ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2005-01-31(Mon)

crosstalk2005-01-31

[] 『百年の絶唱』(1997) 井土紀州:監督 @ 渋谷 UPLINK FACTORY  『百年の絶唱』(1997) 井土紀州:監督 @ 渋谷 UPLINK FACTORYを含むブックマーク

 10年ほど前に、わたしは、いわゆる「夜逃げ」のあとの家屋に入り込んでしまった事がある。おそらくは一人だけだったらそんな大胆な事はしていないと思うが、ちょうど友達と路地を歩いていた時に、無造作に開かれたドア、その奥でモノが乱雑に取り散らかった異様な様子に目がとまってしまい、直感でこれは「夜逃げ」だと思い、一緒にいた友達に、「これ、夜逃げだよ、中を見てみようよ」などと不法な提案をしていたのだ。幸いに真っ昼間で人通りもなく(だからこそ「中を見ようよ」などと提案したのだけれど)、わたしたちは土足のままその二階屋に足を踏み入れた。一回のリヴィングのど真ん中にはグランド・ピアノが置かれており、玄関の脇には焼き物のための大きめの焼き窯もあつらえてあった。景気の良かった頃にはそんな趣味を謳歌した時代もあったのだろう。

 しかし、床には靴(ハイヒール)や衣類が散らばり、そうとう慌てて家を飛び出したのか、それともわたしたちが来る前にもうちょっとヤバい人たちが散らかして行ったのか、どちらとも解らない。「二階に行ってみようよ」とわたしが言って、階段を二人で上って行った。階段を上がりきった所にかなりの量の(稚拙な)油彩画が立て掛けてあった。これもここのかつての住民の趣味の一つだったのだろう。クローゼットは開け放たれていて、たくさんの衣服が残されていた。蔵書が見当たらない。それともわたしたちが書斎にたどり着けなかったのか。おそらくたどり着けなかったのだろう。本棚を見たら、そこに住んでいた人の事がもっと解ったと思う。一番ショックだったのは、その二階の床に、「卒業証書」が拡げられて置きっぱなしになっていた事だ。その放置の仕方が、いかにも、自分の過去に対して未練はあったけれども捨てなければならなかった人の、過去の放り出し方に思えた。ひょっとしたら一度は持って行こうとしたのだろうか。その時に、これからの自分はもう今までの自分ではあり得ないのだと悟って、投げ捨てるように放置したのではないだろうか。この家の住民は、「過去を捨てる」という思いを、その「卒業証書」の投げ出し方で自分に納得させたような気がした。わたしは、その卒業証書に記載されている事柄は、忘れなければいけないと思った。だから憶えているわけもない。

 前置きが長くなってしまったけれど、この井土紀州監督の1997年の作品、『百年の絶唱』の冒頭にも、そんな「夜逃げ」の後の廃屋に、残されたレコードを回収するために、主人公が訪れるシーンがある。この「夜逃げ」は、わたしの見た「夜逃げ」とはまるで性格が違う。この家のかつての住民は、「過去を捨てる」のではなく、誰かに自分の過去を引き継いでもらう事を期待しているのだ。それを如実に現わすような、その家の取り散らかった床を舐めるように写し取って行くカメラ。これは明らかに観客にもその共犯関係を迫る。それこそ、わたしがかつての「夜逃げハウス」探訪で期待した、「消えた人の残したもの」としての蔵書、とかがうっとうしいぐらいのデティールとして写し取られる。吉岡実の『サフラン摘み』、安部公房の『笑う月』、尾形亀之助の詩集、そして、間章の評論集、など、おそらくは新しく見直せば又新たに「あ、あんな本もある」という発見があるだろう。

 ある意味で、この作品はそんな「引き継ぎ作業」に感染してしまった男、の物語であり、そんな、彼女に振られてしまってもストーカーじみて付きまとってしまう情けない男、から、自らの過去を振り返り、自分の出自(アイデンティティー)を発見するまでの、(圧倒的なベートーヴェンの「第9」をバックにした)自己発見、の作品。ある意味でアジテーションとしての映画、であり、この力強さは間違いなく「希有」のモノであろう。それは、一つには、この「日本」という領域の中で、「人と人をつなぐリンク」のポイントとして、「昭和歌謡」という視点を選択する事からもたらされたものである事は、間違いないだろう。時代としての「昭和」を包括した、歴史に残る傑作、ではあるだろう。

 

 

 

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■ 2005-01-30(Sun)

[] 横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+ ソロ×デュオ部門(三日目) @ 横浜赤レンガ倉庫1号館  横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+ ソロ×デュオ部門(三日目) @ 横浜赤レンガ倉庫1号館を含むブックマーク

岡本真理子 「スプートニクギルー」"sputonik*gilu"
三好絵美 「Sinking Float」
シン・ソル 「逆へ」"Backward"
長谷川達也 「バランス」"Balance"
濱谷由美子 「スピン」"Spin"
セオキョウコ 「セカイニタッタヒトリノニンゲン」
        "a story of Silent World"

 この日は夜に横浜で観劇の予定を入れていたこともあり、とりあえず岡本さんの作品の進展ぶりを見てみたくって来てみた、という程度。Yummy Danceの三好さんのも見たかったし、そのくらいの気持。

 だからまずは岡本真理子。とにかくこの作品も、青山ビエンナーレのショーケースで初演されたものであり、とにかくやっときちんと見ることが出来た、という感じ。鉄道模型のゲージのセッティングなど前回からかなり変更していた気がするけれど。

 とりあえず、この人の作品は、インスタレーションじみた美術装置(松本佐織)と身体との対話、というニュアンスが、いつも強い磁場を形成するわけで、今回も「北」から「宇宙」へとつながって行くような状況提示が見事。これを「ダンス」と呼ぶかどうか、という視点が、前作よりももっと微妙になっているように思うけれど、美術と身体のコラボレーションとしてわたしは全面的に支持するし、ついついウトウトしてしまった瞬間があったとはいえ、その表現を堪能した。

 ただ、考えてみれば、この人は自分のソロ・キャリアの作品のすべてをこの「ソロ×デュオ」で発表しているわけで、なんというか、もう別の作品発表の機会を模索していいのではないだろうか。

 三好絵美は、とりあえず身体一つで「ダンス」と対峙した、という印象だけれど、寝転がったまま足で見せる前半は、どうしてもかつての天野由起子のソロを思い出してしまい、立ち上がってからの後半は、もう少しパワーとか焦点とかが欲しかった気がする。ちょっとエクササイズ的。

 シン・ソルの失敗(前半のパフォーマンスを後半に映像で逆送りしてスクリーンに映すのだけれど、その映像が圧倒的なピンぼけ)は、やはりリハの時間が取れなかったことから来るのではないだろうか。もちろん作品構成の陳腐さという、そもそもの問題もあるかも知れないけれど、主催者は出演者の作品提示でこのような事が起こらないように責任を持つべきであり、単純に出演者の責任に帰するのではなく(特に海外からの参加であれば意志の伝達にも苦労したのではないか)、反省すべき事柄なのではないだろうか。

 長谷川達也という人についての予備知識はまるで持っていなかったのだけれど、当日のパンフで見るとSMAPとかV6とかのツアーダンサー、コンサートの振付けとかをやっている人だとの事。女性ダンサー(田中祐子)とのデュオ。ストリート・ダンス的な動きと、衣装(男性は白いつなぎにガスマスク、女性は黒いドレスに頭には紙袋のようなものをかぶる)、そして映像を最大限に使用した作品は、例えば高級キャバレーのフロアーショーとしてそのまま成立してしまう世界。なぜこの長谷川達也という人が「コンテンポラリー・ダンス」という領域に関心を持つのかわからないけれど、そんな「ショー」的な構成をまずは捨てないと、判断のしようがない。

 濱谷由美子は、会場に響き渡る大音響でユーロビートっぽい楽曲を使用して、アスリートっぽいデュオを展開するのだけれど、スタート時点で垣間見られた一種ふてぶてしさ、のような所作はそれなりに惹かれたけれど、後半に身体がついて行かず、そのヘロヘロな姿はまるでスポコンドラマの猛練習シーンみたいになってしまった。身体管理に失敗したのだろうか。

 セオキョウコという人もはじめて見るけれど、そのあまりにナイーヴなコンセプト、衣装とか装置をふくめ、中学生の文化祭の出し物みたいだった。結局、去年までの規模を大幅に拡大して行われたこの「横浜ダンスコレクション」のコンペだけど、しきいを低くしただけなのであれば、コンペ自体が「見るに値しないもの」として見捨てられてしまうだろう。この日は観客席は満員だったけれど、アンケートの結果などをきちんと受け止めて、いったい「コンテンポラリー・ダンス」という呼称の下にどのような作品を提示しようとするのか問い直し、次回に臨んで欲しいと思う。

 

 

[] 少年王者舘 Kudan Project 『劇終/OSHIMAI くだんの件』 天野天街:作・演出 @ 横浜相鉄本多劇場  少年王者舘 Kudan Project 『劇終/OSHIMAI くだんの件』 天野天街:作・演出 @ 横浜相鉄本多劇場を含むブックマーク

 出演は小熊ヒデジと寺十悟の二人、ということで、去年のKudan Project 『真夜中の弥次さん喜多さん』と同じ作者、同じ出演者なんだけれど、もちろんこの『くだんの件』が先にあるわけで、こちらは1995年初演、という事だから、ちょうど10年前になる。今まで何度かこの東京公演を見るチャンスもあったのだけれど、なんちゅーか、男の二人芝居では「少年王者舘」での華やかさに欠けるのではないか?と、見逃して来た。結局、去年の正月に見た『真夜中の弥次さん喜多さん』が圧倒的に面白かったので、やはりこちらも見ておかなければ、と、横浜に足を運んだ。

 とにかく天野天街の作品はいつも、自作のリミックス/サンプリングという要素を含みつつ、その演出姿勢は「永遠なるマンネリズム」とでも呼びたくなるようにパターン化されている。しかし、そんなパターンを支えるのは、「段取りの鬼」状態の、映像、小道具、大道具など舞台全体をひっくるめた舞台進行であって、今回の舞台も、そんな天野天街の世界を堪能することが出来た。というか、昨年の『真夜中の弥次さん喜多さん』は、実はほとんど、この『くだんの件』のヴァリエーションではないか、と、双方を見た観客は誰もが思ってしまうだろう。『真夜中‥‥』が、舞台上の虚構空間で「リアル」と「リアルじゃない」との間を激しく振幅するような作品であったように、この『くだんの件』ではテーマは「夢」と「現」であり、ある意味壮大な「夢落ち」に向けて、時間軸はスリップしまくる。

