんとかよりはかなり後発組です。でも、上記の作品は皆見てましたね。『制服レズ』は、素晴らしい傑作だったなぁ。いつもロケハンがすごいんだけど(こんな場所、どうやって見つけるんねんって)。

hibikyhibiky 2004/08/29 13:29 私の場合、学生時代、映画サークルにいた頃、先輩が学祭に招待したりして、それで自然と見るようになったんです。山根貞夫や蓮實重彦といった識者諸氏よりも、正しく早く、自分たちが本気で評価できる映画作家を見つけ出すという意気込みだけはあったようで。
瀬々監督は、ロケハンに関しては、ホント、世界最高クラスと個人的に思います。普段から観察おこたりないゆえらしいんですが、画心(えごころ)も図抜けているのでしょうね。
『制服レズ』はエドワード・ヤンを模したつくりでしたね。『痴漢電車』は神代辰巳タッチ。熱い映画青年魂を忘れない方です。最近は自分自身が映画から離れつつあるので近作はチェックしてないのですが、アジアを代表する映画監督に大化けしてほしいとはひそかに願っております、ハイ。

crosstalkcrosstalk 2004/08/29 22:31 ロケハンといえば黒沢清か瀬々敬久、てな感じですね。しかし、瀬々敬久、最近は「模した」というより「‥‥のパクリ」としか言えないような作品が多いな。失速気味。

>アテネでも瀬々敬久監督作を見てるんです、

あ、今読み返して、ギリシャでも瀬々敬久が上映されていたのか、って思ってしまった。「セックス」というキーワードでココにたどり着かれた方々、残念でした。お疲れさまです。もうすぐ学校も始まりますね。

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■ 2004-08-27(Fri)

[] 島田明日香ソロ舞踏公演 『生き神』 at 渋谷 SPACE EDGE  島田明日香ソロ舞踏公演 『生き神』 at 渋谷 SPACE EDGEを含むブックマーク

 ●とにかく、この「SPACE EDGE」という場所は、わたしの主宰する「crosstalk」というイヴェントの本拠地のように使わせていただいていたスペース。で、島田明日香さんもその「crosstalk」に出演してもらっていたし。

 ●とにかく、普通の劇場空間ではないし(元は石炭倉庫だったと聞いている)、そのような場所の特製を活かした演出はうれしい。っていうか、懐かしい気持ちもある。ダメだね。回顧気分に浸っちゃ。

 ●うぅん、知り合いだと書きにくいところもあるんだけれど、やっぱちょっと練り直さないとキツい所があると思う。

 ●「背後」がありすぎる。その「背後」が、ソロ公演と銘打つ主体である島田明日香本人と遊離していると思う。「背後」とは、観念としてはここで語られようとする「物語」であり、表象としては、身体を隠す「特殊メイク」(と言ってしまえる*1)ということではないのか。

 ●せっかく相当高い次元で身体をコントロール出来る能力を持つ*2ダンサーが、わざわざコスチューム・プレイでもって、観客にその自分の身体を確認出来ないようにしているように見えるのだが。

 ●とにかく、そういった「背後」を削ぎ落として、自分の身体で観客に向き合えるような作品を創って欲しい。せっかく能力の高い身体を持っていると見えるのに、残念で仕方がない。

 ●ま、これはわたしの見方なので、そういった「背後」を楽しめる人はいるだろう。こんな事書いて観客数が減ってしまうような事になると申し訳ない。さらなる発展を期待しています。


 

 

*1:言葉通りというわけではないけれど、衣装や小道具で引きずってくるものが多いという事。

*2:この事は前半30分で確認出来た。

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■ 2004-08-26(Thu)

[] NHK-FM 「LIVE-BEAT」公開録音 at 渋谷 NHKの中、どこかのスタジオ。  NHK-FM 「LIVE-BEAT」公開録音 at 渋谷 NHKの中、どこかのスタジオ。を含むブックマーク

 PART-1 「KiLA」(from Ireland)

   レモネード&バンズ

 ○こういう公開録音っていうのを毎週やっている事は、全然知らんかった。どうも回りの観客の様子を見ると、申し込むとほぼ当選というか、よほどの事がなければ見れるようだ。機会があればスケジュールをチェックして、また来てもいいな。

 ○とにかく無料観覧ですからね。見るためのサーヴィスはほとんどなし。ちょっと後ろからも見えるようにステージを高くしたりとかしてないし。でも、音はいい。これは間違いない。

 ●わたしはね、ブリティッシュのトラッドは大好きだけれども、これが今流行のアイリッシュとなると、かなり微妙。簡単に言うと、現在アイルランドの伝統音楽をロックのイディオムで取り組んでいる人は、リズムの問題、旋律の問題、共になおざりにしているのではないか、と思う。この問題は現在形で見ればブリテンでも同じ袋小路に陥って入るとは思うけれど。

 ●で、この「KiLA」というバンドにしても、特徴的なのは、そのリズムにおいてアフリカ的なリズムとかファンクの要素を大々的にフィーチャーしている事。こ〜ゆ〜のは近年の流行のようだけれども、そのような展開が音楽的に新しい地平を切り開いているとは言い難く、結局彼らの立脚点は「お祭りバンド」であり、「観光地バンド」なのだ、という思いを切り崩させてはくれない。

 ●本来伝承曲として伝えられて来た原曲とは単旋律の素朴なものであり、これをバンド形式で複数メンバーによるアンサンブルとして演奏するには、それなりのアレンジが必要である事は言うまでもない。アイルランドのトラッドの現代的解釈で名を成した「Chieftains」などは、結局、クラシック音楽の素養を応用して、対位法、ポリフォニーなどの手法を伝承音楽の世界に導入して名をはせるわけだけれど、そのようなアレンジ能力のないアーティストにとっては、まずはその旋律を際立たせる事で腐心する。

 ●例えばイギリスの「フェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention)」などで考えれば、リードギタリストのリチャード・トンプソンなどは、バグパイプの音をギターでもって再現しようとしたりするわけだ。しかし、このバンドも、伝承された舞踊曲である"jig"や"reel"のインストゥルメント楽曲演奏ではアレンジしきれず、開き直ったように、ベースまで含めた全員でのユニゾンとかいう荒っぽい技でしのいだりしている*1

 ●この日の「KiLA」も、そう言った舞踏曲では結局、皆ユニゾンになってしまう(特にユリアン・パイプ*2とフィドル*3は、ほとんどの場合で同じ音を出している。いや、ユリアン・パイプはちょっと音の切れが悪すぎ、って、一言でいえばヘタ)。つまりはそのような編曲能力のなさを、ファンク・ビートとかの意匠で乗り切ろうとしているだけ。これは、この日中盤で一曲だけ演奏された「歌モノ」のアレンジの凡庸さにも現出している。

 ●とにかく7〜8人の大所帯で楽曲ごとに楽器を持ち替えて忙しいのだけれども、そのほとんどがリズム隊、というのも何とも経済的効率が悪そうだ。

 ●特に印象に残るところのないバンドだった。わたしのアイリッシュ嫌いは克服されないままだ。

 ○宣伝したくないけれど、このライヴのオン・エアーは9月15日(水)23:20〜。NHK−FMです。

 

 PART-2 「EGO-WRAPPIN’」

   merry merry (「merry merry」9月8日発売)

 ●最初にTVで「サイコアナルシス」のPV見た時は、『ガバッ!』って飛び起きちゃったんだけどね。いつの話だっけ。

 ●2〜3年前に、青山のCAYでマーク・リボーの前座で、「森&中納」の最小ユニットでのEGO-WRAPPIN’を見て以来のライヴ。リズム隊+ブラスの本来の編成は初体験。

 ●ヴォーカルの中納良恵は、背中に大きなリボンのついたちょうちんのような黒い服に、大きな黒い山高帽、そして鼻の頭をちょこんと赤く塗って、要するにピエロ・メイク。この人の舞台での動きって、演劇っぽい。

 ●近々新作がリリースされるわけで、そのプロモーション全国ライヴがもうじき始まるのだね。で、この日も新作から「Dog Smokie」って曲をやってた。

 ●この人たちの音楽って、40年代ぐらいの、ジャズがもっともポピュラーでエンターテインメントだった時代の、気のおけないライヴハウス・ミュージックって感じなんだろう、って思っていたけれど、この日聴いた感じではもっとさかのぼってチャールストンとか、コットンクラブな雰囲気が濃厚なのだね。で、それはおそらくは、日本にポピュラー音楽としての洋楽が輸入された頃の記憶の遺伝なんだろうね。

 ●中納良恵のヴォーカルは、そんなに線が太いわけではないと思うのだけれども、彼女なりに消化されたブルースを基本としたそのシンギングは、とりあえずは日本の他のシンガーから彼女を差異化している。

 ●とにかくこのグループのちゃんとしたライヴを見るのは初めてだから何ともいえないけれど、新曲などの感じは今までに比べてもっとうねるような大きなグルーヴ感があり、質感はかなり違う。新譜ではニック・ロウのカヴァー曲も収録されているようだし、ちょっと新しい展開が見られそうだ。

 ●そういえば新作には「カサヴェテス」という曲名も見えるが、→『アメリカの影』→チャーリー・ミンガス?だったらいいな。

  ○宣伝したくないけれど、このライヴのオン・エアーは9月8日(水)23:20〜。NHK−FMです。なお、来週9月1日は小島麻由美のライヴだったり、9月29日はジェネシス(ま、いつの時代かによるが)と、要チェックなオン・エアーが続くようです。

 

*1:それはそれで面白くもあったけれど、まぁ一度しか通用しない手口。

*2:小型のバグパイプです。演奏は難しいらしい。

*3:要するにヴァイオリンなのだが。

hibikyhibiky 2004/08/27 00:41 キーラ、来日中なんですよね。見たいですが、たぶん行けません。明日、TBSの『ニュース23』に出演するとかいう情報もあります。
ちなみに、あっしはアイリッシュも大好物です(笑)。

crosstalkcrosstalk 2004/08/27 01:38 あ、すいまっせん。思いっきりけなしちゃってますけれど。明日書き直してもう少しほめます。では、おやすみなさい。

hibikyhibiky 2004/08/27 02:28 いぇいぇ、書き直して頂いては申し訳ありません。貴重な御意見として拝読しておりますので、ハイ。
キーラは伝統音楽を継承する志よりも、かつてのザ・ポーグスみたいなノリで、バンド・サウンドの一要素としてアイリッシュメロディを援用しているように思います。ですので、伝統音楽としての側面から聴いてしまうと、あまり面白みはないかもですよね。
こちらのジャケ写真は前作ですよね。新譜はプログレじみた展開もあったりして、個人的にはかなり楽しい内容ではありました。バウロンの使い方だけは尋常じゃないと思います。

crosstalkcrosstalk 2004/08/27 12:55 どうもです。バウロンはたしかにちょっと力ありましたね。おっしゃる通りに、このバンドにとってはサウンドの一要素としての伝承音楽の援用なのでしょうね。えっと、リーダー格の人の前歯が欠けてましてね。ポーグスをそこで思い浮かべました(W)。

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■ 2004-08-25(Wed)

