ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2004-12-28(Tue)

[] 『にぎやかな湾に背負われた船』 小野 正嗣:著  『にぎやかな湾に背負われた船』  小野 正嗣:著を含むブックマーク

   にぎやかな湾に背負われた船

 大分県の地図を見ると、津久井市の東に「浅海井(あざむい)」という名前の町があって、この小説にその「アザムイ」という名前の人物も登場して来るし、あぁ、この辺りが舞台になっている小説なのだなと、合点がいく。この小説も作者である小野正嗣の故郷が舞台として展開され、ま、中上健次とか阿部和重を思い出したりするわけだけれど。

 ここでも戦前、戦時中に遡る土地の歪んだ過去が現在に投影され、顕在化して来るわけだけれども、この小説は明確にひとりの人物の視線から語られる物語であって、その人物は新しくその集落の駐在所に赴任された警官の娘の中学生。彼女自身は通っている中学校の教師と男女の関係が継続しているとは言え、物語にそれほど関わって来るわけではなく、毎日のように駐在所に立ち寄っては、集落の様々な過去や現在の出来事を、警官である父に語りながら酒を飲む無為な男たちがいるわけで、どうやらその話を脇で聴いている娘がまとめて、この小説に挿入される過去の物語として提示されるという形式のようだ。

 その男たちの会話を読んでいる限り、こんなだらだらと堂々回りを繰り返す、いささか酒の入った会話からよくこれだけの首尾一貫とした物語がつむぎ出せるモノだと。この辺りの事情は、彼女自身の言葉で文化人類学者のフィールドワークに例えられたりしているけれど、そういう意味では、この大分の辺境の地(と言っていいだろうけれど)が、一種ラテン・アメリカ文学的な奇想の中に捉えられながらも、昭和以後の日本近代史とたしかにリンクしながら未来を照射している、と言えるのだろうか?

 ただし、このあまり長くはない物語の最後で密航事件が起きて、この物語の終結に向かうのだけれども、それまでに語られた物語の多くは宙ぶらりんのまま取り残されてしまっている印象がある。それに、この語り手の女性に、最後には物語に何らかのコミットをさせたいとの要請もあったのだろうけれど、ラストの彼女の行動はちょっと不自然というか、作為的に感じてしまうところではあると思う。

 

 

 

[] 『壊音―KAI‐ON』『誰がこまどり殺したの』 篠原一:著  『壊音―KAI‐ON』『誰がこまどり殺したの』 篠原一:著を含むブックマーク

   壊音 KAI‐ON (文春文庫) 誰がこまどり殺したの

 10年位前に最年少で『文學界』の新人賞を受賞した作品と、彼女の第二作を続けて読む。篠原一という人は、『壊音』の最初のページに挿入された写真を見ると、いかにも高校の文芸部部長ってな感じで、誰が読んでくれようがおかまいなしに部誌にせっせと作品を掲載し続けているような姿が目に浮かぶんだけれど。

 ま、そういう偏見めいた感想は止めておいて、受賞作である『壊音―KAI‐ON』は、相当に面白い。これが『壊音―KAI‐ON』に一緒に収録されている受賞後の第一作『月齢』になると、ちょっと「???」になってしまって、2冊目に刊行された『誰がこまどり殺したの』になると、ちょっと読んで、がっかりしてしまった。

 『壊音―KAI‐ON』が圧倒的に面白いのは、主人公である少年たちと世界との距離感がよくわかるのと、「砂漠」とか「鳥」などというイメージが喚起するモノがきっちりと造型されているあたりとか。ドラッグまみれの幻覚から崩壊感覚に囚われる少年と、彼に巻き込まれて行く少年。描写にはいつも曖昧さが付きまとっているとは言え、その曖昧さもまたこの作品にはお似合いだった。この小説にはいわゆる「大人」は誰も登場しないのだけれども、主人公たちの共通の知人である年上の女性が海外から送るハガキが途中に挿入され、ま、その文面はどうって事ないんだけれど、この挿入が、作品にちょっとしたリアリティと作品の骨格を与えている気がする。

 この作品を奥秀太郎が後に映画化するんだけれど、その崩壊感覚だけを継承し、少年の世界を少女たちに置き換え、とにかくこの作品とは表面的にはまったく別人28号な作品になっている。ここでの奥秀太郎の自由な翻案は、文学作品の映像化の一つのあり方として、とても暗示的だったと思う。

 『月齢』は、基本的な構造は『壊音―KAI‐ON』とほぼ同じ、少年たちの密やかな交流を中心とした、世界を別のキーワードで読み解こうとする試みがもう少し意識的だろうか。その分何かが崩れ去ってしまうような危うい感覚はちょっと希薄になっていただろうか。って、なんだか耽美的な匂いが強くなって来る。

 次の作品集『誰がこまどり殺したの』になると、その装幀がミルキィ・イソベだからと言うわけでもないけれど、ほぼ完全にコミマ系の耽美小説って感じで、ちょっと読み倦ねてしまった。全体がマザー・グースの歌をもとにした4編の短編から構成され、その4編が結局最後にはリンクしあうわけだけれど、わたしにはリアリティを感じる事はずっと出来なかった。いや、この世界はこの世界でファンがいるであろう事は確かなんだけれども。やはり、「若さ」とは、失われてしまうものなのだろうか? ん?この人は逆に「若く」なっていっているのかな?

 

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041228

■ 2004-12-26(Sun)

[] ひろいようこソロ・ダンス 『マシュマロ・アワー2 聖域リラックス』 @ 銀座Pepper's Gallery  ひろいようこソロ・ダンス 『マシュマロ・アワー2 聖域リラックス』 @ 銀座Pepper's Galleryを含むブックマーク

 ひろいさんのダンスというのは、去年の暮れだったか、横浜のSTスポットでの、ディーン・モスがキュレーターをやった時の「ラボ」で見たのが最初だと思う。その時は、身体を縄で縛って這い出て来るようなパフォーマンスだった記憶があるけれど、状況と一体化したような身体の放り出し方がちょっと面白くて、あとでお話をしたらもともと美術畑の人だという事で、何となく合点が行った覚えがある。

 そのあとはセッションハウスでの短いソロがあって、それが今回の「マシュマロ・アワー」の原形だったんだけれど、白いフェイク・ファーの絨毯と白いマシュマロの選択とかがやはり美術してるというか、視覚的にピリッとしたものがあった。この作品を秋の「東京コンペ」に持ち込んで、予選には残ったのだけれど、あの丸ビルホールの広大な舞台の上からでは観客席からも遠く、このようなアンティームな作品は観客の目に届くモノが少なかったろう。

 で、今回はまた極端に思いっきり狭い場所、銀座の地下のギャラリーでのソロ公演。客は20人も入ればいっぱいになってしまう。

 白い絨毯というセッティングはこれまでと同じだけれども、その一端に小さなヴィデオ・モニターが置かれている。開演して、ひろいさんが舞台上手に入って来て、しばらく佇んでいたあとでモニターに電源を入れると、画面にはマシュマロの映像が映し出される。ここまでの流れがけっこうわたしは好きで、ギャラリーという非日常空間にうまく日常の空気を取り入れていたと思う。そのあとの展開は、前半はそのモニター上のマシュマロと対峙する時間、後半は実際にマシュマロをぶちまけての、もっとパフォーマンスっぽい展開。

 どちらかというと、わたしは前半のモニター画像との戯れの方が興味深く見たかな。それはつまりヴィデオの中の時間の流れと現実のパフォーマンス時間との差異みたいなもの、そこにもう少し段取りっぽく仕掛けを挿入すれば、一人芝居的な演劇空間にいってしまうようにも取れたけれども、そのあたりをナチュラルに投げ出しているのは、やっぱ美術作家の宿命なのか。ただ、フェイク・ファーの白と、モニター画面上のマシュマロの白との対比が美しく、そこに異物のようにちん入するひろいようこの身体が、その場の調和をずらせて行くような。ギャラリーという場に似合ったパフォーマンスだと思った。

 ただ、「ソロ・ダンス」というふれこみなのだけれども、わたしはどこ一つとして「ダンス」という気持ちでは見ていなかった。戦略的意味で「ダンス」と名乗るのならば了解もするけれど、どうなんだろう。「パフォーマンス」とした場合のジャンル的狭さが問題なんだろうとも思うけれど。

 

 

[] いぬ屋敷 Vol.20 玉姫の間 ヤプーズ @ 恵比寿LIQUIDROOM  いぬ屋敷 Vol.20 玉姫の間 ヤプーズ @ 恵比寿LIQUIDROOMを含むブックマーク

戸川純(Vo)
中原信雄(Bass)
戸田誠司(Gu)
デニス・ガン(Gu)
山口慎一(Data)
福間創(Key)

 戸川純のライヴは初体験。直前に「戸川純バンド」の音を聴いていて、それがけっこう気に入っていて期待していたけれど、ま、「ヤプーズ」の音はもうちとテクノ的、というか、80年代でしょ?ぐらいの認識。

 とにかく、5時開場:6時開演の予定が、実際には7時開場:7時45分スタートになってしまったもんだから風邪をひいてしまったけれど、開場を見渡してみて、これだけの広い客層を集めたライヴというのも初めての体験かも知れん。全体に年齢層は高めなんだけれど、いかにもコアなロック・ファン的な方々から、ロリータ系、アキバ系と、男女の比率もちょうど同じぐらいだっただろうか。これだけ雑多な観客がいれば、わたしの存在が浮いてしまうという事もない。

 で、とにかく戸川純はまずはベリーダンスの衣装で登場、ちょっとこの日は音がおだんご状態でなんとも、という所もあったけれど、ま、なんちゅうか、一種の迫力を感じさせる圧倒的なパフォーマンス。前半はどうも製作中のアルバムからの新曲中心らしく、そのあたりのぎごちなさのような物を感じさせつつも、ギターのデニス・ガン一人にステージを任せて衣装替えに引っ込む。再登場は黒いスカートがのぞく上にピンク(?)のショルダーを肩からかけ、その上に背中にプーくまのイラスト付きのパーカー。これで2〜3曲唄ってパーカーを脱ぐとその下は赤/黒のロリータ・ファッション。って、音の事書かないでこんな事ばっか書いてお茶を濁してます。アンコールは金髪のウイグにサングラスとかだし。

 やっぱ、なんちゅうか、サブカルのアイコンですね。そうしてみると、客層の広さ、とわたしが感じたのは、実は日本のサブカルと呼ばれるような領域が、世代や一般的なジャンルを超えてかなり広い層からの支えがあって成立しているモノなのかも知れないと。とういか、日本のあれこれのサブカル的事象のリンク点に彼女がすっくと立っているのかも。‥‥たしかに、80年代から継続して、メジャーから一線を画してずっと君臨するその足元は、「サブカル」としてくくらざるを得ないような地平として、この20年間はあり続けて来たのか。

 単純に、このような人がメチャ元気に唄い続けているという事にこちらも元気づけられる(と言いながら風邪をひいたが、これは開演が遅れたせいだ)し、後半の怒濤のように連続して演奏された80年代フレイヴァー溢れる楽曲群も確かに魅力的だった。あぁ、B−52’sのライヴとか、行っておきたかったなぁ。

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041226

■ 2004-12-25(Sat)

ううう、この時期に風邪をひいてしまった。健康な体で年を越したかったな。

[] 『アイデンティティの音楽―メディア・若者・ポピュラー文化』 渡辺潤:著  『アイデンティティの音楽―メディア・若者・ポピュラー文化』 渡辺潤:著を含むブックマーク

