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■ 2005-12-29(Thu)

Shimodate-sunset

[]「ウォータールー・サンセット」キンクス 「Waterloo Sunset」 by The Kinks 「ウォータールー・サンセット」キンクス 「Waterloo Sunset」 by The Kinksを含むブックマーク

 キンクスは大好きだよ。来日公演は毎回行った。でも、いつも、この「Waterloo Sunset」を、わたしの前で唄ってくれたことはなかった。うん、鼻歌で流してこちらの気をじらせてくれたことはあったし、わたしが行かなかった日に限って、セットリストにこの曲名が並んでいたりした。

 キンクスがいいのは、日常を袂に手繰り寄せて歌にする力と、ポップ・バンドには希有なことに、一種の「喪失感」のようなものを唄える、ということかなぁ。だからこそ、パンクの時代にも彼らパンクな連中から切り捨てられることもなかったし、ある種のリスペクトも与えられていたんじゃないかな。いや、もちろん、「You Really Got Me」なんてぇのは正しくパンクの衝動ではあるのだけれども。

 キンクスの音楽性は多岐に富んでいて、ハード・ロックの開祖でもあり、フォーキーな泣かせ節も聴かせるし、ヴォードヴィル・タッチのノスタルジックな音作りも、他の追随を許さない。そんな中で、この「Waterloo Sunset」は、センチメンタルなポップ・チューンとしては最高の音作りを聴かせてくれる傑作で、物憂げなメロディとレイ・デイヴィスの歌声、それにからむ美しいコーラス(ビーチボーイズ的でもあるのだけれども)とバンド・サウンドが、ポップ・チューンでもここまでの世界をあらわすことができるもんだ、と、感嘆させられる。

 この歌の中に出てくる「テリー」と「ジュリー」という人物は、当時レイ・デイヴィスが見た、トマス・ハーディー原作の『遥か群集を離れて』の映画、それに出演していたテレンス・スタンプと、ジュリー・クリスティの事だと聞いたことがある。わたしはこの映画を見ていないし、原作を読んでもいない。でも、レイ・デイヴィスという人には、いつも、イギリス文学の伝統の中に自分の居場所を探すような視点を感じてしまう。いや、そんな大げさなことではなく、心象風景として、自分の部屋の窓から見える光景と、映画で見たシーンとをダブらせるような視点に、共感してしまうのだ。大好きな曲。


汚れた古い河よ、
Dirty old river
流れつづけよ。
Must you keep rolling
夜の中へ。
Flowing into the night

人々は忙しそうで、
People so busy
ぼくはめまいがしそうだ。
Make me feel dizzy
タクシーのあかりも眩しい。
Taxi lights shine so blight

でも、ぼくは友だちなんかいらない。
But I don't need no friend
ウォータールーからの日暮れをながめているあいだは、
As long as I gaze on waterloo sunset
ぼくは楽園にいる。
I am in paradise

毎日この窓から外を見ているんだ。
Everyday I look at the world from my window
夕方になると肌寒いけど、
But chilly, chilly is the evening time
ウォータールーの日暮れは素敵だ。
Waterloo sunset's fine

テリーはジュリーと、
Terry meets Julie
ウォータールー駅で落ち合うんだ。
Waterloo station
毎週金曜日の夜に。
Every friday night

でもぼくはものぐさで、
But I am so lazy
誰の所にも行きはしない。
No one to wander
夜は家にいるんだ。
I stay at home at night

でもぼくは恐れたりしない。
But I don't feel afraid
ウォータールーからの日暮れをながめているあいだは、
As long as I gaze on waterloo sunset
ぼくは楽園にいる。
I am in paradise

毎日この窓から外を見ているんだ。
Everyday I look at the world from my window
夕方になると肌寒いけど、
But chilly, chilly is the evening time
ウォータールーの日暮れは素敵だ。
Waterloo sunset's fine

たくさんの人たちが、
Millions of people
まるで蠅のように群がっている、
Swarming like flies around
ウォータールーの地下。
Waterloo underground

