ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2005-09-30(Fri)

[] 『吾妻橋ダンスクロッシング』 at アサヒ・アート・スクエア  『吾妻橋ダンスクロッシング』 at アサヒ・アート・スクエアを含むブックマーク

 この日のプログラムは、以下の通り。

Part-1
・ボクデス:「チマチマダンス・コレクション」
・康本雅子:「Honeymoon」
・丹野賢一:「017-SPEAKER」
・黒沢美香&ダンサーズ:「接吻」
・男子はだまってなさいよ!:「コント1」
・KATHY:「MISSION/Az」
(休憩)
Part-2
・チェルフィッチュ:「ティッシュ」
・丹野賢一:「011-DOT」
・康本雅子&山縣太一:「Washing Machine」
・男子はだまってなさいよ!:「コント2」
・ボクデス:「ラ・ラ・ラ・脚立・ステップス」
・黒田育世x松本じろ:「モニカ モニカ vol.2」

 わたしはしばらく隠居しているから、あまり口幅ったいことは言えないけれど、今の日本のダンス、というか、もっと範囲を狭めて、今の東京のダンスは、ある意味で、舞踏が隆盛し始めた頃(その時期を知ってるわけでもないんですけれど)の隆盛に匹敵するような活気を持っているのではないか、と、勝手に思っている。それは、「正当なき異端の群れ」の百鬼夜行、というか、魑魅魍魎たちの乱舞、というか、いや、こんな妙な言葉を並べると、「舞踏」のことを語ってるみたいになってしまう。

 そんな、東京のダンス・シーンを一方で牽引しているのが、「舞台芸術」紙上などで、こども身体論なども繰り広げておられた桜井圭介さんで、この「吾妻橋ダンスクロッシング」の企画も、その桜井さんの手になるものだった。

 ま、わたしなども、ひそかに、現在「コンテンポラリー・ダンス」などと呼ばれるようになってしまったジャンル(領域)は、もっと拡散して、その境界をどんどん曖昧にしてしまえばいいんだ、などと思ったりもしているんだけれども、そんな視点から、興味深いイヴェントだった。ま、曖昧にする、といっても、「何でもあり」という事にはならないのは言うまでもないし、その表現の中に一種の先鋭化が見られなければ、表現としての「力」は、観客と共有される事なく、宙ぶらりんになってしまうだろう。

 そういう意味で、この「吾妻橋ダンスクロッシング」、わたしのような観客として、イヴェントとしての方向性、パワーを共有出来るような、注目すべきイヴェントに仕上がっていた、と思う。

 出演した八組のアーティストは、それぞれまったく異なるアプローチから「ダンス」に攻め入り、フィールドを拡げながらも強化するパワーを期待されたのだと思うけれど、基本的に、そんな期待に違わない作品(小品だけど)が並んだ。

 会場になった、浅草の「アサヒ・アート・スクエア」は、妙なところに柱があったりとか、いろんな意味で使い勝手の悪い会場だとは思うけれど、反面、客席と舞台の境界をきわめて曖昧に持って行けたり、客席への乱入(!)みたいな、かなり自由な使い方が出来る場所、という印象があるし、何組かのアーティストは、実際に、そんな場の特性をうまく使っていたと思う。

 それぞれの作品のことを、ちょこっと書いてみようかな。


 そう、いちばん感銘を受けたのは、トリをつとめた黒田育世x松本じろの「モニカ モニカ vol.2」で、まずは、黒田育世の、「踊るのが楽しくて仕方がない」という気持に裏打ちされた力技ダンス、そのダンスと対等に渡り合う松本じろのギターとのコラボレーションは、まるで、スペインから切り離されて浅草で狂い咲きしてしまったフラメンコ・ダンスのようなテイストで、「ダンス=生の歓び」という、ある意味原初的表現を、思いっきりストレートに、力強く体感させてもらった。

 チェルフィッチュの「ティッシュ」も、やはり面白かった。これは「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005」で演じられた「クーラー」の系列の作品、というのは当たり前なんだけれども、「現代日常身体」を誇張して追求、提示した作品で、こうなんというか、体が、だらだらと話をしているとこう動いてしまうんだよな、ってぇのが、その独特のつっぱるような誇張の仕方から、一種の「チェルフィッチュ・カラー」みたいなものが受け止められるようになった。

 KATHYは、ま、一種の「KATHY増殖計画」でしたから、どうこう言う事もないのだけれども、そのあまりにストレートな方法論を、あまりにストレートにやってのけてしまうというのに、一種の感銘を受けたのだった。

 黒沢美香&ダンサーズ「接吻」。実は、前の日に寄った店(バー?)のモニターで、フェリーニの「甘い生活」を見ていたので、そのダンサーズの乱入に、「8 1/2」のシーンを思い浮かべたりしてしまっていた。ダンサーズのあまりに不定形な踊りが、黒沢美香のあまりにフォルムにはまった踊りをサンドイッチにして、まぁそれは、わたしには、フェリーニ的世界だった。

 ボクデス、前半では「チマチマダンス」で、後半では、アルミの大きな脚立を使ったアナーキーな出し物。この人って、乱暴なんだか、繊細なんだかよくわからないけれど、そんな、乱暴さと繊細さの紙一重の所が、怖い、と言うか、やっぱ怖い。

 丹野賢一は、久しぶりの舞台での小品。この日の二つの作品はどちらも再演だけれども、やはり、「DOT」の、パンクだけれどポップな世界は、キャッチーで楽しくも怖い。

 康本雅子も小品二作。わたしは、この人のやっている事は、いつも、何か彼女の脳内世界を覗かされている思いがする、と言うか、ストレートなダンスの背後に、舞城王太郎の小説世界のような脳内幻想がいつもついてくる、というか、「わけわかんねーよ!」って気持を抱くのは確かなんだけれども、この日の作品はストレートにダンスの魅力が伝わって来て、彼女の伎倆ともども、感心してしまった。って、昔使っていたPHSのアステルが、ついに消滅する事を知った。これで、PHSは、わたしの使ってるエッジ、だけになるのか。

 それで全部だっけ? あ、「男子はだまってなさいよ!」か。‥‥こまったな。普通にコントだしな。「ダンスについて語ろうよ」なんて言わなければよかったのに、って、ちょっと思ったね。「男子はだまってなさいよ!」って初めて見たけれど、ダンス、ってぇフィールドに侵攻して来るなら、「鉄割アルバトロスケット」なんかの方が、おもろいかも知れない。


 うん、なんだかこのイヴェント、年内にもう一度予定があったりして、パーマネントなイヴェントにして行きたいらしいんだけれども、例えばチケットの販売数とか、例えば客入れの方法とか(これは、会場のあの立地条件だと難しいんだけれども)、改善する余地はあると思う。会場内で喫煙出来るのはとってもうれしいけれど、非喫煙者にはやっぱ迷惑なんだろうか?

 とにかく、これからも刺激的なダンス/非ダンスをいっぱい見せて欲しいイヴェントで、今後にさらに期待したいですね。(9月24日観劇)




 

[] 『ギュスターヴ・モロー展』 at Bunkamura ザ・ミュージアム  『ギュスターヴ・モロー展』 at Bunkamura ザ・ミュージアムを含むブックマーク

 実は、ギュスターヴ・モローは、わたしが最初に夢中になった画家。ま、夢中になったといっても、要するに、彼の絵に、からだを斜めに横たえて描かれた物憂気な美女たち、そんな意匠に、例えば竹久夢二や高畑華宵の絵に惹かれるように夢中になった、と言うところだったろうけれど、モローっていう画家は、そのあとあれこれと見てみると、いろんな分裂を抱えた作家で、それがいかにも世紀末的と言うことも出来るけれど、わたしにとって、とても興味深い作家であり続けているし、やはり、まだ見たことのない『ユピテルとセメレー』などの作品は、ぜひとも見てみたいものだと、今でも思っている*1

 先に「いろんな分裂を抱えた作家」って書いたりしたけれど、それは決して、精神病理的な見方からの分裂、と言うわけではなくて、やっぱ、あの時代の抱えていた分裂と捉えられるんじゃないのかな?

