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■ 2004-11-30(Tue)

[] 『METAL−MEETING vol.1』12月6日 @ アートコンプレックス1928(京都)  『METAL−MEETING vol.1』12月6日 @ アートコンプレックス1928(京都)を含むブックマーク

 2004年10月、滋賀/栗東芸術文化会館さきらの暴挙の中で行われた、丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太「026−METAL」。

 その報告、検証、作品のヴィデオ上映会を開催。

「026−METAL」再演に向けての「METAL−MEETING」第一弾!

<トーク>
・丹野賢一
・羊屋白玉
・さきら公募メンバーを含めた「026−METAL」スタッフ 他

主催/NUMBERING MACHINE

問い合わせ/TEL・FAX 03-5377-1983
 mail@numberingmachine.com

※現在、この「METAL−MEETING」は、東京地区でも開催に向けて調整中だそうです。

 

 

[] 『ヴァインランド』トマス・ピンチョン:著 佐藤良明:訳  『ヴァインランド』トマス・ピンチョン:著 佐藤良明:訳を含むブックマーク

   ヴァインランド

 とにかくこの3週間、読書といえばほとんどこの本しか読んでいない。全650ページ。時々置いてきぼりを喰いながらも何とか読破。と言っても、わたしの痴性ではとても「了解した」とも言いがたいだろうな。ただ、めちゃくちゃ面白かったのは事実だ。

 ま、すごい単純な感想から始めると、タランティーノはこの本を読んでから『キル・ビル』を作ったんではないのか?みたいな感じ。DLという登場人物が日本で忍者修行するのなんかモロにユマ・サーマンだし、権力の象徴のように出てくる男とヒロインであるフレネシとの関係も、なんだか『キル・ビル』を連想してしまう。で、逆にこの小説での時間系列のふっ飛ばし方などは『パルプ・フィクション』を連想させるような所もあるのだけれど、あ、アメリカでこの原書が出版されたのは『パルプ・フィクション』よりもそうとう前なのか。ピンチョンがタランティーノから影響受けたか?なんて思ってしまった。

 とにかく、戦前の労働運動抑圧から赤狩り、学生運動の弾圧からレーガン政権へと連なるアメリカでの「抑圧」の歴史を、TV(作中では「チューブ」と呼ばれる)文化、映画、ポップ・ミュージックを背景に一本の太い線として描き、そこに、これに対抗する三代にわたる女性たちの抵抗と挫折、未来への希望などが、時間軸ごとに串刺しにされているような、そんな印象。そこにヒッピー崩れやTV中毒の捜査官、奇妙な日本人などのほとんどダメダメな男たちが登場して、カウンターカルチャー的要素をまぶしながら「抑圧」の構造を補完する。

 基本的なストーリーは、リベラルな映像作家の母とドラッグまみれのヒッピー・ミュージシャン(?)の父との間に生まれた娘(プレーリィー)の母親探し物語なのだけれど、ここにアクロバットのように時空を超えたディティールが際限なく挟み込まれる。

 例えば、プレーリィーが母親の撮影した、60年代当時の学生デモの映像を見ているシーンでは、この小説の視点が、その映像の描写から勝手に撮影当時の母とその周辺に移行するかと思っていると、次にはその後に別の集団でそのフィルムを見ている場面に移行している。そこからまたプレーリィーが映像を見ている場面に舞い戻ってきたりするのだけれど、このスパンが長い、というか、まるでプルーストの「心情の間歇」である。というか、ここでの権力構造の戯画化とか、虚構をうまく入れ子にする方法とかって、あとがきにちょっと名前が出てくるけれど、ジョナサン・スウィフト的。

 小説中にはTVやポップ音楽などのアメリカ大衆文化にまつわる固有名詞が多数登場してくるけれど、翻訳者の佐藤良明氏が巻末に付けた膨大な訳注は非常に正確かつ楽しめるものである*1。ただ、単に固有名詞の説明を離れて、読者の読み方を誘導してしまうような記述を「訳注」として挿入してしまうのはちょっとまずいんではないだろうか。

 この作品にはちょっとだけだけど、『競売ナンバー49の叫び』のムーチョ氏が登場してくる。それはどうでもいいんだけれど、この21世紀のアメリカの姿を、是非ともプレーリィーを主人公とした作品として書いてほしいな、って単純に思った。で、次の作品はいつ翻訳・出版されるのだろう。

 

 

*1:60年代のポップ音楽に関してなら、わたしも不必要な知識はあれこれ抱えているけれど(この小説に出て来る音楽ネタはほぼ全部記憶に残っているものだった)、適切な訳注だと思ったのです。

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■ 2004-11-29(Mon)

[] SePT独舞vol.12 白井剛ソロダンス 『質量,slide,& .』 @ シアタートラム  SePT独舞vol.12 白井剛ソロダンス 『質量,slide,& .』 @ シアタートラムを含むブックマーク

 白井剛という人は、いつも映像とかと絡んで、ちょっとトリッキーな空間を作り出すような印象があったけれど、今回は少し質感が違った。一つには、ラストの10分ほどを除いては、ほとんどダンスらしいダンスを踊らないこと。そして、どこかの部屋の中のようなプライヴェートな空気を持つ舞台の上で、一人の男と室内の「モノ」との私的な関係性が提示されるような、実にプライヴェートな時間と空間が示されていた事。これは一種「演劇的」というくくり方も出来る気もするし、さっき思い出したのだけれど、モノとの関係は、昔見た「ジンジャントロプスボイセイ」が試みていたような方向に近いかもしれない。ま、あそこまで過剰ではなくて、白井剛の場合はもっと禁欲的なアプローチだったと思うけれど。

 で、舞台を見ての連想ゲームてなことをまた書くけれど、わたしはこの白井剛の舞台を見ながら、3〜4年前に見た、メアリー・ハロン監督の『アメリカン・サイコ』(原作:ブレット・イーストン・エリス)という映画を思い浮かべていた。当時この映画はそれほど評判にならなかった記憶があるけれども、これはわたしの大好きな映画。この映画は要するに、超エスタブリッシュなビジネスマンが実は私生活では連続殺人鬼であり(または自分が連続殺人鬼であるとの妄想に囚われ)、次第にその精神の均衡が壊れていく様を、いわゆる「サイコ」ものとは一線を画したスタイリッシュな映像感覚で制作した作品。

 その映画の中で、主人公の豪華マンションの自室での彼のプライヴェートな時間が描かれたりするんだけれど、筋力トレーニングに励み、ポルノヴィデオを見て、と言った孤独な時間のすごし方が、今回の白井剛の舞台とちょっと相似形に見えてきてしまった。

 1〜2年前に見た小林嵯峨の『アウラヒステリカ』シリーズの作品の一つが、ちょうどこの作品の女性版というか、勤め先から自室に戻ってきた女性が室内でだんだんに狂っていく過程を舞台にのせたような作品だったけれど、そういった「孤独の狂気」とでも言ったものが白井剛の作品のテーマであったわけではない。プライヴェートな空間/時間の中で観念的な秘儀のようなパフォーマンスを繰り広げる姿からは、そのスタイリッシュな空間処理からだろうか、ついそんな映画作品を思い浮かべてしまった。

 ま、わたしなどは、ラストにあんなに踊らなくっても良かったのに、みたいな感想もあるけれど、いかにも理工系出身らしい、力学的(?)なパフォーマンスを堪能した。
 (11月28日観劇)

 

 

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■ 2004-11-27(Sat)

[] 『ブロンドと柩の謎』(The Cat's Meow) ピーター・ボグダノヴィッチ:監督  『ブロンドと柩の謎』(The Cat's Meow) ピーター・ボグダノヴィッチ:監督を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041127115143:image

みんながみんな愚かな顔をして その愚かさに気が付かない
 そういう私も愚かな顔をしてる

この大騒ぎは誰もやめられない もしやめたら何が残るのだ?

さあ踊りましょ!

 ヴィデオを借りて見るのも久しぶり。先日見たJanet Kleinのライヴで共演していたIan Whitcombが、この作品の音楽を担当していることを知ったので借りてみたけれど、監督はピーター・ボグダノヴィッチ。『ラスト・ショー』とか『ペーパームーン』を見てから、どの位の時が経っているだろう。それ以外の彼の作品はおそらく何も見ていないけれど、今回見た『ブロンドと柩の謎』を含めた三本だけで乱暴に言えば、この監督の視点の中にはアメリカの近代(20世紀前半)へのノスタルジックな思いが込められているのだろうか。

 この『ブロンドと柩の謎』は、1922年に実際に起きた有名なハリウッド・スキャンダルの映画化。この事件については、ケネス・アンガーもその奇書『ハリウッド・バビロン』の中で一章を設けてかなり詳しく書いている。つまりは、新聞王WR・ハースト*1の所有する船上パーティーで、招かれた客の一人が変死した事件。この裏に、同じ船に居合わせたチャールズ・チャップリンと、ハーストの愛人で女優のマリオン・デイヴィス、映画プロデューサーのトム・インスらの存在が絡んでくるミステリーというわけ*2

 ここでのストーリー展開は、ほぼ『ハリウッド・バビロン』に記述されている憶測(?)と一致している。おそらくはこれが事件の真実として一つの定説になっているのだろうけれど、船の上というのは治外法権だから、権力がその本来の力を発露してしまう。そう言えば、ナタリー・ウッドの変死事件も船の上での出来事だったし。

 で、どうもこの作品の前半は、クライマックスの事件に向けてその背後事情を説明するのに熱心で、ちょっとアガサ・クリスティー原作の探偵ドラマみたいになってしまっている。ま、このあたりに「誰が死んだのかは秘密」という製作者の意図があるのだろうけれど、説明描写に終始する展開はわたしには退屈だった。しかし、その事件が起きてからの終盤の演出は見事で、緊張感をはらんで見ごたえがあった。その中に、虚飾に生きる人々への監督の屈折した思い(同じ映画人として?)が込められて、自嘲とアイロニーの入り混じったラストになる(上に引用した言葉はこの映画の最後に出てくるセリフ)。

 出演者たちは皆『ハリウッド・バビロン』に掲載された登場人物の写真にクリソツで、ま、よくここまで似てるヤツ集めたなって感じだけど、わたしにはチャップリン役の役者(イギリスの著名なコメディアンということだが)にだけは違和感があった。マリオン・デイヴィスを演じたのはキルスティン・ダンストで、もちろん写真で見られるマリオン・デイヴィスのコケティッシュなキュートさに及ぶべくもないけれど、20年代風の衣装の着こなしもよく、目の表情も豊かで印象に残った。あとは、久しぶりに聞いたジェニファー・ティリーの「変な声」だね。容貌もそうとう「変」になっていたけれど。

 そのIan Whitcombの担当した音楽、いかにも彼らしく20年代の音楽を当時の色調で再現しているのだけれど、前半では始終鳴り続けている感じで、ちょっとうっとうしいな、と感じてしまった気味もある。映画と切り離してサントラだけ聴いた方が楽しめるかもしれない。

 余談だけれど、同じく『ハリウッド・バビロン』にも載っている別のハリウッド・ミステリー、ウィリアム・デズモンド・テイラー殺人事件も映画化されるようだ。この事件に関してはミステリー度はさらに高めというか、あちらでは「Taylorology」という、膨大なテキスト量を持つサイトが存在する。学問かよ?って感じだ。猟奇事件めいて取り扱った日本のサイトもあるけれど、ここでは紹介しない。

 その「Taylorology」というサイトの中には、Mary Miles Minterという女性によってWilliam Desmond Taylorに出された、全文暗号で書かれたラヴレター(「pdfファイル」ですが)などの画像も見ることが出来て、これ見た時にはちょっと頭がくらくらっとしてしまった。

 余談が長くなってしまったけれど、その映画化、Mary Miles Minter役をスカーレット・ヨハンソンが演じるらしいので、実は今から楽しみにしている。タイトルは「Silent Star」というものらしい。

 

 

*1:この人はオーソン・ウェルズの『市民ケーン』のモデルでもある

*2:死んだのは誰かという事は、まだ見ていない人にあまり言ってはいけない事になっているらしい。って、多少サイレント時代のハリウッドへの知識があれば、誰が死んだのかは消去法ですぐにわかってしまう。

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■ 2004-11-25(Thu)

[] Ko & Edge Co. 『始原児―Experimental Body vol.2』構成・振付・演出:室伏鴻 @ 麻布die pratze  Ko & Edge Co. 『始原児―Experimental Body vol.2』構成・振付・演出:室伏鴻 @ 麻布die pratzeを含むブックマーク