でも、テリーとジュリーは河をこえて、
But Terry and Julie cross over the river
ふたりだけの場所に行く。
Where they feel safe and sound

彼と彼女も友だちなんかいらない。
And they don't need no friend
ウォータールーからの日暮れをながめているあいだは、
As long as they gaze on waterloo sunset
彼と彼女は楽園にいる。
They are in paradise

ウォータールーの日暮れは素敵だ。
Waterloo sunset's fine

 ‥‥わたしは、この下館の、自宅近くの橋から見た夕暮れの光景を、ずっと自分の記憶に留めることにして、そのBGMにこの曲を当てはめることにした。これから何度、わたしの人生でこの曲を聴き返すことができるだろう? できれば、この曲を聴き返すたびに、下館の橋の上から見た夕景を思い出したいと思っている。

 

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■ 2005-12-28(Wed)

[] 『除夜舞 28周年』に行くよ、わたしは。  『除夜舞 28周年』に行くよ、わたしは。を含むブックマーク

 ここへきて、Derek Baileyの訃報が飛びこんできました。結局、彼のライヴには一度も行かないままになってしまいましたが、特に、彼とJamie Muir(ex. King Crimson)とのデュオ、「Dirt Drug」は、大の愛聴盤でした。って、いつのまにかなくなっちゃったんだけど。いや、追悼。

 彼の名著『インプロヴィゼーション』の翻訳者でもあり、大正琴の革新的奏者として、日本のアヴァンギャルド音楽のコーディネイターとして、日本のデレク・ベイリーと呼ぶにふさわしい、竹田賢一さんが、この大晦日の「除夜舞」に参加されます。

 「除夜舞」は、舞踏家徳田ガンさんのプロジェクトとして、この28年間、かかさずにキッド・アイラック・ホールで、大晦日から新年にかけて開催されているイヴェントです。すごい!28年!

 わたしは4〜5年前にいちど、このイヴェントに行ったことがありますけれど、異なるジャンルのアーティストのコラボレーションとして、ものすごく興味深いイヴェントでした。あ、その時も竹田さん、岩名さんなどの顔ぶれだったなぁ。

 えっと、今、とっても竹田賢一さんの音が聴きたい気分になっているので、わたしも多分これに行きます。で、竹田さんにデレクの憶い出話などを聴こうかしら。新しいキッド・アイラック・ホールは初めてだな。

 ちなみに、順番としては、竹田さんはしょっぱなに出て来られるそうです。


KID AILACK ART HALL PRESENTS

除夜舞 28周年  



光陰は、百代の過客なり・・・
僅かにも 定めし命 残りたり・・・
育み思ひて 行かましものを・・・


2005年12月31日(土)夜9時10分より
2006年1月1日(日)  深夜1:00頃まで

料金 前売り、当日共 2500円

於 キッド・アイラック・アート・ホール
(京王線・京王井の頭線「明大前」駅下車2分)


0時まで、それぞれのジャンルの作家による行為作品です。
0時新年より、観客をも含む即興コラボレーションです。


出演者 竹田賢一(音楽)

    菅原顕一(演劇)
    ヒグマ春夫(映像)
    鬼沢順子 (一人芝居)
    岩名雅記 (舞踏)
    若尾伊佐子(ダンス)
    徳田ガン (舞踏行為)



予約・問合せ
キッド・アイラック・アート・ホール
〒156-0043 東京都世田谷区松原2-43-11
TEL03-3322-5564/FAX03-3322-5676


 

 

 

 

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■ 2005-12-25(Sun)

crosstalk2005-12-25

[] 『キング・コング』 ピーター・ジャクソン:監督  『キング・コング』 ピーター・ジャクソン:監督を含むブックマーク

 以前書いたことがあるように、わたしにとってこの『キング・コング』のオリジナル、1933年の作品は特別に思い入れのある作品であって、この作品をはじめてTVで見た8〜9歳の時以来、プログラムを見逃さない限り、放映されるたびに見て来たし、そのあとは、ヴィデオに録画して何度も何度も見た。

 この映画には、いったいどんな魅力があったんだろう?