 そんな分裂の一つが、「アングル的な描写と、ドラクロワ的な描写との対立」としての分裂、かな。それは要するに静的な、古典主義というか、アカデミックな、ヨーロッパの伝統に根ざした技術を根本において描くのか、動的で情熱的なロマンティシズムの中に飛び込むのか、という二律背反、って言ってもいいんだろうけれど、考えてみると、この二律背反から、モローの作品の中のいろんな要素が透けて見える気がしてしまう。

 ちょっと美術史的な事を書いてしまうと、そのアングル的なものとドラクロワ的なもの、言い換えれば、古典主義とロマン主義の融合というのは、シャセリオーという作家の中で追求され、その可能性をかいま見せるのだけれども、シャセリオーは天才の厄年の37歳で夭折してしまう。モローはそのシャセリオーの弟子のような所があって、彼の遺志を引き継ぎながら、たしか、「若者と死」という、シャセリオーに捧げた作品を描いている。

 今、何の資料もなしにうろ覚えで書いているから、間違っているかも知れないけれど、シャセリオーは、どちらかと言うと、ロマン主義に魅入られた人だったはずで、たしか、アフリカの地を題材にえらんだ作品を多く描いていたはずで、これも、モローの中の東洋趣味と繋がる、というか、世紀末の一つの精神だったのだろう。

 そういうふうに、いきなり、乱暴だけれども、モローの中の分裂、二律背反を、先にあれこれと挙げてしまうと面白いかも知れない。

 ・アングル : ドラクロワ
 ・古典主義 : ロマン主義
 ・ヨーロッパ : アジア(オリエント)
 ・キリスト教(聖書) : ギリシア神話
 ・遠近法による三次元のイリュージョンをめざす描写 : 細部にこだわる装飾模様への偏愛
 ・色面 : 線描

 ‥‥ま、かなり大雑把なくくりだけれども、スッと思い出すのは、こんな感じかな? えっと、キリスト教とギリシア神話に関しては、この時代の作家は皆、かなり勝手なアプローチをしているから、モローだけの特種事情とは言えないだろうけれど、その時代の主流であるだろう精神と、そこから逃れて異国の地にある(あった)であろう精神とが、一人の作家の中で対立する、という構図としては、モローの場合はもっと考えるに値するような気もする。

 「アトリエの隠者」として、絵を描く以外には、ほとんど何の活動の記録も残っていないギュスターヴ・モローだけれども、例えば彼のオリエント趣味は、同時代の(というか、相当年代的には下だったけれど)ランボーが、その早すぎる晩年にアラビアに向かったような精神、これと通底しているような時代の空気であっただろうことは、きっとたしかな事だったろうと思う。そのオリエント趣味は、たかだかモローの時代から100年ぐらいしか経っていない今でも、この日本にいても、充分に了解出来る事項だと思うのだけれど。

 って、これらの事柄は、今回のモロー展とは直接には繋がらないのだけれども、ま、虚心に、今回のモロー展を見てみる。

 ‥‥正直言って、粗大ゴミのような作品もあるし、彼のデッサン力の欠如を感じさせるような作品も多くあって、こう、一般に、1300円も取って、渋谷などで人に見せるような展覧会ではないのではないか?って印象。いや、渋谷、Bunkamuraだからこそ、これでいいのか。

 この展覧会での目玉商品は、そうだな、例えば『一角獣』とか、サロメに題材をとった連作からの『出現』あたりなのかな?って思うんだけれども、一連の可愛らしいイラストのような水彩画と合わせて観て、先に書いてしまった彼の中の対立項、「遠近法による三次元のイリュージョンをめざす描写:細部にこだわる装飾模様への偏愛」とかいうのと、「色面:線描」などという問題を強く感じる展示だったように思えるのね。あと、この人の中の、「垂直」への意志と、それを否定するような、「水平」、までも行かない、構図の中にあらわれる、意志の問題とかも考えてみた。それは、「生」と「死」の問題、なのかも知れないけれど、そんな面倒なことをココで考え始めるのは、取りあえずは止めておこう。

 『一角獣』にせよ、『出現』にせよ、筆の勢いでビショ!って描いてしまったような、表現主義絵画のような輪郭のはっきりしない背景の上から、まるで別人が手を加えたようなち密な線描が描き加えられて、彼の水彩画とも異なる、というか、どんな画家も描かなかったような、奇妙な平面が現出しているわけで、これはやはり、画家の抱え持つ「分裂」が、時をおいて一つのタブローの上に重ね書きされてしまったような、実に奇妙な印象を受けてしまう。それはもちろん、ピカビアの二重画像とも違うのだけれども、ここにある分裂は、平面の上に様々な手法で絵の具を置きながら完成させる、「絵画」という作品、それを制作することを含めて、いったい何が「絵画」なるものを成立させるのか?などと、今のわたしにはちょっとむつかしいことを考えさせられてしまった。(9月24日観賞)



*1:つまり、わたしはまだフランスに行ったことがないんだけれども、4〜5年前にひょっとしたら行けるという可能性が出て来た時、わたしはパリの地図を拡げて、そのモロー美術館までの道筋を調べたりもしたんだけれどもね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050930

■ 2005-09-29(Thu)

[] ポツドール 『ニセS高原から』 三浦大輔:演出  ポツドール 『ニセS高原から』 三浦大輔:演出を含むブックマーク

 前から一度みたいみたいと思っていたポツドール、その舞台をやっと観る事ができた。ただし、今回は、原作に平田オリザの『S高原から』を持って来ての、「こまばアゴラ劇場」での、ある意味、企画モノ。いや、本当は、「三条会」のもぜひ観たかったんだけれども、こちらは日程があわないので断念。残念。

 さて、わたしとしては、その青年団版の『S高原から』を観た事もないし、もちろん読んだ事もないし、この舞台を観ただけで「ポツドール」がどうとか、言いにくい所もあるのだけれども、予想以上にに刺激的で、ゾワゾワとしながら、「あ、これがポツドールか」と、勝手に納得してしまう所もあった。

 ‥‥それは、ひとことで言ってしまえば、「DISCORD」とでも言える、不協和音のような感覚で、不穏な空気に満ちた関係性の背後に、リアルな感覚で「歪み」が捉えられている、と言えばいいのかな。日本語変かな?

 特に、この舞台では、その原作に含まれる「死」の影、サナトリウムという、隔離された閉鎖的な空間の裏側に拡がる「死」を匂わせる、と言う意味で、秀逸(って、生意気な言い方だけれども)な作品に仕上がっていて、その閉鎖性の描き方には感心してしまった、というか、虜(とりこ)になってしまった。

 ボソボソと取り交わされる会話は、時に観客席に届かない事もあり、まともに観客に背中を向けての会話は、ある意味では「青年団」の延長、とも取れるけれども、その基調に、先に書いたような「DISCORD」を置く事によって、痛切なリアリティを感じさせる舞台だったと思う。あぁ、あのラスト、「死」が、ジョークのように、認知されないまま放置される。これは決して平田オリザの世界ではないだろう。この「鋭さ」は、間違いなく三浦大輔氏の、「ポツドール」の独自さだと思わざるを得ない。

 次もきっと行くよ。

(9月23日観劇)

[] 『チャーリーとチョコレート工場』 ティム・バートン:監督  『チャーリーとチョコレート工場』 ティム・バートン:監督を含むブックマーク

 前作『ビッグフィッシュ』は、個人的な親へのトラウマから、あまり好きになれなかったティム・バートンだけど、今回は痛快、というか、あまりにも痛快、というか、ものすごく痛快!、というか、面白すぎ! というか、‥‥。

 ま、「ファンタジー」っていうのは、一般に、ガキンチョも、そのガキンチョっぽい欲望を加速させて、親の欲望とシンクロさせて、つがいで、いや、親子丼で楽しめる作品のことを指したりするような気配もあるけれど、この、まぎれもない『チャーリーとチョコレート工場』という「ファンタジー」は、世の中には迷惑千万なバカンチョなガキンチョがいると思っていて、そんなガキンチョが思いっきりコテンパンにのされてしまう事を密かに夢想し続けて来た、わたしやあなたのための、心やさしきファンタジーだったのだ。

 「ガキンチョ」というのは、ま、人類の宝だと認知されていまして、これはおそるおそる大事に取り扱わなくってはいけないと、なんとなく相場が決まっているようで、でも、そんな潮流に反抗して、この作品、「親の顔がみたい」以前に*1、「このガキ、戻って来ないスペースシャトルに詰め込んで、宇宙空間の燃えないゴミ収集場に打ち込んでやりたいぜ!」って、ついつい思ってしまう事が一日に3回以上あるような、そんな心あるアダルトな大人のためのファンタジー、だったのだ。えらい、ティム・バートン!

 しかも、その狂言回しが、ジョニー・デップが扮するマイケル・ジャクソン、なのだから、もう、脳内メルトダウンが始まりそうなくらいに、快楽の漸進的横滑りがどんどん進行する。で、また、このセッティングが、まるでNHK教育TVの、幼児向け非教育番組のセットみたいだし、色彩は、CG版テクニカラーだぜ、とばかりにのっぺりと誇張されている(特に、ガキンチョとか、ジョニー・デップの顔、とか)。

 もう、こうなると、ロアルト・ダールとかなんとか、関係ないっすね。とにかく、「宝」とかなんとかもてはやされるバカガキどもが、バカ丸出しのままぶっ飛ばされる。そんな単純な事が、こ〜んなに楽しいなんて。残りのわたしの人生は、毎日この作品を見てばかりで過ごしてもいいぐらいだわさ。

 しかし、そういう個人的な嗜好はさておいても、このキャスティングの見事さ! 誰一人とっても適材適所、と申しましょうか。もちろんわたしのお気に入りは、「ウンパ・ルンパ」のディープ・ロイ、なのだけれど、実は、この映画を見て以来、暇さえあればわたしの脳内で、そんな大勢のウンパ・ルンパが、踊ったり歌ったりし始めてしまうんですけれど。どうしましょ。にくったらしいガキンチョのキャストも最高です。