   アイデンティティの音楽―メディア・若者・ポピュラー文化

 ま、要するに、カルチュラル・スタディーズなどの成果を踏まえながら、社会学的視点からロック・ミュージックを総括しようとした本だと。そういう視点から、戦後世界の新しい世代としての「若者」と、新しい音楽としての「ロック」をリンクさせて解いて行くのは、新鮮味はないとは言えども、それなりにきちっとまとめてあると思う。しかしながら、その反面として、産業としての「ロック」への切り口が、実に曖昧で一貫性がないと言う印象を持つし、例えば「マイノリティ」の問題とかにしても、「民族的」「階級的」なマイノリティ問題でとどめるのは、現在のロック・ミュージックのフィールドを俯瞰するには圧倒的に不十分ではないだろうか。というか、全体に後追いで背景を説明しているだけだから、未来への視点などどこからも見えて来ない。

 で、大きく二部に別れたこの本で、その第一部で書かれたロック史は、第二部で再び同じ論旨で要約して取り上げられ、社会学的批評の歴史からまた考察されるわけだけれど、そうすると第一部の記述とは何だったのか。もう少し本全体の構成を考えて書き始めるべきだったのではないだろうか。というか、そもそもポピュラー文化の中で「ロック」だけを特化して書き解こうとするのが、カルチュラル・スタディーズ的にも方法として間違っているのではないだろうか。TV文化とは何であるのか、そういう視点がないと、いきなりMTVがTVの世界で受け入れられた背後は読み手に了解されない。

 例えばこの著者は、70年代の「アメリカン・ニューシネマ」などはそれほどの成果を産まずに終ってしまった、みたいな事をさらりと書いてしまうけれど、そうではなくて、これは映画産業の中での「スタジオ・システム」の崩壊などという問題と一緒に考えなければ軽々しく結論出来ない問題だろうし、本来カルチュラル・スタディーズ的方法論で視野に入れなくてはならないだろう、他の並行して存在するポピュラー文化への視点があまりになおざりにされすぎている。ま、「ロック」とかについて書くヤツはそんなのばっかだけれども。

 あと、いいかげんすぎる表記が目につく本でもあって、「レヴォン・フェルム」って誰だよ?みたいなのから*1、日本のロックで取り上げられて書かれていた「ハッピー・エンド」。悲しすぎ*2。わたし的には「・」を抜かした「ローリングストーンズ」などという表記にも抵抗がある所だ*3。一度、ロックに親しんだ人に下読みしてもらうべきだったのではないかな?

 あ、もうね、著者には悪いけれど、全然読む必要のない本です。(28日付記:つまりは、この著者の立場は要するに「ロック文化全肯定」と取られても仕方がない語り口だし、音自体への言及が全くないというのはどういう事なんだろう、という事。)

 

 

 

*1:「Helm」だよ。これじゃ、「Home」は「フォーム」と表記するのかよ、という事になるし、「ザ・バンド」ぐらいちゃんと聴けよ。

*2:書くなら一度ぐらい聴けよ。ジャケットを自分の手で拡げれば「はっぴいえんど」と書いてあるのが目に入るだろうに。

*3:こんな書き方をするくせに、「バッファロー・スプリング・フィールド」と書いてみたりもする。これは明らかに間違いだけれど。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041225

■ 2004-12-24(Fri)

[] ARICA第6回公演『kawase』 @ 馬車道ホール/BankART 1929 馬車道  ARICA第6回公演『kawase』 @ 馬車道ホール/BankART 1929 馬車道を含むブックマーク

演出・美術:藤田康城
テキスト:倉石信乃
作曲・演奏:猿山修
出演:安藤朋子(と電動車イス)

  ARICAの公演は、知人が絡んでいる事もあって、ずっと見て来ているけれど、今回の公演は何と言うか、ストレートに楽しく見る事が出来て、うわ、ARICAの公演でこんなに面白がっちゃっていいの?みたいな。

 会場は、今年の春にオープンしたBankARTの馬車道ホールなんだけれど、御承知のように、新しく出来る芸大の映像学科に貸してしまうので、これが最後の一般に公開される公演。映像学科とかにこういう環境が必要なのかとか、来春まで一度はスケジュールが決まってたんではないの?とか、いろいろあるけれど、神奈川県とか横浜市とか文化庁とかが乱れ合っているような横浜の文化行政は謎に満ちている。

 とにかく、この古い建築の会場は、特別に舞台などと言うものはなく、フロアの中央には直径1mはあるような太い柱が3〜4本並んでいる。見る場所によっては死角が出来るので、前回ここで見たダンスのイヴェントでは、この柱の部分を避けて全体の半分のスペースで舞台を設置してやっていたけれど、今回はフロア全体を使って、両側の壁にそって客席が設置されていて、真ん中の部分、と言うか柱の周りとかには、古いイスとか、ちり取りとかバケツとかがあちこちに置かれている。ARICAの評判になった前回公演「Parachute Woman」では、工場で一人パラシュートを造る女工、という設定だったけれど、今回は女行商人の話らしい。

 話は脱線するけれど、わたしが住んでいる日暮里の辺りは、今でも朝早くには常磐線を使って出て来た行商の店がずらっと並ぶ光景を見る事ができる。よっぽど早起きしないと見られない。常連客がいてすぐに売り切れてしまうから。これらの行商人は皆女性。始発ぐらいの上りの常磐線には、ほとんど彼女たちの体重と同じか、それ以上の重さだろうと思えるような「しょいこ」を背負った彼女たちの姿を見る事ができると思う。わたしはそういう土地にいるので、今回の公演が「行商人」の話だと聞いて、安藤朋子さんが、モンペとか着て巨大な「しょいこ」を背負って出て来るのかな?なんて、勝手に想像していたのよ。

 ‥‥開演後、暗転した舞台にスポットを浴びながらゆっくりと出て来たのは、「電動車イス」の上に大きな箱を載せ、その上にまたがった安藤さんだった。着てる衣装もモンペとかでなくってモダン(?)な感じのモノで、ちょっと意表を突かれた。安藤さんの声で「物を売る女は良い、‥‥」などというナレーションが流され、ゆっくりと車イスが舞台を横断して、安藤さんが車イスから降りて、箱を降ろして開けたりし始める。あ、そこに商品が入っているのかな?って、なんだか、すごい厚底の靴はいてるんですけど、安藤さん。昔はやった厚底靴のもっと強烈なやつ。

 箱を開けてみると、それは売る物ではなくって、旧式の手回しのキャッシュ・レジスター。これを箱の上にセットして、車イスと組み合わせて奇妙な乗り物に仕立てて、それに乗った安藤さんが舞台をぐるぐる廻りながら、レジスターを実に大げさな身ぶりで打ちこんで、中から大きな値札を取り出してあちこちに置いてあったイスとかちり取りとかバケツに貼って行く。なんだか、とりとめのないガレージセールみたいな雰囲気になって来た。とりとめのない、というのは、これはもう安藤さんの眼にとまるモノで、値段はこの位、と判断されると、その値札を貼られた瞬間に「商品」に姿を変えるわけで、そんな「判断」〜「商品化」という過程がちょっとアイロニカルというか、けっこうおかしい。で、中央の例の柱にまで、98万円!とかって値札貼ったりして。

 そのうちに安藤さんは車イスから降りて、その厚底の靴をぬぎ始める。そうするとそれは単にローラースケートのカヴァーにすぎず、それからは安藤さんはローラースケートで舞台をぐるぐる廻り始める。これがすごく危なっかしくって、ま、時々転んでしまわれたり、見ていて、客席にそのまま突っ込んでしまうんじゃないかとか、スリリング。それで、舞台に散乱している値札をつけられた「商品」を、中央の柱の周りに集め始める。ラストにはバックにボブ・ディランの「激しい雨が降る」なんか流して。そう、この歌は、「それで、何を見たんだい? 青い眼の息子よ?」という問いかけに、「わたしはこんなモノを見た」というのを延々と歌い継いでいく歌なんだけれど、つまり、この歌で唄われる「こんなモノを見た」というのが全部商品化されてしまうシステムの提示として、このものすごくアイロニカルな選曲は見事だったと思う。

 それで、見終って、ここでの「電動車イス」とか、「ローラースケート」とかの、身体の延長としてのメカニックの提示が、パフォーマンス身体の『資本主義的拡張』〜(???)〜として、ものすごく痛快に面白かった。このあたりには、今思うと丹野賢一さんの方法論と通底する部分もある気がした。

 とにかく、身体までも含めて、資本主義のシステムの戯画化として、こんなに痛快な作品ははじめて見たって感じで、とても楽しい時間を過ごす事が出来た。

 ARICAは次回は(といっても2006年になるらしいけれど)黒沢美香さんとの共演を実現するらしい。さらに「身体」の方にはみだして行くのだろうか。もう今から楽しみで仕方がない。

(12月23日観劇)

 

 

[] 『戦争は終った』 アラン・レネ:監督 「アラン・レネ 想像の世界の測量士」 @ 日仏会館  『戦争は終った』 アラン・レネ:監督 「アラン・レネ 想像の世界の測量士」 @ 日仏会館を含むブックマーク

   戦争は終った [DVD]

 ‥‥だから、クリスマスだから、「War is over」なんだけど*1、この1963年のアラン・レネの作品は、そんなハッピーエンディングで終る幸せな映画であるはずもなく、ケーキの中でガリッと石を噛んでしまうような、ちょっと苦い作品。

 この作品を最初に見たのは、高校2年位の頃*2ではないかと思うのだけれど、そもそもヨーロッパのリアルな政治背景を前提に描かれる物語に最初っからはじき飛ばされるし、10年付き合って来た女性とかがいる男の心理がわかるわけもない当時のわたしには、ほとんど何がなんだかわからない映画だった。ただ、ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドが股を開くシーン*3とか、ラストのイヴ・モンタンの顔とイングリット・チューリンの小走りの姿とがオーヴァーラップするシーンとかは、かろうじて記憶の片隅に残っている作品。

 だから、まぁ30年以上の時を置いての再見。その間にわたしはアラン・レネの『ミリュエル』や『メロ』などという素敵な作品を見てはいるけれど、ちょっと彼の近年の作品からは足が遠ざかってしまっている。ま、『去年マリエンバートにて』の印象のせいか、何となくこの人の作品にはヌーヴォー・ロマンと深く結びついたドラマ、って印象を、見る自分で勝手につくっているのかな?

 こうして見返してみると、なんちゅうか70年代80年代にあれこれとあった「非情の裏社会で組織の犠牲になる男と、彼の愛した女の物語」ってな映画を思い出すのだけれど、やはりここでは映画監督として圧倒的な充実期にあるアラン・レネ。主人公イヴ・モンタンのナレーションにかぶさり、彼の視線と彼の回想が、その不安と欲望を浮き出しにして行く。しかし、今こうして見ると、意外な程に「物語」なんだね。そんな中で、途中の若者たちとの政治論議なんか、ゴダールの『中国女』遥か以前に、この作品から4年後に訪れる「五月革命」を予見していると言えば、これは言い過ぎだろうか。

 ンな事を言いながらも、やはりこの映画の核は、イヴ・モンタンとイングリット・チューリンとの10年の関係が、この映画で描かれる三日間に凝縮して提示される、圧倒的な「メロドラマ」の世界で、だからこそ、このラストで、車の中のイヴ・モンタンの姿に空港で小走りするイングリット・チューリンの姿が重なって来る時に、報われない愛に向かって小走りする姿に、観客であるわたしは涙する。

 

 

 

*1:この日は主催者の粋な計らいでの無料上映会。貧乏だけれど人並みにクリスマスを楽しみたいわたしなどには嬉しいイヴェント。

*2:リアルタイムではありません。

*3:あぁ、あと1秒カメラが下降運動を続けてくれたら!

