ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-10-30(Sat)

[] 平成16年度公共ホール演劇製作ネットワーク事業『天の煙』 松田正隆:作 平田オリザ:演出 at 富士見市民文化会館キラリ☆富士見  平成16年度公共ホール演劇製作ネットワーク事業『天の煙』 松田正隆:作 平田オリザ:演出 at 富士見市民文化会館キラリ☆富士見を含むブックマーク

   

 松田正隆の作品は初見。平田オリザのだって、そんなに数多く見ているわけではない。今回わざわざ、まんざらでもない交通費をかけて(ま、横浜に行くよりは安上がりなんだけれど)この公演を観に来たというのも、先月観た、「地点」の三浦基演出による『じゃぐちをひねればみずがでる』に出演していた内田淳子という存在が気にかかったから、という事になる。

 会場に足を踏み入れると、その舞台上の大掛かりな美術に目を奪われる。崩壊した教会という設定だったらしいが、屋内とも屋外ともつかないあいまいな空間設定は、この舞台の持つ抽象性にうまく合致していただろうし、平田オリザの潔癖な演出姿勢のすぐれた表象化とも見る事が出来る。

 この「公共ホール演劇製作ネットワーク事業」というヤツは、今年の始めに観た、ヨン・フォッセの戯曲を太田省吾が演出した『誰か、来る』に続くものであったわけで、この富士見市民会館での公演を皮切りに、12月の沖縄公演まで8ケ所の公共ホールでの公演が予定されている。今回の公演で注目されるのは、その出演者全7名のうち過半数の役者を、全国の公共ホールでのオーディションで決定、その決定を待って、いわば「あて書き」のような形で*1松田正隆が今回の戯曲を書き下ろした事、などという事は書き留めておいてもいいだろう。プロデュース公演としてはそれほど特殊な事ではないのかも知れないけれど、地域の公共ホールが仲立して、既成の演劇世界とは無縁のところにまでそのネットワークを拡げた事は、今後の日本での「演劇」という分野の発展にとっては、新しい可能性を引き出す端緒になり得るのではないだろうか。*2

 さて、今回の「劇」自体だけれども、こんな言い方をしちゃうとちょっとアレだけれど、方法論自体として、極めて「アングラ演劇的」というか、虚構として設定された舞台空間の上で、日常と非日常、観念と身体とが融合し反撥しながら、奇妙なリアリティを現出させる。ま、これを「アングラ演劇的」と言ってしまう事の是非はさておいても、演劇というジャンルの解体と再構築の方法は、60〜70年代の演劇を思わせる所があるのは確かなのではないだろうか。

 で、結局どういう話かというと、母の葬儀のために帰郷した娘(妹)とその夫の話なのだけれど、まるで姫のように君臨する盲目の姉と、その奇妙な取り巻きらの中で、夫はその地に留まり、父の家業であった靴屋を継ぐことになり、妹はまるでカフカの小説の主人公のように処刑されてしまうのだ。しかも舞台となる「西の西町」は、つねに世界の西の果てをただよう日の沈むことのない町だし、夫が最初に作らなければならない靴は、停まっていた成長から解放されてこれから大きくなっていくであろう姉のために、「ヤマメ」と呼ばれる半病人の女性の背中の革から作らなくてはならない。しかも、「ヤマメ」は嫌がるどころか、すすんで自分の背中を差し出そうとするのだ。

 奇想に富んだ非西欧文学の世界を思わせるディティールについて語り出せば、どこまでも果てないような面白さに満ちているのだが*3、平田オリザの演出はどこか硬質で、やはりヒューマニティを排除するような冷た気な美術(奥村泰彦)とともに、この舞台に深刻で謎めいた晦渋性を与えているように思う。それがこの戯曲にとってふさわしい演出だったのかどうか、どうもわたしには測りかねる所があるのは確かだ。

 例えば姉の侍女のような役で登場する内田淳子のセリフは、これは江戸時代の腰元のような時代錯誤な語りに終始したりするし、全体にコミカルなシチュエーションにあふれているのだけれど、どうも見る側としては何か事大主義的な堅苦しさを感じてしまうのだ。それが結局ラストの「上る」ベクトルと「走る」ベクトルとの融合された一点、そのシーンに必要以上の重さを付加し、妙に宗教的に読まれてしまう恐れを招いているような気がしてしまう。

 それはオーディションで選ばれた俳優たちの「堅さ」から来るものかも知れないが、そういう意味では、この戯曲はもうすこし柔らかいものでも良かった気がする*4

 

 

[] 唐組・第34回公演『眠りオルゴール』 唐十郎:作・演出 at 雑司ヶ谷・鬼子母神境内紅テント  唐組・第34回公演『眠りオルゴール』 唐十郎:作・演出 at 雑司ヶ谷・鬼子母神境内紅テントを含むブックマーク

   

 じつに久しぶりに観る唐十郎。とにかくわたしが紅テントを観ていたのは、根津甚八とか小林薫が李礼仙と絡んでいて、不破万作が鼻に詰めた角切りの野菜を観客席めがけて飛ばしていた頃だから、とうに戦前(湾岸戦争)の話になる。佐野史郎の時代も知らないし、いつのまにか李礼仙とも別れ、その息子が芸能ゴシップネタになるようになってしまったのね。しばらく舞台人としての噂を聞かなかったのも「唐組」から足が遠ざかっていた理由の一つだったけれど、近年この「唐組」の評判がいいようだ。そういうわけで、ちょっと前から見る機会を伺っていたのだけれど、ようやくこうして「紅テント」の中に座る機会がやって来た。

 ‥‥しっかし、イントレなんか使わないんだね。本物の「テント」。絶対に助成金なんか貰わないし、企業との協賛などもやったりしない。あくまで「河原乞食」を押し通すその姿勢が、このテントからも伝わってくる。

 演出法が変わっているわけではない。昔とおんなじだ。要所要所でライトとBGMを変化させてアクセントを与え、役者がエネルギッシュに心情吐露する。作劇法も変化はない。今回は「オルゴール」をキーワードに、戦前(これは太平洋戦争)からオルゴールを作って来た職人と、終戦後の混乱、戦後の経済復興の一翼を担ったナイロン産業、ヒロポン中毒、などの問題をからめながら、複合した物語が舞台を大きく開いた「借景」で大団円を迎える。

 面白い。面白かった。これはおそらくは役者陣の充実ぶりによる所が大きいのだろう。まず、なんで皆ここまでハイテンションになれるのかと言う事があるし、それぞれのキャラクターで魅力的な役者が揃っている。もうわたしには名前も知らない役者ばかりなんだけれど(あたりまえ)、「あれって、なんて役者なんだろう」って、つい名前を調べてしまうような魅力がある。で、唐十郎が役者たちの個性をうまく引き出した戯曲を書くんだなぁ。しかも、もう何のてらいもなく、自分自身の登場シーンを盛り上げるべく演出する。ひょっとしたら現在の「唐組」の好調さ、この唐十郎の自分自身へのてらいのなさ、というあたりも原因しているような気がする。

 ただし、その舞台としての面白さはあるものの、戯曲としてはその完成度は落ちているなぁ、との印象は否めない。それはある意味では舞台での盛り上がりを最優先していると言う理由もあるだろうし、マンネリズムに頼っている部分もあるのだろう。しかし、わたしの好きな「水族館劇場」などでも言える事だけれども、このような劇団の手法に対して「マンネリズム」などと排斥する事なんて、無意味なんだよ。その「マンネリズム」を楽しみに行く事こそが、このようなアングラ劇団を観劇するマナーでもあるのだから。‥‥今度はデートに使ってみようか?

 

 

*1:失礼。実際にはプロットはほぼ出来ていたらしいけど。

*2:このオーディションを通じで、平田オリザは長崎でのオーディションで中学生の「天才少女」に出会ったということを、当日配付されたパンフレットの中の対談で語っている。なんか、楽しみ。

*3:原作戯曲を活字として改めて読み直してみたいと思った作品だった。現在発売中の「せりふの時代」に掲載されているらしいけど。

*4:あまり柔らかすぎると、「唐組」との差異とか、なくなってしまうかも知れないけれど。

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■ 2004-10-29(Fri)

[] "What the hell is goin' on ?" その20(再演へ) 12:27  "What the hell is goin' on ?" その20(再演へ) を含むブックマーク

 丹野賢一/NUMBERING MACHINEのHPが更新されています。ぜひ、読んでください。

 ひとこと触れておきますが、わたしは決して丹野氏サイドと連絡を密にして、共同作戦を取ろうとしているわけではありません。ここでわたしがやっているのは、まずは「観客」という立場での「さきら」の姿勢へのいきどおりからの、完全な単独行動です。

 わたしはわたしで展開して行く事柄がありますので、ここではそのような展開の軌跡を記録しています。こちらもまだ続きます。

 

 

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■ 2004-10-28(Thu)

crosstalk2004-10-28

[] 『2046』 王家衛(ウォン・カーウァイ):監督  『2046』 王家衛(ウォン・カーウァイ):監督を含むブックマーク

地域1224から1225にかけては極寒地帯であり、この地域を通過する時には、人と抱き合って寒さから身を守らなくてはならない。

 たいていの方と同じく、「話が違うじゃん!」という第一感想。「近未来SF」ではないじゃないか*1。タイトルは『1966』でいいじゃないか。ま、それはそれとして、それでもちょっと面白い作品ではあった。

 いきなりウォン・カーウァイの前作『花様年華』で語られた「秘密を樹の空洞に封じ込める」話が語られ、主人公がトニー・レオンでもあるわけだし、この作品が『花様年華』の主人公の後日談であることがほのめかされるわけだけれど、そのような事前の知識がなければ楽しめないような作品ではないと思う*2。ついでに言えば、『欲望の翼』へと結び付くような話も出てくるし、トニー・レオンが鏡の前で櫛を使うシーンは、『欲望の翼』のラストを髣髴とさせる。

 事前に伝え聞いていた情報では、主題は2046年を舞台とした抗争劇であり、木村拓哉は殺人犯として「2046」*3から脱出するといった話のはずだったのだけど。
 おそらくは、ウォン・カーウァイの中では、当初は全く別物の作品として構想されていたものなのだろう。で、又コノ人混乱しちゃったんだな、きっと。また『楽園の瑕(きず)』かよ、って。で、作品をとりあえずは完成させるために、収拾のつかなくなった(のだろうね)「2046」の部分をすっぽり捨ててしまって、こんな作品にしてしまったのだろう(推測)。結局2046年の部分は、小説家であるトニー・レオンの書いた小説であるという設定なんだけれど、その小説から木村拓哉とフェイ・ウォンの部分だけ(「2046」から抜け出す列車)を残してしまったのが、この作品に奇妙な印象を抱かせる原因になっているのではなかろうか。

 などと言いながらも、先に書いたように、この作品、わたしには楽しめる作品だった。クラーク・ゲーブルのようなヒゲを生やし、カサノヴァのように女遊びを繰り返す売文家である主人公の内面の虚しさ、人生に求めながらも得られなかったものが、その相手の女性達の孤独とともに、ちょっとした苦味を伴って、1966年から1968年にかけての時代背景のもとでスタイリッシュ*4に描かれている作品だと思うから。そして、女優達の艶やかさ! これを忘れる事は出来ない。

 この決して短くはない作品で、トニー・レオンとさまざまな女性たちとの、幾度幾様もの出合いと別れが描かれるのだけれども、その中で作品のメインとして描かれるのは、チャン・ツィイーとのただれたような関係であり、フェイ・ウォンとの一種プラトニックな薫りもする関係の二つだろう。この対比の中にこの作品の持つ一つの魅力もあるように思うのだが。

 フェイ・ウォンには、交際している日本人男性(木村拓哉)への、精神が狂うほどの強い思慕があり(親からも強く反対されている)、トニー・レオンが書く「2046」という小説は、この二人のために二人を主人公として書かれた小説という事になっているが、小説の中の男性には大きく主人公トニー・レオンの精神が反映されている。

 ‥‥失われた記憶を見つけられるという、「2046」と言う地、しかしそこでは何一つとして変化するものはなく、そこから帰ってきた者はいないと言う。木村拓哉はそこから逃れて(?)SFチックな列車で帰還しようとしている。その列車でアテンダントを勤めるアンドロイドが、フェイ・ウォンがモデルと言うことになるのだけれど、男はそのアンドロイドに恋してはいけないと、パーサーから申し渡される。こういった骨格はさほどオリジナルなものでもないし、このシーンでのフェイ・ウォンは、おそらくはクリス・カニンガムの作った、ビョークのアンドロイドが恋をするあのPV(「All Is Full Of Love」)からの影響/反映が色濃く出ているのではないだろうか。ここには、この物語を書いている作者であるトニー・レオンの、フェイ・ウォンへの屈折した微妙な思慕が反映されていて、うわべの構成の破綻から逃れた密かな魅力が、映像として(いかにもウォン・カーウァイらしく)美しく花咲いている、と、わたしは受け取る。

 基本的に、この作品に現われる女性たちは、コン・リーの演じる謎の女性(しっかし、彼女のヘアー・スタイルはすごい!)のように、主人公にとって精神的には「アンタッチャブル」な存在であり、その内面はほとんどの場合うかがい知る事も出来ない。それはまぁ言ってみれば『花様年華』以後のトニー・レオンの精神のあらわれと言っても良いのかも知れないけれど、そんな事に思いをめぐらせずとも、カサノヴァ的男性の内面の埋められない空洞からの反映として了解する事は可能だろう*5

 そんな中で、チャン・ツィイーだけが、その蓮っ葉な小悪魔的虚勢からもろくも崩れさって弱さをあらわにし、堕ちて行く様がずいぶんと丁寧に描かれる。もちろんこれはトニー・レオンがその「埋められない空洞」を必死に埋めようとする行為の対価として有効なわけだけれど、このシークエンスでの二人の演技は見事。特に、チャン・ツィイーが男(トニー・レオン)から無理に10ドル札を渡され、その脇を男がすり抜けて行き、しばらくして彼女がフッと顔を振り上げたその瞬間に、その眼から涙がこぼれ落ちるワンショットのシーン、ドラマとしてこんな素晴らしいシーンははじめて見たような気がする。このシーンの見事さは忘れない。

 

 

*1:日本の公式サイトを見ると、この作品では全く出て来ないシーンのスチルがあれこれと散見される。これはこれで楽しい。

*2:ただし、いったいなぜマギー・チョンが唐突に現れてくるのかは、『花様年華』を見ていなければわからない。ま、あんなシーンは「イメージショット」と片付けてしまっていいのだけれど。

*3:普通に考えれば西暦年号なのだけれども、ここでは場所の名前とも取れる。ちなみに、2046年とは、香港が本当の意味で中国の体制に併合される年。

*4:もちろん、構成の混乱はスタイリッシュとは言いかねるけれど。

*5:わたしはカサノヴァ的男性ではないが、いちおう「埋められない空洞」は、一つ所有しておりますが。

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■ 2004-10-26(Tue)

[] "What the hell is goin' on ?" その19(「さきら」) 19:19  "What the hell is goin' on ?" その19(「さきら」)を含むブックマーク