[] 『ユダ』 瀬々敬久:監督 at 渋谷 ユーロスペース  『ユダ』 瀬々敬久:監督 at 渋谷 ユーロスペースを含むブックマーク

 ●この2〜3年は『SFホイップクリーム』とか『MOONCHILD』とか、大資本下でのイロモノ的な企画ばかりこなして来た瀬々敬久監督の、久々の自分のフィールドでの作品。全編デジタル・ヴィデオ。

 ●今回は、映画美学校出身という佐藤有記との共同脚本。現実に起きた事件を題材にしてフィクションを組み立てる方法論は『雷魚』から一貫したものだけれども、今回はその「現実の事件」への作品中での言及があり、その「現実の事件」が映画の中でリンクされる所がいつもとちがうか。

 ●寝不足で見たので、一部は心ならずも睡眠時間に割り当ててしまった。ちょっとストーリーがわからなくなっちゃった。

 ●この作品の登場人物たちは、一種「安息の地を求めて」さまよい、その欲求=欲望を他者との間で転移させ/交換しながら、道に挫折したり道を放棄したり。

 ●瀬々敬久監督の作品としては、『冷血の罠』に近い味わいがある。で、『冷血の罠』と同様に、「???」ではある。

 ●映画の語り手である、ドキュメンタリーヴィデオを作っている「わたし」。この作品はその「わたし」の撮影するヴィデオの視点から、「わたし」の語りと共に物語が始まる。ところが、途中からその視点があいまいになり、観客としては「今こうして画面に写っているのはいったい誰の視点だ?」、と悩む事になる。

 ●岡元夕紀子ファンとしてはうれしい作品である。どのようにうれしいかは敢えて書かないが、彼女、演技は下手だ。

[] Abe"M"ARIA'S LIVE de DON! 「So What?」at 中野 テルプシコール  Abe"M"ARIA'S LIVE de DON! 「So What?」at 中野 テルプシコールを含むブックマーク

 ●今回の「音」は石川雷太。というか、「Erehwon」。

 ●最近ちょっと可愛らしいAbeちゃんである。フラットな会場には、天井から金属の缶や掃除機などが吊るされている。ちょうど昨日とか、新宿のパークタワーで掃除機のホースを宙づりにして展示してあるのを見ていて、「面白いな」などと思っていたのでちょっとしたシンクロ。

 ●いつも通りの高速痙攣ダンスではあるが、この日は観客席への乱入度高し。観客の被害甚大。

 ●置いてあった空気ビニールの馬のおもちゃと戯れる。圧すと「キュッキュッ」と音が出る。これが彼女がその馬を振り回している間、キュキュキュキュキュと鳴っている。ちょうどErehwonの音も静かだったので、昔聴いたDavid Toopとかの音にそっくりだった。こういうのをもうちょっと長く聴きたい、いや、見たかった。

 ●やはり彼女はこういうノイズ系の音との相性がいい。またこういう企画でやってもらいたい。


 

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■ 2004-08-24(Tue)

[] We Love Dance Festival 『Humor in Dance 東西バトル編』 Program B
   at 新宿 パークタワーホール  We Love Dance Festival 『Humor in Dance 東西バトル編』 Program B   at 新宿 パークタワーホールを含むブックマーク

 ●当初、この二日目はパスしようかなと思っていたのだけれども、知人から「Yummy Dance」は最近すごくイイよ、と聞いたので、結局この日もパークタワーに。

 ●まずはその噂通りに、「Yummy Dance」が予想を遥かに超えて素晴らしかった。まずステージ最前方に6人が客に対峙して直立、かなりディープなブルースをバックに流して、全員がそれぞればらばらに、だんだん身体を揺らし、その動きが大きくなって極限でばったり倒れる。この秀逸なつかみからの前半15分位はほんとうに優れた構成で、目が舞台に釘付けになる。いったい次がどのような展開になるのか予想もつかず、その展開はつねに驚きに満ちていた。

 ●ただ、中盤以降のマイルス・デイヴィス(Miles Davis)の「'Round Midnight」でのハイヒールを使った部分は、ちょっと背伸びのしすぎというか、全体に音楽の持つグルーヴ感をうまくダンスに昇華したこの日の舞台の中ではちょっと消化が悪かったかな?(構成としては文句ないんだけれど)

 ●その振付けのユニークさ、的確さ、構成の力量はアマンダ・ミラーの教育がここで見事に花開いたという事だろうか。

 ●あと、初めて見る前橋の「スタッカート・オン・スタッカート」。けっこうベタなコント的展開なのだけれど、とにかくその弾けた身体、絶妙の間合い、キャラの立ち具合とか、理屈抜きに楽しめた。素敵なエンターテインメント。

 ●次は東京での「Yummy Dance」の単独公演を見たくなった。ぜひやってください。


 

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■ 2004-08-23(Mon)

[] We Love Dance Festival 『Humor in Dance 東西バトル編』 Program A
   at 新宿 パークタワーホール  We Love Dance Festival 『Humor in Dance 東西バトル編』 Program A   at 新宿 パークタワーホールを含むブックマーク

 ○‥‥「爆笑オンエアバトル/ダンス編」ではない。「東西対抗お笑いダンス大会」である。

 ●とにかく、この日一番の収穫は「チェルフィッチュ」。しばらく前から「チェルフィッチュがすごいんだ!」と廻りに聞かされていたけれど、こんなにすごい事になっていたんだ。

 ●チェルフィッチュはダンス・カンパニーではない。ある意味チョー(超)現代口語を駆使した、「劇団」である。今回の『クーラー』も、歴然としたセリフ劇。会社の昼休みのようなシチュエイションでの男女二人の会話20分。なんらの思い入れも切迫した気持ちもないまま、話す事で解決を求めようというのでもない弛緩した対話のリピート。この執拗な反復は「Nurse with Wounds*1」を思い起こさせる! で、その会話のあいだじゅう、その弛緩した心的状態を現わすように身体をくねくねと動かし続ける*2

 ●しかもこの音楽がマーラーの第9のアダージオ*3。この重厚な音楽が常に背後に流れ、そのクライマックスでは言葉が途切れた中で音楽が響き渡り、まるでヴィスコンティの『ヴェニスに死す』で、タッジオが海の夕陽をバックに腕を伸ばし上げ、ばっちり「決め〜」のポーズをキメおおせたように、又はマラソンのゴールをきる野口みずきのように、ステージを支配する。ホメすぎ。会話がループしながらも暗転して幕になるエンディングも決まった。

 ●他のステージ。北村成美の『ラベンダー』を見るのはこれで3〜4回目だけれど、今回は微少で繊細な指先の動きからいつもの弾け方へ、そしてまたミニマルな見せ方へと戻って行く。ちょっとステージが広すぎた?

 ●まことクラヴとズンチャチャは、ダンスの側から演劇っぽくアプローチしてユーモアを醸し出そうとした点で、結果としてチェルフィッチュの引き立て役になってしまったのではないか? どこかで見た表現の二番煎じという感じ。

 ●でも、まことクラヴは、ファミコンゲームのキャラのような人物たちがぴょこぴょこ飛び跳ねてマスゲームみたいになってしまうのが、けっこうわたしは好き。アレを膨らましてもっとルールのないゲームみたいになれば面白いのにな、などと思う。あと、投げ技は90キロ級のグルジアの選手の「大外返し」の方がすごかった。

 ●ズンチャチャは2〜3年前に見た時よりもずっと良かったけれど、結局できそこないの「少年王者舘」。NHK教育TVではないのだから、成人してしまってから少年少女を演じるという事は、ちゃんと考えて演じなくては。あと、寝技は塚田選手に当然負けている。


 ○さ、あしたはProgram Bだ。金メダルは誰かな? 


 

 

*1:80年代から活躍する、テープなどを駆使した実験/ノイズ音楽を創出し続けるバンド。

*2:これは実際にわたしなんかでも人との会話でやってしまうな。電車の中で人と話していて、改札から出られなくなってしまうほどに切符をグチャグチャにしてしまう、そんなのの発展/延長系。

*3:この作品のタイトルが『クーラー』だから「マーラー」にした、ってあとで聞いたけど。

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■ 2004-08-22(Sun)

[] 『ラスト・ダイビング』(1992ポルトガル) ジョアン・セーザル・モンテイロ:監督
 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホール  『ラスト・ダイビング』(1992ポルトガル) ジョアン・セーザル・モンテイロ:監督 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホールを含むブックマーク

 ●どうもポルトガルという国は、「映画」というものの捉え方が私たちとまったく違うのかしらん。オリヴェイラといい、この後に見る予定のペドロ・コスタといい、一種、観念の映像化を目指すような、独特の作品を作る作家が多い。で、このジョアン・セーザル・モンテイロ監督の『ラスト・ダイビング』という作品も、「こんな変な映画を作ろうとしている人がいるのか」と驚かせてくれる。

 ●とにかく、この監督、この作品についての何の前知識もなく見始めたのだけれど、しばらくは見方が解らない。港で自殺しようとしている若い男のそばに怪しいオヤジが現われ、夜の街に飲みに連れて行かれる。で、キャバレーに行くと、カルメン・ミランダが踊っている。はぁ? これは悪い冗談? いつの時代の話なのか?

 ●で、その店で男は、そのオヤジの娘だという、実に魅力的な、言葉を発せられない女性を紹介される。オヤジは別に二人の女性を調達し、この5人でいつ果てるともなく遊び明かす。この辺の時間感覚はめちゃくちゃで、突然外の昼の光になったと思ったら、それに続くシーンではもう夜になっている。撮影/編集もドキュメンタリー・タッチなんだけど、あまりお上手な撮り方/編集の仕方ではない。

 ●とにかく皆でホテルに泊まり、男はその女性と朝を迎える。ホテルの食堂でオヤジと会った男は「とても素晴らしい女性だ」とかなんとか。

 ●夜の野外劇。男とその女性とオヤジたちがテーブルに座って見ている前で『サロメ』が演じられている。サロメの踊り。で、このシーンがめっちゃ長い! 20分以上。ひょっとしたら30分? しかもまったくもってタルい踊りぶりで、継続して見ていられない。ついうとうと。途中からは無音になり、いったいいつまで続くのか。ふと見ると、踊っているサロメはいつの間にかその女性、オヤジの娘になっている。衣服を全部脱ぎ捨てて倒れ込み、音が戻って来てサロメのダンスは終わる。

 ●港。オヤジが突然海に飛び込む。助けずにその場を立ち去る男。一方、オヤジの娘は部屋で一人、一所懸命に声を出す練習をしている。プレゼントを買って部屋に戻ってくる男。男を抱きしめながら、女は「愛しい人」と声を出す。

 ●突然のヒマワリの花の大写し。しかし、音は海の波の音が響き渡る。カメラが引くと、そこは広大なヒマワリ畑で、その中に男と娘がいる。女性の声でテキストの朗読がかぶさる。これは登場人物の名前から、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』に違いない。それもかなり終わりの方だ。男の声があとを引き継ぐ。背丈よりも高く伸びたヒマワリの中で追っかけっこをする二人。カメラがやはりヒマワリの中を全速で移動して二人を追う。

 ●ピアノ音楽(これはモーツァルトだ)が聴こえ始め、画面が突然真っ黒になる。そのまま朗読はしばらく続く。音が止み、クレジットが流れて終わる。やはりテキストは『ヒュペーリオン』だった。

