ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2005-07-29(Fri)

[] このまましばらくお待ち下さい  このまましばらくお待ち下さいを含むブックマーク

 ブログの更新が滞っておりますが、このまましばらくお待ち下さいませ。

 現在、わたくし、筑西市民病院406号室に入院しております。えっと、病名は「十二指腸潰瘍穿孔」および「腹膜炎」でした。20日未明に救急車で入院して、手術しました。経過は順調で本日一時帰宅が許され、こうして今自宅から書いています。おそらくは来週後半には退院出来ると思いますので、それまでしばらくお待ち下さい。夏休み特別企画「筑西点滴日記」の連載が始まります!

 それではでは。

 

 

 

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■ 2005-07-19(Tue)

[] トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その4  トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その4を含むブックマーク

 自分の書いた文章に対して反省を持つ気持ちもあるけれど(またいい気になって書いてるね、わたし。)、今回の問題はけっこう根が深いようで、今でもあちこちから余波が打ち寄せて来るみたいだね。

 あちこち巡回した感じでは、一つの問題は「コレオグラフィーとは何か?」という問いかけがあって、で、これとは別に、東京のダンスシーンの閉鎖性、などという言質も聞こえて来るようになって来てね。「むかむかする」とかまで言われてるし。

 ま、これらのことは結局はまったくの別問題であって、これをいっしょに考えると妙なことになってしまう気がする。っていうか、これはダブル・スタンダード、というか、一方で今回の審査過程への疑問があって、だから「振付って何よ?」という問題が浮上していて、もう一方で、過去4回で3回まで関西勢が受賞していることから、「東京のダンスは何かおかしいんじゃないか?」という論点の声が大きくなって来ていて、その視点は、審査過程への信頼があってこそ出て来る問題だろうから、そもそも審査過程に対する疑問と両立するものではないだろう、というのがある。

 繰り返して書けば、わたしは、受賞した「セレノグラフィカ」の作品はそれなりに面白く見たし、あの作品が受賞する選択肢というのは、もちろんあると思っている。ただし、その点に於いて、何らかのエクスキューズというか、注釈が必要な作品であっただろう、というのがわたしの考えで、ただ一言「受賞は隅地茉歩さん」だけで済ませるのは、ある意味審査の放棄だろう、と思っているわけ。一筋縄ではいかない作品だろう、と(もちろんどんな作品も皆、一筋縄でいくわけもないのだけれど)。

 だから、隅地茉歩さんの受賞を請けて、それを根拠に「東京のダンスのぜい弱さ」という論点が出て来るのは違う、と思うし、それは逆にいえば、この「トヨタコレオグラフィー」が、旧態依然とした通念としてのダンス感から審査しているということは言えても、ここで受賞しなかったこと、イコール、表現として認められないと結論出来ないだろう、というのが今回わたしなどが疑問に思っていることなのだから、いっしょに論ずることは出来ないだろうと思う。そういう疑問を出しているのです。

 ただ、考えてみれば、新しい表現(と言ってしまって)がそんなに簡単に認知されてしまってもつまらないわけで、ま、去年とかもわたしは「落選展」やったほうがおもしろいよ、などと軽口たたいていたけれど、権威というのは、そういうのを取りこぼすからこそ権威なのであって、「それは振付ではない」と大声で言うのが、彼らの役目なのかも知れん。ま、だから、来年からはもう、そういう視点で見させていただきますけれどもね。

 ここで、これらの問題を取り上げているブログへのリンクをつくってもいいんだけれど、そういうことは好みではないので、ご自分で巡回してお探しになって下さい。

 あと、私見では、東京のダンス・シーン、などというものがあるとすれば、それは閉鎖性とは程遠く、一つのムーヴメントへと持ち上げようとする意志の総体、それは存在するだろうと、ちょっと身びいきと思われるかも知れないけれど書いておきたい。これまでの成果はあると思う。

 

 

 

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■ 2005-07-18(Mon)

[] PROGRAM2/学習-APT2-解体  PROGRAM2/学習-APT2-解体を含むブックマーク

 

 タイトルページは、マトリックス化された街の公園。空も碁盤の目で区切られ、雲もポリゴンになっている。そんな方眼を敷き詰めたような公園の中でシーソーで遊ぶ少年少女だけれど、その少年の体もまた方形化されている。この世界の中でただ少女だけがマトリックスから逃れているように見える。

 会社を辞めた九鬼さんをめぐる逸話の回。サブナードで泥棒扱いされる九鬼さんを見かけた、さとるのおかあさんの話から始まるのだけれども、ここでのさとるのおかあさんの、シロガネーゼもびっくりするようなファッションとかがおかしい。いったいこのおかあさんは、どういう人なんだろうか。とにかく、ロボットなどが産業界に導入される事で、疎外されてしまう人が出てしまう事への危惧は持っているようだし、ま、自分の夫がそうなってしまう畏れも感じているようだ。

 今回のメインは、クズ鉄回収業者になっている九鬼さんが、さとるの父とさとるを誘って、二人の前で「モンロー」と同じようなロボットをハンマーで解体する話。ほとんど「廃墟」のような、壊れたコンピューター基板の描写が強烈で、この物語がひとつのサイバーパンクとして成立している事を、いやがおうでも読者に納得させる回。

[] PROGRAM2/APT-3-回路  PROGRAM2/APT-3-回路を含むブックマーク

 (回路)黒沢清に20年先行する「回路」。タイトルページは、夜の学校の校庭のような所に佇む少年と少女で、その頭には紙袋を被り、その目の位置と口の位置だけに穴があいている。

 とにかく、この回のほとんどの描写はコンピューターの電脳空間の視覚化、という意味で、前回の「廃墟」としてのコンピューター基板と対をなして、まさにサイバーパンク路線を突っ走る。この回は、「モンロー」を教育するさとるとまりんの姿だけであり、物語の発展はないけれど、この作品の持つ一面をしっかりと視覚化した、記憶に残る回。

 雨の公園の中で濡れたまま佇むさとるとまりん、その最後のページが余韻を残す。

 

 

 

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■ 2005-07-17(Sun)