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041224

■ 2004-12-23(Thu)

[] ヴォルフガング・ティルマンス展|Freischwimmer @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台  ヴォルフガング・ティルマンス展|Freischwimmer @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台を含むブックマーク

 最初の部屋が好き。まず左の壁面に「トマト」、「採石場」、「改装」と、ピリッと冷気を含んだような凛とした作品が並んで、正面には2点だけ、右には今回の展覧会のタイトルにもなっている「Freischwimmer(フライシュヴィマー〜遊泳者)」の連作の一つが1点だけ。とても有機的でオーガニックでありつつも抽象的。しかし写された被写体の背後には具象的な物語が潜んでいるような、アンビヴァレンスな魅力にあふれている。

 小さな手札判のプリントから、高さ5メートルもありそうな巨大なプリント・アウトまで、オフセット印刷された作品や、きっちりと額装された作品もまじえて、基本的にはプリントを直接テープで壁面に貼り付けただけ。その一種そっけなさが、観客の目線との間にアンティームな空間を作り上げているみたい。

 「コンコルド」のシリーズを56枚まとめて見ることが出来る。奇をてらわずに空を飛ぶコンコルドの姿をストレートに写した作品群から、「自分が生きている世界を理解し、繋がるための写真」というヴォルフガング・ティルマンス自身の言葉がストレートに届いてくる。

 映像作品は面白いとは思えなかったけれど。

 

 

[] 野又穫:カンヴァスに立つ建築 @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台  野又穫:カンヴァスに立つ建築 @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041224130117:image

 「文學界」の表紙の人、NHK−BSの扇田昭彦の演劇番組でスタジオに置かれていた作品の作者。こうしてまとめて50点ほどの現物を見ると、画材としてアクリルならではの質感がプラスに働いている気がする。古い作品とかではかなり構成とか危なっかしいし、マティエールもぺしゃっとしちゃってるんだけれど、92〜93年ごろの作品から完成度が高まって、緻密な緊張感のある作品が並ぶようになる。

 細部とか見ていると、実はドイツ・ロマン派の時代の絵画作品とかに、けっこう影響されてるんだろうな、と思った。ルンゲとか、フリードリヒとか。

 メインの広い部屋では壁に作品を飾らずに、天井から直接作品を吊るして横に並べ、まるで見えない壁に展示してあるような飾り方をしていたけれど、キャンバスの裏側に紙を張っていたのはちょっと無粋というか、キャンバスの裏が、木枠とかもそのまま見えた方が効果的だったんではないかな?

 

 

[] Project N 小西真奈展 @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台  Project N 小西真奈展 @ 東京オペラシティアートギャラリー 初台を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041224130022:image

 はじめて見る作家だけれど、現代美術館にあるエリック・フィッシュルの大きな作品を思い出した。エリックの作品は性的にゆがんでいる感じだけれど、この小西真奈の作品では絵の中に家族らしい群像が描き込まれている作品が多くって、なんだかその家族がちょっと歪んだ関係に見えてしまう。

 ま、写真を見て描いていると言うペラペラの描写からとかエリック・フィッシュルを連想したのだけれど、やっぱ人の私生活を覗き見しているような気分になってしまうのは、こういうペラペラ描写が生み出すものなのだろうか。

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041223

■ 2004-12-22(Wed)

[] 「METAL MEETING Vol.2」 @ アサヒビール本部ビル3F 大会議室  「METAL MEETING Vol.2」 @ アサヒビール本部ビル3F 大会議室を含むブックマーク

  f:id:crosstalk:20041224005629:image 

 このミーティングは、第一部として10月10日の「さきら」での『026-METAL』の記録映像の上映、第二部に司会に樋口貞幸氏を置き、丹野賢一、石川雷太、本原章一、羊屋白玉を囲んでの質疑応答という構成。

 2台のヴィデオからの視点を編集し、広い舞台の中を駆け回る映像は力強く、これ自体として魅力に富んだ映像だった。まだ一般に公開されていない岡山での『016-Wall』と合わせて、本来のプロダクションでまた公開される機会が来る事を期待したい。

 第二部は、本来ディスカッションとして、もっと長い時間参加者を交えて討議すべき問題だとは思うけれど、とりあえず、「さきら」での問題から時間を置かずに、こうして当事者のナマの声を聞く機会を設けられたのは良かったと思う。

 ただ、ここに来て、主に批評家など、本来作品発表の機会を奪われたアーティスト、及び、作品を見る機会を奪われた観客の味方になるべきではないか、という立場の人たちの中から、ちょっと奇妙な声が上がって来ているのが、この数日目について来るようになった。

 これらの一種反動的な発言を、ここでどのように取り上げようか、直リンしてしまおうか、勝手に引用してしまおうか、などとあれこれ考えたけれど、妙案が浮かばない。一つにはこういうブログの場が論争の場に向いているとは思わないし、もっと別の場であればともかく、自己保身として勝手な言い分ではなく、ここがぐちゃぐちゃになるのは避けたい。

 とりあえず今はこんな中途半端な記述にとどめておくけれど、こんな表現の世界でも、内側からの「安心のファシズム」のような考えが出て来つつある。軽く紹介しておくと、一つは「一部の芸術家や芸術愛好家を満足させなければならない義務は、行政にはない」という趣向の発言、もう一つは、「一日でも素晴らしい公演が出来たのだから、『さきら憎し』みたいにいつまでも槍玉にあげる事もないではないか」というような意見。

 こんな事を言っている間に、ボクらは何もかも取り上げられ、もう何も出来ないような世界になってしまうんじゃないのかな。1920年代から30年代にかけて、おそらくわたしたちのおじいさんとかの世代はこんな世界に生きていたんじゃないだろうか。発禁処置を喰らった出版物に対して、当時の人たちはどんな反応を示したんだろう。

 こうして表ざたになる前に潰されてしまった企画がどれだけあるだろう。何も出来なくなってから叫んでも遅いよ。監視カメラにいつも監視され、持っているケイタイや定期券で行動が把握されてしまう世界。それがお望みですか?

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041222

■ 2004-12-20(Mon)

[] 『METAL−MEETING vol.2』直前情報  『METAL−MEETING vol.2』直前情報を含むブックマーク

 もう明後日に開催されますので、皆行きましょう。

 丹野賢一/NUMBERING MACHINEのサイトに、公演中止にいたる現場の生々しいレポートもアップされています。必読。

 それで、この 『「さきら」における丹野賢一「026-METAL」公演中止問題のレポート』として書き継いで来た[Watch Out ! ]というカテゴリー、とっても読みにくくなっていますので、ちょっと説明させていただきますです。

まず、こちらから読んでください。で、時系列が下から順になっていますので、下の日付の方から読んでください(10月7日から始まっています)。一番上まで上ったら(10月10日の記述です)また一番下に行って、右下の「次の10日分>」でページを変えて、また下の日付から読んで下さい。最終的にこの12月20日の記述に戻ってくるはずです。

 読みやすく編集しようかとも思ったのですが、時系列順に書いた記録として、順番は崩さない事に決めましたので、読みにくいとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

犬 2004/12/21 12:31 こんにちは。小坂さん。
石川君のペット(飼い犬)です。
う・・・ペットって書くとなんかやらしいな・・・。
受けを狙ったつもりで滑る私。
と、それは、おいておいて・・・。

明日は、会場でお会いできるのかしら?
あのですね、ご紹介したい方が一人います。
最近、お仕事を通じて知己をえた「佐藤道代」さん
というダンサーです。
http://home.att.ne.jp/alpha/idance/
イサドラ・ダンカンの踊りを継承なさっている方なんですよ。
『METAL−MEETING vol.2』に、お誘いしたら
ご友人と共にいらして下さるとの事。
とても素敵な方なので是非小坂さんに紹介したいなって。
(でも、もしかして既にお知り合いかも。)
来年、神楽坂のdie pratzeで催される「ダンスがみたい」では
1/9に出演されます。
彼女の踊りはとても美しくて心が解放される感じがします。

crosstalkcrosstalk 2004/12/21 14:09 ‥‥犬ちゃん、こんにちは。犬ちゃんもペットででっかい犬とか飼って、連れて歩くといいと思う。で、その犬の名前も「犬」にするとか。と、それは、おいておいて‥‥。

明日、もちろん行きますよ。素敵な方はいっぱい紹介してください。先日名刺もいっぱい作ったので、今は無敵です。佐藤さんは存じ上げていませんでしたけれど、お会いできるのを楽しみにしています。

ぢゃ、また明日。雷太さんにもよろしく。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041220

■ 2004-12-18(Sat)

[] Next Next 5 (a showcase for promising contemporary dance artists) @ 森下スタジオ  Next Next 5 (a showcase for promising contemporary dance artists) @ 森下スタジオを含むブックマーク

 2000年からこの森下スタジオで始まったプログラムのファイナル。最初から5年という事で始めたそうで、西武の財政事情が反映された結果ではない。わたしは2001年からこのプログラムを見るようになったけれど、毎年記憶に残る印象的な作品に巡り会っていた気がする。そういう意味で終ってしまうのはちょっとさみしいけれど。

 で、このファイナルは今までの参加アーティストからの選抜。その中で康本雅子の作品「メクランラク」と北村成美の「不完全スパイラる」が印象に残った。って、ちょっと内容的にもこの二つの作品にはカブるような所があって、つまりはポピュラー・ソングをバックに流してのフロア・ダンス・ショー的な構成。ついつい黒沢美香の「キャバレー・ナイト」を思い出してしまったりして、最後は黒沢美香が出ればばっちしファイナルだったのに。

 ただ、ここでの康本と北村のアプローチには、正反対と言ってもいい差異があって、そのあたりにも興味が惹かれたのだけれど、それは二人の「見せる/見られる」という観客との関係への批評的立場の差異と言えばいいのか、二人のダンサーとしての資質の根本的な差異なのか、同様に主に60年代の音源をバックに、同様にユーモアを交えながらの作品構成は、それでも相当に異なっている。

 例えば康本雅子の場合には、もともと「大人計画」の舞台での振付家として、一つの楽曲に対してグルーヴ感を引き出すような振付けという行為は慣れ親しんでいると言うか、ま、先日見た松尾スズキ監督の『恋の門』でも彼女の振付けを見る事は出来たわけだけど、そういう地平からコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるフィールドで作品を創る時に、何らかの屈折を自分自身で要求しているのだろうと。それが、突然の「暗転」というブレイクであったり、マイクを取り出して歌い出すという、意表を突いた行為であったりする。

 北村成美の場合には、作品自体を一種架空のライヴ・ステージと捉えて、虚構とのはざまでのリアルさを求めるような作品、と言えばいいのだろうかな。ここで立ち上がる自己表出欲求はかなりストレートなもので、康本のような屈折は、表面的にはあまり受け取れない。

 二人がそれぞれ使った音楽がちょっと面白くて、康本雅子は、パーシー・フェイス楽団の「ラ・メール」(だと思う)、ちょっとよくわからないアジアン・ポップ、不明だけれど、シェリー・フェブレーあたりを思わせる60年代初頭のガール・ポップ。こんな、ちょっとラウンジ系というか、そんな選曲。で、北村成美は、いきなりフランク・シナトラの、と言うか、わたしの持ち歌である所の「夜のストレンジャー」、もう一曲シナトラで、ディーン・マーティンの「誰かが誰かを愛してる」へのアンサー・ソングみたいなの、それから、うへぇ〜と意表を突くドアーズの「音楽が終ったら」。ある意味ベタな世界。他にも使っていた曲あったけれど、忘れた。

 ちょっとしたメモ書き程度のものだけれど、今回はこの辺りで。

 

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041218

■ 2004-12-17(Fri)

[] 『Live in Anvers』 Alex Chilton  『Live in Anvers』 Alex Chiltonを含むブックマーク

   Live in Anvers

 アレックス・チルトン(Alex Chilton)は、おそらくわたしの一番好きなミュージシャンなんだと思う。だから、前から彼について、何か文章を書いてみたくって仕方がなかったんだけれど、一体何をどう書いたらいいのやら、いつも迷ってしまっていた。