 思い出してみた印象では、『真夜中‥‥』の方では、もっと徹底した視覚的なネタが数多く用意されていて、エンターテインメント性では勝っていた気がしないでもないのだけれど、「いったい誰の夢なのか」という疑問が常に提示されながら次々に展開して行き、二人の登場人物の少年時代まであぶり出される、一種謎解きに満ちた戯曲の奥行きでは、この『くだんの件』に一日の長があったのではないかと思う。手品とかジャグリングっぽい演出の導入も楽しかったし、やはり二人の役者の熱演、とりわけ寺十悟の「怪演」ぶりには、ちょっと凄まじいモノがあったし、その終盤で寺十悟が窓の外を見遣るシーン、その窓の外の青と、夕日のオレンジの照明が、いかにも天野天街の作品らしく、ノスタルジックに美しかった。
(1月29日観劇)

 

 

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■ 2005-01-27(Thu)

[] 横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+ 群舞部門(一日目) @ 横浜赤レンガ倉庫1号館  横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+ 群舞部門(一日目) @ 横浜赤レンガ倉庫1号館を含むブックマーク

大橋可也:「Sister Chainsaw」

浜口彩子:「5/6,200,000,000物語」

 ついに4日間公演と規模は大きくなりながらも、出場辞退者が複数出たり、相変わらず性格のはっきりしないイヴェント。結局、開催期間が長くなってしまったせいだろうけれど、この日は空席が目立つ気がした。わたしとて4日間全部見に来ようとは思いもしない。

 大橋可也さんの作品は、昨年12月に静岡で開催された「SPACダンスフェスティバル2004」で初演されたもの。実はその時は「チェーホフ×ダンス」とテーマの出されたイヴェントで、この「Sister Chainsaw」は、つまりは『三人姉妹』を下敷きにして作られたものということ。静岡では大橋可也もダンサーとして(?)出演していたらしいけれど、今回は、いつものミウミウと、東雲舞踏の三人(川本裕子、堅田知里、島田明日香)、女性4人での公演。ま、舞台奥には音担当のスカンクがひじょ〜に目立つ形で機材に向かっているのだけれども。

 ダンサー一人一人には、『三人姉妹』の登場人物に合わせたキャラ付けがされているようであり、ま、姉妹3人と、兄の婚約者ナターシャ、という事なんだろうけれど、この舞台に関してはそんな予備知識は無用、何て言うのか、呪縛された身体の中で化学作用のように生まれて増大して行く「力」のようなもの、それと身体とのせめぎあい、そして呪縛から解かれた身体の乱舞、のような世界だろうか。普通に考えられるダンスとしての振付けではなく、身体と精神とのあり方自体を空間と時間の中で振付けしたような作品。またもストロボが多用され、舞台の上で痙攣するように呪縛から逃れようとするダンサーたちのからだは、そのストロボの点滅のサイクルのうちに、希望と絶望、開放と呪縛、世界への肯定と否定を瞬間ごとに行き来するようであり、それはこの赤レンガ倉庫の舞台がまるで遥か遠くの荒地から切り取られて来たような、暴力に満ちたとも安らぎにあふれたとも言えるような、アンビヴァレントな魅力にあふれた空間を作り出していたと思う。とにかく刺激的だった!


 もう一つの作品、浜口彩子さんのもの(これまた女性ダンサー4人での作品)は、実は去年一度、青山ダンスビエンナーレのオープニングのショーケースで見てはいる。とにかくあの舞台は出演者にとっても観客にとっても最悪のシチュエイションであり、結局わたしもその作品をあまり集中して見ていたわけでもなく、漠然と否定的な気分でいたに過ぎない。

 結局、この作品には大橋可也の作品のような、表現の手段としてのダンス、というあり方への根源的な問いかけなどはないわけで、メソッドとしてはかなり旧的なアプローチ、という印象は受ける。その辺りは、ちと、わたしなどから見ればあまり興味のない世界だし、実際に表現としてクリシェな部分もあれこれと見受けられる。

 しかしながら、まずは音(プリミティヴなピアノ曲、空港ロビーの雑音、静寂)のバランスが良く出来ていて、かなり愉しんで見ることが出来た。そうして見ると、全体の構成とか、とても丁寧に作られていて、群舞のバランスも優れていたと思う。てなわけで、この人の作品は次もまた見たくなってしまった。

 

 

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■ 2005-01-24(Mon)

crosstalk2005-01-24

[] 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』 青山真治・阿部和重・中原昌也:著  『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』 青山真治・阿部和重・中原昌也:著を含むブックマーク

 これって、要するに、昔出ていた淀川長治と山田宏一と蓮實重彦の『映画千夜一夜』の企画の焼き直しではないですか。雑談的な雰囲気もそのまま受け継いで、皆それぞれ楽しそうでもあり、列車の中とかで時間つぶしに読む本としてちょうど良かった。ただそういう「企画のパクリ」みたいな安易な本作りの姿勢はどうかと思うし、分量比で『映画千夜一夜』の1/5にも満たないかも知れない本で1500円というのは、ちょっとぼったくりっぽい気もする*1

 しかし、こうしてこの顔ぶれを見てみると、阿部和重は先日芥川賞を受賞したばかりだし、青山真治と中原昌也は二人とも同じ時に三島由紀夫賞を受賞してる。この三人は現代日本を代表する文学作家でもあるんだね! 阿部和重が小説家としての中原昌也と対談するのなんか読むと、小説家としての中原昌也の今後にはあれこれと不安もよぎるのだけれども。

 で、そんな3人がこの本で語る映画というのが、いかにも「カルト」というか、おそらくこれは中原昌也の趣味なのだろうけれど、わたしから見れば全然見たことのない映画、知らない映画監督の作品が軒を連ねる。こんな作家を知らないのは要するにわたしが無知なだけなのかも知れないけれど、モンテ・ヘルマンとかジェス・フランコなんて監督の作品は、おそらくわたしは一生見る機会を持たないまま終わるだろう。ただわたしは、デヴィッド・クローネンバーグの『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』という作品が近年制作されて公開されていた事なんか、全然知らなかった。やっぱ無知。

 でも結局、ジェス・フランコとか、そういう日本未公開のような作品に関しての三人での鼎談を読んでいても、そんな作品を見てみたいという気持ちになるわけでもなく、結局この本は、そういう風に映画を見ることを楽しんでいる三人の有様を楽しむ本なのだろう。ま、わたし的には、中原昌也という人は映画を見る時もまるで音楽を聴くときのようなアプローチで見ているんだなぁ、という感じが面白くって、たしかに圧倒的な量の映画作品を見ていくと、そういう感覚になるんだろうな、と思うし、次に家でヴィデオとか見る時には、そんな感覚を自分の中に探しながら見てみようかな、などと思った。そんな本。

 

*1:ま、わたしは図書館で借りているわけだけれども。

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■ 2005-01-21(Fri)

[] レイアウトを変えてみたり。  レイアウトを変えてみたり。を含むブックマーク

 最近は特に書く事もなく、とにかくもう一つの日記のレイアウトの編集とかに凝ってしまって、そんな事ばかりやっている。で、あっちが落ち着いてみるとこっちが妙にどんよりと見えてきたので、こっちまであれこれといじってしまった。

 まず、タイトルを自作ロゴにした。前の勝手にテキスト表示されるタイトルを消すのに一苦労したけれど、本当のところは、消したのではなくて、見えにくくしただけ。いんちきです。で、カテゴリーとかINDEXを右に移してみて、背景を白くした。どうだろう? だいぶスタイルシートの事とか解りかけてきた気がする。ホントは日付の表示されるメタルっぽい部分をあっちの日記に合わせて赤くしたいんだけど、元の書式が見えないから書き換え方が解らない。

 知り合いのブログとかのぞいてみても、たいていの人が新年からスキンを変えてるようだ。ここもまだ修正の余地はあるんだけど、とりあえずこの感じで行こうかな、と。「はてな」も、投稿前のプレヴュー機能があるといいのにな。


 あ、「丹野賢一/NUMBERING MACHINE」のサイトに、「さきら」での10月10日までのレポートが、残りも全部掲載されました。これで「事件」の全貌がつかめるようになったようです。貴重なデータベースでしょう。

 気が付かなかったけれど、「fringe(小劇場演劇の制作者を支援するサイト)」のTOPICSでは、「fringeが選ぶ2004年小劇場制作10大ニュース」の1位がこの「さきら」事件だったんですね。このサイトは記事を探すのが大変で‥‥

 とにかく、他を見回しても、資本主義原理に拮抗するような(したがって必然的にマイナーな)表現活動への風当たりは、どんどん強くなって来ている気がしますな。

 それから、「Wonderland : 小劇場の いま を伝える劇評サイト」で、このブログを紹介していただきました。「いつもながら、きちんと目配りしていました。」なんて紹介されると、照れちゃいます。今年に入ってから演劇はこれしか見てないんですけれどもね。ありがとうございます。

 ここで紹介されている稲倉さんの評も読ませていただきました。的確な批評だと思います。しかし、だからこそ考えることもあるので、そのことあたりはまた後日にちょっとまとめてみようかと。でも、わたしは「地点」は二回しか見ていないからなぁ。

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■ 2005-01-20(Thu)

[] (お知らせ)  (お知らせ)を含むブックマーク

 この正月に引っ越したばかりの『西日暮里二上り半日乗日記』ですが、また引っ越してしまいました。新しいアドレスは以下の通り。

http://crosstalk.exblog.jp/

 FC2ブログに愛想を尽かしたわけではないのですが、先にこの「はてな」でやっていた感覚とずいぶん違ったし、とにかく、環境によってはログオン出来なかったのが、決定的な引越しの理由です。これは多分わたしの環境の特殊事情によるところもあるので、FC2の致命的欠点というわけでもないと思います。おそらく他の環境で使えば快適なんだと思う。

 という事で、また一つよろしくお願いいたします。

 

 

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■ 2005-01-16(Sun)

[] "when pigs fly" Christine Rebet, Mai Hofstad Gunnes @ 新川 Taka Ishii Gallery  "when pigs fly" Christine Rebet, Mai Hofstad Gunnes @ 新川 Taka Ishii Galleryを含むブックマーク

この展覧会のタイトルは、サラ・ドライバー監督のフィルム「when pigs fly(邦題:豚が飛ぶとき)」(1993年アメリカ映画)から来ている。これは、サラ・ドライバーが監督あるいはプロデューサーとして、ジム・ジャームッシュとともに制作してきた一連の実験的な映画作品から影響を受けたことに起因している。「when pigs fly」とは、アメリカの慣用的表現で、とんでもない、ありえないことを連想させる言葉である。 (画廊サイトの[展覧会概要] より)