[]『宇宙戦争』 スティーヴン・スピルバーグ:監督 『宇宙戦争』 スティーヴン・スピルバーグ:監督を含むブックマーク

 例えば、先月はクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』を見て、その前は鈴木清順の『オペレッタ狸御殿』を見ている。単純に、どれも皆暗闇の中でスクリーンに写し出される幻影だからといって、これを「映画」とくくって、同じ幻影として語ってしまっていいのだろうか?というような疑問は映画を見たあとにいつも抱く考えで、それは「ミニシアター系」などという、何の価値基準も共有出来ないようなジャンルが存在する事に対する疑問でもあるのだけれども、ま、それは、音楽の世界でも、「Queen」だって「Pop Group」だって好きだ、という事とたいして変わらなくって、ここにも「インディーズ系」などという曖昧なジャンルが存在する。

 そうは思いながらも、以前予告で見たこの『宇宙戦争』の映像(いや、この本編ではまったく使われていない映像だったんだけれども)が力強くって、というか、どうやったらこんな強度が映像的に創造可能なのか、と言ってしまうぐらいに恐ろしい映像だったし、だから見て来た。『宇宙戦争』。スピルバーグの映画を見るのは「A.I.」以来、かな。

 ‥‥この人(スピルバーグのこと)、変。この映画、変。想像するんだけれども、この人ぐらい予算とか自由に使える身分になると、もうSFXとかで「ありえない」映像を創出出来る、などというのは、ある意味で「自明の理」なんだろうか。そう言った部分での、ま、わたしが感応してしまった、この映画の予告のような、日常から遠く離れた、「異常事態」という映像の表わし方、えっとね、スピルバーグという人は、「映画」が作品として立ち上がるためには、そんな、金を持っていればどうにでもなるような、贅を尽くした映像を超えた何かがなければいけないのだよね、とでも思っているようで、それはスピルバーグにとっての「コンプレックス」なのだろう。それは、この人のデビュー作『激突!』を思い返せば明白で、低予算で制作されたその凶暴トラック映画でいちばん恐いのは、そのトラックの運転手が、最後までその顔が見えないということであって、そういう、「恐いものは見えないものだ」というデヴュー作の姿勢が、突然メジャーになってしまったあとは、「恐いものの姿をとっぷりと見せてあげましょう」という映画を造るのだね。この人は。というか、「想像の世界でしか存在しないものを、スクリーンの上で視覚化してあげましょう」というエンターテインメントなサーヴィス意識が彼の作品にはいつもあるわけで、だから一面ではアミューズメント・パーク映像なのだけれども、そうじゃなくって、そんな中になにかしらのアイデンティティーを成り立たせなくっちゃならないのだよね、映画というジャンルが「芸術」であるためには!などと、きっと思ってしまったのだろう。

 この人の昔の作品は知らないけれど、どうも近年は、「母をたずねて三千里」こそが基本だよ、などと思ってでもいるのか、離散した(というか、はぐれてしまった)家族を再会させるロマンばかり語っている。この『宇宙戦争』の原点のような『ジュラシック・パーク』でも、結局は非常事態の中ではぐれてしまった親子を再会させる物語だと言ってしまえるし、『プライベート・ライアン』にしても、家族からはぐれて戦争に狩り出された息子を親の元に送り返す作業に従事する兵士の物語。『A.I.』なんか、もろに永遠なる母なるものへと帰還しようとする人工知能の話だしな〜。

 ま、この人がいったい何ゆえにそこまで家族の絆にこだわるのか、わたしにはわかりませんが、この『宇宙戦争』がまた、思いっきり、そんな家族再会ストーリーをなぞろうとしている。そこにまた中途半端に「息子も通過儀礼を経て大人になり、父と和解いたしました」などという陳腐な(これを「陳腐」と言わずして何と言うのだ?)ストーリーまで挟み込むから、余計に妙なことになってしまう。ま、そんな映画。

 今回この作品で興味深いのは、とにかく、主人公であるトム・クルーズ、その彼の視点から見られた世界のみを描いていることで、一人称というわけでもないけれど、つまり、この宇宙人の来襲という非常事態、これがトム・クルーズの目線から離れるといったいどうなっているのか、まったく見えない、見せてくれないわけで、ま、そんな中で途中でTV取材陣と出くわしたりするのはズルい、といえばズルいんだけれども、例えば「アルマゲドン」とか「ディープインパクト」なんかで挿入されていた(と思う)、個人の視点を超えた、例えば「パリは壊滅いたしました」みたいな映像は一切ないわけで、そんなことを言っても突然にカメラが空からの俯瞰図になったり、つまりは厳密に個人のポイントオブヴューに徹底的にこだわったりしているわけではないんだけれども、それはそれで興味深いわけで、それが最大限の映像的魅力になっていたのが、踏み切りを横断する「燃える列車」のシークエンスで、これはやられたな、というか、自分の視野に入って来ない外の世界も、とんでもないことになっているのだ、というのをこれだけ簡潔でインパクトのある映像で語ってしまうのはすごいよね、と。

 しかしながら、この作品でのそんな一人称的な視点が決してうまくいっているわけではない、と思わせられてしまうのは、結局は、主人公であるトム・クルーズの行動原理というか、なぜそういう風に動くのか、というのがまったく理解不可能だから、だと思う。つまり、この人は、災害から逃れようとしているのか、離れ離れになった家族を再会させようとしているのか(この場合、では、父としてのトムのアイデンティティーはどのようなものなのか)、ま、これはどうも見ている限りでは後者が正解なのだろうけれど、彼ら以外に映画に出て来る群集は皆「逃げよう」としているわけだろうし、そうではないらしいただ一人の登場人物、ティム・ロビンスに対しての、トムの行動も不可解だし、そういった状況の中に巻き込まれている状態と、根本的行動原理との、差異がわからんのだな。特に、どうも解り合えない長男との関係、これが、「おまえがそこまでして行きたいのなら仕方がない」(これは何の事かは、映画を見て下さい)と見送ってしまって、で、そのあとの唐突な再会があって、「それでいいのかよ!」というか、これでは、例えばニューヨークがテロで破壊されて、それに対する義憤からイラクに出兵する息子を、父は一種諦めの境地で見送り、帰還した息子に「お前も成長したな」と出迎える父親像。これはつまりはノン・ポリティックスだろう(父も息子も)、と。そんな風に「通過儀礼」的に軍隊体験をとらえる、非目的的な徴兵制賛成派にしか見えないのであって、そうすると、ティム・ロビンス的な問題意識を狂気ととらえる(のであろう)トムの視点も解らないではないのだけれど、この映画でのトム・クルーズは、ティム・ロビンス的視点と、息子の行動原理との差異を、まったくスルーしてしまっているとしか思えない。だからそのラストは唐突に響き、トムがティムにとった(らしい)行動が、正当化されないまま宙ぶらりんになる。

 原作との距離の置き方など、ちょっと他にも書いてみたい事はあるけれど、とりあえず、スピルバーグの「困ったチャン」作品のひとつ、なのだろう。もう、「良い子」であろうとする年齢でもあるまいし。トラウマですか。あ、今気がついたけれど、この映画の(出来損ない)「宇宙人」、「NOVA」のコマーシャルに出て来る宇宙人に似てない?