 って、この次も、またティム・バートンの『コープス・ブライド』だな。きっと行くよ。(9月23日観賞)

 明日は、『吾妻橋ダンスクロッシング』の事、書きますね。


 

 

*1:いや、この作品では、そんな「親の顔」も、たっぷりと見ることが出来るではないか。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050929

■ 2005-09-22(Thu)

[] 『ジュスティーヌ』(002) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(002) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第002回:まわりをふわふわと。


 でも、「五つをこえる性」って、なんだろう。五つ、ではなくて、それをも越えてしまうって。エピグラフのフロイトのことば、「すべての性行為は四人の人物が関係する作用だ」に続く、数の謎。この書物は全四冊から成り立っているし。

 先を読んでみよう。

 風景の色調についての覚え書‥‥。テンペラ画の長い連続。レモン油に濾されてきた光。赤煉瓦の粉をいっぱいに含んだ大気──あまくかおる赤煉瓦の粉と、水で渇きをいやした熱い歩道の匂い。大地にしばられたまま、ほとんど雨を降らせることもない、湿った軽い雲。このうえに埃りの赤、埃りの緑、白く濁った藤色、水にといた深紅色をほとばしらせるがいい。夏になると、海の湿気が大地に軽くワニスをかける。すべてのものがゴムの膜のしたに横たわる。

 こんな散文詩のような回想が、この作品の冒頭にしばらく続く。語り手は、どこかアレキサンドリアから離れた島から、アレキサンドリアの思い出を、もういちど、言葉で再構築しようとしていて、物語はなかなか動きださない。語り手の語り口は、アレキサンドリアの空高くから街を見下ろしているかと思うと、突然に路地に舞い降りて、そこに佇む人物の思い出に転換したりする。さあ、物語が動き始めるぞ、などと思っていると、またもや語り手の視点は、人物から、街そのものへと戻ってしまう。そして、時に、自分自身のことも語りだしたりもする。彼は、メリッサという女性を愛していたのだろう。でも、「メリッサ!」と呼びかけられる声は、アレキサンドリアの街に吸い込まれ、だれの耳にも届かないままにかき消されてしまうよう。

 ぼくは今夜、原稿を読みかえしてみた。そのうちの何枚かは台所の仕事に使われていたし、何枚かは子供が破りすててしまっていた。こういうかたちの検閲は気にいった。なぜなら、そこには芸術の構成に対する自然界の無関心があらわれているからだ

 この一節で思い出してしまうのは、ベルトリッチの『シェルタリングスカイ』*1の後半、迷ったキットが、自分の執筆していたノートをバラバラにして、部屋の中にいっぱいに、七夕の飾り付けのように吊るすシーンだったりする。タンジールとアレクサンドリア、その風土には似ている所があるのだろう。ヨーロッパからの、逃亡者たちの集う土地。

 ‥‥語り手の愛したメリッサはもう、死んでしまったらしい。語り手は、ジュスティーヌの書いた三冊の日記と、ネシムの狂気を記録した書類を持っている。

「持っていって読みたまえ。このなかにぼくらのことがいろいろ書いてある。これを読めば、たじろがずにジュスティーヌの印象を支えてゆけるだろう。ぼくもそうしなければいられなかったんだ」

 かつて、そのネシムは、語り手にこう言っている。

 メリッサの死んだあと、夏の宮殿でこれを渡してくれたとき、彼はまだジュスティーヌがもどってくると信じていた。ジュスティーヌに対するネシムの愛情についてぼくはしばしば考えるのだが、そのたびにある怖れを感じないではいられない。これほど包容力の大きい、これほど毅然としたものがあるだろうか。それは彼の不幸を一種の恍惚感をもって彩っていた。聖者にこそありえても、恋人などにはあるとも思われなかった法悦の傷をもって彩っていた。しかし、ほんのわずかユーモアの感覚がありさえしたなら、あんなにも恐ろしい、すべてを呑みつくす苦しみから逃れることもできたろうに。批判するのはやさしい、それはぼくも知っている。知っている。

 語り手である「ぼく」(彼の名前はもう少しあとで語られるだろう)、メリッサ、ジュスティーヌ、ネシム。この四人が関係して、この宇宙がつくられるのだろうか。冒頭のフロイトの言葉に関連してくるのだろうか。いったいどんな関係をもっていたのだろう。彼と彼女たちは。そして、この四人は、いまでは皆ばらばらに別れてしまっているようだ。ちなみに、この『アレキサンドリア・カルテット』の四冊は、それぞれの巻に人の名前がつけられている。その1が、この『ジュスティーヌ』なのだけれど、ほかの三冊の書名は、『バルタザール』、『マウントオリーブ』、『クレア』なのである。

 この冬の夕暮れの大いなる静寂のなかに、ただひとつの時計がある。海だ。その暗い運動量が心のなかにつくりだすフーガにのって、ぼくの文章が書かれる。みずからの傷口をなめまわし、河口の三角州のあたりで不機嫌にむずかり、人のいない浜辺で激しくわきあがる浪の空ろな旋律──空虚だ、飛び舞う鴎たちの下で永遠に空虚だ。雲が喰いのこした灰色の空に白くなぐり書きしたような鴎の群れ。帆船があらわれるとしても、島のそばへくるまえに消えてしまう。島々の切妻壁にうちあげられた漂流物の最後のひとかけら、天候に侵食され、海水の青いはらわたにまきこまれ‥‥消える!

 おお、冒頭の、この小説の書き出しの「海」が、こんなことになってしまった。おだやかな、蒼い絶望感のようなものが、美しく描かれている。とても惹き付けられる文章だ。

 今日はここまでにしよう。12ページまで進んだ。


 

 

 

*1:ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』ではない。なぜなら、小説には、そんな映画で描かれたシーンは書かれていないのだから。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050922

■ 2005-09-20(Tue)

[] 『ジュスティーヌ』(001) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(001) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第001回:これから読み始めます。

   f:id:crosstalk:20050920233214j:image


 また、バカなことを始めようとしている。昨日読んだ小説、それは、絲山秋子の『袋小路の男』という小説だったのだけれども、思いがけずも、そのエピグラフが、ロレンス・ダレルの『ジュスティーヌ』からのモノだったんだ。

 ‥‥こんなの。

「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」

 そしてふいに、わたしの頭の中は、その『ジュスティーヌ』を含む、ロレンス・ダレルの書いた『アレキサンドリア四重奏』の四冊の書物のことで、いっぱいになってしまった。とにかく、わたしは一度だけ、この四部作を通読したことがある。それはもう前世紀のことだったし、とりあえず、わたしも若かった。ぶきっちょな数少ない恋愛体験しか持たず*1、本の中に潜んで人を虜にする悪魔、そんな存在も知り得なかった頃だった。だから、いちおう、通読はしたものの、この書名をわたしの読書目録に登録するのには、ためらわれるものがあった。簡単に言えば、わたしはポイントを逃していた。それは自分でも解っていた。

 だから、その後、何度も引っ越しを重ねて、そのたびによけいな書物などを処分する機会を経て来ても、この四冊の本はいつもわたしの本棚に残っていた。いや、もう最近では、あまりに本が薄汚いから、古本屋に売る事も出来ないだろう、っていう理由で残しているだけかも知れないけれど。

 それほど意外な事でもないのだけれども、今では、この作品は絶版になっているらしい。だから、ここにこうやって「感想文」を書いてみても、それを読む人にとっては、ほとんど意味のない行為に映るかも知れない。でも、わたしは、「読む」ということを、突き詰めてみたい。それは前から思っていて、一度、『わたしは真悟』で試みて、挫折してるんだよね。で、ほんとうは、この『アレキサンドリア・カルテット(四重奏)』よりも、もっと有名で、もっともっと長い小説でそれをやってみようと密かに思っていて、その準備もしていたんだけれど、急に、この、今ではほとんど忘れられかけている本を、もう一度、最初から読みはじめ、その過程を書いてみようという気になってしまった。だから、いきなり、始めます。

 こういう事をやるには、最初に、この本とか、著者のロレンス・ダレルについて、なんらかの前置き的な解説をつけるのが親切、っていうもんだろうけれど、もう今は、早くこの本を読み始めたくって、そんな余裕はないのだ。だから、いきなり読み始める。一冊に一年かけて、四年ぐらいで終わるだろうか。間を置きながら、ゆっくりと読み継いで行きたいので、そこんところよろしく、です。

 さて、本のページをめくってみよう。

この小説は連作の第一巻となるものだが、ここに登場する人物たちは、語り手をふくめて、全て虚構であり、現存の人物とは何の関係もない。ただ都市だけが現実のものである。

 この記述に続いて、フロイトとサドから引用されたエピグラフが続いている。

すべての性行為を四人の人物が関係している作用と見なすという考えに私はみずからを慣らしているところだ。これについては、これから多くを議論しなければなるまい。

S・フロイト『書簡集』

私たちに可能な立場が二つある。私たちを幸福にしてくれる犯罪をえらぶか、私たちを不幸からふせいでくれる首吊縄をえらぶかだ。何をためらうことがあるだろうか、愛するテレーズよ。それにお前のかわいい頭で、これにたちうちできる議論をどこから見つけだそうというのだ。