 先日彼の新しいライヴ・アルバムが発売されて、それがこの「Live in Anvers」なんだけれど、もう2ヶ月ぐらい前に買って聴き続けてる。だからこのアルバムをきっかけにして、彼の音楽のことを書いてみようか。とにかく音楽のことを書くのは難しいなんて書いてしまった後に、自分の書いたことを裏切るような文章書くのは恥ずかしいけれど、彼のことは一度書いてみたかったのだ。長くなる予感。読み飛ばして下さい。

 アレックス・チルトンは、もう30年を超える音楽キャリアのある人だけれど、ちっとも有名にならないし、おそらくは「Rock'n Roll Hall of Fame」なんて殿堂に入る事もないだろうな。でも、いつまでも歌い続けていてくれる。今回は前作「Loose Shoes and Tight Pussy」から4年ほどのブランクがあったけれど、おそらくはこれからもずっと、マイペースで音楽活動を続けてくれると思う。そう期待している。

 アレックス・チルトンの声を最初に聴いたのは、中学生の頃。つまり彼は「The Box Tops」というバンドのリード・シンガーとしてデヴューして、いきなり「The Letter(あの娘のレター)」という大ヒット曲を出してしまう。これはたしかダン・ペン(Dan Penn)の書いた名曲だね*1。アレックスはたしかメンフィスの出身で、その土壌を引き継いだロックンロールへの志向とソウル音楽へのあこがれが、彼の音の中でブレンドされている。のちに「ブルー・アイド・ソウル」などと呼ばれる路線の一翼。

 このデヴュー時でまだ17歳ぐらいだったアレックスは、レコード産業界での操り人形として翻弄され辛酸をなめ、The Box Topsを解散後、70年代に、「Big Star」という、誇大妄想的名前のグループを自分の意志で結成し、「#1 Record」という、これまた誇大妄想タイトルのアルバムをリリースするけれど売れない。評論家やミュージシャンへの受けは良かったけれど、契約したレコード会社もマイナーだったし、まったくセールスに結びつかなかった。その路線でメンバーとも対立、脱退者も出て、セカンド・アルバム「Radio City」はトリオでのレコーディング。この作品も前作と同じ運命をたどり、アレックスはほとんど彼一人のソロ・プロジェクトとして、サード・アルバム「Sister Lovers」を録音したけれど、実際にこのレコードが発売されるのは何年も後の事になるし、アーティストが望んだ曲順で完全な形でリリースされるのは90年代に入ってからの事になる。

 この「Sister Lovers」がとにかく傑作で、おそらくこのアルバムを作る事で、アレックス・チルトンは以後のソロ活動の原点を発見したんだと思う。そう、「発見」と呼ぶにふさわしいアルバム。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(Velvet Underground)の「Femme Fatale」のカヴァーを含む14曲には、ロマンティシズムとは距離を置いたリアルな頽廃と狂気に満ちていて、いつ聴いても部屋の中はどんよりとした空気に包まれてしまう。もうここには商業的な成功を目指す姿勢などから脱し、逆に「もう失うものなど何もない」という吹っ切れた地点に達したアレックスの姿がある。

 Big Starの最初の2枚は、ある意味で後のパンク・ロックの前兆として引き合いに出される事も多いようだけれど、この「Sister Lovers」には、すでにこのままでポスト・パンクに直結する美しさに満ちている*2

 ‥‥とにかく、録音は終えてもレコードがリリースもされない訳だし、70年代の後半からは世捨て人のような生活を送っていたらしい。皿洗いの仕事をしながらTVも電話もない部屋に住んでいたという伝説もあるけれど、彼の音楽を聴くとそんな背景も納得されてしまう。相当のアルコール依存症だったという話も聴くけれど、たまにライヴをしたり、セッション・レコーディングをしたりなどという生活を、ニューヨークとメンフィスを往復しながら続けていたらしい。そんな中でぼちぼちとレコーディングした曲がEP盤で密かにリリースされたり、ミュージシャンとの親交もあれこれと成果を産み始め、80年にはソロ・アルバム「Like Flies On Sherbert」をリリース。ま、このアルバムのレコーディング・メンバーは「Sister Lovers」の時と重なる部分もあり、その延長上にあるとも捉えられるけれど、ここには頽廃というよりは狂気のパーセンティジが高い。カーター・ファミリーのカントリーからKC & Sunshhine Bandのディスコ・ナンバーまでの、あちこちのジャンルからのカヴァー曲がアルバムの半数以上を占めていて、これも以後彼の路線の特徴的な端緒になると思うのだけれど、ソウルやリズム&ブルースなどのホーン・セクションを単純にギターに置き換えたシンプルなアレンジを基本にして、あくまでも「歌もの」として彼の歌を際立たせて行く路線。ただし、この「Like Flies On Sherbert」では、エフェクトをかけた奇妙なギター音や、ノイジーなピアノ音がフリーキーな空気を醸し出していて、これ以降の彼のソロ作品のシンプルさにはちょっと距離がある。しかし、1曲目のSunshhine Bandのカヴァー曲「Boogie Shoes」の、フリーキーにゆるいアレンジにはいつ聴いても参ってしまうのだけれど。

 ま、この頃にはニューヨークのCBGB(ニューヨーク・パンク発祥の地として有名なライヴ・ハウス)の常連アーティストだったりもして、ソロ活動も順調、そのニューヨーク・パンク誕生の仕掛人的役割も果たしていたようで、知名度も上がった85年頃からは連続してソロ・アルバムをリリースしはじめる。途中何年も新作が出なくってやきもきもさせられる事もあったけれど、今現在もそのようにしてアルバムをリリースし続けてくれている訳。そんなアルバムも、もうそれから10枚前後リリースされているのかな。あぁ、どうでも良い経歴書き過ぎ。やっと終った。

 で、要するに、アレックス・チルトンのアーティストとしての立脚点は、「歌」そのものにあるのではないかな、などと思うのだけれども、ではそんなにこの人歌が上手いのか、というと、必ずしもそういう訳ではない。そういうのではなくて、「歌を唄う」という事の原初的なエモーションを、実にストレートに伝えてくれる人だと思う。ま、そこにこそビッグセールスに結びつかない理由もあるのだろうけれど、歌の上手さで聞かせようとかするタイプではない。そういう、商業的にセールスに直結するような華飾を取り払ったシンギング、と言えばいいのか、ある曲を取り上げて唄う時、わたしならこう唄うというのを、その絶妙の選曲とともに、とてもシンプルに、その曲の持つ本来のエモーションを引き出しながら聴かせてくれる訳だ。だからこれはこれで一種の「名人芸」という領域に踏み込んでいると思うのだけれど、アメリカのポピュラー音楽の歴史を背景にした、アーティストと歌との幸福なコラボレーションと言えばいいのだろうか。

 そういう路線は、10年ほど前にリリースされた全曲カヴァー曲からなる「Cliches」からはっきりして来ていて、前作「Loose Shoes and Tight Pussy」も全曲他人の歌、この「Live in Anvers」も、Big Star時代の1曲、ソロ時代の1曲を除いて全部カヴァー曲で占められている。

 ソングライターとしてのアレックス・チルトンもまた魅力的であることは確かなのだけれど、現在の、ソウルからジャズのスタンダード・ナンバー、今では知る人も少ないだろう60年代ポップスのマイナーヒット曲、カンツォーネまで含めて雑多なジャンルから選曲して来るセンスが、まずはわたしなどにはたまらない。例えばこの「Live in Anvers」の5曲めに収められている「634-5789」という曲は、65年頃のウィルソン・ピケット(Wilson Picket)のヒット曲だけれど、今この曲を知っている人の数なんか、たかが知れているだろう。実際、アメリカのamazonでこのアルバムのユーザー・レヴューを見ると、この曲をSam & Daveの曲と勘違いしているレヴューがあるし、こういう、大ヒット曲ではないちょっとマイナーな曲を取り上げる所が大好き。って、実は、アレックス・チルトンとわたしとは、あんまり年齢の隔たりがないのだね、本当の所(いや、向こうが年上ですよ。2〜3歳)。だから、少年時代マニアックな洋楽ファンだったわたしには、つい彼の新しいアルバムを見て、「あ、こんな曲を取り上げているんだ」とよろこんでしまう。

 その前々作「Cliches」では、ギター一本でジャズのスタンダードナンバーを唄い、特にチェット・ベイカー(Chet Baker)のレパートリーを3曲も取り上げる偏愛ぶりを見せ*3、前作「Loose Shoes and Tight Pussy」ではベースとドラムを入れたバンド編成で、Johnny Guitar Watsonとかのブルース曲、リズム&ブルース曲、ジャズ・ナンバーなど、つまりはアレックスにとっての「ルーツ・ミュージック」を中心にした選曲。このアルバムのレコーディングはニューヨーク、ミックスはメンフィス、発売はフランスのレーベル「Last Call」からと、近年のアレックスの活動地域をそのまま反映している。そう、この20年ほどは、彼のアルバムはたしか全て、まずはフランスでリリースされているようだ。それが逆輸入される形でアメリカ盤がジャケ違いなどでリリースされる*4。ちょっとこういうのって、アメリカの作家なのにいつもヨーロッパでその作品が出版されていたパトリシア・ハイスミスの事なんかを思い出す。そんな彼も、「Cliches」と「Loose Shoes and Tight Pussy」のリリースの間には、彼のファンであるというThe Posiesのメンバーを2人入れて「Big Star」を再結成、来日公演も果たし*5、その後にはなんと「BoxTops」の再結成までやらかしてくれて、わたしを驚かせてくれたりもしたけれど。このあたりの再結成の理由も純粋に経済的な理由からのようで、そのあたりはっきり割り切っちゃってる彼の姿勢は小気味良かった。

 で、この新作「Live in Anvers」、オフィシャルなものとしては初めてのソロ・ライヴ盤らしいけれど、今年の1月30日にベルギーで録音されたもの。バックはギター、ベース、ドラムの3人のベルギーのミュージシャンがつとめているけれど、このバックの音だけで聴かせてしまう瞬間などもあって、実力のある人たちみたいだ。とにかく、アルバムは司会者のドイツ語(?)と英語を交えての、「The Letter」の一節を唄うなどの超オーヴァーな恥ずかしくなるような大げさな紹介から、ギターのセッティングする音なんかもそのまま録音され、最後はまた司会者の言葉と、「See you later!」の声まで。ひょっとしたらまったく編集せずにライヴの音を最初から最後までそのまま全部CD化しているのかも知れない。ここで唄われる12曲の内2曲は前作からの曲、2曲は古いレパートリーで、それ以外の8曲は全てここで初めて聴く事ができるカヴァー曲ばかり。ま、1曲はクラシックのソナタをギターに編曲した小品だから、実質11曲か。

 しっかし、前作、前々作から続く、この安定した充実ぶりは驚異的だと思う。こんな調子で年に1枚ずつぐらいのペースで新作を発表してくれるといいのに。さらりと唄う中に、彼独特の力みとちょっとした恥じらいの入り交じった声は、言ってしまえば「枯れた」魅力という事になるのだろうか。この人のライヴはいつもチューニングが合ってなかったりして、今回も微妙にずれている気がするんだけれど、それさえも彼の魅力の一つに数えてしまいそう。ハイライトはね、前作で「April in Paris」を奏ったからここで取り上げたのか、「Autumn in New York」での哀愁を帯びた渋い歌声と、泣かせるギター、これに尽きますね。こういうのを聴くと、彼のチェット・ベイカーへの傾倒ぶりも理解出来る。この頃は一日に一回はこの曲を聴かないと何か落ち着かない。

 あぁ、書いているとキリがない。相当長くなってしまったし、悪癖にしないためにも、この辺りでやめておきましょう。あ、今度はソロで来日して下さい。どこか、Tom's Cabinさんとか、呼んで下さい。