栗東ガイド」より。

栗東芸術文化会館さきら

「街の文化ゾーン」の中核施設として、JR琵琶湖線栗東駅前に1999年にオープンしました。滝や池を配したシンボル広場が、街の憩いの空間となっています。愛称の「さきら」は「才気」「先端」「将来」を表わす日本の古語からきています。一人ひとりの才気を磨き、情報の発信を行い、その先端を担うという意味が込められています。


SAKIRA ホール概要より。

さんかする【仲間】

 Participate [join]
「まちづくり・ひとづくりの拠点」

“さきら”はJR栗東駅周辺を想定している「街の文化ゾーン」の中核として、芸術文化の拠点となることを目指しています。
 「こころを豊かにする生涯学習」のまちづくり・ひとづくりを実践する施設として“さきら”は誕生しました。人々が身近に芸術文化に触れ合う機会をここから作っていきます。そして、「鑑賞の場」「自らが参画して創造する=自己実現の場」を目指します。



きく【聴く】みる【観る】

 Listen&See
「芸術文化情報の受発信の拠点」

 さまざまな舞台芸術を紹介することは、その場の楽しみや感動を与えるだけでなく、参加してみたいという“きっかけ”づくりにもつながります。
 『受信』、それは、新たな創造の糧となることだと考えています。“さきら”は、単に芸術文化情報を受信するだけでなく、他へ発信する力を持つことを目指しています。このためには、創造を生むための特色ある芸術を受信することはもちろん、受信によって育まれた新しい芸術文化を展開させることが大切です。また、地域の特色ある文化を継承し、発展させていくことも必要です。
 “さきら”では、それらを定着させることが大切だと考えています。



らしさ【個性】

 Look like [Identity]
「交流の拠点」

 「ひとつの舞台芸術を鑑賞し、その感動を共有する…」また「ひとつの作品の創造に参加し、共に作業をする…」そこには、さまざまな出合いが生まれます。それは、世代・地域を越え、人と人が顔の見える関係をつくり出すことにつながっています。人と人の「交流」によって芸術文化は創造され、育まれます。
 観客・出演者・裏方、そして、“さきら”を訪れるすべての人にとって、この会館が「交流」の生まれる拠点となることを目指します。


 

 ‥‥現在、行動を起こしつつありますが、しばらくはこの件でココに書くことはありません。もちろんこれで終わりにするのではありませんので、これからも「Watch」して下さい。又そのうちに書き始めます。


 

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■ 2004-10-24(Sun)

crosstalk2004-10-24

[] 少年王者舘 『こくう物語』 鈴木翁二:原作 天野天街:脚本・演出 at 下北沢ザ・スズナリ   少年王者舘 『こくう物語』 鈴木翁二:原作 天野天街:脚本・演出 at 下北沢ザ・スズナリを含むブックマーク

 天野天街の演出したものは、流山児のとか、『真夜中の弥次さん喜多さん』とか、最近も継続して見ているんだけれども、「少年王者舘」としてはずいぶん久しぶりの観劇になる。ま、見なくてもいいか、と思うようになったっちゅうのも、かつての松宮陽子とか中村榮美子とかの、自分の贔屓の役者が出なくなってしまったからっちゅう事はある。そもそも舞台のパターンは基本的には毎回同じだし。

 でも、3年ほど前にBSで彼らの舞台が放映された時、何度も実際に見ているはずなのに、「こんなに面白い舞台だったんだ!」と再認識して、「次はやっぱり見に行こう」と心に決めながら、ついつい今回まで伸ばし伸ばしになってしまっていた。

 で、いったい何であそこまでTVで放映された時に「おもっしれぇ〜」って感じてしまったのか、って考えてみると、本来天野天街の演出って、2次元的というか、「映像的」なモンタージュ/カットアップ的な要素に溢れているわけで、それは当然天野天街自身が「映像的」な表現に親和性を持っていたせいなのだろうと思う。近年ではプロジェクターから舞台いっぱいにTVの「砂嵐」が投影されたり、TV画面のような網目を取り込んだ青い光が照明として使用されたり、舞台空間を異なるファクターのもとに異化しようとしているのだろう。

 その天野天街、近年新作をやらない。これも又わたしが最近「少年王者舘」から足が遠ざかったしまっている理由でもあるのだけれども、今回の『こくう物語』も、どうも聞いてみると純粋な新作でもなく、過去の鈴木翁二作の『マッチ一本の話』への改作、という要素がかなり強いらしい。どうした?天野天街。今回の公演も、直前になって石丸だいこが脱退したり*1、水谷ノブもいなくなったり、劇団としては、ひょっとしたらちょっとした「過度期」なのかも知れない。

 で、今回の『こくう物語』。もともとがマンガ雑誌の平面性を舞台に移植する試みとして、遊び所満載の楽しい舞台であり、演出はより過激にカットアップ性を増して、時間軸も空間軸も飛び越えた楽しい舞台にはなっていた。ちょっとデヴュー当時の古屋兎丸のテイストに近いような、2次元と3次元を行き来するようなビザール感覚には満ちている。役者陣も、そういうバカバカしいシチュエイションを演じ切る「おばかキャラ」は、人材豊富になってきているようには思う。いや、変な男優が増えたよね。たしかにそういう面では面白い舞台だった。

 特に、毎回ながらの意味不明な強引な展開は今回も冴え渡り、例えば主人公の平吉(夕沈)が命の水の入ったひょうたんをなくし、それがわけのわからん神様(?)から、平面になったペラペラのひょうたんで戻された時、その「ペラペラ」つながりで、突然舞台の2階に平吉の姉が登場、ペラペラのホットケーキを持ち出しながら平吉が行方不明になっている事を告知するような、ムチャな展開とか。

 しかしながら、昔の「少年王者舘」には確かに存在した、「少年とも少女とも判別出来ないようなあいまいさを持つ主人公」*2が、いなくなってしまった。おそらく、この一点こそが、現在の「少年王者舘」の苦境、と言ってしまってもいいのではないだろうか。夕沈のようなキャラを嫌うわけではないが、彼女のような存在が劇の主役とされてしまうような情況は、本来の「少年王者舘」のあり方からは距離があると思う。簡単に言えば「ヒロイン不在」。

 例えば親戚劇団「維新派」が、春口智美一人の存在でかろうじて持ちこたえているような情況が、「少年王者舘」ではすでに崩れさってしまっている。そういう存在があってこその夕沈であり、珠水であるはずなのだが。

 あ、書くの忘れてた。石丸だいこの退団に伴ってか、今回から恒例のダンスの振付けが夕沈の担当に変わっている。基本的な組み立ては以前からを踏襲しているとは言え、腕の動きを重視したボディ・ランゲージ的な夕沈の振付けは、腰の落ち方も足りないし、やはり石丸だいこのすっとこどっこいな振りがちょっと懐かしい。
 (10月23日観劇)


 

 

[] 『景』 中村公美 at 高円寺 ギャラリー・DISCO GIRL   『景』 中村公美 at 高円寺 ギャラリー・DISCO GIRLを含むブックマーク

 中村さんのパフォーマンスの原点にはいつも「日常」があるから、わたしはいつも見て刺激を受ける。絶対に「舞台芸術」なんて言い方で回収され得ないから。そして、あたりまえだが、決して「ヘブン・アーチスト」みたいなつまらない表面的技巧を挟み込むわけでもない。

 あくまでも日常的身ぶりを原点に、ただそのままに「日常」という空間を縫い進む彼女のパフォーマンスは、「何も起こらない」という事件性によって、恐ろしく21世紀的な事件なのだ。

 今回は、高円寺の奇妙キテレツな4階まであるギャラリーでの、写真展と連動したパフォーマンス。浮遊するように「日常」と「非日常」の間をゆらめく。「即興」というメソッドから出発しながらも、いかに「即興」などと普段から言いたがる、舞踏などを規範に仰いでおられる方々と距離がある事か。この不思議な空間の中、kamataさんの殺人事件の現場のような写真の展示の間をすりぬけて行く。この感覚はゴダールの映画のようであり、アントニオーニの映画も思わせる。そのような空間が、時間軸を伴ってわたしの目の前に現前する。そりゃぁ「事件」だろう。

 ‥‥ここには、身体としての「ノイズ」がある。
 (10月23日)

 

 

 

[] 『縄文−光の石 トランスサークル展』 森万里子 at 東京大学総合研究博物館小石川分館  『縄文−光の石 トランスサークル展』 森万里子 at 東京大学総合研究博物館小石川分館を含むブックマーク

 えっ? 「縄文」? して、森万里子も岡本太郎の後継者として名乗りを上げたのか? などと思ってしまうのだが、もうこの展示の世界には、現代美術のタームとか、美術史的な評価とか、見ている時にはどうでも良くなってしまう。

 これらの作品〜インスタレーションを見ながら、そのコンセプトとか、意味性とか、とにかく考える必要はないだろう。そのような事を考える人にとっては、まったく面白みのない作品かも知れない。

 内藤礼の作品などとの親和性を感じ取る人もいるかも知れない。たしかにここにあるのも一つの「秘儀」であるだろうし、「神秘主義」でもあるのだろう。だが、ここに表出された「歴史」以前にリンクするであろう「モノ」である存在、その前で、人の歴史の無意味さに心めぐらせるのも、秋の日の密やかな午後には似つかわしいひとときではないだろうか。

 この作品を全面的に賛美するわけではないけれども、おおかたの「現代美術」などと呼ばれるシロモノを見ようという気持ちからはますます遠ざかって行く自分を確認出来た。乱暴な言い方をすれば、「こういうのでいいんだよ」という感覚。森ビルは大ッ嫌いだけれども、森万里子はイイ。

 会場に観客がほとんどいないのも嬉しい。これからも会期中時々行くつもりだから、誰も観に来ないように。


 

 

 

[] 『VOCI』 Luciano Berio:Compose Kim Kashkashian:Viola ECM  『VOCI』 Luciano Berio:Compose Kim Kashkashian:Viola ECMを含むブックマーク

   Voci

 ちょっと、あんまりスゴイから新しいカテゴリー作ってしまった。

 1曲目が、キム・カシュカシャンのヴィオラとウィーン放送交響楽団による『Voci』、これだけでもぶっとんでしまうオーケストレイションなんだけれど、2曲目から6曲目までがローマの民族音楽アーカイヴの録音になるシシリアのフォーク・ソング。これが、7曲目で『Naturale』という「ソロ・ヴィオラとパーカッションのための」曲で、すべてが統合されて強烈な音世界に展開される。この1枚のCD自体が小宇宙を形成し、恐ろしい力で迫ってくる。

 もともとルチアーノ・べリオは好きな作曲家なのだけれども、こんなに強烈なCDは初めて体験してしまった。音楽の事をあれこれと書くのは苦手なので、このあたりで。

 

 

 

*1:すみません、全くウラの取れていない勝手な憶測でした。(10月27日追記)

*2:どさくさにまぎれてついでに言ってしまえば、「美女役」も、ね。〜いや、山本亜手子さんは今のままで充分お美しいですよ!

■ 2004-10-23(Sat)

[] "What the hell is goin' on ?" その18(騒音〜ノイズ) 01:15  "What the hell is goin' on ?" その18(騒音〜ノイズ)を含むブックマーク

 ‥‥そろそろ、この変な表題も何とかしないとイカンね。

 わたしはいったい何をやろうとしているのだろうか? 市民運動みたいに「さぁ、皆でいっしょに抗議行動を起こそう!」なんて事は、頼まれない限りやろうとは思わない。わたしは数の論理は嫌いだし。そうではなく、こういった個人のブログ日記のような存在が、これ自体として存在し得る方法を探っている。

 考えてみれば、ちょうど一ヶ月前に、今回の問題にかぶるような事に自分も遭遇し、その経緯を別の日記に書いている。ひょっとしたらその時の体験が今回に引きずって来ているのだろうか。

 この日記に書いた次の一文、

おそらくは、「作家」と言ってもただのゴロツキみたいじゃないか、との印象は持っているのだろうけど、そういうゴロツキやヤサグレをどれだけ包容できるかが仕事だと心得てほしい。

 わたしはいつも、この一節を心の中で唱えているんだ。これはわたしや丹野氏が「ゴロツキやヤサグレ」だと言っているのではなく、自分がまがりなりにもイヴェントのプロデューサーを経験して来た人間として言っている。例えば丹野氏の後に「さきら」でテント公演を行った唐十郎氏など、「ゴロツキやヤサグレ」の類いの最たるお方ではなかろうか。今でこそ唐十郎氏も芥川賞受賞作家であり、マルシアの前夫のオヤジとして全国区的な知名度がある(?)が、紅テント設立当初、伝説の60年代には公演場所を追い出され、機動隊に囲まれての公演を繰り返して来ている。

『腰巻お仙−忘却篇』は66年の10月、東京・新宿区の戸山ハイツの「灰かぐら劇場」と呼ばれた野外空間を使い、公演を阻止しようとパトカーの警官まで出動する緊迫した騒ぎのなかで3日間だけ上演された芝居である。

(扇田昭彦:「小劇場以後の現代演劇」〜『戦後文化の軌跡1945〜1995』展カタログより)

 ‥‥問題の本質は、この66年からちっとも変わっていないではないか。いや、唐十郎の場合は野外での公演許可など得ないゲリラ的行動であっただろうし、それに比べても今回のできごとはもっと質が悪い。

 一方で、行政的に庇護された「ヘブン・アーチスト」と呼ばれるやつらが野外でパフォーマンスを繰り広げる光景もある。そして、そのような「ヘブン・アーチスト」的な存在の対極に「騒音」が位置するという事。なぜ「騒音」が表現として有効か、ここで述べる必要があるだろうか? こちらは「ヘル・アーティスト」とでも呼ばれたい所だ。

 だから、「騒音」を一度は容認したような姿勢を見せながら、土壇場で「騒音」排除の側に組してしまった「さきら」の姿勢を問題にする。ここにわたしがこのできごとを問題にする理由がある。


 

 

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■ 2004-10-21(Thu)

crosstalk2004-10-21

[] 『珈琲時光』 侯孝賢(ホウ・シャオシェン):監督  『珈琲時光』 侯孝賢(ホウ・シャオシェン):監督を含むブックマーク

 電車、そして喫茶店。江文也を探す彷徨と、音を記録する彷徨がすれちがう。そして、家族。
 あれこれの糸が張りめぐらされ、それらの糸がこの映画の中、東京の中で交差する(右の画像も、そんな糸の一本)。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン)に期待した部分が大きかったのだけれど、今回は光と影の露出の差異、透過する光と反射する光がテーマのような作品だった。したがって登場人物はほとんど白っぽい服を着、そこにTVからの光やiBookのディスプレイの光が反射する。一青窈の部屋の外から、格子柄のカーテンを透過する外の光。外の光は常にほとんど露出過多で、冒頭の大塚駅前、古本屋の中からガラスドア越しに見える通過する車、みな、白く吹っ飛んでしまっている。これをそのまま『夏至』や『春の惑い』でのような「美しい映像」と呼ぶことはためらわれるけれども、ひょっとしたらこのあたりが小津安二郎へのオマージュにもなっているのかも知れないし、実に思索的なアプローチだと思う。カラー映画をモノクロ的に撮影すると言うか、モノクロ的な価値観を重要視したのだろうか。

 ほとんど物語に奉仕することを放棄しているようなディテールの積み重ねの中から、透けて見えてくるように交差する微細な物語。江文也という戦前/戦中の音楽家の東京での足跡を辿る行程は、そのまま侯孝賢自身の行程でもあるのだろう。あぁ、だから一青窈をヒロインにしたのだな。

 しかし、それぞれ並行して走る違う電車(山手線と京浜東北線)に乗った一青窈と浅野忠信、その浅野忠信の乗った電車が一青窈の脇を追い越して行く、奇跡のようなシーン、あれはテイクを積み重ねればそのうち機会があるなどと言うものでもないだろうに、どのようなことからあのシーンは撮影が可能になったんだろう?