 ロープから宙吊りになった三人(目黒大路、鈴木ユキオ、林貞之)のからだから始まる。ロープを揺らし、回転させて遠心力の中に身をゆだねる。

 顔を除く全身を銀オパールで塗りつぶした室伏鴻が、戸板にロープでぐるぐる巻きにされた黒いマヌカン人形(?)の後ろに横たわっている。人形はそのウエストの位置で二つに分断されている。人形を愛でるように撫で、囁きかける。その人形の後ろから、蛹から孵化する未知の生命のようにゆっくりと這い出てくる。

 三つの白い箱。高さ120センチ位か。その上でポーズをとる三人、箱の中に無理矢理入り込む三人。

 ‥‥こんなシーンが、一日経った今、印象に残っている。見ている途中でふと、ドゥシャン・マカヴェイエフの映画の事を思い出した。それは『保護なき純潔』という古い作品。一種ドキュメンタリー的な手法で、ドイツ占領下の東欧(どこの国か忘れた)でサーカス芸人によって作られた映画(その国で初めて作られたトーキー劇映画)を発掘*1し、その作者であるサーカス芸人と周辺の人たちへのインタヴューなどを盛り込んで、当の劇映画(これが『保護なき純潔』というタイトルなんだけど)を解体して、リミックスというか、本来のストーリーとかから離れて再構成し、なんちゅうか、個人や社会の中にある権力構造を顕わにさせるような、とにかくものすごく面白い映画だった。それを思い出していた。単純にイメージとして共通するようなところもあった気がするし。

 だから、ちょっとその映画*2と絡めて。その『保護なき純潔』に出てくるサーカス芸人って、要するに、フェリーニの『道』に出てくるザンパーノ(アンソニー・クインだぁね)と相似形のマッチョマンで、ドゥシャン・マカヴェイエフは、再構成したその作品の中で散々そのマチズモを笑いモノにしているんだけれど、その笑い方に愛情があふれていて、ナチスに抵抗したマッチョって感じだったのかなあ、国家や権力に対峙する身体への屈折したシンパシー。


 で、この室伏鴻の作品の中にも、その映画と共通するような視点、この場合には「自分を笑い飛ばしながらカッコつける、そんな自分を又嘲笑する」みたいな。そんな、様々な想像のきっかけを与えてくれる思惟に富んだ舞台ではあったけれど、どうもこの夜の舞台に関しては、わたしはちょっと高すぎる場所から見てしまったのではないか。この舞台、上から見下ろすのではなく、同じフラットな平面から見上げるような視点で見るべきだったのではないか。この作品の重要なファクターは「高さ」だったのではないかと思う。それを充分に体験出来なかった座席の選び方に失敗。最前列桟敷席で見ればよかった。

 

 

  

[] はてな「住所登録の義務化」撤回  はてな「住所登録の義務化」撤回を含むブックマーク

 さっきメールを受け取ったばかりでまだちゃんと読んでいないけれど、理想的な決定として歓迎します。この、ふらふら迷いながらって姿勢がニクいっすね、コンドーさんは。ひやひやさせてくれたけれど、ユーザーからの意見を取り入れてという良い先例になったのではないでしょうか。今後も「はてな」で書き続けさせてもらいます。

 

 

*1:実際にナチスの検閲を恐れて地中に埋められていたのではなかったかな?

*2:内容、かなり忘れてしまっている。もう一度見てみたいな。たしか3〜4年前には新宿TSUTAYAには置いてあったけれど。

summercontrailsummercontrail 2004/11/26 00:07 crosstalkさんこんばんは、お久しぶりです。はてなの撤回、さっき知ったのですが、あれよかったですよね。私もcrosstalkさんとほぼ同じ気持ちです。

crosstalkcrosstalk 2004/11/26 12:28 左近さん、こんにちは。ま、あとはどんなガイドラインが出てくるかって事でしょうけれど、今のスタッフの姿勢ならOKでしょう。ホッ。

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■ 2004-11-23(Tue)

[] 第11回BeSeTo演劇祭 山の手事情社 『道成寺』 演出:安田雅弘 at 早稲田大学大隈講堂  第11回BeSeTo演劇祭 山の手事情社 『道成寺』  演出:安田雅弘 at 早稲田大学大隈講堂を含むブックマーク

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 以前から一度見ておきたいと思っていた劇団の無料公演なので、よろこんで馳せ参じた。「山の手事情社」についての予備知識はほとんど無いが、メソッドの確立した手堅い劇団ではないかとの憶測。今回は「道成寺」というテーマから、シリアスな舞台とコント風の掌編をとりまぜたレヴュー的な舞台で、この劇団のテイストを掴むには最適の舞台だったかも知れない。

 ‥‥見終っての感想だけれども、「ベタ」だなぁ、というか、まず、シリアスな演出では素材をナマに出し過ぎているような気がする。そこにこの劇団なりに様式化された方法論を当てはめた演出。皆発声が力強くクリアで、ちょっと「ク・ナウカ」のスピーカーだけが独立して舞台を勤めているような錯覚を受けたり。とは言え、そこから劇空間/時間としての新しい地平が立ち上がって来るようには見えて来ないもどかしさ。それは舞台空間全体があまりに様式化され過ぎてしまっているせいかも知れない。消化が良すぎるのだろうか。箱の中に「道成寺」という素材をすっぽりと納めて封じ込めてしまったようで、舞台から溢れこぼれるインパクトに欠ける。

 ただ、この「大隈講堂」のスペースの中で、舞台の床に円形の反射板を置き、そこに当てられたライトの反射が舞台の上のアーチ状の天井に投影され、不思議にうごめく役者の影が重なり合うさまは、刺激的で美しかった。この場でしか出来ない演出意図として成功していて、見事だった。客入れの際にスタッフは「前の方が見やすくなっております」とさかんに言っていたが、それは大きな嘘で、少し後ろから、視野の中にその天井への影が入って来るあたりがベストではなかっただろうか。釣られて前の方に行ってしまったお客さんには、あの影像は見えなかっただろう。ご愁傷さま。

 

 

[] 第11回BeSeTo演劇祭 三条会 『ひかりごけ』 原作:武田泰淳 演出:関美能留 at 都立戸山公園特設会場  第11回BeSeTo演劇祭 三条会 『ひかりごけ』  原作:武田泰淳 演出:関美能留 at 都立戸山公園特設会場を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041124012314:image

 「三条会」と言えばこの作品だろうと、前から評判を聞いていた舞台を見ることが出来た。これは、英語で言えば「Masterpiece」だ。驚き。そうか、現代の視点から古典を読解し、古典から現代を照射する方法としてこんな手法があったんだ。

 配られたパンフ中の「演出ノート」に、演出の関美能留はこんな文を書いている。

(‥‥)しかしながら、稽古の段階で、現代の日本に生きている人間達が、腹が減って仲間の肉を食べることを算段しているのを演じているさまを見ることは私には堪えられなかった。そこには何の真実性も見つけられなかったし、とてもお客さまにとって、面白くあるような感じがしなかった。私は、すっかりあきらめてしまった。
 「ひかりごけ」の演出という作業はそこから始まった。

 ‥‥つまり、この劇は、演出家である関美能留のこの言葉のままに演出されている。そのままではリアリティを表出できないと思われてしまったテキストに、どのようにしてリアリティを付与し、また、そこからどのようにしてアクチュアルな舞台を創造するか。今日のこの舞台の上には、その見事な答えが現出していた。

 わたし自身、武田泰淳の『ひかりごけ』については「ああ、カニバリズムの話ね」という位の認識しかないし、読んだ事もないのだけれど、何でも小説の中にすっぽり戯曲をはめ込んだ構成になっているらしい。で、今回の「三条会」の公演は、おそらくその戯曲の部分を、テキストとしては原作に忠実に取り上げたものなのだろう。

 とにかく、今回特設された、イントレで組まれた円形の野外会場に足を踏み入れると、舞台は学校の教室のように机と椅子が7組置いてあるだけ。これがなぜ『ひかりごけ』なんだろうと。

 で、開演(学校のチャイムの音から開演)してみると、そこに四人の学生服で坊主頭の男達が座っている。二人はヒゲ生やしてるし、なんだろう、コンドルズなのか?などと思っていると、白いブラウスの、いかにも学校の教師然とした女性が現れて出欠を取る。四人の机の上に紙を配る。唐突に男たちが『ひかりごけ』のリーディングを始める。歌詞の付けられた「パッヘルベルのカノン」が流れ、ケバいセーラー服のような衣裳の女性も現れて、ひとしきり唄ってから四人の男と一緒に席に着く。

 って、なんやねん。高校の授業で『ひかりごけ』を読んでいるという設定なのか。四人の男たちがそれぞれ原作の船員たちになり、後から来た女性と教師が検事と裁判官をやる。

 ちょっと意表を突く設定なのだけれど、それ以上に意表を突くのがその演出で、リーディング自体は原作のテンションそのままに、いかにも演劇的に読み解かれながらドラマとして進行するのだけれど、舞台の上で進行している役者たちの動きは、これは教室でふざけまわる悪ガキ生徒たちの姿でしかない。この乖離の凄まじさにしばし呆然と舞台を見上げるわたし。そして、ふざけまわる生徒の動きとテキストが突然シンクロする瞬間がある。皆でハンバーガーを取り出して食べている最中に、リーディングでは「わたしは食べていません!」などというセリフになったり。

 で、テキストを忠実に再現して読むだけでなく、途中に女生徒と船長役を受け持つ男とが奇妙なダンスを踊りだしてバックに「黒の舟歌」が流れて一緒に唄ったり、読み方自体も、終盤ではコミカルに誇張して伸ばされるような読み方になったりもする。

 クライマックスは終盤の法廷場面で、なぜか女性を追い回して服を脱ぎ捨てている船長役の男と、裁判長(教師)と検事(女生徒)とが対峙する場面。ここで一気に原作の主題が圧倒的な力で舞台前面に姿を表せて、強烈な肉体の力を借りて観客に迫って来る。すごい。ここでの船長役の男(榊原毅)の、野外で全身から湯気が立ち上がる熱演、そして女生徒(大川潤子)のエキセントリックな演技には拍手。いや、役者皆凄いんだけど。

 ラスト近くに又「ラリパッパー日本」みたいな変な歌詞の曲が流れて、全員で唄いながらコミカルな振付をやったりして、最後には机がぐるりと円形に並べられて、皆が船長役の男を囲む。チャイムが鳴って暗転して終演。


 ‥‥なんて言うんだろう、「戯曲を読む」という事を舞台の主題にするような、メタ演劇っぽい演出というのはそれなりにあるだろうけれど、ここまで視覚的要素を取り込んで、わかりやすく批評的視点を表面に出した演出というのは、賞賛されてしかるべきだと思う。勝手な憶測では、原作にあった「書く過程」を包括した作品のありかたを、「読む過程」という視座から構築した舞台と。そこに見事にフィジカルなファクターが導入され、原作と演出、そして時代との真摯な批評的関係が成り立っていたのではないだろうか。初めての東京公演で、十分に宣伝もなされないままにたった一度だけというのはもったいない。ぜひとももう一度東京地区で再演してほしい。

 

 

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■ 2004-11-22(Mon)

[] フェアポート・コンヴェンション『ババコーム・リー+2』(紙ジャケット仕様)[Fairport Convention "Babbacombe Lee"]  フェアポート・コンヴェンション『ババコーム・リー+2』(紙ジャケット仕様)[Fairport Convention "Babbacombe Lee"]を含むブックマーク

   Babbacombe Lee (Amazonの国内盤には画像がないので、輸入盤から)

 オリジナルの発売は1971年。33年の年を経て、ついにオリジナルの形をミニチュア再現して、この日本でCD化された。こんなにオマケのたくさん付いてくるCDなんてあっただろうか?と、子供のような喜び方をしてみる。ユニバーサルインターナショナルはいい仕事をしたね。いまだCCCDにこだわるどこかの会社とは大きな差がある。