 ギャラリー入り口には、Christine Rebetのアニメーションに連なる数点の小さなドローイングが展示されてはいるけれど、実質は3つの壁にプロジェクターから映し出されるアニメーション作品の提示。それぞれが2〜3分から数分の作品だから、何度でも繰り替えし見よう。

   f:id:crosstalk:20050116232505:image

 マイの作品は、「Imagining how plants grow, I+II」(2002年)というフィルム・インスタレーションである。この作品は、植物が成長する様子を描く作業と消す作業を(朝の9時から夕方の4時の間に)何度も繰り返していく軌跡を16mmフィルムで撮影したものである。撮影は自然光で行われているため、微妙な光の強弱や天候の変化が画面には映し出されている。インスタレーションは、二種類の植物のドローイングが同じ早回しのスピードで、成長と消失を繰り返す二対のフィルムから構成されている。(画廊サイトの[展覧会概要] より)

 ‥‥自分でどんな展示なのか要約しようとしても、結局上の文章のヴァリエーションにしかならないので、そのまま引用させてもらった。

 以前見た石田尚志の作品と同じように、白い画面の下の方から植物が生えて来るように上に線が伸びて行き、葉の形をとり、葉脈が書き込まれ、花が咲く。そのあとにすべてがその生成と逆の順序で消しゴムで消され、白くなった*1画面に、また同じ植物が描かれていく。‥‥これが5回ずつ繰り替えされてループしていく。これが2つの作品できっちりとシンクロして上映される。

 むかーし読んだピエール・ガスカールという人の文章*2で、「植物というものは、その個体としては季節の移り変わりで芽が出て花が咲いて、枯れていくのだけれども、どの年も同じ場所に同じ植物が同じ姿で存在する。つまり、植物は死なないのだ*3」などと言うことが書かれていたのだけれど、この作品を見て、その文章を鮮やかに思い出した。スクリーンの中で生命の軌跡が美しい線を描いていく。ちょっと、その線があっという間にざわざわと動いてしまうので、もっとゆっくりとしたテンポの方が、より生命力の持続が感じられるのではないか?などとちょっと思ったけど。

   f:id:crosstalk:20050116232413:image

 クリスティーヌの作品は「The Soul Hunter」というタイトル。

 「The Soul Hunter」は、昨年ニューヨークで行われたフランス短編映画祭においてべストアニメーション賞を受賞、今年のベルリン国際映画祭でも上映されて話題となった作品で、日本では今回が初上映である。また、パリで出版された作品集「GAME OVER」よりセレクトされた水彩ドローイングも一緒に展示される。(画廊サイトの[展覧会概要] より)

 2分程の作品。ドローイングの重ね合わせで造られているので、基本的に、いわゆるアニメーション的な滑らかな線で滑らかな動きを見せる作品ではない。水で溶かれた絵の具の流れや、たたき付けられたような絵の具の飛沫、そんな1枚1枚がアーティスティックな小品であるような画面が、ちょっとノスタルジックな女性ヴォーカルを背後にして、一種脳内幻想のような世界を描き出す。

 こういう作品を見ると、例えば今の「ジャパニメーション」と呼ばれるような、滑らかでツルンとして、むらのない画面で造られる商業的なアニメーションとは別の可能性が、いまだに大きな門戸を開けて新しい表現者の現われるのを待っているのではないかと思わずにはいられない。

 どうも、今の日本が総体としてアートに追求しようとしている方向は、つまりは「資本主義アート」なのだろう、と思うことしきり、なんだけれど、そのおかげで、鑑賞者の側にも「がさがさしたもの」とか、「傷痕のようにひっかかるもの」を否定してしまうような空気が出て来ていると思う。映像とかに限って言えば、例えば、芸大が宮崎駿などを迎えて映像学科を造ろうなどというのは「堪忍して下さい」と思わずにはいられないのだが。別に、プロダクションとして追求するアート、というものがあっても構わないとは思うが、もういちどこんな作品をゆっくりと見直す機会を持ってもいいんじゃないだろうか。

 とにかく、わたしはこの作品で流される曲が頭にこびりついてしまうまで呆然と眺めて来た。帰り道にはその音楽が頭の中をひゃっぺん返しに響いていた。

(この展覧会の詳細はココ。)

 

 

 

*1:と言っても消し痕は残っているし、最後には描いている紙に穴があいてしまう。

*2:たしか、『シメール』と言う作品ではなかったかな? もちろん今は絶版。

*3:こんな感じの内容だったけれど、わたしの記憶で書くと陳腐だ。もっと美しい文章だったことは言うまでもない。

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■ 2005-01-15(Sat)

[] 『エイリアンvs.プレデター』 ポール・W・S・アンダーソン:監督  『エイリアンvs.プレデター』 ポール・W・S・アンダーソン:監督を含むブックマーク

‥‥The Enemy of My Enemy is My Friend.

 本編上映前の、ロバート・デ・ニーロとダコタ・ファニングが出ているホラーの予告が、まるでそっくり『シャイニング』だったのだけれど、こちら『エイリアンvs.プレデター』の冒頭は、いきなり『2001年宇宙の旅』だ。とにかく、導入部の目まぐるしい展開の中でのカメラ・ワーク、いったいどれだけ、あちこちから視点を変えたり、動き回ったり出来るかの実験(というか、遊び)をやっているみたいで、テンポ良く進んで楽し。

 監督が『バイオハザード』を撮った人だということで(ポール・トーマス・アンダーソンではないのね)、ゲーム感覚での作品造りは堂に入ったものがあり、映像展開として1時間40分飽きることもなく、あっという間だった。エンターテインメントとして堂々としたものだと思う。『エイリアン』シリーズは、それなりに名を成した監督がそれぞれ造って来た作品だけれど、この作品を『エイリアン』シリーズの一つ、としてみれば、『エイリアン3』のデヴィッド・フィンチャーの空気をちょっと思い出す。ま、あそこまでダークではないが。

 しかし、この作品の成立過程などはまるで知らないのだけれど、原案から脚本、監督までがこのポール・W・S・アンダーソン一人の手にまかされている*1、というのはどういう過程によるのだろう。それだけ信頼されているということなのだろうけれど、現在のハリウッドの映画制作体制の中ではちょっと珍しい気がする(これはわたしが不勉強なだけかも知れないけれど)。

 その結果として、ちょっとこの作品には、監督の作家性が強く出ているような気がする。その辺りがまた興味深いところではあった。

 (そもそも、エイリアンとプレデターが対決するという設定の根拠を、「まだ氷に閉ざされていない」南極の「古代文明」以前の人類の「超」古代文明に持って来るっちゅうのが、荒唐無稽というか、もうムチャクチャ。少しは人類の歴史や文化に敬意をはらえや、などと言いたくもなるけれど、このあとも突然に西暦年号や24時間制時間単位がその古代文明の文脈で有効になってしまったり、プレデターもエイリアンも前作までの生態機能が変わってしまっていたりなども含めて、突っ込み所は例によって満載ではある。この辺りは「先に企画ありき」なのだからとやかく言っても始まらないが。)

 最初に、通信衛星によって南極の地下にピラミッドのような遺跡が見つかり、ま、それがCG画像として出て来るんだけれど、そこにそのあとにプレデターが造ったトンネルが貫通する。それが先のCG画像に重ねられる。って、これは明白に「子宮」のアレゴリーではないか。だからこのあとの探検隊の地下探索は、それこそ「胎内巡り」の様相を呈して来る。

 実は、プレデターにとって、エイリアンとの闘いというのが、成人への通過儀礼的な意味を持っていたり(一般に成人への通過儀礼には「性的事象」が付きまとうのだけれど)、探検隊の女性が地下へ潜る時に銃を携帯し、なぜ使わないものを持って行くのかと聞かれて、「使わないと思っても避妊具を持っていれば安心するようなものだ」と答えたり、この作品の背後には常に性的なアレゴリーにあふれている気がするのだ。

 (って、先日の『ヴィタール』以来、深読みしすぎだろう、みたいな生々しい感想ばっかり持っているみたいだけれども、今回もいろいろ(笑)、生々しいです。)

 「エイリアン」、という造型自体が、そもそもかなりエロティックなものではあると思うのだけれども、今回、この作品では、それ自体が生殖器官である存在として登場、ヒトはその増殖行為の媒介として殺されて行く。ある意味「エイリアン」という存在はこれ全身性器みたいなものでもあり、特にヒトに襲いかかる「フェイスハガー」(コイツはエイリアンの幼生なのか?)、この作品では、コイツがヒトを襲う時にその腹面とかが見えるんだけれど、その腹面の器官の色といい形といい、×××*2にしか見えない。DVD化される時には「モザイク」がかかるかも知れない。そういうふうに見れば、「プレデター」のヘルメット(?)は男性のソレに見えなくもないけれど、それは深読みのしすぎかも。

 とにかく、この作品はそんなメタファー(と言うよりもっと直接的だと思うけれど)に満ちていて、つまりは地下の子宮のような空間の中で、生殖行為の犠牲になるモノ、生殖を阻止しようとするモノの、生殖器官そのものとの闘いの作品でしかないと。結果としてこの作品は、男性から見た反フェミニズムとか女性嫌悪(ミソジニー)とかではなく、一種の「フォビア」と言ってしまってもいいだろう、器官としての女性忌諱に満ちているのではないか。もっと平たく言えば、性行為自体へのおそれ、忌諱。そんな意識にあふれた映画。

 んんん、普段こんなこと書く人間ではないつもりなのだが、マリオ・プラーツとか今読んでいるからいけないのかな。つまり、その本の中でエドガー・アラン・ポーにふれた一節があったのだけれど、そこに、フロイティストであるマリー・ボナパルトの書いた、エドガー・アラン・ポーについての精神分析的評伝、その記述がちょっと出ていて、それを思い出していたのだね。マリー・ボナパルトは、その評伝の中で、ポーの屈折した性意識を「歯の生えたヴァギナ」という言葉を使って説明していたと思うけれど、この『エイリアンvs.プレデター』には、そんな言葉の直接的表現に満ちているではないか。


 結局(結末をバラしてしまうけれど)、最後に生還するヒトは女性一人であり、男は皆エイリアンの生殖の犠牲になったりして死んでしまう。この事もこの作品の姿勢からは当然の結末であり、エイリアンが女性器官的に男性を襲うのであれば(ま、女性も襲われるのだが)、そこから逃れられる(勝利する、というよりも「脱出した」にすぎない)のは、女性でしかないだろう。そーゆー意味では、ラストのヒロインとプレデターとの交流も、実はもっと意味深いものかも知れないな。

 だから、観客である男性としては、生殖器官である女性的なものへの病的な「おそれ」が解消されないままに作品が終了し、その悪夢に夜な夜なうなされると。んなこたぁねーか。