 ただ、上映が始まってすぐに、この脚本には日本人はノータッチだったんだろうな、と思ってしまう。で、後半で「そりゃないだろ」となる。おそらくは日本側スタッフの遠慮もあったのではないかと想像されるけれど、日本人の風習とか日常会話で、ありえないことははっきりとそう伝えて、書き直すかカットすべき。余貴美子が困ってしまっていたではないか。*1

 映画の終わりで一青窈と浅野忠信が並んでいたのは、わたしがほぼ毎日使っている日暮里駅のホームだった。ちょっとうれしい。あまりいろいろと語るのがイヤになってしまう、とても心にしみる作品だった。

 あ、直接に関係はないことだが、田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)監督の新作は、戦前〜戦後日本で活躍した棋士・呉清源の生涯を描く作品とのことで、近江八幡を昭和初期の東京に見立てたロケ撮影が、もう始まっているようだ。

 

 

*1:しまった!このシーンは『東京物語』からの引用だったのだ。しかし‥‥、なぁ。

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■ 2004-10-20(Wed)

[] "What the hell is goin' on ?" その17(背景その2) 12:57  "What the hell is goin' on ?" その17(背景その2) を含むブックマーク

 例えば、都市部の郊外にマンションなどが売りに出された場合、その売り文句に「閑静」とか、「静か」などという語句が挿入されることが想像できる。で、ある時にその「静けさ」が破られたとき、そのマンションの住民は「売り文句と違うではないか」という意思も含めて、そのマンションの管理組合にまず苦情を言う。これはマンション全体をひとつのコミュニティと捉えて、ごく普通に妥当な事だと思う。で、わたしにわからないのが、この管理組合が非常に早い段階で警察に連絡をとり、警察とともに「さきら」に苦情を伝えに行っている事*1。この「警察」が出て来るのがどのような経緯からなのかは不明のままなのだけれども、マンション管理組合はその「警察」が絡んでくる前に「さきら」へ単独で苦情申し立てしているのだろうか? ここが今わたしにわからない部分。

 そして、とにかく一番わからないのが、「さきら」の側でこのような問題が起こる事を想定していなかったのか? と言う事なんだけれども、これは、「ここでせき止められる」と想定していた範囲を超えて(例えば「警察」が来てしまったために)問題が大きくなってしまい、想定していたせき止めラインの頭をいきなり飛び越えて、いきなり館長や理事長クラスの出番になってしまったためではないかとも思えるのだけれど。だとしたら、その結果として現場の人間が一番不幸な目に逢ってしまったという事なのだろう。

 そんな推測は措いても、観客もまたこのイヴェントの当事者であり、「どうして中止されたのか。アーティスト側は台風という理由ではないと言っているのに、なぜ当初台風のためと予約客に電話連絡し、なぜ後にHPに『諸事情のため』と書いたのか。その諸事情とは何だったのか」という事はしっかりと「さきら」から観客に説明されねばならない。これが現在の所いちばんの問題なのだ。これが出来ないとなると、「さきら」は、組織としてどこか狂っていると言う事になる。

 おかしな事がいっぱい起き始めている。JASRACは「ダンスのレッスン」の際に流す音楽からも著作権料を取ろうとしている。これが通れば、小演劇などで舞台で使う音楽にも当然適用されるだろう。


 

*1:このあたりにわたし的には「新興住宅地」特有の危機管理問題があるような気がするのだけれど。

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■ 2004-10-19(Tue)

crosstalk2004-10-19

[] ク・ナウカ 『アンティゴネ』 作:ソポクレス 構成・演出:宮城聰 at 東京国立博物館 本館前野外特設舞台  ク・ナウカ 『アンティゴネ』 作:ソポクレス 構成・演出:宮城聰 at 東京国立博物館 本館前野外特設舞台を含むブックマーク

 博物館に気に入られてしまった「ク・ナウカ」。前回『マハーバーラタ』は東洋館の地下に押し込められて窮屈な思いをしたけれど、今回は堂々と本館正門前に舞台を作ってしまった。次回は平成館の前の池の上かな?

 最近はムカデとクモの『サロメ』といい、弾けまくりの『マハーバーラタ』といい、『ウチソバ』(未見)といい、快作ならぬ「怪作」路線を進みつつあるかのごとき「ク・ナウカ」。今回もわたしの中ではちょっと期待値は高かったのだけれども‥‥。

 原作がギリシャ悲劇の古典というわけで、そのほとんどが「立ち芝居」というか、他者とのコンタクト/絡みがないままに、セリフだけで進行して行く。動的な要素に欠ける印象。このあたりは原作のコロスを「老人たち」の設定から「死者たち」に変え、暗黒舞踏かよ!と言った要素を加えて補おうとしていたようだけれども、主となる役者たちが常に棒立ち基本、美加里さんはさすがに動くが、観客席から舞台までの距離のせいか、ちょっと伝わってこない。

 今回は従来のアクター/スピーカーに分かれての二人一役ではなく、役者は全員普通にセリフをしゃべる。ただし、王クレオーンは6人が同時に演じ(基本的に阿部一徳なのだが)、アンティゴネの妹のイスメーネーに至っては、10人が演じることになる。イスメーネーの10人は、これがそのままバックで音楽演奏側に回ったり、ちょっと面白かったのだけれども、どうもわたしにはクレオーン6人の演出に疑問が残る。で、アンティゴネ退場後の展開をはしょってしまって、あっという間に終わらせてしまったのも、これでは『アンティゴネ』とは言えないではないか、との疑問も残る。

 ただし、先にも書いた劇団員自らによるガムランめいた演奏は、実際の虫の音や鳥の鳴き声とともに野外舞台の雰囲気を高め、これはとっても楽しめた。あと、最近成長著しい大高浩一、出番は少ないながらも今回もまたスケールアップした感があり、さらに今後が楽しみな役者。

 宮城さんが配布パンフに『カッパの似合うアンティゴネ』*1などと書くものだから、又台風がやってくる。もう今年は、誰もこれ以上嵐を呼ぶような真似はしないで欲しいと、強く思う。

(10月16日観劇)

 

*1:あ、書いた後で気がついたけど、これって、『喪服の似合うエレクトラ』に架けてるんだ。わかんなかったよ。

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■ 2004-10-18(Mon)

[] "What the hell is goin' on ?" その15(関連リンク集) 21:24  "What the hell is goin' on ?" その15(関連リンク集)を含むブックマーク

 今回の事件に関して、関連するウェブサイトをまとめておきます。

 

丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太「026-METAL」に関して

 丹野賢一/NUMBERING MACHINEのサイトの現在のトップです。まずはこの当事者のメッセージから始まります。

丹野賢一/NUMBERING MACHINE DIARY

 現在は公演直前の10月6日でストップしていますが、公演までのスタッフ/ヴォランティアの真摯なドキュメントです。

TANNO KEN'ICHI/NUMBERING MACHINE BBS

 丹野氏のサイトのBBS。スタッフ/ヴォランティア/観客からの生々しい発言が読む事が出来ます。当面はここからは目が離せないでしょう。

ひつじのぼんぼり

 今回の公演のゲスト出演者、羊屋白玉さんの日記。丹野氏の日記を補完しながらも、公演中/公演後の貴重な情報を見る事が出来ます。

沈黙するウェブサイト
栗東芸術文化会館さきらの丹野賢一/NUMBERING MACHINE野外公演中止続報

 小劇場演劇の制作者を支援するサイト。まっ先にこの問題を取り上げ、このサイトを紹介していただきました。おかげで多くの方がこの事件を知る事になったと思います。18日現在、そのトップページから「続報」を見る事が出来ますが、じきにアーカイヴ化されると思われます。これからも力をお借りしたいサイトです。

中西理の大阪日記

 関西在住の中西理氏による演劇批評サイト。早い時期に取り上げていただきました。このサイトもリンクしていただき、感謝です。

雨傘芸術談義

 「さきら」が、予約されていた観客に、自ら「台風のため」と電話連絡していた事がわかります。

栗東芸術文化会館さきら

 適切な言い方かどうかわかりませんが、「ターゲット」です。


 それから、本宮ひろ志「国が燃える」休載問題でリンクさせていただいた(id:swan_slab)さんから、貴重なコメントをいただきました。ここで改めてお礼させていただきます。



 チケットぴあの、「公演中止情報」のキャッシュを映像で記録しておきます。あいかわらず不鮮明で申し訳ありませんが、右下にこの情報が10月8日の14時13分に発信された事が読み取れます。これは「さきら」からの情報を受けて「ぴあ」が発表したものとして、その第一報が「台風接近のため」という理由であった事が読み取れます。

  


 

[] "What the hell is goin' on ?" その16(背景その1) 23:10  "What the hell is goin' on ?" その16(背景その1)を含むブックマーク

 ‥‥前にも書いたように、栗東の街(ここではJR栗東駅前)は、典型的な都市周辺のベッドタウンの様相を示していた。聞いた所では、現在日本で最も人口増加率の高い町でもあるという事だ。その反面、美しい自然に囲まれ、歴史的な遺跡や伝説の残る古い土地柄もまだ存続する土地でもあるらしい。わたしが実際にこの眼で見たのは栗東駅〜「さきら」周辺のごく限られた地域に過ぎないから、ここで「何でも知っている」みたいな顔をする事はとても出来ないけれども、そんなちょっとした体験からも思索をめぐらせる事は出来る。

 一つのポイントとして、今回の問題の発端が、マンションの管理組合の理事が、警察を伴って騒音に関する苦情を申し入れた、というあたりから始まっているらしい事に注目したい。このような問題の起こり方が、いかにも「新興住宅地域」的だ、と言う事だし、そもそも『さきら』というスペースが、そのような「場」の中にこそ成立しているのだと言う事を、もう少し考えるべきだろう。そう、そのようなあり方は、言葉を変えて言えば、「地域的スノビズム」に依存しているのだ。

 個人的な事をちょっと書けば、先日ある人たちと飲んだ時に、ある人物が「調布よりも熊本の方がヤバい」などと言い出した。このような発言をする人間の頭の中には当然、東京や大阪、京都を文化的頂点とする地域的ヒエラルキーが存在するわけで、単純に都市からの距離を測っている。そんな発言をするヤツは、顔がジャガイモになるまでボコボコにされてしまってもわたしは絶対に手助けはしない。ていうか、気分がよければ、そいつの顔が里芋になってしまうお手伝いだってやってもいいと思っている。ルー・リードは、ジョン・ケイルといっしょに作ったアルバムで、たしかに「小さな町からはミケランジェロは生まれない」と歌っている。だが彼はその歌で大都市の文化的優位性を単純に歌っているわけではない。何を言っているかって? わたしは、地域社会は好きこのんで都市文化にすりよったり、模倣するべきではないと思っているのだ。そういう姿勢をわたしは「地域的スノビズム」と呼ぶ。まず、これが「さきら」の抱える問題ではないだろうか?と思う。都市には都市の「地域的スノビズム」がある。どうやってこれを克服するかは、共通した問題だよね。

 わたしは、地域からある恒久的な価値を発信する成功した試みとして、例えば利賀の演劇フェスティヴァル、越後妻有のアートトリエンナーレ、夕張や山形での映画フェスティヴァルを思い浮かべたりする。

 騒音? 騒音とはすなわち異物であり、情況的/視覚的騒音という事にも、生活空間をその場に持つ人は反応する。だから、現象としての「騒音」という問題が起こらなくとも、排除する姿勢はいつでも立ち上がるだろう。わたしは今いわゆる「谷根千」地区に住んでいて、ここで行われるイヴェントとも身近に接しているけれど、最近ネット上で、この地域で地域イヴェントを興した団体へのバッシングが盛んになっている。これはこの地域でその団体が「地域スノビズム」に飲み込まれていた例証でもあり、わたしはその過程から、住民が反発する気持ちも解らないではない。

 都市や都市周辺に存在する「保守」とどう立ち向かうのか。ここでの「保守」は政治的にわたしなどに立ち向かうものではなく、こちらはその「保守」の本質を知るべきなのだ。それがいったいどのような形を持って顕われて来るのか。共存出来るのか。いや、共存出来るのだ。その前提なくして何が実現可能だろう。まずは「原則論」から。以下続く。

 

 

swan_slabswan_slab 2004/10/19 17:55 こんにちは。騒音被害の客観的評価を考えるうえで欠かすことが出来ないのは、侵害が継続的になされているかどうかです。騒音でなくともいわゆるニューサンスとよばれる生活妨害全般にいえるのですが、日照、電波、粉塵、排気ガス、振動、騒音などの被害を評価する場合、例えばたまたま大型トラックが家の前を通って迷惑したという場合にに、大型トラック通行禁止などと言い出すひとがいればイッちゃっていると思われるのがおちでしょう。

そんなことを言い出したら花火大会すら開催できなくなります。そういう観点から行政の対応に正当性があったか確認するといいと思います。

swan_slabswan_slab 2004/10/19 18:53 補足ですが、もちろん継続性がなければ何でもOKということではありません。たとえ一時的な騒音だとしても一般人からみて耐えうる許容レベルを超えていると評価できる場合にはNGになる可能性はあるでしょう。

いかにも「新興住宅地域」的な問題の起こり方という視点は、つまり排除する側のメンタリティとか寛容性といったものにどのような問題が潜んでいるかということですよね。いわば社会学的な関心というか。流動性の高い都市住民のノイズに対する閾値が下がっているのではないかという分析は、決して法的なレベルでの「一般人からみた受忍限度論」と無縁ではありえないはずですからちょっと考えてみたいテーマですね。

crosstalkcrosstalk 2004/10/19 19:38 あ、重ねてアドヴァイスありがとうございます。
自分の体験からですが、昔住んでいたアパートで、ま、ちょっとわたしが夜中にうるさくしてしまったことがあるんですけれど、そのときに隣の住民がわざわざ寝ている家主さんを起こして連れて来て、家主さんにわたしを注意させたことがありましたんですよ。わたしはそういった騒音の常習犯ではないし、隣の住民がちょっと「うるさいですよ」とまず言ってくれればそれで済んだ話なのに、話が大きくなってしまった事があって。なんか、今回もマンションの管理組合がいきなり(かどうか判らないけれど)警察に話を持って行くあたりに「都会的」なのかなぁ、などとも感じます。

