ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2005-02-28(Mon)

[] 掲示板において  掲示板においてを含むブックマーク

 わたしに削除する考えがない以上、あとで見っけられても恥ずかしいので、今のうちに公表しておきます。というか、わたしのことは抜きにしても、読まれる価値のある文章のはずです。

 わたしのHPの掲示板(BBS)が、開設以来最高の賑やかさです。発言された方は、掲示板の閲覧者がかなりいるものと想定されているようですが、現実にここから掲示板に跳ぶ人はほとんどいないはずですので、「こうなっている」ということで、ご覧になってください。

 ここではわたしの意見は書きません(喜んでいるわけではありません)が、荒らされるのとかお断りですし*1、知人に、擁護してくれとかお願いするのでもありません。

*1:現状は削除しませんが、今後不必要と思われる発言がありましたら、削除させていただきます。

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■ 2005-02-26(Sat)

[] ARTNOVA Vol.20 『アートノヴァ・評論家&ジャーナリスト・セレクション!』 @ 吾妻橋 アサヒスクエア  ARTNOVA Vol.20 『アートノヴァ・評論家&ジャーナリスト・セレクション!』 @ 吾妻橋 アサヒスクエアを含むブックマーク

   

 三人の批評家・ジャーナリストが、それぞれ三人のパフォーマーを推薦する試み。一種ダンス界での新しいキュレーションの試みとして、まずは興味深い。

 最初は、堤広志さん推薦の、山川冬樹。この人のパフォーマンスは、去年の六本木での川口隆夫のパフォーマンスの共演者として、一度見た事がある。「ホーメイ(倍音歌唱)」を基調としながらも、その心臓の鼓動、ギターの弦にまったく手を触れないで演奏するギターの音、を統合して、ロックのグルーヴ感を、身体と見事なまでに結び付けるパフォーマンス、という構成は、前に見た時と同じ。心拍を自在にコントロールしてその基本リズムにするのは驚きで、わたしはてっきり、ディレイとかかけているのではないかと思っていたのだけれど、全部身体的にコントロールしていたんだ。

 とにかく、その「ホーメイ」とかを基調としたヴォーカル、変則的なリズム、ほぼノイズとして働くギター音などを合わせて、極めてポスト・ロック的な展開。これに、心音とシンクロした裸電球の照明の明暗が付与され、パフォーマンス・ライヴとしての魅力に溢れていた。


 二組目は、武藤大祐さん推薦の、神村恵。初見。この日のパフォーマンスで唯一、ダンス的な展開ではあるのだけれども、幼少からバレエを学んでいたという経歴からは程遠い、一種原初的な身ぶりに終始する。「身ぶり」が最大限な意味性を付与されるような展開は、一種秘密結社のリチュラルな儀式を想起させ、終盤の非ダンス的なステップでは、あ、これは「野生の思考」なのだ、と思った。それは、見る側にある意味、読解したい、という欲求を圧倒的に喚起する舞台で、目の前に存在する「なぞ」という時間、空間を前に、一種の戦慄を覚えた。また見たい、と、強く思った。


 最後は、インディペンデント・キュレーターの東谷隆司が、なんと、ライヴをやる。この人は、先日の横浜トリエンナーレ、磯崎新の降番騒動の時に、横浜トリエンナーレのメーリングリストを拝読して、その中に引用された東谷さんの発言には、共感を越えて、時代を射抜く視点を読み取った気がして、深く思う所があった。そんな東谷さん。驚いた事に、かつて「マリア観音」に在籍していた事があったという人なのだ。しかし、まだ30代なのに、腹がたるみ過ぎではないのか?

 結局、彼のライヴは、「これは東谷隆司なのだ」という了解がなければ、ただのオヤジの悪ふざけであり、多少のパワーがあれば誰でも再現可能。観客席の盛り上がりも内輪的であまり愉快ではない。推薦した評論家が、美術ジャーナリズム系では東谷氏の後輩に当るような関係、というのも、構造的に不愉快、というか、そんな「内輪」な関係で進行して行く「談合」的な生業には、絶望的な気分になる。最低。
 (2月25日観劇)

 

 

 

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■ 2005-02-23(Wed)

[] 三条会『若草物語』 作:ルイザ・メイ・オルコット 構成・演出:関美能留 @ 西千葉 椿ホール  三条会『若草物語』 作:ルイザ・メイ・オルコット 構成・演出:関美能留 @ 西千葉 椿ホールを含むブックマーク


   f:id:crosstalk:20050223211301:image

 いや、去年の「BeSeTo演劇祭」での、この「三条会」の『ひかりごけ』の公演は、自分にとっては大事件だった。それは例えば、わたしにとっての去年のもう一つの「事件」、「地点」(というか、三浦基)による、原作戯曲の読み替え作業と通底する行為なのだけれど、この「三条会」においての、演劇という「場」の持つネット、又はマトリックスを自在に行き来するその演出、そんな演出を可能にする役者たちの身体は、ちょっとした「驚愕」だった。その『ひかりごけ』を見終った瞬間に、これからは「三条会」は全部見るぞ、みたいな意気込みになったわけで、そんな「三条会」の新作は『若草物語』。

 で、『若草物語』がいったいどんな話だか、まるで知らなかったわたしは、半月ほど前に、マーヴィン・ルロイの監督したヤツを、ヴィデオで借りて予習した。いや、この予習は役にたった。

 結局、「三条会」というか、関美能留の方法論の一つは「デペイズマン」であって、それは要するに「シチュエイションの置き換え」と言ってしまえば手っ取り早いのだけれども、その『ひかりごけ』においては、全体の設定を、悪ガキのそろう高校だかなんだかの、授業でのリーディングという設定にしてしまう。そこで当然原作の内包する身体性も置き換えられるわけで、ここにひとつ、この「三条会」の舞台の面白さがあるのだけれども、今回の『若草物語』も、そんなとんでもない魅力に溢れた舞台だった。

 基本的には原作に忠実な脚本があって、そのことは、この日の舞台が、先に見たヴィデオと同じセリフを繰り返す事から理解できたのだけれども、それらすべてを、とんでもない状況下に強引に移し変えて見せてしまう。この日観客に配られた『「若草物語」を上映演目に選んだわけ』という、関美能留の書いた文があって、ここには「若草物語」筋書、として、以下のように書かれていた。

1幕 便所 便所が何より楽しい
2幕 学校 異性のことだけを考えていた
3幕 友情 男女間なり国家なりを越えた友情なんて妄想かしら。

 会場の「椿ホール」の座席設定は、舞台に対してかなり横長で、3〜4列、全体で3〜40人も入れば満員で、実際ほぼ満員。舞台には「なんじゃこれ!」的な、紅白のカーテン。そのカーテンが横に引かれてオープンし、舞台が始まるんだけれど、舞台も、まるで渡り廊下のような、狭い横長の舞台で、役者同士がすれ違うだけでも目いっぱいって感じ。自然、その舞台空間の中で、演技する役者が演技運動をする、というよりも、役者の身体がその場に提示されている、といった見え方になる。

 で、その紅白のカーテンが開かれると、4人の坊主頭の男性が、等間隔に客の方を向いて並んで、腰を落として力んでいる。そのスキンヘッドの後ろには毛糸で編んだ三つ編みが付けられていて、あぁ、これが四姉妹。で、ここで交わされる会話は、わたしなんかが映画で見た、その冒頭の会話と同じ。父が戦場に行って不在である事、今日がクリスマスなのに家に金がなくて自分の欲しいものが買えないとか、そんな状況が手際よく提示されるんだけれどもね。そんなセリフを語りながら皆それぞれ、キバリ続ける。あぁ、こんな説明をしていたら、読んでいる人は見る気を亡くしてしまいそうだな。で、途中下手の花道みたいな通路から四人の女性が登場して、男性と役を交代する。ま、そんな展開。

 すっ飛ばして書いて、2幕は舞踏会に招かれた長女のメグと次女のジョーとの会話。3幕は求婚されるメグ、帰還する父の話*1など、この『若草物語』のポイントをつかんだ展開で、最後にはまたキバル男性陣と、女性陣が対になっての、ミュージカル風大団円。

 などと書いていると、この劇団はちょっと脱力系のコメディ志向と思われてしまうかもしれないかな。たしかに笑ってしまう要素はたくさんあるのだけれど、その背後には、演劇という「装置」、「場」へのトータルな展望、そんな演劇のマトリックス的なネットワークが、舞台上で交差してしまう魅力があると思う。これは、おそらくはわたしの認識では追いつかないところがあれこれとちりばめられているはずで、その魅力を書くにはわたしは力不足。例えば今回は、その衣装なども含めて、歌舞伎への目配せがあれこれとあったようだし*2

 たとえばそれは、「なぜ今『若草物語』を上演するのか」という問題から始まっているだろうし、それを今の時代にアクチュアルに提示する方法を探っているようでもあり、そんな方法意識は、テイストは違うのだけれども、「地点」の三浦基などと共通するところはあるだろう。ただ、「三条会」の場合は、その俳優陣の身体、という問題に対して異様に意識的で、例えばそれは、一つのメソッドを突き詰めた末に、そのメソッドを解体するという意識、なのかも知れないと、今思ったりしている。それが「物語の解体」と同時進行するのが、「三条会」の舞台の魅力、なのだろうか。その「三条会」の次の東京での公演は、平田オリザの『S高原から』。いったいどんな事になってしまうのだろう。