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 どうも近年では、サンディ・デニー、リチャード・トンプソン離脱後のフェアポート・コンヴェンションについては、その長い歴史の中で軽く見られがちなようだけれども、少なくともこの彼ら7作目の野心作『ババコーム・リー』までは、そのグループとしての緊張感は維持され続けていて、このアルバムに於いてついに、「ロックの文脈の中での、現代にふさわしいアクチュアルなトラッドの表現」という、彼らの強迫観念にも似た第一命題がみごとなコンセプトと共に達成されたのだ、と解釈すべきだろう。それは、サンディ・デニー、リチャード・トンプソンの不在にもかかわらず、ブリティッシュ・フォークのリーダー的存在である事を余儀無くされたフェアポート、その屋台骨を支えて来たデイヴ・スウォーブリックにとっての「使命」のようなものでもあっただろう。(初期のフェアポート・コンヴェンション、そしてトラッドなどについては、例えばコチラなどから〜ちと手前味噌〜。)

 きっかけは、デイヴ・スウォーブリックが骨董屋で見つけた古い新聞の記事から始まる。今回オマケで付いてくるその「LLOYD'S WEEKLY NEWS」のコピーの日付けを見ると、1907年12月29日号となっている。そのニュースペーパーには「ジョン"ババコーム"リー、絞首刑にすることが出来なかった男*1」というタイトルのもと、ジョン・リーという男の長い手記が掲載されていたのだね。

 その手記によれば、彼は海軍を肺病のため除隊後、「ババコーム」という土地でミス・キーズという女主人に仕える事になる。しかしある夜女主人は殺害され、屋敷には火が放たれる。彼は第一容疑者として逮捕され、(彼が無罪であるという意見もあったのだが)裁判で有罪とされ、絞首刑の判決を受ける。1885年2月4日は彼の処刑の日であったのだが、なぜか絞首台は刑の執行の度に故障。三度彼を吊るそうとして三度とも落とし穴が開かず、執行は延期される*2。そしてそのまま月日は流れ、このニュースペーパーの発行された1907年、12月18日に彼は釈放されたのだ。ジャケットの古びた写真は、そのニュースペーパーに掲載された、釈放の日に実に何十年ぶりかに帰宅したジョン・リーと、その老いた母の姿である。

 この古い新聞記事をもとにして、デイヴ・スウォーブリックを中心としたフェアポートのメンバーは、壮大なコンセプト・アルバムを制作する事になる。はっきりした曲名も示されず、最初のリリースの時には「Side One」、「Side Two」として、物語のあらすじのような長文が付されていただけだった。これは最初のCD化の際に五つのブロックに分けられたけれど、今回の国内盤では全体を15曲として、それぞれに簡略なタイトルがつけられている。

 アルバムは裁判官のジョンに対する判決の読み上げからオープンし、その判決を聴いたジョンの心情、16歳にさかのぼる若き日の回想が朗々と唄い上げられる。海軍時代を回想する場面でトラッドの「Sailor's Alphabet」が軽妙に唄われるが、この曲以外はすべてフェアポートのメンバーによるオリジナル。というか、ここに「Sailor's Alphabet」をはめ込んだ事によって、フェアポート・コンヴェンションとしてのアイデンティティを守っていると採る事も出来るわけだが。いや、もちろんこのオリジナル楽曲群の中にも、トラディショナル音楽に新しい生命を吹き込んで甦らせようとする意志があふれているのだけれども。

 おそらくはこのアルバムで初めて、ドラムのデイヴ・マタックスがエレクトリック・ピアノを演奏したり、ヴォーカルをサイモン・ニコルが担当したり、コンセプト・アルバムとしての構成は緩急を付けながら緊張を孕み、ラストに向かってなだれ込んで行く。しかし、このアルバムで特筆すべきはやはりデイヴ・スウォーブリックのテンションの高さだろうか。トラッド・シンギングの伝統を継承した気高くも朗々としたシンギングは見事に物語を聴き手に伝達し、フィドル・プレイはいつもの出しゃばりな癖を抑えて、基本的に物語の引き立て役に徹する。マンドリンは時にリード・ギターに匹敵する働きを見せ、サイモン・ニコルのギターとの美しいアンサンブルを聴かせる。もちろんデイヴ・ぺグのベースとデイヴ・マタックスのドラムは、最強のリズム隊である。

 ‥‥という、実にもって素晴らしいアルバムである(とわたしは思っている)のだが、当時のセールスは実に芳しくなく、ある意味このグループのその後のテンションの低下の原因にもなっているのかも知れない。ま、使命を果たし終えた虚脱感だったのか、レイドバックした次作「Rosie」のタイトル曲は泣ける。

 ここで今回のオマケの説明。ジャケットは見開きになっていて、左側に内ポケットになる切り込みがある。ここに黄色い8ページのブックレットが挟み込まれている。ここに先に書いたニュースペーパーのジョン・リーの回想手記が全文掲載されている。わたしはこのアルバムはリリース時にアメリカA&Mの輸入盤で一度購入し、そのあとで国内盤も買い足している。今も手元にあればちょっとした宝物なのだけれど、10年ほど前に知り合ったミュージシャンにIncredible String Bandのヴィデオを貸してもらい、その見返りにこの2枚を貸してあげたら戻って来なかった。ヴィデオ返さなけりゃ良かった。って脱線。この黄色いブックレットと、レコード盤をおさめる歌詞の掲載されたグレーの内袋はアメリカ盤と同じもの。で、国内盤は、この黄色いブックレットがそのまま和訳されたものになって挟み込まれていた。それと別に通常の歌詞カードと解説が付いていたと思うけれど、定かな記憶が残っていない。それと、ここでもミニチュアで再現された「DON'T HANG BABBACOMBE LEE!」というシールは、国内盤に確かにオマケで付いていた。わたしはコレをカバンに貼っていた記憶があるけれど。

 今回のCD化では、その原文の黄色いブックレットとグレーの内袋、そしてシールが再現され、通常の解説/歌詞対訳のシートにはブックレットの全訳が掲載されている(いわゆる「解説」めいた記述はどこにもない)。それにプラスして、今回初めてお目にかかる、その「LLOYD'S WEEKLY NEWS」原物のコピー。これはイギリス盤などには挿入されていたのかも知れないけれど、当時わたしが買ったアメリカ盤には付いてはいなかったし、国内盤にもなかったものだ。このコピーの裏側はちょっとこのアルバムの宣伝のようにもなっているので、販促のためにばらまかれたチラシだという可能性もある。

 とにかくブックレットを全部読み終えるだけでも一仕事。トラディショナル音楽の一つのルートである「事件を唄でもって人々に伝える」という側面を、英国の伝統音楽を継承しながらも壮大なコンセプトで現在に甦らせた、貴重な試みのアルバムとして、傾聴に値する。以上宣伝。

 

 

*1:この「The Man They Could Not Hang」というのが、後のフェアポート・フォロワーのバンドのバンド名になったことは周知の通り。

*2:歌の中では、「三度執行され三度失敗したのだから、お前への刑の執行は終わったのだ」と歌われている。と言う事は、ここでジョンは釈放されてしかるべきはずなんだけれど、なぜかその後20年以上牢獄につながれていたようだ。もしも彼が無実だったとしたら(いや、やっぱ犯人だったとしたって)、何という過酷な人生だったことだろう!

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■ 2004-11-21(Sun)

[] Janet Klein and her Parlor Boys "SCANDALS Japan Tour '04" at 原宿Blue Jay Way  Janet Klein and her Parlor Boys "SCANDALS Japan Tour '04" at 原宿Blue Jay Wayを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041121121342:image

 Janet Klein: ukulele and vocal

Parlor Boys are:
 Tom Marion :guitar, banjo and mandolin
 Dave Jones :stand up bass and guitar
 Benny Brydern :violin
 Ian Whitcomb, :ukulele, accordion and vocal

 このチケットをゲットするいきさつは、別の日記の11月16日のに書いた通り。つまり、耳にしたこともないアーティストのライヴにいきなり出かけてきまして。

 ただ、このような形で、ウクレレを奏でながらオールド・タイム・ミュージックを唄う、というのは先例がいくつもあるわけで、わたしなどの世代で最もインパクトがあったのは、タイニー・ティム(Tiny Tim)の存在。この人は1968年に「Tip-Toe Thru The Tulips With Me」という、おそらくは1920年代のオールドソングのリメイク・シングルでブレイク。で、「GOD BLESS TINY TIM」というアルバムをリリース。わたしはFENの放送で彼の唄を聴いて、ちょっとした衝撃を受け、国内盤シングルの発売を心待ちにしていたんだけれども発売されず。しかし、なぜかアルバムの方は国内盤がリリースされ、わたしは喜び勇んで買いましたよ*1

 このタイニー・ティムは色モノ扱いされる事が多いんだけれども、たしかに、馬のいななきのようなファルセット・ヴォイスで「一人二重唱」(いや、一曲の中で三人の声を使い分けていた曲もある)とかを混ぜ込みながら古いノヴェルティ・ソングなど唄う姿はお笑い芸人に限りなく近い。しかし、このファースト・アルバムでのオールド・タイム・フレイヴァー豊かなバックのオーケストレイションが異様に素晴らしく、このアルバムを聴き応えのある名作にしていると思う。ちなみに、1970年代に入ってタイニー・ティムは「セサミ・ストリート」なんかにも出演してたりしたんだけれど、「未成年者への性的行為」とかのスキャンダルで芸能界追放! なんと1990年代になってオーストラリアを拠点に音楽活動を再開して、あれこれと新譜をリリースしまくってましたけれど、1996年にお亡くなりになられてしまいました。合掌。彼のオフィシャル・サイトは今も健在です。

 で、とにかくこの「GOD BLESS TINY TIM」で唄われる、1920年代から30年代にかけてのミュージカル・ナンバーやヒット曲の数々が、曲自体としてとても魅力的で、わたしなどはその中にポピュラー音楽の歴史の奥深さを垣間見たりもしていたわけ。ただ、ここでタイニー・ティムが唄っていたのは、当時全盛期だったスウィング音楽からちょっと距離を置いた、非ジャズ・非ブルース的な(どちらかと言うとヨーロッパのキャバレー音楽の延長なのか)ミュージカル・ナンバーを中心の選曲で、それもなんかわたしには音が新鮮に感じられた理由のひとつなのかもしれない。

 少しタイニー・ティムについて長く書きすぎてしまったけれど、このあたりにわたしのアメリカン・ノスタルジー・ミュージックへの興味は始まっている。これにイギリスのトラディショナル音楽の延長としての、20世紀初頭のパブ・ミュージック、ドイツのキャバレー・ミュージックの伝統などへの興味が、後につながってくるわけだけれども、わたし的には、この流れの中でジャネット・クラインが引っかかって来た事になる。


 ‥‥という事で、20日の午後、原宿の「Blue Jay Way」というライヴスペースで、そのジャネット・クラインのライヴ・パフォーマンスを楽しんできた。ちょっとおされな「Blue Jay Way」のスペースは、「南青山マンダラ」のように各席の前には必ずテーブルがあるわけで、ラウンジでゆったりと飲みながらライヴを楽しめるゴージャスな空間。この妙にモダンで清潔な空間は、ちょっと彼女達には似合っていない印象。もうちょっと「場末」感が漂う方が、音楽の力がじわっと沁みてきたような‥‥。

 さて、わたしは結局、ジャネット・クラインの音源をまったく聴いた事もないままライヴに足を運んだのだけれど、こういうのは20世紀初頭の膨大な埋もれたポピュラー・ミュージックのエッセンスを、視覚的要素を含めて受け止めればいいわけで、おそらくは彼女の公式サイトを見て、了解されるモノがあればOKなのだ。

 実のところ、その音はわたしの期待していたヨーロッパ起源のキャバレーミュージックではなく、あくまでもアコースティック・スウィング・ジャズという音世界ではあった。しかし、ちょっとエキセントリックな容貌*2と身振り、「キューティー」と呼ぶにふさわしい歌声には、観客を『コットンクラブ』のような時代と場所にワープさせてしまうような力が確実にある。そして、彼女の歌を支える「Parlor Boys*3」たちの演奏も、スウィング・ジャズとしては音数が少なすぎる印象もあるけれど、充分にサポートの役目を果たしていた。特にわたしはヴァイオリンのBenny Brydernの音色がお気に入り。そして、こんな所にこの人が!と驚いてしまうIan Whitcomb。この人はもう1960年代からずっと、ラグタイムからスウィングにいたるアメリカのポピュラー音楽を発掘し研究、自らレコーディングし続けていている人*4で、わたしが今回このライヴに足を運んだのも、このイアン・ホイットカム(ウィットコム?)がバックバンドで参加していたせいもある。わたしは何枚か彼のアルバムを持っていたからね。そのイアンも2曲ほど(「Hello Hello Hello」他)ソロで歌ってくれたし、1曲(How Could Red Riding Hood? )ではジャネットとの楽しいデュオも聴かせてくれた。とにかく、「気のおけない仲間たちとの楽しいセッション」という雰囲気の、自然体でアットホームな空気はとても心地よかった。