あと、この際ですからお尋ねしたいのですが、わたしは今回のできごとに(中止にされた9日に予約を入れていた)「観客」の立場から、会場施設への抗議、そして情報開示を求める動きを起こそうかと考えています。メール、郵便など、どのような形から抗議を起こすのが適切なんでしょうか。

swan_slabswan_slab 2004/10/19 21:54 こんにちは、
まず事実経緯を整理した書面を用意して、その事実に誤りはないかということからはじめることになりるでしょう。それが出来なければ事実経過の説明責任を果たしてもらうべく、端的に会場利用中止に至る経緯についての公式発表を求めてはどうでしょう。事実認識に相違がなければ、という前提があってはじめて事実に対する抗議が成立します。
本気で抗議を考えているのであれば、市民のための法律相談なり無料の弁護士相談があると思いますので、お話してみるのが近道かと思います。
ただし、所詮”観客”ですから、いきなり表現の自由がどうのこうのという話にはなりませんし、知る権利がどうのというイデオロギー的な話も現実的ではありません。事実関係によっては、争点は「台風のため」というインチキ情報によって客をだまし主催者と客の契約を妨害したことの違法性といった話になるかもしれませんが、それはこちらの思い込みかみしれませんし、とりあえずは、騙しただのとややこしげな抗議はしないで事実経緯の説明を求めるために内容証明付郵便を送って事実経過に関する公的なアナウンスメントを求めることが出発点かと思います。

crosstalkcrosstalk 2004/10/19 22:35 ありがとうございます。わたしもいきなり「インチキ」とか「表現の自由」とか言い出すつもりはありませんので、たいへんに参考になりました。とりあえず、会場利用中止に至る事実関係の公式発表を求める事から始めます。感謝です。

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■ 2004-10-17(Sun)

[] "What the hell is goin' on ?" その13(In the beginning) 00:46  "What the hell is goin' on ?" その13(In the beginning)を含むブックマーク

 こうしてしばらく書き継いで来たけれども、考えてみたら、そもそも今回問題になった公演がどのようなものであるかを全く書かないままにここまで来てしまいました。おおまかな情報は丹野賢一/NUMBERING MACHINEのホームページで今でも得られますが、「さきら」のホームページからは、この公演に関する情報はすでにすべて消されてしまっています。

 今回は、これからこの情報を知られる方のために、消されてしまった「さきら」の「イベント詳細情報」に記載されていたテキストをここに再録して置く事にします。

丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太 「026-METAL」

地域滞在協働創造型プロジェクト。さきらを金属に改造する。金属は屹立し、金属は稼動し、金属は轟音を発する。丹野賢一、2年ぶりの野外公演!さきらの広場に大規模金属装置が出現

■日時
10月8日(金)・9日(土)・10日(日)19:30開演
<3回公演>

■場所
シンボル広場 特設野外美術装置内

■出演

■入場料
一般2,000円 学生・65歳以上1,000円
 (友の会:一般1,800円 学生・65歳以上900円)(当日500円UP)
※小学生から入場料要。小学生未満は無料だが、保護者同伴が条件。

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パフォーミング・アーティスト丹野賢一と美術家石川雷太が約1ヶ月間栗東に住み、地域住民を巻き込みながら、大規模金属装置の製作・金属打楽器のワークショップなどを積み重ね、パフォーマンスライブ、アートマーケットなどを開催する企画です。

アーティストプロフィール

丹野賢一

パフォーミングアーティスト。1965年東京生まれ。80年前後の、テクノポップ、パンク、ニューウェイブの音楽をきっかけに、アートに関心を持ち出す。84年私立麻布高校卒業後、田中泯主宰「舞塾」第4期に参加。日本各地の公演に出演。翌85年より独自の活動を開始。当初は月一回以上の活動を課し、小劇場での公演、野外やハンバーガー店での突発的乱入公演、イベント列車内での裸体公演等で物議をかもす。92年以降は、3000個のコンクリートブロック、有刺鉄線、赤い液体の池、4トンのピンクの粉、建築重機のパワーショベル、鉄筋製・カーバイド製の球体、工業部品のボルト、高さ約4メートルの鏡の壁など、過度な物量を使用し会場を作り替えるほどの舞台装置を構築しての作品の上演を本格的に開始。一方、平行して2000年からは装置を使用せず、衣装とメイクにより様々なパンキッシュな異形のキャラクターに扮しての短時間の作品群「PUNK EXECUTION -SHORT SOLO WORKS-」の上演も開始。また、空地、廃墟、鶏舎、川、ダム、林、崖、海など非劇場空間での公演も多い。何れの場合でも、音、照明、装置、衣装などの要素も極めて重要で、それらは出演者と同等の役割を持ち等価に機能する。そして音、照明は極力ライブにこだわる。そして、作品を作者の特定のメッセージの伝達手段とは考えない。現在迄に国内16都道府県、海外12カ国 (アメリカ、スイス、ポーランド、イギリス、ドイツ、フランス、タイ、インド、オーストリア、リトアニア、ハンガリー、チェコ)15都市で公演。http://www.numberingmachine.com/

石川雷太

1965年生まれ。美術家。鉄パイプや鉄板、ガラス、文字、黒板、Tシャツ、TVニュースの画像、手記からの引用、複数の作家へのインタビューやリサーチ、実験用の生きたウサギや血の付いたままの牛頭など、多様な要素/素材を再構成し、社会や人間に潜む〈暴力性〉を生々しく顕在化させるインスタレーション作品を多数発表。通常のギャラリーや美術館だけでなく、作品を設置する〈場所〉も作品の重要な要素と考え、現在までに、東大駒場寮、取り壊し前のアパートやビルの屋上など、特殊な場所を選択、更に空間の壁をすべて張り替えるなど、最近ではいわゆる〈作品の展示〉という枠内では捉えきれない展開となっている。鉄板や工業用スプリングを現場に持ち込んで演奏するノイズ・パフォーマンス・ユニット「Erehwon」としての活動でも知られ、多くのミュージシャンや舞踏家と共演。2003年、ウィーン、ブダペストなどでライブ公演。主な展示は、『アートイング東京2000:16X16』セゾン・アートプログラム(2000) 、『六本木クロッシング』森美術館(2004)、『FUSION: Architecture +Design in Japan 』イスラエル美術館(2004)、『府中ビエンナーレ/来るべき世界に』府中市美術館(2004)、他。

スカンク

都内ライブハウスを中心に活動し、映像、写真、イラスト、身体表現等、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションもするバンド"MEXI"のリーダー。過去にはSEAGULL SCREAMING KISSHER KISS HERの結成時にギターを担当したり、暴力温泉芸者のライブにも参加している。現在はMEXIの他にWIGGLEのGIL Kが主催する1本弦の創作ギターを使用する6人のギタリストによるユニット"SSS,T"への参加の他、大橋可也&ダンサーズ、カタタチサトなど身体表現の舞台に楽曲の提供及び演奏をしている。丹野賢一/NUMBERING MACHINEには2002年のアメリカツアーより参加、音楽を担当している。MEXIホームページ http://mexi-mexi.com/      


平和堂取り扱い店
AP栗東・AP瀬田・AP草津・AP守山・ AP野洲・AP水口・栗東店・甲西中央店・近江八幡店
●ローソンコード 56686
●チケットぴあ Pコード 356-616

-------------------------------------------------------------------

栗東芸術文化会館さきら
〒520-3031 滋賀県栗東市綣二丁目1番28号
2-1-28Heso,Ritto,Shiga 520-3031 Japan
TEL 077-551-1455 FAX 077-551-2272


 ‥‥ちょっと長くなりましたが、これで全文です。文中に「地域住民を巻き込みながら」とありますが、これはさかのぼってヴォランティアを「さきら」がホームページを通じて募集し、装置の設置、音楽(パーカッション)担当などに地元の方々が参加した事を指します。このあたりは、丹野氏のホームページのDIARY、および、ゲスト出演の羊屋白玉さんの日記から伺い知る事ができると思います。

 容易に想像がつくように、このプロジェクトは急に湧いて降って来たような計画ではなく、「さきら」のプロデューサー、そして丹野氏、石川氏らの永年の計画、プロジェクトの結果として実現したものです。その最終地点が10月8・9・10日に予定されていた公演だったわけです。

 煩雑かも知れませんが、了解事項としてこれらの情報は欠かせないと思い、ここに記録しておきます。



 

[] "What the hell is goin' on ?" その14(さて、これから‥‥) 02:00  "What the hell is goin' on ?" その14(さて、これから‥‥)を含むブックマーク

 16日は、「さきら」のシンボル広場に唐十郎率いる「唐組」の紅テントによる興業が行われたはずだけれども、いったいどんなだったんだろう。唐十郎は自分達の公演より一週間前に起きた今回の騒動を知り得ているのだろうか。

 さて、現在の状況では、丹野氏のHPトップでこの問題を当事者の視点から生々しく紹介し、このわたしのブログでいろんな角度からこの問題を見渡そうとしている位のものだけど、やはり許せないのは「さきら」が何の情報開示を行わず、あたかもこの公演自体がなかったかのようなフリを押し通そうとしている事だ。前にも書いたし、丹野氏の文にも出てくるけれど、「さきら」関係者が、自らイヴェントの中止を決定しておきながら、「イヴェントの中止などよくある事」と発言/認識しているのであれば、これはとんでもない暴言であり、文化施設としての自らの役割を放棄してしまっているとも言えると思う。そのホームページで、「諸事情」のためにイヴェントを中止したと一度書いたのであれば、その「諸事情」とはいったい何の事なのか、どのような判断で「中止」という最悪の決断に至ったのか、少なくとも8日・9日にこのイヴェントを見ようとしていた観客(わたしもその一人である)に、とにかく事情を説明する事が、今の時点で要求されてしかるべきではないだろうか。ここでの沈黙は丹野氏のメッセージが正当真実である事を裏付けるものと解釈も出来るが、イヴェント主催者として観客に説明する事は義務である。

 次は「さきら」にメール、もしくは郵便でこのあたりの事を問い合わせてみようか。なしのつぶてになる事は目に見えているが。

 で、このような現象面とは別に、この騒動(事件)の背後にある日本の文化事情とでも言った事象に対しての掘り下げも、作業として必要だろう。苦手な分野だけれども、まだ終らせる事は出来ない。

 


  

[] NHK-FM 「LIVE-BEAT」公開録音 at 渋谷 NHKの中、どこかのスタジオ。   NHK-FM 「LIVE-BEAT」公開録音 at 渋谷 NHKの中、どこかのスタジオ。を含むブックマーク

 先に言っておけば、この二つのバンドのブッキングは不可解、というか、一種のシュールレアリスムだ。

Part 1 「栗コーダーカルテット」

栗原正己
川口義之
近藤研二
関島岳郎

 今までいくらでも見るチャンスのあったバンドだけれども、この日やっとはじめて彼らのライヴにじかに触れる事が出来た。会場があくまでも音響重視のスペースだった事はラッキーだったと思う。そのデリケートな音は非常に視覚的で、言ってみれば健康な「Penguin Cafe Orchestra」のような音であり、下町の竹細工屋で売っている手触りの柔らかい竹細工工芸品のような味わいがある。中世趣味とトラッドが同居する瞬間にはJohn Renbournを思わせ、情景描写が勝る時にはアニメーションのBGM。とにかく、これらの音楽でいちばん楽しがっているのは、演奏している当人たちなのではないだろうか。‥‥いや、癒し効果は充分にあるのだが。

Part 2 「LUNA」

   

Dean Wareham(guitar,vocal)
Sean Eden(guitar,vocal)
Britta Phillips(bass,vocal)
Lee Wall(drums)

「LUNA」は、あの「Galaxie 500」の一方の片割れバンド。その一方はもちろん「Damon & Naomi」で、これはわたしの大好きなユニットだったのだけれども、こちら、Dean Warehamの率いる「LUNA」はこの日まで全く聞いた事がなかった。

 ‥‥あぁ、80年代の暗さ(darkness)を思いっきり引きずったギター・バンド。暗い。こういう音は大好きだなぁ。何で今まで聴かなかったんだろう。まだアンテナの張り工合が足りない。

 何が楽しくって今まで生きてきたのかわからないかのように、陰うつに眉間に皺をよせてマイクに向かうDean Wareham、妙にテンションの高いSean Eden、世俗一般に何も興味がないとでも言う無表情でプレイするBritta Phillips(美人である)、そしてひたすらタイトなリズムを刻むLee Wall。そのサウンドはきっちりと「Galaxie 500」の音世界を引きずりながら、時には「Velvet Underground」に近接し、時には「Television」を彷佛とさせるクールなギターの掛け合いに発展する。異様に潔癖で神経質なサウンドは、この時代にちょっと類型を見ない肌触りを感じさせはするのだけれども、結局君たちは「Galaxie 500」なのか、「Velvet Underground」なのか、それとも「Television」なのか?と聞きたくなってしまうあいまいさを含む事が欠点ではあるのだろうか。

 ただ、わたしはこの潔癖症なイメージは大好きなので、このグループのアルバムは今度きちんと聞いてみたいと思った。

 残念な事に、先月の末にこのバンドは解散宣言を出してしまっている。ま、わたし(日本の観客)はぎりぎりセーフだったと言う事なのだろうけれど。

 その彼らのホームページに書かれた「解散宣言」みたいなもの(10項目挙げられている)の中の、「あちこちで大勢の知らない人と握手しなければならない。ありゃぁバイキンだろ?」っていう項目が、この日聴いた音と妙にマッチして、納得がいった。(10月14日)

 

 

crosstalkcrosstalk 2004/10/18 18:32 背景(テーマ)を変えてみました。あんまり気に入ってないけれど、しばらくはこれで。

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■ 2004-10-16(Sat)

[] 維新派 『キートン』 松本雄吉:作・演出 at 大阪南港ふれあい港館臨時第三駐車場 野外特設劇場  維新派 『キートン』 松本雄吉:作・演出 at 大阪南港ふれあい港館臨時第三駐車場 野外特設劇場を含むブックマーク

 維新派の公演を実際に見るようになったのは、3年前の奈良・室生寺での『さかしま』から。これは広いグラウンド一面を使った、とてつもない奥行きを持った公演で、夕暮れから日没、夜へという時間の推移をも計算に入れたスペクタクルな舞台空間の中に、少女の夏休みと1945年の夏が交叉していく、恐ろしいほどに感動的な舞台だった。それまでに維新派の公演のヴィデオも2〜3見ていたし、それはそれで素晴らしいモノだったけれど、実際に体験するとここまでに強烈なモノかと、これはもう毎年維新派追っかけ旅行やらなければならないな、と思ったわけである。とにかく、『さかしま』はわたしの舞台観劇歴の中でもベストスリーには挙げられる作品だった。

 2年前は岡山の犬島での公演(『カンカラ』)。このときも又丹野賢一も犬島での公演を行っていたので、今年と同じダブル観劇。この年はせっかく銅精錬工場の廃墟の中に野外劇場を作りながら、残念ながらその「場」を活かし切れないもどかしさを感じさせる公演だった。ただ、外の屋台村は最高の年だったろう。