 あ、今回の舞台で使用された音楽は、「発条ト」や、北村明子の舞台音楽を担当している、粟津裕介。ほとんどがその「発条ト」や「レニ・バッソ」で使われた音楽だったようだけれども、関美能留と粟津裕介は同郷なのですね。

 あ〜、いいかげん書いとかなくちゃと、書きなぐってしまった。文章力低下が著しい。って、またレイアウトがおかしいぞ、ここ。
 (2月20日観劇)

 

 

*1:この帰還する父が、泥酔して頭にネクタイを巻いて、四姉妹にマクドナルドのハンバーガーをお土産に帰宅するのだ。ま、現代の父親の帰還なんてそんなもんかも知れん。

*2:紅白のカーテンは、歌舞伎の緞帳の借用なのだろう。

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■ 2005-02-22(Tue)

[] 『浮世物語』 アラン・エスカル:監督 @ 神田駿河台 アテネ・フランセ文化センター  『浮世物語』 アラン・エスカル:監督 @ 神田駿河台 アテネ・フランセ文化センターを含むブックマーク

   

 2001年度の作品ということだけれども、チラシを見ると、構想・製作に5年、合成・編集に1年半を費やしたとの事で、えっと、チラシとか良く読んでいないでこの作品を見たわたしは、「またずいぶんコテコテのCG映画だなぁ」などと思っていたのだけれど、なんと!CGではない、デジタル合成システムとかいう手法らしいのだ。いやぁ、会場で聞いてみて良かったね。そのままだったら絶対ココにも「コテコテのCG映像で」なんて書いちゃってるよな。

 つまり、この作品は一コマずつ手作業で加工して出来た、一種これは実写素材をモトにしたアニメーション、と言ってしまっていい作品のようだ。監督のアラン・エスカルという人についての知識はわたしにはないけれど、やはり、CMとかの分野で活躍されている人のようだ。

 その実写部分での主役、と言っていいような役回りを、ダンサーの大橋可也さんが演じているわけで、そんな興味で見た作品。

 で、ですね、むかぁし、ピーター・グリーナウエイという監督さんがおられまして、このところ新作が来ないので心配はしとるのですけれど、『枕草子』を映画化するなどという、とんでもないことをやられまして、いや、映画化はいいんですけれどもね、出来た作品がとんでもない「怪作」でありまして、もう忘れちゃったよ。このあとにも『8 1/2の女たち』などというチン作(これも日本が舞台)も作っておられる。そんなのを思い出していたのですけれども、ま、このピーター・グリーナウエイ監督もコテコテのグラフィック趣味があったりして、たとえば綴じられた本の中の文字が、フニャッと蟻ンコになったりとかいうのは、そりゃぁピーター・グリーナウエイ。とにかく、この作品の全編は、「変容(メタモルフォス)」感覚で突き抜かれていて、それは形態の変容に留まらず、時間感覚とか歴史感覚の上でも変容し続けるわけで、その基調にあるのは、これまたコテコテ(って、今日は何回「コテコテ」って書くんだろう?)の「ジャポニズム」であって、これがまぁあなた、広島の原爆、黒い雨、そして平安朝の十二単で琴をつま弾く女性、戦国時代の合戦する武士、というパターンを、とりあえずピックアップして、歴史感覚を無視して串刺しにする。ま、言ってみれば「ジャポニズム」に関するコマーシャル映像ではあるのだけれども、それらの素材を、ただ表層的な映像の美しさにとどめようとする姿勢は、アート感覚にもったいぶったいやらしさから逃れて気持良い。ま、このあたりは、もったいぶりながらもバカ感覚全開の、ピーター・グリーナウエイの作品の面白さと合い通じる所もある気がしないでもないのだけれども、また、そんなピーター・グリーナウエイの作品が見たくなってしまった。とりあえず、映像は美しい。また見たい。(2月19日観劇)

 

 

 

[] 大橋可也+浮世物語ダンサーズ 『R U D(Rational Use of Dance)』 @ 神田駿河台 アテネ・フランセ文化センター  大橋可也+浮世物語ダンサーズ 『R U D(Rational Use of Dance)』 @ 神田駿河台 アテネ・フランセ文化センターを含むブックマーク

   

出演:大橋可也
   川本裕子
   ゴールデン鈴木
   ロマンス小林
   上田ユカリ

 その、アラン・エスカル監督の『浮世物語』では、エンド・クレジットのバックで、真っ黒な背景で横たわって踊る大橋可也の姿がとにかく印象的だったのだけれども、1999年に撮影されたこの『浮世物語』に、大橋可也と共にダンサーとして出演していたメンバー達による、一夜限りのパフォーマンス。ある意味、ベタに素材にされてしまった『浮世物語』という作品への仕返し、というか、「ダンス」という行為自体に諧謔的に距離をとる、大橋可也のカムバック以降の方向性を如実に舞台化しているようにも思えて、その「ダンス」への距離感がとってもクレヴァーで、素敵な舞台だった。

 って、この日の舞台を追次的に思い起こして、こういう展開だったんだよ、などと書こうとしてもこの日の舞台の興味深さはとても伝え切れない。それは自分の筆力の限界でもあるのだけれども、一昨年の枇杷系スタジオでの『ダンス・ハードコア』の舞台での屈折と諧謔が、この日久しぶりに舞い戻って全開した、そういう感じ。それは、なんというか、「スポーツなんかからだに悪いんだよ」と言いながらも、オリンピックとかで金メダル獲ってしまうアスリートみたいな感じ? 違うな。ま、そんな、「表象」への距離感が大橋可也の魅力なのかな、などと思うこの日のパフォーマンスだった。うまく伝えられなくてごめんなさい。(2月19日観劇)

 

 

 

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■ 2005-02-19(Sat)

[] 『瀧口修造 夢の漂流物』 @ 砧 世田谷美術館(副題:「同時代・前衛美術家たちの贈り物 1950s〜1970s」)  『瀧口修造 夢の漂流物』 @ 砧 世田谷美術館(副題:「同時代・前衛美術家たちの贈り物 1950s〜1970s」)を含むブックマーク

   

(この展覧会の中で一番美しいセクション。スリガラスの外の植物の枝の影が、瀧口修造っぽい。)

 これは、一個人の業績を葬り去るための展示なのでしょうか。あまりに酷い。

 今、わたしは個人的には、瀧口修造という人物に、思い入れはほとんどなくなってしまってはいるのだけれども、この展示はあんまりだと思う。

 まずはそのタイトル。「夢の漂流物」と名付けることで、この展覧会の展示内容から、アクチュアルな現実/現代との関係を剥ぎ取る。そんな姿勢は展示にも色濃く顕われていて、これでは単に瀧口修造の遺品展示。というか、これを見たあとに会った知人にこの展示の話をしたら、「要するに『オタク』なんだね」って言われて、ハッとしてしまった。そうなのだ。何の説明もなく並列された美術作品、それらの作品は基本的に瀧口修造のアトリエに遺された作品群なのだけれども、その背景を知るものにとっては、「あぁ、そういうコネクションね」と納得する所もあるだろう。たとえばわたしにしてみても、この展示会場に並べられた、例えば神田の「タケミヤ画廊」の案内状、これはわかる。つまり、1950年代のある時期に、瀧口修造は、その「タケミヤ画廊」の、一種キュレーターとして、新人作家を探し出して、その画廊で紹介していたのだ。そういう背後を知っていれば、ここになぜそのようなモノが展示されているかは納得が行く。で、そんな展示姿勢で良いのだろうか。そんな背景を知らない人にとって、何のキャプションもなく並べられた、その画廊の案内状は、どれほどの意味を持つのだろう。実際にわたしもこの展示を見ていて、「いったい何ゆえにここにこんなものが並んでいるのか」判断がつかないものが、あれこれとあったのだ。もしもこの展覧会を企画した側が、「そんな事は基本知識として知って見に来い」とでも言うのであったなら、もう時代的には半世紀を過ぎようとする作品の並ぶこの展覧会を正当に評価できるのは、少なくとも60歳を過ぎてしまっているような観客だけに許されるのではないのか。

 強烈なのは、この展覧会が始まって2週間が過ぎた今日になってもまだ、この展覧会のカタログは完成していないということ。ってね、新作がぞろぞろ並べられるようなアクチュアルな展示ではなく、少なくともこの企画が決定した時点で、どんな作品が展示されるかは全て把握されていてしかるべきだし、そんな作品は動きはしないのだ。3月にならなければカタログが完成しない、というのは、ごく単純にスタッフの怠慢以外の何ものでもないだろう。観客をバカにしているとしかいいようがない。

 例えば戦後日本美術の前衛運動、という視点で言えば、読売アンデパンダンに関わった作家の作品にせよ、そして、(ここではあまりフィーチャーされてはいないけれど)「もの派」の作品にせよ、その他全般に、圧倒的に作品の原物が残ってはいないのだ、という現実があるわけで、そんな中で、この展示の中には、例えば中西夏之の初期の作品、例えば篠原有司男の作品、その他、そんな作品が残っている事自体が特筆すべきような作品が、何のキャプションもなされずに、放り出されるように展示されている。‥‥つまり、ここでの展示姿勢は、「これは『夢』であり、『漂流物』であり、今現在の状況とは何の関わりも考えなくても良いのだ」という展示姿勢であり、ただ瀧口修造のアトリエにあったものを全て、なにもかも、首から上は何も使わないで、片っ端から美術館に並べてしまっただけなのだ*1