D・A・F・ド・サド『ジュスティーヌ』

 フロイトとサド、いやな取り合わせだなぁ。なんかこう、時代を感じてしまう。しかし、フロイトは何のことを言っているんだろう。私は単純だから、性行為などという営みは二人っきりのものであって、あとはそのヴァリエーションに過ぎない、なんて思ってしまうし、さらに言えば、実は一人っきりの営みなんではないか、などとも考えてしまうんだけれども。ま、いいや。とにかく、最初のページにはこう書かれていたんだ。

 ‥‥さあ、小説の、本編が始まるよ。

 今日も波が高い。刺すような風がほとばしる。冬のさなかにも春のたくらみが感じられる。真昼までは熱い裸の真珠の空、ものかげに鳴くこおろぎ、そして今は、大きなすずかけの木々を振りほどき、探りまわる風‥‥。

 ふぅん、翻訳をとおしても*2、美しい言葉の連なりをいっぱい体験出来る、この美しい書物の書き出しとしては、けっこう地味ですね。でも、やっぱ、海辺なんだ。それも、ヨーロッパではないんだぞ、と。そういう空気は伝わって来ます。

 数冊の本をたずさえ、子供をつれてぼくはこの島に逃げてきた−メリッサの子供をつれて。なぜ「逃げる」という言葉を使うのかぼくにもわからない。病気の保養ででもなければこんな遠いところへ来るわけがない、と村の人たちは冗談を言う。よかろう、そういう言いかたのほうが良ければ、ぼくは自分を癒しにここへ来たのだ‥‥。

 「ぼく」は、もうアレキサンドリアにいない。そこがどこの島だかわからないけれど、その島で、アレキサンドリアのことを思い出している。

 (‥‥)ぼくたちをその植物群としてあつかったあの都会、ぼくたちのなかに争いをまきおこしたあの都会−その争いは彼女のものにほかならなかったのに、ぼくたちはじぶんたちのものだと思いちがえたのだ−愛するアレキサンドリア!
 このことすべてを理解するためにぼくはこんなに遠くまでやって来なければならなかった。毎夜、大角星(アルクトゥールス)がかろうじて暗闇から救いだしてくれるこの裸の岬に生活し、あの石灰の埃りにまみれた夏の午後の日々からはるかに離れた今となって、やっと、過去におこったことについてはぼくたちのだれにも責任がないということがわかってきた。裁きをうけるべきなのはあの都会なのだ、たとえ犠牲をはらわねばならぬのはその子供ら、ぼくたちであるとしても。

 いいねぇ。いったい、その「過去」に何がおこったのよ? で、「ぼくたち」は、どんな犠牲をはわわなければならなかったのよ?って、興味津々ではあります。

 五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教。港口の砂州にかくれて油じみた影を映しながら向きを変える五つの艦隊。しかしここには五つをこえる性がある。そのなかで通俗ギリシア語だけが際立って耳につく。手ぢかにある性の飼葉の多様さ豊富さときたら、気も遠くなるばかりだ。ここを快楽の場所だなどと思い違える者はまずあるまい。自由な古代ギリシア世界の象徴的な恋人たちにとって代わって、ここでは何か違ったもの、何か微妙に両性的な、自己倒錯したものが支配している。東方(オリエント)は肉体の美しい混沌にひたりきることができない−それはもう肉体を追いこしてしまったのだから。ぼくはネシムがある日−きっと何かの本で読んだのだろう−こう言ったのを重い出す。アレキサンドリアは愛をしぼりとる大圧搾器であり、そこから出てくる者は病人、孤独者、予言者である、と彼はそう言ったのだ。つまり、性に深い痛手をうけた人たちすべてのことだ。

 そう、このセンテンスの中に、ギリシアのおおらかさではない、ビザンチンの残り火がまだ燻っているような、アレキサンドリアの魔力があるんだろうか。「予言者」への、思いもかけない定義が面白い。

 ‥‥これから、こんな調子でほぼ全文引用するのかな、わたし。著作権に抵触するぞ。

 てなことで、今日は9ページまで読みました。いや、実質は2ページも読んでないけれど。


 

 

 

*1:ぶきっちょであることは今でも変わらないだろうし、それからそんなに数重ねたか?と言えば、いや、全然ですよ。

*2:この、高松雄一の翻訳は、ちょっとした名訳だと思うんだけれども。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050920

■ 2005-09-19(Mon)

[] 『ぼくの叔父さんの休暇』 ジャック・タチ:監督  『ぼくの叔父さんの休暇』 ジャック・タチ:監督を含むブックマーク

    f:id:crosstalk:20050919163605j:image


 ひょっとしたら、この作品よりも、このポスターの方が、わたしなんかには、より身近に「ジャック・タチ」という人物を思い浮かべさせてくれる。って、たしか、これは、近年開催された「ジャック・タチ映画祭」に使われていたような気がする。

 結局、その映画祭に足を運ぶこともなかったし、彼の作品は、ずいぶん昔に『ぼくの叔父さん』一本を見ただけ。で、おそらくは多くの人がそう思っているであろうように、この『ぼくの叔父さんの休暇』ってぇのは、『ぼくの叔父さん』の続編、なんだろうって、勝手に思い込んでいた。

 実際のところ、この『ぼくの叔父さんの休暇』が創られたのは1952年で、ちょっと今調べていないけれど、『ぼくの叔父さん』は多分、この作品よりも5〜6年あとの作品であって、同じジャック・タチの演じるユロ氏が主人公であるとは言え、この『ぼくの叔父さんの休暇』では、ユロ氏は、ほかの登場人物のだれの叔父さんでもないんだよね。これは、日本での公開順が逆になってしまったせい、なんだろうけれど。

 この作品は、ブルターニュのどこからしい避暑地に、おおぜいのいろんな人たちが一斉に訪れて、ひと夏(って言うほど長い期間ではないか)をいっしょに過ごして、みんながざぁ〜っと帰って行く、そんな避暑地での、いろんなエピソードのスケッチ集。もちろんこの作品では、そのスケッチの中心に、ユロさんがいて、ま、いろんな問題を引き起こしてくれたりとか。

 ただし、ここでのジャック・タチの喜劇の作り方は、アメリカのそれのような、ギャグのてんこ盛りで爆笑させてくれるのではなくって、そこはかとないユーモアを基調とした、なんとはなしにペーソスをただよわせるような作り方で、それは冒頭の、ユロさんのおんぼろ車の道中描写からもってしてはっきりしていて、絶対に、アクロバット的な面白みなど追求しようとはしない。あ、この映画のはじまりは、都市の鉄道駅のホームから多くの人がヴァカンスに出発するシーンが先なんだけれど、この、ちょっとした描写の中にも、なんとなく、ジャック・タチの都会嫌い、文明嫌いがあらわれているように思ってしまうのは、ジャック・タチへの先入観の持ち過ぎだろうか。

 ま、いろんな、楽しいエピソードがあれこれと見出せる作品で、そんな楽しさを一つ一つ書いていってもいいんだけれども、結局、ユロさんはなぜか(妙なテニス・プレイのせいか)、このヴァカンスに来ている一番の美女と、かなり仲良くなってしまって、仮面舞踏会で楽しく二人で踊ってしまったりする。

 基本的に、(これは『ぼくの叔父さん』でもそうだったと思うけれど)ユロさんはほとんどしゃべらない人で、ま、その、「しゃべらない」ということで問題が起きてしまうようなフシもあるんだけれども、そんなせいか、全体の映画の基調はサイレント映画のような印象で、でも、そんな中で、「音」が、いろいろな「音」が、印象に残ってしまう。例えば、映画の夜の場面での主要な舞台になる、ホテルのレストラン。ここのドアが、開閉のたびに、「ボーン、ボーン」と、鐘の音のような不思議な音をたてるのであって、なぜか、ずっとそのレストランが出てくるたびに繰り返されるそんな音を聞いていると、しみじみとした気分になってしまうんだな。あと、室内でユロさんが卓球やるシーン(ユロさん、とっても迷惑です。)の、ボールを見せないで、音だけで展開させる場面も、とっても面白い。

 ヴァカンスの最後に、またユロさんが花火大会をおっぱじめてしまったりして(ここでも「音」だったかな?)、最後の日に、皆が別れのあいさつをして、再会の約束をしながらその地を去って行くわけで、ま、ユロさんの所にはあまりあいさつに来る人もいないんだけれども、彼のテニスの腕前に感心したおばさんと、いつも奥さんにしたがってばかりいたおじさんとから、あいさつされる。「楽しかったよ」って。

 ま、皆に迷惑かけながらも、その空気の中に、イヴェント性を持った「場」を作り出して、一つの印象をそこに残すのだね、などと大げさなことを書いてもしょうがないけれど、それはある意味、日本でも、『男はつらいよ』で、寅さんがやろうとしていたことでもあるだろう。わたしは「寅さん」に興味はないんだけれど(寅さんは人恋しすぎるからね)、このジャック・タチのユロさんの造型の中に、そんな原点はあるよ、って言ってもいいんでないのかな。そう、それから、ヴィジュアル面でのユロさんのスタイルや動作の奇矯さは、去年映画館で見た『ベルヴィル・ランデブー』でのキャラクターの造型、性格づけに、遠い(と言っても、同じフランスだけれども)影響を与えているのではないだろうか。いや、考えてみたら、あれはモロにジャック・タチだったのではないだろうか?