 ●単純な読解は、若い男が自死の前に見た幻影/妄想という事になるんだろうけれど(たしか、『ヒュペーリオン』って、「愛」の大きさの前に「生まれて来なければよかったのに」とかの述懐を含んでなかったっけ)、とにかくこれだけぶっ飛んだ展開には見る方が翻弄される。で、それがある時には心地よい翻弄のされ方ではあったのはたしかだ。ヒマワリ畑は美しかった。

 ●リスボンの街を舞台に、『サロメ』や『ヒュペーリオン』が交錯する瞑府めぐり。いかにもヨーロッパ的な作品であり、そのある意味「破格」な構造にも、わたしは不思議な魅力を感じた。それが「衝撃」と受け止められるほどのパワーではないにせよ。



  

[] 『溶岩の家』(1995ポルトガル) ペドロ・コスタ:監督
 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホール  『溶岩の家』(1995ポルトガル) ペドロ・コスタ:監督 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホールを含むブックマーク

 ●わたし、ペドロ・コスタの作品ではどうしても寝てしまうようだね。『ヴァンダの部屋』は2回見に行って2回とも寝た。だってこの人、全編均質に力入ってるから、ま、ワンテンションですからねぇ。

 ●寝ちゃった、と言っても、『ヴァンダの部屋』がどんな作品かはかなり了解してるつもりだし、この『溶岩の家』だって了解してるつもりだ。ただ、ストーリー展開やディテールで見落としている部分があるだろうと言う事。

 ●鉱山の事故で意識不明になった男を、病院の看護婦が付き添って男の故郷の火山島に連れ帰る。その看護婦の島での体験。その体験の強烈さ。観客としてスクリーンを見る事自体も一つの体験であるような*1

 ●異邦の地。何を考えているのかわからない島民たち。夜の海岸。病院の夜。

 ●主人公の看護婦は、ジャック・リヴェットの『彼女たちの舞台』に出ていた女優だ。『彼女たちの舞台』はリヴェットの作品でわたしの一番好きな作品だし、この女優(イネシュ・デ・メディロシュ)もわたしの大好きな女優だったので、この久しぶりの再会はうれしかった。この人は女性ながら「勇気」とかそういう言葉が似合うんだ。あと、この作品では見せなかったけれど、「涙」も。この人の涙は『シャコンヌ〜無伴奏〜』という映画で堪能出来る*2

 ●とにかく、寝ちゃったので、ボロを出さないうちにこのあたりで。


 

 

 

*1:いやもう、わたしなんかそんな強烈な体験に心身ともついていけないから、自己防御で眠っちゃうんだね。きっと。

*2:この女優にはかなりそっくりな姉妹の女優がいて、たしか『パルプ・フィクション』で、ブルース・ウィリスの奥さん役と言う、誰もやりたがらない役をやっていたっけ。

rarayan0520rarayan0520 2004/08/23 13:47 初めまして。わたしも同じ3作品を見ました。あのテキストは『ヒュペーリオン』なのですね。何かからの引用には違いないと思っていたのですが謎が解けました。ありがとうございます。それにしてもポルトガルの映画は本当に不思議です。オリヴェイラは好きなのですが…

crosstalkcrosstalk 2004/08/23 17:59 コメントありがとうございます。一日経って、なにげにあのヒマワリ畑が思い出されます。ちょっと調べてみたら、ポルトガルにはアート映画仕掛け人のような妙なプロデューサーがいらっしゃるようですね。
それはそうと、「キュピキュピ」とかにもいらっしゃっているのですね。谷中界隈といい、ずいぶんニアミスです。わたしのメンが割れてなければいいのですが。今後ともよろしくお願いします。

rarayan0520rarayan0520 2004/08/24 00:41 ひまわり畑のシーンは忘れ難いです。パウロ・ブランコ、いい仕事をしてますね。尊敬します。「キュピキュピ」はアート方面に強い友人からすすめられて見に行ったのですが、とても楽しかったです。ところで、谷中でもニアミスしていたのですか? 吃驚しました。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

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■ 2004-08-21(Sat)

[] 『アデュー・フィリピーヌ』(フランス1961-63) ジャック・ロジェ:監督 with 蓮實重彦:講演
 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホール  『アデュー・フィリピーヌ』(フランス1961-63) ジャック・ロジェ:監督 with 蓮實重彦:講演 ダンス・イン・シネマ at 六本木 オリベホールを含むブックマーク

   


 ●あいさつ抜きでいきなり本題に入る蓮實重彦氏の講演は、当人の著述とまったく同じ語り口で、原稿なしに淀みなく50分(開演10分前)で終わらせる。さすがプロ、と喝采したくなった。

 ●「途中で眠くなってしまうかもしれない人のために、『ココだけは見のがしてはいけない』というシーンを先に教えておきましょう。それは○○○が×××するシーンですから、そのシーンまでは寝ないようにがんばって下さい。もっとも、そのシーンは映画の一番最後なんですけれどもね。」 ‥‥笑った。

 ●その映画を見る前に、人から「ココがいいんだよ」と聞いてしまう、という事への危惧(自分でその良さは発見したい)はあったけれども、結局聞いておいて良かった。邪魔には感じなかった。それは蓮實氏が語ったのとは別の素晴らしい箇所を、自分なりに先に発見出来たからかもしれない。

 ●ジャック・ロジェが、この作品をそのキャリアの「処女作」として製作したのは、彼が三十代半ばの時。おそらく彼は、「若さ」とは年齢を重ねていけば失われると思っていたのだろう(実際にその通りなのだけど)。今これを造らなければ、次の機会にはもう永遠に失われてしまうものがある、それを今フィルムに定着しておかねばという信仰にも似た信念が(これは単に「思い込み」なのだが)、この作品にただごとではない異様な美しさを与えている。

 ●ロジェのその切羽詰まった気持ちは、映画の主人公ミシェルがじきに兵役につかねばならないという気持ちと、見事にシンクロしている。

 ●特に後半のコルシカ島でのバカンス(これを「バカンス」と呼ばずに何と呼ぼう)。マルセイユからのバスが到着してからの熱狂。ここには今でいえばロックのサマー・フェスティヴァルと同じような熱狂があり、その描写はたとえば『ウッドストック』の記録映画などで見られる熱狂を超えている。

 ●ついにこの映画の終盤では、カメラが出演者の一人(というよりも「主役」)になる。少女と一緒に踊り出すカメラ。カメラ目線を動かさない少女。クライマックス。

 ●蓮實氏が「これぞ!」という、ラストで桟橋を走る少女たち。蓮實氏が先に語ったから注目出来たのか、聞いてなくてもわたしは注目出来たのか。いや、これは夢と必然をともに映像にとどめようとしたジャック・ロジェの、彼なりの「人生の美しい時期への別れ」という意志が、カメラや女優に転移/憑依している。夢のような、「別格」としての映画。蓮實氏が「絶対的処女作」と呼ぶ由縁だろう。

 ●一生記憶に残すに値する美しい映画だった。この日にこの作品を見る事ができたという事に感謝。

 

 

summercontrailsummercontrail 2004/08/22 00:21 こんばんは、以前からこっそり読ませていただいています。「アデュー・フィリピーヌ」観てみたいと思いました。“「人生の美しい時期への別れ」という意志”の美しさには、たいてい心を惹かれてしまいます。素敵なレビューをありがとうございました。

crosstalkcrosstalk 2004/08/22 00:39 summercontrailさん、ありがとうございます。「アデュー・フィリピーヌ」は、22日も19時から六本木のオリベホールで上映されますので、時間が取れましたら是非ご覧になって下さい。

■ 2004-08-20(Fri)

[] 『21g(21グラム)』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ:監督  『21g(21グラム)』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ:監督を含むブックマーク

 これからしばらくはあまり書くことに時間をかけられなくなるので、備忘録的にメモしておくだけ。

 ●日本語では「心(こころ)」と「心臓」とは、かなりニュアンスの違ったものとして使い分けられるけれど、英語では皆「heart」だ。「心の底から愛してる」は「I love you from the bottom of my heart」だし、「心臓マヒ」は「heart attack」。

 ●アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの演出は、いつも「力技」だ。それは、「どのように見せるか」、という方策をめぐっての力の行使であり、実は語られること自体が斬新というわけでもなく、かえって古風な印象さえも受ける。いや、感傷的に過ぎる。

 ●「どのように見せるか」。カメラのぶれを観客の視覚リズムからすこしずらせる。カット割りのテンポも狂わせる。

 ●しかし、登場人物が「数学者」であるということは、この物語にどのような影響を与えているのか。単に世界を数値/数量で了解する、ということなのか。「世界の法則」を見つけだすことなのか。例えば、ムージルの『若きテルレスの惑い』での「虚数」。この点での彼の存在理由が欲しかった。

 ●ショーン・ペンは、いつもいつも「ホラ、今オレはスゴイ演技しているんだぜ」という意識が体全体から放射されていて、どうしても好きになれない。ベニチオ・デル・トロは昔から好きな役者だけど、その抑えた演技がショーンと対照的(しかし、いよいよ牧伸二にクリソツになって来た?)。ナオミ・ワッツは思っていたよりもずっと素晴らしい女優だとわかった。

 ●最低限の音で押し通す音楽がよかった。こういう所でも監督の目配り/力量が感じられる。ラストに流れる骨太なヴォーカルは、デイヴ・マシューズのソロだった。デイヴ・マシューズは、なぜ日本で無視されまくっているのだろう。素晴らしい音楽家なのに。


 

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■ 2004-08-19(Thu)

[] キュピキュピ グランド歌謡ショー『CABAROTICA』 at 青山 スパイラルホール  キュピキュピ グランド歌謡ショー『CABAROTICA』 at 青山 スパイラルホールを含むブックマーク

   

 『キュピキュピ』は、あの『狂わせたいの』や『オー!マイキー』なんかの石橋義正が、1996年に結成した映像・パフォーマンス集団。5〜6年前に東京でも公演をやっているはずだけど、ブレイクしてからは初の東京お目見え、と言っていいんだろうな。去年の京都公演を見に行こうかどうしようか、本気で悩んだわたしには実にうれしい東京公演。とにかく、会場のスパイラルホールのロビーはすっかり改装され、フィッシュヘッドな等身大フィギュアも観客を迎えるゴージャスなキュピキュピワールド満開。スタッフの人たちもタキシードなんか着ちゃって、セレブな雰囲気を漂わせる。で、ロビーのカウンター・バーで、スペシャルなピンク色のカクテル*1などを注文して開演を待つ。

 舞台は休憩を挟んだ二部構成で、冒頭の10分ほどは、イントロダクション的な映像が舞台正面と左右のスクリーンに映し出される。その後にフロント・アクトの分島麻実が、白いジャンプ・スーツにピンクに光るバックルのベルト、といういでたち(チラシで着てるヤツ)で登場して、以後の舞台を仕切る構成。舞台上手の狭い階段状の部分のコントラバス、アコーディオン、ヴァイオリンの3人のミュージシャン。これに、ゲストっぽく下手の方に宇宙人っぽい衣装のパーカッション奏者。音的にはこれだけでこなしてたけれど、曲によってはリズムセクションでテープ音源を使っていたと思う。ま、第二部では分島麻実がケバい振袖姿で登場し、これでアンコール(笠置シズ子)を含んで合わせて10曲ほどを歌ってのショーなのだけど。