 これらの事は、単に「瀧口修造」という、戦後美術の前衛に対して、国家がなしえなかった庇護を、個人で遂行して来た人物への侮辱であって、これはたしか瀧口修造が死去された時に、武満徹だったと思うけれど、「日本が瀧口修造を見殺しにした」と言う発言があったはずで、それをもう一度念をいれて遂行しようとするこの展覧会は犯罪に等しい。

 

[] ミニ・ライブ=武満徹「遮られない休息」・「閉じた眼」−瀧口修造の詩から生まれ、またその死に捧げられた音楽− ピアノ:高橋悠治 @ 砧 世田谷美術館1階展示室  ミニ・ライブ=武満徹「遮られない休息」・「閉じた眼」−瀧口修造の詩から生まれ、またその死に捧げられた音楽− ピアノ:高橋悠治 @ 砧 世田谷美術館1階展示室を含むブックマーク

 実際のプログラムは上記2曲プラス1曲、以下の通り。短いトークを交えて約30分。

遮られない休息1:「ゆっくりと悲しく、話しかけるように」1952
遮られない休息2:「静かに残酷な響きで」1959
遮られない休息3:「愛のうた」1959

閉じた眼〜瀧口修造の追憶に 1979

バッハ:「マタイ受難曲」よりアリア〜ピアノ独奏への編曲

 美術館の展示室にグランドピアノを持ち込んでの、変則的なミニ・コンサートだったけれど、わたしには音の響きは気にならなかった。ピアノのほぼ真横、そんなに離れていない場所で、高橋悠治の横顔と、その手の動きを見ながら、音を聴くことが出来た。

 「マタイ受難曲」からの選曲は、当初予定されていなかったようで、スタッフからの開演前の告知でも「約20分」と聞かされたけれど。
 この曲をこの日に演奏したのは、この翌日に当る2月20日が武満徹の命日(1996年没)であり、「マタイ受難曲」は、武満が生前最後に聴いていた音楽だった、らしい。だから、高橋悠治にとっては、この日のライヴは、瀧口修造に捧げられた武満徹の曲を演奏し、その武満徹を追悼するような気持があったのだろう。

 わたしはそんなに武満徹の音楽を聴き込んでいるわけでもなく、本来彼の音楽について語るような言葉は持っていない。でも、心地よい緊張感を伴った、冷徹なその音の美しさは、感傷的な感情移入を退けるようでいてなお、「美しい」と語ってしまうしか出来ない魅力がある。ピアノを弾く高橋悠治の手を見ていると、時には、その音の余白で、鍵盤上から膝の上に手を移し、自ら音の余韻に身を浸しているようでもあり、特に「閉じた眼」のエンディングで、まるでその最後の音がピアノから天井へ上っていくのを追いかけるように、彼の目線がどこかピアノの上にじっと向けられるさまが印象的だった。

 ‥‥わたしにとって、『マタイ受難曲』のピアノ版演奏は、圧倒的だった。それは、しばらく前に、友人から高橋悠治の『ゴルドベルグ変奏曲』のMDをいただいていて、それがちょっと自分的に驚きの音だったこと、この日の『マタイ受難曲』の演奏が、まさしくその『ゴルドベルグ変奏曲』の延長にあったから。それは実に奇妙な印象で、鍵盤の上を駆けずりまわる指が、ある時にはすべり、ある時にはもつれからまるような感じで、それは正統なピアノ演奏としてはひょっとしたらダメダメなのではないか、とも思えるのだけれど(おそらく、レクター博士は気に入らないだろう)、それが奇妙な艶かしさを伴っていて、それは音解釈というだけでなく、「ピアノ演奏」という伝統技術への高橋悠治の問いかけなのかも知れず、特にこの日の『マタイ受難曲』の演奏では、右手の叩き出すリズムが、ほとんどジャズとかポップ・ミュージックとかを想起させるような、くっきりしたリズムを刻んでいて、実は聴いていたわたしは、ついついヘッドバンギングなどしでかしそうになってしまったのだけど、「いかんいかん、これはクラシック演奏会なのだ」と思いだして、自粛した次第ではある。

 ある意味緊張感を伴って聴かざるを得ないようなこのプログラムで、それが30分ぐらいで終了したという事は、自分のような人間にも、緊張感をとぎらせる事なく聴き続けられた、ということでもあって、ま、昔のビートルズのコンサートなんか30分で終ったんだよ、などと関係ない事を思い出しながらも、コンサートというものは、当然ながら、ただ長い時間やっていればいいのだと言うわけでもなく、自分にとっては、この日の「ミニ・ライブ」は全然「ミニ」ではない、大きな価値を持つものだった。

 

 

 

*1:この事は、この展示の最後の部屋に展示されている、審美的にはまさしく何の意味も持ち得ない、つまらない「土産物」を律儀に展示してしまう姿勢に、如実にあらわれている。わたしの言っている事が間違っていると思うなら、あれらの「土産物」にどんな意味があるのか、説明せよ。世田谷美術館。

DADA.DADA. 2005/04/04 22:30 はじめまして。
瀧口修造展の記事を探していてこちらに辿り着き、TBさせていただきました。
僕はこの企画展は楽しめたのですが、こちらの記事も興味深く拝見いたしました。あらためて思い返し、いろいろ考えてみようと思います。

高橋悠治のミニライブ、うらやましい限りです。

■ 2005-02-18(Fri)

[] Leni-Basso(レニ・バッソ) 『ghostly round(ゴーストリー・ラウンド)』 構成・振付・演出:北村明子 @ 新宿 パークタワーホール  Leni-Basso(レニ・バッソ) 『ghostly round(ゴーストリー・ラウンド)』 構成・振付・演出:北村明子 @ 新宿 パークタワーホールを含むブックマーク

 いや、わたしは、レニ・バッソは好きなんです。それはつまりは、「コンテンポラリー・ダンス」とか呼ばれる領域で、若い観客も共感できるような形で、スタイリッシュに、オリジナルで現代的な表現を実現しているカンパニーだと思う所があるから。もちろんこういった視点は多分に表層的なものであり、例えば「珍しいキノコ舞踊団」、例えば黒田育世の「BATIK」、などのように、時代を解読するような視点を、観客に与えてくれるわけではないかも知れない。*1でも、ストレートに見て、海外のダンスカンパニーの模倣でもなく、モダンダンス的なヒューマニズム・ダンス*2からも距離をおいて、クールに、表現それ自体に全体を預けるような潔さがある、と、思ってましたんねん。それは方法的には、「加速、と、その制御」、みたいに言ってしまえるんだけれど、身体の反発力やリアクションをうまく制御した魅力。

 その、レニ・バッソにとっての最良の成果が、『Finks』だったのではないか、というのが、自分の中にあって、それは特に優れたコンセプトであったというわけでもないのだけれども、一つの方法論を提示して、その方法論の英訳文を舞台背景に投影しながら、太極拳〜カンフー的な振付けで踊られる群舞には、当時はそれなりにいれ込んだ記憶がある。それは、ひとつには、群舞としての「中心の喪失」みたいなのがあって、7〜8人のダンサーが舞台上で入り乱れながら踊って行く中で、ソロ、デュオ、3人とかのユニットが自然発生的にあちこちで派生して、それが中心を形成しないままにその組み合わせを変えて行く、それが、見ている観客席側に、良い意味で「フラット」*3な印象を与えていたように思う。それが、ダンス・カンパニーの中でのヒエラルキーを排した演出と映り、共感できたのは確か。

 ま、その後の『フル(ダ)ブル』、シアタートラムでの北村明子のソロ、という二つのずっこけ大失敗*4、を経て、久々の、レニ・バッソとしての新作。よく知らないけれど、ベルリンの「Haus der Kulturen der Welt」との共同製作作品、とのこと。

 パークタワーホールの舞台中央には、白い粉末状の素材で円が描かれていて、若干なりのスモークが焚かれている。和太鼓のような一定のリズムが会場に響いて、舞台の四方向*5の対角線上からダンサーが登場する。なんか、衣裳は卑弥呼みたいなの。うへ、森万里子の「トランスサークル」かよ、みたいな印象で、あ〜、もう、海外との共同製作だとすぐこんな路線に走っちゃうんだからと、イヤな予感。この場面は、後で人に聴いたら、「能ですよ、能」。納得。

 簡単に言ってしまえば、この日のいちばんの収穫は、粟津裕介による音楽、に尽きるのであって、それを良く聴き込んで視覚化した北村明子の集中力も又、この日の舞台の魅力ではあったでしょう。

 結局、レニ・バッソとしての前作『フル(ダ)ブル』で味わえなかった、彼女たちの群舞の魅力を堪能できたのは確かなんだけれど、それは結局、『Finks』の記憶をよみがえらせるだけであって、この『ゴーストリー・ラウンド』で、彼女たちの新しい展開が垣間見れたというわけではない。逆に、途中のコント的な「日本式おじぎ」からの展開で、サムくなったり。とにかくわからないのがその構成、というか、どうしてああいう形でラストになるのかがわからない。それはおそらくは、彼女たちなりにこの舞台に「意味性」を持たせようとしているのだろうけれども、その付加された「意味性」が、観客に届いていない、という問題*6