 去年は東京での公演(『ノクターン』)だったので、わざわざ追いかけて旅行する費用を節約できて嬉しかった。とにかく会場は彼らには全く似つかわしくない「新国立劇場」。劇場側の熱心なラヴ・コールで実現したと聞いているが、屋台村のような空間はやはり無理だった。しかし、この公演にはいろいろと不満もあるとは言え、不必要なまでに(見ていて「そこまでやるか!」と思ったね)頻繁に装置を入れ替え、移動させるエネルギーには圧倒させられた。暗転のあとに突然舞台上に中国の街並、大きな寺門が出現した時には、「こんなでかいもの、いったいどこにしまってあったんだ?」と、あっけに取られてしまった。この公演ではセリフが極端に削ぎ落とされ、内橋和久の音楽が舞台を牽引していた記憶がある。とにかく、開演してから40分ぐらいは全くセリフらしいセリフが発せられなかった事を記憶している。

 そして、今年。維新派にとっての古巣、南港での公演。わたしの中での期待度は相当に高かったのだけれども、正直に書くと、今回はわたしにはあまり楽しめない舞台だった。ま、タイトルの『キートン』からも想像がつけられることだったかも知れないけれど、セリフが全くなくなってしまった(「お〜い」と呼ぶ声がセリフだとしたら、これが唯一のセリフかな)。サイレント映画なのだから仕方がないけれど。そして、ちょっと内橋和久の音楽に関しても、今回はパターンが限定されていて、音として楽しめる要素が少なかった気がする。

 そのように見ていって、今回の公演での見どころは、そのヴィジュアル要素に集約されるのではないかと思うのだが、去年の『ノクターン』での移動/回転しまくりの舞台装置の記憶が強すぎて、つねに左右から現われる数々の装置も、運動としての空間構成になりそこねた気がするのだ。2時間30分という上演時間の中に度々同じような場面が反復されるのも、構成としては理解出来るけれども、わたしもつい旅の疲れからかコックリ行ってしまいそうになってしまった*1。ただ、わざわざ急斜面の舞台を現出させて、下からの照明で人物の影をその斜面に大きく投影する場面は、ドイツ表現主義のサイレント映画を思わせて、これはこれで記憶に残るモノだった。

 今回のイメージの基調になっていたのは、まんまキートンのサイレント映画からの引用であり、マグリットやキリコの絵画からの引用。映画からの引用はちょっと、あの映画のあの場面を舞台に再現してみました、というモティヴェーション以上のモノが受け止められずに、つらかった。
 背景としてのキリコのパースペクティヴを借用した場面は、非現実空間の現出として効果的だとは思うけれど、些細なことでひとつケチをつけておけば、子供が遊んでいる「輪まわし」。ありゃぁ当然「輪」のへりを支えて転がして行くものだから、今回の「小道具」のように「輪」の中心から支える棒が出ているのは全く違う。これはちょっと手を加えれば、あたかもその支え棒が「輪」のへりを支えているように見えるように細工することは、そんなに大変なことではないはず。あれでは壊れた自転車か一輪車で遊んでいるようにしか見えない。「そんな細かいことを」と言われそうだけれど、キリコをやるんならキリコ。ごまかしが舞台上にそのまま出て来るようなことはやるべきではない。それが「引用」のマナーだと思う。

 あとは色彩設計かな。最初ッから最後までモノトーンで通すのもいいけれど、導入部は現実世界、スクリーンに飛び込んでしまったあとはモノクロの映画の中の世界という対比は、ベタにあってもよかったのではないかと思う。『カイロの紫の薔薇』を見ろとまでは言わないが、ちょっと色彩設計という分野では、維新派はモノトーンにこだわり過ぎてはいないだろうか。

 ま、正直に言って、あまりイメージの喚起されない舞台だったと言うことになるのだけれど、ラストの不必要なまでにマニアックな巨大メカの中で迷う人たちの姿は、展開が全く読めない(なぜこれが出て来るのかわからない)とは言え、力強かった。

 ‥‥さぁて、来年の維新派はどうしようか。やっぱり、「今度は又素晴らしい舞台を見せてくれるさ!」と、見に行ってしまうのだろうか。

(10月11日観劇)

 

 

*1:ただ、会場がだんだんと寒くなって来ていたので、「ここで眠ったら死ぬぞ!!」と自分を奮い立たせて最後まで見た。

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■ 2004-10-15(Fri)

 本来ならここでたたみかけるように一気に書き継いで行かなくてはいけないのに、きのうココのレイアウトいじっていたら、それだけで終わってしまった。あまり融通の利かない背景(テーマ)を選んでしまったようだ。MacとWindowsで表示のされ方が違うみたいだし(Macでの場合、開くウインドウが小さいと左に新しくつくったIndexが本文の下にずれてしまうようだ。ウインドウを大きくして見てください)。しかも又自宅のパソコンが絶不調。‥‥勤め先のパソコンから書きます。

 

[] 丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太 「026-METAL」 10月10日 at Somewhere 13:03  丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太 「026-METAL」 10月10日 at Somewhereを含むブックマーク

 会場となったシンボル広場はかなり広い。その中に2〜30メートル四方に渡って、迷路のようにパイプやイントレが組まれ、鉄板がぶら下げられている。

 7時過ぎに開場され、観客は赤いライトに照らされているその迷路の中に入って行く。観客席というものはなく、おそらくはこの装置の中のあちらこちらで展開されるパフォーマンスを追って、観客も自由に移動していくのだろう。

 開演時間の7時半を過ぎて、照明が消され、一点だけが白色光でスポットをあびる。外から丹野賢一がにじり入って来る。ゆっくりと移動する丹野の動きにあわせて、その鼻先ギリギリに上から鉄パイプが斜めに落ちてくる。丹野の進む後ろには×形にクロスした鉄パイプが残され、まるで他者がその先へ侵入して来る事を封じているようだ。

 鉄棒で鉄板を叩きつけ、体当たりする。突然上下運動を始めるパイプ。ぶら下げられたチェーンがガチャガチャと不穏な音を立て、丹野もまたそのパイプにぶら下がり、落下する。彼は身体全体からけたたましい暴力の匂いを漂わせながら移動を続け、観客がそれを遠巻きにしながら後に続く。ある場所に来ると、その裏に待機していた音出し隊がいっせいに金属を叩き始める。

 まるでRPGの展開をなぞるように、またはTDLのアトラクションのように、会場内には様々な仕掛けが隠されており、局面ごとに驚きに満ちた新しい展開を見せていく。会場の空間は不穏な空気に満たされているのに、このパフォーマンスがまるでひとつの祝祭の儀式のように感じられる。そして、この圧倒的な「楽しさ」は、いったいどこから来るのだろう。このアナーキーな凶暴さの前で、観ているわたしの心はなぜか嬉々としている。なにかが開放され、浄化され、祝福を受けている。

 パフォーマンスを続ける丹野とは離れた所から2台の移動イントレ(作業台)が現れ、これに乗ったゲストの羊屋と本原によって、会場内のあちこちに発煙筒(?)がばらまかれる。煙に満たされた場の中で、ライトに照らされて3人の戦いが始まる。光と影が美しい。

 戦いに敗北したかに見え、池に投げ込まれていた丹野が再びよみがえり、壁を越えて舞台の外に消えていく。こうしてパフォーマンスは終わりを迎える。はたしてこれは死と再生のドラマなのか。

 わたしの記憶では、丹野氏がパフォーマンスで他人と絡むのははじめてだと思うのだけど、後半の3人のパフォーマーによる直接的な暴力の描写は実に力強く、丹野氏の作品として新しい展開、可能性をかいまみせてくれたような気がする。特に本原氏のパフォーマンスは丹野氏に勝るとも劣らない凶暴さを発散し、眼を見張るものがあった。

 会場内を走り回りながら歓声をあげて見物している子供たち。その顔に拡がっている笑みを見ていると、この公演の成果がわたしにもダイレクトに伝わってくるのだった。


 

[] "What the hell is goin' on ?" その11(栗東から〜2)  18:39  "What the hell is goin' on ?" その11(栗東から〜2) を含むブックマーク

 少なくともわたしは、この10日のシンボル広場での公演は大成功だと思った。その立ち上げからこの日の公演までの道のりは、新しい表現の可能性を追求するコラボレーションの試み、その稀有な成功例として記憶されるべきだろう。そして、その手柄は丹野氏側のスタッフ・ヴォランティアだけのものではなく、「さきら」もまた賞賛されるはずだったのだ。そのチャンスを逃したのではなく、自らの試みを自らの手で侮蔑したのではないだろうか。

 公演終了後、スタッフや観客の方々からいろいろな話を聞くことが出来た。おそらくは前日までこの会場を覆っていたであろう緊迫した空気はもはやない。「さきら」側の理不尽で一方的な「中止」宣告を受け、おそらくは出演者もスタッフもヴォランティアも皆、その憤り、怒り、悲しみを、すべてこの日の公演本番の場でチームワークを組んで昇華させようとしただろう。それがこの日のすばらしい成果につながったとも言えるだろう。

 しかし、いったいなぜこのような事態になってしまったのか。なぜあらかじめ想定されてしかるべき問題が起きた時に想像も出来ない反応を「さきら」が示したのか。スタッフが現地入りしてからこの日まで一ヶ月近くを費やした「現地滞在型プロジェクト」で、現地滞在が無に帰してしまうような決定がなされたのか。

 もちろん現象的に個別の問題を追及していけば、いくつかの「ボタンのかけ違い」が複合してしまった姿も浮かび上がってくる。しかし、この背後には、今この日本で行政とアートを取り巻く様々な構造的な問題が潜んでいる。この問題は責任者を追及して個人の責任にしてしまえば終わる問題ではなく、もっともっと、なにかが変わらなくてはならないのだ。なにかが変わるため、そのためにわたしは書いている。


 

[] "What the hell is goin' on ?" その12(事例集〜2) 18:52  "What the hell is goin' on ?" その12(事例集〜2)を含むブックマーク

六本木ダンスクロッシング中止 

 前回書き忘れたが、この春の六本木ヒルズでの回転ドア事故の余波で、予定されていた「六本木ダンスクロッシング」が中止されたこともここに加えておいてもいいだろう。この背後にもなにか構造的なゆがみが見えてくる。

参考記事:id:sakurah:20040327id:sakurah:20040329


本宮ひろ志氏の「国が燃える」休載

 そして、又大きな問題が起きてしまった。この顛末に、かなり「さきら」のケースとかぶってくるところがあるのがわかっていただけるだろうか。

(ここでわたしがまとめても新しい混乱を呼んでしまう恐れもあるし、実に的確にこの顛末をまとめてくださっているブログを見つけたので、ここで紹介させていただきます。)

id:swan_slab:20041013

 ここでは抗議した側の「抗議文」、そして出版社側の回答文が読むことが出来るが、当事者である本宮ひろ志氏の発言が見つけられない。判断材料が丹野氏のケースと逆だと考えればよいのか。

 構造は相似形。



 

clawclaw 2004/10/15 19:12 ▼【提案】本宮ひろ志『国が燃える』に「グッジョブ!」を。
宗教団体や議員による言論弾圧には、反対。
「自由主義社会」を守れ!(@∀@)キャンペーン
まとめページ http://d.hatena.ne.jp/claw/00010110

ネットでできるのは、たとえばこれ。いちばん敷居の低い方法です。

▼復刊ドットコム 「『国が燃える』第8巻を、雑誌に載ったとおりに本にしてよ」
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=26359
・・・よろしければ、どうぞ(@∀@)

cl-a-w@mail.goo.ne.jp

swan_slabswan_slab 2004/10/15 20:56 こんにちは。きさらのケースというのが気になって読ませていただきました。
あまり事情を知らないのでコメントできませんが、一般論として書きます。どういう場合に表現自由の活動が行政によって中止させられてもいいのかについては、有名な判例がいくつもあります。泉佐野市民会館事件とかです。通常は、表現の自由の重要性に鑑みて、「うるせーから中止だ!」みたいな単純な判断をしてはいけないことになっているんですよね。一方当事者の言い分だけを聞くと公正な判断ができないということもありますよね。憲法上は、表現の自由というのはかなり優越的なポジションをもっています。なにしろ自由にものがいえるのが民主主義の要ですから。表現物に関してはとくに検閲が絶対的に禁止される、そういう法的な思想のなかに私たちの社会はあるわけです。

「住民にとって著しい迷惑」であるかどうかについて、客を含めた当事者全員に対して客観的な評価を示さなければ説明責任を果たしたことにはならないと考えるのは当然だと私は思います。台風だとか諸事情だとかごまかそうものなら、それは行政側の情報開示の不適切さを糾弾してしかるべきでしょうね。
考え方の手順としては、リスクマネジメントの観点から、騒音というリスク評価が適切か・利用中止というリスク管理方法が適切か、それらの情報開示がきちんとなされているかを議論することです。
他方、法律論としては、利用規則の適用にあたって、表現の自由はどれくらい重視されていたか、なすべき利益考量がなされていたかの判断基準について市側の見解を問う必要があるでしょうね。』

crosstalkcrosstalk 2004/10/15 21:39 すばらしいサジェッション、ありがとうございます。方法が見えて来ました。感謝のしようもありません。参考にさせていただきます。

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■ 2004-10-13(Wed)

[] "What the hell is goin' on ?" その9(栗東から〜1) 21:00  "What the hell is goin' on ?" その9(栗東から〜1)を含むブックマーク

 (10日に遡って、現地で見聞きした事を書きます。)

 10月10日の午後6時頃、JR栗東駅に着く。駅前の雰囲気は、いかにも何もなかった所にJRの駅が出来たために開発されたらしい町並み。それも、この5〜6年のうちに建てられたような建物ばかり。立体化された歩道から、周辺の商店街ビルの2階へ直接入れる。ちょっと離れた所にはかなり高層のマンション棟がいくつか見える。この駅から「栗東芸術文化会館さきら」までは歩いても5〜6分。駅周辺の雰囲気は、完全に関西の新しいベッドタウンとして今発展を続ける町。

 コンビニやレストランの並ぶ道を抜けていくと、「さきら」が姿を現す。とにかく、「さきら」の建物を含めて、ものすごく「清潔」な町、という感じ。東京で言うと、立川駅前の雰囲気を思いっきりミニチュアにしたような。

 すでに暗くなった道を「さきら」のゲートに進むと、その右側に今回の公演の石川雷太による装置、迷路のように区切られたイントレ、パイプ群にたくさんの鉄板*1が吊るされ、一部に赤い照明が当たっている。その赤い照明が「さきら」の建物にも反射して美しい。この空間を、工事現場にあるようなしきい(バリケード)が囲んで、外から隔離されていて、そこには今回の公演のポスターが貼られている。

 この公演のポスターは建物の外にも中にも何枚も貼られているのだけれど、公演日の8日、9日の部分は消されているわけでもなく、8日、9日の公演が中止になったとは、会場内のどこにも告知されていない。まったく何事もなかったかのように、おだやかに人々が行き来している。なんだか奇妙な感覚だ。