 あと、ジャネットの英語がものすごくクリアで聴き取りやすい。英語で歌われる歌を聴きながら、こんなに歌詞が聴き取れたのはわたしには初めてかもしれない。で、MCも楽しい。「We play obscure, naughty and lovely songs of the 1910's, 20's, and 30's」とかって、ウンウン、だからこそ聴きに来たんだよって感じだし、「Here's another "Aishitemasu" Song.」とか、「One more "Sukebe" song.」などと楽しませてくれる。どうやらジャネットは数週間前に結婚したばかりで、今回のツアーは新婚旅行も兼ねているらしい。日本がとても気に入ったようで、「さくら さくら」を唄ってくれたり(終わりのほうのメロディラインは思いっきり西洋音階になっていたけれど)、そんな「しあわせいっぱい」がステージにもあふれ出て、まれに見る楽しいライヴ・パフォーマンスだった。乾杯。

   f:id:crosstalk:20041121121409:image (これは横浜でのライヴの写真らしい)

 

 

 

[] 『カナリア』 塩田明彦:監督 第5回東京フィルメックス特別招待作品 at 有楽町朝日ホール  『カナリア』 塩田明彦:監督 第5回東京フィルメックス特別招待作品 at 有楽町朝日ホールを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041121200144:image

 えっと、まだプレミア上映なので、あまりここに内容に立ち入った話は書かない方がいいのだろうけど。

 とりあえず、塩田ファン見るべし。あいかわらず映画技術/映画文法としての卓越した技量を、たっぷり味わう事が出来る。ハッとするシーンがあれこれと。とにかく、編集と撮影の絶妙なコンビネーション、とでも言えばよいのか。シーンのカットアップの中から、映像の力だけでその状況を表出してしまう力強さ。そんな映画的魅力にあふれた132分。

 カルト教団に属していた少年が、援交少女と一緒に、その妹を取り戻す旅に出る。要するにそんな話なのだが、映画技術の事はさておいて、映画本来が語りかけてくる主題は、なんて言うか、『黄泉がえり』みたいな「イイ話」的外見。しかしながら、その外見に隠れて、いかにも塩田監督らしい底意地の悪いいやらしさは、そのディティールの中の随所に隠されているようだ。

 またもやこの作品はファンタジーであり、「人の道」から外れてしまった少年少女が、いかにして「人」である事を取り戻すかという冒険物語でもあろうか。そして、外の世界自体がすでに道を見失い、彷徨い漂う世界でしかない。だからこの二人を追って止めようとする外界も存在しない。で、二人はどこへ行くのか? と言ったあたりの、予告編めいた口上でここはストップして置きましょうか。

 主人公の少年を演じる石田法嗣は、どこか『誰も知らない』の柳楽優弥を思わせる雰囲気がある、と思ったら、この作品の撮影監督は『誰も知らない』の山崎裕だった。そう見ると大人の眼の届かない所にいる子供たち、というあたりは、あの作品と共通しているわけか。

 少女役の谷村美月って、わたしの知り合いの某美術家(過激なパフォーマンスを繰り広げる人なのだ)にそっくりなもんで、その行く末が心配になってきたりするんだけれど、前作『害虫』の宮崎あおいをそのままひっくり返してアグレッシヴにしたような、塩田監督としてはちょっと実験的なキャラだったのではないだろうか。

 この二人を取り囲む大人たちが、サーヴィス精神旺盛な配役になっていて、りょうとつぐみがペアで出て来てとんでもない展開を見せたり(ちょっと二人の登場シーンは爆笑モノ)、最後の締めでは品川徹が二人の子供と対峙して、圧倒的な存在感を見せてくれる。

 音楽は大友良英。音楽と言うよりも、地響きのようなドラム(パーカッション)の音で全編を統一している。ラストにある曲が流れるけれど、これを唄っているのは浜田真里子と佳村萌であった。

 ちゃんとロードショー公開されたら、又見に行きます。

 

 

*1:タイニー・ティムは日本で意外な人気があるようで、この「GOD BLESS TINY TIM」は5〜6年前に日本で「世界初」のCD化されている。もちろん買いましたよ。

*2:一瞬、「北陽」の片方(虻川美穂子)に見えたりする、などと言ってはいけないが、当時の「ヴァンプ」的な身振りを交えたパフォーマンスは楽しかった。

*3:どこが「Boys」なんだ?とのツッコミはいれたくはなる。しかし、ギターはイタリア人、ヴァイオリンはドイツ人、アコーディオンはイギリス人って、多彩すぎる。

*4:わたしはまだ見ていないけれど、『ブロンドと柩の謎』という映画の音楽も担当している。

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■ 2004-11-18(Thu)

[] Brian Wilson Presents "SMiLE"  Brian Wilson Presents "SMiLE"を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041119120727:image

 この金曜日に発売されるRolling Stone誌では、「500 Greatest Songs All Time」という特集が組まれているらしくて、その一部はすでに報道されている。何でも歌手や評論家たちにそれぞれ50曲選んでもらったものの集計結果で、選んだ人の中にはBrian Wilson、Joni Mitchell、Elvis Costello、K.D. Lang、Art Garfunkel、Berry Gordy、Ozzy Osbourne、Bob Dylanの息子のJakobなどの名前が見えるらしい。そのトップ20は以下の通り。(11月21日付記:全500曲のリストは現在ここで見ることが出来る。)

 1. Bob Dylan: Like a Rolling Stone
 2. The Rolling Stones: (I Can't Get No) Satisfaction
 3. John Lennon: Imagine
 4. Marvin Gaye: What's Going On
 5. Aretha Franklin: Respect
 6. The Beach Boys: Good Vibrations
 7. Chuck Berry: Johnny B Goode
 8. The Beatles: Hey Jude
 9. Nirvana: Smells Like Teen Spirit
10. Ray Charles: What'd I Say
11. The Who: My Generation
12. Sam Cooke: A Change is Gonna Come
13. The Beatles: Yesterday
14. Bob Dylan: Blowin' in the Wind
15. The Clash: London Calling
16. The Beatles: I Want to Hold Your Hand
17. The Jimi Hendrix Experience: Purple Haze
18. Chuck Berry: Maybellene
19. Elvis Presley: Hound Dog
20. The Beatles: Let It Be

 ラジオなどでも、あまりに60年代に片寄りすぎではないか、などと言われていたけれど、「Song」と言う事で皆の合意が得られるのがどうしてもこの時代の音楽になってしまうのは、それなりの理由があるだろう。70年代以降はアルバム単位にセールスの比重が置かれる事になるし、音楽ジャンルもあまりに多様化され、「ポピュラー・ミュージック」とひとまとめに呼んでしまうにはあまりに広範囲になってしまう。ヒット・チャートが額面通り流通していた時代は、やはり60年代で終っているのかも知れない。

 さて、今日はThe Beach Boys、いや、Brian Wilsonの話。彼らの最高傑作シングルと言われる「Good Vibrations」は、この「ベスト500」でも堂々6位に入っている。Beatlesより上。テルミンなど多彩な楽器を導入し、Brian Wilsonがスタジオに隠りっきりで造った凝りに懲りまくった編曲の成果は発売当時もめちゃ話題になり、当時のロック音楽の革新に拍車をかけたわけだけれど、この「Good Vibrations」の次にリリースされた「Heroes And Villains(英雄と悪漢)」は、前作以上に(当時としては)異様なまでの製作時間を費やした末にリリースされたのだけれども、トップの座はおろか、ベストテンにも達しないままあっけなくチャートから滑り落ちて行った。つまり、このあたりからBrian Wilsonの精神の崩落が始まったわけだと記憶しているけれど、この時に録音作業の進行していた、「Pet Sounds」に続くアルバム「Smile」は結局お蔵入りになってしまったのは周知の通り、だと思う。

 ただ、当時のわたしの事を言えば、このあたりの時代にリアル厨房であり、イギリスの新しいバンドや、The Standells、Shadows of Knightなんていうマニアックなガレージ・パンクに夢中になっていたわたしには、髪も短くって、ロックの時代から一歩遅れたスクエアなイメージのビーチ・ボーイズには全然食指が伸びなかった。シングル盤を買った事もなかったし、アルバムも、それから20年も経った頃になってようやっと「Pet Sounds」を買っただけ。ま、その頃に出版されていた『ビーチ・ボーイズ・リアル・ストーリー』とかいうドキュメントは読んだ事があり、Brian Wilsonと父との確執、Brianの精神の衰弱、Brianリタイア後のバンドの迷走ぶりなどは、いかにもアメリカ的と言うか、それなりに驚きながら読み終えた記憶がある。そんな所から、後追いで「もしも『Smile』が完成していたら」という興味は抱いていた。

 10年ぐらい前から、そのBrian Wilsonが、担当の(うさんくさい)精神医の助けなどをを借りながら、精神的な立ち直りを見せながら新しいアルバムをリリースし始めていた事はもちろん知っている。って、もっと前だっけ?

 で、この夏に、ついにあの「Smile」が、「SMiLE」として(最初ッからこういうタイトルだったのかな?)37年ぶりに再録音されて、Brianのソロ作品としてリリースされるのだと聞いた。ただ、この時期にはブートレグで「完全版」みたいなのも出てたし、ま、そんなニュースはいつも「Smile」周辺には飛び交っていたわけだし、特に思い入れがあるわけでもないし、そんなに期待もしていなかった。

 それが、いざリリースされてみると、聴こえて来るのは絶賛の嵐。って、あれだけ「リリースされていればロックの歴史は変わっていただろう」などと言われたアルバムに対して、いくら本家本元が製作し直したとは言え、37年の時を経て「絶賛」されるとは、ちょっと信じられなかった。ま、わたしにとっては、60年代のバンドが37年の時を経て再結成されたのよ、ぐらいの受け止め方で、そんな現在形としてアクチュアルな音が出て来るわけでもないだろうと思っていたわけだ。

 そんなに絶賛するのなら、どれ、聴いてみようと、先日これを買ってみた。あ、レーベルが「Nonesuch」なんだ。このレーベルはわたしなどには古楽、民族音楽専門のレーベルと言う印象が強いのだけれど、近年はクロノス・カルテットあたりからちょっとアヴァンな音造りの成果を聴かせてくれるようになり、その後も、エミルー・ハリス、ローリー・アンダーソン、デヴィッド・バーン、ジョニ・ミッチェルとかのヴェテラン・アーティストからの新しい息吹を感じさせるようなアルバムをリリースし続けていることで、わたしの記憶に残っていた。そういう意味ではブライアン・ウィルソンにとっても最上の環境を整えてくれるレーベルだったのではないだろうかと想像する。

 どうやら、このアルバムの製作の前に、ライヴコンサートとしての「SMiLE」の成功、というファクターがあったようだけれども、その事もこのアルバム造りにおいてスタッフに自信を与えていた事だろう。アルバムのプロデュースとアレンジそしてもちろん作曲もすべてブライアン・ウィルソン。歌詞はヴァン・ダイク・パークス。参加ミュージシャンはわたしの知らない人ばかりだ。

 ‥‥てな前置きで、実際に聴き始める。‥‥んん? あっ、あぁぁぁぁ! 奇跡だ! 傑作!