 ‥‥どうも、この日の舞台の印象からは、ひょっとしたらもう、レニ・バッソは、『Finks』以上の舞台を創造し得ないのではないか、という危惧。それはつまりは、ダンス公演を見る時に往々にして感じてしまう、「演出不在」と言うことに尽きる、かもしれない。それから、北村明子のダンスが「ソロ」として分離され、「レニ・バッソ」と呼ばれる集団と、北村明子というダンサー、が、同じ舞台に立っただけだよ、みたいな印象。

 それは端的に言えば観客層にも現われていて、この「レニ・バッソ」の公演だけを見て充足してしまう客と、いわゆる「コンテンポラリー・ダンス」をあれこれと見ている人が「もうレニ・バッソは見なくていいや」となってしまう客が分離して、「レニ・バッソ」が「現代的な表現」と認知されなくても、興業的には成り立ってしまって*7、フィールドが分かれてしまうのではつまらない。北村明子はもっとオリジナルな魅力を持ったダンサーだと思うのだけれども。

 

 

*1:ここで挙げたこの二つのカンパニーを、そんなに持ち上げていいのか、というのはまた別の問題、というか、わたしの主観ではある。

*2:今、とっさに作った造語。「人の身体って可能性に満ちてるのね」って今でも無条件に信じているような、善意に溢れた人たちが踊る精神主義的な踊り。

*3:「スーパーフラット」、ではない。

*4:前者は、安易に道具に頼ってしまった愚、後者はおそらくは当人の体調ゆえではないのか。

*5:正確には三方向

*6:終演後に会った人たち皆が疑問にしていた。

*7:実際にこの日の公演は超満員だったのだけれども。

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■ 2005-02-17(Thu)

[] 横浜トリエンナーレの展開  横浜トリエンナーレの展開を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20050218151540:image

 ニュース的には遅くなってしまったけど、だからどうなるのよ、と、気をもませてくれている「横浜トリエンナーレ」、1月28日に、一部参加作家の発表を含めて、記者会見が行われていたんですね。関係記事は以下の通り。

 『ヨコハマ経済新聞』 Blog (β版)

 あいかわらず、やる気があるのかど〜なのか、よくわからない公式サイトにも、参加アーティストの決定分が発表されてますね。って、17日の夜、川俣正はNHKに出ていたのか。2〜3日前にこの公式サイトを見たときには、そんなこと書いてなかったんだけど。ほんと、この公式サイトはどうにかならないのだろうか。公式サイトといえば、あと1ヶ月ほどで始まる『愛知万博』、こちらの公式サイトも、見てみると、いまだに「イベント紹介」が準備中。それでいいのか? ホームレスを追い出すのに忙しいのだろうか?

 ま、その川俣正出演のTVを見ていないから、あまり軽はずみなことは書けなくなっちゃったけれど、やはり、「作家がディレクションする」という、こんな規模の国際展としてはユニークな姿勢、とても興味深いものがありますね。ダニエル・ビュランなんて、わたしなんかの世代には懐かしい名前だけれど、そうか、サーカスとコラボするのか。って、全体のテーマも「アートサーカス(日常からの跳躍)」なんていうんじゃ、ダニエルおじさんの一人勝ちだな、こりゃぁ。とにかく、ここまでの人選はいかにも川俣正の人脈らしくって、それがかなり明確な方向性を打ち出しているようにも見えて、ふうん、一人の作家がディレクションするのって、面白くなりそうだな、みたいな感じ。客寄せとして奈良美智の名前は入っているけれど、「graf」というユニットとの共同作業というから、何年か前の、食糧倉庫での「エモーショナル・サイト」の時の展示みたいな、インスタレーションっぽいのになるのだろう。

 しかし、川俣正のHPとか見ると、トリエンナーレ直前までフランスで大きなプロジェクトやるわけだ。すごいなぁ。ホント(ちょっとあきれてる)。

 個人的には、川俣正の作品は最近ほとんど見ていないもんで、あまり興味もなかったんだけれど、やはり是非行ってみたくなったのだ。まだまだこのトリエンナーレに関しては、心配事があれこれ思い浮かぶのだけれども、そんなことが皆、杞憂に終わるようになってもらいたいと思う。

 

 

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■ 2005-02-14(Mon)

[] 『ホワット・ライズ・ビニース』 ロバート・ゼメキス:監督  『ホワット・ライズ・ビニース』 ロバート・ゼメキス:監督を含むブックマーク

   ホワット・ライズ・ビニース〈特別編〉 [DVD]

 普通に変換すると「ロバート・攻めキス」になってしまうように、わたしにとって、このロバート・ゼメキスという監督は、くどい、しつこい、いやらしいの三拍子揃い踏みを果たした監督という印象があって、ま、いまだに『フォレスト・ガンプ』とか見ていないんだけれども、『コンタクト』とか、映画館で見てげんなりした記憶とか。この人、どんなジャンルでも、これをやる、と決めたら徹底的に、過剰なまでにやってしまうような性癖があるんではないのかと思うけれど。

 で、もう5年も前の作品になるのか、この『ホワット・ライズ・ビニース』をヴィデオで見る。まずは、タイトルが謎である。最初このカタカナ表記を眼にして、「ビニース」なんてぇのは、どうせ人の名前だろう、だから、「どんなウソだよ?ビニース?」みたいな、「エディ、冗談だろ?」的なタイトルの意味だと思ってた。って、「What Lies Beneath」かよ。つまりあれだな、「背後にあるのは何か?」「その裏に何がある?」みたいな常套句だよな。そんなのをそのままカタカナ表記のタイトルにしても、ネイティヴ・ジャパニーズにはわかんないよ。聞いた話では、配給会社がアメリカから「このタイトルで行くべし!」と命令されたような話も聞いたけれど、このタイトルのせいで客が減ったのは間違いない。

 さて、この『ホワット・ライズ・ビニース』、とにかく今回はヒッチコックばりのコテコテのスリラーで行こうと決めたようで、そのあたりはあくまでもくどく、そしてしつこく、はたまたいやらしくヒッチコック路線を突き進む。って、ここまでくどくてしつこくていやらしいと、さすがに面白い。いやぁ、この面白さを、ストーリーをここでバラさないで書くのは至難の技なのだけれど(だからストーリーはバラす)、とにかく、幽霊が出て来るのだ。「え?こんな描き方で展開すると、本当の幽霊だということにしないと収まりつかないだろうが?」なんて思って見ていると、もう、完璧な幽霊。貞子ですよ。その幽霊がラストでは大活躍してしまうのだから、もう拍手喝采。まるで「四谷怪談」だ(多分、ゼメキスは「四谷怪談」を、誰かの作品で見ているに違いない)。

 しかし、この作品の構造は、わたしが指摘するまでもなく、ヒッチコック(特に『サイコ』)へのオマージュになっていて、あれこれと『サイコ』との共通項は多い。わたしはヒッチコックの作品に詳しい顔は出来ないのだけれど、詳しい人が見ればもっと他の作品もあれこれと指摘できるだろう(『断崖』、それからちょっと『裏窓』とかは、あるよね)。とにかく、開き戸の鏡とかガラスが開けられると、さぁっと人影が映り込む、などと言ったスリラーの定石手法の多用とか、のべつ幕なしに「これはスリラーですからね」と、観客の耳もとで囁きっぱなし。

 そんな展開で、とにかくその終盤30分ほどのテンションの高まりは、もうこれは異様なほどで、もうここまでしつっこくやられると、それが快感になってしまう。しかもその演出がうまい。バスタブの中のわずかな空間だけを使って見せてしまう最初のクライマックス、そのバスルームから這い出したカメラのたどる視線が緊張を持続させて、特に、階段を後ろ向きに降りて来るミシェル・ファイファーの、その足首のアップの描写がいいのよ〜。ここは絶賛。それから怒濤のラストまでは、あっけにとられながらも手に汗にぎって見てしまう。この後半に関しては、もう、他の追随を許さない、スリラー(スリラー・アクションか?)映画の大傑作ではありましょう。

 ミシェル・ファイファーのお姿を見るのも久しぶりな気がするけれど、以前とはメイクなどもチェンジして、漂白されたような凛としたたたずまいは、ちょっとヨーロッパの女優みたいで、新しい境地を開いたように見えた。これで、歳をとっても大丈夫な女優に昇格したかな?