 最後にちょっと書いておくと、この作品には実に多くの国の人たちが関わっているようで、アメリカ〜イギリス〜カナダの他にもチェコやドイツのプロダクションも名を列ねている。チェコのスタッフはやはり造型面でサポートしているようだ。また、このようなストーリーの背後には、ポーはもちろんの事、例えばクービン、エーベルスなどのドイツ作家の「蜘蛛女」物語も強く影を落としているのだろう。そうすると、「エイリアン」を造型したギーガーの脳裏には、そんな過去のドイツの作家たちの造型が思い浮かべられていたのだろうか。

 

 

*1:原案に関しては、『エイリアン』のダン・オバノン、ロナルド.シャセットとの共同原案のようだけれど。

*2:ココにひらがなとかカタカナとか入れないでね。わたしとしては漢字3文字のつもりで書いている。

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■ 2005-01-13(Thu)

[][] 芥川賞は阿部和重『グランド・フィナーレ』  芥川賞は阿部和重『グランド・フィナーレ』を含むブックマーク

 ソースはココ

 直木賞は角田光代という事で、波乱のないことが波乱のような‥‥。

 阿部和重の受賞作『グランド・フィナーレ』はちょうど先日図書館から『群像』を借りて読んだばかりだけれど、『シンセミア』に連なる「神町サーガ」の幕開けとして、意表を突かれたっちゅうか、そう来たか!という、驚きみたいな読後感はあった。ひとつには、彼の『シンセミア』以前の作品までもが、強引にも「神町サーガ」に組み込まれてしまっている事とかもあるんだけれど、読み始める前に「神町に帰ってきたロリコン男」の話、なんて聞いていて、そりゃあ、あの警官*1の『シンセミア』以前の話なのか、などと勝手に思い込んでいたりして。

 とにかく、プロットとしては、主人公が「改悛するロリコン男」として少女たちのこころを救おうとする、圧倒的な「イイはなし」なのではあるけれど、語られるディティールは『シンセミア』のように不穏さにあふれている。突然裁ち切られたように終わってしまう終盤の「イイはなし」より、やはりこの小説の怖いのは、前半の、主人公が風邪で体調を崩しながらも、東京の「クラブ」でかつての仲間と飲み明かす場面。そしてダメダシの次の日とか。この悪夢のようなリアリティと、後半の、神町の文房具店でひとり店番をする主人公との対比が恐ろしい。この作品では「神町」から振り返られた「東京」の姿がもうひとつの主人公なのだろうか。

 いまごろ阿部和重に「芥川賞」でもないだろう、とは誰もが思うことだろうけれど、無理やり刈り込んでこの長さに収めてしまったような印象もあり、実は「賞狙い」の意図があったのだろうか。とりあえず、次の「神町サーガ」を早く読みたい。そして、全然読んだことのなかった角田光代の作品を読んでみよう。(すいません、『センシミア』なんて間違えて連呼していたので、訂正しました。)

 

 

*1:たしか、「中山正」という名前だったが、今となっては「小林薫」と肩を並べる「恥ずかしい名前」だわさ。

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■ 2005-01-12(Wed)

[] 『TAP DOGS』 振付:Dain Perry(デイン・ペリー) 演出・デザイン:Nigel Triffitt(ナイジェル・トリフィット)@ 有楽町 東京国際フォーラム ホールC  『TAP DOGS』 振付:Dain Perry(デイン・ペリー) 演出・デザイン:Nigel Triffitt(ナイジェル・トリフィット)@ 有楽町 東京国際フォーラム ホールCを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20050112202102:image

 何年か前に、彼らの「映画作品」としての『タップ・ドッグス』が公開された時に、なぜだか映画館で見てしまったわたし。で、それ以来の来日公演である今回、その会場に足を運んでしまったわたし。で、どうもよくわからないのが、『TAP DOGS』というのがこのカンパニーの名前なのか、上演作品のタイトルなのか?ということ。映画の方も『タップ・ドッグス』というタイトルだけれど、この映画の原題は『Bootmen』だ。どうも何となく『TAP DOGS』がカンパニー名っぽいんだけれど、よ〜わからん。

 で、今回のステージのハイライトも、その映画の中でのパフォーマンスと同じみたいだった。基本的にこの演出家はミュージカルの演出もやっているらしいけれど、さすがはエンターテインメントの王道、息つくヒマもない構成、次々と舞台を転換しながら徐々に盛り上げていく展開とか、やっぱ楽しいダネ。

 ま、「タップ」とは言っても、フレッド・アステアとかジーン・ケリーみたいな粋なモノでもなく、ストリート感覚を取り入れた、いかにも若者向けのショー・タイム75分。ただ、オーストラリア出身、という事と、出演者が半ズボンはいてたりなどというヴィジュアルとか合わせると、どうしてもAC/DCとかの汗臭いハードロック(死語)の世界を連想してしまうし、実際そうだったのだ。そ〜ゆ〜意味で、全体に「スタイリッシュ」と言うよりは、ちょっと泥臭いマッチョな肉体労働者の世界*1。そのセンスがびみょ〜な所ではある。バックに一人ミュージシャンが付いていて、ドラムとかキーボードを演奏する。そのライヴ感覚は舞台にピッタリなんだけれど、キーボードとかで奏でられる曲が80年代の埋もれた化石を掘り起こしてきたような音で、やっぱオーストラリア人は今でもそ〜ゆ〜趣味なのか!などと誤解してしまいそうになる。足にマイクを巻きつけて、拾った音に思いっきりエフェクターかませたりするのも、なんちゅーか、ちょっと恥ずかしい。

 でも、先に書いたように、とっても楽しいショーであったことは確かで、わたしなんかが好きなのは、6人のダンサーがそれぞれ音の違うドラム・パッドのような板を踏み鳴らし、全体でちょっとしたドラム・ソロ的な音を聴かせてくれる。で、「こんな事出来るんだったら、もちっとポリリズムっぽい事も出来るだろうに」などと思っていた展開のあと、先に書いたミュージシャンが実際のドラムを演奏し、それとダンサーのタップの音との重なり具合、かなりイイ感じだった。

 タップって、要するに下半身だけの運動だろうから、ダンスとして見た場合に、上半身の動きとか重心の移動とかにいつも平板なモノを感じるのだけれど、そういったあたりも、いろいろな視覚的要素を装置として付加する事で、ショーとしての面白さを助けていたと思う*2

 ま、こうして見ると、タップの世界って、もうちょっとヒップホップだったりポストロックな展開も出来そうな気がするけれど*3、それを実現するのは若い日本のダンサーの役目なんだろうか。で、そういう若い人たちが気軽に見るのには、今回のチケット代はちょっと高すぎる気がする。ロックのコンサートなんかよりチケットが高いと、なかなか足が運びにくいだろうに。
 (1月11日観劇)

 

 

*1:彼らが履いているのは、いわゆるタップシューズではなくって、ブーツをタップ仕様に改造した特別なモノ。おそらくは相当の重量もあるだろうし、ほとんど出ずっぱりでアレだけのダンスをこなすって、ちょっと驚異。

*2:基本的に舞台設定は建設現場みたいなもので、ダンサーたちが自分でイントレとか持ち込んで組み立てたり、床を取っ払ったりして行くのね。坂本弘道みたいにグラインダー持ち出して火花飛ばしたりもするし。

*3:やっぱ、「音」の要素の大きな世界なんじゃないかな。

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■ 2005-01-10(Mon)

[] 『悪魔の発明』 カレル・ゼマン:監督 @ 青山 シアター・イメージフォーラム  『悪魔の発明』 カレル・ゼマン:監督 @ 青山 シアター・イメージフォーラムを含むブックマーク

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 この作品、実は小学校の時に、親にせがんで映画館に連れて行ってもらって、スクリーンで見た記憶がある。わたしにとって西欧銅版画の細かい縞模様への愛着の原点、って割には版画家などにはならなかったけれど。で、ン十年経って、5〜6年前にこの作品のヴィデオを借りて見てもいる。そんな作品を、スクリーンで再見。

 カレル・ゼマンの作品は、昨年だか一昨年に、同じ「シアター・イメージフォーラム」でレトロスペクティヴなどがあったし、相当以前には『彗星に乗って』とか『盗まれた飛行船』などヴィデオ化されていたし、かなりの作品を見ていることになる。この人の作品はどれも童夢のような19世紀的SF感覚にあふれていて、ま、原点にジュール・ヴェルヌみたいなのがあるんだろうけれど、それとCGなど無縁の創意溢れる手作り感覚の映像とがすばらしいマッチングを見せて、他の映像では味わえない楽しさに満ちている。これはやはり人形劇の国チェコならではの伝統もあるのだろう。この国にはシュヴァンクマイエルに連なる奇想の系譜がある。

 で、こうしてこの『悪魔の発明』をスクリーンで見てみると、まずはヴィデオでは解らなかった細部へのこだわりがはっきりする。要するにこの作品は19世紀の銅版画挿画付のSF(ま、それこそこの作品の原作はジュール・ヴェルヌなんだけれども)、その銅版画がそのまま動き出したというイメージで造られていて、そう言った銅版画と実写の合成に止まらず、書き割りのセットもすべて銅版画タッチの白黒のストライプで描かれているわけで、さらに登場するメカニックもみな縞模様、登場人物の衣装までストライプ基本(これは銅版画とは程遠いボーダー・ストライプなんだけど、そのこだわりが楽しい)。ま、そういったあたりは記憶に残っていたんだけれど、海の実写にも上から細かい横縞を焼きこんでいて、実写なんだけれども版画タッチにしてあったんだね。

 それで、あれこれと出現するメカニックの奇想。子供心にはこのあたりがずいぶんと記憶に残っていたけれど、飛行船や潜水艦、水中スクーター(?)などの奇妙な形態は、例えば宮崎駿のアニメなどへの影響は大きいだろう(ほとんど「パクリ」に近いものがある)。そこに、博物誌的な海中の奇妙な生物達への好奇心。海中シーンの多いこの作品では、クラゲからタツノオトシゴ、巨大タコとかサメとかの様々な生物、そしておそらくは実際に古い図鑑などから切り抜いてきたのではないかと思われる魚たちが海の中を泳ぎ回る(というか、泳ぎ回っているように見える)。

 一瞬、実際の銅版画の中に、部屋の中で眠る女性と、そこへ窓から訪れる主人公が合成されて登場するシーンがあったんだけれど、その銅版画に描かれた窓から射す平行線の白い光が、ハッとするほどに美しく、ここはまるでマックス・エルンストのコラージュ作品(例えば『百頭女』)に生命が吹き込まれて動き出したみたい。映像の実験は個人レヴェルで追求出来、それは、ハリウッドなどの大作で1秒当たりに何万ドルもかけて造られる映像を超える事も出来るという、ごく当たり前のことを再確認出来た。