 それは、子供の胸を踊らせるような、地図にない南海の孤島への冒険譚であり、図鑑ではその姿を知っていた古代巨大生物たちが動き回り、殺し合うような、見たこともない世界であり、そして、巨大モンスターが文明都市にやって来てあばれまわる、その後の怪獣映画の原点であり、わたしにとっては、特殊撮影やストップモーション・アニメーションとの、観客としての初めての出合いだったんだ。

 ちょうどわたしがTVで『キング・コング』を見た頃に、日本ではその『キング・コング』にインスパイアされた円谷英二による『キングコング対ゴジラ』が公開された時期で、もちろんわたしは親にせがんで映画館に連れて行ってもらったのだけれども、基本的に着ぐるみの中に人間が入って、ミニチュアのセットの中で芝居をする日本の怪獣映画は、それは、アメリカの『キング・コング』とはあくまでも「別物」として、わたしの目には写った。

 そして、30年ほど前に(え?もう30年も経つのか)、この『キング・コング』はハリウッドでリメイクされ、ま、それはジェシカ・ラングのデヴュー作でもあったんだけれども、現代に舞台を移し、石油を求めて孤島を訪れるという設定にはなんかロマンがないし、何よりもその「髑髏島」が「ロスト・ワールド」ではなくなっていて、わずかに大蛇が出て来てコングと戦うぐらい、というのが圧倒的に淋しかった。ただし、この作品では、コングとジェシカ・ラングとの情の通い合いは強く前面に出されて、よりこの物語の悲劇性が強調されていたんだけれども。

 ってわけで、この2005年版、ピーター・ジャクソンによる『キング・コング』である。オリジナル(33年版)にかなり忠実、というか、オリジナルへのリスペクトに溢れた作品になっているとの前情報もあり、わたしの期待は高まっていた。って、TVで聞いた情報では、監督のピーター・ジャクソンも、33年版の『キング・コング』は、幼い頃に見て以来何度も繰り替えし見て、それは彼の映画への思いの原点なのだそうだ。うわ、わたしと同じような「コング体験」だな。いや、わたしとピーター・ジャクソンを比べてもどうしようもないが。ちなみに、わたしは『ロード・オブ・ザ・リング』はひとつも見ていない。

 さて、そのような次第で、ついにスクリーンで観て来ましたよ。2005年版『キング・コング』。三時間を超える長尺。途中でトイレに行っちゃいましたよ。あ!大事なところ見逃してるかも知れない!

 まず、観終わっての全体の感想をいえば、満腹感はあります。33年版の基本線は動かさず、かつてのストーリーを補完するようなディテールを付け加え、お話としての面白さに満ちている。それは、コングさえも含めて、登場人物が皆、予測も出来なかった運命の展開に対して、より積極的に働きかけて行動してるなって印象で、物語として骨太な力強い印象がある。そして何より、聞いていた33年版へのリスペクトの思いがずんずん伝わってくる。あぁ、このシーンはそっくりそのまま残してくれたんだ、とか、こんな形で33年版を引用するんだという驚きとか。
 いや、でもね、33年版から改変された部分、追加された部分の中には、「そんなことやらなくてもいいじゃないか」と思ってしまう部分もあるし、「変なの〜」という、ピーター・ジャクソンのテイストが濃厚な部分もある。それはどうしてもこの作品を、33年版オリジナル・コングのピーター・ジャクソン版ヴァリエーションという位置に留めるのであって、結局わたしはこれからも、やはり33年版のオリジナル『キングコング』をこそ、めでつづけることになるだろう。