 あ、実は、この作品を見てみたのは、青山真治の『レイクサイドマーダーケース』絡み、なんだけれど、ハリソン・フォードの着ていたストーンズTシャツとか、そのラストの「水死体」とか、「まんまやん」見たいなシーンがあれこれあったのは、これは青山真治のロバート・ゼメキスへの賛辞、なのだろうか。


 

 

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■ 2005-02-12(Sat)

[][] 『027-FRAME』 Erehwon+TANNO KEN'ICHI @ 府中市美術館  『027-FRAME』 Erehwon+TANNO KEN'ICHI @ 府中市美術館を含むブックマーク

   

 観客/アーティスト/ヴォランティア・スタッフの意志を無視して、長い沈黙を続ける「さきら」には、ほとほとまいってしまうのですけれども、丹野賢一氏のホームページに、その「さきら」への『謝罪要求書』がアップされています。「とにかく1回でも公演出来たのだから良かったではないか、いつまでも粘着的に『さきら』攻撃を続けてどうなるのだ」という声も耳にするけれども、もう一度この『謝罪要求書』を読んで、その問題の本質を見つめ直して欲しいと思います。自分的には、最近は、戦後日本を動かして来た「共同謀議」という問題を考え直す機会が多いのですが、この「さきら」問題も、そんな「共同謀議」の、稚拙な、プチ・「平成」的残余の一つであり、もういい加減このあたりで、底辺からその構造、こんなちっぽけな問題あたりから変えていかなければ、例えば朝鮮民主主義人民共和国の独裁体制を、メディアの報道などを通じて「笑いもの」にしてしまうような厚かましさは、わたしたちは本当は永遠に持ち得ないでしょう。わたし的には、観客の立場からの「さきら」への攻撃は、いろいろ考えた末に、今の所継続してはいませんが、こうして丹野氏の『謝罪要求書』の裏付け的な役割を、このブログが果たしているのであれば、どのような形であれ、協力する姿勢は捨てる事はありません。

 で、そんな昨年の「さきら」でのコラボレーションを引き継ぐようなパフォーマンスが、府中市美術館のエントランス・ロビーにおいて、同美術館で開催されている「第2回府中ビエンナーレ−来るべき世界に−」の一環として、12日の閉館後に開催された。この展示に参加している石川雷太の音響ユニット、「Erehwon」と、丹野賢一の「NUMBERING MACHINE」とのコラボレーションとしての、『027-FRAME』。

 この公演に関して言えば、どうしても、「さきら」での『026-METAL』の縮小版デモンストレーション、という感想を抱かざるを得ない所もあったのだけれども、この今回のイヴェント独自の面白さは当然あるわけで、その一つは音的な面白さ。余りにもライヴなこの美術館のエントランスでの音構成として、あくまでも反響音を重視したコンセプトは音的に美しく、それはある意味ではこの日のイヴェントのメインは、あくまでも「音」なのではなかったのか。そのイヴェントのほとんどの時間を、そんな音の反響の美しさに聞き惚れていたわたしが、終演後にその音部門のアーティストであるスカンク氏に、「音の反響がきれいだったね」って話したら、「反響しか出来ないですから」と言う答えで、それはある意味で悪条件下でのライヴとも言えるのだけれど、そんな条件の下で最大限の効果を導きだしたスタッフ・ワークは、ある意味世界中の様々な条件下でライヴを重ねて来た彼らの「力」ではあるのだろう。

 それともう一つ、興味深かったのは、観客の立ち位置、というか、ポジショニング、なんだけれども、例えば「さきら」でのように、パフォーマーの動きにしたがって自由に自分のポジショニングを移動させる、と言うのではなく、ま、今回のパフォーマンスでは、その冒頭で、全貌を見渡せる位置が限られてしまった事もあって、観客は自分の観客席を決めるとそこに座り込んでしまうのだけれども、それが丹野氏のパフォーマンス舞台が移動するにしたがって、そんな決め位置は極めて危険ではないか、あまりにそんな暴力的なパフォーマンスに対して間近か過ぎるのではないか、などと、ちょっと離れたポジションから見ていたわたしなどは思ってしまったのだけれども、それが緊迫した臨場感を生み出していたのではないかなどと想像する部分もあり、既成の劇場などの空間での上演ではないパフォーマンスの、そんな魅力の一つではあったと思う。ってか、そんな空気感が、自分の主宰している「crosstalk」的空間を思い出させてくれて、一人でそんな空間を思い出しながら泣いていた、というのは真っ赤なウソです。

 

 

 

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■ 2005-02-11(Fri)

[] 『loves me, or loves me not』 砂連尾理+寺田みさこ @ 三軒茶屋 シアタートラム  『loves me, or loves me not』 砂連尾理+寺田みさこ @ 三軒茶屋 シアタートラムを含むブックマーク

 実際の所はわからないけれど、このタイトルは、花占いとかの連珠言葉なのではないかと思う。この、今までにもまして演劇的色彩の強い舞台の上で、それは、「一緒にいるこの人のことがわからない」という、関係性/非関係性をずっと追い求めているようでもあり、いわゆるダンスのデュオという一般的な関係性からこんなにも遠く隔たった舞台は、それこそワンアンドオンリーな世界であり、特にその前半は、まるで、言葉を排除したベケットの不条理劇を見るような感覚でもあり、そこから導き出される乱暴でもありながら繊細な身体表現は異様なまでに魅力的で、この人たち独自の、ダンスと呼んでいいのか、もう「舞台」と呼ぶしかないような時間/空間構成の最高の成果として、長く記憶にとどめたい舞台だった。すばらしかった。もう一度見るべきかも知れない。

 

 

 

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■ 2005-02-10(Thu)

[] 『フリック』 小林政広:監督 @ 渋谷 シネマ・ソサエティ  『フリック』 小林政広:監督 @ 渋谷 シネマ・ソサエティを含むブックマーク

 小林政広は、ピンク映画のらつ腕脚本家としてブイブイいわせている人であって、この人の脚本作品にはホントに秀作が多い。同時に、自らこうして監督として作品を撮ったりするわけだけれども、そんな彼の監督作品を何本か見た感想を言えば、どうしてこの人は、自分の監督作品になると、とたんにセンチメンタルな心情吐露を前面に押し出してしまうのだろう、という感じであって、正直言って、スクリーンを見ていて、その青さ、又はオヤジ臭さに辟易してしまう体験があるわけだけれども、前作、千石の「三百人劇場」で公開された、『歩く。人』という作品は、そんなセンチメンタリズムを少し客観的に見ている視点があったように思えて、ちょっとオヤジなリリシズムみたいな映像には惹かれてしまっていて、ひょっとしたらこれからは自分の監督作品でも新境地に達するのではないか、という期待を抱いてしまって、今回も劇場に足を運んでみた。

 ‥‥で、まずは尺が長い。2時間35分。その長さの原因の一つが、同じシーンの執拗な反復ゆえであり、なぜそんな、同じシーンの執拗な反復があるか、というと、またもセンチメンタルな心情吐露を全開させるためであって、結局、『歩く。人』の前に戻ってしまった。主人公である香川照之、その顔を捉えるカメラ、カメラ目線の表情、その泣き崩れていく顔、そういうものを見て何らかの感情移入のできる人にとっては、この作品は素晴らしい作品に映るかも知れない。

 というか、ある種の情緒不安定にある刑事が北国に行き、そこで自分の情緒不安定と対峙するような事件に巻き込まれていく、という設定自体が、アル・パチーノの主演した『インソムニア』という作品*1そのままであり、苫小牧のひんやりした空気感、そして室内描写の感覚、そもそもの設定を含めて、この作品が、その『インソムニア』を意識化において製作されてなどいない、などとは思いにくいのだ(二重否定の悪文だな)。

 しかも、どうも小林監督は自らの心情を主人公の香川照之に重ね過ぎているように見えて、それはこの作品の振幅の幅を狭くしてしまっている。全編が主人公の妄想であっても構わないのだけれども、その妄想に監督が完全に同化してしまうようでは、観客の意識は着陸地点を見失う。「夢」もしくは「妄想」が二転三転して進行していく構成は、それこそ先日見た天野天街の『くだんの件』をも思い出されるのだけれども、ここではそんな妄想の方向が一直線に一定であり、先に言ったように、作品の展開としては振幅に乏しい気がする。終映後のトークで、例えば『ツインピークス』などのタイトルが引かれていたけれど、複数の妄想が交錯し、収拾もつけずに空中分解してしまったような『ツインピークス』に比べれば、いかにも収まりのよい作品であり、ま、せめてアラン・パーカーの『エンゼルハート』ぐらいの屈折は欲しかった気がする。

 もう一つ言っておけば、カメラがひどい。あさっての方向にピントが合ってしまっているシーンとか、移動のぎこちなさとか、とてもプロの仕事とは思えない。


 

 

*1:この作品自体が、北欧の先行する作品のリメイクなんだけれど、ヴィデオで見たそのオリジナル作品よりは、このハリウッド製娯楽映画(特にその前半。〜後半は只の刑事ドラマになってしまって、飽きてしまうのだけれども〜)の方が、格段に面白かったのだ。

ひとことひとこと 2005/02/12 11:16 映画の事はよく知識をお持ちのようだが最後の落ちがいけませんね 大塚君の亭主は田辺誠一君
映画を出演者サイドの私生活部分もとりあげて書くのであったら しっかりとした情報を得てからにした方がよいよ思うよ

crosstalkcrosstalk 2005/02/12 11:27 ひとことさん、ご指摘ありがとうございます。つい裏を取らずに勇み足をしてしまいまして、恥ずかしい次第です。ご指摘の部分は、今さらですが削除させていただきます(みっともない)。知らずにいつまでも恥さらしせずに済みました。感謝であります。

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■ 2005-02-09(Wed)

[] フォーレ:『レクイエム 作品48』 ミシェル・コルボ:指揮 ベルン交響楽団  フォーレ:『レクイエム 作品48』 ミシェル・コルボ:指揮 ベルン交響楽団を含むブックマーク

   フォーレ:レクイエム(再プレス)

フォーレは非和音を、詩の中にある微妙なニュアンス、割り切れない気持、神秘性などのデリケートな表現を可能とするものとして用いた。フォーレの中で、いかにもフランス人らしいみやびやかな甘さと新鮮な和音とが一体になって二十世紀の新しいフランス音楽(ドビュッシーやラヴェルによる)の方向が生まれたといえよう。

(印牧由規子『現代からの音楽史』より)