 わたしにはこの「SMiLE」という作品への予備知識がほとんどないので、そのあたりに詳しい方から読まれて「何いい加減な事を書いているんだ」とお叱りを受けるかもしれないけれど、とりあえず、60年代から音楽を聴き続けている人間として。

 このアルバムは三部構成になっていて、一部のメインが「Heroes And Villains」、二部が「Surf's Up」、全体の締めが「Good Vibrations」で、という風に構成されているのだろう。とにかく、導入部から「Heroes And Villains」へと引き継がれていく部分で、ゾワッと鳥肌が立つ。その「Heroes And Villains」のテーマが次の曲でも反響し、ヴォードヴィル的な音風景に展開して行く第一部が、わたしは一番好きだ。ヴォーカルの質感はビーチ・ボーイズではないし、インストゥルメントも既成のロック音楽からの距離が大きい。おそらくはそのコンセプト自体は37年前から変化しているわけではないだろうけれど、ヴォイス・パーカッションとも受け取れるようなバック・コーラスの響きなどからは、ビョークの新作「Medulla」にも通じるような、ポストロック的でオーガニックな音世界まで感じ取ってしまう。つまり、60年代的なコンセプト・アルバム志向が、現在形でのポストロック時代の音と通底し合っている。新鮮とか何とか言うのではなくて、37年という歳月に架けられた「音の橋」として、わたしはこれは「奇跡」の音だと思うのだ。

 その一部が終わり、二部になってもやはり素晴らしい音世界。こちらでは音が徐々にこの二部を締める「Surf's Up」*1へと収縮されて行く。そして三部では、あらゆる音のヴァリエーションがこのアルバムのコンセプトを逸脱することなく色鮮やかに展開され、「Good Vibrations」へとなだれこむ。何度でも繰り返し聴きたくなってしまう。

 ここで聴かれるヴォードヴィル的な音世界を含めて、聴いているうちに、キンクスの(というか、レイ・ディヴィスの)「The Village Green Preservation Society」を思い浮かべたりしてしまった。ひょっとしたらこの両者、とっても近い精神的位置にいるのかもしれない。伝わってくるメッセージにも質感として似通ったものがあるような気がするのだが‥‥。

To all the fans who have waited all these years for me to finish Smile. I dedicate this to you... (Brian Wilson)

 すみません。正直言ってわたしはずっと待っていたわけでもなかった人間ですけれど、すばらしい贈り物でした。Thank You!
 (この文章、ちょっと言葉が足りないような気もするので、後日手を加えるかもしれません。)

 

 

*1:実はわたしはこの曲は初めて聴くのだけれど、このアルバムの支柱のひとつにふさわしい名曲なんですね。

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■ 2004-11-17(Wed)

[] アメリカ合衆国の人が皆「#F*%K!$」なわけではない。  アメリカ合衆国の人が皆「#F*%K!$」なわけではない。を含むブックマーク

 なんだか最近書くことが微妙に過去から逸脱して来ていますけれど、ちょっと心温まるサイトを見つけたので、紹介いたします。(innernetblog 心網付録さんのブログから)



http://sorryeverybody.com/
(ごめんなさいみなさん)

f:id:crosstalk:20041117193452:image

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 アメリカ合衆国の人たちが、世界に向かって「ごめんなさい」している画像がこ〜んなにあります(パンダは投票権はないと思うけど)。全部拝見させていただきましょう。そして、わたしたちの微妙な立場にも心はせてみましょうか。どうか、これが「シャレになんねーよ」なんてことになりませんように。世界。

※付記:100ぐらいまでずっと見て来たら、なんだか無性に泣けて来ちゃいました。なぜなんだろ?

 

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■ 2004-11-16(Tue)

[] Blog上の著作権問題  Blog上の著作権問題を含むブックマーク

 この「はてなダイアリー」以上に、Livedoor Blogが著作権の帰属改定をめぐって大騒ぎになっているみたい。やっぱLivedoorにしなくって正解だったか。

 偶然、すべてのブログサービスにおける著作権規約を全チェックしたすばらしいページを見つけた。

 わたしはもともとNifty野郎だから、もうココログに引っ越しちゃおうかな。だいぶ前からidは確保してあるんだけど。

 そうそう、ちょっと前にも、私が密かに愛読させていただいているHugo Strikes Back!というサイトで、突然何の通告もなくコンテンツの一部がアクセス不能にされてしまった事もあったようだ(詳細はそこの11月10日の日記に書かれている)。これをやらかしたのはYahooらしい。こういう事をされるのが一番いや。

 ‥‥あ、なんだかトラックバックがうまくいかない。Hugo-sbさん、勝手にリンクさせていただきました。すみません。

 

 

bambi-60sbambi-60s 2004/11/16 22:00 すみません。私も個人的な日記でワニ狩り連絡帳さんの日記、リンクさせて頂いちゃいました・・・(→http://wildberry.candybox.to/bambi-60s/tackynote/tackynote.cgi)。すみません。ご報告まで・・・。m(_ _)m

crosstalkcrosstalk 2004/11/16 23:19 あ、いえいえ、わたしの自体が他からのリンクですし、この件はもうブロガー全員読むべし!みたいな問題ですから。
やはり考えたけど、ココログはデザインあんまりいじれないようだし、よっぽどの事がなければしばらくはここで書きつづけるつもりですよ。

crosstalkcrosstalk 2004/11/17 11:02 追記。「ココログ」は、客寄せのために(?)有名人に金払ってまでブログを書かせたりする(そうでしょ?)姿勢が好きになれない。

bambi-60sbambi-60s 2004/11/17 17:06 ココログ>そうなんですかー。全然知りませんでした。。。はてなに参加してる有名人さんは自発的なのかな?

crosstalkcrosstalk 2004/11/17 19:06 室井佑月ははっきりと「お金をもらって書いている」と、自分のココログに書いてますね。あそこのトップページに出てる人は皆そうでしょう。サービス精神にあふれてるし。さてな、「はてな」は、お金を払う余裕は無いような‥‥。で、有名人って、どなたかいらっしゃいましたっけ?(あ、こういう書き方は失礼か)‥‥吉田アミさんとか???

bambi-60sbambi-60s 2004/11/18 09:35 ココログ>実は今までTOPページも見た事なかったんです…で、今見ましたが、なるほど「お金をもらって」>頷けるメンツですね。が、枡野浩一さん、いらっしゃいますね(この方、はてなユーザーです) お金は…たぶん・・・もらって・・・ないでしょうね(^^;)

crosstalkcrosstalk 2004/11/18 12:51 どういう人が有名人なのかよくわかりませんけれど、「有名人Blog集」などというのが検索に引っかかってきて、これ見るとlivedoorの方が営業率高そうですね。さすがに「はてな」は少ない。東浩紀とかが私でも知っている人かな。あ、枡野浩一さんって知りませんでした。歌人なんですか。

bambi-60sbambi-60s 2004/11/19 01:47 livedoorの方が営業率高そう>・・・それは大いにありそうですね。枡野浩一さんは、最近知名度が上がってきたような気がします・・・「スキンヘッド短歌人」としてサブカル層の支持を受けている(?)模様・・・(はてなid:mass-no)。
関係ないけど、上の「ごめんなさい」サイト、面白いですね。私もいろいろ眺めちゃいました。

crosstalkcrosstalk 2004/11/19 12:16 「ごめんなさい」サイト、どんどん増殖を続けています。「I’m scared」って書いてる人も多くいて、リアルな実感なんだろうなと思います。日本にいてもコワいです。

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■ 2004-11-15(Mon)

[] ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 『SHOWCASE』 at こどもの城 B1 フリーホール  ダンスビエンナーレ TOKYO 2004 『SHOWCASE』 at こどもの城 B1 フリーホールを含むブックマーク

 まず、こういう「場所がなかったので町内の空き地でやってみました」みたいなディレクションは、二度とやらないで欲しい。「フリーホール」と呼べば聞こえが良いけれど、ただの空きスペースじゃん。観客も出演者も共にないがしろにした企画。特に観客側から言えば、おそらくは三列目以降の座席からはダンサーの足元が見えない。というか、ダンサーが横たわったりしてしまったら、何をやっているのか全然わからんのよ。観客の暴動にならなかったのは主催者にとってラッキーだったけれど、皆記憶には残してますから。

 で、そんなスキマから垣間見た舞台。韓国からの参加を含む5組のダンサーによる、10分から30分の作品のショーケース。わたしは最初の岡本真理子の作品がやはりとても気に入ったのだけれど、ある意味彼女の作品はダンス作品から逸脱しているわけだから、ダンス目当ての観客には受けが悪かったのではないだろうか。とすると、この日は全くヒットするものがなかった、何一つとしてなかった、と感じた観客はきっと大勢いたのではないだろうか。わたしとて、岡本真理子の作品以外では、木野彩子がかろうじて、身体から生まれるオーガニックなリズムを表象化する端緒を見せてくれた位のものだった*1

 だから岡本真理子の作品についてしか書かない。彼女の作品は美術作家である松本佐織とのコラボレーションとして捉えるべきであり、それは一種のインスタレーションとして観客に提示されているものだと思う。今回の新作のタイトルは『スプートニクギルー』。配付されたパンフに、おそらくは彼女によって書かれたであろう短文が掲載されていたので、ここに無断で再録しちゃいます。

闇に小さく光る、夜中のエアコン運転ランプをみあげる。
窓から雪みる犬。
いつもひとつきりの、そのカタチのゆくすえを。
シーツに広がる雪原、ひとがたキエル。
         *
トンネルの中、走るからだに目隠しして
みえない百目で走ります。

 ま、この「詩」の方が今回の作品より出来が良い、などと言ってしまうとすると実も蓋もないのだけれど、ここで描かれた世界が舞台上に不思議な形で形象化されていたのは確かな事。

 わたしなどは、「スプートニク」という名前を聞くと、60年代に活躍したフィンランドのエレキ・バンド*2「スプートニクス」を思い出さずにはいられない。彼らには『霧のカレリア』とか『空の終列車』など、日本でも相当にヒットした曲があって、そのちょっと哀愁を帯びたメロディは今でもフッと思い出される時があって、実は今現在のわたしの「次に図書館で借りようCDリスト」の上位に、このスプートニクスも入っている。世代的に隔たりがある岡本さんとか松本さんがスプートニクスを聴いているとも想像しにくいのだけれど*3、上に引いた文からはどうしても、夜に部屋で一人でスプートニクスを聴いているような情景が浮かんで来てしまう。ま、その曲はこの場合は『空の終列車』なのだろうか。(このあたりはわたしの勝手な憶測だけれどね。)

 暗転した舞台が明るくなると、舞台下手に50センチ立方ほどの白い箱(冷蔵庫)があり、その上に岡本真理子が座っている。上手にはSLゲージのレールが楕円を描いていて、ハロゲンライトをつけた模型の機関車が周回している。岡本は舞台が暗転を繰り返すたびにミトンを手にしたり、毛皮の帽子をかぶったり*4、茶色のゴム長靴を取り出したりし、ほとんどダンス的な展開は見られない。終盤にそれなりの身体を見せはするものの、一般に考えられる「ダンス」的身体からの乖離はかなりのものがある。

 乱暴に言ってこのような舞台なのだけれど、彼女の作品としては今までにもまして一般のダンスからの距離は大きく、一つの意味に回収され得ない複合的なヴィジュアルを現出させた空間/時間は、名付けようのない新しい表現と呼んでしまっても良いような端緒を垣間見せてくれた。まだまだ未整理な部分はあると思うけれど*5、ここを新たな足掛かりにしてこの作品をより発展させてほしいと期待する。まだあまりこの路線を支持するような観客も少ないだろうけれども、恐れずに、出来れば次は単独公演を期待したい。

 


 

*1:木野彩子はこのあと文化庁の海外研修でしばらくヨーロッパに行ってしまうわけだけど、あちらでどのように成長して戻って来るかちょっと楽しみ。

*2:「エレキ・バンド」というのはいかにも古めかしい言い方だけど、他に適切な言葉が浮かばない。

*3:フィンランドの映画作家、アキ・カウリスマキの映画で使われた事があるかも知れない。カウリスマキのプロダクションの名前が「スプートニク・スタジオ」だと言う事は周知の通り。

*4:この時には『銀河鉄道999』かよ!などと思ってしまったけれど。

*5:ゴムの長靴を履いたり脱いだりする場面とかでのゴムの音などが妙に生々しく響き、それはそれで面白いのだけれども、本来の静的なテーマがかすんでしまった瞬間など。

mmmmmmmmmmmmmmmm 2004/11/16 00:47 うーん先が思いやられるなあビエンナーレ……「記憶に残す」といえば前回のラインナップも相当なもので、ああこれは記憶しておかねばと思ったものでした。ちなみに韓国の人のは、いわゆる韓国の人のパターンでしたか?

crosstalkcrosstalk 2004/11/16 12:16 ‥‥わたしなんか前回は通し券買っちゃいましたからね。で、最後には「時間の無駄」と判断してパスしたし。記憶してますよ。わたしは今回はこれでおしまい。この日は開演前に偉い人が挨拶されて、ゆくゆくは「東京国際映画祭」みたいに、との抱負を述べられておりました。次回は青山劇場前に赤いカーペットが敷かれるのだと思います。
韓国の人ですかぁ? えっとね、自己表現に目覚めてしまった体操選手の床運動みたいでした。気に入った人もいると思いますよ。
他のプログラムのレポート、お待ちしております。

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■ 2004-11-14(Sun)

[] 劇団、本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』作・演出:本谷有希子 at 青山円形劇場  劇団、本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』作・演出:本谷有希子 at 青山円形劇場を含むブックマーク

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 久しぶりにこういうタイプの演劇。ま、どういうタイプなのか書いていても良くわからないけれど、もうちと「大人計画」みたいなのかと思ってた。思ったよりストレート。というか、ディティールまでしっかりとつくりこまれた完成度の高さにはちょっと驚いてしまった。

 交通事故で死亡した父母の葬儀に、4年前に東京に出たままの長女が戻ってくる。その長女をめぐる次女と長男それぞれのおぞましい過去がまた封印を解かれ、残酷な破滅へ向かって歯車が廻りはじめる。この2時間の舞台を支配するのは、作者によって投影されたどこまでも底意地の悪い残酷さ、と言ってしまってもいいのではないかと思うけれど、どうも、その底意地の悪さが、ここでの長女と次女が共に作者の分身であり、作者自身に向けられた自虐とも取れるようでもあり、現在の日本の表現を志す人々への底意地悪さともとれるのが面白い。そういう意味ではメディア社会に向けた痛烈な視線さえ読み取れ、この作品が小説化されているのであればそちらもぜひ読んでみたくなった。舞台という性格上、長女と長男との関係の描写は制限を伴って、これは本来もっとドロドロに描いた方が説得力あるだろうけれども致し方ない。誰かこれを映画化しないものか?