 開演の7時半までまだ時間があるし、受付も始まっていないので、「さきら」の中、右手の喫茶室の前の展示スペースを覗いてみた。あ、いたいた。展示スペース奥の大きなテーブルにスタッフ達が談笑している。丹野さんこそ居ないが、ここにも緊張した雰囲気はない。壁を赤くした展示スペースの中には、過去の丹野氏、石川氏の活動記録、今回のコンセプト、報道記事などが展示されている。多くの顔見知りと会い、あれこれと話をするが、すでに後1時間程で公演は開催されることはこの日に関しては疑いのない事だし、皆、嬉々としてその祝福された(?)公演の開始を待っているように見える。

(続く)

[] "What the hell is goin' on ?" その10(現在の情報) 01:14  "What the hell is goin' on ?" その10(現在の情報)を含むブックマーク

 ‥‥すでに御承知の事と思いますが、丹野賢一/NUMBERING MACHINEのサイトトップに丹野賢一のメッセージが掲載されています。また、栗東芸術文化会館さきらのウェブサイトからは、早々と丹野賢一公演の情報はすべて消え失せてしまっています。これは主催者側が公演を中止にしてしまった事後処理としては異例の早さであり、中止のために使えなかったチケットの払い戻しなどの情報を観客に伝える役割を放棄しています。今回の台風の影響で、大阪では「維新派」、東京では「ク・ナウカ」の公演が中止になっていますが、「維新派」も「ク・ナウカ」も、まだ公演が継続中という事情があるにせよ、HP上に「公演中止のお知らせ」、払い戻しなどのインフォメーションは引き続いて掲載されています。ましてや「さきら」は、一度HPに掲載した「諸事情」について、全く何も説明しないままになっています。観客は、「さきら」の言う「諸事情」を知る権利があると思うのですが。

 もう一つ。現在でも、チケットぴあのサイトで、丹野賢一公演の中止情報がキャッシュで見る事が出来ます。で、ここでは中止の理由ははっきりと「台風の影響」*2と明記されています。これは主催者側の連絡事項が反映された記述であるはずなので、「さきら」が当初は中止の理由を「台風」としようとした事が、今でもうかがい知る事が出来ます。

 http://www.google.co.jp/search?q=cache:d-8vNHLDCgIJ:t.pia.co.jp/cgi-bin/real/V2_view.cgi%3Fno%3D57+%E4%B8%B9%E9%87%8E%E8%B3%A2%E4%B8%80%E3%80%80%E3%81%95%E3%81%8D%E3%82%89&hl=ja

  

 「さきら」は、丹野氏側との協議の席で「公演の中止などと言う事はよくある事だ」と語ったと伝え聞いています。わたしの認識では「公演の中止」とはどんな時でも「異常事態」であり、ましてやその理由が「天災」、「出演者の急病」などという事ではないのであれば、非常に稀な特殊な事情だと思います。このような事態に対して主催者側が何らの納得の行く説明をされないというのは、実に異常なケースだと思うのです。「さきら」は、今回の公演、8日、9日が中止になった経緯を是非ともHP上で説明すべきです。

 丹野氏が現在HP上で「いったい何が起きたのか」を語っている今、今度「沈黙」を破らなくてはならないのは、「さきら」の方ではないでしょうか???

 

 ‥‥ごめんなさい、上記のアドレスからはキャッシュにたどり着けません。

http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%B9%E9%87%8E%E8%B3%A2%E4%B8%80%E3%80%80%E3%81%95%E3%81%8D%E3%82%89&hl=ja&lr=&c2coff=1&start=10&sa=N

 ここで表示されるリストの「チケットぴあ」欄の「キャッシュ」を選択してください。(10月15日付記)

 

 

*1:後で聞いた所では、鉄板は300枚用意したそうだ。

*2:正確には、「台風接近のため」でした。10月14日修正。

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■ 2004-10-12(Tue)

[]これから帰京します。 13:06 これから帰京します。を含むブックマーク

 この2日間、結局まったくネットを見ることができませんでした。今梅田のインターネットカフェにいます。

 すでにご承知のように、丹野賢一の10日の公演はさまざまな問題を残したまま、終了いたしました。公演自体は誰もが楽しめるすばらしい刺激的な内容でした。この成果の手柄は本来「さきら」も共有できるものだったはずなのですが‥‥。

 この関西滞在期間中にいろいろな方(って、ほとんどが関東在住者なんだけれど)にお会いして、いろいろな話を聴くことができました。これをまとめるのはわたしにはちょっと荷が重いのですが、帰京してから腰をすえてレポートしてみたいと思います。

 それでは。

 

 

[] 帰京 01:16  帰京を含むブックマーク

 10日の公演を見て参りました。まずはその公演模様をお届けします。

     


     


     


 

 

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■ 2004-10-10(Sun)

[] "What the hell is goin' on ?"その8(Information) 08:53  "What the hell is goin' on ?"その8(Information)を含むブックマーク

 丹野氏のホームページの掲示板に、スタッフからのメッセージが掲載されました。

http://www1.rocketbbs.com/613/machine.html

 ‥‥わたしはこれから出発します。

 

 

■ 2004-10-09(Sat)

[] "What the hell is goin' on ?"その3(書き換え) 10:24  "What the hell is goin' on ?"その3(書き換え)を含むブックマーク

 丹野氏の制作スタッフからの情報を見つける事ができた(id:mmmmmmmm:20041008)。

 ‥‥前回わたしの書いた事が裏付けされた形であり、正確な情報を下さったTさんには感謝したい。ただ、ここでひとつわかったのは、「さきら」は、HPへの「中止」インフォメーションを、一度書き換えている。やはり最初は「中止」の理由は「台風の影響のため」と書いてあったのだ。その後に、わたしがアップした画像のように「諸事情により」と書き直している。

 実はわたしはTさんから情報をもらった後、「さきら」の情報には何らかの虚偽が含まれていると感じ、後日書き換えられる事を想定して、「SAKIRA イベント詳細情報」のページをダウンロードして保存してあるのだけれど、すでにこの時点で一度書き換えられていたのだ。‥‥これはおそらく、「台風の影響のため」と書いておけば、状況としては一般に対して説得力があるわけだけれども、公演スタッフから「そんな理由ではないじゃないか」との突き上げが出て来るのを恐れて、いかようにも解釈出来る「諸事情により」という言葉に書き直したのではないだろうか。つまり、最初に書かれていた「台風の影響のため」というのは、「虚偽」だったのだ。その告知の時点でダウンロードしておけばよかったのだが、一歩遅れてしまったようだ。

 今日はこれから「さきら」に電話をしてみよう。

 

 

[] "What the hell is goin' on ?"その4(電話) 11:38  "What the hell is goin' on ?"その4(電話)を含むブックマーク

 先ほど、「さきら」の、画像にある電話番号に電話してみた。

 受け付けの方らしい女性が電話口に出て、まず、今回の丹野賢一の公演に関して、3回公演の予定が10日の1回だけになったのは本当でしょうか? と聞いた所、台風の影響などのため、10日だけになりましたとの答え。ふむ、電話だと台風のせいになるのだな。
 で、丹野氏の知り合いから聞いた話では、昨日も公演は行われており、今日もスタッフは「中止」という決定はしていないとの事ですが? と聞く。ここで「しばらくお待ち下さい」と言われ、他の女性に電話が回された。
 彼女の答えは、昨日に関しては「ゲネ」を行ったのだが、「中止」を知らずに来てしまった客がいたので、雨は降っていたけれども入場してもらった「イレギュラー」な公演だった、との事。今日に関しては、現在スタッフと協議中なのですとの回答。「え、でも、おたくのホームページには『中止』とはっきり書いてありますよ。協議中なのに『中止』と告知してしまうのは先走りではないですか?」と質問すると、(たしか)ここで「丹野さんのお知り合いですか?」と聞き返された。「知り合いではあります」と答え、丹野サイドから聞いた話では‥‥と切り出すと、「内情に立ち入った話はこちらではちょっと‥‥」と、かわされた。
 とにかく、開催に向けて協議中なのであればホームページにもそのように告知すべきであり、「お問い合わせ下さい」とでも書くべきではないだろうか? 現実に台風はそちらから進路がそれるようだし、わたしは昨夜「さきら」のホームページを見て、今日行くのをあきらめてしまっている。ホームページの方は早急に対処して欲しいと伝えると、その場では了解してもらったので電話を切った。

 ふむふむ、どうやら、事情を知らない問合せには「中止」という回答ですましているのだな。で、ちょっと事情がわかっていると見ると、「協議中」と答える。ここに「さきら」側の混乱をかいま見る事もできるだろう。彼らはどんなに「中止」ということで押し切りたい事だろう。しかし、そう出来ない裏に、丹野氏らスタッフの抵抗が読み取れる。『共同企画』という理念はとうに崩れさっているのだろうが、「先鋭的表現」などという事への安易な好奇心のようなアプローチは、その現実を眼にすると手のひらを返したように「排除」側に転向する。そういう構図だな。おそらくはホームページの書き換えも行われないだろうな。

 ひとこと言っておけば、わたしは台風の接近する危険な状況下でも公演は開催すべきだなどとは思っていない。ここで問題にしているのは、「さきら」のHPに書かれた「諸事情」という事をめぐって、なのだ。「諸事情」はクリアされなければならない。

 ‥‥どうしようか。これから出発すれば今夜の公演に間に合う。


 

[] "What the hell is goin' on ?"その5(現地情報) 12:44  "What the hell is goin' on ?"その5(現地情報)を含むブックマーク

 今移動し始めても、列車の中に缶詰にされてしまう恐れもあるので、今日の移動はあきらめます。

 先ほど、今回の公演にゲスト出演している羊屋白玉さんが主宰する「指輪ホテル」からメールマガジンが届きました。自分の責任でここにその全文を引用します。

◆緊急特報 続報1

026-METAL@SAKIRA

8日の夜。公演は行われた。
秋雨の冷たい雨が鉄板にたくさんのしずくをつたう。 丹野賢一が這い出てきて何かに絶望しているのか
それとも破壊したいのか、ならば、その先に何が待っているのか。垂直にそびえ立つ鉄板の中をもがき、
叩き、声なき悲鳴を叫び、涙する。 そして、永遠の別れのように暗がりへと陰を残して...
こんな、希にみるとてもすばらしい作品だが、今回とても重大な問題が起こっている。
栗東芸術文化会館が3公演中2公演を強行で中止にしたのだ。

これまでにも開館には、電話などで近隣住民からの音に対しての苦情があったそうだ。
前日のリハーサル中に、とうとう、マンション管理組合理事が警察までをつれて抗議に来たことに端を発する。
これをうけて会館と制作とで、協議したが、会館が出した答えが、「3公演中2公演中止」というものだ。
しかも、公的には、まだどうなるかもわからない台風を理由に。(現在、さきらHPには、諸事情と変更されている)

今も、出演者、スタッフ、ボランティア、WS参加者が会館理事室で平和的な解決を求めている。
前後なにもわからない状態でわたしも論議に参加したが、「芸術文化会館」と名乗るには恥ずかしい
思想と言葉を耳にした。 滋賀がそうなのか、栗東(りっとう)市がそうなのか、数年、数ヶ月まで役所で
勤務していた本来なら私たちの「いい先輩」となる60代が、稚拙な論議でお茶を濁す。

羊屋とわたしは、9.11を思い出した。 あの白煙残るマンハッタンで公演をした苦しい選択をしたあの日を。どんな理由があっても公演をやめることは二度とあってはならない。

このメルマガを読まれた方。是非、丹野賢一に。すべてのかかわるひとに。 また、さきらに。

なんでもいい。 あなた思いを伝えてほしい。 いま、丹野賢一は、作品と共に死のうとしてる。

http://www.numberingmachine.com/

http://www.sakira-ritto.net/top.php3

担当;山口 f-kako@sb3.so-net.ne.jp

2004.10.09 SHIGERU Ueda (YUBIWA HOTEL Producer)


 

[] "What the hell is goin' on ?"その6(事例集) 18:56  "What the hell is goin' on ?"その6(事例集)を含むブックマーク

 先程、たよりの綱のTさんにケータイして新しい情報を得た。Tさんは今は静岡。ストップしてしまった新幹線の中で4時間缶詰になってしまっているらしい。とにかく、頭がクラクラする。まるでゴジラの東京来襲(絶対にコース取りはゴジラの真似してるな、この台風)と天安門事件が同時に起こったような気分だ。

 とりあえず、今日の栗東の公演は行われない。

 ここでちょっと丹野氏サイドの広報姿勢に心ならずも苦情を言っておきたいが、前回ここで紹介したM氏のダイアリーへのコメントをつける時間があるのなら、丹野氏のホームページの掲示板にでも情報を載せるべきだったろう。批評家として頼りになりそうなM氏の影響力に頼るのもいいが、一般観客(丹野賢一ファン)の事を先に考えるべきであり、であれば、丹野賢一のホームページを最大限に活用すべきだろう。混乱した状況であっただろう事を考えるとこのような事は言いにくいが、今言っても丹野サイドへのマイナス用件にはならないだろう。

 前回引用した指輪ホテルのメルマガ、こちらでも読む事が出来る。丹野氏のDIARYと同様に、開演までのスタッフ、ヴォランティアの方々の奮闘ぶりが写真入りで伝えられている。


 今回は、最近起こった事で記憶に残っている範囲での、このような「場」を提供する側と、「場」を求める側とのトラブルを列挙してみよう。

 ○イー・ブル生魚腐臭事件 

 

 ちょっとこの話はソースが見つからないので、わたしのあいまいな記憶で書いてみると、韓国の女性アーティストであるイー・ブルが、ニューヨークのMoMA(たぶん地下の新進アーティストのためのスペース)での個展の際に「生魚」を使用、会期が進むに連れて強烈な腐敗臭が会場に充満し、この展覧会後、たしか市議会か何かで「とんでもない現代アート」は排除すべきだなどという議論が繰り広げられたと記憶している。これは5〜6年前の話ではないだろうか。


 ○燐光群共催取消し問題

 これは記憶に新しい部類の問題。情報はこちらにアーカイヴが残っている。つまり、あまりにあからさまに現小泉政権や自衛隊問題を槍玉にあげた反体制的な内容におじけづいた連中が、自己保身のために「共催」名義から抜けようとした、と。


 ○高嶺格『木村さん』上映中止問題

 詳細はココ。上映されなかったその作品のショット映像も含まれています。この作品はわたしは二度も見る機会を得ているのだから、横浜美術館の自己規制はよけい反動的である。


 ○(最新ニュース)ブッシュ大統領のヌード絵画、展示中止

 ソースはココ。ハハハ。こういうニュースソースはすぐに閲覧出来なくなるから、読むのは今のうち。

 

 この他にも、つい先日ニュースになった「大阪ドーム、ロックコンサート拒否」という事も、今回と無縁の問題ではない。また、先日ノーベル文学賞を受賞したエルフリーデ・イェリネク*1も、「小説家」と言うよりは「演劇人」であり、オーストリアという国の反動化に対して猛烈な抗議/反抗姿勢を示していた人物である事は、記憶の片隅にとどめておいて欲しい。