 とりあえず、3面を使った冒頭の映像が、このユニットの方向性を示しながら観客を包み込んで、適当にエッチで適当にスタイリッシュで、いい感じ。しかし、これは会場に入って座席配置を見た時からの危惧だったのだけど、ここは「キャバレー」じゃない。本来このライヴは、フロア・ショーというか、ステージを客席が囲むような形〜「花道」などがあって〜を想定して構成されているはずなのだけど*2、会場奥のステージに対して、通常の公演のように並行にただ椅子を並べてしまっただけの配置は、舞台との一体感、という意味ではそうとうに違和感があった。とりあえずキャパの関係からいたしかたがないのだろうけれども、これだったら舞台のすぐそばの「特別テーブル席」にすればよかったな。このあたりは、会場の設定として、たとえば東京には鶯谷の「東京キネマ倶楽部」などという、それこそキャバレー空間をそのまま残したような場所もあるんだし、もうちょっと目配りが出来なかったのだろうか?と、ちょっと残念*3

 あと、わたし、もっといろんなキャラが舞台狭しと飛び出てくるのかって思ってた。結局「宇宙の皇帝」は映像だけしか出てこないし、バックの踊り手も基本はGolden YOSHIKOとパノラノイア・ダンサーズ2人、それと最後のFishheadぐらいなんだね*4。でもやっぱ、パノラノイア・ダンサーズのヴィジュアルはいかしてる。女性の身体の曲線を最大限に際立たせる全身レオタードとピンクのウィッグ。それに大きなバイザーをずらせて顔を隠した姿はかっこいい*5。だって、チラシのメインだよ、どう見ても。分島麻実なんか、チラシではお笑い担当の脇役にしか見えんよ。で、パノラノイア・ダンサーズ。踊りとしてはこちらが脇役に徹して、微妙に特にどうということなくクネクネ動くのだけど、一緒に並んではちゃめちゃに動き回るGolden YOSHIKOとの相性は、残念な事にわたしの目には極めてよろしくない。

 で、コンセプトはおもいっきり「歌謡ショー」まんま、なんだけど、手造り感あふれる、ハイテクとローテクのアマルガムな世界は、やっぱ「Dumb Type」にも通じる関西。とにかく最高だったのは最後の『天城越え』で、映像はひたすら「AMAGI」とか「天城越へ」などの文字を加工して映し出すだけ。その文字がまるでハリウッド映画の予告編のように大爆発したり、雨のように降り注ぐのをずっと見せられる。そのCG加工のゴージャスさと、とにかく文字だけというチープさの共存が、演歌のメロディーにのって実にドラマチックよ。これを「ハードはそろっていてもソフトを産み出せない」という、自虐的日本人像の表現と読み取ってもいいだろうし、つまりは「実は空っぽなんです」という、石橋義正らしいスタンスの表れだろう*6

 とにかく、もうちょっと触れられるような近さで体験したい*7舞台ではあったけれど、雰囲気はわかった。次はやっぱ京都に出向いて行ってから見たいな。

 最後に一言いっておけば、分島さんはやっぱ「歌謡曲〜演歌」の歌い手なので、第二部冒頭のディスコ風の曲などはちょっと聴けなかった。ここは無理をしないでほしかった。パッヘルベルのカノンはいいんですけど(単純に、宇宙の映像がドリーミーでよかったねん)。

 

 

[] 『寝覚町の旦那のオモチャ』 tsumazuki no ishi at 下北沢 ザ・スズナリ  『寝覚町の旦那のオモチャ』 tsumazuki no ishi at 下北沢 ザ・スズナリを含むブックマーク


 あ!『シンセミア』の舞台化じゃん、コレ。

 とにかく、この原作戯曲(スエヒロケイスケ:作)の初演は2001年、名古屋で局所的に評判になったとの事であるから、少なくとも『シンセミア』よりは先行してるんだけど。

 寺十(じつなし)悟の演出する「tsumazuki no ishi」の舞台は、これは毎回楽しみにしているのだけれども、どうも前回といい今回といい、微妙に「?」を投げかけたくなるような部分がある。とは言いながらも、その独特の不気味なリアリティは他の劇団からはなかなか得られない種類の質感であり、そのテイストは今回も十分にあじあわせていただいた。で、今回は、黒沢清*8的な空気も感じ取ったのだけれども、それは深読みしすぎだろうか。いや、作者のスエヒロケイスケは、去年の前作のパンフでデヴィッド・リンチと黒沢清の名前を挙げていたことだし、おそらくは意識している部分があるのだろう。

 とにかく、舞台はとある地方都市の「神町」‥‥じゃない、「寝覚町」という所の模型店が舞台。ここの店長の天沢退二郎(をいをい)は、実は店員の高遠とつるんで、謎の裏仕事をしているようだ。この店に天沢の甥の高校生、25歳になるその同級生、生徒より子供じみたその女教師、玩具メーカーの営業社員、死んでしまった小学生、近所の主婦らが出入りしながら、実に不穏な話が進行していく。

 ものすごくリアルに造られた模型店のセット、その店の前の路地や向かいの歯医者の造形もすばらしい。で、その古びた模型店の入り口のガラス戸。閉店の時には黄色いカーテンに閉ざされるのだけれども、その向こうを行き来する人たちのシルエットが、その正体を明かすことなく現れては消えたりする。ここにある世界は、「見えているものは、その見え方で実態を表しているのではない」という世界であり、舞台に現されないその見えない部分にこそ、皆その本質を持っているようであり、舞台上で観客の前に現れる姿は「いつわり」と言えるだろう。

 ‥‥そして、ノイズ。店主の天沢はつねにCDラジカセのリモコンをポケットに入れていて、店を横切る時にかならずリモコンでラジカセから音楽を流す。80年代のロック。で、それはその妻やその他の人物からすぐに消されるのだけれども、またつけられる。場面の転換にしたがってその曲はあれこれと変化していくのだけれど、その音は時にラジカセ音源からだけであったり、音響として会場中に大音響で響いたり、かなり意識的な演出がなされていて効果を上げていた。そして、度々店の外のどこかを右翼の街宣カーが行きかい、これまた大音量で軍歌などが流される。うるさい。これらのノイズが観客の神経を逆なでし、いっそう不穏感を募らせるようだ。皆がちょっとずつ尋常ではない。女教師はペースメーカーを装着している教え子/恋人の、眠っているその胸の上に携帯電話を置いて、その携帯電話に送信しようとする。近所の主婦はゴミの分別法を教わりながら、自宅の前に捨てられたカラスの死骸を運び込んでくる。結局最後には銃が登場してその銃声が響いたりすると、コレは本当に『シンセミア』の世界だ。それとも、黒沢清?

 と、興味深い舞台ではあったのだけれども、(特にその冒頭とかで)役者ががなりたてすぎではないのか。音として充分にそのうるささは舞台上に充満しているのだから、役者までが妙にエキサイトするのは、この舞台の性格としてはちょっと違う気がする。違和感がある(特に向かいの歯医者、だな)。このあたりをもうちと押さえた演出にすれば、もっとクールな不穏さが浮かび上がってきたと思う。 

 そういえば、この下北沢にも再開発計画があり、いつの予定だか知らないけれど、このザ・スズナリあたりの場所は、新しく計画されている道路の下になってしまうのだ。

 ‥‥で、『シンセミア』と黒沢清を繋ぐリンクとは何だろう?

 

*1:『キュピキュピ スーパー・メガ・ハード』という名前

*2:これは、途中のMCで分島麻実が自分の立っている舞台の袖を「花道」と呼んでしまっていたことからも想像がつく。「花道」でもなんでもなかったんだけど。

*3:「東京キネマ倶楽部」ではEGO-WRAPPIN’などがライヴをやったりしているが、仮にもう少し入場料が高くなったとしても、そういった内容にふさわしい空間で体験したかったという所だ。

*4:あ、檻(というか、スクリーンの役目も果たしていたガラスドア。効果的に使われていた。)の向こうでセミ・ヌードで踊ってくれたダンサーもいたんだ。

*5:こうやってウィグ姿で、しかも黒く顔が隠れていると、先日『吾妻橋ダンスクロッシング』で見た「KATHY」を思い起こすのだけれども。

*6:評判の『オー!マイキー』にせよ、「空っぽなんです」という事を言い換えて造っているわけだろうし、この「キュピキュピ」の原点であるだろう『狂わせたいの』しかり。

*7:お客さん!踊り子に手を触れないでください!とか言われたりするぐらい近く。

*8:『アカルイミライ』とか。

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■ 2004-08-17(Tue)

[]『レコード・コレクターズ』 9月号 ブリティッシュ・フォーク/トラッド特集 『レコード・コレクターズ』 9月号 ブリティッシュ・フォーク/トラッド特集を含むブックマーク

   Medulla (文章と関係ないけど、ビョークの新作。実は関係あるかも。)

 まず、『iPod vs. The Cassette』。楽しんでください(『エイリアンvs.プレデター』より面白いと思う)。

 日本は今の所Webでの音楽配信というのは相当遅れているようだけれども、iPod、もしくはそれに類似した商品がもっと普及すれば、どこかでターニングポイントを迎えて状況は一変するのだろう。それは、聞き手の側で音楽を享受するあり方が、今までとまるで違うものになってしまうだろうということ。
 ひとつには、今までマルチプル的性格を持っていたトータルなパッケージ込みのメディアが消えてしまうわけだろうし。残るのはインデックスだけ
*1。単純に言えば「ジャケットがなくなる」と言ってもいいんだけど、ある意味で、インストールされる音楽に本来付随しているすべてのデータ、背景がふるい落とされてしまうのではないだろうか。曲名、アーティスト名以外の情報はインストールされるのだろうか? 
 とりあえず、将来の音楽配信に対する危惧*2

 ちょっと本題とかけ離れた事から書き始めてしまったけれど、最近気になっている事なので書いてみた。で、この「レコード・コレクターズ」という雑誌だけれども、これはそういう意味ではData Sourceの背景を提供するメディアだ、という言い方が出来るのだろう。毎号あるアーティストやあるムーヴメントにスポットを当て、そのバイオグラフィーやディスコグラフィー、作品のレヴューなどで成り立っている*3。その包括する範囲はロック、ジャズ、フォーク、歌謡曲、ラテンと、およそ世界中のポピュラー・ミュージックすべてをカヴァーしようとしているようだけど、選ばれた良質な執筆者による学究的な記事の総体は、基本的なデータベースとして保存に値するものといえるだろう(そう期待したい)し、特集以外のコラムなどからは、日本におけるポピュラー・ミュージックの総括的な受容史へとつながるような視点が感じられ、特集以外のあまり興味のないジャンルのコラムでも、読んでいて面白い。

 ということで、この9月号。「ブリティッシュ・フォーク/トラッド」の特集なので買ってしまったわけだけれども、この号の巻末にある94年5月からのバックナンバー・リストで、わたしが買った記憶のある号は一冊もないので、10年以上のブランクをおいての購入である。背表紙を見ると、この雑誌が第三種郵便の認可を受けているのが85年の5月だから、その時期を創刊時期と考えれば、30年の歴史を持つ雑誌ということになる。こ〜んな雑誌がよくそんなに継続しているものだと感心するけれど、きっと特集の組み方などうまくツボにはまっているのだろう*4