 

 

mmmmmmmmmmmmmmmm 2005/07/17 22:47 一人称で描く「宇宙戦争」のくだり、面白く読みました。ぼくこの映画見てないんですけど、「自分の視野に入って来ない外の世界も、とんでもないことになっているのだ」、うーんと納得してしまったのは黒沢清の『回路』も電車とか飛行機とかTVとか使ってそういうの見せてて、あれを思い出しながら「うーんそういうことだったなー」と思ったのですね。スピってやっぱ、ホークスとか、ハリウッド古典信奉者で、そういう省略(っていうか間接表現)は昔から鮮やかですよね。

crosstalkcrosstalk 2005/07/17 23:36 そう、わたしも黒沢清の『回路』、とりわけ、あの「飛行機」などを思い浮かべていたんですけれど、こういうところはほんとうにスピルバーグは(正統な表現として、なんでしょうね)見事です。

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■ 2005-07-14(Thu)

[] トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その3  トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その3を含むブックマーク

7月10日

 新鋪美佳 「るる ざざ」

 最近よくこの二人の舞台写真をあちこちの雑誌とかで見るのだけれども、たしかに、現在の日本の「コンテンポラリー・ダンス」の姿をティピカルにヴィジュアル化したような彼女たちの舞台は、フォトジェニックに魅力的だし、同世代の共感を集めることができるのではないだろうか(この日のオーディエンス賞)。

 この日の舞台に限って言えば、少し堅苦しくなってしまった気がするし、やはり「世田パブ」の広さに拮抗できんかった、みたいな印象がある。「さらり」とした自然体のダンスを超えて、「キメ」のような、カッコつけのダンディズムがあってもいいと思う。あ、女性のやることには、「ダンディズム」って言わないの?


 岡田智代 「ルビィ」

 ゆっくりと、ステンレスの椅子ひとつを引きずりながら出て来たその時から、自律した時間が動き始める。こんなにも、時間の経過それ自体が喜ばしく感じられるような舞台を見るのは、本当に久しぶりだな。わたしのこの日のベスト。

 ABBAの「ダンシング・クィーン」をバックに、椅子の上を「お立ち台」に見立てたような、「ディスコ」ならざる「ディスコ」を経て、ロス・インディオス・タバハラスの「マリア・エレナ」(などという曲は、今はもう忘れ去られてしまったが、これはわたしなんかの世代には忘れられない時間を超えた名曲で、なぜかウォン・カーウァイの映画に似合いそうなのだ)をバックに、ゆっくりと椅子の一本の足を軸に回転する場面は、そのステンレスの椅子の表面が照明を反射して、それ自体がミラーボールへと変異していくようでもあり、そう、この20分ほどの間に、そのステンレスの椅子も、岡田さんも、その舞台空間さえもが、時間と共に様々な変容を見せてくれたのだ。至福のひととき。


 岡田利規 「クーラー」

 去年の夏の「ユーモア・イン・ダンス」初演の作品。初演の時に比べ、誇張とも言えるほどにからだをくねらせる、というか、ダンスしてる。というか、振付けしてる。要するにこのシチュエイションは、オフィスの昼休みとか休憩時間での、特に親しい関係でもない男女の、ま、時間をうめるだけのど〜でもい〜会話、そのど〜でもい〜、チョー現代日常会話文体と、ど〜でもよさに耐えかねたように勝手に動いてしまうからだとのギャップ、これってど〜なのよ、というシチュエイションだろう。暴走する空転、とでも呼びたくなるようなかなり過激な動きは、それはそれでまったく無意味で、最後のシーンでは、いつの間にかセリフの同時性(という言い方は変だけれど)からも逃れて、実は身体だけになってしまっていた役者たちの姿からは、また別の可能性が瞬時浮かんで見えるようで、やはり「チェルフィッチュ」からは、これからも目が離せない。


 宇都宮忍・戒田美由紀・合田緑・高橋砂織・得居幸・三好絵美 「kNewman」

 松山の「Yummy Dance」の6人は、いつも元気だ。今回も、二日間の8組でただ一組だけ、ダンスの本来持つグルーヴ感、あくまでもその一点を出発点にして、荒削りでもファンキーなダンスを見せてくれて、ま、楽しいっていうのでは、彼女たちのこの舞台がいちばん楽しかった。この作品もたしか去年の「ユーモア・イン・ダンス」で見た覚えがあるけれど、あの時に比べて格段に作品も充実して完成度が高まり、わたしは受賞するのは彼女たちではないだろうか、などと勝手にちょっと想像していたぐらいだ。とにかく二日間の最後の舞台がこの作品だったおかげで、自分なりにスカッとすることは出来たんよ。ありがとう。

 

 

 【付記】

 会場のロビーには、あまり目立たないかたちで、「選考委員」7名の連名になる<トヨタコレオグラフィーアワード2005選考方針>という印刷物が置かれていた。ここでいう「選考委員」とは、当日の「審査委員」とは異なり、160件以上あったという応募作品、そのヴィデオを審査して、この両日に出演した8組の「ファイナリスト」(というらしい)を決定した人たちで、ま、この印刷物で、簡単に「どんな基準で8組を選んだのか」を観客に知らしめるために印刷されたようだけれど、結局そのあとの本選が「なにがなんだかわからない」ような決定になってしまったのが、空しい。ま、「バニョレ」の選考会みたいなものなのだと、あまり大きな期待を持たずに見るのが正解だろう。どちらにせよ、新しいムーブメントはこのようなイヴェントからは生まれて来るわけでもないだろうから(単に新しいムーヴメントに権威付けする役割か)。