 そして、わたしの事例もあるのだが*2、公的な機関と私的表現者の対立というレヴェルではわたしの事例は問題にならない。

 はっきり言って、このあたりで表現者側が言いなりのままではなくて抵抗しなければ、日本はアメリカという国といっしょに文化的反動国になってしまう。わたしは「文化」などという言葉は語彙として持っていないが、そういう言葉が必要であれば振りかざす用意はある。


 おそらく明日は関西入りするが、できるだけインターネット・カフェなどに立ち寄って、続きを書き続けたいと思っている。丹野賢一サイドが迷惑だと思ったとしても、まだ止めない。


 

[] "What the hell is goin' on ?"その7(もう寝るよ) 00:00  "What the hell is goin' on ?"その7(もう寝るよ)を含むブックマーク

 夜行列車がすべてストップしてしまっているので、今夜の出発は不可能になった。って、「まだ止めない」なんて書いたけれど、ちょっとバカバカしくなってきたなぁ。 

 ま、明日になれば新しい情報も入り、現地の状況もわかってくるだろうけれど、観客不在の状況はどうにもならないのか。

 ちょっと気を奮い起こして書いておけば、「さきら」のHPには今回の公演に触れて「轟音」という言葉を何度か使っている。ここで見る限り、「さきら」は音の問題は百も承知している事になる。それが住民/警察に突き上げられて腰砕けになってしまうとは、何と情けない事だろう。「滞在型プロジェクト」として、スタッフに作品制作の長い時間を与え、多くのヴォランティアを巻き込んでの結果がこんな形になってしまうのであれば、スタッフ、ヴォランティアの無念さはどんなだろう。ちゃんとした内情は解らないとは言え、わたしは個人的にはこれは「訴訟」まで行くべきではないかと考えている。裏切られたのはスタッフ、ヴォランティアだけではなく、この公演に期待をかけていた観客、観客になる可能性のあった人たちも又裏切られたのだ。結局9日の公演は中止されたようだが、知らずに会場に足を運んだ観客もいただろう。そんな人たちも又無念だったのだ。

 ま、わたしだって相当に振り回されている。こうやって連続して書いているのも、そんな「無念さ」のさせている事なんだ。

 ‥‥もう寝るよ。

 

  

*1:ミヒャエル・ハネケの監督した『ピアニスト』の原作者として知られるが、ミヒャエル・ハネケが、この日本では主にこの『ピアニスト』を中心に語られるのはある意味不幸な事だと思う。ハネケにはもっとスゴい作品がある。

*2:わたしの主宰したイヴェントの騒音から近隣住民が警察に通報し、パトカーが出動。わたしはオマワリさんに名刺を渡してある。もう時効だろうけれど、ブラックリストにクリップされていた事だろう。

■ 2004-10-08(Fri)

[] "What the hell is goin' on ?"その1(Unbelievable) 02:46  "What the hell is goin' on ?"その1(Unbelievable)を含むブックマーク



 はぁ???

 ‥‥こんな奇妙な話は初めて聞いた。いや、まだ伝聞に過ぎないから、断定的な書き方はまだ控えておこう。

 昨日のこのダイアリーに書いたように、わたしは8日の午後6時頃に栗東芸術文化会館さきらのHPを見て、予定されていたシンボル広場での丹野賢一の公演が、8日と9日は中止になった事を知り、その事をここに書き込み、考えた末に8日夜の関西行きを取り止めた。同時に、9日に栗東に行く予定にしているはずの知人、Tさんにもケータイでこの事を知らせた。

 で、夜の11時をまわった頃、そのTさんから連絡をもらった。心配したTさんは栗東の丹野氏及びスタッフに連絡をとっていたらしい。しばらく返事がなかったらしいが、その後に栗東の公演スタッフから、「今日はちゃんと公演をやった」との連絡があったとの事だ。


 はぁ???



 ‥‥栗東芸術文化会館さきらのHPの画像を載せておこう。

   

 公演スタッフの言では、9日の公演に関してもまだ「中止」と言う判断は降りていないと言う事だ。


 とりあえず、今は書く事は後回しにしてこのニュースを伝える事を第一義としよう。おそらくは、これはちょっとしたイカサマなのだ。わたしは明日もまだこちら(東京)にいるつもりなので、タイムスタンプを残しながら、もう少し書き継いでいきたいと思っている。おそらくこの事は表現する側にとっても観客側にとっても捨てておけない一大事なのかも知れないのだ。とりあえずここまで。(あ、せっかくのタイムスタンプを壊してしまった。)

 

[] "What the hell is goin' on ?"その2(Typhoon)  "What the hell is goin' on ?"その2(Typhoon)を含むブックマーク

 Tさんから聞いて、少し事情がわかって来た。今の時点で了解出来るのはおそらくは以下の3点。

1.栗東芸術文化会館さきら(以下「さきら」と略)側による「8日、9日の公演中止」というHPでの発表は、どうやら「台風」の来襲という理由からではないらしい。

2.「さきら」のその中止決定は、丹野氏ら公演者側には了解が得られていなかったらしい。

3.8日夜の公演は「さきら」は公演と認識しておらず、「リハーサル」として観客に無料公開されたらしい。

 ‥‥「らしい」ばかりで心もとないが、この時間ではこれ以上踏み込んだ書き方は出来ない。文責はわたしが取る心積もりでいる。責任はTさんにはない。

 どうやら、いちばん大きな問題は「騒音」のようだ。それに対する近隣からの苦情。‥‥そうだろう。これはわたしにも経験があるから想像できる。しかし、それに対する「さきら」の対応は、信じられないほどに「対応」になっていない。なるほど、「さきら」のHPの中止決定の報をよく読むと、「台風接近のため」などとは書いておらず、「諸事情により」となっている。ここでわたしなどは当然この台風の影響で中止されたのだと想像してしまい、「それは仕方がないかも」と納得してしまった。現実には、台風の接近などなくとも公演は中止されていたのではないだろうか。

 余計な事かも知れないが、同じ野外公演で大阪の南港で開催中の「維新派」の公演も、この8日と9日の公演が中止され、同じようにHPを通じて発表されている。その画像。

   

 ちょっと鮮明でなくて申し訳ないが、こちらははっきりと「台風の影響のため」と、その中止の理由が書かれている。ま、こちらがあったもので、わたしなどは「さきら」のケースも「仕方ないな」と納得してしまっていた。違うのである。「さきら」の公演では、スタッフはまだ中止するつもりでいるわけではない。だったら、わたしは今夜発つべきだったのだ。9日になったら台風のために結局中止になってしまったとしても、それは今の時点ではまったく関係がない事だ。つまり、わたしも又「さきら」の運営ならざる運営、対応ならざる対応のせいで、先走った判断をしてしまったのだ。

 まだ聞いている事はいろいろあるけれど、とりあえず憶測をあれこれと書きはじめる前に睡眠をとっておこう。

 

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■ 2004-10-07(Thu)

[] ドキュメンタリー・ドリーム・ショー−山形in東京2004
 『ネオンの女神たち』 余力為(ユー・リクウァイ):監督 at アテネ・フランセ文化センター  ドキュメンタリー・ドリーム・ショー−山形in東京2004 『ネオンの女神たち』 余力為(ユー・リクウァイ):監督 at アテネ・フランセ文化センターを含むブックマーク

   

 1996年にベルギーと香港との共同製作で作られた事になっているこのドキュメンタリーは、しかしその舞台は北京であり、何人かの女性へカメラを向け、何と言うんだろう、中国における「女性」と言う存在にスポットを当てる。その「女性なるもの」の危うさ。

 まるで独房の壁のような所に一人の女性があらわれ、そのまま無伴奏で歌い始める。その豊かな髪と、真上からの暗い照明のせいで、顔も表情もよくわからない。北京で活躍するインディーズのシンガー・ソングライターなのらしいけれど、中国の伝統的な音楽とクラシック歌唱の融合したような美しいメロディーとシンギング。

 かぶさるように短いタイトルが挿入され、次に出てくるのは北京のクラブで唄う(といってもカラオケなのだが)女性。思いっきり「お水」なのだが、実年齢よりずっと若く見えるし、子供をよその家庭に預けているシングル・マザーでもある。中国の地図のあちこちを指差し、自分のいた所であろう場所を示す。もう、中国じゅうを流れ歩いているような。

 次に出てくるのはファッション・モデルのような仕事をしている女性。彼女達を取り囲む男たちの視線から自分の置かれた立場を語り、「ここで堕ちて行くのは簡単だ」という。実際に彼女はドラッグ中毒から1年かけて更生した過去があるらしい。そんな彼女が祖母の部屋を訪ね、祖母の髪を梳いてあげるシーンが印象的。

 最後に、地下通路のような所で「EAT ME」と書いたシャツを着て踊る女性の短いカット。

 ‥‥クラブのカラオケで歌われる歌は革命戦士の闘いを讃える歌だし、ディスコで若いコたちが踊るバックに流れる曲は、社会主義革命賛歌。見ていて頭がクラクラしてしまいそうなまでのそのギャップ。そんな不思議な世界の中で佇む女性たちはふわふわと危うげで不安定に見えるが、その奥には不思議な力強い生命感を感じてしまう。

 賈樟柯の作品では撮影監督を担当している余力為監督*1だけど、たしかにこのドキュメンタリーでも、的確かつユニークなカメラ・アイが印象に残った。

 

 

[] ドキュメンタリー・ドリーム・ショー−山形in東京2004
 『東京 イン・パブリック』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー):監督 at アテネ・フランセ文化センター  ドキュメンタリー・ドリーム・ショー−山形in東京2004 『東京 イン・パブリック』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー):監督 at アテネ・フランセ文化センターを含むブックマーク

   

 賈樟柯監督がデジタル・ヴィデオを使って撮影した2002年暮の東京の姿。(おそらくはホテルの)曇った窓ガラスに指で書かれた「東京」の文字の向こうに、曇り空の下の東京の街が拡がっている。

 夜。どこかのパブリックな施設の大きな窓ガラスの前で、何組かの男女がストリート・ダンスの練習をしている。その中にカメラが入って行き、一人一人の顔をアップで捉えたり、離れた場所から俯瞰してみたり、そのカメラの動き自体が主題であるかのような、そのカメラのレンズという存在自体が問題であるかのような、印象的なシーン。

 画面は昼間の街角に変わり、そこを少しの時間写した後に、瞬間地下鉄の中の映像。

 このあとはほぼ全編銀座の街角の映像。雨が降ったりやんだりしている。あ、ここで問題になっているのはやはり、カメラのレンズという存在自体だな。

 カメラは、東京の街という器にはまったく興味を示さない。ただ、すれ違う人、たたずむ人にだけその視線を向け、カメラに写った人物に興味(?)を持つと、しばらくその人物を追いかけたりする。その視線はとりたてて特殊なものではなく、スクリーンに映される切り取られた時空間として、美的判断を下せるような類の映像ではない。

 で、この映像で興味深いのはやはり、デジタル・ヴィデオカメラという撮影機具の露光口、つまり「眼」のような存在、つまり「レンズ」と、そこに写されてしまう匿名の人物達との関係なのだと思う。

 おそらく、わたしなんかが眼にするほとんどの映像では、写りこんでしまう人物はその場でカメラマンが撮影している事を了解した上でカメラの視界の中に入ってくる。だから、写りこんでしまう人物は「写されている」事を承知した上で写っている。これはドキュメンタリー作品でもだいたいそういう事情で、路上でものものしくカメラを設置してスタッフが取り囲んでいれば、その前を通れば自分が「写ってしまう」事は承知の上でカメラの前を通ることになるだろう。

 しかし、この作品では、小さなヴィデオカメラはほとんど不意打ちのように通行人に向けられる。又はほとんどの写される人はカメラの存在にまったく気がついていない。意識していない。そういう人たちがカメラに向かって歩いてきて、カメラとすれ違っていく。で、その映像は、意外な事に「見たことのない新鮮な人物群映像」として、アクチュアルにスクリーンから迫ってくる。

 でも、「見たことのない」と言いながらも、こういう映像はどこかで見たなぁ、などと思い出していたら、そう、この賈樟柯監督の『青の稲妻』の街頭シーンだった。

 この作品の終盤で、カメラはあえて被写体にしつこく付きまとって見せ、その人物に拒否反応が現れるまでを記録している。それはまるで、「この作品は何を狙って作られようとしているのか」という事を監督が再確認しているようにも見えるのだった*2

(わたしはどんな場合でも、断りもなくカメラのレンズを自分に向けられることは大嫌いだけれど、当然これは、わたしがこの作品が嫌いだという事ではない。)


 

 

[] 関西に出かけます。  関西に出かけます。を含むブックマーク

 わざわざ告知するほどの事ではないけれど、8日の夜に出発して11日深夜に戻って来る予定です。台風は来ないで下さい。

 ですので、おそらくは9日から11日まではお休みします。あ、そのくらいの中断は珍しい事ではないか。なんだか、わたしの知っている「はてな」ダイアラー(そんな言葉はないと思うが、流通してしまっているぞ)も、何人かがこの週末に関西行きを企んでいるようです。共通項は「維新派」のようだけど、一緒の日と言うわけでもないようです。あれだね、向こうで関東勢オフ会でもやりますか。あ、そんなスキマはないか。

予定スケジュールは次。

 9日:「踊りに行くぜ!!」 栗東公演

    丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太 「026-METAL」

10日:京都コンテンポラリー・ダンス・ラボ

    維新派「キートン」

ああああぁ!丹野さん中止! 維新派も今日は無し! ‥‥どうしよう。丹野さんは10日だけ。で、わたしは10日は維新派のチケット買ってあるし‥‥。

 とりあえず、今夜の出発は取りやめます。チケット取ってあるわけではないし、わざわざ台風に飛び込んで行ってもしかたがない。


 

 

*1:彼自身が監督した劇映画も一作撮っていて、これも評判がいいようだ。

*2:今日はちょっと時間がなくてうまくまとめ終わることが出来てないけれど、ま、いいや。これはこれで。

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■ 2004-10-05(Tue)

[] 別の日記に書いたのと同じ事を書いてしまおう。  別の日記に書いたのと同じ事を書いてしまおう。を含むブックマーク

 ずうっと、あんまり美術展とか見ていなくって、美術家の端くれのエッジの存在として、勉強不足だと思う。なんか、何気なく見に行くと言うような気持ちでは、最近はあまり美術とか気軽に見る事が出来なくなってしまっている気がする。舞台とかならとにかく向こうから「見てくれ」と迫って来てくれるけれど、美術とかは、とにかくこちらから「見てやるぞ」という意気込みでかからないと迫れない。逆に言えば、表面的にザァッと見てしまえば、「面白くない」といかにも簡単に判断出来てしまう。ある意味、そういう判断って、「一瞥」で決めつけてしまったりする。しかも、そこに「現代美術」などというバイアスがかかれば、めんどくさくなってしまうことおびただしい。ある意味ではこっちはこっちの事で手一杯だし、自分と共有出来るような事を追求しているなと思うとひっかかってもくるけれど、はっきり言うと、現在形でのデザインとの境界のあいまいになっているような作品って、どうも興味が持てない。