 カレル・ゼマンの演出はいつもどおり実にのんびりとしたもので、そのあたりはおそらく現代の観客にはウケが悪いかもしれないけれど(いや、わたしもコックリコックリしましたけれど)、ある意味では、徹底して暴力的な「刺激」を避けた結果としての演出法、なのかも知れない。こういった作劇をのんびりと楽しめるのが、本当は、最上の娯楽の楽しみ方なのかも。

 

 

万里万里 2005/01/14 23:51 横浜ビエンナーレのページからまたこのページにたどり着きました。
そしてこの紹介を読んで、いてもたってもいられず手紙を書いているしだいでございます。
私はこの作品を知らないことをとても残念に思います。
日本に戻ったら見せてください。1月21日から約1ヶ月帰国します。23日からは展覧会もあります。また飲みましょう。
ちなみに中国でシュヴァンクマイエルの海賊版を手にいれました。ってこんなことここに書いていいのかなあ。。。

crosstalkcrosstalk 2005/01/15 16:19 おぉ、万里ちゃん、お久しぶり。日本語不自由になってませんか?
そうか、来週帰って来るのですね。
『悪魔の発明』はまだ2月の始めまで映画館でやっているので、グッドタイミングでしょう。
展覧会情報、教えて下さい。
それから、上海事情も(飲みながらでも)いっぱい聞かせて下さいね。
中国で海賊版は誰でも知ってる事だからかまわんでしょ。たくさん買って来て日本で売らないように。。。

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■ 2005-01-09(Sun)

[] さかな @ 吉祥寺・MANDALA−2  さかな @ 吉祥寺・MANDALA−2を含むブックマーク

 pokopen(vo.g)
 西脇一弘(g)

 そんなに「さかな」のCDを買い揃えている、というようなファンではないのだけれど、なぜか2年に一度ぐらいは彼女たちのライヴに足を運んでしまう。つまりは自分自身が圧倒的に「唄もの」が好きなんだという事、で、彼女たちの音楽の根底にある「唄」の力に、時々どっぷりと身を浸したくなるのだろう。

 去年発売された新作も聴いていないけれど、ドラムのポップ鈴木(とても好きなドラマーだった)が脱退して、pokopenと西脇さんと二人だけのユニットになってしまった事は、どこかから伝え聞いていた。去年のアルバム発売の時にもMANDALA−2でのライヴがあって、とても行きたかったのだけれどもかなわなかった。今回はとにかくワンマン・ライヴ。結局他の予定を振り切って吉祥寺に来てしまった。で、とにかく立錐の余地もない満員の客席の最後尾で、音を聴く。ただでさえ満員状態で見にくいのに、二人になってしまった彼女たち、椅子に座っての演奏。もう視覚的にはアウト。

 でも、結局バンドが二人だけになってしまった事で、その本来の「唄」の力と、西脇さんのギターの音とのからみが美しく、ユニットとしての求心力は強くなったような気がする。今までに増してフォーク・ブルース的な色彩が強くなり、歌声がしっかりと観客に伝わる(これはいつものMANDALA−2のスタッフの尽力もあるけれど)。ま、もともとがベースレスの編成で、ギター2本でのアレンジはベースラインの引き出し方とか魅力があったのだけれど、そんな二人のギターのかけあいもクリアに耳に届く。

 前半は(というか終盤まで)緊張があるのか、ほとんどMCも交えずに淡々と演奏を続けていたのだけれど、もう終わり近くになって「これは余興です」と言って、アップテンポのスウィンギーな曲をやった後は突然にリラックスしてしまったようで、それまでよりも声の伸びも豊かになり、ちょっと「ふしぎちゃん」の入ったMCもやたら飛び出し始める(あ、これはpokopenの事。西脇さんは常に寡黙でポーカーフェイスっすから)。そんなんだったらもっと早めに「余興」をやってくれてれば良かったのに、などというのはちょっと贅沢な欲求だけれど、わたしにはしっとりと、pokopenの歌声と西脇さんのギターに堪能出来た素晴らしいライヴだった。

 ‥‥2年に一度、などと言わずに、これからはもうちょっとライヴを聴いてみたいと思った。

 

 

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■ 2005-01-08(Sat)

[] 地点 『雌鳥の中のナイフ』 三浦基:演出 @ 小竹向原 アトリエ春風舎  地点 『雌鳥の中のナイフ』 三浦基:演出 @ 小竹向原 アトリエ春風舎を含むブックマーク

 地点 第9回公演
『雌鳥の中のナイフ』
 三浦基:演出
 デイヴィッド・ハロワー:作
 谷岡健彦:翻訳

〜CAST〜
 安部聡子
 大庭裕介
 小林洋平

 結局、去年の評判の『三人姉妹』は見られなかったので、『じゃぐちをひねればみずはでる』に続いての二回目の「地点」体験。

 やはり圧倒的なライヴ感覚なのではあるけれど、前回見た『じゃぐちをひねればみずはでる』が、飯田茂美の断片的なテキストを集積して再構築した、いわばオリジナル作品であったり、『三人姉妹』が、誰でも知っているチェーホフの戯曲を取り上げたり、であったのに対して、今回の『雌鳥の中のナイフ』は、デイヴィッド・ハロワーという人の書いた戯曲*1。そうすると、どうなんだろう。このユニットの持ち味であるだろうテキストの発声などの一種「脱構築」的な演出方法が、「これとは別のオリジナルの戯曲があるのだ」という意識に囚われながら見ることになって、それが例えば『三人姉妹』などのように比較する他の舞台、テキストなどがあれば、その解体ぶり、距離とかにこころめぐらす事もできるのだろうし、全くのオリジナルであればそのまま舞台に集中もできる。そういうのとちょっと違う印象。簡単に言えば、この演出姿勢は、そういった古典戯曲やオリジナル作品での方が、より顕在化するような気はするのだけれど。

 でも、やはりこういう戯曲を選ぶんだなぁ、というか、物語自体は他にあれこれと類型のありそうな、田舎での姦通もの。「知」の人であるような、よそモノの水車小屋の番人と、馬も飼う農家の主婦とが通じ、その過程で無学な主婦が「ことば」を獲得して行く。そういう戯曲はたしかに「地点」の(というか、三浦基の)方法と重なるような作品ではあるのだろう。そして、たしかに、その主婦を主人公としての、一種「知」の彷徨のような過程を、「ことば」を媒介として演出された舞台は、エモーショナルであってまたスリリングだった。

 ただし、今回は、飯田茂美の参加した『じゃぐちをひねればみずはでる』でのようなアナーキーな身体性は際立つわけではなく、特に前半ではほとんど動きらしい動きもなく、まるでリーディング公演のような舞台。その静的な世界が、ま、後半ではグワシャ!とばかりに壊されたりして、効果的な演出ではあるのだけれど、『じゃぐちをひねればみずはでる』の狂躁にも似た舞台を先に見ていたので、なんというか、舞台空間の観念性を先に感じ取ってしまう。

 で、とにかく安部聡子。常に正面を見据えて、アクセントや区切りを読み替えられた圧倒的な量のテキストを語りながらも、もう、これは圧倒的に官能的であり、圧倒的に美しい。観客であるわたしの眼はしばし彼女の姿に釘付けになり、耳は彼女の声をとらえるために機能を全開させていた。なんてすばらしい俳優なんだろう!

 この「地点」、これまでの「青年団リンク」はこの公演で終了し、これからは本拠地を京都に移しての活動になるらしい。ということは、「地点」では、もう安部聡子の演技は見られなくなるのだろうか。そうだとしたらちょっと残念だけれど、もう、早く早く次の公演を見たくなってしまっている。
 (1月7日観劇)

 

 

 

*1:「日本初演」なのか、と思っていたら、去年宮沢章夫の演出でシアター・トラムでの公演があったらしい。知らなかった。

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■ 2005-01-06(Thu)

[] 『清陰星雨』 中井久夫:著  『清陰星雨』 中井久夫:著を含むブックマーク

   清陰星雨

 中井久夫は、カヴァフィスの詩の翻訳などでも知られる神戸在住の精神科医。この『清陰星雨』は、「神戸新聞」に1990年6月から2001年12月まで年に四回掲載された連載をもとに、著者自身が「今どう考えるか」というサブテキストをつけて、2002年に刊行されたもの。おそらくは将来的に見ても未曾有の激動の10年間を、普遍的な心の危機の問題として平易な文章で書き綴った本。

 もう10年ぐらい前に、ある方に中井久夫の『治療文化論』を読むようにと強くすすめられた。ちょうど古本屋でその本を見つけ、読み始めた時にわたしは本当に眼からウロコの落ちる思いがした。そこでは人の精神というものがいかに時代や文化によって影響を受けてしまうのか、その事によって精神疾患におちいるか、又、何がその時代、文化によって精神疾患とみなされるか、といった視点から、精神疾患という問題から時代や文化を逆照射してみせてくれる本だった。おそらくはすべての成人は、成長する事で「純粋」とか「無垢」とかいうあり方から遠く隔たってしまうんだ。文化とはひとつの「病い」の形なのかも知れない、そうとまで思った。ある意味わたしにとってターニングポイントになるような読書体験だった。

 その後、阪神淡路大震災のあと、中井久夫氏が現地で「こころのケアセンター」担当、また精神科医として被災者の心のケアに尽力されたことはご存知の方も多いと思う。ハーマンという人の書いた『心的外傷と回復』という本を「必要である」として自ら翻訳したのもこの後である。このあたりの事情も、この『清陰星雨』の中には書かれている。

 タイトルである『清陰星雨』には特に出典とかはないようで、意味もいかように取っても良いらしい。タイトルを考えたのは担当の新聞社の人らしいけれど、意味の取りようもないとか言っても、自然の中の清々しさが伝わって来るような気がする。一編二二〇〇字から一八〇〇字の本編にサブテキストをつけた掌編エッセイが47編、それともう少し長い「一九九〇年以後の世界」と題された序のような文章から成る。最初のうちは著者自身の過去の回想的な文章が多いのだけれど、だんだんにそのような文章は少なくなって行く。それは、この足掛け12年の間の、わたしたち日本人の心の危機の増大に比例しているのだろうか。

 「医は仁術」などと言うけれど、こうして中井久夫氏の文章を読み続けると、その底にある倫理や良心のあり方にふれ、新しい啓示を受けると共に、ちょっとした癒しを受け取ったような気持になることができる。そう、「癒し」というのは、『治療文化論』によれば「一人治療文化」、つまり「自己治療」ということになるのだろうか。そのような機会に読者を促してくれる、そんな読書。