 

 

 

 

 

 

 

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■ 2005-07-13(Wed)

[] トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その2  トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その2を含むブックマーク

 一日目から、それぞれの作品について、また断片的に書いてみます。

7月9日

 岩淵多喜子:「Against Newton」

 まずわからないのが、なんでまたわざわざ、「重力の法則」に抗うこと(つまり、「Against Newton」)をテーマに選ぶのかな?ということで、それが要するにことさらな「疲労」を生むのは当たり前なんだけれど、そんな当たり前の事が舞台の上で起こっていた。というか、前半のバレエ的なフォルムの生成から、後半のひたすらの「受け身」へ、という流れは、これは「Against Form」をやろうとしているのだろうかと思うのだけれども、それがただ身体の酷使であれば、むかしあれこれの舞踏公演で見たよ!と。このカンパニーは、世田パブの広い舞台に拮抗するためにか、舞台の真ん中に金属の柱を立てていた。これは「Against Economy」な試み、だと思った。わたしには、「Against Form」としての新しいフォルムは、この舞台からは見つけられなかった。


 黒沢美香:「馬をきき」

 これはフォルムなのかパーソナリティーなのか、ビニールホースとゴム長靴を身体拡張装置に使った、黒沢さんらしい強度に溢れたカッコイイ舞台。とにかく一日目のわたしのベスト。舞台上の彼女が観客席に目線を巡らせるだけで、こちらはヘビににらまれたカエルのようになってしまう。ステップの一つ一つから、身体が拡張して行くさまが目に見えてしまう。そして、計測される身体。名医による「ダンス」の手術場面に立ち会っているようだった。ライト、スモーク、そして最後の赤いカーテンと、この広い舞台を一人で「手込め」にする方法を熟知している。ま、観客も「手込め」にされているわけだけれども。


 鈴木ユキオ:「,,,やグカやグカ呼鳴、、、」

 いきなりのBeckの「Devil's Haircut」、テーブルを囲むダンサーたちと、シャドウボクシングのような身ぶりをするダンサー。つかみは最高! これは期待出来そうだ! と思ったのだけれども、どうしてこの人はいつも、中途半端な「物語」を構築しようとするんだろう。それでも今回は、その「物語」が、断片的にでも、(おそらく)同世代の人たちに伝わりやすい形で出ていたのと、一種の乱雑さが一つの魅力になって、観客の共感は得た所もあるだろう(この日のオーディエンス賞だった)。しかし、こんな類型的な物語で、成り立つかな?


 隅地茉歩:「それをすると」

 ミュージシャン(?)の笛系の楽器による生演奏付き。照明の限定されたうすぐらい蔵の中のような空間で、男女二人がサクサクと動き回る。その動きは、まさしく「サクサク」したもので、身体の強度とか、フォルムなんか、はなっから問題でないような、言ってみれば日常的な動作の再現。そんな、思い入れも強度もない、ままごと遊びのようなからだの動きがサクサクと反復し、少しづつズレを見せながら続く。一種のアンチ・ドラマであって、アンチ・ダンスなのだろうか。しかしながらその反復とズレは、かなり緻密に計算されたものとわたしの目には映り、その、日常の再現のような、何も起こらないと言ってしまえるような舞台空間は、いやいや、アンチではなくて、これは「非」ドラマであり、「非」ダンスなのだろうと、一種のフィジカル・シアター的な試みとして、かなり興味深く見ることができた。というのがわたしの目に映ったものだけれども、この作品に賞を与えた審査員の方々も、同じような見方だったのだろうか???

 

 

 

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■ 2005-07-12(Tue)

[] トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その1  トヨタコレオグラフィーアワード2005"nextage" @ 世田谷パブリックシアター (7月9日・10日)その1を含むブックマーク

 今あまりまとめて書く時間が取れそうもないので、賞味期限が切れないうちに断片的に書き始めます。

 個々のダンスについての感想は後回しにして、とにかく皆が言っている事だけれども、審査員による「選評」が必要。それは今回「次代を担う振付家賞」を受賞した隅地茉歩さん(セレノグラフィカ)の作品、その受賞が納得がいかない、とまでは言わないけれど(実際にわたしは隅地さんの作品を興味深く見たのだけれども)、現在「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれる領域の主流から距離を置いた(と、わたしは思う)、ある意味周辺(エッジ)的アプローチを、「次代を担う」として選んだ事については、絶対にコメントが必要だと思う。これは観客にとっても出演者にとっても、これからこの賞に応募しようとするダンサーたちにとっても必要な事だと思う。

 終演後に、一部の人たちは審査員の口から選考過程を聞いたのだろうけれど、ま、そういう閉ざされたようなあり方はよくないだろうし。

 さっき、隅地茉歩さんの作品を「周辺(エッジ)的アプローチ」と、つい書いてしまったけれど、日本での現在の「コンテンポラリー・ダンス」という世界が、「ダンス/身体」諸々に関する、エッジなアプローチが評価されることで独自(多分、独自、なんだろう)の発展をして来ているように思えるので、「周辺(エッジ)的アプローチ」が評価されるのだったら、そういうあり方でイイじゃないか、と言うことにもなるのだけれども、どうもあれだな、審査員が隅地茉歩さんの作品を選んだ視点と、わたしが隅地茉歩さんの作品を「興味深い」と思った視点って、重なっているのだろうか?という疑問があって、ま、隅地茉歩さんの作品は、そういういろいろな視点を受け入れる要素があって、ある面ではとても保守的な視点からも評価されるわけで、そんなあやうい「あいまいさ」を持った作品だったと思う。だから、「選評」が欲しい。

 観客の投票で決まる「オーディエンス賞」は、初日が鈴木ユキオ(金魚)で、二日目が新鋪美佳(ほうほう堂)が受賞。これは率直に「よかったね」という感じだけれども、どちらの日も、得票数としては観客数の1/3を超えるものではなかった記憶があり、それだけ観客の視点も多様化しているというか、突出した作品がなかった、という事でもあるかも知れない。特に二日目は、わたし的にはどの出演者にも何か賞をあげたい気持ちだった。とりあえず今日はここまでで。

 

 

 

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■ 2005-07-08(Fri)

[] PROGRAM2/学習 Apt1「Name!?」  PROGRAM2/学習 Apt1「Name!?」を含むブックマーク

 タイトルページ、廃線らしい線路の上を歩く少年と少女。頭上には狂おしい太陽が輝き、その熱のせいか、線路は曲がりくねっている。この絵もパースが狂っているし、線路:人物の比例もおかしい。意識してそのように描いているのだろう。「エヴァンゲリオン」的な夏、か?