 たぶん、今みんなは20世紀から継承して来た事をふるい捨てようとしているんではないだろうか。それが何か、「技術の復権」みたいな形をとろうとしているような気がして‥‥。

 ある美術雑誌の編集をされている方が、「わたしはデュシャンのエピゴーネンのような作品は徹底して排除して行く」みたいな言い方をされていて、そんな事言ったら20世紀美術なんかみんな、ボイスもオノ・ヨーコも「もの派」も、皆デュシャンのエピゴーネンだって言われちゃうだろうし、では何をもって評価するのかわからない。先に評価の定まっている作家はいいけれど、これから出て来ようとする新進の無名作家は排除するぞ、としか読み取れない気もする。

 逆に、ある美術雑誌にも批評を掲載しているような評論家の方が、「マティス展」を観に行って、展示された切り絵を見て、その切り口の乱れを「老い」のせいと見て否定的に捉えたりする。この人はクレーの作品やピカソのデッサンを見ても、「線が乱れている」と言うのだろうか。ここにあるのは21世紀的な高度資本主義的な商業/デザイン製品を規範とするような批評眼であり、20世紀を支配した表現主義的な「手の痕跡」は、その「なめらかな/村上隆的な」表面を持つ「完成度」の規範の前に否定される。

 ちょうど2〜3日前に、あるサイトで、フリーハンドでほぼ完全な真円を描ける人が紹介されているのを見た。マティスの切りそこなったような切り絵よりも、こっちの方が「アート」だろうか。

 近いうちに、アートとしての美術も、工芸品の完成度を求められるようになってしまうのかも知れない。でも、わたしはまだ、「切り口の乱れ」に惹かれる。あまりデュシャンに興味もなく、デュシャンのフォロワーのつもりはないけれど、「モノがごろりところがっているだけ」のような作品のあり方には惹かれるし、「ははぁ、さしずめてめえはデュシャンのエピゴーネンだな?」と告発されれば、銃殺刑を免れる事は不可能だろう。

 ヴェネチア・ビエンナーレの日本館のテーマは『萌え』だそうだ。秋葉原が再現されている。わたしはそれはそれで面白いと思っているけれど、「線が乱れてる」とか、「デュシャンのエピゴーネン」と言われて、ある種の作家群が否定されるのは、まだマズいだろうと思っている。ていうか、今はこ〜んな奇妙な時代なのかも知れない。いずれ「アート」など消滅してしまうと言うのなら、それは結構な話だと思うけれど。

(表題にある通り、もう一つ書いている日記に書いた事をそのまんまこっちにも引き写して来ました。ま、最初っからこっちにだけ書けばよかったのだけど)

 

 

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■ 2004-10-02(Sat)

[] 『スウィングガールズ』 矢口史靖:監督  『スウィングガールズ』 矢口史靖:監督を含むブックマーク

   

‥‥世の中には二種類の人間がいる。
スウィング出来るモノと、スウィング出来ないモノとだ。

 このやんちゃな矢口クンにとって、映画なんていうのは自己表現の道具とかアートだとかそんな高尚でめんどうなモノではなくって、この歳になっても手放せない魅惑の遊び道具なんだろう。こんなに楽しそうに素材と戯れるような作品を、こんなに大勢の観客といっしょに大きなスクリーンで見る事ができるなんて、ちょっとした奇蹟だとまで思ってしまう。

 おそらくは誰もが、この映画は彼の前作『ウォーターボーイズ』の安易な焼き直しではないかと思うだろう。それは如実にタイトル自体にあらわれているわけだし、たしかに基本的な構造は相似形。しかし、シチュエイションを変えた「焼き直し」というのは、そう何から何までも簡単なものではないだろう。その異なるシチュエイションの設定の元に、こうして易々と作品を一本でっち上げてしまう矢口史靖という映画作家は、他には見られないステキな才能をここでスクリーンにぶちまけている。

 今日この映画を一緒に見たYちゃん(別に自慢して言うわけではないが、女性である)は、見終った後に、「これだけ女子高生と言うモノに幻想を持っていない描き方って、感心してしまう」と語っていた。あぁ、そうだな。こんなにサラッ、て流しちゃうのって、何気なく見てしまったけれども、実は驚異的かも知れない。この話をして二人で同時に対極として思い浮かべていたのが、中原俊監督の『櫻の園』だったりするわけで、「今一瞬のこの刹那の美しさ」なんて、矢口監督はこれっぽっちも信じてはいない。ただひたすら、映画の時間枠の中で楽しい画面をストーリーにそって並べて行くのだ。そこには「これがわたしの映画への意思だ」とか、「これは芸術だ」などという衒いはみじんもない。

 つまり、この映画では、瞬間瞬間の美しさなどを探りながら見る事は、本質的にはほとんど無意味だったりする。言ってしまえば「B級映画」の楽しさ。昔のクレイジーキャッツの映画とか、「バカ殿様」*1とちょっと通底する感じ。

 そうは言いながらも、この映画には実に映画的魅力に富んだ箇所が、少なくとも二箇所はある。その一つは、当然ラストの晴れ舞台での演奏シーンであって、ここで感心してしまうのは、この映画の中で重要な役回りを演じた子たちにそれ相応のスポットを当てつつも、映像の流れとしては舞台上のすべての演奏者に対して、見事なまでに公平に平等に映像におさめている事で、それがこの「ビッグバンド演奏」というクライマックスの音楽的魅力を支えているわけで、これは『ウォーターボーイズ』のラストでの、見事なシンクロ演技の映像化の非凡さがフロックではない事を証明している。

 もう一つの箇所。それはもちろん、皆が松茸狩りからイノシシに遭遇する「イノシシ狩り」のシーンであって、このシーンは「映画が映像それ自体として笑いを誘う」という楽しさにあふれたシーンであり、最先端の映像技術をチープになぞってみせると言う、矢口史靖監督の「映画で遊ぶ」精神の最上の成果。しかもBGMがルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』という絶妙の選曲*2であってみれば、ここで笑わずに済ませる事は不可能だ、というか、年内はこのシーンを思い浮かべて思い出し笑いで過ごす事ができるだろう。今すぐにでももういちどこのシーンを見てみたいほどだ。って、映画の後でYちゃんとしゃべっていたのは、ほとんどがこのシーンの事ばかりだったような気がする。絶賛。

 もちろん、細かい所で中途半端な所はあれこれと拾い上げる事も出来る。で、さっきこの作品の公式サイトを見て、キャストのページを探ってみると、この映画では描かれなかったさまざまな事情がそれぞれのキャラの背後に潜んでいるようだ。おそらくそれらのエピソードは、来るべきTVドラマ化に照準を合わせた下準備のようなものなのかも知れない。わたしはそういうやり方に反対する理由を持たないし、こうしてまずは映画館で100分とかのイントロダクション(パイロット版?)を経て、後にTVドラマで500分かけて周辺の状況をつくりあげていくような事であれば、TVの方も見てみたいものだとも思う。

 ‥‥しかし、「イノシシ」。

 

 

[] 『EGO-WRAPPIN' merry merry tour』at 恵比寿ガーデンホール  『EGO-WRAPPIN' merry merry tour』at 恵比寿ガーデンホールを含むブックマーク

   merry merry

 EGO-WRAPPIN’(エゴラッピン)の新作「merry merry」発売に合わせた全国ツアーの初日。もちろん会場は満員。初日である分、バンドとしての音の統一感などに不安があるのではないか、などと心配したりしていたけれど、まだその新作の音源を聴いてもいなかったし、逆にツアー開始のテンションの高さがプラスに作用して、構成のしっかりした楽しいライヴだったと思う。

 オープニングは、ステージ前面の薄いスクリーン・カーテン一面に、60年代のサイケデリック感覚を彷佛とさせるような、着色オイルと水とのアメーバ状映像を映し出し、短いインストゥルメントで、まるでジェファーソン・エアプレーンのライヴの幕開きみたいだ。ヴォーカルの中納良恵は、白のワンピースに、頭の上には生け花用の珊瑚のような白い枯れ枝を鹿の角のようにつけている。

 その60年代的なスタートから、バンドの音はまるでロックの歴史を時代を追っておさらいするような展開を聞かせる。このあたりは基本的に新作からのモノばかりだったようだけれど、フルートをフィーチャーした曲は70年代のブリティッシュ・フォークを思わせる。さらに、80年代のAORっぽい仕上がりの曲、それ以降のファンキーなテイストの曲でのうねるような展開と、わたしにはかなり楽しめる展開だった。

 このあとに、「パラノイア」や「くちばしにチェリー」などのヴェリー・フェイマスなノリのよい曲でステージはがぜん盛り上がり、スピーカーの上にまで登って客をあおる中納良恵には「なにもそこまでやらなくとも」って思ったりもするけれど、少なくとも「このショーの中でこここそがクライマックスなのだ」という意志は音とともにしっかりと観客に伝わり、『スウィングガールズ』繋がりと言うわけではないけれど、ライヴにおけるブラス&ホーン・セクションの力というモノを実感した。

 このあともういちど新作からの作品らしいのが続き、エッジの効いた80年代的なファンクと受け止め、これはこれでわたしは楽しめた。ラストのアンコール曲は「かつて‥‥」。

 今回の新作はどうやら賛否両論というか、否定的な意見が多い事はバンドのメンバーも気にはしているようで、MCでもそのあたりの事は触れていたけれど、あまりに「昭和歌謡」とかという記号とともに語られ過ぎていたというか、わたしはたしかにそういうカテゴリーに合致するような曲も好きだけれども、このバンドの持つ音楽性はもともともっと幅の広いモノであって、そういった側面はこのライヴで充分堪能する事が出来た(まだその新作は聴いていないのだけれども)。本来メジャーなシーンでここまで話題を呼んで過大なセールスを記録するようなバンドではなく、もっと地道にライヴを続けて行くような行き方が似合っているバンドだともと思う。そのあたりはフレキシブルに対応していける主体性を持ったバンドだろうし、妙な人気は沈静化した方が彼らもやりやすいのではないだろうか。とにかく、もう少しこじんまりとした小屋で聴いてみたかった。


 

 

*1:いや、「バカ殿様」の中には、大人の持つ欲望のストレートな投影が大きな魅力(???)になっている部分があるのだけれども(もちろんソレはこの『スウィングガールズ』という映画からはいちばん程遠いコトなのだけれど)、それ以外で出て来る、映像技術で遊んでしまうような部分などで。

*2:おそらくは、この曲の使用許可に費やした予算はこの作品の中では相当なパーセンテージを占めているのではないだろうか。

kuma-nekokuma-neko 2004/10/08 16:37 いや、もうcrosstalkさんのレビューの上手さに感服です。自分で書いてみてはっきり感じました。それだけです。気をつけて(っても大変そうだけど)関西にお越しくださいませ。

crosstalkcrosstalk 2004/10/08 17:07 kuma-nekoさん、どうもです。そのように読んでいただいたことは率直にうれしいです。ありがとうございます。でも、そちらに書かせていただいたように、kuma-nekoさんの方が突っ込んだ臨場感のあるレポになってます。
では、そろそろ台風に向かって出発いたします。

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■ 2004-10-01(Fri)

[] 『sonnets/unrealities XI ( it may not always be so; )』 by e.e.cummings  『sonnets/unrealities XI ( it may not always be so; )』 by  e.e.cummingsを含むブックマーク


きっと たいてい そうはならないんだけど でも
あなたの唇 それをわたしは愛おしんでいて でもそれが
もしもほかの人にふれたとしたら あなたのやさしくて強い指が
彼のこころをしっかりつかむとしたら それも わたしのこころからそんなに離れないその時に
もしも ほかの人の顔に あなたのすてきな髪が
あんなに静かに いやむしろ 追いつめられたこころが
どうしようもなく 叫ぶその字句のように 顔にかかるとしたら

そんなことになったら ねえ もしもそんなことになったら
わたしのこころであるあなた どうか伝えて下さい
そう わたしは彼のところに行って そして彼の両手をとって
わたしの幸せを全部 わたしから受け取って下さいと 言うでしょうと
そうすれば わたしは振り向いて ここから恐ろしいほどに離れた
失われた地から 一羽の鳥の歌を聴くでしょうか

 ‥‥e.e.cummingsは、ずっと長いことわたしのいちばん好きな詩人で、英語なんかそんなに解らないくせに原書で読んだりする数少ない詩人ではある。昔は時々自分で翻訳してみようとしたことがあって、いくつか試みてみた。

 ビョーク(Bjork)の新譜『medulla』が発売されて、その十曲目が、e.e.cummingsの詩にビョークが曲をつけたものだった。この詩はやはり昔ちょっと訳そうとした事のある詩だった。で、CDのブックレットの詩から久しぶりに翻訳してみたのがこれ。この詩は、藤富保男が翻訳したものが思潮社の「海外詩文庫」で読む事ができるけれど、おそらくは(大きな意味の取り違いがあるかも知れないけれど)わたしの訳詩の方が良い。いや、わたしが眼にしていないこのCDの国内盤の対訳の方が素晴らしい、と言う事は、充分にあり得る事だけれども(誰か、国内盤の対訳はどんなのだか教えてくれないかなぁ)。

 少しばかり「創作」に足を突っ込んでしまったけれど、こういう事はもうやるつもりはないので安心して下さい。

 そうですね。元の詩を引用しておきますので、「ひでえな」と思ったら、間違いを指摘して下さると嬉しいです。

it may not always be so; and i say
that if your lips, which i have loved, should touch
another's, and your dear strong fingers clutch
his heart, as mine in time not far away;
if on another's face your sweet hair lay
in such a silence as i know, or such
great writhing words as, uttering overmuch,
stand helplessly before the spirit at bay;

if this should, i say if this should be -
you of my heart, send me a little word;
that i may go unto him, and take his hands,
saying, accept all happiness from me.
then shall i turn my face, and hear one bird
sing terribly afar in the lost lands.

 

 

crosstalkcrosstalk 2004/10/03 01:00 試しに、有名なexcite翻訳にこの詩を翻訳してもらいました。以下の通り。


それは必ずしもそのようであるとは限らないかもしれません;
また、万一あなたの唇(私はそれらが好きだった)がもう一人に触れると、
私はそれを言います。また、あなたのいとしい強い指は私のものとして、
そのうちにずっと遠くに彼の心をしっかりと握ります;
もう一人の顔においては、あなたの甘い髪の毛が、
私が知っているような静寂、あるいは言葉を苦悶するそのような大家にあった場合、
として、過度に発すること、精神の前に無力で追い詰められている;

万一これがすると、私はこれが私の心にあなたであるべきかどうか言います、
私に小さな単語を送る;
私が彼までに行くかもしれないし、
言って、彼の手をとるかもしれないことは私から幸福をすべて受理します。
その後、私は顔を回し、1羽の鳥が失われた国で恐ろしく遠くに歌うのを聞きましょう。


‥‥最後のフレーズはちょっとわたしとどっこいどっこいですな。負けないぞ。

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