 わたしはクラシック音楽にくらい。これはちょっと恥ずかしいぐらいにその基本知識にも乏しく、誰もが知っているだろう曲を聴いても、何の曲だか解らなかったりする。特にロマン派の音楽なんか全然わからん。そんな中で、例外的に夢中になっている作曲家たちが何人かいて、ま、このあたりは何につけても体系的に学ぼうとしないわたしのクセでもあるのだけれども、そんな、わたしの好きなクラシック音楽の筆頭は、実は、ガブリエル・フォーレなんだと思う。

 いったいなぜわたしが、十代の終わりの頃に好きこのんでフォーレの『レクイエム』のレコードを買ったりしたのか、その記憶は残っていないけれど、どうせ誰かその頃好きだった女の子の影響だったのだろう。その後、その頃見に行った笠井叡の公演で、笠井叡が、舞台上から音響に向けて、「フォーレの『レクイエム』、B面かけて!」などと叫んだ時には、それはうれしかったけれど、じっさいにわたしが「フォーレ熱」に取り付かれたのは、もっともっと後の事で、その「歌曲全集」に聴きびたり、桜の季節には「ピアノ五重奏曲」ばかりを聴いたりしていた(この、桜の季節の習慣は、今でも続いている)。ちなみに、わたしのケータイ(正確にはPHSだが)の着メロは、そのフォーレの「ピアノ五重奏曲」のイントロ、である。

 『レクイエム』は、それこそ何種類もの演奏を買い集めて聴き比べた。当時、よく売れていたのは、アンドレ・クリュイタンスのもの(フィッシャー=ディースカウがバリトン)とかだったと思うけれど、多分わたしが最初に買ったのは、ダヴィッド・ウィルコックスの指揮していたものだと思う。ダヴィッド・ウィルコックスという人は、ケンブリッジの「キングズ・カレッジ合唱団」の黄金期を作った人で、幽玄で神秘的なコーラス・ワークという点では、この人の右に出る人はいないそうだが、残念ながら今では音源は出回っていない。この人の録音した『レクイエム』のCDだけは入手していて、これは1968年の録音。今聴くと、「キーン」と聴こえて来るオルガンの音とか、まるでプログレのロックみたいに聴こえる瞬間がある。コーラスの音圧は意外と強めにダイレクトで、やはりその合唱に比重を置いたスタッフワークなのだろうと思うし、捨てがたい録音だと思う。

 しかし、幾種類もの『レクイエム』を聴いた中で、「これこそはフォーレ!」と言えるのは、やはり、ミシェル・コルボが1972年に録音した盤に尽きる。この冒頭のブラス音の柔らかさ、そして幽玄で控えめな合唱。弦の音もあくまでも柔らかく合唱と調和し、実は、その副旋律も又、極めて美しいのだと気付かせてくれる。絶妙な音バランス、密やかな空間、ひとことで言えば「なんて柔らかい音なんだ!」と言うことになり、例え「Soft Machine」といえども、ここまで柔らかい音世界は造り出せないだろう、って、それってグループ名で連想してるだけじゃんか。

 ま、このミシェル・コルボのCD、聴き始めるともう他の事が何も手につかなくなってしまうので、ふだんは封印してあるわけなんだけれど、今は聴いてる。おそらくそんな遠くない未来に、わたしは死んでしまったりして、残った人は「葬式どうしよう」とか心配するんだろうけれど、葬式なんかせんでええんよ。ってか、するな。そのかわり、どこかでこのミシェル・コルボの『レクイエム』をかけてくれればいい。たしか今なら980円位で売ってるはずだ。以上、遺言。

 ってか、その、ミシェル・コルボがやって来る。知らんかった。来週の月曜日の「オペラシティ」でのコンサートで、このフォーレの『レクイエム』を指揮する。行きたい。もちろんチケットは売り切れだ。当日券目当てで出かけてみようか。‥‥当日券って出るの?

 

 

 

・・・・・・ 2005/02/10 06:54 フォーレの「ピアノ五重奏曲」ですか。最初は2番かなと思いましたが、着メロにしているのはきっと1番の方じゃないかと思いました。

crosstalkcrosstalk 2005/02/10 11:55 そう、1番と2番があったんでした。その通り、ここで書いたのは「1番」の事でした。その第一楽章の、冒頭のアルペジオが、桜散る季節にピッタリ、というか、もう条件反射的に自分の中に焼き付いています。フォローありがとうございます。

・・・・・・ 2005/02/11 07:01  いえいえ、1番か2番か、考えるのも楽しかったですよ。

crosstalkcrosstalk 2005/02/11 15:27 どうもです。あまりクラシック音楽について書く機会もないと思いますけれども、又よろしくお願いいたします。

a/a/ 2005/06/15 10:56 mixiから飛んで来ました。
私もフォーレ大好きです。ピアノ五重奏曲の2番とかレクイエムのpie jesu や agnus dei最高です。

まぁソフトマシーンも3rdとか好きですがw

crosstalkcrosstalk 2005/06/15 20:13 a/さん、はるばる遠方からコメントありがとうございます。フォーレとソフトマシーン、そういう共通項でつながれるのはイイ感じですね。先日ラジオで『ラシーヌ讃歌』が突然かかったりして、心の準備してなかったからガバ!って感じでした。
教会の屋根の上でタバコをすっていたという、ちょっとヤンキーなフォーレは、大好きです。

■ 2005-02-08(Tue)

[] 『空中庭園』 角田光代:著  『空中庭園』 角田光代:著を含むブックマーク

   空中庭園

 読んだ本のことを備忘録的に書きとめておくのを怠っていたので、忘れないうちに書いておく。といいながら、この本のことはもう忘れかけている。

 おそらくは多摩ニュータウン辺りではないかと思われる、東京郊外の「ダンチ」と呼ばれるマンションに住む4人家族、近所に住む母方の祖母と、父の愛人であり、なぜか長男の家庭教師になってしまう女性、この6人それぞれの視点からの6編の短編が、なぜか「ホテル野猿」というラブホテルの一室で交差し、それぞれの「秘密」を軸に、一つの家族像をあぶりだすように描写する。

 ま、この家族のモットーは「何ごともつつみかくさず」などと言うムリな注文であったりするわけで、そんな設定とかは向田邦子の『冬の運動会』などを思い出したりもするのだけれども、どうも読んだ印象は、作者の目的はこんな方法でリアルな家族像を描き出すことではなく、登場人物一人一人に向けられた、ちょっとした「悪意」のようなものこそが面白く、おそらくはこの角田光代という作家の面白さはそんな所にあるのではないだろうか、と、彼女の作品を初めて読んでみて、そんな見当を付けてみた。また別の作品を読みたい。あ、今月の『オール読物』を買えばいいのか。

 

 

[] 『サウンドの力』 サイモン・フリス:著 細川周平、竹田賢一:翻訳  『サウンドの力』 サイモン・フリス:著 細川周平、竹田賢一:翻訳を含むブックマーク

 著者のサイモン・フリスは、ギタリスト、フレッド・フリスの実兄。いわゆるカルチュラル・スタディーズ的な視点から、社会学的に様々な角度からロック音楽を分析して行くのだけれども、その視点はさすがフレッド・フリスの兄、というか、その構造への批判意識は、ロック社会学(というものがあれば)、その原点と言えるのではないだろうか。というか、先日読んだ、渡辺潤という人の書いた、『アイデンティティの音楽』と言う本が、この『サウンドの力』から20年の時間を経て書かれていながら、この本の「模倣」の域にさえ達していないのはどういう事なんだろうと。

 ある意味この本の主要テーマは、20世紀後半に現れた、新しい表現領域としてのロック音楽の、その商業的な側面と芸術的な側面との二律背反が問題にされているのだと思うのだけれども、この辺りの問題はもう少しあれこれと読んでみたい気がする。実際にはサイモン・フリスのこの分野での著作は、もっとたくさんあるわけで、翻訳されているのが、この20年以上前に書かれた本書だけ、と言うのは少し寂しい。あ、竹田賢一さんの訳文は平易で読みやすいが、細川周平さんのは時々変な日本語。

 

 

[] 『コーネルの箱』 チャールズ・シミック :著 柴田元幸:翻訳  『コーネルの箱』 チャールズ・シミック :著 柴田元幸:翻訳を含むブックマーク

   コーネルの箱

 日本でのジョセフ・コーネルの大規模な展覧会、といえば、1992年に、関東では神奈川県立近代美術館、その他にも日本各地を巡回した『ジョセフ・コーネル展』。ボックス・アート約40点を含む、総74点が展示された展覧会、これに尽きるだろう。当時のわたしがなぜこの展覧会を見なかったのか、思い出すことは出来ないのだけれども、それが1992年の事であれば、個人的に行けなかった理由も見つけられる。その後古本屋で入手したこの時の図録は、もうかなりボロボロになってしまったけれども、依然わたしの宝物である。

 コーネルの作品たちをわたしは愛している。コーネルの作品はわたしにとって愛おしい想念をぶっつける対象であり、そんな彼の作品をわたしはこの図録の写真から想像し、それは全宇宙を想像する事に似ている。

 このコーネル展の図録には、サンドラ・レナード・スターという人の書いた、あまりに美しい評伝が掲載されている。この評伝の冒頭に、サンドラ・レナード・スターは、「私はいままでのところコーネルについて3つの見方しか持っていない。このように自分の視点を変えることは、自分のいたらぬことを痛感させられる体験であったが、得るところも多かった。」と、実に謙虚な口調で語りはじめる。通読しても、素晴らしい評伝だと思う。

 話は変わって、ここに『コーネルの箱』という本がある。著者のチャールズ・シミックという人のことは知らないけれど、原著は、その日本でコーネル展の開催された1992年に出版されたようだ。原著よりも図版の数を増やして、小さな画集のようにコンパクトにまとめられたこの本、外見は美しいかも知れないけれど、だったらいっそのこと画集であればいいのではないか、この文章はコーネルの作品のじゃまになるだけではないのか、との疑念は、この本を読み始めた時から付きまとう。

 まぁいいさ、この本の著者は、ニューヨークを彷徨するコーネルの後ろ姿を一所懸命に追いかけている。そこに自分の後ろ姿をなぞらえている。そんなアメリカの詩人らしい過剰な自意識は、我慢して読んでいてもいい。

 しかし、この本のちょうど半ばで、著者のチャールズ・シミックという男は、自分がとんでもないバカだということを、読者にわざわざ知らせてくれる。これは、およそ人が過去の人物について想像して書ける、もっとも醜悪な文章だから、誰も二度とこの轍を踏まないように、わざわざ引用して置きましょう。

自分が何をやっているのか、コーネルは自覚していたか? 一部はイエス、だが大部分はノー。そもそもそんなことを完全に自覚している人間がいるのか?