 皆が出立してしまって、誰もいなくなってしまった海辺、その映像と、かぶさってくる音楽(ギターとバイブのフィーチャーされた、いかにもフランス的なジャズ)で、ちょっとセンチメンタルな気分になり、涙がこぼれてしまった。

 ふふ、見ちゃったんだよ、って、ちょっと内緒にしておきたいような映画だった。

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050919

■ 2005-09-18(Sun)

[] 『木霊集』 田久保英夫:著  『木霊集』 田久保英夫:著を含むブックマーク

   木霊集


 田久保英夫の小説が好きだった、と書くのも、本当は気恥ずかしい。でも、そもそも、だいたいにおいて、田久保英夫という小説家の、その名前すら、一般にはそれほど知られていないだろうし、仮に、かつての芥川賞の選考委員としての彼の名前が知られていても、彼の小説を読んだことのある人なんて、そうめったにいるものでもないだろう。むかしだれかが、かつて寺山修司が、田久保英夫の小説を痛烈に批判したことがあるという話をしてくれたけれど、その話をしてくれた人も、田久保英夫を読んでいたわけでもなかったし。

 しかし、なんでまた、酔狂にも、彼の小説を好んで読みはじめるようになってしまったのだろう。思い出せるそのきっかけは、古本屋で何気なく買った、彼の『触媒』という小説に、見事にはまってしまったからなんだけれども、ではなぜ、古本屋でその本を買ってしまったのか、まったくその理由が思い当たらない。

 ある作家の本を読みはじめる、そのきっかけというのは、たいていの場合は、まわりからの評判で自分の触手をのばしてみるのだけれども、田久保英夫に関しては、そんな評判を聞いた覚えはまったくないし、それ以降彼の小説をあれこれ読み続ける間も、彼の小説に関する評判というものを、これは一切耳にした覚えはないんだな。

 たとえば音楽(LPレコードやCD)の場合、「ジャケ買い」などという衝動に身を任せることがあるとは言え、本でもって、「装丁買い」っていうのは、これはやった記憶がないな*1。で、特にその『触媒』という本が、美しい装丁の本だったとも思えないんだな。

 とにかく、その『触媒』を読んで以来、折にふれて古本屋に行くと、彼の本を探すようになり、一時期は彼の著作のほとんどをコレクションしてしまうまでになってしまったこともある*2

 彼の小説が一番魅力的だったのは、70年代から80年代にかけて発表された作品群、書名で言えば、その『触媒』(これは発表されたのは78年か79年だけれど、書き始められたのは74年ぐらいから、らしい)から、『しらぬひ』(1990年)にかけての作品群、かな。ん〜、で、つまりは、この人の小説の、いったい何に、自分が引き付けられるかというと、ま、そこに、彼の小説が好きだということへの気恥ずかしさがあるんだけれども、それは、死、狂気への親和性を匂わせるような、蠱惑的な女性に、心身共に振り回される主人公の、濃い官能性をともなった魂(うへ、「魂」なんて書いちゃった!気恥ずかしい!)の彷徨、そんな彷徨のなかに生の充実を見るような、ちょっと倒錯した姿勢への魅力、なんだろうか。

 田久保英夫が生まれたのは1928年というから、澁澤龍彦と同年生まれ、『しらぬひ』発表の90年にはもう62歳だから、というか、つねに作者の分身を思わせる主人公が登場する彼の小説からすれば、そろそろ色恋沙汰はキツくなるのか、その『しらぬひ』以降はかなり作風に変化があり、ちょっと作者の老境をかいま見せるような、渋い境地に到ってしまったようで、ま、わたしも多少は彼の新作から遠のいてしまった気配はあったのよ。そんな田久保英夫、2001年、食道癌による動脈破裂で死亡。これって、ひょっとしたら、澁澤龍彦と同じ死因なのではないだろうか。この死に方は、まったく苦しまずに、ほぼ即死状態らしいので、ま、病死するんならこんなのがいいな、と、わたしの中では人気度の高い死に方ではある。

 お亡くなりになられてもう4年以上経つわけだけれども、彼の旧作はどんどん絶版になり、全集なり著作集なりが刊行されるということもないようだ。やっぱ無理かなぁ。作家としてはあれこれの文学賞の受賞歴もたくさんあって、ま、ひいきも入ってしまうけれど、作家としてのクオリティは高い人だったと思うのだけれどもなぁ。近年、講談社文芸文庫に、「田久保英夫作品集」として、彼の長いキャリアの中から、何編かの短編を選んだ選集は、刊行されたようだけれども、「え、それ一冊で総括終わりかよ!」って、哀しくなってしまうのも確か。

 そんな田久保英夫の晩年の短編集、『木霊集』を読む。刊行されたのは1997年。いちおう、この短編集で、田久保英夫は「野間文芸賞」かなんかをもらってるのかな?

 七編の短編のほとんどが、過去の友人、知人の死にまつわる思い出話、というか、知人の死の知らせを聞くことから語り始める。時制がそんな現在から過去に遡り、その現在と過去のあいだを行き来する、というフォーマット(定型)も、ほぼすべての作品に踏襲されているわけで、特に小説の語法として実験的なことをやっているわけではない。ただ、その話法の魅力はちょっとしたもので、例えば、冒頭の「レイシーの実」という作品では、ヨット・レースの様子が描写されたりするんだけれども、なんちゅうか、なんでこの人はこんな題材をさらりと文章にして、作品の中に取り入れることができるんだろう?って感嘆があって、彼の筆力に後押しされるように、一気に読んでしまう。

 基本的に通底するテーマは、死者が主人公に遺したメッセージ、それはたいていは「もの」として遺されているのだけれども、その「もの」から、何かの「遺志」を主人公が読み取る過程、というのかなぁ? そういう、彼自身老境に差しかかった作家の書くテーマとしても、まっとうなものだと思う(「まっとう」なんて、生意気な言い方かなぁ?でも、まだわたしは、「老境」にはもうちょっと距離があるしね)。で、そんな中で、まったく異質、というか、肌合いの異なった作品が、六つ目の「草上宴」で、ここでは、地方で医者を営む兄と、ほぼ同居状態で、苗木を育てて売って生活している妹、その秘められた確執状態のど真ん中に、主人公がふと闖入してしまうんだけれども、ま、これは結末を詳しく書いてしまうとどっちらけなので、書くのが難しいけれど、とにかく、主人公が、その妹の、ちょっとした狂気を孕んだような行動の中に置かれてしまう、という話で、そう、これが田久保英夫の世界なんだよね、これが20年前の彼の小説だったら、そんな狂気に魅せられてしまった主人公が、その狂気を孕み持つ女性と深く踏み込んだ関係を持つことになってしまい、主人公もまた「狂気」と「死」に感染して行く、そういう展開を見せることは、これは間違いないのだね。

 うん、やっぱ、久しぶりに、田久保英夫の世界にふれてしまった。またもう少し、彼の作品を読んでみようか。



 

 

 

*1:おそらく、「タイトル買い」というのは、やったことはあると思うけれど。

*2:そのまま読まないで処分してしまった本が多いことは、言うまでもないし、『触媒』まで処分してしまって、今また読みたいんだけれど、残念なことをした。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050918

■ 2005-09-17(Sat)

[] 古典の新芽シリーズ Vol.01『舞踏の源流 文楽』  古典の新芽シリーズ Vol.01『舞踏の源流 文楽』を含むブックマーク

 これは、DMをいただいたとか、そう言うんではないけれど、ちょっと目に触れて、面白そうなので紹介しておきます。

Performance in Museum 古典の新芽シリーズ Vol.01
  『舞踏の源流 文楽』

 モダンなライブホールで演じる
 舞踏と文楽のコラボレーション

http://www5f.biglobe.ne.jp/~hallelujah/hana/butou.html

──────────────────────────────

日時/9月26日(月)

    【午後の部】16:00開演 【夜の部】19:00開演 ※2回公演
会場/東放ミュージックカレッジライブホールCROSS ROAD
    〔東京都新宿区西新宿5-25-8 03-5333-5080〕
    http://www.tohogakuen.ac.jp

入場料/指定席6,000円 自由席5,000円 学生2,500円

アクセス/都営地下鉄大江戸線「西新宿五丁目」駅下車 A1出口ヨコ

問合せ/オフィス・バン(伴野) tel&fax.078-822-2545

──────────────────────────────

[プログラム]

●舞踏「minimal」
  由良部正美(舞踏家)、谷川賢作(ピアニスト、作・編曲家)

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 谷川俊太郎の詩集『minimal』より「部屋」「影法師」「水」「夜」「歌」の 5篇をテクストとし、由良部正美の舞踏と谷川賢作の音楽が初共演。
 コトバと身体と音の また一つ 新たな交歓の場が誕生します。