*1:Dan Pennは、5年ほど前に出したSpooner Oldhamとの共演ライヴ盤(名作!)の中で、かつてBoxTopsのために書いた曲を2曲歌っている。

*2:後にイギリスの4ADレーベル「This Mortal Coil」というプロジェクトをスタートさせた時、そのファースト・アルバムに、この「Sister Lovers」から「Holocaust」と「Kangaloo」の2曲をカヴァーした事で、当時一瞬アレックス・チルトン・ブームが巻き起こったりした。実はわたしもこの経緯で彼を再発見したのだけれど。

*3:これ以前にも彼は、「Medium Cool」とかいうチェットヘのトリビュート・アルバムで3〜4曲彼の曲を唄っているけれど。

*4:「Loose Shoes and Tight Pussy」は、さすがにヤバいタイトルでありますから、アメリカでは単に「Set」というタイトルになっていた。

*5:もう10年前になるのかな。渋谷のCLUB QUATTRO、もちろん行きましたよ。女性もののポロシャツを着てスカーフ巻いたアレックスの姿はそりゃもうカッコよかった、ってミーハー気分になってしまったあの時。

■ 2004-12-16(Thu)

[] 『家守綺譚』 梨木香歩:著  『家守綺譚』 梨木香歩:著を含むブックマーク

   家守綺譚

 知らない作家だけれど、装丁にちょっと惹かれて読んでみた。おそらくは明治時代の中期〜後期あたりの設定。琵琶湖らしい所の畔に居を構える文筆業を営む青年が主人公、居を構えると言っても、主のいない家の管理人のような役回り〜守宮(ヤモリ[家守])〜として、その旧家に住み始めるのだけど。

 初夏から始まって春で終わる、その二十八章に皆植物の名前の付けられた歳時記的な体裁でもあるのだけれど、まずは家の掛け軸の中から、昔湖で行方不明になった友人がボートに乗って現れる。つまりはこの旧家はその友人の家でもあったわけなのだけれど、この家の周りにはフォークロア的な異界の住民(?)が次々と姿を現す。河童とか、人魚とか、植物の精とか狸とか。これらの事象にやけに詳しい隣のおばさんとか、霊能力のあるらしい飼い犬とかが絡んでの時代物ファンタジー。ま、この作品に出て来る「もののけ」たちは、日本のフォークロア伝承そのままのディティールを引きずって登場して来たり、作者が勝手に創作した性質を持っていたりと、まぁそれこそ『もののけ姫』みたいなものなのだけれど、時代を明治ぐらいと据えた事で、そのあたりが趣味の人などに対しては心地よいノスタルジー感が漂うだろう。

 ちょっと前に、友だちから『蟲師』というマンガを借りて読んだのだけど、ちょっとテイストが似ていたので、その友だちにこの本の事を教えてやろうかと思っている。

 ただ、この本の中で起こる事はいかにもキレイキレイした世界で、怪異とまではたどりつかない。そう考えると、途中で主人公が寺へ行く途中に、狸に化かされて道に迷うシーンなどもあり、死んだはずの友人が現れたりする事も考えると、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』の口当たりのいい翻案ではないのか、という事になるのだけれども、ここでは主人公が完全に道に迷ってしまうような事は起こらないのだ。そういう意味では趣味の世界に留まってしまう作品だとは言え、きっちりと一つの世界を描いた(ちと後半拡散気味だけど)楽しい本だった。終わり方が、ハリウッド映画みたいに続編もありそうだと思わせるあたりにも、この作家の姿勢が垣間見えはするけれどね。

 

 

crosstalkcrosstalk 2004/12/16 14:15 昔エジプトでワニ狩りをしていた頃の懐かしい写真が出て来たので、トップに載っけました。わたしはこのワニの腹の中にいるので、外からはわかりませんが。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041216

■ 2004-12-14(Tue)

[] 横浜トリエンナーレ2005も「台風の影響」で中止か?  横浜トリエンナーレ2005も「台風の影響」で中止か?を含むブックマーク

 門外漢としてあまりどうこうと言える立場ではないけれども、1年会期を遅らせて、すでに来秋開催が決定している「横浜トリエンナーレ」が、またガタガタしているようだ。関連ニュースソースは以下の通り。

曽田修司さんのブログ〜最初このブログでニュースを知りました〜

Web版毎日新聞12月14日の記事(すぐに読めなくなるでしょう)

横浜トリエンナーレ2005・フリンジ

横浜トリエンナーレ2005公式サイト(ディレクター交代の記事が簡単に掲載されています)

 表面上は、トリエンナーレ2005のディレクターが磯崎新から川俣正に交代した(って、この時期に!)、という事なのだけれど、曽田さんのブログを読む限りでは、そもそも横浜市行政側において、トリエンナーレ自体を否定的に捉えるような動きが前回から存在していたということだ。前ディレクター磯崎氏のディレクションに対する疑問もあるだろうが、どうもこの背後には、構造的にトリエンナーレを阻止しようとする圧力が存在するということだろうか。

 とすると、ここにも、現場で必死に来秋開催に向けて努力する学芸員やヴォランティアと、そのような推進力を持たないというか、マイナスのベクトルで作用しようとする(?)上層部という構造。つまりこれは、わたしがずっと追跡している「栗東文化会館さきら」における丹野賢一「026METAL」公演中止問題とリンクする問題、というか、その拡大版なのではないだろうか。

 ‥‥おそらくは、このまま現在の見取り図(そのようなものはないか?)の通りに来年トリエンナーレが開催されても、その成果がどのようなものになるかは、もうある程度見えてしまっているのではないだろうか。かと言ってこれ以上先延ばしする事も出来ないだろうし、中止してしまえばそれでもう、全ておしまいということになってしまうだろう。次の機会は永遠に訪れない。何か大きな方向転換が必要だろう。このジレンマの中で何かをなさねばならない当事者の方々に、とりあえずはエールを送り、今後の動きを注目して、何か出来る事を考えてみたい。

 

●12月15日付記:その後、とりあえず情報を得る事を第一義としてあれこれと検索してみた。自分の知り合いの中にトリエンナーレに関わっている人、問題の「横浜国際会議2004」を聴講した人もいないから仕方ない。そんな中で、上に記した「横浜トリエンナーレ2005・フリンジ」の公開されたメーリングリストを見つけ、その中にインディペンデント・キュレーターのAさんのメールが引用掲載されているのを読んで、心動かされた。この視点だ、と思った。

 

 

■ 2004-12-13(Mon)

[] 愛知県文化振興事業団プロデュース『water witch 〜漂流姉妹都市〜』 @ 愛知県芸術劇場小ホール  愛知県文化振興事業団プロデュース『water witch 〜漂流姉妹都市〜』 @ 愛知県芸術劇場小ホールを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041213232745:image

 今年はこの「スエヒロケイスケ:作/寺十悟:演出」という組み合わせの舞台を3つも見てしまった事になる。しかもその3つの舞台はそれぞれ異なるプロデュースの下での上演、えっと、5月が「猫田家プロデュース」による『ニールトーキツ』で、8月が「tsumazuki no ishi」での『寝覚町の旦那のオモチャ』。で、今回は「愛知県文化振興事業団プロデュース」として、「第4回AAF戯曲賞受賞作」としての公演。はい、実はわたしはこの日、この舞台を見るだけのために名古屋まで行って来たのです。これじゃまるで演劇ファンみたいだ。

 とにかくわたしがこのコンビによる舞台が好きなのは、そのち密なディテールの下から、密やかなねじれ、隠された狂気が匂い起って来るようなおぞましい瞬間が立ち現われて来るからかな。5月の『ニールトーキツ』も良い舞台だったし、8月の『寝覚町の旦那のオモチャ』は一般には評判はあまり良くなかったようだけれど、いかにもこの二人のコンビらしい、大仰にならない、日常からちょっとだけリアルにずれた狂気がおぞましい秀作だった。

 で、今回は良く知らないけれど「なんとか戯曲賞」も受賞した作品らしいし、とにかくかつて「少年王者舘」でブイブイ言わせた(って死語)中村榮美子が久しぶりに舞台に出演する事も、わたしに名古屋行きを決意させた大きな要因ではあった。他にも、今は「少年王者舘」の看板女優かよ!という夕沈、かつて「少年王者舘」に客演もしていた記憶があるジル豆田なども出演。少年王者舘が挑む狂気の世界!って感じではある。

 ‥‥とにかく、会場の愛知芸術文化センターは立派な建物である。そのB1が芸術劇場の小ホール。東京でいえば新国立劇場の小ホールに近い空間。おそらく今回はこの公演に合わせた特殊なセッティングになっていたと思うけれど、中央に舞台として、マンションの屋上とそこに建つプレハブ小屋がリアルに再現されていて、観客席はその舞台を両サイドから挿むように構成され、ま、舞台上では観客側からの視点としての「前」とか「後」という構造はない。

 寺十悟の演出はいつもそうなんだけれども、手抜きをしない精緻な舞台美術が今回も素晴らしい。コンクリートの質感、階段室上の給水タンクのサビまでリアルに再現され、ごちゃごちゃと置かれたゴミ*1の類いまで存在感にあふれている。この舞台美術を見ることができただけでも収穫。

 物語は、小さなマンション(女性専用)の屋上にプレハブ小屋を建てて住んでいるそのマンションの大家である三姉妹と、そこの数少ない住民たちとの話、というか、物語の中心は二人の中年女性、ひきこもり気味の長女と、自立し切れない次女とのやるせない物語、チラシによると「ハードメルヘン中年少女ブラックコミックプレイ」、という事になる。

 で、いきなり苦言。前回の『寝覚町の旦那のオモチャ』での役者のぼそぼそした語りが不評だったせいか(いや、わたしはアレでいいと思ってたんだけれど)、いきなりのがなりたてるような怒鳴り声の投げ付け合い、しかもこれがラストまで間髪を置かずに繰り返される展開は、鈍行列車での長旅の末にようやくたどり着いたわたしにはちょっとキツかった。寺十悟の演出はいつもそれなりにエキセントリックさを内包するとはいえ、冷たさの中に熱さを秘めたような、表面的にはクールな魅力があると思っていたのだけれども、このようなヒート全開の演出には少々戸惑う。ま、4〜5年前の『ガソリン・ホット・コーラ』もこんな感触の演出だった記憶があるけれど、あそこでの世界はもっと外に拡がって行く性質のモノだったし、今回の一種内攻する精神世界の展開にはちょっとそぐわなかった気がするのだ。スエヒロケイスケの原作にしても、これまでの男の内面の薄気味悪いねじれの世界ではない、中年女性を主人公としたねじれを目指したのであろうが、正直言ってこれでは発育不全な人物を描いただけに見えてしまう。薄気味悪さには至らないあたりに、わたしとしては不満。とにかく来年4月の東京公演に期待しよう。

 あ、中村榮美子は、「少年王者舘」時代からはグンと飛躍した、凛とした警官ぶりで好感を持った。とにかく舞台映えする役者なのだからこれからも活躍してほしいけど、こういうキャラだと、もう「少年王者舘」では役がないか。
 (12月11日観劇)

 

 

*1:名古屋のゴミ袋が、完全に透明である事を発見した! 東京は半透明だぞ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041213

■ 2004-12-12(Sun)

[] 第2回府中ビエンナーレ 『来るべき世界に』@ 府中美術館  第2回府中ビエンナーレ 『来るべき世界に』@ 府中美術館を含むブックマーク

 参加・出品作家は以下の通り。

 安岐 理加 AKI RIKA
 池田 光宏 IKEDA MITSUHIRO
 石川 雷太 ISHIKAWA RAITA
 磯崎 道佳 ISOZAKI MICHIYOSHI
 河田 政樹 KAWADA MASAKI
 田中 陽明 TANAKA HARUAKI
 照屋 勇賢 TERUYA YUKEN
 増山 麗奈 MASUYAMA RENA