 いったい、人というものは、ここまで自分の想像力の門戸を狭めて言葉を紡ぎ出せるものだろうか。もちろん、こうやってある文章の一部だけを抜き出して槍玉にあげる事も、「想像力の枯渇」かも知れん。しかしながら、ここでチャールズ・シミックという男が語っていることは、たとえば、ヴァン・ゴッホは知性的な人間ではなかった、などというつまらないことを語る人間と同レヴェルである。もちろん、この対極に、「私はいままでのところコーネルについて3つの見方しか持っていない。」と語る人がいることこそが救いである。

 こんなつまらない本を出版するよりも、未だ翻訳の出ていない、コーネル自身のテキスト(日記・書簡集)の出版の方がいかほど健康的なことか。この本の翻訳者も、自分のブランド・イメージを守りたいのであれば、こんな本の出版に手を貸すべきではないだろうに。

 

 

 

 

 

 

crosstalkcrosstalk 2005/02/08 17:26 レイアウトを修正しました。Macで崩れていたのは、タイトルの後に長大なスペースが紛れ込んでいたため、のようでした。カレンダーの字が自分的にはデカ過ぎなんだけど、もう一つの日記とかなり整合性が取れて来ました。

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■ 2005-02-06(Sun)

crosstalk2005-02-06

[] 『痕跡−戦後美術における身体と思考』 @ 竹橋 東京国立近代美術館  『痕跡−戦後美術における身体と思考』 @ 竹橋 東京国立近代美術館を含むブックマーク

 一昨年末の『旅〜「ここではないどこか」を生きるための10のレッスン』に続く、学芸員による現代美術史の読み替え作業、と捉えていいのだろうけれども、その展示のメインに、例えば「具体美術協会」、例えば「九州派」、そして「もの派」などを持って来る事によって、戦後日本の美術史をダイナミックに世界的な文脈の中で解読し直す、という作業は魅力的でもあり、実際に見ごたえのある展示だったと思う。

 ちょっと前に書いたように、自分の中で、近年の「資本主義的アート」とでも呼べるような、表面のツルンとした、滑らかな仕上がりの作品などへの違和感が積もり積もっていた感じがあって、そのあたりは(どうしてこうなってしまったのか)解らないんだけれども、この10年ほどの間にいつのまにか、「アート」という表現は、まるで工業製品と見紛うような、手仕事では不可能なようなスムーズな感触の仕上がりの作品が主流になってしまっていて、ま、それが作者の希求する「匿名性」の表れだ、と解釈すれば、支持してもいいような気もするのだけれども、どうも近年のそんな動きには、アートのブランド化、みたいな、KITTYちゃんもアートだよ、みたいな、だったらいっそ企業の販売促進部〜宣伝部と合体してしまえよ!って、一部では実際にそんな感じになってしまっているような状況がいやでいやで。

 ただ、その反面、「これはおれさまのアートだから」みたいな、パーソナリティ崇拝表現みたいなのもいやでいやで。

 そういう意味で、この『痕跡』展において、あくまでも個人のイマジネーションから現われて来るような表現を徹底して排除したような姿勢は、この展示を見ていて一番共感出来た部分であり、ま、このタイトルを『痕跡〜「自分」を抹殺するための10のレッスン』とか読み替えてもいいと思うのだけれども(「社会」を抹殺する、でもいいよ)、「現代美術」と言っても、1950年代(ポロックは40年代か)からせいぜい70年代までの、言ってみれば「現代美術のパンク前史」(いや、この展示は、それこそ「パンク」と言ってしまって良いのではないか?)とでも捉えられるような動きは、いったいこの20年間はどこへ消えてしまったのでありますか?という視点が見当たらないもどかしさはある。というか、いったい、80年代以降の「現代美術」って、いったいどんなんよって、この展覧会を見ていたわたしは、一向に何も思い出せないでいるのだ。

 蛇足的に今思い出した事を書いてみれば、美術のフィールド、80年代のバブリーな空気を未だに払拭出来ていないのではないか。これは(自分の知る限りで)他のあらゆる文化領域がすでにそんな空気から脱却し、次のパラダイム(って、どんな意味?)に到達している中で、あまりにも「未熟」なのではないだろうか。

 ‥‥この会場に展示されていた作品群、ある種のモノは今ではあまりにナイーヴであり、あるモノは未だにそのおぞましさを壁から放射し続けている。そのおぞましさは、今でも観客に感染する力を持っている。とりあえず、Red Krayolaの再々来日を前に、ヘルマン・ニッチぐらいは見ておこうではないか。

 

 

 

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■ 2005-02-05(Sat)

crosstalk2005-02-05

[] 上村なおかソロダンス2005『一の百(いちのひゃく)』 @ 森下 ベニサン・ピット  上村なおかソロダンス2005『一の百(いちのひゃく)』 @ 森下 ベニサン・ピットを含むブックマーク

 上村なおかという人に注目したのは、笠井叡の振付けによる『青空(せいくう)2』を見た時からではないかな? とにかくダンサーへの嫌がらせのような振付けの中で、ひとり、この上村なおかというダンサーの身体の強靱さだけが印象に残った。それ以来、スフィアメックスあたりから始まった彼女のソロ公演はチェックしている。『DIVE』(2001)での壊れっぷりも印象に残っているし、去年の、ベニサン・ピットの「場」をうまく活かした、それこそ水の底で踊るような『沈める珠』もすばらしかった。

 結局、わたしがこの人のダンスに惹かれるのは、ある意味笠井叡の正統な弟子、みたいな視点がどこかにあって、一種アナーキーな錯乱状態を舞台に現出させるような力技を期待して見に行っている所がある。ただ、おそらくはそういう風に、笠井叡から多くを得ているダンサーなのだろうとは思うのだけれど、その笠井叡経由なのかどうか解らないけれど、そのダンスの極めて「舞踏」的テイストに、時に食傷気味になるのも確かではある。

 この人の魅力の一つは、例えば、舞踏病のように(この言い方は多分適切ではないけれども)、自分の意志とは別の箇所で、身体が勝手に踊りを踊ってしまっているようなシーンにあって、逆に「自分探し」のような、自己の内面を覗き込むように踊り出すと、わたしの受け入れられない舞踏という世界の特徴の一つ、「自我」に溢れた、いわゆる「自己表現」の世界に耽溺してしまうように見える時もある。ま、これは単純にわたしの嗜好/志向の問題ではあるのだけれども、「即興」という方法論と共に、疑問に思ってしまう一面ではある。

 この日の舞台はフロアの四方に客席を設け、この人のソロとしては、スフィアメックスでやっていたような舞台配置。少し長めの暗転の後、徐々に明るくなる照明に、床に敷かれた赤い布の中央に、横たわる上村の姿がぼんやりと浮かび上がる。バックには三味線と女声の邦楽(浄瑠璃とかではなく、民謡なのではないかと思うのだが)が流れ、実はこのパートのダンサーの動きは、まるで文楽の人形を思わせるものがあり、そういう風に見ると、これは3月の末に愛知県で予定されている『恋人形』というイヴェント、そのイヴェントで、上村なおかは、笠井叡の振付けで、その笠井叡(!)、Abe"M"ARIA(!!)、そして桐竹勘十郎(!!!)と共演するわけで、その未来のイヴェントへ向けた予告っぽくも見えるわけで、3月にはまた愛知県まで日帰りの旅を決行したくなって来るのだった。

 立ち上がった上村のバックでは、今度はLed Zeppelinのブートレグ音源のようなロックが膨大な音量で流され、さらにNirvanaとかそれっぽいロックが、ダブル/トリプルぐらいにオーヴァーダブされて流されて、その音量は尋常のモノではなく、多くの観客はその耳を塞いでしまうぐらいだったけれど、そんな中でもダンサーはマイペースでゆっくりと動き続ける。ただ、今こうして思い出しながら書いてみると、いったいこの舞台でダンサーはどのように動き、わたしはそれをどのように感じたのか、という根本の事象が、すっぽりと自分の記憶から欠落しているみたいなのだ。