 4年という時間を置いて発酵され続けていたかのような家族間の歪んだ愛憎が、長女の帰郷でいちどにぶちまけられる舞台は強烈だが、その中で嫁の待子ののほほんとした存在、それから次女に付きまとう青年のすっとぼけたビザール感覚が舞台空間を拡げ、あくまでも舞台表現としての奥行きを与える事に成功していたと思う。ま、現在形の物語だとすると、「文通」っていうのはどうよ?って問題もあるけれど。
 (11月13日観劇)

 

 

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■ 2004-11-12(Fri)

[] 第11回BeSeTo演劇祭 Ort-d.d 『こゝろ』 原作:夏目漱石 演出:倉迫康史 at 学習院女子大学 やわらぎホール  第11回BeSeTo演劇祭 Ort-d.d 『こゝろ』 原作:夏目漱石 演出:倉迫康史 at 学習院女子大学 やわらぎホールを含むブックマーク

 早稲田界隈でこの23日まで開催される「BeSeTo演劇祭*1」、入場料が野口英世一枚に統一されている*2ので、いくつか見てみる事にしている。そのしょっぱなが、この夏に上野国立博物館の表慶館で印象的な舞台を見せてくれた「Ort-d.d」。で、漱石の『こゝろ』をやるというので、ちょっと楽しみにしていた。

 会場は、おそらくは出来て間もないようなきれいなホール。とにかく、女子大で「やわらぎ」などというネーミングだから、こちらもフニャフニャになってしまう。ただ、ここで劇団側の客入れでちょっとクレームつけておきたい一件がある。

 大学の門を入った所にテント造りの受付があり、ここで皆入場料を払い、整理券を受け取って会場へ案内されたのだけれども、たいていの客は先に予約してあるので、「予約」、「当日」と分けられた受付の前でほとんどの人は「予約」の方に並んでいる。「予約」の方は、スタッフが一人で対応していて、予約した人の名前をいちいちプリントされた名簿と照合しているから、なかなか進まない。その間にも劇団のスタッフは「当日券の方はこちらにお進み下さい」と案内し、当日券の人たちは実にスムースに受付を済ませ、会場へ向かう。「へ?」って感じなんだけれど、整理券の色分けがされているようなので、ま、当日券の客は予約の人の後に入場するのだろうと思っていた。ところが、入場は当日券も予約券も同時に、番号順の入場だった。「は?」って感じ。わたしの脇で当日券らしい客たちが「何かの手違いだよ、ハハハ」と、はしゃいでいたけれど、先に予約を入れてあったのに、雨の中長く並ばされ、当日券を求めに来た客に追い抜かれて入場するのが楽しいわけはない。どうしてこのような事になってしまうのか。この劇団はいつもこういうシステムなのか。予約するのは全く無駄な行為というか、予約などすると並ばされて入場が後回しにされてしまうという事態を、劇団はどう考えているのだろう。この日は劇場のキャパに対して観客数が少なかったから、露骨に不快感を現わす人もいなかったようだけれど、みな内心不快だったのではないだろうか。

 などと言って、気を取り直して観劇。舞台美術は、表慶館の『四谷怪談』の時と同じように、古道具類を積み重ねたような独特のアンティーク感覚。吊るされた古い笠電球やランプの暖かい光が印象的。客入れの段階から和服の女性が舞台に座り、所在な気に、時々姿勢を変えたり、立ち上がったりしている。この状態が開演時間を過ぎても10分以上は続くのだけれども、これは舞台空間の中に観客をゆんわりと引き入れる方策として効果的だと言えるし、ここでの女優(市川梢)の表情、動作のゆるさがとてもいい空間を造り出していた。

 左右後方のドアが開く気配がし、左右の観客席の間の通路を二人の男が進んで来て、舞台に足をかけて上がろうとする所で一度客電も落とされて暗転。ここから幕開き。

 ま、『こゝろ』を舞台化するのならここだろうとの予想通り、原作の「下」、「先生と遺書」の部分の舞台化。ただし、わたしは例によって原作の事はとうの昔に忘れてしまっている。そんな中でおぼろげに思い出す記憶を頼りに書けば、原作にあった「K」と「わたし」はそのままだけれど、原作の「母」と「娘」は姉妹になっている。で、ずっと舞台にいた女性は、ここでは「姉」になる。話はいきなり「K」の自殺直後の情況から始まる。姉から受け取った雑巾で「わたし」が壁の血を拭き取る。いや、壁は想定されたものに過ぎないから、拭き取る仕種をする。姉がバケツで絞る雑巾からの水の雫の音が、冷たく美しく場内に響く。ここから物語は過去にさかのぼって流れ出すのだけれども。

 ここでの演出法は、テキストを分解して、物語の流れとは別の「言葉自体」を独立して表象させる、と言えばいいのだろうか。『四谷怪談』の時の、唄歌うような節回しを伴った発声という方法ではなく、表面に語られる言葉の背後にある意味を際立たせようとしているかに見える。それはそれで興味深い方法だとは思うのだけれど、どうも見ていて、その方法が「解説」、「説明」としてしか機能していないのではないか、という印象。それが、この『こゝろ』という、いわば誰でもそのストーリーを知っているような物語に、新しい光をあてるような演出だとは思えなかった。つまり、見ていて先が読めてしまうという問題を超えた興味を抱く事が出来ず、ついつい、うとうとしそうになってしまった。

 前回の『四谷怪談』ではあそこまで物語を解体再構築して興味深い戯曲に仕上げていたというのに、この『こゝろ』では、そのちょっとした趣味の良さを見せるに留まってしまっていたという事は、これは趣味が悪いという事だ。例えば原作からの改変、母娘を姉妹にした点において、唐突にその見えない父による「近親相姦」というテーマが挿まれたりするのだけれど、そういう漱石らしくない物語を作るのではなく、もっと徹底して『こゝろ』自体を読み解いて発展させて欲しかったのだ。例えば『四谷怪談』において、原作の時代を超えてその構造の中に権力構造を見据え、そこから天皇制にターゲットを向けたように。実は、わたしはその『四谷怪談』の印象があったものだから、『こゝろ』であれば、乃木大将の殉死〜「わたし」の自殺といったあたりから、明治〜大正期の知識人の意識構造とかを舞台にあげる事までも密かに期待していたのだけれど。まぁ、これはわたしの勝手な思い込みなのだから、どうでもいい事だけれど。

 ただ、そのスタイリッシュな演出姿勢は、わたしは気に入っているので、又次の作品に期待したいと思う。予約するかどうかはわからないけれどもね。
(11月11日観劇)

 

 

*1:BeSeToというのは、北京、ソウル、東京の頭文字。「中韓日演劇祭」という感じ。

*2:一部無料公演もある。

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■ 2004-11-10(Wed)

[] 新札を斜めから見る  新札を斜めから見るを含むブックマーク

 ついに、初めて新しい千円札を眼にした。なにこれ。造幣局腕落ちたなぁ。あ、今は「造幣局」ではない。「国立印刷局」だわさ。

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 ま、野口英世という人に逢った事はないけれど、上野公園の中にこの人の像がある。それに比べても似てない。というか、この波をうつエングレーヴィングの線が、実にキレが悪い。まず鼻の稜線が際立っていないし、左頬の影の部分が単調、耳なんかごまかしちゃってる。しかも頬の明るい部分が浮いてしまっている。右頬の明るい方も、背景が際だけ急に暗くなっているのはおかしい。というか、全体に下手なデッサンの見本みたいだ。現行の千円札の夏目漱石と見比べれば一目瞭然。夏目漱石が「Aダッシュ」ぐらいの採点だとすると、この野口英世はせいぜい「D」がいいところ。致命的なのは「目」だな。左眼。これ、解剖図の眼の周りの筋肉を描いたのを思い出す。ちょっと気持悪いんだな。なんで又こんなひどいの作っちゃったんだろう。クレーム付けたいな。

 ‥‥さて、お札と言えば、定番のこの儀式。

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 うへぇ。悪人面だな。もっと楽しい顔で笑ってほしいぞ。この口の歪みが実に厭世的だ。怪人二十面相みたいだな。こんなの財布に入れてると、悪人をかくまっているような気分になるよ。どうにかしてほしい。あぁ、五千円札の樋口一葉が心配だ。

 

 

mmmmmmmmmmmmmmmm 2004/11/10 01:32 これぼくも思いました。全体が異様にのっぺりしててマンガみたい(いっそアニメキャラをここに採用しちゃうという過激な方法もありますが。前にフランスの紙幣に「星の王子さま」が出てるの見ました)。透かしの方はもう少しイイですよ。

crosstalkcrosstalk 2004/11/10 01:39 あ、透かし、これ誰よ? ほんとだ。かっこいいですね。って、この千円札、裏側に実はミッキーマウスのシルエットがいっぱい連なっていますよ。顔と耳が同じ大きさだけど。

sukesuke 2004/11/10 23:57 五千円ですけど、一葉なんか貧乏くさいです。財布に入れると景気に影響しそうです。本物はもっといい女だった説もあるんですが、まあ、作品や日記からの印象が作り上げたものかもしれません。

crosstalkcrosstalk 2004/11/11 12:42 野口英世は借金踏み倒しまくり、樋口一葉は質屋通い&不治の病。お札としてど〜なんでしょうね。高橋源一郎の小説で樋口一葉はイケイケでクールな姿で出て来ます。で、森鴎外と‥‥(以下省略)。美人説、ありますね。エミリーって呼ばれてたらしい(エミリー・ブロンテから)けど、エミリー・ブロンテも写真ないからわからんね。けっこう姉御肌だったらしいけど。
ここは是非、次は一万円札を森鴎外にして、一緒に財布の中に入れてあげたいですね。

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■ 2004-11-09(Tue)

[] "What the hell is goin' on ?" その21(一度閉じます)  "What the hell is goin' on ?" その21(一度閉じます)を含むブックマーク

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

 ちょうど一ヶ月ほど経過しましたけれど、観客の立場から今すぐに有効な方法で動ける事が見つかりません。ちょっと調べてみたり聞いてみたり、それなりの手を打ってみたりしてみましたが、これ以上現象面として追求して「さきら」を攻撃する事はあまりに粘着的過ぎます。それよりもここから跳んで、次の景色が見えるような所へ行かなければ、これは精神衛生上よろしくはないでしょう。

 丹野氏他スタッフの多くの方々は今、「026−METAL」の再演に向けて動き出しているようですし、そちらを観客の立場から期待し、応援して行きます。

 昔一度読んだ本ですが、ここにあげた本を又読んでみる事にしました。

 

 

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■ 2004-11-08(Mon)

[] 庭劇団ペニノ第10回公演 野外劇 『黒いOL』 作・演出:タニノクロウ at 西新宿広場(グリーンタワー横)  庭劇団ペニノ第10回公演 野外劇 『黒いOL』 作・演出:タニノクロウ at 西新宿広場(グリーンタワー横)を含むブックマーク

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 会場になった空き地は、新宿副都心の外側、まだ新宿が開発される前の空気を残した、ちょっと懐かしい空間。地図を頼りにしながら歩いていくと、ライトに照らされた、うなぎの寝床のような長いテントが視界に入ってきた。「野外劇」という事だから本当に夜空の下でやるのかと思っていたけれど、形態は普通のテント公演のようで、テントの中の座席の組み方も通常の演劇公演と変わるものではない。ただ、各座席にはそれぞれ双眼鏡が置いてあり、「自由に使ってください」とのアナウンス。手塚夏子登場か!