 いちばんの不満を先に書いておくと、あのね、コング、動きが早すぎます。いや、コングに限らず他の恐竜とかも皆、髑髏島の秋の大運動会みたいに駆け回ってるんだけれども、特に、コングのモデルをストレートにマウンテンゴリラ(?)という既存の生物に持って来たのは、違うんじゃないのかなぁ。他の恐竜とかは、この映画だけのオリジナル恐竜を作っちゃってるらしいのに。もっとゆっくり、威厳を持って動いてよ、って感じ。それで、アン・ダロウ(これはナオミ・ワッツの演じたヒロインの役名)を振り回しすぎ。あれじゃコングがアンを拉致して2〜3分で、アンは首の骨折って死んでますよ。まるで、アン・ダロウでカクテルでも作ろうかって勢いでシェイクしてましたからね。

 そう、基本は同じ題材の映画、というか、まずは33年版コングがあってこその今回の『キング・コング』なんだから、記憶を頼りに、この両者を比べてみましょうではありませんか。

 まずは、33年版と2005年版とで、まったく同じところ。

●店頭の果物を盗もうとするアン・ダロウをカール・デナム(ジャック・ブラック)が見つけ、カフェに連れて行き島の同行を同意させるシークエンス全体。

●島民にアンがさらわれたことがわかり、船長が武器庫の鍵を外し、全員に銃を配るシーン。

●コングが谷にかかる大木の橋を持ち上げて、船員たちを谷底に振り落とすシーン。

●コングがティラノザウルスのような恐竜と戦い、恐竜の口を裂いて倒すシーン(このシーンは、かなり細かいところまでオリジナルと同一だった。ってぇか、このシーンはある意味でオリジナルの中盤のクライマックスだったから、ここまで忠実にやってくれたのはうれしい。おっと、恐竜の鳴き声は違ったな。)。

●島の高台から、ジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)がコングの目を掠めてアンを助け出すシーン(ここは鳥の役割がちょっと違うんだけれど、ま、同じ)。

●ニューヨークの劇場で、カール・デナムが緞帳の前でコングを紹介する口上(ひょっとしたらセリフは違ってるかも?)。

●ラストのカール・デナムのセリフ!

 うーん、他にもあれこれあるのかも知れないけれど、わたしの記憶では、両者同一だったシーンはこのくらいかな。あとは、ラストのエンパイア・ステート・ビルのてっぺんでの戦闘機との戦いみたいに、シチュエイションは同一でもかなり改変している部分というのは数多い。


 で、オリジナルと全然違うところ。これはもちろん山ほどあるんだけれど、大きなところで。

○アン・ダロウ、カール・デナムの、オリジナルでは語られなかった背景(役者、映画監督としての)が冒頭に提示される。

○ジャック・ドリスコルは、オリジナルでは船員だったけれど、今回は脚本家。

○島への船上での展開。主役男優(結構イイ味)とかいるし。でもな、コンラッドの『闇の奥』は違うだろうって。

○髑髏島への入り方

○谷底の虫!というか、髑髏島で登場する恐竜類全般が違う(ここには結構不満あり)。

○島民と船員が、いっしょにコングを相手に戦ったりしない(島民の出番は全体に少ない)。

○ニューヨークでの展開のほとんどが、オリジナルと違う。って、セントラル・パークでデート、かよ!!!(ここにも多少不満あり)

 もちろん、コングとアンとの付き合い方(?)もまったく違うんだけれども、ま、これは今回のリメイクの本質的なところですから。

 そして、はっきりと明示された、33年版へのオマージュに富んだシーンがあって、わたしが気がついたのは以下の二つ。

◆カール・デナムが出演女優を探すところで、いろんな女優の名をあげてそのスケジュールを確認する最後に、カールが「フェイ・レイは?」と聞くと、「彼女は今RKOで撮影に入ってます」との答えが返ってくる。もちろん、フェイ・レイはオリジナルのアン・ダロウ役女優で、ここで撮影中とされたRKOの作品こそ、33年版オリジナルの『キング・コング』に他ならない!