 結局、この号での「ブリティッシュ・フォーク/トラッド」絡みの記事は50ページ強。そのうちのかなりの分量がアルバム・レヴューのために割かれているので、実質は30ページに満たない。今回この特集が組まれたのは、「ペンタングル(Pentangle)」*5の全6タイトルが再発されたことと連動していて、表紙はペンタングル絡みの写真ばかりで占められている。トラッドとは何か、ってここでは説明しませんが、要するに(Traditional)の略。古くは14世紀ぐらいから伝わる伝承民謡の事です。ここではイギリスのトラッド、英国古謡の事。

 この特集では特に、50年代から60年代にかけてのアメリカのフォーク界との関係を捉えなおしている点がポイントで、アメリカのフォーク・リヴァイヴァリストだったペギー・シーガーの渡英と定住あたりから、ボブ・ディランやポール・サイモンの渡英とマーティン・カーシーとの交友などの相互関係など。アルバムのレヴューでも、ジョニ・ミッチェルやクロスビー・スティルス&ナッシュあたりのアーティストまで、イギリスのフォークとの関連で捉えなおしているあたりが、新鮮といえば新鮮か。

 ただ、結局「ブリティッシュ・トラッド」などと紹介される時にいつも感じる事だけれども、「ブリティッシュ・トラッド」をひとつのジャンルと固定し、これを60年代から80年代にかけてのイギリスでの「流行・ブーム」としてしか捉えないような視点をいつまでも続けるのは、いったいいかがなものだろう。ま、経済価値としての「レコード(今ではCD)」をコレクト(蒐集)する人のためのガイド本だからしょーがないんだけど、本来存在した伝承民謡としての「トラッド」には経済的交換価値というものはもっと違う形で存在していたわけで*6、あるいはそういう経済価値は持ち合わせていなかった*7かもしれない。そのような音世界が録音機材とかの発達で記録に残されたりする事で、今のように経済価値を持つソースとして意味を持ってくるわけで*8、とりわけロックのリズムの導入などで秀逸なアレンジを施された音、実力のあるアーティストが連続して輩出されたのが、60年代から80年代にかけてのイギリスでの「流行・ブーム」と捉えられる「ブリティッシュ・トラッド」の時代になるわけだけれども*9、そのような突出した部分だけを紹介するのでは、結局そもそもの「伝承音楽」そのもの、は取り残されてしまう。この「レコード・コレクターズ」にしても、対象にされているのは「商業的交換価値のある音源」の事であり、その背後にある「伝承音楽」としての「ブリティッシュ・トラディショナル・ミュージック」そのものへの言及は、極めて少ないのだ。つまり、「ブリティッシュ・トラッド」と「British Traditional Music」とは、決してイコールではない。

 音楽の流通自体が極めて資本主義的に規定されてしまっている中で、「伝承音楽」としての「ブリティッシュ・トラッド」の、その音の背後には、現在の音楽の流通自体を問い直す力が潜んでいるはずだと思う。だからこそ、今でも「トラディショナル・ミュージック」はその他のマイナーな「周辺音楽」と共に「アンダーグラウンド」として認知される場所がある。最も古いものと最も新しいものが、そこでリンクしている。もちろん市販の「販売促進雑誌」にそのような視点を求めるのは無理というものだろうが、この「レコード・コレクターズ」9月号の別のページには、元スリッツのアリ・アップへの電話インタヴュー記事も掲載されている。こうしてニアミスしておきながらも、いまいちリンクしきれていないのが、編集部の音の力への無自覚ゆえの編集姿勢から来ているとしたら残念な事だ*10

 長くなってしまったけれども、この雑誌の記事でもうひとつだけ触れておきたい。ここで、トラッド関係の批評を多く書いておられる白石和良さんが「ブラックホークと松平さんとトラッド愛好会のこと」という短いコラムを書いておられるけれど、実はわたしもブラックホーク*11の客であり、松平さん*12にレコードをリクエストし、結局初期の「トラッド愛好会*13」の会合にまで参加していた事がある。だから当時の状況は白石さんと共有する事が出来るのだけれども、ちょっと長くなるけれど、彼の文章を引用させていただきたい。

 70年代初頭に意識的に音楽を聴きはじめた筆者にとっては、トラッドとの最初の出会いは、当時幸運にも日本盤がリリースされていたペンタングルやフェアポート・コンヴェンションやスティーライ・スパンのアルバムだった。一切の事前知識なしにこうしたレコードを手にして、「trad.」とクレジットされた収録曲の現代曲とは全く違う何とも抗しがたい魅力、すなわち親しみやすい旋法的な音楽や不思議な物語が綴られた歌詞などに取りつかれたのが最初のきっかけであった。

 この記述は、わたしにとっても正にその通りで、あのときのワクワクした思いは、わたしには白石さんのようにうまく書きあらわせない。しかしながら、確かに白石さんの場合にはこのような事情であるのだろうけれども、わたしの場合はここに書かれたペンタングル、スティーライ・スパンの国内盤に付けられたライナー・ノートがなければ、トラッドの世界への第一歩は踏み出さなかったかもしれない。で、わたしの記憶では、この双方のアルバムのライナー・ノートを書いていたのは、三橋一夫だった。とにかく印象に残ったのは、その歌詞(と言っても「伝承歌」だから、原典とかがある場合が多い)に対する、実に精緻で博識に富んだ言及であって、特に記憶に残っているのはペンタングルの「Bruton Town」に対する解説で、たしかチャイルド・バラッドの中の異文を紹介し他の似ている歌を挙げた後に、『デカメロン』からキーツの詩にまで言及するその視野の広さに驚かされ、「伝承歌」の背後にあるとてつもなく大きな歴史の存在に、読んでいるわたしはそれこそ目がくらむ思いがした。他の曲でもその解説でぞろぞろとその背後が明かされる驚き*14
 こういった事は、その「トラッド愛好会」の集まりで他の人に語った覚えがあるのだけれど、「三橋一夫なんて!」などという感じで一蹴された。ま、他の人の場合には三橋一夫の文章などなくってもトラッドの魅力に取りつかれていったのだろうけれど、ことわたしの場合には、三橋一夫の文章に出会う事が必要だった。ちょっと日本でのブリティッシュ・トラッド受容のなかで、三橋一夫のライナー・ノートが果たした役割に関して、あまりに誰も何も言わないので、白石さんの文章に合わせて、つい書いてしまった*15

 

*1:このあたりの認識は、「夜想」の今野裕一さんのトークから示唆されました。

*2:このほかにも、アルバム単位でのトータル性は保持されるのかとか、数多くの問題があるけれど、要するにData Sourceの背景が消失してしまうということだ。

*3:基本的に20年以上は前ぐらいの音源を対象に特集を組んでいるようで、新譜を紹介するというよりは当然、再発盤を紹介するのがポリシーのようだ。つまり、特集を組まれるアーティストは、その時期にまとめて再発盤が発売されるとか、ボックスセットが発売されるなどの契機によって選ばれているようだ。そういう意味では、音源の発売に合わせた販売促進用、という一面もあるわけだ。

*4:というか、特にいろいろな場でロック関係で書かれた文章が一般にお粗末過ぎる〜データベースになりえない〜というのも一因かも知れない。

*5:1968年にデヴューしたイギリスのバンド。バート・ヤンシュとジョン・レンボーンの二人のギターを中心に、ジャッキー・マクシーのヴォーカル、ダニー・トンプソンのベース、テリー・コックスのドラムから成る。驚異的なテクニックとバンド・アンサンブルの下、フォーク/ブルース/ジャズの混合された独特のクールな音楽を産み出した。6枚のアルバムを発表してバンドとしては1972年に解散。ジミー・ペイジがバートの大ファンで、レッド・ツェッペリンは本当はペンタングルのようなバンドを目指していたらしい。

*6:たとえば地方のパブなどで演奏する音楽集団への支払いとしてとかetc。

*7:たとえば家庭/集落内で歌い継がれてきた子守唄のようなものetc。

*8:もちろん一面ではフィールド・レコーディングとして、民俗学などに寄与する学術的意味もあるわけだけれども。

*9:つまりはレコード会社に優れたプロデューサーがいた時代でもあるのだろう。ジョー・ボイド、ビル・リーダーなどの存在がなければ「ブーム」など起こらなかったのかも知れない。

*10:なんでもかんでもぶちこんで、それで売れれば良いのだ、などという雑貨屋みたいな意識でなければいいのだけれども。

*11:渋谷百軒店の奥にあったロック喫茶。後にレゲエ専門店になってしまう。後に知り合ったある知人がやはり当時のブラックホークの常連で、彼はいみじくも、「ブラックホークはぼくらの『学校』だったんだよ」との的確な指摘をしてくれた。

*12:当時そのブラックホークの店長さんだった。1999年逝去。彼の著作は現在『青空文庫』に収録されている

*13:毎月一回、日曜の昼間にその「ブラックホーク」に集まってひたすらトラッドなレコードを聴き、フィドルやダルシマーなどのミニ演奏会もやったりしていた。ディープだった。

*14:わたしの読んだ範囲の感想では、現在書かれているトラッド関係のCDの解説でも(もちろんすべてを読んだりしているわけではないけれど)、このレヴェルに達している解説は無いと思う。白石さんのは相当良いんだけれども、先に自分が「トラッド信者」だなどと書きはじめる時点で、「初心者向け」ではない。

*15:勝手に引用してしまいましたが、もちろん、当然の事だけれども、これは白石さんの文章への批判ではありません。

hibikyhibiky 2004/08/18 00:20 ……伝説のブラックホークを実際に御存知なんですね〜(羨望)
今回の特集はまさにアメリカン・フォークとのつながりがキーポイントでしたよね。その割には昨年話題になったトラッド研究/収集家の女性を描いたアメリカ映画『歌追い人』への言及が全くなかった、つうか、参考作として挙がっていなかったのが個人的には意外でした。
トラッドがいかに歴史的背景を踏まえた伝統歌であるかということがもっと端的明快、かつ詳しく紹介されているとよかったかもしれませんね。この意味でも、茂木健氏の著作「バラッドの世界」(春秋社)がガイド本として挙げられていてもよかったかなと。
ただ、「レココレ」愛読者としては、今回の特集はクオリティ的には充分合格点かとも思います。アルバムガイド等、マニアックにすぎる面も目立ちますし、決して初心者向けではないですが、フェアポートやペンタングル周辺を聴いて、さらに深みにハマりたいフォーク/トラッド好きにはピッタリの誌面づくりだったように愚考します。
まぁ、せっかくいろんなジャンルの愛好者が読む雑誌なんですから、もっと単純明快、いろんな嗜好/志向の方でも入りやすいバラエティに富んだ「切り口」もあったように思いますが、やっぱそこはもともとマニア向けの雑誌ですから、多くを望むのも詮無しかもと……。

crosstalkcrosstalk 2004/08/18 12:56 >……伝説のブラックホークを実際に御存知なんですね〜
‥‥いや、ただ歳くってるだけですだ。茂木健さんも当時のトラッド愛好会の常連でした。彼は後にフランク・ザッパの音楽をトラッド音楽を解明するように緻密に解説されていましたが。
で、わたしは『歌追い人』という映画のことを、まるで知りませんでした。教えていただいてありがとうございます。ヴィデオにはなっているようなので、近所のレンタルヴィデオ屋にあればいいのですが‥‥。検索したらまだ公式サイトが残っていて、いきなりアパラチアン・ダルシマーの写真。こういうので思い出すのは、スコセッジ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』ですか。リンダ・トンプソンの歌うバラッドとか、アラン・ローマックスの録音した古い音源とかが使われてまして。ま、こういうのも、本当はどっちかって言うと「スコティッシュ」なのではないかな?と思うんだけれど、今ではみ〜んな「アイリッシュ」にされてしまう。
脱線しました。雑誌の方の話ですが、そうですね。ガイド本とか紹介してもよかったでしょうね。たとえばラフカディオ・ハーンの著作集には、彼の日本での講義での「Tam Lin(フェアポートも歌っている、イギリスでも最も知られたバラッド)についての英国文学史からのアプローチ」などが載ってたりするんですけれどもね。ま、わたしのアプローチが文学的過ぎるんでしょうけど。