 あちらこちらで良い評判が聞こえてくるせいか、座席は満杯。桟敷席がかなり前の方までせり出して、黒幕で仕切られた舞台と思われるスペースはどんどん狭くなる。いやいや、でも、テントはあれだけの長さがあったのだから、この黒幕の裏に何かがあるはず。

 左右の机(って、左側はエレピなんだけど)に二人の男が座り、仕事とも実験ともつかない会話を交わす。中央の井戸のような穴を覗き込んだりする。そのうちに黒幕の向こうで無数の明かりが光り、うごめいている。黒幕があくと、そこにまるで地下の坑道のような空間が現れる。奥の方はコンクリートの梁で空間を支えているように見えるが、そのさらに奥は、どうなってんだかよくわからない。地面の真ん中には奥まで続く水路のような水溜りがあり、先ほどまで見えていた明かりは、その水路の両脇に無数に置かれたろうそくの灯。黒い服を着た女性達(7人)がそのろうそくを集めて片付ける。左にはここにもエレピがあり、なぜか鹿の頭の剥製なども。

 って、つい微細に状況を説明したくなってしまうが(十分説明しちゃってる)、薄暗い空間で不思議な行為を遂行する女性達、この異様な空間は、なぜかわたしに石井聰亙の作品を思い出させる。

 ストーリーと呼べるようなものもなく、セリフらしいセリフもほとんどない*1。ただひたすら7人の女性たちが水の中にばしゃばしゃ足を踏み入れながら労働らしきものを繰り広げ*2、二人の男性はその仕事ぶりを監視してるのか*3。女性の中の一人、「片岡恭子(38歳)」だけが、どうも要領が悪いというか、仕事の本質がわかっていないようだ。そんな感じで女性たちは労働を終え、控え室のような所でタバコを吸って、笑い声を響かせて消えて行く。最後に、暗くなった舞台を全裸の女性が一人横切り、その奥へとゆっくりと消えて行く。

 極めて映像的、と言うか、これは映像に記録して編集して、つまり映画作品として製作した方がよっぽど面白いのではないだろうか*4。ま、石井聰亙を思い出した由縁でもあるが、もう一つ、先月見た長大なドキュメンタリー、『鉄西区』の映像も頭によぎってしまった。あの廃墟のような製錬所で労働する人々の姿と、この作品の女性たちの姿がダブる。うん、あっちも全裸の男性が歩き回ったりしてたしな。ただ、そういう事を敢えてライヴとしてやる事で、観客をも包み込む環境を現前させる事、そういう(言い方がわからないが)「体験の場」であったような印象。

 そのような見方をした人間としての意見を言っておけば、まずは音楽。ここでは出演者が実際にエレピを弾いて録音音源に橋渡しをしたりするのだけれど、はっきり言って洒落にならない下手さ加減。で、あの場にあのようなモンクばりのジャズの音が似合っていただろうか。先日の「うずめ劇場」ではないが、このような場にこそ、ちゃんとしたミュージシャンによるインプロのようなライヴ音が似合うのではないか。あの雰囲気なら、大友良英とか、又は杉本拓のような音。そういう音を伴えばもっと劇団の先鋭的な姿勢は際立つような気がするのだが。ギャラ、高くないよ。

 そして、これはもっと個人的な意見だが、もう情況としてバッチリ「非日常の中の日常」的な空気は出ているわけだけど、そこに妙に中途半端に物語的要素はなくてもいいのではないか。つまり、「仕事の飲み込めてない片岡恭子」などと言ったシチュエーションなどなくても、というか、ない方が、このような作品では潔くも簡潔ではあるだろう。あと、衣装で胸を巨大に見せるのとかも意味不明。そういう虫がいるのかな。巨乳虫。脱線。‥‥とにかく、演出においてもっと禁欲的であった方がわたしなどにはインパクトがあると思う。一般客は敬遠するのかな?

 とりあえず、来週には、わたしが望んだように、過去の作品の映像、今回の製作ドキュメンタリーを含む彼らの映像作品が三本、新宿のタイニイアリスで公開される。それを見た上でまた考えてみようか。

 

 

 

*1:先日見た「チェルフィッチュ」の公演に比べたら、セリフ量は一万分の一ぐらいしかないんじゃないかな。

*2:メインのお仕事はストッキングの洗濯なのか?

*3:地下作業員のような男性がもう一人、舞台のず〜っと奥の方に姿を見せたりするが。

*4:そういう意味で、貸し出された双眼鏡から覗いてみた舞台の姿は、「演劇」を見ているという感覚ではなく、「覗きからくり」を覗いて見ているように網膜に映っていた気がする。

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■ 2004-11-07(Sun)

[] 『渡辺のわたし』@斉藤斎藤 斉藤斎藤歌集  『渡辺のわたし』@斉藤斎藤 斉藤斎藤歌集を含むブックマーク

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 なんだか、この「はてなダイアリー」もグラグラと揺れ出した感じ。最初にココに登録した時も、ずいぶん素朴な理念でやってるんだなぁって思ったりしたし、ま、だからこそココでブログ書いてみようかと思ったのも確かなんだけど。あんまりわけわからない事になったら引っ越すけれど、とりあえずはこうして。

 でも、キーワード機能とかを通じて新しい情報を得たり、どんな本でもめったに出会えないような素晴らしい文章に出会えたり、情報源/出合いの場(?)として重宝している。そんな中で、キーワード伝いで、斉藤斎藤という奇態な名前の歌人の事を知った。当人の開設するホームページにもたどり着いてこの人の作品を読み、結局彼の第一歌集をネットから注文してしまった。

このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であわらしなさい

 そう、三十一文字(に限ったわけではないが)で詠まれた歌の集積に対して、それ以上の字数を費やしてあれこれと書くのがずいぶんとヤボな事に思えて、ホント言うと、ここに彼の歌を全部そのまま転載してしまいたい誘惑にかられてしまう。いや、そりゃヤバイよね。ちょっとだけ書きます。

 現代短歌などと言う分野、かつて『○●○記念日』とかが流行して、あぁ、そ〜ゆ〜モンね(おもしろくないや)、みたいな認識程度の持ち合わせしかないのだけれど、ネット上でこの斉藤斎藤氏の歌を読んだ時は、ちょっと興奮してしまった。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

 これは彼の作品の中でも視覚的な要素の強い作品(もしかしたらいちばん有名な彼の歌?)だけれど、何というか、彼の歌には、他者との出合いを奇妙な脱力感とともに描いた作品が多い。というか、出会っているのにその相手は実体を持っていない、又は自分自身に実体がなかったりする。歌集全体を貫く脱力感を伴った不条理感覚はいかにも現代的だ。

泣きやんでしまう前にとハンカチを構えていたら脛を蹴られる

 しかし、その背後にはこういう歌もある。これ、わたし最初わからなかったけれど、『ゴドーを待ちながら』の一場面。こういった、べケットから連なる不条理の系譜の現在形/現代的表現として読まれる価値があると思う。などと思って読んでいると、「父とふたりぐらし」としてまとめられた作品群では、一種私小説的に、作者の家族の年代記がちょっとおぞましいリアルさで描かれたりする。

 あ、彼のいちばん有名な作品は、きっとこれ。

加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから

 ‥‥わたしも又その価値があると思うんですけれど、斉藤さんと競合しないように、上戸彩にしときます。あ、字余り‥‥。

 

 

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■ 2004-11-06(Sat)

[] うずめ劇場・第15回公演 『夜壺』 作:唐十郎 演出:ペーター・ゲスナー at 森下スタジオ  うずめ劇場・第15回公演 『夜壺』 作:唐十郎 演出:ペーター・ゲスナー at 森下スタジオを含むブックマーク

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 9月の北九州テント(と言うか、ドーム)公演は、台風の直撃を受けてエライ事になったらしい。してみると、わたしはこの秋は台風の被害を受けた劇団ばかり見ているのではないか。いや、丹野賢一は「台風の被害」ではないよ。

 それに懲りた、という訳でもないようだけれど、この東京での公演は「森下スタジオ」で。ふむ、では、テント(ドーム)はやらないんだな、と思いながら会場内に足を運ぶと、なんと! 森下スタジオのスペースいっぱいにドームが作られてるではないか。よ〜やるわ。しかもこのドーム、「野戦の月」が使っているヤツではないか。出演者に伊牟田耕児の顔が見えるし、音楽担当は坂本弘道。このあたりはどう見ても「野戦の月」カラー満載。というか、演目が唐十郎と来ると、「うずめ劇場」的アングラの解釈、と言う事なのだろうか。どうもこのあたりは、一昨年のホフマン原作の『黄金の壺』上演あたりからの連鎖なのかも知れない。

 さて、当日観客に配付されたパンフがまた豪華なもので、10ページそこそことは言え、情報量は豊富。さらに、B6判位の大きさの「夜壺ノート」という20ページを超える小冊子まで付いてくる。もう、演劇見てこんなにいろいろもらったのって、初めてかも。さらにさらに途中休憩の時間にはドリンクのサービスまである。*1さすが北九州は太っ腹である。

 前置きが長くなってしまったけれど、肝腎の舞台。先週久しぶりに唐十郎の舞台を見ていたからよけい思うのだけれど、ほとんど「模倣」と言ってしまえるぐらいまでに唐十郎の演出を踏襲している。なのに、なぜか見ているこちらにイメージが喚起されて来ない。ついぼやっとしてしまって、わたしは前半でちょっとストーリーを見失ってしまった。

 一つには、舞台美術がちょっと寒い。これは「舞台転換をすばやく」との配慮もあるのかも知れないが、その割にもたついていたなぁ。って、舞台転換、多めに見ても3回だけ、そのうち1回も休憩中なんだから。ま、わたしもアングラ系の劇団*2はあれこれ見ているけれど、どこも予算などないだろうに、「舞台美術命!」とばかりに美術に力を入れているし*3、転換の素早さもこれまた「命」であることは言うまでもない。とにかく、少なくとも「主役」とも言えるマネキン人形だけでも、もう少し考えるべきだったのではないだろうか。

 あとは、結局は形には現われる事のないモティベーションかなぁ。これは後半になって「野戦の月」からの客演である伊牟田耕児が登場した瞬間に、その差が歴然と出てしまう。ま、伊牟田耕児はもともと「怪人」ではあるのだけれど、いっぺんに場をさらってしまう。見ていて、いったいこの力は何だろうと考えていたけれど、おそらくそれは「呪詛」に近い「悪意」なのではないだろうか。そう、「唐組」にせよ、「野戦の月」にせよ、そこには「河原乞食」としてさすらう身体から「悪意」(とでもいったもの)が放出される事にこそ存在原理を置いているのではないだろうか。ここで伊牟田耕児が素晴らしかったのは、演出としては意図されない「悪意」を、演劇の中での「演技」自体に向けていた事ではないだろうか。演じる事への悪意。強烈だった。

 ラスト近くに演出家のペーター・ゲスナーも舞台に上がり、奇怪な役で観客サーヴィスを果たし、それはそれで良いのだけれど、このペーター・ゲスナーという人は、いかにも「いい人」なのではないだろうか、と思わずにいられない。あるいは、「協賛」、「助成」まみれの姿からは見つけられないものがあると。彼がこれからも演劇の「力」をこのような形で求めるのなら、何らかの「悪意」こそを身にまとい、武装する事が必要なのではないだろうか。

 終演後、それまでの抑圧から解放されたかのように激しい演奏を繰り広げたミュージシャンたちの音を聴きながらも、そんな事を考えていた。きっと来週は坂本さんにお会いするから、どんなだったか聞いてみよう。

(11月5日観劇)

 

 