 ロボットに字を教えるさとる。「イ」の字を教えるのは、これはもちろん、日本で最初にTVの実験が始まった時に、最初にブラウン管に写し出された文字が「イ」という文字だった、史実からの引用だろう。

 学校は夏休みになる。ローティーンの少年少女にとっての「夏休み」が、とてつもない「飛躍」の時期になる事は、例えば維新派の「さかしま」などでも語られる。シュテフターの「水晶」は、兄妹の話だったと思うし、夏休みとは無関係だけれども、ここまで来て、この美しい小説の事を思い出してしまった。

 地下鉄の階段で出会うさとるとまりん。この出合いの3ページほどの美しさは例えようもない。まずはさとるが階段の上にいて、下のマリンの姿を認める。さとるは駆け降りて、まりんは駆け上がる。「来たのッ!?」「来たわッ!!」という簡潔なセリフ。互いに結び合わされる手を中心にして二人が回転し、まりんが上から、さとるが下から見交わし合う。記憶に残すに値する名場面である。というか、この二人の心の絆をあらわすのには、この3ページほどがすべてを言い表わしている。あとはその発展形でしかないのだ。つまり、これはラヴシーンなのだろう。二人の位置の逆転が、見事にそのシーンを集約する。おそらくは、短いながらも、この作品のクライマックスの一つと言ってしまってもいいだろう。

 このままふたりは、さとるの父の働く「豊工業」へ直行、ふたりで、「モンロー」への教育を始める。ここでのまりんの「まあ!!よくわからないけどすごい!!」というセリフが、わたし的にはかなり笑える。ま、ふたりで、「モンロー」に、自分たちを識別させる。

 とにかく、この「PROGRAM2」全体は、全編を通じての白眉であるだろう。強烈。うぅ、ワクワクしてきた。もう、どうにでもしてくれぃ!

 

 

 

みんなのプロフィールみんなのプロフィール 2005/07/09 11:27 ブログ開設おめでとうございます!

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crosstalkcrosstalk 2005/07/09 12:08 来ましたね! コメント・スパムくん。ある程度ちゃんとした組織で、そこの営業マンがせっせとブログを巡回してコメントを残してるみたい(「参加するにはこちらが便利です」以下をちゃんとコメント先に合わせてアレンジしてる!)だけれど、圧倒的にマイナスイメージを残している事に気がつかないのだろうか。何が「ブログ開設おめでとうございます!」だよ。失敬な。

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■ 2005-07-05(Tue)

[]『Softly』 Shirley Horn 『Softly』 Shirley Hornを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20050706010815:image

 シャーリー・ホーンは、ヴォーカリストでありピアニストである。というよりも、「弾き語り」の達人である。晩年のマイルス・デイヴィスが彼女のアルバムに参加したことでブレイクしたようなかたちで、かなりの量のアルバムがリリースされている。わたしはちょっと乱発しすぎじゃないかと思うし、そんなにたくさん彼女のアルバムを聴いたわけではないけれど、このアルバムこそが、おそらくは彼女のベスト。1988年のリリースで、長いこと廃盤になっていたはずだけれども、さっきAmazonで検索したら、現在は容易に入手出来るようだ。というか、「Shirley Horn」での検索結果が60件以上あって、そのなかでこの「Softly」は4番目の売り上げ、らしいよ。

 彼女の魅力を一言で言ってしまうのは難しいんだけれども、ちょっと翳りを含んだそのヴォーカルと、それを支える絶妙の鍵盤さばきの、絶妙なタイミングと、そのイントネーション(音色)の美しさ、だと思う。ソロイストではなく、ベースとドラムスを交えた、自らのトリオでの活動が中心で、このアルバム「Softly」も、そんな、いつものトリオのメンバーでの録音盤。このアルバムはスタジオ録音なのだけれど、聴いているうちに、「これって、ライヴ音源じゃないの?」と錯覚してしまう。それは、一つには、録音のバランスがとてもいい事もあるだろうけれど、とにかく、シャーリー・ホーンの唄声がとても艶かしい。まさしく「なまもの」という感じがしてしまう。で、その歌声に対比するように配置されているピアノの音が、これまた微妙なバランスで唄をサポートしている。それが、アルバムの頭から聴いていって、だんだんと盛り上がって行く様は、まさしくライヴステージを目の前にしているような感覚。

 一曲目、あいさつ代わりの「Since I Fell For You」での、序盤の抑えた展開から、ま、長い曲なんだけれども、エモーショナルに高揚していく終盤の展開で、まずは心をつかまれてしまう。それが、次の「You're My Thrill」で、思いっきり耳もとでウィスパー・ヴォイスで囁きかけられるような、アンティームな音世界。ま、男として生まれたからには、こんな風にいちど口説き落とされてみたいものだ、と。とゆーか、そんなこともあったね、と。フフ。

 閑話休題。次のガーシュインの「How Long Has This Been Going On?」でもって、そのヴォーカルと、伴奏のピアノとの絶妙のコンビネーションを聴かせてくれる。ま、よくもまぁ唄いながらこんな感じでピアノが弾けるもんだ、と感心してしまうのだけれど、これが、自分で唄いながら伴奏をつける、という利点を最大限に生かした演奏〜歌唱でありまして、何度か繰りかえされる「Kiss me once, then once more」という箇所での、絶妙のタイミングの、声とピアノのコラボレーション、これはまぁ「至芸」と呼びたくなってしまうのだね。音が粒になって降り掛かってくる。