 そのチラシに「作家のコミュニケーション行為に関わるアートに光をあてるもの」とあるように、8人の作家それぞれの、既成の展示の枠組みから離れたワークショップ、パフォーマンス、さらにより政治的(?)行動を伴った企画であり、そのような見方として、より複合的な視点から楽しめる展覧会だと思うし、これからもさまざまなシンポジウム、ワークショップ、パフォーマンスが企画されているようで、それもまた楽しみ。

 わたしが興味深く見たのは池田光宏、石川雷太、照屋勇賢の作品だったけれど、池田光宏の、窓にレインボウカラーの照明をあてて人のシルエット映像を投影する作品の、いろいろな地域での記録ヴィデオは、ヴィデオ自体の編集にもそこはかとないユーモアが仕組まれていて、それ自体として見て楽しかった。彼の1階の展示は場所が気付きにくいし、外から見るにも暗くなってからでないとあまり効果がないだろう。そういう意味ではこの展覧会は閉館まぎわに見に行った方がいいと思う。
 しかし翌日、普通の家の窓の中でクリスマスの電飾が思いっきりカラフルに点滅している様を、電車の窓から見てしまった時には、この時期にはこんなアートも効力が薄いな、なんて思ってしまった。

 石川雷太の作品は、いちばん奥の部屋全体に鉄板を吊るした作品。床には割れた黒いガラスが一面敷き詰められ、鉄板にはミサイル兵器のシルエットが赤く描かれ、兵器の各スペックが白文字でカタログのように書かれている。部屋には石川雷太自身のノイズ・パフォーマンス・ユニット「erehwon」の音源が流され、照明もまるでその部屋が「聖化」された教会ででもあるかのように神々しく作品を照らしている。作品の説明には、生きるためには武器を取らなければならないイラクなどの戦闘地域の現状が示され、来本的に歪んでしまった世界のありさま、そんな世界に生きる事への新たな認識に観客を誘う。
 ただ、残念なのは、床にガラスを敷き詰めたからか、その展示の中に入って行く事が出来ない事で、その作品の内側に視点を持って行けばもっと異なった光景が広がっていたのではないかと思う。

 照屋勇賢の作品は記憶も新しい沖縄でのヘリコプター墜落事件を題材にしたもので、事件の際に日本人関係者がすべて立ち入り禁止に去れていたにもかかわらず、米軍関係者へのピザ配達だけがフリーパスだった事実から作られたもの。会場の床にはピザの配達用パッケージが方形にいくつも並べられ、ちょっと、アンディ・ウォーホールのBrilloのパッケージを並べた作品を思い出す。しかし、そのピザ・パッケージの裏には、ニューヨークタイムズに掲載されたその「ピザ事件(?)」のてん末を書いた記事が載せられていて、さらにそのパッケージの内側には、照屋氏自身が沖縄で子供達を集めてヘリ墜落現場で行った写生大会(?)の、その子供達の作品が、どのパッケージにも描かれている。それらの絵を見ていると、写真などで見るのとは違った生々しさが立ち上がって来るようだし、作家である照屋氏自身の視点(自分では何も描いたりしない)などが際立って来る。

 この三人の作品以外では、最近「桃色ゲリラ」としての活動も盛んな、増山麗奈の存在、という所に眼が行ってしまう。実はわたしがやっている「crosstalk」というイヴェントで、一度公募などという事をやった事があるのだけれど、増山麗奈さんはその時の出品者でもあったので、ま、変わらない人だな、などという印象もあるのだけれど、こういう人の活動を積極的に取り上げる視点には賛同する。


 

 

■ 2004-12-10(Fri)

[] 『METAL−MEETING vol.2』12月22日 @ アサヒビール本部ビル3階・大会議室(浅草)  『METAL−MEETING vol.2』12月22日 @ アサヒビール本部ビル3階・大会議室(浅草)を含むブックマーク

2004.12.22.Wed Open 19:00 Start 19:30 入場無料

 緊急開催!

「METAL-MEETING Vol.2」

丹野賢一/NUMBERING MACHINE+石川雷太「026−METAL」
再演に向けての「METAL-MEETING」京都に続く第二弾!

2004年10月、滋賀/栗東芸術文化会館さきらの暴挙の中で行われた「026-METAL」。
そこで何が行われたのか、その報告、検証、作品のヴィデオ上映会を開催致します。


<参加>

丹野賢一(パフォーミング・アーティスト/丹野賢一/NUMBERING MACHINE)

石川雷太(美術家)

スカンク(ミュージシャン)

羊屋白玉(劇作家、演出家、俳優/指輪ホテル)

他 「026-METAL」スタッフ


主催/NUMBERING MACHINE

問い合わせ/TEL・FAX 03-5377-1983
 mail@numberingmachine.com

(以上、NUMBERING MACHINEホームページより転載)

 

 

[] 『ソングブック』 ニック・ホーンビィ:著 森田 義信:訳  『ソングブック』 ニック・ホーンビィ:著 森田 義信:訳を含むブックマーク

   ソングブック (新潮文庫)

 むかし『ハイ・フィデリティ』が文庫で出た時、本屋で立ち読みしていたらリチャード・トンプソンについての記述を見つけてしまったので、仕方なく買ってしまった。映画も見た。年が過ぎて、本屋で『ソングブック』という文庫本を手にし、その目次を見ると、「キャルバリー・クロス」というリチャード・トンプソンのレパートリーの曲名が出ていた。仕方なくまた買ってしまった。で、この『ソングブック』の著者が『ハイ・フィデリティ』の著者でもあるということは、その本屋で立ち読みをした時に知った。

 『ハイ・フィデリティ』は軽いタッチの楽しい本だった。そこで書かれていた音楽ネタもわたしには皆身近なものだったし、昔わずかな情報を頼りにレコードを買い漁っていた頃を思い出したりした。映画版では、舞台をロンドンからシカゴに移してしまったことで、イギリスからという視点の面白さが失せてしまってはいたけれど、レコードジャケットがあれこれ写し込まれてしまう視覚的な楽しみが堪能できた。ニック・ドレイクのアルバムがさりげなく写っていたのは、その舞台をアメリカに移してしまったことへのエクスキューズだったのかも知れない、などと考えるのも楽しかった。

 音楽を聴く楽しさを文章で伝えるのは難しいと思う。昔は、植草甚一などという、その分野の名人がいたけれど、今あふれている音楽(特にロック)について書かれた文章は、たいていは、その音楽の背後にあるデータ的な事象を書いているだけだったりする。そういう意味では、この『ソングブック』という本には期待した。って、まず、この本に出て来る曲の大半を、わたしは知らないのだし。

 ‥‥出だしは好調だった。特に、ツェッペリンの『ハートブレイカー』(おそらくはこの本で取り上げられた曲の中で最も著名な曲だろう)についての章なんか笑ってしまったし、ディランの『窓からはい出せ』などは、わたしも大好きな曲として、著者の聴き方を受け入れる事ができる。また、知らない曲についても「どんな曲だか聴いてみたい」という興味は抱かせてくれた。

 しかし、本のページが進むにつれて、この著者はだんだんに自分の事、個人的な事柄をその視点の真ん中に置くようになってくる。昔、トム・ウェイツのアルバムを買った時だったと思うけれど、その国内盤のライナーノートは、全編書き手の個人的な(読み手にはどうでもいい)追想に埋め尽くされ、そこにひょっこりとBGMとしてその音楽が挟み込まれてくるような代物で、ま、要するにウンザリしたわけだ。で、このニック・ホーンビィさんも、結局はそんな地平にたどり着いて、この本は終わる。ちょっと始末が悪いのは、ニックさんは、少し自分が有名になってしまったんだから、そんな自分の個人的な事に読者も興味を持ってくれているんじゃないのかな?って思いながら書いているようなフシがある。そんなのは例えば「一人寂しくバーで酒を飲んでいたら、トム・ウェイツの歌が聴こえて来た」という一行ですんでしまう。それ以上、語れば語るほどに陳腐な事柄になってしまう。音楽にはそんな作用を及ぼす力もある。

 それと、この著者の根底に流れる保守的な感覚に、わたしは違和感を覚えた、という事もある。趣味の問題で言えば、例えば、わたしはネリー・ファタードの折衷路線は絶対に好きにならないだろうし。ま、音楽の趣味の問題であれこれと言うのはそれこそ趣味が悪い。

 翻訳について言えば、もう少し訳注があってもいいのではないだろうか。例えば、<クリスティーナズ・ワールド>とだけ書いて、今の読者に何の事だか解るだろうか? これでは誰かの歌った曲の曲名みたいだけれど、ここではアンドリュー・ワイエスの絵画作品のタイトルだろう*1し、「映画『まじめが肝心』のサントラ」などといきなり言われても、日本人にはそんな映画を見た人はいないのだから*2

 

 

*1:これは翻訳者自身が了解していない可能性が高いけれど。

*2:もちろん原作はオスカー・ワイルド。2002年に製作された映画らしいけれど、コリン・ファース、ルパート・エヴァレット、ジュディ・デンチなどが出演しているにもかかわらず、日本未公開。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041210

■ 2004-12-07(Tue)

[] バンド・エイドのジレンマ(Do They Know It's Awful?)  バンド・エイドのジレンマ(Do They Know It's Awful?)を含むブックマーク

 (MTVJAPAN.COMより)

 さて、2004年版「Band Aid」、「Band Aid 20」の『Do They Know It's Christmas?』がリリースされたわけですけれど、とにかく単純に頭使わないで20年前の焼き直しをやっているだけだということ、参加アーティストに魅力がない(?)ことなどから、イギリスの音楽ファンはちょっとしたジレンマに陥っているようです。つまり、チャリティの趣旨には賛成だけど、クソ(失礼)のようなCDをコレクションに加えるのはゴメンだと*1

 そこで、解決策を提示して出て来たのがこのサイト。

 http://www.BandAidDilemma.net

 ‥‥解決策は次の通り。

■余裕のある範囲で、出来るだけ「Band Aid 20」の『Do They Know It's Christmas?』のCDを買う。

■そのCDを楽しいやり方で破壊・始末して、写真に撮る。

■俺たちに、その写真を送ってくれ。

 ということで、Galleryにはすでに相当の数の破壊工作写真が集まっているようです。


f:id:crosstalk:20041207181910:image

f:id:crosstalk:20041207181835:image  f:id:crosstalk:20041207181942:image


 えっと、実はわたしも、10年ほど前に、自分の作品に使うためにCDをガスコンロの上でお餅を焼くようにこんがり焼きました。とってもきれいな色に焼きあがりましたよ。って、焼いたりしたら環境問題的にはどうなんだろうか。

 

 

*1:そもそもわたしには知らないアーティストだらけですし、ちょっとわたしの生活も人に助けてもらいたいぐらいなので、このCDは一生買わないと思いますが。ハイ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041207

■ 2004-12-06(Mon)

[] 『恋の門』 松尾スズキ:監督 @ 渋谷シネマライズ  『恋の門』 松尾スズキ:監督 @ 渋谷シネマライズを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041207132520:image

 見ていて、「なにわ天閣」のバカ映画を見るに近いテイスト、いや、匂いがして来た。などと書くと、なにわ天閣氏に対して失礼だろうか。おっと、「なにわ天閣の正体」については内緒ですが。