 ‥‥ムムム、ついにわたしも痴呆症が発症し始めたか!という感じだけれども、どうもわたしは「舞踏」系の舞台で時々、スコーンと何もかも頭から脱落してしまう事がある。そういう意味では、今日の上村なおかのソロは、舞踏へのバイアスが今まで以上にかかっていたのかも知れない。ただ、力強い、興味深い舞台であった事は確かで、ま、こういうのを見る時の自分の脳状態を、もうちとどうにかしなければいけないな、そんな反省。

 

 

 

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■ 2005-02-04(Fri)

[] 『蒼ざめたる馬』 井土紀州:監督 @ UPLINK FACTORY  『蒼ざめたる馬』 井土紀州:監督 @ UPLINK FACTORYを含むブックマーク

 ちょっと今、Macで見るとココのレイアウトが壊れちゃってます。来週にでも何とかいたしますけれど、しばらくはこのままでご堪忍下さいませ。

 本当は井土監督の旧作『第一アパート』を見るつもりだったのだけれど、会場に着いてみると、この日の上映作品はこの『蒼ざめたる馬』だった。DVCAMによる、2004年の作品。50分位あった気がしたが、当日もらったチラシでは「39分」とある。製作は「京都国際学生映画祭2003」。

 井土監督の作品としては、かつての瀬々敬久監督との共同作業時代を彷佛とさせるような、実際の事件に想を得たらしい作品。終演後のトークで、井土監督の口から、プロットは九州の看護婦殺人事件、背後には宅間や韓国の連続殺人事件なども影を落としているとの事。つまり、社会のあり方そのものに刃向かうような姿勢を持つ犯罪。

 主題は、三人の女性による「おぼっちゃま殺し」。リーダー的存在の女性は、自らを「テロリスト」と規定し、「金持ちがより金持ちに、貧乏人がより貧乏になって行く社会」に反逆しようとしている。もう一人はかつてカード地獄に陥って、リーダー格にその苦境を救ってもらっていて、最初の殺人で大金を手にした後は買い物三昧している。最後の一人はこれから殺されようとする男と付き合っていて、彼の事を愛しているかも知れないと苦悶する。この三人の女性の思惑がラストに向かって交叉し続け、ちょっと意外な(?)結末になだれ込む。

 とにかく、尺が尺だけに、真っ向ストレート勝負の作品で、寄り道も何もしないで、ただその主題だけが一直線に描かれる。おそらくは瀬々監督との作業であれば、この作品の間に「ピンク映画」を偽装して(?)、セックス・シーンが挿まれる事になるのだろう。というか、見終った後に、そういうシーンがあった方がこの作品のインパクトは増大していただろう、などと思ってしまう。そのあたりは、「学生映画祭」絡みの企画ゆえの限界があったのだろうか。ま、普通は「必然性のないセックス・シーン」とか言われたりして、観客の下心を満足させるためだけのために女優が脱いだりするわけだけれど、敢えて「セックス・シーン」を外したような印象。高校生や中学生にも見てもらいたい作品ですね*1

 先日読んだ森達也*2の『下山事件(シモヤマ・ケース)』といい、先日見た青山真治の『レイクサイドマーダーケース』といい、ま、一種体制を補強するための共同謀議の話だった、と、乱暴に分類してしまうのだけれど、ここでは体制に敵対する意識の共同謀議が画策され、例えば『レイクサイドマーダーケース』とは逆(と言ってしまっていいのか)の結末を迎える。それは、例えば連合赤軍の「共同謀議」のズレて行き方などを一緒に考えてみると、また違った興味が沸き上がって来るのだった。

 

 

 

*1:しかし、この「井土紀州監督作品特集上映」のプログラムの中で、この作品だけわずか一度だけの公開、というのには何か理由があったのだろうか?

*2:この日の終映後のトークのゲストは、その森達也だったのだけれども

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■ 2005-02-01(Tue)

crosstalk2005-02-01

[] 『レイクサイドマーダーケース』 青山真治:監督 @ 日比谷 スカラ座2  『レイクサイドマーダーケース』 青山真治:監督 @ 日比谷 スカラ座2を含むブックマーク

 青山真治監督の作品であれば、いったい今回は何の音楽を使うのかと、ちょっとは想像を巡らせてみるわけで、でも、そんな事を仮に想像してみても正解が導き出せるわけはないのだ。ただ、『月の砂漠』での「Caroline No」は、やはりわたしなりに強烈であり、この新作ではいったいどんな音楽を使うのか?という興味は消える事はなかった。もちろんそんな事は映画本体とそれほど関係して来る問題ではないのだけれど、そんな興味はあったと。

 ‥‥答えは、映画が始まってすぐに得られるわけで、それは、Donovanの『魔女の季節(Season of the Witch)』だった。ほほう、なるほどね、などと言う感想はナマイキすぎるけれど、60年代の半ばのヒッピー文化全盛時代に、王子様チックでメルヘンな衣裳でステージに立ち、当時の「フラワー・チルドレン」の代表のような受け入れられ方をしていたDonovan、そんな彼のごく初期の作品である『魔女の季節』は、そんなヒッピー文化肯定と言うよりは、ある意味、「世の中おかしくない?」とでも言った疑問符を突き付けるような歌詞であり、たしか70年代の末か80年代始めにも日本でも翻訳されていた、あまり面白くもなかった「ヒッピー生態小説」のタイトルもまた、この『魔女の季節』であったことなどを憶えている人などはもういないだろう。わたしだってその作者の名前なんか憶えてはいない。ついでに言っておけば、10年ぐらい前のガス・ヴァン・サントの『誘う女』(ニコール・キッドマンがニュースキャスター志望のファナティックな女性を演じていた奇妙な作品)のラストシーン、キッドマンの死体が埋もれている湖のアイススケート場の氷の上で、キッドマンの妹(この役者は何と言ったっけ?ちょっとファニー・フェイスの気にかかる女優で、この後にデ・ニーロの出てた『ケープ・フィアー』で、デ・ニーロに顔を喰いちぎられる役をやっていたはずだけれど)がスケートする、そのバックでこの『魔女の季節』が流れるわけで、青山監督は、パンフレットで「その映画の事をすっかり忘れていた」と言うけれど、ちょっとかぶりすぎな位の設定なのに、そんな事でいいのだろうか、などとは思ってしまうぞ。

 とにかく、この曲が流れた時にはわたしなりにビビッドに反応したわけで、それは思い出してみれば、石井聰亙の『エンジェル・ダスト』の中で『二人のシーズン(Time of The Season)』を聴いた時の感覚に近いかも知れない。ま、どっちの曲も「Season」ではある訳なんだけれど、ちょっとこの件はここに書くのとは別に思う所がある。音楽の話はおしまい。

 で、実はこの作品を見た時、ちょうどこれも映像作家である森達也の書いた『下山事件(シモヤマ・ケース)』を読んでいた所なんだけれど、これまたどっちにも「ケース」という言葉があるじゃん、という以上に、スクリーンを見ながらも、ここで問題にされている事は、森達也がその本で読者に語ろうとしている事と同じなのではないだろうか、などと思ってしまった。

 この作品のパンフレットの中に、青山真治監督と樋口泰人との対談が掲載されているけれど、その中で青山真治は、要約すれば、この映画は「強者が弱者を虐げる原状への怒り」とか、そういう社会的制度への「義憤」でつくられている、といったことを語っている訳で、なるほど、この作品はたしかに、ある種の状況を守ろうと望む人たちが、その状況の危機に対していかに現実をねじ曲げる行動を取ろうとするか、いかにその行動を正当化するか、いかに構成要員が共同意識を持つに至るか、と言う問題だけを突き詰めた作品だと言える。ここでは「状況を守ろう」とする人たちの話ではあるが、まったく同じ問題が「状況を変革しよう」と望む場合にも派生して来るだろう。

 森達也の『下山事件(シモヤマ・ケース)』では、戦後の混乱期に、「ここで下山を抹殺し、ある種の状況下でおおやけになれば、日本の進路を修正出来る」とする人々の共同意識で、暗黙下に行われた公然の犯罪が「下山事件」の真相であった、と語っている。で、実際に日本はその共同意識の望む方向で進路を右側に修正し、50年代、60年代を乗り切るのだ。この『レイクサイドマーダーケース』においても、登場人物は「ここで隠し切れば未来は安泰だ」という思考で協調する事を目指し、現実を隠し去ろうとする。これはつまり同じ構造だ。これは日本人の持つ「共同意識」の孕む危険性、日本の近代史でおそらくはその底辺を構成している、日本人の思考の特異性をこそ問題にしているのであろう。このあたりのことは先日読んだ中井久夫のエッセイ集でも、「日本人は皆が一緒になって浮かれ騒ぐ時が危ない」という事を言っていたが、その「浮かれ騒ぐ」前の段階での「一緒になって」の画策、の中に、すでに「危険」は潜んでいる。そんな中にいやおうもなく飲み込まれて行く男の恐怖、そんなケースを、他者の介在しない湖畔の別荘を舞台にして、優れた脚本で作品してみせたのがこの作品だと思う。

 ただし、映画作品としてみた場合に、あまりに舞台劇的な脚本を、カメラ視点の妙などでうまく映像的に乗り切っているとは言え、真夜中に別荘の外に登場人物がほぼ全員揃って「討議」する場面、あまりにも「討議」であり、まるで裁判映画か何かを見ているような気分にはなる。ここで何か引いた視点、もしくは別の視点があれば作品としてもっと豊かな完成度に達していたような気はする。こんな言い方は失礼だけれど、偉大なる2割バッター久々のヒットは二塁打、打率2割維持。そんな感じ。

 

 

 

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