 って、こんな感じで書いていたらいつまでも終らない。思いっきりはしょって、このアルバム最高の歌唱/演奏、5曲目の「Estate(summer)」についてだけ書いておきたい。この曲は、ジョアン・ジルベルトの「AMOROSO」に収録されていた曲だけれども、もう、今となっては、これはシャーリー・ホーンの持ち歌。このアルバム以外でも彼女によって録音されたのもがあるし、いや、やっぱね、この情緒。もう一時期は、それこそRepeatで際限なく聴きまくっていた。実際、ピアノ・ソロになると、それほど特筆するようなプレイではないんだけれど、こうして声と一緒になると、自分の声のコントロールとピアノのコントロールとを見事に調和させて、「ジャズ・ヴォーカル」などという、「カルチャー・センター」的な呼称を軽々と乗り越えて、「歌」以外の何ものでもない世界が立ち上がる。歌唱がある種の情緒を立ち上げた例としては、音楽の世界でも最高の成果の一つではないだろうか。この曲。

 どの曲もみな素晴らしい傑作アルバムなのだけれど、ま、こんなところで。あ、このアルバムのラストは、アントニオ・カルロス・ジョビンの「Dindi」。周りの音をすべて吸収して無音状態にしてしまうような、これもすばらしい歌唱/演奏ですので。

 

 

 

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■ 2005-07-04(Mon)

[] Apt10「入力(インプット)」  Apt10「入力(インプット)」を含むブックマーク


   f:id:crosstalk:20050704232513:image

 書くの忘れてたけれど、ここまでが「PROGRAM1 [誕生]」、だったのです。

 タイトルページがよくわからない。大雨に降り込められて、ガード下かどこかに逃げ込んで来た少年少女のようにも見えるけれど、外は大雨というか洪水というか津波というか、それともこれは溢れる光なのか。

 近藤家に電話がかかってくる。まりんからではなく、父の会社を辞めた九鬼さんから父への電話。「一緒に飲みませんか?」と誘われ、、父はさとるを連れて「ゴールデン横丁」ヘ行く。九鬼さん(ま、恐い顔なのだ)は、辞める前は父の前任でロボット係だった。そんなロボットのオペレーションの話になって、実はついて来たさとるが、父の話などを聞いて、かなりのレヴェルでオペレーションを理解している事がわかる。

 夜中にうなされて目覚める父。このあたりはさすが楳図かずお。薄気味悪い。

 次の日、ロボットのマニュアルを忘れて会社にいってしまった父を追って、さとるがそのマニュアルを会社に持って行く。ちょうどロボットが暴走し、電源が切れてしまう。さとるのオペレーションで動き出すモンロー。おそらくはこの瞬間に、さとるはモンローをオペレーションする喜び(?)に目覚める。


 ‥‥ちょっとお休み。だいたいこのあたりは、かつて読んだ記憶が残っているのだけれど、しかし、なかなか進まないな。これをやるのに今年いっぱいかかってしまいそうだ。そんなつもりではなかったのに。

 ほんとは毎回もっともっと書く事はあるのだけれど、ちょっと気持ちが急いてしまっている。今までの展開を、自分の事と照らし合わせて書いたりしてみると、ちょうどこのマンガが発表された頃に、わたし自身もコンピューターのオペレーションの仕事を始めている。とにかく、MacやWindows以前の時代であり、このような産業用コンピューターが出始めた時代ではあったけれど、その機種ごとにプログラム言語はまったく別物だったし、なんといっても、記憶素子というものは持っていなかった。わたしが最初に手掛けたコンピューターは、まず命令を紙テープにパンチして出力し、そのテープを読み込ませて実行させた。その紙テープを保存して、同じ仕事であれば同じ紙テープを読み込ませたわけ。そういう意味では「記憶」という概念には無縁だったのが当時のコンピューターだったけれど、ま、コンピューターというのは、命令を果たすための演算以外で、それなりの遊んでいる「すきま部分」があったのは事実だろうから、この「わたしは真悟」のモンローのように、本来のオペレーションとは別に、勝手に演算回路が動作する、というのは、リアリティのある空想だったと思う。「すきま」という意味では、今のパソコンは当時の比ではないのだけれども。

 しかし、「わたしは真悟」というのが、このロボット「モンロー」の語りだとすると、ま、「悟」はさとるからとられているのだろうけれど、そうすると、「真」というのはまりんからとられているのか。「真倫」? というか、ロボットが「モンロー」と名付けられていたとしたら、その「モンロー」のファーストネームは「マリリン」、なんだけれども。

 

 

 

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■ 2005-07-03(Sun)

[] 『アンドレ・ブルトン伝』 アンリ・ベアール:著 塚原史/谷昌親:訳  『アンドレ・ブルトン伝』 アンリ・ベアール:著 塚原史/谷昌親:訳を含むブックマーク


   アンドレ・ブルトン伝


 もし生が、すべての人びとにたいしてと同様、私にいくつかの失敗を課したとしても、私にとって重要なのは、詩、愛、自由という最初に抱いた三つの主張をけっして曲げなかったことです。

 シュルレアリスムとか、アンドレ・ブルトンとかの存在は、わたしとかみたいに、60年代に学生とかだったりして、思いっきり羽根を伸ばした存在にとって、ま、「はしか」みたいなものかね、てな意識があって、ま、ある程度老いて来るとね、視野の外に外してしまったりする。なんというか、鬱陶しい人ではある。

 しかし、考えてみると、いったい、このアンドレ・ブルトンという人が、どんな「生」を生きた人だったのか、実はまったく知らなかったりする。例えば『秘法十七』などを読もうとしても、その背後にあるブルトン彼自身の生、そういう事に対しての知識が皆無だから、途中で投げ出してしまったりする(『ナジャ』とかはまだわかるけれど)。シュルレアリスム関係の書籍とか読んでも、そこに掲載されている写真で、この、ブルトンの隣にいる女性はいったい誰なんだよ?などと、わからない事だらけではあったのだ。

 この本は、初めて書かれたアンドレ・ブルトンの伝記、らしい。その死後30年もバイオグラフィーが存在しなかった、というのも、彼のネームバリューからすると納得しにくい所もあるけれど、逆に、その没後に急速に忘れ去られてしまった人物であったのだ、という解釈も、彼の場合には成り立つ気もする。