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■ 2004-08-14(Sat)

[]『青春』 ウラジミール・ナボコフ:著 渥美昭夫:訳 『青春』 ウラジミール・ナボコフ:著 渥美昭夫:訳を含むブックマーク

   

 ナボコフの邦訳本の何冊かは絶版になって久しく、今ではなかなか入手困難になっている*1。この『青春』が日本で出版されたのは1974年だから、ちょうど30年前。おそらく再版もされずに絶版になってしまったことだろう*2

 ネットで図書館の在庫を調べていたら、思いがけなくこの本が引っかかって来たので借りて来たもの。長篇というほどでもないし、文体も読みやすいので、あっという間に読み終わった*3

 この本をナボコフが書いたのは1932年。ベルリン亡命時代の作品で、彼の初期作品に共通するように、最初ロシア語で書かれたものを、後に彼自身(と息子のドミトリィ)が英訳している(1970年)。タイトルは最初のロシア語版では『Podvig(「功し」ないし「崇高な行為」)』で、執筆中の暫定的タイトルは『Romanticheskiyvek(ロマンティックな時代)』というものだったそうだ。英訳の際に『Glory』の英語タイトルが、ナボコフ自身によってつけられる。で、邦題は『青春』。あんまりな邦題だけれども、読んでしまうと、『栄光』というのもちょっと違う気がする。このあたりのタイトルへのこだわりは、ナボコフ自身による序文にちょっと書かれているけれど、ロシア語をそのまま英語に置き換えた時に紛れ込んで来る他のニュアンスを嫌ったようだ。ま、当人は『Glory』という英語題を、「いいタイトルだろう」と自画自賛しているのだけれども。ま、読後感としてのふさわしいタイトルは、暫定的タイトルも邦題も含めた四つ全部を合わせたようなものだろうか。

 この小説の主人公は、ちょっとだけナボコフ自身より年少なのかな。で、ロシアからスイスに家族と亡命し、ケンブリッジ大学に入学してイギリスにわたる。そのあとはベルリンに行ったりして、ベルリンではテニスのコーチをして日銭を稼ぐ、などというのはすべて年譜のナボコフの経歴通りの展開で、これはどうしても亡命時代のナボコフの日常生活の反映がないとは言わせない。このあたりは、ナボコフも序文でこの主人公マルチンを「わたしの幼年時代の記憶をともにし、後年の好き嫌いをも共にする、わたしの遠い従兄弟とみなすことができたとしても‥‥」と書いている。そう、特に当時のベルリンの町並みの描写は実に克明で美しい。

 それほどの長さでもない小説の中で、この主人公マルチンの数年間にわたる彷徨を描写するにはちょっと時間的に幅があり過ぎるような気がしないでもないけれど、マルチンの空想がそのまま次の章では現実の行動に移行していくような展開は、やっぱうまいなぁって、ナボコフの小説を読む楽しみを得る事はできる。しかし、この小説の主人公は『賜物』の主人公のように作家志望というわけでもなく、『ディフェンス』のようにチェスを芸術表現と捉えるような視点でもなく、記憶の集積が表現へと昇華していくようなナボコフ独特の世界観はちょっと薄い気がする。この小説での主人公マルチンは、青年らしい無為な日々を送りながら、ロシア語タイトル通り「崇高な行為」へと惹かれて行くんだけれども、そこにはいつも「死への欲望」のようなものが同居していて、「ロマンティシズム」と「死」の混在という、青年時代特有の精神的位置を美しく小説化している。そういう意味では、珍しくもナボコフ自身が小説に託した自己昇華行為も含まれているような作品なのではないだろうか。これを「若書きの魅力」と言い換えてもいいのだろうが。

 さて、あいかわらず、ナボコフの小説に登場する女性は男たちを翻弄する。ここでもマルチンの人生を狂わせる(いや、この作品ではマルチンだけでなく、他に二人の犠牲者が存在する。)ソーニャという魅力的な女性が登場する。『マルゴ』のヒロインもそうだし、『セバスチャン・ナイト』にも読者まで翻弄する女性が登場する。もちろん『ロリータ』もその系譜の小説なのだけれども、とにかく、わたしがしょっぱなにこのナボコフという作家のファンになったのは、(ま、あまり自慢するような話ではないが)男性を翻弄するファム・ファタールな女性が出てくるねん、的な惹かれ方だったのだけど*4

 訳者が『青春』などという、どうしようもない邦題をつけたくなったのも解らないではない小説ではあるのだけれども*5、列車からかいま見られる夜の闇の中の光などの美しさに惹かれて最後まで読んだ。とにかく、ディテールの隅々に若き日のナボコフの美意識のちりばめられた美しい小説だった。特にこの結末。アルコールを摂取しながら油断して読んでいたのだけれども、最後の一行に突然狙撃されてしまった。あ、ここでナボコフという作家の眼が、創作された登場人物の記憶を外に転移し、一枚の絵の中に封じ込めてしまう。読み終わって涙がとどめなく流れ、「まいったな、またナボコフおじさんにやられちゃったよ」としか言えない。やっぱりわたしはナボコフが好きだ。

 

 

 

*1:20年ほど前にTBSブリタニカから出版された「文学講議」の本(「ロシア」と「ヨーロッパ」の2冊ある)なんか、今では古本屋で一万円とかの値がついているとか。

*2:当時のナボコフの認知度は今に比べてかなり低かった。とにかく、『ロリータ』ですら絶版状態だったのだから。

*3:というほどでもないが。とにかく私は本を読むのが遅い。

*4:この系統の作家であと好きになったのがジョン・ファウルズ、だったりして。

*5:この渥美昭夫という翻訳者のことは知らないけれど、いい訳文だと思った。とっても律儀な人なのだろう。ナボコフ自身に「ワッフル」という食べ物について質問したその答えが訳注に書かれている。『著者に質問したところ、ここで「ワッフル」というのは「ゴーフル」のようなもので、菓子売りはその「赤い缶」で菓子を製造したのである。』 今だったら、「ゴーフル」って何?って感じだね。

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■ 2004-08-10(Tue)

[]佳村萠「うさぎのくらし」発売記念ライヴ at 公園通りクラシックス 佳村萠「うさぎのくらし」発売記念ライヴ at 公園通りクラシックスを含むブックマーク

    (へへ、使いまわし。佳村さんにもらったサインなのだ。)

佳村萠(歌/詩)
鬼怒無月(g)
勝井祐二(vln)
ゲスト:SACHI-A(drs)
    坂本弘道(cello)
    松永孝義(b)
    羽田野烈(映像)

 「レコード・コレクターズ」という雑誌の最新号(9月号)の特集は、『ブリティッシュ・トラッド』だ。この日コンサート会場へ行く前に立ち寄ったTOWER RECORDSでこの雑誌を見つけ、ちょっと買おうかなとも思ったのだけれど、新しい視点からの情報がどの位盛り込まれているのか、確かめてから買う事にした。で、この事はこの日のコンサートとは関係のない事、と思っていたのだけれども‥‥。

 佳村萠の歌を聴くのはこれが初めてだと思っていたが、彼女が林海象監督の『夢みるように眠りたい』に出演した時にその音楽にも関わり、主題歌(そんなのがあったんだ)も唄っていたらしい。この作品と、あと、黒木和雄監督の『泪橋』に出演していた彼女の姿が、わたしには強く記憶に残っている*1。浮き世の人ではないと思った。ナチュラルにヒッピーな人なのかな、などと思っていたら、(やはり)青野聰などと結婚されてしまわれた。
 そんな佳村萠さんにばったり会ってしまったのが去年の10月。東北沢のギャラリー/カフェ「現代ハイツ」での佳村萠さんの個展の時だった。店のオーナーのIさんに、わたしがどんなにスクリーンの中の彼女のファンだったか話してたら、「彼女居るから紹介するよ」と言われて、紹介してもらったのだね。ははは、照れたね。しっかりサインとかもらってしまったけれど(^^;)。その時に、彼女がその個展のように、美術作家(イラストレーター)としても活動されている事、「ほとらぴからっ」というユニットでや、ソロで音楽活動を続けている事も知った。特にミュージシャンとしては坂本弘道や鬼怒無月、勝井祐二などと共演されているのがわかり、次のライヴには絶対行ってみたいものだと思っていた。そのライヴである*2

 会場は、代官山からこの春に移転して来た「公演通りクラシックス」。今になってやっとのFirst Visit。要するに山手教会の地下、かつて「ジャンジャン」のあった所なんだけれど、昔の「ジャンジャン」のほとんどは今は喫茶室「ルノワール」になっていて、「クラシックス」の店は、代官山の時と同じくらいの広さだろうか。5〜60人で満員と言う感じ。この日は結局満員、立ち見が出て入場制限もあったらしい。今回のライヴは、佳村萠の初のソロアルバム「うさぎのくらし」発売記念のライヴなので、入り口受付の前にはそのCDがいっぱい置いてあるわけだ。

 ライヴは2部構成、最初は発売されたCDのレコーディングメンバー、佳村萠、鬼怒無月、勝井祐二の3人でのセット。これに映像で羽田野烈が加わる。

 実はわたしは鬼怒無月の音が思い出せない。彼の音を聴いたのはずいぶん昔、大勢でのセッションでの一人だったと思うから、音としてはほとんど記憶にない。Bondage Fruitもいまだに聴いた事がない始末だ。だから勝井祐二にしても同様なんだけれど、何年か前に「さかな*3」のライヴに、ポップ鈴木と一緒に出てたっけ。って、勝井祐二は「さかな」のアルバムのプロデュースもしているんだ。だから少しは様子が解る。ただ、こういう人たちはえてしてセッションごとに別人のようなプレイをしたりするから、それまでの思い込みなんかあてにならない。