◆ニューヨークの劇場でのコングお披露目の冒頭は、ちょっとしたショー形式になっているけれど、ここで演奏される曲こそはオリジナル版の音楽であり、島民の儀式で派手に鳴り響いていた曲。そして、オリジナル版の島民のメイク、ダンスがこのショーの中で引用/再現されている。いやぁ、個人的にはこのシーンがいちばんうれしかったですね。だって、33年版オリジナルでのあの島民の衣装、メイク、ダンスは、完全に当時の西欧視点からのゆがみの入れられたものであって、今回のリメイクで、あれをそのまんま再現するのは考えられなかったし。そうか、こうやって使ったかぁ。

 余談だが、怪獣映画の音楽といえば、有名な伊福部昭の『ゴジラ』の音楽があるけれど、この『キング・コング』のオリジナル版の音楽もわたしは大好きで、その途中のフレーズは、『ゴジラ』の音楽にもちょっと影響を与えてるんじゃないかと、わたしはひそかに思ったりしている。ちなみに(余計なことだが)どちらも「替え歌」、というか、歌詞を付けることができる。『ゴジラ』のは、

 ゴジラ、ゴジラ、ゴジラがまた出たぞ! ゴジラ、ゴジラ、ゴジラがまた出たぞ!

 を、永遠に繰り返す。コングのはね、

 そ〜らでーてーくーるーぞ! そ〜らでーてーくーるーぞ!(出てこい!出てこい!もうすぐ出てくるのだコング!コング!)

 ‥‥てぇの。後半はちょっと字余り気味だけど。

 脱線してしまったけれど、こうやってオリジナルと比べながら、けっこう楽しめた作品でしたよ。俳優陣も皆良かったけれど、島の冒険でちょっと活躍したジェイミー・ベル(『リトル・ダンサー』の主役の子が大きくなってた!)に、ニューヨークでもちょっとは姿を見せて欲しかった気がする。以上。


 

 

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■ 2005-12-24(Sat)

[] 「ロージー」:フェアポート・コンヴェンション 「Rosy」 Fairport Convention   「ロージー」:フェアポート・コンヴェンション 「Rosy」 Fairport Conventionを含むブックマーク


   ロージー+5(紙ジャケット仕様)

 いつもこのコラムはアルバム単位で書いていたんだけれども、全曲のレヴューを書いてしまったりして、毎回長くなりすぎてしまうので、これからは「曲」単位で書くことにしました。といっても、どうしてもアルバムの事も書いてしまうけれど。

 この「ロージー」は、フェアポート・コンヴェンションの8枚目のアルバムのタイトル・チューンで、発売されたのは1973年。おそらく当時発売されてすぐに買ったアルバムだと思う。国内版のライナーノートは、渋谷のブラックホークの店長だった故松平さんによる名文で、今ではもう手元にないけれども、このレコード、このグループへの愛にあふれた、とっても優しい、素敵な文章だった*1

 アルバム『ロージー』は、それまでのグループの歴史において、常に真摯に緊張感あふれた音世界を追求して来たフェアポートが、はじめて、やっとのことでほっと一息ついて安らぎの音を聴かせてくれた、心のおけない友だちと、ゆったりと川辺でひなたぼっこをしているような、そんな音世界だった。特にこの「ロージー」という曲は、やさしさにあふれた素晴らしく美しい歌で、フェアポートの曲には珍しく、FMでオンエアされたのを聴いたこともある。実は、このアルバムを録音していた時には、グループは解散の危機に瀕していたのだけれども、そんな時だからこそ、聴く人の心を和ませるような音世界を目指したのかも知れない。

 この時のグループの中心人物はDave Swarbrick。わたしはこの人のFiddleとかは決して好きではないのだけれども、柔らかい、いかにもブリティッシュ・フォークしている歌声は耳に心地よいのは確か。そう、このアルバムでは、そんな彼の、珍しくトラッドのシンギングからは距離をおいたヴォーカルの魅力を堪能出来るのであって、冒頭の「ロージー」こそはその白眉。すでにこの時にはフェアポートを脱退していたRichard Thompsonの、音の襞のようなギターの音、このあとすぐにそのRichardといっしょになるLinda Peters、そしてSandy Dennyのコーラス。