 訳者のあとがきにも書いてあるように、実に「オーソドックス」な伝記であり、その本の分厚さ、巨大さに反比例して、かなり容易に読めてしまった。というか、この書物は、冒頭にあげた「詩・愛・自由」という三位一体に対して誠実であろうとした男、アンドレ・ブルトンの伝記として、そのアンドレ・ブルトンの言葉に忠実であろうとした執筆姿勢が読み取れる。特に、第一次世界大戦に従軍医として狩り出された、その「社会人」としてのスタートから、ロシア革命、ファシズムの台頭、スターリニズム、第二次世界大戦、戦後世界の再編の直中での、その政治的姿勢に関しての記述が、他を圧している。そういう意味では、この書物では「絶対的リベラリスト」としてのブルトンの存在が、印象に残る。例えそれが「非順応主義」と写ろうが、「詩と愛と自由」をあくまでも守ろうとした文化人、としての、ここでのブルトンの肖像はちょっと魅力的だ。このあたりは、戦後の日本での文学者の共産党入党と離脱の先取り、みたいな雰囲気もあって、興味深い。とにかく驚いたのは、戦後のハイチでの革命、その引き金になったのが、当地でのブルトンの公演からだという話で、そういう意味ではアジテーターとしてもいっぱしの存在ではあったのだろう。シュルレアリスム関係の著述でも、たしかにアジテーター的側面の際立つ文章を、あれこれ読んだ記憶がある。

 通読して、ある意味では、「文壇」そのものから出立した文学者が(ブルトンの文学的出発の影にはポール・ヴァレリーの存在が大きい)、その「文壇」の旧癖をいかにして断ち切ろうとしたか、その奮戦記のようにも読めてしまう。あと、生涯金銭的には苦労した人だったんだね。もっと金持ちのお坊っちゃんなのかと思ってた。ま、そんな発見。

 「伝記」という分野では、「オーラル・バイオグラフィー」という手法がおもしろいなぁ、などと思っているのだけれども、要するに、その主人公を知っている人とか、その周辺の人たちが、インタヴューに答えたことばを編集して一冊の書物にして、その中から主人公の姿を浮き彫りにする。ま、圧倒的な時間と手間がかかる手法だからこの手の本はそんなにはないけれど、この方法による、同じ編者(ジョージ・プリンプトン、だっけ?)の手になる『イーディー』、『トルーマン・カポーティ』はどちらも翻訳されていて、これは両方とも読んだけれど、ものすごく面白かったわけで、いや、この「オーラル・バイオグラフィー」という手法こそ、この、アンドレ・ブルトンという人物に適用出来ていたら、どんなに面白い本になっただろう、などと夢想する。って、時制的に不可能なのだけれど、ヴァレリーから始まって、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、サルヴァトール・ダリ、アントナン・アルトー、ジョルジュ・バタイユ、アルベール・カミュ、マックス・エルンスト、トロツキー、フロイト、レヴィ=ストロース、その他大勢が、ブルトンについて語るのよ。「オレはこうやってアイツからケンカを吹っかけられたのだよ」とか、皆が語り合うの。もうめちゃ豪華な顔ぶれ。ま、ブルトンより先に死んじゃった人も多いからね。

 作品自体への言及があまりにも少ないという欠点は大きいけれど、図書館とかで借りて読んでみるのも悪くない書物。というか、この下館の「筑西市立中央図書館」なんだけれど、職員にきっとシュルレアリスムのファンがいるんだろうな、このあたりの書物がやたらに揃っている。ま、この本を返して、次はジュリアン・グラックのブルトン論か、ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』、または『魔術的芸術』でも借りようか、などと思ったけれど、連続してブルトン関係というのも重苦しいので、ちょっとパス。

 

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■ 2005-07-02(Sat)

[] Apt9「位置ぎめ」  Apt9「位置ぎめ」を含むブックマーク

 タイトルページは、巨大な、というか、どこまでも続くようなエスカレーターで、上りと下りですれ違う少年(さとる?)と少女(まりん?)。いつもの事ながら。他に人影がない。楳図かずおの絵にはめずらしく、パースが狂っているようにみえる。いや、やっぱ狂ってる。

 この物語の序盤は、さとるの家族、近藤家のホームドラマという側面もあって、この回の冒頭はそんな近藤家の一コマ。前回のとてつもない展開を裏切るような日常生活。さやえんどうのすじをとりながら、受話器の前でまりんからの電話を待っているさとる。いや、わたしなんかはガキの頃によく、こうやって、さやえんどうのすじを取るお手伝いをやったものだけれども、今の子もこういう事ってやるのかなぁ?

 で、まりんからの電話を受けるさとる。ふすまに彼女の電話番号まで大きく書いて貼り出して、おかあさんは「ど、どうなっちゃってるんだろっ!!」と、あっけにとられる。

 ここで、この物語の重要なわき役、「しずか」初登場。同じマンションに住んでいる幼女なのだけれど、このルックスはほとんど「ベティ・ブープ」。ここではその母といっしょに近藤家に来て、「お宅のだんなさん、ゴールデン横丁で飲んでましたよ」という密告の、助っ人としてあらわれる。ここでさとるのおかあさんは「やっぱり‥‥‥ とうとうクビになったんだ あの人‥‥」と、家族の崩壊の前兆(?)として捉える。実際の所は、父は、ロボットのオペレーターに任命された、という事なのだけれども。

 まず、さとるの父の仕事は、「モンロー」の「位置ぎめ」から始まる。

位置がずれていると、すべての動作が狂うということでした‥‥‥

その時、さとるの父親の手はふるえていたとのことでした‥‥‥

 やっぱ、不気味。

 

  

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■ 2005-07-01(Fri)

[] 未公開映画  未公開映画を含むブックマーク

 『ミリオンダラー・ベイビー』を見て、そのラストの、半透明のガラス越しに見える(というか、よく見えない)主人公の後ろ姿の、描写ならざる描写の力が、日ごとに強烈さを増して来て、また雑文を書きたくなってしまった。

 事情はよく知らないけれど、『ホテルルワンダ』という映画の国内上映を求める声が大きくなっているようで、まず、そういう事だったら、という事で、いまだにこの日本で一般公開されていない映画作品で、これをこそ、公開して欲しいという作品を、もちろん個人的な思い入れでちょっと書いてみたい。

☆『Sick: The Life and Death of Bob Flanagan, Supermasochist』 by Kirby Dick

 この作品は、7〜8年前にドイツに滞在していた時に、ベルリン映画祭で上映されていたのを見た。で、この作品を見る前に映画館の近くのコンビニに寄った時に、この作品の監督(Kirby Dick)にもばったり会ってしまった。