●創作と新演出による「舞踏と文楽のコラボレーション」
 新作浄瑠璃「病める舞姫」(土方巽著)より&伝統に裏づけられた 人形遣いのファンタスティックなアクションパフォーミング

  作曲・演奏:豊竹英大夫(大夫)、鶴澤清友(三味線)

  振付・出演:由良部正美(舞踏家)、桐竹勘十郎(人形遣い)ほか

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 声を感じる、風土がしみてくる…ような土方巽のコトバ。
 言葉の意味だけでなく、音(響き)…としての文楽のカタリ。
 鍛えられた身体、伝承される技法…。

●トーク 「舞踏と文楽のあやしい関係」
  お相手:伊東有里衣(劇団プラネット代表)
  お話:豊竹英大夫、桐竹勘十郎、由良部正美、谷川賢作

●文楽
 「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」『渡し場の段』

  豊竹英大夫(大夫)、鶴澤清友(三味線)、桐竹勘十郎(人形遣い)他

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 人形遣いの多種多様な表現技法がたのしめる演目。
 愛する人が隠れた鐘を恋の炎で焼き尽くす「道成寺」の文楽バージョン、大蛇となって娘が川を渡るシーン。



舞踏の創始者 土方巽に影響を与えたものの一つに文楽があるといわれています。地を踏み床をはう舞踏…そこには天上に向かって跳躍する西洋のダンスとは明らかに異なる日本の芸能の原風景を観ることができます。

土方巽のシュールなコトバが、劇的音楽(浄瑠璃)で語られ、舞踏家の身体が舞い、人形遣いの所作(カタ)が独立して演じられる…。

世界のダンスシーンの中で異彩を放つ舞踏の原点を、文楽の新たな展開にて現代に蘇らせようとの試みです。
古典と現代のコラボレーション(融合)をおたのしみください。 伴野久美子

 ‥‥てなこと、らしいんですけれど、やっぱ、ここで気になるのは、桐竹勘十郎が、土方からインスパイアされた舞踏を(という言い方はおかしいか)、人形を使わずに身体一つで舞うらしい、という試みで、桐竹勘十郎は、この春に名古屋の方で、笠井叡の振り付けで、この時は人形を使って、上村なおかとか、Abe"M"ariaとかと共演していますね。

 桐竹勘十郎にとって、その時の体験が強烈だったのだろうか、先にこの試みは大阪で上演され(ま、文楽ですからね)、好評を受けて、この度の東京公演が実現したらしい。

 桐竹勘十郎は、いいですよね。吉田蓑助を継ぐものとして、一番注目されている存在、というか、その凛とした人形遣いは、文楽に描かれる世界のはかなさ、無情さを、時には抗いがたく崩れ落ちるように、時には運命に逆らうように力強く、舞台に華を咲かせる人ですよ。って、しばらく文楽も観ていないなぁ。

 これ、ちょっとチケットが高いけれど、観たいなぁ。


 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050917

■ 2005-09-15(Thu)

[] 『ビル・エヴァンス−ジャズ・ピアニストの肖像』 ピーター・ペッティンガー:著 相川京子:訳  『ビル・エヴァンス−ジャズ・ピアニストの肖像』 ピーター・ペッティンガー:著 相川京子:訳を含むブックマーク

[] 『Waltz for Debby』 Bill Evans Trio  『Waltz for Debby』 Bill Evans Trioを含むブックマーク

ビル・エヴァンス―ジャズ・ピアニストの肖像   Waltz for Debby

 ビル・エヴァンスの音楽が好きだ、と声に出したり、こうして書いたりしてしまうのには、ちょっとしたためらいがある。それはつまりは、エヴァンスの音楽の中の、なにか人間離れをした繊細さ、そんなものをわたしは理解出来るんだ、と、不遜にもあらわしてしまうような気になるから、かも知れない。ま、そんなことを言いはじめたら、ジャズ、という音楽の構造、特色からして、わたしには解っているわけではないのだし。いや、とにかく、ビル・エヴァンスの音の前では、出来る限り、謙虚になりたくなる。

 そういう、ビル・エヴァンスの、伝記本を読んだ。著者のイギリス人、ピーター・ペッティンガー自身が、プロのピアニスト(分野としてはクラシック音楽の人らしい)であると言うことから、エヴァンスの、音楽面の軌跡、へのアプローチをメインに持って来た伝記であって、おそらくはすべてのオフィシャルなアルバムについて、そして、数多くの海賊盤(みたいな発売のされ方をした)アルバムに対して、少なからずの言及があって、それはおそらくは、このかなり分厚い書物の、量的には2/3ぐらいを占めているんじゃないだろうか。そうそう、この本の巻末には、かなり詳しいディスコグラフィーも掲載されている。

 そんな記述から、もともとはクラシック音楽の分野からピアノを学んだ、エヴァンスという人への、クラシック音楽からの影響の大きさが読み取られる。かつては「即興」という要素も非常に大きかったクラシック音楽が、「即興」というモティヴェーションを捨て去ってから、永い時が経つ。エヴァンスの中には、そんな、忘れ去られてしまった、クラシック音楽からのアプローチとして、「即興」という世界に対峙した、孤高の音の響きが聴こえて来る。


 ビル・エヴァンスの生涯について、多くのことを知っていたわけではないけれど、まるで「死」に魅入られてしまったかのように、彼の周りを包囲する死の影、そのような空気は朧げながら知ってはいた。それは、1961年の、音楽的な意味では最高のパートナーであったスコット・ラファロの交通事故死、1973年の、長く実生活でのパートナーであったエレインの自殺*1。そして、決定的な、1979年の、兄ハリーの自殺。そして、まさしくドラッグ漬けの彼自身の生涯と、壮絶な、早すぎる死。

 このピーター・ペッティンガーの伝記では、彼の死に触れて、「彼の死は、歴史上一番時間をかけた自殺だった」、との、知人のことばを引用しているが、特にその最晩年についての記述、来る日も来る日もライヴ、その凄まじさは、読んでいても、「もう頼むから休んでくれ!」と言いたくなってしまったりする。最終章などを読むと、彼は間違いなく、そのままでは自分が死んでしまうことを承知で、過密なスケジュールに飛び込んで行っている。

 ジャズ・アーティストによくあるように、ビル・エヴァンスにも、実に多くのライヴアルバムがある。でも、やはり、というか、エヴァンスには、ある意味では、観客の存在は、ただ自分と「音楽」との対話の邪魔をする存在でしかなかったようだ。晩年には、ステージ上から観客に向けて、曲のあいだの拍手はやめてくれ、などと求めたこともあったようだ。

 そんな彼のことを思いながら、ヴィレッジ・ヴァンガード*2での1961年のライヴ、名作『ワルツ・フォー・デビー』を聴く。

 よく深夜に新宿とかのバーで飲んでいて、そんな店はジャズとかをかけていて、ふいにこの『ワルツ・フォー・デビー』の一曲目、「My Foolish Heart」が流れて来たりしたら、それまで、前に座る人と続けていた会話を続けることが出来なくなり、「やばい!」と言って、黙り込んでしまったりしたもんだ。いきなり、一曲目がこの曲、というのはズルい。これが、最初の曲が、実際には二曲目の、「Waltz for Debby」だったりしたら、このアルバムへの対し方も、ずいぶん違っていたことだろう。

 このアルバムは、知られているように、最初のビル・エヴァンス・トリオの初のライヴ・アルバムとして録音されたもので、この録音の10日後に、ベーシストのスコット・ラファロは交通事故で他界し、エヴァンスを、しばらく音楽活動から遠ざけさせる結果にもなってしまった。

 ここで、このアルバムにおさめられた美しい音の連なり、これはやはり「リリシズム」という言葉であらわしていいと思うけれど、そんなリリシズムの基調を作っているのがエヴァンスのピアノだとしても、このトリオ、エヴァンスとラファロ、そしてドラムスのポール・モチアンの3人の類い稀なコラボレーション音楽は、その表面的な甘美さを通り超えて、他に類をみない、クールな、汗をかかない、体臭の匂ってこない(妙な言い方だ)緊迫感を生み出していると思う。

 一般に、このライヴでは、エヴァンスのピアノとラファロのベースばかりが賛美されているような印象もあるけれど、わたしは、ポール・モチアンのドラムスも大好きだ。特にそのブラッシュ・ワークの、繊細な美しさ。

 だから、また、この『ワルツ・フォー・デビー』を、一曲目から聴く。

 密やかに、小さく一つのピアノのキーが叩かれて、その音に続いてすぐに、ベースの音と和して最初のメロディラインが奏でられる。言葉に表せない絶妙の導入部。シンバルへの細かいストロークで、なだれるようなリズムが付加されて、少し突っかかるように、少しどもるように。そうして、客席からの咳払いの音が紛れ込み、その録音された「場」の空気を、いやおうもなくスピーカーから伝えてくる。ぱしゃっと、ピアノの音が力強く自己主張をすると、ベースも、まるでそこに秘密の会話が行われているように、テンポを微妙に調整しながら、片手が波打つようにメロディラインをサポートし、もう一度基本メロディが、より力強く、より重厚に、その繊細なタッチを失わないままで繰り返される。ベースラインは、そんなピアノの音について行こうとしているのか、もう自分だけの道を進んでしまおうとしているのか、そのように逡巡しているのだろうか。風にそよぐカーテンのようなサビの部分で、空気がリフレッシュされ、ドラムスが、硬い音を、しかるべき場所に挟み込む。
 もつれて、こんがらがりそうになった糸を、もう一度巻き直すように、一瞬、三人がバラバラになろうとするようで、またそこから、さっきまでの親和性を取り戻そうとする。
 まるで心ここにあらず、と、聴く人に感じさせるかのように、空中分解するようにはらはらと「My Foolish Heart」が終わり、観客からのまばらな拍手が聞こえて来る。