[] シュルレアリスム。  シュルレアリスム。を含むブックマーク

 (id:ifiwereabell)さんが、「シュルレアリスムとその周辺」と題されて、興味深い論考を連続して繰り広げられています。とても面白い論考です。

 見知らぬ方に対して失礼かなと思ったけれど、ついついコメントをつけさせていただきました。このあたりはつい、生意気だった高校生の頃の思い出が甦って来るのですね。 

(※追記:11月20日現在、上記のブログは「プライヴェートモード」に設定されています。どうしたんだろう。アラシにでも遭われたのか。)

 

 

 

*1:ま、北九州公演では「維新派」みたいにドームの周りに屋台が出たらしいけれど。

*2:ここで「何がアングラか」などという突っ込みはしないでね。

*3:これを見るのがアングラ劇の楽しみだったりもする。

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■ 2004-11-05(Fri)

[] アンダーワールド(上・下)ドン・デリーロ:著 上岡伸雄・高吉一郎:訳  アンダーワールド(上・下)ドン・デリーロ:著 上岡伸雄・高吉一郎:訳を含むブックマーク

   アンダーワールド〈上〉   アンダーワールド〈下〉

 とにかくこの5週間、読書と言えばこの本しか読んでいない。上下巻合わせて1200ページ。正直言うと、ものすごく時間を無駄にした感じがする。わたしの時間を返してくれと。

 ‥‥フィジカルすぎる。膨大な表象の集積。その中でアナロジーとして核爆弾と野球ボールがつながったり、核廃棄物とそれこそゴミが重なって来たりする。小説は1951年の野球のワールドシリーズ、伝説となった一戦から始まり、90年代までの40年を超える時代を行き来しながら、トルーマン・カポーティの「黒と白の舞踏会」、ニューヨークの大停電、レニー・ブルースの舞台描写などを挿みつつ、実在の人物を含む様々な登場人物が入り乱れる。FBI長官、元核兵器開発者、現代アートの作家、映画プロデューサー、連続殺人犯、グラフィティ・アーティストなどが、アメリカ中(いや、ロシアまで出てくるけれど)のあちこちを舞台に交代交代に登場する。

 図書館から借りて読んでいたので、上巻を返却して下巻に移ると、はたしてそこで出て来る人物が上巻でも出て来た人物だったのか、ここで始めて登場する人物なのか、解らなくなってしまう。正直言うと、下巻の途中で読み続ける気力もなかば失せてしまった。この膨大な書物の背後に戦後アメリカの「大きな物語」が姿を隠している事は了解出来るのだけれども、ここまでのディテールが必要だっただろうか。しかも作者の姿勢はどこまでもニュートラルと言うか、ディテールを表象として並べて行くだけのようにしか読めない。ここからは、エリクソンやパワーズ、ピンチョンなどを読む時に感じた知的興奮など、ほとんど得られなかったのだ。だから、ラスト数ページの突然のサイバー空間(?)の現出なども、こちらには何の説得力も持ち得ない。というか、笑いたくなってしまった。しかも最後を締めくくる言葉は「平和(peace)」。素朴。まるでプリミティヴ・アートの世界だ。

 どうもわたしには、このドン・デリーロという作家は、キーボードを前にして1日16時間とか単語を打ち込み続ける事にとりつかれた/現象を文章化せずにいられない、偏執的な「文学病人」ではないかとまで思う。というか、これは三文小説の世界だ。

 前に読んだ『ボディ・アーティスト』は、やはり、ドン・デリーロなりの衒いに過ぎなかったと言う事にしよう。思わせぶりなだけで意味などない。ついでに言えば、この上岡伸雄と言う翻訳者も、訳文(特に『ボディアーティスト』の訳文)やあとがきを読んだ限りでは、信頼するに足りない。

 生涯のワーストに近い読書体験だった。

 

 

 

queequegqueequeg 2004/11/06 01:02 先日はご来場ありがとうございました。面白がってもらえたようで嬉しいです。ほんとに、近々何かで飲みたいですね。

ありゃりゃりゃ『アンダーワールド』はワーストですか。いま『重力の虹』読んでて、これ終わったら次はデリーロかミルハウザーあたりかな、と思ってたのですが。

crosstalkcrosstalk 2004/11/06 14:35 こんにちは。今月は演劇鑑賞月間で、まだいくつか行くんですけれど、「ペニノ」は明日予約してしまいました。すれちがい。
「アンダーワールド」は、あくまでもわたしの読み方ですから、全くアテになりません。ハイ。って、自分で自分の書いた文を否定するようなこと言ってはいけないが。
明日からは「ヴァインランド」に挑戦してみます。久々のピンチョンです。
ではまた、近々。

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■ 2004-11-03(Wed)

[] スパーキング21vol.15 チェルフィッチュ『労苦の終わり』 作・演出:岡田利規  スパーキング21vol.15 チェルフィッチュ『労苦の終わり』 作・演出:岡田利規を含むブックマーク

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 始まる前に演出の岡田さんがロビーにいらっしゃったので、タイトルの『労苦の終わり』って、なんて歌に出て来る歌詞なのか聞いてみたら、Tom Jobin(?)という人の曲からだという事だった。知らない人だ。あとで調べてみたら、Amazonなんかでは2枚出てくるけれど、どちらも品切れだった。他の所で調べたのでは、もう鬼籍に入られた方のようだ。

 途中休憩を挿んで全2時間の大作。とにかく、これからは座席の狭い小劇場では「エコノミークラス症候群」対策が必要になって来るのだろうか。それにしても異様なほどの密度の濃さ。特にその前半で、飲み会で先に帰ってしまった男が伝え聞いた話から始まる展開がすばらしく、だんだん核心に迫って行く過程はなんかスリリングだった。というか、他人の事を語っているはずの登場人物がいつのまにか語られている人物を演じ始め、次に登場して来る人物につないで行く展開の面白さ。誇張された身ぶりと、堂々回りしながら詰めて行かれる話からは、実際に目の前で知人から取って置きの話題を聞かされているような気になってしまう。

 とは言いながらも、演出自体はリアリズムを目指しているわけではなく、編集されたドキュメンタリーを見ている感覚に近いだろうか。そう、本の世界で「オーラル・バイオグラフィー」という手法があって、ま、これはジョージ・プリンプトンという人がお得意で、日本でも『イーディ』とか『トルーマン・カポーティ』などの伝記が翻訳されていた。これは、その主題となる人物について周辺の数多くの人たちにインタヴューを行い、その語り口をそのまま再現した証言を併置して行くもので、わたしは舞台を見ながらそんな本の事を思い出したりしていた。

 複数の役者が出て来るのだけれども、基本は「モノローグ」というか「語り」であり、他者との絡みは、これは演劇的というよりも、言葉が適切かどうか解らないけれど、「図象的」とでも言った感覚。そういう意味では、「チェルフィッチュ」とは、「語り」の可能性を追求しようとしている劇団と捉えた方がいいのではないだろうかと、今回の公演を見ながら思っていた。後半では夢とも現実ともつかない空間が見事に立ち上がる瞬間にぞわっとしたりした。

 ただ、この公演において「現実を切り取って提示してみました」という方法論的な実験に留まらず、作品としてビシッと、時代解釈と言うか、現実への批評的視点をにじませている。タイトルは飾りではない。ま、あまり見ていないのでいい加減な事は言えないけれど、そういう意味では平田オリザなどとの方法と対立するものでもなく、より先鋭化させたものと捉えるのが自然なのではないかと思ったりする。

 とにかく、次の公演ではどんな事になってしまうのか、そういう事を考えるだけでゾワゾワしてしまう。そんな劇団は自分の周りには他に見当たらないな。

 あ、わたしも『SMiLE』を買う事にした。

 

 

岡田岡田 2004/11/05 00:38 トム・ジョビンって、アントニオ・カルロス・ジョビンのことです。
「トム」って愛称だったみたいなんですよ。
見てくださって、ありがとうございました。

crosstalkcrosstalk 2004/11/05 01:03 ひゃぁ。そんな可能性も考えたんだけど、実際に「Tom Jobin」で単独で検索出来たものだから、あんまり深く追求しないで、てっきり。
次回は来年の2月ですか、また見に行きます。江口さんとかにもよろしく。

岡田岡田 2004/11/08 09:38 ちなみに
http://plaza.rakuten.co.jp/hamadacat/diary/200403300000/
ここに歌詞があるのを見つけました。
公演、無事終わりました。ほっ。

crosstalkcrosstalk 2004/11/08 12:25 お疲れさまでした。さながら「労苦の終わり」でしょうか。絶賛の嵐、おめでとうです。
って、いやだぁ。「三月の水」ではあ〜りませんか。

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■ 2004-11-01(Mon)

[] 山賀ざくろ+岡田智代 ダンス公演【ランデヴー】 at 神楽坂die pratze   山賀ざくろ+岡田智代 ダンス公演【ランデヴー】 at 神楽坂die pratzeを含むブックマーク

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 とにかく最近は、劇場の企画とか、なんとかコンペとか言ったダンスの発表の場ばかりになってしまって、こういう踊り手側からの企画公演が少なくなってしまった印象がある。アーティストが負担を全部かぶらなければならないから大変だと思うけれど*1、観客としてはこういうの応援したいです。

 伝え聞いたところでは、先に岡田智代の「ルビィ」という作品が出来ていて、今回の公演のために山賀ざくろが「いんびぃ」というのを作り、併せて上演したという事らしい。ま、終盤には二人での即興劇みたいな場面もあるのだけれど。

 そういう風に聞けば、たしかに山賀ざくろの作品の側に未完成な部分を感じてしまう事もあったけれど、素質の異なったダンサーがそれぞれの作品を持ち寄って、単なる作品の並列ではない共同作業の試みとして、興味深い1時間だったと思う。

 そうだな、山賀ざくろの場合は、彼自身の踊る姿勢として、暴力的に突っ走ってしまいそうな身体をどんな契機でコントロールするのか、というような事がある気がするのだけれど*2、この日はちょっとばかり、そのコントロールに失敗しているような印象を受けた。ただ、この人のワイルドさはいつも見ていて爽快なので、そういう楽しさはいっぱいいただきました。

 岡田智代の場合は、コンセプチュアルな構成と身体が幸福に一致しているようなパフォーマンスで、観念の中にその美しさを見つけ出すような部分もあり、完成された構成とともにとても魅力的な作品だった。それは何だか、現代美術のある種の作品を見るときに感じる楽しみと共通しているような気もするのだけれど。

 二人のソロが入れ替わるタイミングとかもきれいに流れていたと思うし、終盤二人一緒のゆるい展開からの流れも、今思い出せばわたしなりに「ここで終わらせとけばスッキリするかも」と思っていた所でサッと終わらせていたようで、きっちりとパッケージに収まるような心地よさがあったと思う。

 大変だろうけれど、続編とかを期待したい。

 

 

*1:先日聞いた話で、ダンサーが自分でDMの発送とか何もかもやらなくちゃならないのに疲れちゃって、公演の場から遠ざかっちゃった人もいるらしい。

*2:この夏の横浜BANKartでのソロはこのあたりがうまく行っていたのか、とてもすばらしいソロだった。

中村公美中村公美 2004/11/06 12:00 「*1」に引っかかりました。自分の公演のDMの発送くらい自分でやります。件数増えて疲れる程ビックになったら、制作にきちんと頼めばいいじゃないですか。

crosstalkcrosstalk 2004/11/06 14:29 あ、公美さん、怒ってますね? なんか考えなしに変な例証書いてしまったかなぁ。「それって、自分の事じゃん」って言う人が出て来ませんように。えっと、この場合、制作もご自分で兼ねておられたようですけどね。わたしなんかでも、チラシの折り込みとかには振り回されましたし。

中村中村 2004/11/06 17:09 こちらこそ考えなしで言い方がきつくなりました。ダンサーが皆、制作的なことを面倒だと思っているとか思われたら嫌だと思いまして。(お前はダンサー代表か!?)私がそれ程大きな公演を打ったことがなく、制作を兼ねられる範囲のことしかやったことがないからそんなことが言えるのかもしれませんね。

crosstalkcrosstalk 2004/11/06 17:42 パブリックなものに対抗しようとすれば、チラシも万単位で作らなくてはなりませんし、使い切らなきゃいけない。そりゃぁへこむかもしれませんね。(例えば)ウェブとかを活用した、個人レヴェルでの公演のやり方の戦略を考える時代でしょうか。あ、「公演形態」も含めての戦略、ね。

crosstalkcrosstalk 2004/11/08 12:27 公美さんゴメン。12月のアートランド、行けないわ。
またいずれ。

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