 実は、このBob Flanaganという人は、日本の現代美術受容(という言い方も変だけれど)の歴史の中でも、記憶に残る人物ではあるはずなのだけれど。それはかつて(9年前)お台場のビッグサイトで催された「アトピック・サイト」という展覧会において、Bob Flanaganの伴侶であったSheree Roseによって製作された、そのBob Flanaganの空気ビニール像、そのペニス、そのピアスが、検閲の犠牲となって布をかぶせて展示されるという、実に恥ずかしい(世界に向けて恥をかいた)展示のされ方をした作品、そのモデルが、このBob Flanaganだったのだから。

 とにかく、今、この作品の素晴らしさを語り始めるとすると、今夜わたしは眠る時間がなくなってしまう。この作品がどんな作品かも敢えて今は書かないけれど、実は日本で一度だけ、検閲版が公開された事がある。それは、5〜6年前の「ぴあフィルムフェスティヴァル」での事で、この作品の素晴らしさが頭からふるいおとすことの出来なかったわたしは、当時のコネクションで知人たちにいかにこの作品が素晴らしいかを語って、10人以上の知人を集めて、いっしょに東京国際フォーラムに見に行ったのだった。この時に一緒に見た知人たちは、皆が終映後にこの作品の素晴らしさを語ってくれた。実際の所、自分のイヴェント「crosstalk」の一環として、この作品を自力で自主上映しようとし、「ぴあ」にも直接交渉したことがある。返答は否定的なものだった。版権は今でも「ぴあ」が持っているのだろうか? 海外のAmazon経由でDVDは入手出来ないこともないようだけれども、大きなスクリーンで見たい。


☆『The Seventh Continent』by Michael Haneke

 『ピアニスト』の監督として日本でもそこそこ知られているミヒャエル・ハネケ監督だけれども、この1989年の彼のデヴュー作は、『ピアニスト』など見るのが馬鹿らしくなってしまう、驚愕の作品なのだ。映画を見て、語る言葉を失ってしまったほどの驚愕は、この作品以外で得たことがない。もう、すごすぎる。これも、書き始めるとこの週末まで眠らずに書いてしまいそうなので、作品解説は割愛。

 これまた、「ぴあフィルムフェスティヴァル」で見てしまった作品である。非公式に、2度は公開された履歴はあるはずだ。多分、今でも、「ぴあ」のフィルム貸し出しリストの中にこの作品はあると思う。わたしにもう少し自由になる金があれば、絶対にこの作品の自主上映をやる。この映画について語っていたあなたに言ってやる。「分析」なんて問題ではない。もう、この作品は悪夢の体験だよ。わたしの人生が変わった一作だった。


☆『Twentynine Palms』by Bruno Dumont

 ブリュノ・デュモンは、ミヒャエル・ハネケに次いでの、21世紀の驚愕だった。『ジーザスの日々』と、とりわけ『ユマニテ』というとんでもない作品でひっそりと日本に上陸したブリュノ・デュモンは、今はそのままその存在も忘れ去られようとしている。しかし、『ユマニテ』ほどに人の心をぐらぐらと揺らめかせられる作品があるだろうか(信じられないことに、マルセル・デュシャンの「遺作」のえげつない引用からこの物語は始まる)。それは『The Seventh Continent』しかない。そんなブリュノ・デュモンの、今の時点での最新作。日本公開の噂は聞かない。もちろん、わたしもまだ見てはいない。主演は、レオス・カラックスの『ポーラ・X』で、世界にこれ以上不幸そうなルックスの女性はいないだろうと思わせた、Yekaterina Golubeva。


 ‥‥だから、これらの映画が観たい。かなえてくれ。

 ほんとうはもっといろいろと書くつもりだったのだけれど(ネット=ブログに横たわる「無意識」の不気味さ〜すこしわかって来た〜、とか)、もう寝るよ。「ホテルルワンダ」なんか、正直ど〜でもいい。ここに書いた3本を公開してくれ。さもなくば、わたしに、これらの作品を公開する力を与えてくれ。

 

 

 

[] Apt7「ロボットを見学して」  Apt7「ロボットを見学して」を含むブックマーク

 タイトルページは、どこかの展示場。巨大な地球儀にはりついているさとるとまりん。地球儀はなぜか「オーストラリア大陸」が真上でスポットをあびていて、地球で唯一の陸地のように見える。

 この回は、工場ですれちがって名前だけ聞いた「まりん」を探し求める「さとる」。靴のアップの描写。足はなぜか父の勤める、そのロボットのいる工場、「豊工業」に向かってしまう。その「豊工業」の門の影に立っている、「宿命の女」のような「まりん」の姿で、この回は終る。いや、「のような」ではなくて、さとるにとってまりんはまさしく「宿命の女」なのだ。まるで大人の恋物語のようだ。

[] Apt8「夜の工場」  Apt8「夜の工場」を含むブックマーク

 タイトルページがわけわからない。ロケット発射台なのだろうか。そのロケットの下に、奈落のような、またはプールのような方形の穴があいている。その脇にさとるとまりんがいて、ロケットの噴出口からはコスモスのような花が噴き出されているようだ。珍しく現実味のない、幻想のようなタイトルページ。で、よく考えてみたら、毎回このタイトルページに出て来る少年と少女を、さとるとまりんだと決めつけてしまうのは誤りかもしれない、というか、誤りだろう。

 この回で「さとる」「まりん」「モンロー」という三位一体が合流する。始めて「モンロー」の視覚が図像化されて、一気にサイバーパンク的な展開をちらつかせる。

 とにかく、いきなり「運命の出合い」である。さとるとまりんは、言葉を交わす前に、しっかりとその手をにぎりあい、まりんは言葉よりも先に嗚咽する。この強烈な、ただごとならぬ雰囲気が、以後この物語を支配するようになる。さとるが「ねぇ、あのロボットをもう一回見てみたくない…!?」と聞く事自体は、この二人の運命的な出合いとはほとんど無関係であり、ここで、さとるが主導権をにぎっての「奇跡」への道が開かれるのだ。そして、モンローの「意識」があらわれる。もうこの物語は、「ただごと」ではない。

 

 

 

 

 

 

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