 わたしごとになるけれども、このしばらく、わたしは「心の平安」からはちょっと遠いところをさまよっていた。そんな時にはあまり音楽も聴く気分になれなかったのだけれども、ようやっと、こんなわたしにも平静な気持が舞い戻って来たと思って、そんな時、「聴きたい」と思った曲の筆頭が、この「ロージー」だった。そして、ある人とこの曲をいっしょに聴きたかったのかも知れない。今、それはかなわない幻になってしまうのか。

知ってるよ。ロージー。
I know, Rosie
あなたが住んでいるのは、あなたの作った世界じゃないって。
You're living in a world you didn't make
知ってるよ。幸せを感じるのは難しいよね。
And I know it's hard feeling happy
欲しいと思ったものがここに用意されていなければ。
When the things you want aren't even here to take

おいでよ、ロージー、ぼくはヴァイオリンを弾くよ。
C'mon Rosie, I'm rosing the bow
覚えれば覚えるほど、知ってると思える事が少なくなってしまうから。
For the more I learn it's the less I seem to know
のんびりしようよ。ものごとをゆっくり仕上げるのを覚えよう。
Lie down cosy and lets learn to take things slow
覚えれば覚えるほど、知ってると思える事が少なくなってしまうから。
For the more I learn it's the less I seem to know
ぼくのロージー。
Oh my Rosie
おいでよ、ロージー、ぼくはヴァイオリンを弾くよ。
C'mon Rosie, I'm rosing the bow

制服をしまっちゃおう。
Fold away your uniform
今はいのちをその手でつかむ時だよ。
Now's the time to take life by the hand
入っておいで、そしてコートを脱いで。
C'mon in and take your coat off
坐って、バンドの音を聴いておくれ。
Settle down and listen to the band

おいでよ、ロージー、ぼくはヴァイオリンを弾くよ。
C'mon Rosie, I'm rosing the bow
覚えれば覚えるほど、知ってると思える事が少なくなってしまうから。
For the more I learn it's the less I seem to know
のんびりしようよ。ものごとをゆっくり仕上げるのを覚えよう。
Lie down cosy and lets learn to take things slow
覚えれば覚えるほど、知ってると思える事が少なくなってしまうから。
For the more I learn it's the less I seem to know
ぼくのロージー。
Oh my Rosie
おいでよ、ロージー、ぼくはヴァイオリンを弾くよ。
C'mon Rosie, I'm rosing the bow

(CDの国内盤についている訳詞は気に入らないので、おぼつかないながら自分で訳してみました)

 淡い水彩でで着色されたジャケットの薔薇の花のとなりには、「Especially For You」って、書いてあるのに。今、ひとりでこの曲を聴く。

*1:松平さんの遺文は、あおぞら文庫にたくさん収録されているけれども、残念なことにこのライナーノートは収録されていない。

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■ 2005-12-22(Thu)

[] 「栗東芸術文化会館さきら」がこんなことに!  「栗東芸術文化会館さきら」がこんなことに!を含むブックマーク

 *時系列表示順が逆になっていますので、このページの一番下まで行って、<前の10日分>をクリックして、そのページの一番下から読んでいただけると、時系列順になります。

 2月12日にちょっと「さきら」の問題にふれて以来、自分の事にかまけて、その後の情報収拾を怠っていましたけれど、この2〜3日「さきら」で検索して来られる方が多くなったので調べてみたら、あらららら、まったく別の問題(いや、根っ子の部分は通底していると思うけれど)が巻き起こっていた。