 ここにはおそらくはウェル=メイドな佳作を産み出そうという姿勢はない。ラストなんか、わざと整合性から逃れて、あまりに強引な大団円に無理矢理持ち込もうとしているフシもある。とにかく、小技勝負。圧倒的なディティール。その過剰なまでの情報が向かう方向は、決して多数に簡単に受け入れられる質の物ではない。どうも、ここで目指されているのは、メジャーな娯楽文化に対抗するマイノリティの娯楽、という事ではないだろうか。ま、そう言ってしまえば松尾スズキが主宰する「大人計画」の舞台*1なども同じ文脈で語ってしまえるのだけれども、とにかくこれは単館上映とはいえ、映画館で一般公開される「一般映画」なのだから。

 この奇怪なシチュエイションは、とりあえずは了解可能だろう。石を使って「芸術漫画」を描く*2青年と、コスプレと同人誌コミックにはまる女性との出合い。この導入部はスピーディーで先の展開に期待を持たせるのだけれど、その後の展開は、必然性のない脱線にまみれながら、そのラストシーンのように転がり落ちて行く。ある意味すべては空虚な空騒ぎであり、同じようなサブカルっぽい展開を見せた石橋義正の『狂わせたいの』のような不条理感覚も残らない。『バミリオン・プレジャー・ナイト』のように観客においてきぼりを喰らわせるようなスコーン!と抜け切った感覚もない。

 そういった、いわば「ないないづくし」の方法論の中で、その「何もなさ」こそがこの作品の一つの面白さであって、そこに(失礼な比べ方〜え?どちらにとって失礼なの?〜かも知れないけれど)なにわ天閣映画と共通する娯楽の形があるのではないかと。

 ただ、この作品には、松尾スズキ人脈と言っていいだろう豪華なメンツがあちこちに顔を見せ、往年のハリウッド・オールスター映画、東宝お正月映画のようなキラ星スター総出演という、まことにもって贅沢な楽しみがある。とにかく奇人変人大集合的な展開の中で、普段だったらすぐにそれと分かるような人物も影が薄くなってしまう。先にこんな人も出ているとの予備情報も仕入れていたのだけれど、見ている時にはすっかり忘れてしまっていた。井口昇、気が付かなかった。それにあのヌードモデルが佐々木ユメカだったとは(タトゥーで気が付くべきだったか)。

 

 

 

*1:また今回も観る事が出来なかった!

*2:って、どうしてもつげ義春の『無能の人』を思い浮かべてしまうのだけれど。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041206

■ 2004-12-05(Sun)

[] 蜷川実花『photographs 2001-2004』 @ 小山登美夫ギャラリー  蜷川実花『photographs 2001-2004』 @ 小山登美夫ギャラリーを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041205132820:image

 ‥‥原色は遍在する。商品として世界にあふれるプラスティック製の工業製品。そして青い空、赤い花、緑の大地もまた、原色にあふれている。彩度を高めて並列されたこれらの写真には、「世界はそのあるがままの姿でポップである」と納得してしまいそうな説得力がある。

 

 

 

[] 安藤正子展 @ Project Room(小山登美夫ギャラリーB1)  安藤正子展 @ Project Room(小山登美夫ギャラリーB1)を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041205132646:image

 大正昭和浪漫的少年少女世界の超細密描写。例えば絵の中でテーブルに置かれた毛糸編みの手袋は、その毛糸の網目の一本一本まで精密に描き込まれている。少年は花を纏い、少女は鳥に囲まれる。ここにあるのは明らかに蕗谷虹児や高畠華宵の世界の現代への屈折した移植であり、同時代作家で言えば、加藤美佳の世界観に極めて近接しているだろう。

 あくまで挿画的に、平面性をそこなわずに面相筆で描き込まれた少年少女たちは、どう見ても日本人なのだけれども、その瞳はなぜか青い。で、ここに挙げた少年の絵ではそれほど奇矯な意匠は見られないのだけれども、連作として2点並べられた少女像には、一種奇怪なイメージがあれこれと埋め込まれている。右の作品では、少女はその乳首を抱いた小豚にふくませているし、左の少女の腹は妊娠しているかのように肥大している。少女の周りに配された小鳥たちも、大きな芋虫やミミズをくわえたりしている。そして何よりも、ここに描かれた少女の手。節くれだってうっすらと毛の生えた指は、ほとんどわたしの手と同じだ。

 そういった屈折した描写の陰から会田誠的方法論を読みとる事も可能だけれど、ここでの作品の構図のとりとめのなさが、作者の意図なのか、それとも力量不足から来るものかを見定めるには、次回の作品発表を待たなければならないだろう。
 (付記:「加藤美佳」というkeywordで訪れていらっしゃる方がいたので、加藤美佳ってそんなにメジャーなのか、と思ったら、同姓同名のアイドルがいたのだった。ここで言う「加藤美佳」は、こちら。そう言えば、黒沢美香というアイドル(?)もいるらしいのだ。)

 


  

[] 『変身』 フランツ・カフカ:原作 ワレーリイ・フォーキン:監督 @ 渋谷ユーロスペース  『変身』 フランツ・カフカ:原作 ワレーリイ・フォーキン:監督 @ 渋谷ユーロスペースを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041207132431:image (映画のラストに出て来るプラハ風景)

 3〜4年前に来日したロシアのメイエルホリド・シアター、その時もこの『変身』を上演したのだけれど、その同じ演出家による「映画版」。おそらくは出演者もメイエルホリド・シアターの役者たちで、来日メンバーと重なっているのだろうけれど、ザムザ役の男性は、舞台ではもっと小太りな人だった気がする。

 その新国立劇場小ホールでの日本公演だけれども、舞台上にイントレで2フロアのザムザ家を造り、先に予約してあった観客2〜30名だけがそのイントレの上の座席から下を覗き込むようにして観劇、残りのほとんどの観客は通常の観客席から、見にくい部分はヴィデオモニターからスクリーンに写し出された映像を見る、という形の、いわばアングラ演劇を無理やりコンサバな劇場装置の中に持ち込んだような公演で、ま、イントレの上まで登って観た人だけがこの芝居の正当な観客としての特権を一人占めした感じではあった。

 そうは言いながらも、一般観客席からイントレの隙間から覗きみたり、スクリーンの映像を見た限りでは、題材のエキセントリックさから距離を置いた、ユーモアを交えながらも衒いのない真摯な演出姿勢には良い印象を受けた記憶がある、

 さて、その「映画版」だけど、まずは配給元(パンドラ)の制作したチラシが、まったく情報の欠如した「困ったチャン」。とにかく、監督名はおろか、制作年度、制作国その他映画作品自体の情報が皆無と言う、世にも珍しいチラシであって、最初目にした時は「これは仮チラシなんだろう」と思っていたけれど、結局最後までこのチラシだけだったようだ。いったいなぜこのようなチラシで通してしまったのか。おそらくはワレーリイ・フォーキンとかメイエルホリド・シアターなどと言っても、一般の映画ファンには知名度ゼロ、そのような情報を伝える事には意味がない、それよりは『変身』という小説の知名度だけで勝負しようと判断したのだろうけれど、じゃぁ先だっての来日公演は何だったのか、と言う事になる。当時はそれなりに客も入っていたし、来日公演として、上記のような問題はあったとしても、総体的に失敗の公演だったとは捉えられないだろう。つまり、単純に配給元は一部演劇ファンのことなど念頭においていないと言う事でもあるのだろうか。ま、あとは、「一匹の巨大な虫」になってしまったグレゴール・ザムザ、その姿をどのように映像として表現しているのか、それは見てのお楽しみ、という事にもしたかったのだろう。あ、そう考えてくるとちょっと辻褄が合って来る。先に舞台で上演されたモノだとチラシでばらしてしまうと、そこはかとなくチープ感が漂って来るではないか。なるほどね。

 と言うことで、この映画版にはハリウッドばりのCG映像はこれっぽっちも出て来ない。『スターシップ・トゥルーパーズ』はおろか、『裸のランチ』クラスの特殊造型も出ては来ない。そう、この映画では、その舞台版と同じように、「変身」は眼に見える形では表現されないのだ。つまり、ザムザは「変身」した後も観客の眼には変身前のザムザと変わらずに見えてしまう。おそらくはこの映画作品では、観客は、そのスクリーンに向けられる自らの特権的視点に、自分の眼を慣らさなければならないのだろう。スクリーンに映っているのは、実際にグレゴールの家族、いや、スクリーンの中に登場する人物が見ているグレゴールではないのだ。

 いったいなぜ、ワレーリイ・フォーキンはそのような演出にしたのか。「決まっているじゃないか、予算がなかったからさ!」と言う声が一斉にまき上がりそうだけれども、いや、それは附随する一要素に過ぎないだろう。そういう消極的理由からではなく、おそらくワレーリイ・フォーキンは、このカフカの寓意的短編小説の中のグレゴール・ザムザの視点を明確に視覚化するためには、グレゴールは人の姿のままであるべきだと、積極的に構想を練っている。今わたしの手元にその原作小説がないので確かな事は書けないけれど、確か小説は客観描写を基本にしながらも、ザムザの心情だけは立ち入った描写をしていた記憶がある。自分の部屋に掛けられた古い写真が持ち出されようとする時に、駆け寄って写真を守ろうとするのは、自分の古い記憶を守るためだとか、妹の弾くヴァイオリンの音色に魅せられて部屋から這い出す過程など、すべてグレゴールの内面に深く関わった行為だと描写されていたと思う。ま、単純に言ってしまえば、奇怪な虫の姿をしていても人の心は失っていないと言う事だけれど、この作品の演出は、実に積極的にグレゴールの内面に踏み込んで行く。そこには、あたかもこの原作自体が、このような映像化を望んでいたのではないか、とまで思ってしまう力強さがある。

 先に見た舞台版との相違を言えば、まずはザムザ家だけを舞台にして繰り広げられる、ある意味原作に忠実な舞台版に比べ、この映画版では、例えば夢のシーン、グレゴールの夢想、そして物語の締めとしての、ラストのグレゴール抜きでの家族でのピクニックヘの出発、などの映像が付加される事で、物語の空間が比類なく拡がっている。特にラストのプラハの市街を走る市街電車の映像があって初めて、グレゴールの無念さも強烈に観客に伝わって来るだろう。そして、カメラ・アイとして、グレゴールの眼から見られた外の世界を明確に他とは差異化して提示出来たのは、映画という手段でこそ有効ではあっただろう。そう見て来ると、ワレーリイ・フォーキンとしては舞台上演では乗り越えられない壁を、こうして「映画」という方法を選択する頃で、よりカフカの原作に肉迫しようとしたのではないだろうか。常に下から上目遣いに見上げられるグレゴールの瞳も印象的だし、作品全体から、家父長になることの不可能性を突き付けられたグレゴール(いや、カフカ自身)の哀しみが零れ落ちて来るではないか。もうこれ以上の『変身』の映像化はありえないだろう。

 

 

[] 『三人三色』 @ 渋谷UPLINK X  『三人三色』 @ 渋谷UPLINK Xを含むブックマーク

 「デジタルヴィデオ撮影/30分」という制約の下、「チョンジュ(全州)国際映画祭」のために制作された3本の作品の連続上映。上映会場である松濤の「UPLINK X」は、その名前からもシネマライズの作ったデジタル専門館「ライズX」を想起させるけれど、環境は、何か観客をみじめな気持にさせる「ライズX」の倉庫のような空間よりはずっとおされでハイソ。イイ椅子だな、なんて思っていたら、予告上映の時に「あなたがお座りになっているチェアーを買う事が出来ます」なんて言われてしまった。はい、持って帰るの大変だからまた今度ね。え、もちろんデリヴァリーサービスですよね。わかってますよ。

 