 これは孫引きになるけれど、この本の中の「文化変容の波頭−米国で続発する大量殺人の背景*1」という文に、グロスマンという人の『殺人の心理学』という本が紹介されている。その本によると、南北戦争から第二次世界大戦まで、アメリカ兵士の「発砲率」は、10〜15パーセントに過ぎなかったそうだ。つまり、残りの85〜90パーセントの兵士は、敵を撃つ場面になると、空に向かって撃つとか、狙いをわざと外すとか、そもそもが撃たないか、だったらしい*2
 しかし、1946年にある将校がこの事に気付いて、心理学者に「発砲率」の改善を命じて、「洪水法」*3「条件付け」「洗脳」などの結果、その発砲率は朝鮮戦争で55パーセント、ヴェトナムではなんと95パーセントに向上したそうだ。
 この改善後の数字は恐ろしいけれど、本来、人は人に向けておいそれと銃を撃てるものではないというのは、ちょっとホッとする。

 ‥‥ひとつひとつのエッセイが素晴らしく、ここでそのひとつひとつの覚え書きを書いてしまいたいぐらいなんだけれど、とりあえずは、新しい年の始めをこんな読書からスタート出来たのはちょっと幸せ。今年は中井久夫の本を読もう。

 

 

 

*1:この文の中で、現代社会は古代ローマ帝国の一人勝ち状況に比されているんだけど。

*2:わたしの父も、中国に出兵していた時に同じように発砲しなかったという話を聞いたことがある。

*3:兵士の頭を固定して残虐な戦闘場面の映像を何時間も見せる事らしい。『時計仕掛のオレンジ』は(結果は逆だけれど)誇張でも何でもなかったようだ。

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■ 2005-01-04(Tue)

[] 『ツイゴイネルワイゼン』の切り通しヘの道  『ツイゴイネルワイゼン』の切り通しヘの道を含むブックマーク

(この文章は、もうかれこれ四年程前にニフティの「映画フォーラム」に書いたものです。自分の「よれよれでバカ」路線の最初の文章として愛着があって、ずっと自分のホームページに載っけていたのですけれど、先日そのホームページのコンテンツを整理して、このあたりは削除してしまいました。つまらない文章だけど、自分には思い出があるので、これを機会に、記録のためにもここに再々録しておきます。ご容赦下さい。)



 しばらく前の事だけど、とある日曜日、映画を見て映画館の外に出るとあまりにも天気が良かったので、フラリと鎌倉まで出かけてしまった。

 で、目的は『ツィゴイネルワイゼン』に出て来るあの「切り通し」を見て来る事。と決めた。

 『ツィゴイネルワイゼン』をご覧になった方はお解り、と思うが、この「切り通し」、映画の中で「夢」と「現実」、「生」と「死」の境界として、後半何度も何度も登場する象徴的な場所である(奥に「中砂家」があるのだね)。

 鎌倉の切り通しについては、観光ガイドなどを見ると鎌倉の周辺に7〜8ヶ所程あるようだけれど、この『ツィゴイネルワイゼン』に出て来る切り通しは、「釈迦堂の切り通し」と言って、どうもその他の場所の切り通しとは少し性格が違うらしい。まずは、軍事目的ではない、と言う事だったでしょうか。あと、他の切り通しとの大きな違いはその外見ですね。釈迦堂の切り通しは、映画を見た方はご存じのように、小さなトンネルになっているわけで。他の切り通しってどんなか?って言うと、写真で見た限りでは、単なる「険しい獣道」。

 まぁ、以前からこの「釈迦堂の切り通し」は訪ねてみたかったのですけど、鎌倉へ行くというと大体一人ではないし、その切り通しの場所も「山奥」とだけぐらいしか解っていないし(おおよその方角は知ってたけれど)、敢えて他人を引きずっていって道に迷って、顰蹙を買う、という結末は目に見えているから、いつもそんな無謀な計画は立てはしないわけである。

 しかし今回は私一人だし、どんなに迷っても私一人がウンザリするだけ。トコトン探してみましょう。ただ、鎌倉到着時ですでに時計は午後4時。暗くならないうちに見つけないと、私がほんとうに「生」と「死」の境界で迷ってしまうぞ。

 さて、コースはといえば、まず鶴岡八幡宮。そこから東に鎌倉宮の方に道をとり、どこかで今度は南に入り込んで行くと辿り着く予定。私の記憶ではそうなっている。って、アバウトだなぁ。

 とりあえず八幡宮。ここでは『ツィゴイネルワイゼン』のラストに藤田敏八が渡る太鼓橋を拝観。ここも今は人が入れなくなっているんだね。昔は自由に渡れたんだけど(私も渡ったよ)、太鼓橋、というのは要するに円形の橋。登る時と降りる時が傾斜がきつくってコケそうになります。映画の中の藤田敏八は実に見事にサッ、と渡ってしまいますね。今改めて見ると、思っていたよりも傾斜はゆるかったですけれども。

 ちなみに、八幡宮境内にある美術館では『岸田劉生展』開催中。ちょっと見たかったけれどもそんな時間はないわい。岸田劉生の代表作の一つにも、「切り通しのある風景」というのがあるけれども、これは鎌倉の切り通しとは違いますね。

 で、さっさと八幡宮を通りすぎて鎌倉宮の方へ。

 鎌倉宮というと、何年も土牢に幽閉されたあげく、結局斬首された護良親王、という訳ですけれど、ここに着く前にどこかで道を換えなければいけないはずなんだけど、結局鎌倉宮に着いてしまった。で、逆戻りして南側の住宅地のさらに南へ。ここで南に入る道がなかなか見つからない。もうこのあたりはすっかり住宅地なのだ。でも、しばらく歩いてやっと観光案内の看板で「釈迦堂」の文字を発見。ここから南の山の方に登って行けばいいはず。

 と、いう事で、まずは山の方に入る道を発見。これは行くしかない。犬に吠えられながら細い道を登りはじめる。〜しかし、すぐに行止り!〜又犬に吠えられて元の道に戻り、次の道。こちらの道は結構現代的な住宅地。「又違うかなぁ」と思いながら登って行くと、結局グルリと廻ってそのまま下り道に。私はもうこの辺りでヘトヘト。しかも、私の前の方を、お母さんと娘の親子連れが歩いていて、その娘の方が道に何か落っことすのね。後ろから大きな声で「何か、落としましたよ〜!」って言っても聞こえない。仕方ないからその落し物を拾って、走って追いかけて、手渡したのだ。何でこんな所で走らなくてはならないのだ! おまけに、そのお母さん、娘(小学校低学年かな)に「気を付けなきゃダメじゃない」とは言っても、この私にはお礼の言葉一つないのね。腹立つわ〜。鎌倉の住民に偏見持ってやるぞ。とは言ってもこの私も、夕刻住宅地を一人でウロつく「不審者」であったことに間違いはないのだが。

 てな事でもう一度下まで降りてさらに先に。いったい何やってんだか。

 な、な、なんだぁ! ちゃんと観光案内の立て札が出ているではないか!「釈迦堂跡→300m」。そうだよな、この前にもちゃんと立て札が出ていたのだから、なにも考えずに立て札だけを探せばよかったのだよ。もうウンザリ(やはりこうなったか)。

 お待たせいたしました。ついに「釈迦堂切り通し」到着です。時刻はちょうど午後の5時でした。

 映像で見るよりはこじんまりしていますね。けっこう周りには鬱蒼と木が茂っていて、薄暗い感じ。この鎌倉宮側からの道は、映画で言うと、中砂家から帰ってくる道に当たるわけで、いつも藤田敏八が登って来るのは逆の方角。

 さて、ここで重大な事実の発表。現在、この「釈迦堂の切り通し」は、崩落の危険があるため、通行止めになっています。トンネルの両側には杭が打ってあって「通行禁止」の立て札が(いや、私は実はこの事は事前に知ってはいたのだ。ここで引き返しても構わないと思ってはいたのだが)。

 しかし、地面を見ると、どう見ても最近人が歩いて横断して行った足跡が無数に‥‥。

 たしかに、完全に人が通れないように柵を巡らしている訳でもなし、勿論見張り番がいる訳ではなし。まるで「どうぞお通り下さい」と言わんばかり。

 でも、こういう時に人間はネガティブな思考をしてしまう。「もしも私がトンネルの下にいる時に本当に偶然にトンネルが突然崩壊したら? 私は単に通行禁止の立て札を無視して事故に遭った大バカ野郎で、笑い者にこそなっても、誰一人同情してくれないだろう。ひょっとしたら生命保険もおりないかも知れないぞ。」とかって。

 でもここは勇気を振り起し(何の役にも立たない勇気ぢゃ)、トンネルを潜って反対側へ。この切り通しを境にして、南側も北側も下り坂。

 映画の中で撮影されたのはもっぱらこちら側から。確かにこちら側からの眺望の方がスカッとしている。要するに南側なので日当たりが良くって明るい。しかし、カメラをセットしたのは道から2〜3メートル竹薮の中に踏み入った辺りで、狭ッ苦しい。そして、もうここから10メートルも下りると一般の民家(それも、アパート)が。これは当然映画では見えない部分で、意外と生活臭いと言うか、こんな一般の生活空間の傍に「生と死の境界」があるなんて、奇妙な感覚に襲われる。この辺りに住んでいる人たちは『ツィゴイネルワイゼン』を見ているのだろうか? 見たらどんな感想を持つのだろう?

 さて、とりあえず私としてはこれで目的達成、満足ぢゃ。調子に乗って何回も行ったり来たりしてしまったが。

 あとは青地の家とか探したい所だけど、あの家は映画の為に造られた家で、撮影終了後解体された、と聞いている。とにかく、まったく情報もなくうろつき回って見つかるわけもない。

 この後更に海の方まで散々歩いて(私は鎌倉に行くとパブロフの犬のように海岸まで行かなくては気がすまない性向の持ち主なので)、ヘトヘトになって、本当に 生と死の境界をさまようような気分で戻って来たけれど、こうしてまた「生」の世界に戻って来れたのは僥倖の限りではある。


 鎌倉行き顛末記は以上だが、先日何かを読んでいたら、鎌倉の『ミルクホール』という、アンティークショップを兼ねた喫茶店も、『ツィゴイネルワイゼン』の撮影に使われた、との記事を眼にした。

 鎌倉に行くと必ず、と言っていい位に、この小町通りのちょっと外れにある『ミルクホール』には行っていたのに、今まで気が付きませんでしたね。あそこ、あのシーン。青地が友人の解剖医に「死体から骨だけを取り出す事が可能かどうか」を聞くシーンの店、でした。あのGordonのジンを洗面器にバチャバチャ注いで手を洗い、女給の『That's O.K!』の名セリフの飛び出す場面の店。あれが『ミルクホール』だったんだ。

 さて、今度は中砂と青地が一緒に蕎麦を食べた店でも探してみましょうか。ご存じの方は教えて下さいな。


(2001年5月27日執筆のものに編集加筆)

 

 

 

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■ 2005-01-03(Mon)

[] 『ヴィタール』 塚本晋也:監督 @ 新宿 K's cinema  『ヴィタール』 塚本晋也:監督 @ 新宿 K's cinemaを含むブックマーク

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 ずいぶんと業(ごう)の深い映画を作っちゃったんだなぁ、という印象。で、しっかりと逃げてるし。