 「Waltz for Debby」、また、その最初の音。ちょっとだけ遅れて、ベースとしては異様な高音でラファロがエヴァンスに寄り添う。どちらがどちらの伴奏、などという音作りからはるか離れて、二つのラインが平行線を取りながらも、それでいてなぜか、いつのまにか交差して行くように。密やかな交感をひとときかわし合い、モチアンのドラムスがスゥイング感を盛り立て、一度音がばらばらに降り注いでしまってから、この三人が、実に楽し気に、音の場を作り上げる。というか、やはりここでのスコット・ラファロのベースは圧倒的にすごい! そこに対抗するかのように、エヴァンスの、ストロークの強いキー・タッチ、一音一音に力のこもったライン。ラファロのベースが前面にフィーチャーされ、アクティヴで印象的なプレイを聴かせてくれる。あらゆる所で、音がバラバラに解体される寸前まで突っ走りそうに見せかけながら、絶妙にコントロールされる。

 結局、このあとの「Detour Ahead」を含め、皆が皆すてきな、すてきすぎる演奏なわけで、こんな感じで書き継いで行っていたらキリがない。だから、書くのなんかやめて、このままこのアルバムを今夜は聴き続ける。

 ‥‥1980年、9月15日、ビル・エヴァンス、死去。今夜は、その、25年目の夜。


 

 


 

*1:哀しいことに、エレインの自殺は、エヴァンスに別れを告げられた直後に実行され、エヴァンスはその後の数週間の狂乱状態を、兄の慰めのもとにやり過ごしたらしい

*2:もちろん、これは日本のサブカル系の雑貨屋の、店の名前ではない。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050915

■ 2005-09-14(Wed)

[] 『AMEBIC(アミービック)』 金原ひとみ:著  『AMEBIC(アミービック)』 金原ひとみ:著を含むブックマーク

AMEBIC

さあ私の太陽神よ
舞い上がれ
安宿に泊まる
私を照らせ

 これ以上シンプルにしようはないだろうというように、濃いオレンジに黒く、書名と著者名が印されているだけ。また造本は菊地信義の仕事だった。

 冒頭の、「錯文」と名付けられた文に軽い酩酊を起こし、そのうちに笑い出してしまった。一種、アブサンに酔っての、「チョー口語体現代語作文」と言えばいいのか、かつてシュルレアリストたちが試みた「自動筆記」の、キーボード的展開と言ってもいいのか、ま、よく読むと抑制を効かせ過ぎている気もするけれど、やはり金原ひとみはやってくれる。

 ただし、ここで展開される「物語」に関しては、今まで以上に疑問符が付きまとってしまうのも確かで、今回は、彼女自身ではないかと思われるような文筆業の女性を主人公に、その彼女のちょっとした妄想まみれ(?)の日常が描かれるわけになるのね。

 かなり昔、原一男のドキュメンタリー、『全身小説家』を観た時に、ま、その作品の主人公は井上光晴だったのだけれども、まぁ、小説家って言うのは、住む世界の狭い、ずいぶんと可哀想な職業だなぁ、って感想しか持てなかった覚えがあるけれど、作家として順風満帆(なのだろう)の金原ひとみも、この第三作にして早くも、そんなティピカルな文筆家稼業的な生活様式にどっぷり、といった世界を書いてくれたって感じ。

 この作品に出てくるのは、場所としては自宅〜タクシー〜森ビルに限られ、人物は、主人公とその担当編集者、そしてその婚約者、かな? あ、あと、あれこれのタクシー運転手たち。正直言って、ここで展開される表層のストーリーはまるでつまらない。文章として、「対話」の貧困さは、前から気にはなっていたけれど、ちょっと一層に拍車がかかった感じ。ま、彼女の場合、他者との「対話」とは、自分の内面と向き合う、内的な対話の対極として位置付けられているような所もあって、それは内的な対話の豊穣さとの対比で、意識的に貧しいものと設定されているフシもあるのだけれども。

 ただし、この書物のすばらしいのは、その50ページめあたりから約10ページ展開される、「死を想像して背中に悪寒が走る事もあれば、その未知の想像に夢膨らませる事もある。私の未知、それは誰も知らず、私も知らない。」と書き出される独白の、その圧倒的な力であって、自分の身体と精神をめぐる、一種クローネンバーグ的な、混沌とした、これはもう「詩」と呼んでいいのではないか、いや、そこまで「詩」を持ち上げることもないけれども、つまるところ、この10ページだけを、繰り返し何度も読み返したくなってしまう。あとは、瞬間瞬間のひらめきはあるとはいえ、ほぼどうでもいい。

 だから、また、彼女の新作が近い将来に活字になれば、またわたしは読みたくなってしまうだろう。


 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050914

■ 2005-09-12(Mon)

crosstalk2005-09-12

[] 『幕末太陽傳』 監督:川島雄三  『幕末太陽傳』 監督:川島雄三を含むブックマーク

 1957年の作品。わたしは落語については全くの門外漢なので、この作品の元ネタにいくつかの古典落語が使われている、と聞いても、どこでどういう風に何が使われているかなんか、解るわけはない。でも、ま、そう言われてみれば、はめ込まれたいくつかの挿話などは、そんな落語から取られたのだろう。全編を彩るそんな洒脱軽妙さが楽しい作品で、それはもう、「いよ!主演男優賞だね!」と声をかけたくなる、フランキー堺の名演によるところも大きいと思うな。あ、先に出演者たちの事を書いておくと、とにかく、石原裕次郎でしょ、南田洋子でしょ、左幸子でしょ、小沢昭一でしょ、それから、小林旭、二谷英明、金子信夫、殿山泰司、芦川いずみ、岡田真澄、その他その他と、俳優の名前を書いているだけでキリがない。

 わたし的には、出番の意外と多かった小沢昭一の、ちょっとした怪演ぶりが楽しかったし、郭の内庭での南田洋子と左幸子の乱闘シーン(!)もあっぱれで、特に南田洋子のはっちゃきぶりはお見事、って感じ。この乱闘シーンは、庭のシーンをクレーンで上から俯瞰して撮影していて、そのケンカがいつのまにか郭の二階に場所を移して行くのを、スルリとワンカットで収めてしまうのなんか、映像として素敵だったわ。

 物語は要するに、幕末の品川を舞台にして、金もないのに遊廓でどんちゃん騒ぎをやらかして、支払いの代わりに遊廓に居残って、あれこれの雑用を引き受ける「居残り佐平次」が、それこそあれこれの雑用をさっさと解決してしまう、ってな話。ここに女郎たちや町民たち、そして維新前夜の志高ぶる長州藩士たちがからんでの、その時代と、時代の中での生活感溢れる、いきいきとした作品に仕上がっているんだと思う。

 長州藩士たちが持っている、高杉晋作(石原裕次郎)が上海で手に入れたという懐中時計が、小道具としてうまく使われていて、映画の冒頭で落ちているその懐中時計を佐平次が拾ったところで、映像は現代の品川の*1ニュース映画のような映像に切り替わって、そんな現在の品川の様子を伝えるナレーションをバックに、クレジットが映される。ま、時計がまさしく時を超えるような感じで、長州藩士たちが壊れた時計を修理出来ないのに、佐平次がひょうひょうと修理してしまうのなども、製作者たちが、町人のパワーの中にこそ歴史を動かす力をみていた現れなんではないか、などとも思ってしまう。おっと、この作品の脚本には今村昌平も関わっていたんだ。

 ただ、この主人公の佐平次がなぜか労咳を病んでいて、しょっちゅう自分で煎じた薬を飲んでいるし、色事は絶っているし、あまり長生き出来ないだろうよ、って暗示されるんだけれども、そんな、ドラマとしてむずかしくなってしまうような設定をなんで選んだのか、そこがよく解らなくって、どうもそんな事を知ろうとすると、この作品が製作された当時の時代背景、世相なんかも関係して来ているように思えてしまって、まだ六十年安保には3年ほど早いし、朝鮮戦争の特需なんかから、高度経済成長の道を歩み始めた頃でしょ? ま、ちょっと調べてみたい気になってしまった。


 

 

 

*1:といっても、この映画製作当時の品川で、時はちょうど売春禁止法施行前年なのさ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050912

■ 2005-09-11(Sun)