1.『インフルエンザ』 ポン・ジュノ:監督

 ソウルの街中に配置された「監視カメラ」に記録された、ある男の破滅への記録。う〜ん、映像はいかに現実を切り取るか、という問題に絡んで、「監視カメラ」の視点というのは、ハリウッド映画などで効果的に引用されるようにはなって来ているだろう。そうだな、わたしが今すぐに思い出すのでは、デヴィッド・フィンチャーの作品群とかだけど、近未来SFなんかでも「監視カメラ」の映像はそれなりに重要な役割を果たしたりもするだろう。で、この作品は、全編「監視カメラ」に記録された映像を編集したもの、という触れ込みの疑似ノンフィクション(フィクションだという事は見ている過程でわかって来るけれど、純真なわたしは「これは本当の監視カメラの映像か」って思いながら見始めていたよ)。

 この監督の作品、例えば評判になった『殺人の追憶』なども見た事がないけれど、「監視社会」という問題に対して、あまりにも無自覚すぎないだろうか。スクリーンに映される「監視カメラ」の捉えたというシチュエイションの映像は、つまりは監視者という存在の眼に映るものとして、隠し撮りされているわけだ。だから見ている観客の視線は当然「監視者」のそれになるわけで、そのような選択に対しての批評的視点が、この映像にはない。もう見始めた最初からわたしは言うに言われぬ不快感に囚われて、何度か途中で席を立とうかとも思っていた。

 つまり、この映像全体で一人の男の犯罪への転落の様を捉えているわけだけれど、最初の方の映像での、トイレでインチキ瞬間接着剤を売り捌く口上の練習をする男の姿が延々と映される。それを見ているわたしの眼は何なんだ? 人のプライヴァシーを覗き見している卑劣漢の眼ではないのか? わたしはこんなものは見たくない。権力構造に無自覚に権力の視点を選んでいるひどい作品だと思った。

 

2.『夜迷宮』 ユー・リクウァイ:監督

   f:id:crosstalk:20041207132325:image

 ユー・リクウァイ監督の作品は、先日の『山形ドキュメンタリー映画祭in東京』の際に『ネオンの女神たち』という印象的なドキュメンタリーを見て記憶に残っている。又、彼はジャ・ジャンクーの最初の2作の撮影監督でもある。

 この作品でも、主題はその方法論にあり、ここではかつてのサイレント映画の時代の作品が規範として制作され、人の声はすべて字幕で現わされる(それ以外の音はちゃんと聴こえて来るのだけど)。また、そのカメラ・アイも、そのほとんどが鏡とか反射物に写った影像を間接的にカメラにとらえるような方法であり、ピンぼけというか、鮮明度が低い。そんな非常に意識的な制作方法の下で、近未来の地下空間での男と女のおとぎ話のようなひとつの恋物語が語られる。話自体は他愛のない話であり、いかにも中途半端ではあるのだけれども、いったいどんな場所で撮影されたのかも判然としない空間の中で、黄色い光のトンネル、ネオンのまばゆい「トロピカル・ダンス・クラブ」、そして愛の発見される緑の部屋などと、夢見るような浮遊感あふれる映像は、その実験性も合わせて新しいロマンの世界を予感させ、わたしは好きだ。

 ラストのダンスのシーンやクラブの描写などの中に、前に見た『ネオンの女神たち』の反映を見つけることも出来、この監督の指向性を垣間見たような気もした。ぜひ次の作品を見たいと思う。

 

3.『鏡心』 石井聰亙:監督

 で、石井聰亙には、映像を記録することに対しての根源的な問い直しと言う姿勢はないようだ。というか、実に自信にあふれた、堂々とした美しい映像。しかも、ここで描かれた物語(またしても「物語」なのだ)自体が、石井聰亙が元彼女から聞いたという話、石井聰亙自身がそれを「現実の話」とも信じてもいないような、ある女性の超自然的体験を、映像に納めたものなのだ。

 ま、そういう意味では、石井聰亙も、「嘘話も映像にしてしまえば圧倒的なリアリティを与えることができる」という、ある意味映画本来の特性を、その制作内情をバラしながら映像化することで、何か新しい地平にたどり着こうとしているのだろうか。この作品のロング・ヴァージョンは、完全版として来年公開されるそうだけれども。

 実は、この作品の後半に現われる東南アジアの風景の、原色にあふれた美しい光景がそのまま今日見た蜷川実花の写真作品と直結し、そういえば蜷川実花の作品のモデルとして、この映像で主役をつとめる市川実和子も写っていたなぁなどと思い出すと、今日一日は見事な円環を描いて終わりを告げるのだった。

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041205

■ 2004-12-03(Fri)

[] 「ピカソの名作、便器の彫刻に負ける」(昨日の続き)  「ピカソの名作、便器の彫刻に負ける」(昨日の続き)を含むブックマーク

 昨日書いた『Most Influential Work of Art of the 20th Century』についてのニュースが、YAHOO! NEWSに掲載されている。で、この翻訳、変。

 [ロンドン 1日 ロイター] 世界の芸術をリードする500人に、最もインパクトのある現代芸術の作品5点選んでもらったところ、便器の彫刻が1位になった。

 ピカソの名作「アヴィニョンの娘たち」が2位、「ゲルニカ」が4位だった。

 ターナー賞のスポンサーとジンの製造会社が行ったこの調査によると、ピカソを負かして見事1位に輝いたのは、マルセル・デュシャンが、1917年に芸術界に衝撃を与えた便器の彫刻「泉」だった。

 また、3位にはアンディー・ウォーホルの「Marilyn Diptych」、5位はマティスの「赤いアトリエ」だった。

(ロイター) - 12月2日16時11分更新

 ここにニュースのソースが「ロイター」と書いてあるので探してみたら見つかった。これ

Toilet voted most influential modern art work

Wed 1 December, 2004 15:26

LONDON (Reuters) - They are two of the most recognised works of art in the world, and they have lost out to an autographed toilet.

Pablo Picasso's "Les Demoiselles d'Avignon" and "Guernica" came second and fourth respectively in a poll of what 500 leading art world figures regarded as the five most influential works of modern art in the world.

They were beaten to the top spot by Marcel Duchamp's "Fountain," a tilted and signed white urinal which he offered to a shocked art world in 1917.

Third place in the survey by Turner Prize sponsor and gin manufacturer Gordon's went to Andy Warhol's "Marilyn Diptych," with Henri Matisse's "The Red Studio" in fifth place.

 これが原文。まず、「世界の芸術をリードする500人」。をいをい、これぢゃあどんな作品が選ばれたかよりも、その500人っていったい誰だよ、ってそっちの方に興味が行ってしまう。‥‥「art world」の誤訳ですね。つまり、イギリスの美術関係者500人。これなら「あ、そ。」で片付いてしまう〜っていうのもイギリスに対して失礼かもしれないけど、ま、「世界の芸術をリードする」といきなり言われるほど驚きはしない。で、「most influential」を「最もインパクトのある」としてしまっていいか、という問題もあるけれど、とにかくこのデュシャンの作品を「彫刻」としてしまっている事。「便器の彫刻」、なんぢゃそりゃ。原文にはどこにも「Sculpture」なんて単語ないんだけど‥‥。

 探してみたら、このニュースはCNN.co.jpでも取り上げていた。とりあえず、こちらの翻訳はばっちり正解、って感じ。

最も影響を与えたモダンアートに、陶製の「便器」

2004.12.02
Web posted at: 19:58 JST

- REUTERS

ロンドン(ロイター) 英国の芸術賞「ターナー・プライズ」を主催するジン製造会社ゴードンズによる「最も影響を与えた世界のモダンアート」投票で1日、マルセル・デュシャンの作品「泉」(1917年)が1位に選ばれた。

投票は、500人の専門家が選んだもの。「泉」は陶製の白い男性用の小便器に、サインが施されているもので、世界中で認められているパブロ・ピカソやアンディ・ウォーホルの作品を抑えての1位となった。

投票では上位5作品が選ばれ、2位はピカソの「アヴィニョンの娘たち」、3位はウォーホルの「マリリン(Marilyn Diptych)」。4位に再びピカソの「ゲルニカ」が入り、5位はアンリ・マティスの「赤いアトリエ」だった。

 ただ、こちらも「They are two of the most recognised works of art in the world」を訳したつもりなのか、「世界中で認められているパブロ・ピカソやアンディ・ウォーホル」ってなっていて、これはCNNの主観。ロイターの言っている「two」ってえのは、ピカソの「アビニョン」と「ゲルニカ」の事を言ってるんだけど、でも、これも西欧的主観。って、つまりは「Art」は西欧文化の産物か。極東の日本で、デュシャンのレディメイドが「彫刻」扱いされる事もあるさ。まぁいいや。もう20世紀の事だし。

 ま、どちらも「エンタテインメント」枠で取り上げられていて、そうか、アートってやっぱりエンタテインメントなんだって再認識してしまうけれど、今回は自分の専門フィールドだったから、そのみょうちきりんさを確認できたけど、ニュースが翻訳されると(いや、翻訳などという経路をとらなくても)、場合によってはいかにゆがめられて伝えられるかという例ですね。いつもこういうニュース読んでるんだよね。皆。*1


 などと言いながらも、ちょっと記事自体も興味を持ったので、わたしにとって「influential」だった20世紀の美術を5点挙げてみます。

1. Eva Hesse "Right After"
2. Jackson Pollock "Blue Poles No.11"
3. Giorgio Morandi "Still Life"
4. Joseph Cornell "Medici Prince"
5. Damien Hirst "Mother and Child Divided"

 Eva Hesse

 Jackson Pollock

 Giorgio Morandi
 (ホントはこの作品ではないけれど)

 Joseph Cornell

 Damien Hirst

 ‥‥適当な選択ですが、画像のある所にリンクしてみました。

 

 

*1:ここに書いたのは、現象として一般論でYAHOOがダメでCNNが信頼置ける、ということを言いたいのではありません。

encyclopectorencyclopector 2004/12/04 20:47 僕の5点は、デュシャン「泉」とイヴ・クライン「モノブルー」とピカソ「横たわる女」カンディンスキー「コンポジション察廖▲泪謄ス「ダンス供
若干の偏見がありますね。こりゃ。ピカソだけでも5個選べますし。

■ 2004-12-02(Thu)

[] Most Influential Work of Art of the 20th Century  Most Influential Work of Art of the 20th Centuryを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20041202205134:image

 えっと、わたしも愛読しているサイト、「ABC(アメリカン・バカコメディ)振興会」に、『20世紀に最も影響力のあった芸術作品に、ピカソをおさえ小便器が選ばれる』というタイトルで出ていた記事。ニュースソースはこちら(元のページがニュースページだから、すぐに読めなくなってしまうと思う)。

 ‥‥ま、Rolling Stone誌の「500 Greatest Songs All Time」みたいに、せめてベスト100とかどこかに掲載されていないかと探してみたけれども、見つからないですね。これを選んだのは「Turner Prize」ということだから、選んだのはイギリス人、Tate Gallery絡みなんだろう。選んだのはアーティスト、バイヤー、批評家、キュレーターやギャラリストということで、アーティストとしてはDamien Hirst、Tracey Emin、David Hockneyとかの名前が見える。消えてしまわないうちにここにある上位5作品をコピーしておこう。

Top five of the 20th century

1 Fountain by Marcel Duchamp (1917) Voted by 64% of poll
2 Les Demoiselles d'Avignon by Pablo Picasso 42%
3 Marilyn Diptych by Andy Warhol (1962) 29%
4 Guernica by Pablo Picasso (1937) 19%
5 The Red Studio by Henri Matisse (1911) 17%

 って、「アビニョンの娘たち」の制作年が入っていないね。多分この中では一番古いと思うけど。

 しかし、ジャクソン・ポロックが入ってこないんだ。トップ10ならありそうだけど。

 で、この記事で面白いのが、デュシャンを説明するのに、「彼の時代でのダミアン・ハースト」という紹介の仕方。さすがイギリスですな。ところで、来年は日本でダミアン・ハーストの個展が開かれると言う噂は、どうなったのだろう?

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20041202
   3233794