 さて、その音だけれども、アコースティックなギターのつま弾きと、浮遊するようなエレクトリック・ヴァイオリン、そしてそっけなくもFemeleな佳村萠の声とが紡ぎ出す音世界は、バロック音楽のように端正。というか、無名性、匿名性を指向する音と、自己主張を希求する音との絶妙なアマルガムであり、空にも昇ろうかという音と地に根を下ろそうとする音がひとつになり、ライヴ会場を満たし拡がる。これはわたしの耳の中ではブリティッシュ・フォーク、いや、ブリティッシュ・トラッドに最も近しい音として響くのだった。
 (「ブリティッシュ・トラッド」については、わたしの拙い文章〜本当に拙いし、途中までだけど〜があるので、よかったら参考にして下さい。多分参考にならんと思うが。)

 このあたりの事は書き出すと止まらないし、どんどんマニアックな方向に潜り込んでしまうのであまり書かんでおくけど、鬼怒無月と勝井祐二の音に関しては、バート・ヤンシュ(Bert Jansch)の「Avocet」という傑作アルバムの事が念頭にあるのではないだろうか。この、トラッドという伝承音楽から出発して独自の音表現にたどり着いた1979年のアルバムと、この日の鬼怒無月と勝井祐二の音は、わたしには余りに近しい音世界に聴こえるのだが。

 休憩をはさんで後半は、まずはゲストミュージシャンと佳村萠とのステージ。SACHI-Aというドラマー*4とのリズムだけの歌世界も興味深かったけれど、この日のもう一つのハイライトはやはり坂本弘道、松永孝義とのステージだったろう。坂本弘道の美しいソロアルバム「零式」の印象的なタイトル曲に佳村萠が「歌」で絡む。これで、わたしが「零式」に後からヴォーカルがかぶせられたのを聴くのは二度目になる。最初はもちろん、元After DinnerのHacoによる傑作「Ash In The Rainbow」であり、坂本弘道はそのHacoとともについ先日までヨーロッパを「Ash In The Rainbow」ツアーで巡演して来たばかりなのだ*5。というわけで、こちらもすばらしいコラボレーションだったわけだけれど、このあとはまた鬼怒無月と勝井祐二とのトリオ、最後はゲストを含めて全員でのステージ。

 シンガーとしての佳村萠はやはり「浮き世の人ではない」というのがわたしの感想だけれども、涙腺が弛んでしまうような素晴らしいライヴではあった。書くのもつかれた。

 最後に。また銀幕の上で佳村萠に出会いたいと思っているのはわたしだけの事ではないと思うが、ちょっと前に彼女は青山真治の新作(っちゅうことはアレだな、『レイクサイドマーダーケース』)に出演するという話を小耳にはさんだ。で、このライヴの当日、ライヴ会場にその「監督」の姿があったという事は、これは事実なのだろう。やはり青山真治を皆で応援しよう。

 

 

*1:この他にも林海象監督の『二十世紀少年読本』にも出ているらしいけれど、未見。

*2:実は先週末に「現代ハイツ」に行った時に佳村萠さんがいらっしゃって、「10日、行きますよ」って伝えたりしてたんだけど。順調に交際は継続しているわけです。

*3:もちろん、pocopenと西脇一弘のユニット。

*4:先に書いたバート・ヤンシュの在籍したグループ、ペンタングル(Pentangle)のドラマー、テリー・コックス(Terry Cox)みたいな感じ。

*5:その「Ash In The Rainbow」ツアー凱旋公演は、8月19日に入谷のなってるハウスにて。行くべし。

hibikyhibiky 2004/08/11 16:29 鬼怒無月(g)&勝井祐二(vln)……このふたりの名前をみるだけでワクワクします。学生時代、何度か吉祥寺のシルバーエレファントで見ました。余裕があれば、追っかけたいコンビですよね。

crosstalkcrosstalk 2004/08/11 23:57 どうもです。本文を書く前にコメントいただいてしまい、恐縮です。わたしもまたこの二人はぜひ聴きたいですね(「Bondage Fruit」はこの22日に初台のDoorsでのライヴがあるようです)。

hibikyhibiky 2004/08/12 00:18 鬼怒無月さんのギターは年々進化/深化を遂げているとは知ってましたが、ついにバート・ヤンシュの域にまで来ておられますか(驚)。いい情報を拝読できました! ありがとうございます。

crosstalkcrosstalk 2004/08/12 00:36 いや、あ〜ゆ〜「超絶テク」ではなく、あくまで「音世界」の話なんですけれどもね。あ、でも、「バート・ヤンシュ」で話が通じるのはうれしいっすね。

hibikyhibiky 2004/08/12 01:24 私もペンタングルとリチャード・トンプソン(+フェアポート・コンヴェンション)周辺、ブリティッシュ・トラッドものの末端ファンなもので、つい反応してしまいました。
ところで、(バート・ヤンシュのようなスタイルやレベルではないにせよ)鬼怒無月さんは、基本的には業界屈指の「超絶テク」な方という評判ではあるようですね。実際、目の前でとんでもない超速弾きから、一転、繊細きわまりないソフトタッチの爪弾きまであっけなくやってくださる方でした。
私はプログレも好きだったんですが、学生時代、仲間内では超難解フレーズとして知られる、キング・クリムゾンの「太陽と戦慄パート3」のイントロが弾ける、日本でただふたりの内のひとり、なんて評判でした。
ちなみに、そのもう一方というのは、あの渡辺香津美氏。鬼怒さんとは何度かライヴでは競演されているそうです。

crosstalkcrosstalk 2004/08/12 19:02  ありがとうございます。今度は鬼怒無月さんの「超高速」も聴いてみたくなりました。
 しかし、プログレとトラッドには、どこか通底孔のようなものがあるようですね。

hibikyhibiky 2004/08/12 23:03 >プログレとトラッドには、どこか通底孔のようなもの
それがナニかを探るべく、日々音楽を聴き続けている感じです。私の場合はシンプルに「音数が多い」「リズムが多彩」「メロディが異色」といったトコでつながっているようですが。

crosstalkcrosstalk 2004/08/13 12:57 面白いですね。少し続けましょう。
わたしはトラッドのアーティストからは、自己陶酔を許さない、地を掘り下げるような硬質な音を希求する、求道者のような姿勢(大げさ?)を感じたりして、ま、これは基本が伝承音楽ですから、なにを伝承するのか、(そしてそこになにを付け加えるのか、)という大きな命題があるのではないかと。
そういう求道者的な姿勢が、逆にプログレ的なのではないか、などと考えたりもします。
プログレっていうのはわたしはそんなにあれこれ聞いていないんですけど、ひょっとしたらそこにはヨーロッパ的なものの伝承って意識があるのかな?

hibikyhibiky 2004/08/13 13:28 >プログレ>ヨーロッパ的なものの伝承
すべてではありませんが、一要素としてありますね。クラシック教育を受けたミュージシャンが目立ちますし。西欧の音楽理論を踏まえたうえに、ジャズや民族音楽といった多種多様なジャンルを取り込んで発展したのがプログレという音楽、という定説があります。ナンでもありのロックの一典型がプログレなんでしょうね。
トラッドのミュージシャンで「求道者」というと、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンのアシュリー・ハッチングスが典型ですよね。ベースプレイ的には2代目デイヴ・ペグに負けたらしいですが(笑)

crosstalkcrosstalk 2004/08/14 13:26 そうですね。特にアシュリーの事を念頭において書いたのではありませんが、彼はそれこそ求道者になってしまいました。ベースプレイとして自己主張強くって嫌いじゃないですけれど、ボヨボヨしてて、あれじゃ「Sloth」なんて成立しません。
 結局、「レコードコレクターズ」を買いました。その中に、Paul Bradyの発言で「伝統音楽の歌唱の本質は自分をほとんど不在にして、ただ物語を語るところにある。歌自体が歌手より大きい存在なんだ。」というのが出て来ます。多分そういうものなのだろうと思って聞いて来ていたので、「やっぱりね」って感じ。「レコードコレクターズ」をざっと読み終わったら、またココに書いてみたいと思います。

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■ 2004-08-07(Sat)

[]『夏至』 トラン・アン・ユン:監督 『夏至』 トラン・アン・ユン:監督を含むブックマーク

   夏至 特別版 [DVD]

 先に良かった点を書いておけば、この監督の作品はいつもしっとりと五感に訴えてくる。視覚*1はもちろん、聴覚、そして触覚、味覚までが、画面からひそかににじみ出てくるようだ。あ、五感というとあと一つあるのか。ん?嗅覚? そりゃまぁ『ピンク・フラミンゴ』ぢゃないんだから、そこまではちょっと微妙ではあるけれど、あれだけ花とか果物とか出てくれば、匂ってくるようだと感じる人もいるだろう。確かに作品全体を通じて、匂いたつような官能性に溢れてはいるのだろう。

 特に、その描写における三女リエン(トラン・ヌー・イエン・ケー)に対するフェティシズムめいた執着は、ある意味常規を逸していて*2、とりわけ彼女の髪へのこだわりは、それだけで見るに値する。ほつれた髪、濡れた洗い髪、まとめられた髪など、実はこの作品は彼女の髪を撮るだけのための作品だったのではないか、などとまで邪推してしまう。

 そのように描写の中にフェティッシュな視線を感じてしまうのは、結局この作品が淫靡なデカダンスを基調として撮られているからではないのか。そんな事をいうと、三姉妹の物語であるという事もあって、谷崎潤一郎の『細雪』とかと比較したくもなってしまうが、そんなものではない。結局この作品はもっとたあいのない作品ではある。
 小説家、写真家、俳優の卵、カフェの経営者といった登場人物の職業は皆、いかにも額に汗して働いたりはしない「知的労働者」であり、そんな中から爛熟した文化のデカダンスめいた空気を読み取ってしまうのは、わたしの誤解ではあるだろう*3

 ただ、「いったいなぜヴェトナムを舞台にしてこのような作品が撮られなくてはならないのか?」という疑問は、追い払う事が出来ない。この作品に出てくるヴェトナムは、幼いころにヴェトナムからフランスに亡命したというトラン・アン・ユン監督の憧憬が作り出した、夢見られた「ヴェトナム」なのだろう。この作品は、ヨーロッパから見られた「オリエンタリズム」としての「ヴェトナム」と、監督のノスタルジーの産み出した「ヴェトナム」との、奇妙な混合物であるようにみえる。とすると、この作品はトラン・アン・ユン監督の、「ヴェトナム」へのエロティックな妄想の産物。

 

 

[]『うつつなれ』 dots(桑折現[コオリゲン]:構成・演出・美術プラン) at 青山スパイラルホール 『うつつなれ』 dots(桑折現[コオリゲン]:構成・演出・美術プラン) at 青山スパイラルホールを含むブックマーク

 京都造型芸術大学の学生たちを中心に結成されたパフォーマンス・ユニットの、おそらくは関東で初めての作品発表。

 大量の白い古着がスクリーンとして一面全体に吊るされ、その下に四つの入り口。観客はホールに入場する時にそのスクリーンの裏側から入場する。スクリーンの裏には、水を張った透明な水槽の下にスピーカーを仕込み、スピーカーからの重低音で水面が波立つ様を見せるインスタレーションが、これもやはり四つ設置されていたんだけれども、この工夫のない、イメージとして見飽きたインスタレーションはかなりマイナス要素というか、その後の観客の作品に向き合う姿勢に微妙に影響与えたんじゃないかな。ま、観客はそのインスタレーションを見たりして、四つの入り口のいずれかを潜って、その対面の客席に座る。