 塚本晋也の作品は、おそらく『鉄男』からずっと見てきているけれど、最近の作品では、彼がスタート地点から抱えて来ている「二律背反」とでも言ったモノが、塚本晋也自体にとって実に厄介なモノになって来てしまって、その処理に困っている印象がある。その二律背反と言うのが彼にとって幾重にもなっていて、解決がよけい困難になっているのではないだろうか。

 一つには、彼の本質はちょっと旧的なロマンティシズムにあり、例えばホフマン、例えばリラダンというような原点を抱えているわけで(というか、もっと病的なモノかも知れない)、その本質の持つ危うさを、一種映像の現代的な表現としてインパクトの強い作品に仕上げなければならない。これは『鉄男』の成功で背負い込んでしまった、表現者にとっての「原罪」みたいなものでもあると思うのだけれども。

 その二律背反は、わたしの見て来た限りでは、『双生児』(1999)で上手く調和され、あーこれでいいじゃん、などと思ったモノだけれども、一般には受けなかったのかな。次の『BULLET BATTET』(2000)も良かったんだけれど、前作『六月の蛇』でおかしな事になって来て、この『ヴィタール』で、その分裂ぶりがはっきりと画面に顕われて来た感じ。

 この『ヴィタール』でとにかく全然わからないのは、記憶を喪失した主人公が、かつて愛した人との別次元での邂逅をくりかえす事と、その愛した人の身体を解剖実習で切り刻む、ということとの関係が、まるで不明瞭なこと。これがさらに、まるで実験映画のような映像表現と、曖昧な「愛」の物語に回帰してしまう一種原状肯定な主題とが、はなはだしく乖離している印象。

 ここにも、まだまだ映像的な実験は追求して行きたいのであろう塚本晋也と、ある程度日本の映画界を牽引する立場として、ウェル=メイドな地点に作品を回収しなければならない、という要請を引き受けざるを得ない塚本晋也の立場、との乖離があるように思ってしまうのは、深読みのしすぎだろうか。

 さらに、かつて愛した人の身体を切り刻み、すべてをスケッチとかの記録にとどめる、という事の中に、本来ならば変態性欲的な歪んだロマンティシズムを描いてみたいという欲求もあったのではないか。この作品では膨大な量の解剖スケッチも大きな役割を果たすはずなのだけれど、それが主人公の内面でどう処理されているのかは不明のままではないだろうか。ここに、わたしは「業を抱え込んでしまった」という印象を持つ。う〜ん、塚本晋也もオヤジになってきたな、などと。

 ちなみに、わたしは、この映画のようなというか、リアルな離魂体験みたいな体験があるから、そういうものではない、という感想はある。海はたしかに死の世界として出て来るけれど。

 作品の中で、ヒロインの柄本奈美が沖縄の海岸で踊るシーンの振付けは、H・アール・カオスの大島早紀子(白河直子も振付補佐とかでクレジットに名前が出て来る)。柄本奈美の筋張った身体はたしかに白河直子を思わせるところがあったし、あらかたは編集でごまかしているとは言え、ちょっと魅力的だった。って、こういうリンボの世界からの舞踏というのは、本来H・アール・カオスの本質に備わっているものではないだろうか。どういう経緯で彼女たちの協力に至ったかは知らないけれど、グッド・プロデュース、といっていいと思う。

 あと、ラストのCoccoの唄の魅力には抗えない。しかし、塚本晋也、次作が心配だ。

 

 

 

 

[] 『ベルヴィル・ランデブー』 監督:シルヴァン・ショメ @ 新宿 テアトルタイムズスクエア  『ベルヴィル・ランデブー』 監督:シルヴァン・ショメ @ 新宿 テアトルタイムズスクエアを含むブックマーク

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シンガポールで死にたくはない
インテリっぽくしてなきゃならない
よれよれでバカでいたいのさ
ベルヴィルの三姉妹のように

 ‥‥だから、『ヴィタール』でちょっとまたフラストレーションがたまったので、この作品にハシゴしてみた。ははは。負けた。「面白い」って言うのは、きっとこういうあたりの事を言うんだよね。

 とにかく、人類への悪意の固まりみたいな作品。まともな人間、まともに描かれた人間は誰一人登場しない。最後には瓶底メガネでびっこ(ピッピー、放送禁止用語です)の主人公のおばあちゃんが実に愛らしく思えてしまう。極端にデフォルメされて感情移入も不可能なキャラが、ただヨレヨレな活躍をする冒険譚。

 って、昨日の『五線譜のラブレター』に続いて、またいきなり1920年代パリから。ジャンゴ・ラインハルトにしか見えないギタリストのいるスウィング・バンドをバックに、アンドリュー・シスターズみたいな、「トリプレット」と名乗る三姉妹の唄、ジョセフィン・ベイカーは出て来るし、フレッド・アステアは自分のタップシューズに食べられてしまう。そんなTVを見ているおばあちゃんと息子。電車が家の脇を通り抜ける時に吠えまくるしか能がないようなその飼い犬。息子は結局自転車に乗るしか能がないみたいで「ツール・ド.フランス」に出場。そのレースの途中でわけもなくベルヴィルのマフィア見たいなのに誘拐されて、おばあちゃんがその愛犬と追跡する。って、ストーリー書いても仕方がないよな。

 ‥‥とにかく、いわゆるディズニーとか宮崎駿とかのアニメからは絶対に想像も着かない、負荷満載の悪夢のようなアニメーション。しかしながらもちゃんと予定地点にランディング。なんか、世界への視点として良いモノを学ばさせていただきました。って、そんな、学ぶような作品じゃないんだけれど。

 パリ・ミュゼットとか、いかにもフランス的な音世界も楽しい。ここでもラストの曲が最高で、冒頭に引用したのはそこで唄われる歌の歌詞。ほんと、これからもよれよれでバカでいたいものだと思いました。

 あぁ、やっと、今年の始まりにふさわしい作品に巡り会った。これからスタート。

 

 

 

ONO_YusukeONO_Yusuke 2005/01/04 11:08 初めて書き込むものです。ヴィタールはけっこうおもしろいと思ったもので、、、。
よろしくおねがいします。

ヴィタールにおける解剖スケッチの役割についてですが、
たしかに、おっしゃるように、
変態性欲的なものは強調されてませんでしたね。
むしろ、肉体が単なる物質になっていくことを示す感じでした。

人間同士の交流には肉体の次元と精神の次元とがあるとして、
通常、我々はそれを一緒くたにして行う。
ところが、解剖実習中の主人公においては、
それらは完全に分離しつつも併存し、同時進行している。

そして、解剖スケッチが示唆するように、
肉体は単なる解剖学的な機能の集まりとみなすことができる。
人体とは、いわば、精巧な人形にすぎない。

このように、肉体が、肉体ですらない物質になってしまったことへの脅威からか、
それを補うかのように、精神の次元では、ダンスが希求される。
物質から肉体の復権を、精神が求めるがゆえのダンス。

そうした構造が顕在化していて、個人的には、おもしろい映画だと思いました。

crosstalkcrosstalk 2005/01/04 19:43 ONOさん、はじめまして。よろしくお願いいたします。

ちょうどわたしも、この作品については書きたりないモノを感じていましたので、もう少し書いてみます。

一つには、ここで描かれる浅野忠信を中心とした「人間ドラマ」の、ある意味節度ある描き方と、例えば冒頭(ともう一度出て来る)の「煙突」とノイズの重なった映像、例えば交通事故のシーンでの実験フィルムのような映像、こう言った一種エモーショナルな映像とが、この作品の中でうまく調和されて納まっているとは思えない事。

それは、つまりは(ちょっと書いた事だけれど)本来この作品の主題はもっと「セックス」と密接に結びつくべきであるのに、まるで検閲を怖れたかのように、セックスにまつわる展開を避けているせいではないだろうか(申し訳程度の展開はあったけれど、それは「解剖実習」ともっと密接な問題だと思う)。

そういう意味で、ONOさんのおっしゃる「人間同士の交流には肉体の次元と精神の次元とがあるとして、通常、我々はそれを一緒くたにして行う」という問題は、性行為の最中に於いてはそれこそ「それらは完全に分離しつつも併存し、同時進行している」のではないかと。肉体が「解剖学的な機能の集まり」であるとの認識は、そんな愛欲の現場の中で皆が確認するのではないだろうか。うう、生々しい話になってしまったぞ。ま、この話は置いておいて、とにかくそういう視点は塚本監督は避けたと。

その事が、解剖デッサンから映画の中でのリアリティを奪い、解剖された人体(というよりは、かつての恋人の身体)は映画の中でその居場所を失う。

ONOさんのおっしゃる、「物質からの肉体の復権、精神の希求するダンス」と言うのは、それこそ「Sound sweet」ですし、おそらくは塚本監督の意図するモノもその通りなのでしょう。だけれども、結局わたしには、あれではそれこそ「ウェル=メイドな地点への作品の回収」としてしか了解出来ない。あの煙突の煙のパワーを、作品全体から受け止めたいところだった。

ンなとこです。

ONO_YusukeONO_Yusuke 2005/01/04 21:26 なるほどー。
いろいろ(笑)、参考になりました。
ありがとうございます。

crosstalkcrosstalk 2005/01/04 22:18 いえ、わたしこそ、ONOさんのコメントのおかげで、モヤモヤと未整理だった事をいろいろ(笑)整理して書く事が出来ました。様々な意見があると思いますけれど、わたし的にはここに書いた事に尽きる思いです。ありがとうございます。

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■ 2005-01-02(Sun)

[] 『五線譜のラブレター(De-Lovely)』 アーウィン・ウィンクラー:監督  『五線譜のラブレター(De-Lovely)』 アーウィン・ウィンクラー:監督を含むブックマーク

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 ‥‥お正月ですからね、何かゴージャスな映画を見ようと思って、大好きなコール・ポーターの音楽がたっぷり聴けるだろうからと、この映画を選んでみたのよ。主演のケヴィン・クラインに思い入れはないけれど、奥さんのリンダ役のアシュレイ・ジャッドは相当好みの女優だし。ただ、監督がアーウィン・ウィンクラーって、どうなんでしょね。そりゃもう大昔からのらつ腕プロデューサーではあるんだけれど、ケヴィン・クラインで評判になった『海辺の家』とかはまだ見ていないし、なんかこう、ゴージャスさに欠けている雰囲気がただよう。ってか、コール・ポーターを『ロッキー』にしないでくれと。そういう不安を抱きつつの観劇。