[]【速報】トリスタン・ホンジンガー追加公演! 【速報】トリスタン・ホンジンガー追加公演!を含むブックマーク

 「Eventのお知らせ」というカテゴリーを作ってみました。前回の花上さんのパフォーマンスも、このカテゴリーに入れちゃいます。って、もう終わってるって。

 今回は、トリスタン・ホンジンガー公演の追加情報、しかも、猿山さんとの共演です。

 トリスタン・ホンジンガーは、80年代に来日した時に、何度かそのライヴに足を運びましたね。視覚的なパフォーマンスの要素も強い、ユーモアを感じさせるライヴとして記憶に残っていますし、近藤等則との共演アルバム(Yレコードからリリースされた、スティーヴ・ベレスフォードやデヴィッド・トゥープを含めた4人での「Immitation Of Life」、それから、Disk Unionからの「What Are You Talking About?」など)での、いかにも80年代らしい実験精神に富んだ音造りも刺激的でした。今でもわたしのお気に入りのアーティスト、なんですけれど、そう、来日してるんですよね。

 今回共演する猿山修さんは、わたしが最初にグループ展を企画した時から参加してもらっているアーティスト。おそらくは今では、演出の藤田康城さん、俳優の安藤朋子さんらとのユニット、ARICAの音楽担当として一般にも知られていると思います。彼のきっちりと構築された音世界と、トリスタン・ホンジンガーの実験的な音世界が一緒になって、いったいどんな世界を聴かせてくれるんでしょう。もうものすごく興味があるんだけれども、例によってわたしは行けません。って、明日じゃん!

 えっと、皆、行くように。

 以下は猿山さんからのメールの引用です。

フリージャズ第一世代に属する屈指のチェリスト、トリスタンホンジンガーの追加公演を決定しました!お見逃しなく!!

9月12日(月)

開場 19:00 開演 19:30

入場料【 !!!! 】1500円 (1ドリンク付)

ソロ:トリスタン・ホンジンガー(vcl)

トリオ:トリスタン・ホンジンガー(vcl)、向島ゆり子(vln)、猿山修(contrabass)

トリスタン・ホンジンガー:チェロ即興演奏家、チェリスト、作曲家。1949年アメリカ・バーモント州に生まれる。9歳からチェロを始める。1965年にアメリカを離れヨーロッパに居 住。以来デレク・ベイリー、ハン・ベニング、セシル・テイラーなどと共に即興一筋。ヨーロッパ即興音楽のシーンを支えてきた一人でもある。これまでに、ソロ活動やグローブユニティオーケストラの一員として、数回来日している。1980年代より音楽演奏者によるミュージック・シアターの試みも行ない、ダ ンス、演劇の音楽を多く手がける。現在オランダの即興演奏グループ「ICPオーケストラ」のメンバー。現在ボローニャ近郊の山村で暮らしている。


開場:スーパー・デラックス

〒106-0031 東京都港区西麻布 3-1-25 地下1階

tel 03-5412-0515  fax 03-5412-0516

http://www.super-deluxe.com



トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050911

■ 2005-09-08(Thu)

[] ハリケーン「カトリーヌ」のワニの話は書いてません。  ハリケーン「カトリーヌ」のワニの話は書いてません。を含むブックマーク

 えっと、どうやら「ハリケーン」+「ワニ」の検索結果として、ココを訪れて下さる方が急増しているようですが、ニューオーリンズにあらわれたという人食いワニの話はココでは書いていません。どうぞ、他の検索結果をおさがし下さいますように。

 (原因は時事通信社の以下のニュースですね‥‥)

http://news.goo.ne.jp/news/jiji/kokusai/20050907/050906194307.uyg07gtc.html

 それから、時々検索対象になっているらしい「ワニ」+「獣姦」に関しても、御期待に添えるような記述は、ここにはありません。あ、金原ひとみについて書いた時に「獣姦」という単語を使ってしまったからだな。

 以上、とりあえずお願いまで。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050908

■ 2005-09-05(Mon)

[] Alex Chiltonが行方不明?!  Alex Chiltonが行方不明?!を含むブックマーク

 アメリカを襲ったハリケーン「カトリーナ」の被害は、想像もつかないような、とんでもないことになってしまっているようで、何日も前から「史上最大の猛烈な台風」みたいに報道されていたのに、なんでこんなことになってしまうのか、事情は解らないけれども、アメリカ政府の対応については、これからも議論を呼ぶんだろう。言い方は悪いけど、このハリケーンは、前もって攻撃されることが予測されていた「テロ」と言ってしまってもいいでしょ?それでこれだけの甚大な人的被害を出すなんて、どうなんだろう?

 最大の被災地ニューオーリンズは、多くのミュージシャンの活動の拠点でもあって、ネットなどでニュースを閲覧していても、ネヴィル・ブラザーズは事前によそに避難していて無事だったとか、アラン・トゥーサンが連絡がとれないとか、ミュージシャンがらみのニュースが流れている。そんな中で、「うそ!」というようなニュースが届いて来た。

 http://www.smh.com.au/news/world/fears-for-fats-domino-and-alex-chilton/2005/09/02/1125302739005.html

 これは3日のニュースだから、これ以降新しい知らせがあるのかも知れないし、実際にこのニュースで触れられているファッツ・ドミノの安否は、このあとに無事が確認されている。でも、アレックス・チルトンが!!!

 アレックス・チルトンは、わたしのもっとも敬愛するミュージシャンのひとりでありまして、去年の暮れにも、ここについつい長文を書いてしまった。今年に入ってから、かつてのバンドBig Starの再結成のニュースもあり、その新作も本当にもうじきリリースされるはずなんだけれども。

 絶対に無事で居て欲しい!

 それほど知名度の高い方ではないので、このまましばらく新しい情報が得られない事も考えられるけれど、その無事を、一刻も早く、ここにいて確認したいのです。

 無事で居てくれ。アレックス。

 

 

 

crosstalkcrosstalk 2005/09/06 02:53 お騒がせいたしました。無事が確認されたようです。‥‥よかった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050905

■ 2005-09-03(Sat)

[]ま、どうっていう事もないけれど。 ま、どうっていう事もないけれど。を含むブックマーク

 先日紹介した花上直人さんのパフォーマンスに、id:mmmmmmmmさんが出かけて下さって、レポートを書いて下さいました。とってもうれしいです。って、「指輪ホテル」とのジョイントだったなんて、行きたかったなぁ。

 最近も、それなりに、本を読んだりヴィデオを見たりしてるんだけど、ココに書くまでの気力が出ないのね。

 本は、矢作俊彦の『あ・じゃぱん!』(分厚い!)とか読んだけど、主人公がTVレポーターという、ある意味特権的なところからの視点が、最後まで面白さを感じさせてくれなかった。ちょっと『薔薇の名前』みたいなところもあって、そういうアプローチが徹底されていたらもっと面白く読んだかも知れない。でも、それなら奥泉光でいいか。

 あと、リチャード・フラナガンという人の、『グールド魚類画帖』という本を読みはじめたけれど、発想は面白そうだったけれども、読んでいて何が面白いんだかさっぱりわからなくって、50ページほどで放棄。

 青山真治の小説版『ユリイカ』も読んだ。映画からはみだした部分が含まれている、というのが「売り」なのかも知れないけれど、その「はみだした部分」が、大きなクエスチョン・マーク。それでいいのか?という感じ。ただ、映画では映像から読み取るしかなかった部分が、ある意味平易に記述されているので、テーマとかしっかりとよく解ったし、読んでよかったと思う。改めて感想文を書くかも知れない。

 ヴィデオは、また、ジョン・ヒューストン&ボガートの『キー・ラーゴ』とか。エドワード・G・ロビンソンの見事な悪役振りとか、若き日のローレン・バコールの強烈な魅力にノックアウトされた。

 それから、1933年版の『キングコング』。きゃ、人を齧って、いたぶり殺すシーンが入ってるヤツだ。しかし、この作品は大好きなのね。わたし。何回見た事やら。ピーター・ジャクソンのリメイクも楽しみだけど、ま、オリジナルは超えられないでしょう。でも、33年版のヒロイン、フェイ・レイに対抗するのが、今回はナオミ・ワッツというのはいいですね。フェイ・レイ、つい先日お亡くなりになったのですね。大往生でしょうか。日本のロックバンドのバンド名になってしまっているのをご存知だったかどうだか。

 音楽がらみで、この映画であと思い出すのが、Jefferson Airplaneの「Live at Fillmore East」というライヴ・アルバムの冒頭に、この『キング・コング』のラストシーンの音声がかぶっていた事で、ひょっとしたら、いや、おそらくは、そのライヴ会場でこの映画(ラストシーンだけ?)が上映されたいたんだろう。このアルバムは何度も聴いたから、この台詞も憶えてしまった。最後に、警官が、キングコングをニューヨークに引っ張って来た張本人に向かって、「Mr.****(名前忘れた),the airplane's got it!」って言うんだけど、それに答えて、

Oh,no! It wasn't the airplane,'Twas the beauty that killed the beast.

 ‥‥って言うんだよね。はは、名文句。

 

 しばらく映画館で映画見てないから、暗闇の中で、スクリーンに投射された映画を見たいです。

 

 

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20050903
   3039100