 照明が落とされ、四つの入り口から四人のパフォーマー(男性2、女性2)が現れ、まるで無言劇のように押し黙ったまま、ゆっくりとした動作で観客席最前列の前に立ち、観客と対峙する。古着のスクリーンには抽象的なイメージや風景などが写されるけれど、昨今のディジタル映像の洪水のようなものではなく、むしろオーソドックス。このあと、パフォーマーがそれぞれ一人ずつ10分ぐらい舞台に立ち、最後はまた四人で。

音楽は最初はピアノ・ソロがひそかに流されていたと思うが、途中は無音だったと思う(たしかでないけど)。

 とにかく、わたしの周りの客の1/3位は、途中眠っていたのではないかな。わたしも何度かこっくりさんしてしまったけれど、ほとんど無音、無言(男性パフォーマー一人だけ、テキストを読むのだけれども)の舞台はたしかに眠気を誘う。
 しかし、当然の事ながら、眠くなってしまう舞台というのは、ただ「眠くなる」という理由だけで「=退屈」として退けられるものではない。「面白ければ眠くなるはずはない」などと言うのであれば、世の中は皆ハリウッド映画みたいな表現ばかりになってしまう。

 ‥‥吊るされた古着に向かい合う空間を、記憶の中を泳ぐように静かに移動する身体。その身体と空間との密かな交感の場は確実にあのスパイラルホールの中に成立していたと思うし、完成度の高い演出だと思った。けだるくもピリッとしたその空気は、夏の日の午前の睡魔の現前であった。つまり、もっともっと早い時間に見たかった。‥‥記憶の片隅にしっかりと残った舞台だった。

 

 

*1:撮影監督はマーク・リー。というか、『春の惑い』の李屏賓。じき公開される侯孝賢の『珈琲時光』の撮影もこの人。近年わたしが一番好きなカメラです。

*2:監督の恋人なんだっけ?←失礼、もう結婚されていたのだ。監督の奥さん。

*3:しかし、朝起き抜けからルー・リードやアラブ・ストラップを聴きまくっているようでは、勤労意欲などハナから吹っ飛んで失せてしまうだろうに。

mmmmmmmmmmmmmmmm 2004/08/09 02:27 まあ舞台ってどうしても見せる側が主導権握ってしまうので、お客を眠くさせない技術も必要かもしれないけど……必ずしもハリウッド的な手法だけじゃないと思うんですよね。ハリウッド・メジャーだって、ものによってはドカンドカンやりっぱなしで単調だから眠くなりますよ。ちなみに、映画見てて眠くなったら腕を少し浮かせた状態で見る、という方法を教わったことがあります(笑)

crosstalkcrosstalk 2004/08/09 12:28 ちっと大げさに書きましたけど、ノイズ音楽とか絶叫フリージャズも眠くなりますね。でも、「眠くなる=単調、退屈」だけとは思えない。この日は、終演時に客が皆眠りこけてしまっていたら面白いだろうなぁ、なんて思って見てました。今度は腕を浮かせて見ます。

blindsightblindsight 2004/08/10 10:48 初めまして。アンテナに登録していただいているようなので、来てみました。『夏至』は宮台真司の『絶望 断念 福音 映画』(ダ・ヴィンチの映画評をまとめたもの)で紹介されていたので観てみようと思っています。/終演時に客が眠りこける、、、と言えば、矢崎仁司の4時間を超す映画『花を摘む少女と虫を殺す少女』のオールナイト上映の時、ゲストで来ていた監督が「長いので自由に時々寝ながら観てください。それでも大丈夫なストーリーになってますから。」と言っていたのが印象的でした。/『吾妻橋ダンスクロッシング』見に行きました。とても良かったです。/これからも時々サイトにお邪魔させて頂きます。よろしくお願いします。

crosstalkcrosstalk 2004/08/10 12:30 blindsightさん、コメントありがとうございます。勝手にアンテナはらせていただいて、ご挨拶もいたしませんで‥‥。『花を摘む少女と虫を殺す少女』、昔何とかがんばって見に行こうと思ったりしていたんですけれど、もうすっかり忘れていました。blindsightさんのコメントで思い出して、調べてみたら又最近上映会があるんですね。
http://www1.linkclub.or.jp/~hanamusi/YAZAKI/
途中寝ても大丈夫なストーリーって、やはりストーリーはないということなのか。

 こちらこそ、又お邪魔させていただきます。(あ!改行出来るのか)

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■ 2004-08-05(Thu)

[]『LIVE FOREVER』 ジョン・ダウワー:監督 『LIVE FOREVER』 ジョン・ダウワー:監督を含むブックマーク

    ちょっと強引に輸入盤ジャケットを。(〜リンクしてません〜)

 いわゆる「ブリット・ポップ」時代についての、90年代イギリス文化検証的な側面を持つドキュメンタリー作品。焦点を「blur」対「oasis」の主導権争いと設定し、当人たちの発言を中心に、PULPのジャーヴィス・コッカー、Massive Attackの3D、さらにはダミアン・ハースト*1やオズワルド・ボーテングらへのインタヴューで脇を固めて行く製作姿勢は、キャッチーかつ明解ではある。
 しかし、「一体どっちがたくさん売れたんだ?」ってな、商業的視点を優先した問いかけ自体が皮相で無意味とも言えるわけで、わたしなんかには、そのメインのストーリーは興味を持てるようなものではなかった。

 この作品の冒頭で何度か、サッチャー政権下の80年代を「何もなかった、空っぽの時代」と捉える発言が出て来て、その事がこのドキュメンタリーのスタート地点になっているみたいなんだけれども、この視点自体が商業的な視点からの80年代俯瞰であって、わたしなんかの当時の印象で言えば、ポスト・パンク時代とも呼べる80年代はわくわくするような面白い時代であって、それはFactoryやRough Trade、4ADなどのインディーズ系レコード会社に所属するアーティストによる、刺激的で実験的な音造りの連続した時代であって、とにかく、レコード屋に新譜を漁りに行くのがいつも楽しみな時期だった。逆にこの作品で総括されるような、Stone Roses、Suedeという流れはわたしにはまったく興味のなかった路線だったし、ある意味、「blur」、「oasis」の登場はインディーズ時代の終わりであり、だからわたしにとっての90年代はMassive AttackとかPortisheadとか、ごく限られたアーティストしか聴かなくなってしまった時代。

 で、この作品は、oasisのデヴューした94年からoasisが「Be Here Now」を発表する97年までを中心に捉え、60年代の「スウィンギング・ロンドン」、70年代の「パンク・ムーヴメント」の時代に比すべきような文化状況を提出するように、ダミアン・ハーストやオズワルド・ボーテングのインタヴューを交えるわけだけれども、どうもこの二人だけに代表させて語られるような、突出した状況があったとは納得しにくい部分がある*2。ま、わたしはトニー・ブレア台頭時の労働党の隆盛と言うのはよく知らないんだけれども。

 そういう意味で、この作品で捉えられる90年代とは、作品の冒頭でちょっと語られたように、誰もがチャンスを生かせずにその主導権を早々と手放してしまった時代だったのではないのだろうか。Stone Rosesの解散、カート・コバーンの自死によるNirvana(これはアメリカだけれども)の消滅、oasisの失速、そういう時代だったのだ。というか、この時代は今でもまだ過去形ではなく続いている。この作品でインタヴューに答えていたジャーヴィス・コッカーのPULPも、ルイス・ウエナーのSleeperも解散し*3、Massive Attackも3D一人になったんだっけ?*4 もちろんダミアン・ハーストだって、もーダメッポでしょうし。ブレアはほとんど犯罪人になってしまった。アメリカのポップ・シーンにしても、今は聴くに耐えない状況が継続しているし、パンク台頭以前のからっぽの70年代を思い出したくなる状況が続いている。しかしながら、グローバリゼーションのおかげで(?)、今では世界のどこから新しいムーヴメントが興ってくるのか、どこからでも可能なのではないだろうか。スーパーフラットな国からでも。

 80年代のインディーズの時代からのキャリアがあるジャーヴィス・コッカーのインタヴューが、年の功か蘊蓄を含んで興味深かったが、彼の話を継ぎ合わせてみれば、イギリスの90年代は、よりセーフティーな「エクスタシー」からもっとヤバい「コカイン」へと移行した時代だという事になる。やはりこれはアホで腑抜けな70年代の延長だ。もういいかげん、新しいパンク・ムーヴメントへの機は熟していると思うのだが。

 

 

*1:デミアン・ハースト?

*2:音楽以外の文化状況として、ダミアン・ハーストの作品、新しいバーの開店、映画『トレインスポッティング』、アメリカの雑誌「Vanity Fair」での『Cool Britania』の特集ぐらいのもの、というのはちょっと例証としては淋しい気がする。

*3:PULPは「活動休止」と言う事らしいけど。

*4:先日、去年発売された彼らの"100th Window"(だっけ?)を聴いたけれど、とても良かった。でも、ほとんど評判にならなかったはずだ。

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■ 2004-08-04(Wed)

[]『座頭市』 北野武:監督 『座頭市』 北野武:監督を含むブックマーク

   座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

 昔の時代劇映画(チャンバラ)って、とにかく異様なサーヴィス精神にあふれていて、ものすご技巧的でギミックな殺陣シーンとか、おちゃらけたお笑いとか、アイドル歌手の歌とか、なんでもかんでも手当たり次第盛り込まれていたような印象があるけれど、北野武もきっと小さいころにはそんなチャンバラ映画をいっぱい見てたんだろうな。そういう、昔の「娯楽時代劇」をよみがえらせようという強い意志が感じられて、気持ちいい作品。ただ、自宅のモニターで見たのであまり音量上げられず、鈴木慶一の音楽のことはよくわからない。聞いた感じはなんとも妙ちきりんだったけれど。

 ラストに大楠道代が「悪い奴はみんな死んでしまったね」なんて明るく語るように、とにかくその基本はおとぎ話だわさ。そこに、浅草芸人へのシンパシーとか、過去の時代劇映画へのオマージュとか*1、新しいエンターテインメント性への希求*2、いろんな要素をこの1本の作品の中に詰め込んでるせいか、ドラマ自体はちょっと味が薄い。って、ここでも旅芸人姉弟の話とか、病妻を連れた人斬り剣士の話とか、それ自体それぞれおいしそうなテーマをダブって入れてるから、特に浅野忠信の話はちょっと中途半端な突込み不足という気がする*3

 前作『doll』での、妙なアート志向の自意識過剰映像にはちょっと辟易したけれど、こうして時代劇に取り組むとなると、「大衆芸能」的視点から、かつての「お正月チャンバラ映画」のような世界を再現させてしまったのにはとても共感できる。でも、カット割りとか編集とか、なんか変。

 

*1:家の周りを槍を持って走り回る、肥満した黒澤明の亡霊には笑った。

*2:最後のタップ・ダンス、前半の四人位でのお面をつけての場面はとても良かったけれど、それを受けての後半はちょっとグラン・フィナーレ風にまとめすぎ?

*3:しかし浅野忠信の殺陣は、そのニヒルな風貌と似合って魅力的だった。そのうち机竜之介とか彼にやってもらいたいものだ。

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