 で、予感が当ってしまった。凡庸で貧相な劇中舞台演出、貧弱な照明と色彩設計*1、ぐるぐる廻るだけのカメラ、じゃま臭い作為、そもそもが音楽へのリスペクトがどこまであるのか。見ている途中で「お願いだからそんな演出は止めてくれ」となんど思った事か。全然ゴージャスではない。ただ、アシュレイ・ジャッドの溢れるばかりの笑みだけが、限りなくゴージャスだった。コレでよしとするかね。ケヴィン・クラインは出ずっぱり唄いっぱなし。彼のファンにとってはこんな嬉しい映画はないかも知れないね。

 とにかく、映画は死期を迎えたじじいメイクのケヴィン・クラインの所にお迎えが来て、みすぼらしい劇場で自分の人生が上演されるのを見る*2という、高校の文化祭の出し物みたいな設定。で、過去に遡ったドラマが動き始めると思ったらとたんにこのじじいメイクが顔を出して、あーだこーだと語り始める。コレで何度もドラマが中断される。なんてイヤなじじいだ。で、クライマックス、っちゅーか、「So in Love」を妻にポーター自身が唄って聴かせる部分、これが舞台のシーンと交互に編集されたりしてるんだけれど、あのね、舞台の方ではララ・ファビアンとマリオ・フラングーリス(特にこの歌手のことを知っているわけでもないけれど)がデュエットやってるんだけれどね。これがちょっと舞台の方の歌が聴こえると、すぐにケヴィン・クラインの歌の方にチェンジされてしまう。こまぎれ。いったい観客が歌としてはどちらを聴きたいのか想像出来ないですかね。何のためにわざわざそれなりの歌手を呼んで唄わせるのか。ふたりのデュオが聴けたのは30秒ぐらいですかね。フラストレーションがたまる。あ、サントラを買えと?

 コール・ポーターの実際の音楽的スタートは1920年代ぐらいのパリで、そういう意味ではもろにロスト・ジェネレーションなんだね。この頃の世代のカップルというのは強烈な人たちが多いというか、スコットとゼルダ・フィッツジェラルド、ポールとジェイン・ボウルズとか、カルヴィン・トムキンズ夫妻とか、その仲間にこのコールとリンダ夫妻も入るわけだろうし、特に一度離婚しているリンダにとっては、それこそ「優雅な生活が最高の復讐である」という背景もあっただろう。このような音楽が受け入れられる背景とか、当時の社会情勢、そういう背景はもう一切描かれない。ま、この作品の焦点はコールとリンダの一筋縄では行かない結婚生活にあるのだから、それはそれでかまわないし、その意味では、脚本としては上手く書けているドラマ(もちろんその文化祭的な設定は抜きにして)と言ってもいいですよ。だから、『ムーランルージュ』までとは言わないから、ちょっと過剰な位のゴージャスさを求めてしまうのは間違いでしょうか?という事*3

 あと、ゲストで出て来るミュージシャンたち。えっとね、いちばん良かったのはロビー・ウィリアムズだよ。「へぇ〜〜!」って感じでびっくり。他は全体にあと一歩印象が薄い。ミック・ハックネルなんかわかんなかったし。「Love For Sale」を唄ったヴィヴィアン・グリーンという人が気になった位かな。シェリル・クロウはこんなのに出ないで、もうちとロックなキャリアを重ねてほしいところ。久しぶりに聴くナタリー・コールは、歌に悲しい程に艶(つや)がなく、全然魅力が感じられなかった。普通ボツでしょう。

   

Red Hot & Blue: Cole Porter Tribute

Red Hot & Blue: Cole Porter Tribute

 (はじめて「はまぞう」使ってみた)

 欲求不満がたまったので、帰宅してから、1990年に出されたコール・ポーター・トリビュートの傑作コンピレーション(当時のエイズ撲滅運動とも連動していた)、『Red Hot + Blue』を久しぶりに引っぱり出して聴いている。コイツの映像版もいいんだけどね。とにかく、k d langの「So in Love」と、Annie Lennoxの「Everytime We Say Goodbye」の二つの名唱。その他も1990年型の魅力に溢れたコール・ポーターがずらりと並んでいる。こっちでよかったな。あ、でも、あのアシュレイ・ジャッドの笑み、か。

 

 

 

*1:途中でケーリー・グランドがコール・ポーターの役を演じた実際の映画「Night and Day」のフィルムがちょっと挿入されるけれど、そっちの方が映像として力があるんだから。

*2:ここでケヴィン・クラインの脇に立って彼の人生を演出してみせる演出家がなぜかジョナサン・プライス。嬉しがればいいのか悲しめばいいのか。

*3:この映画の中でも、実際にその曲が作曲された時期を無視して曲を使ったりしていたんだから、もうちと弾けてほしかった。

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■ 2005-01-01(Sat)

[] あけましておめでとうございます。  あけましておめでとうございます。を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20050101000146:image

(お知らせ)2005年から、もう一つの日記『西日暮里二上り半日乗日記』も、さる所でブログ化して再出発いたします。こちら『ワニ狩り連絡帳』は、基本的には観たり聴いたり読んだりしたモノの備忘録、一般的な日常の記録は『西日暮里二上り半日乗日記』と書き分けしている積もりです。どうぞ、新しい年からは双方共に御愛顧の程宜しくお願いいたします。

 

 

 

[] 2004年を振り返って  2004年を振り返ってを含むブックマーク

 普通旧年末にこういう事はやっておくんだろうけれど、一応年があけるまでは何が起こるかわからないと。などと思っていたら、恐ろしい津波の被害の様子が伝わって来たり。

 あまり景気の良い年ではなかった。転職も出来ず、ジリ貧状態は全く改善されず。反面ネット・スペースへの依存率は増大してしまった。新聞もとらず、TVもあまり見ない生活でどんどんネット空間にはまりこんでしまう。などと言いながら、いまだダイアルアップ接続などという信じられない手段でアクセス続けている。

 結局まいってしまったのは、やはり栗東文化会館「さきら」での、丹野賢一+石川雷太『METAL−026』公演中止問題。一観客としても企画側の人間としても許せない問題だったけれど、関連するような情勢は確実に国内で増大していると思った。春に仕事で千葉県の勝浦を訪れた時に、町中で「やっちゃだめ 楽しい明日が 待っている」という標語を見つけて笑ってしまったモノだけれど、マイナーレヴェル(大局からみて)での突出した(突出しようとする)個人活動に対するバッシングが大合唱になっている。安定したメジャーはさらに増大し、新しい方法を模索し援助を求める活動は、観客/批評家の側からも、作品の発表の機会さえも否定されようとしているのではないだろうか。そういう声の届いて来てしまった年だった。

 2005年はリヴェンジの年。

 

 

 

[] 2004年を振り返って  2004年を振り返ってを含むブックマーク

 2004年は、50本位の映画を映画館/劇場で観た。そのうち15本程は映画祭などでの旧作の上映。日本映画がやはり15本位で、中国関係が10本。これだけの観劇数でたいそうな事は言えないけれど、わたしに映画を観る醍醐味、喜びを感じさせてくれたのは、ほとんどが中国の映画だった。というか、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の作品と、田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)の作品を、それぞれ3本ずつスクリーンを見る事が出来た喜び。2004年はわたしには中国映画の年だった。

 その他の企画では吉田喜重のレトロスペクティヴ、ウィリアム・クライン映画祭などがうれしかった。って、皆古い作品ばかりだな。

 新作に限れば、廣木隆一の『ヴァイヴレーター』、大友克洋の『スチームボーイ』、エンキ・ビラルの『ゴッド・ディーバ』、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン.トランスレーション』あたりが、目や耳を楽しませてくれた。

記憶に残る5本

●『鉄西区』 王兵(ワン・ビン)
●『盗馬賊』 田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)
●『春の惑い』 田壮壮(ティエン・チョアンチョアン)
●『プラットホーム』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)
●『一瞬の夢』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

 ‥‥って、全部中国映画、しかも旧作がほとんど。

 

 

 

[][][] 2004年を振り返って  2004年を振り返ってを含むブックマーク

 わたしが観る「ダンス」と言うのは、いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれる分野だけれど、2004年は舞台で観たのは40件強。偉そうな事は言えないけれど、やはりこの年は黒田育世の年、だったんじゃないのかな。それから大橋可也のブレイク。春のダンス・シーズンの後はこれと言った舞台作品に巡り合えなかったし、コンペの乱立する状況に「?」も感じるようになった年かな。企画のあり方とかに対しても考えを巡らせる事が多かった気がする。というか、後半では「演劇」とも「パフォーマンス」とも「ダンス」とも分類出来ないような表現にあれこれと出会って、それぞれが刺激的だった。

 演劇と分類されるような舞台は、30件強の観劇。こちらは逆に、年の前半にはあまり興味を惹かれる舞台に出会えなかったけれど、後半になってあっと驚くような表現にあれこれと出会う事が出来た。

記憶に残る10本(1月3日にちょっと書き足して、10本にしました。)

●『026−METAL』 丹野賢一+石川雷太
●『あなたにここにいてほしい』 大橋可也&ダンサーズ
●『花は流れて時は固まる』 BATIK(黒田育世)
●『ひかりごけ』 三条会(関美能留)
●『労苦の終わり』 チェルフィッチュ(岡田利規)
●『わたしの恋人‥‥』 リンゴ企画(近藤良平+黒田育世)
●『バンドネオン』 ヴッパタール舞踊団(ピナ・バウシュ)
●『じゃぐちをひねればみずはでる』 地点(三浦基)
●『kawase』 arica(藤田康城)
●『Flower Picking』 珍しいキノコ舞踊団(伊藤千枝)

 ほかに思い出すのは、Ort-d-d.の『四谷怪談』、天野天街の『真夜中の弥次さん喜多さん』、岡本真理子の作品2つ、Yummy Danceの「Humor in Dance」での作品、「マツケンサンバ」など、かな? 

 

 

[] 2004年を振り返って  2004年を振り返ってを含むブックマーク

 「美術」って言うのは本当に見なくなってしまって。2004年で思い出すのは宮本隆司、ウィリアム・クライン、ヴォルフガング・ティルマンスと、全部写真の展覧会だ。

 2005年はそろそろわたしの出番にしようか。

 

 

 

[][] 2004年を振り返って  2004年を振り返ってを含むブックマーク

 生活の中で音楽が占める割合がちょっと低下。と言っても、2003年よりはあれこれと積極的に聴いただろうか。ライヴで思い出すのは「2004年の変身キリン*1」とか、UAとか、佳村萠。あと、特筆して置きたいのはジャネット・クラインとの楽しい出合い、だったかな。CDとかではアート・ベアーズのボックス、ブライアン・ウィルソンの「SMiLE」、アレックス・チルトンのライヴとか。

 2005年も刺激的な音にあれこれ出会えますように。

 

 

  

*1:「アノン」と改名して、この2月にまたライヴをやる。

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