 まずは中西理の大阪日記でその発端を知り、ここからたどると、乗越たかお氏のヤサぐれ者の魔窟vs発掘亭日乗越に、ここで問題にした「026-METAL」公演中止問題でも活躍(?)されたディレクターの山本達也氏のメールが公開されている。このメールには言いたいことがあれこれあるんだけれども、それはさておいて、今回の騒動の経過を非常に詳細に書いて下さっているブログがありまして、「やくぺん先生うわの空」の[指定管理者制度]というカテゴリーに、詳しく書かれています。問題はもちろん継続中です。って、以上の情報はすべて、id:simokitazawaさんからの引き写しです。中西さん、ご容赦くださいませ。

 で、今回の問題の「指定管理者制度」とはなにか、というと、ココにくわしいです。

 いや、わたしもあまり時間が取れないので、これらすべてをじっくりと読んでいる時間もないのが現状ですが、「投げ捨て」と言う印象がしますね。これまでの「さきら」は切り捨てられ、ハコしか残らない。かつて、まだ解決していない(もう解決したと言う人もいるが)問題があったとしても、もうそれは今後の「さきら」とは関係ない、ということでしょうか。

 ちなみに、2月12日以降、この問題に触れていませんでしたけれども、その時に紹介した丹野賢一氏の「謝罪要求書」に対する「さきら」側からの回答、さらにその回答に対する丹野氏の反論も、それ以降掲載されています。詳細は丹野賢一/NUMBERING MACHINEのホームページ「026-METAL」事件にあります。ここから今回の「さきら指定管理者問題」へと続けて考えれば、おのずから何かが見えてくるでしょう。

 今日はリンクの連発でしたが、もうすこし時間がとれればまた何か書いてみましょう。


 

 

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■ 2005-12-17(Sat)

[] 最近読んだ本   最近読んだ本を含むブックマーク

 いや、新しい仕事に就きましてね。これがめちゃ遅くまで仕事がある。平日はとても自宅でパソコンと向かい合って長文を書く時間は取れないようなので、おそらくはこれからはしばらく、ウィークリー「ワニ狩り連絡帳」になると思います。出来るだけ週末にはなんか書きたいと思ってますので、今後ともよろしくです。


『博士の愛した数式』 小川洋子:著


   博士の愛した数式 (新潮文庫)

 最初のページを読んで、「あ、これは、『ソフィーの世界』の数学版、じゃないか」と思ってしまい、「いや、数学の話ならきっと、虚数の話も出てくるな」と読んでいたら、その「虚数」はすぐに出て来て、以後「虚数」の話は出てくることはなかった。『ソフィーの世界』だろ?というのは、当たらずとも遠からずという印象で、実際の父親ではない父親像、という書き方もされているのだけれども、気になったのは、ここに出てくるルート、と呼ばれる少年、というか、主人公の女性の息子なんだけれど、この存在が、主人公と博士との結びつきの「ダシ」にされているだけじゃないか、と読めてしまうことで、この主人公である家事手伝いのシングルマザーさんが、その派遣先の「80分しか記憶の持続しない」博士をどのように思い、どのような関係なのかは良く読み取れるのだけれども、母親である彼女が、息子の「ルート」(これは「博士」が彼につけたあだ名)に対してはどのような関係性を持っているのか、持とうとしているのか、これがまったくわからない。というか、この小説の中では息子のことはずっと、博士のつけた「ルート」という名前で呼ばれるんだから、この小説の中での役回りは、そりゃあ想像もつくってモンでしょうけれど。そこが、この小説のイヤなところ。わたしにとってはね。


『ダ・ヴィンチ・コード(上)』  ダン・ブラウン:著 越前敏弥:訳


   ダ・ヴィンチ・コード〈上〉

 いや、よっぽど自分で買ってしまおうと思っていたんだけれど、やっと図書館の書棚にさらされていたのを誘拐できた。あくまでも上巻だけを読んだだけで、感想を書きます。

 って、ミステリーの展開としては、そんなに面白くないじゃん。しかも、作者のミステイクとしか思えない不用意な発言を作中人物が発したり、登場人物バカなのに、「こいつは頭いいと思った」などという自画自賛的なセリフが乱発。構成も優れているとは思えない。ミステリー作法としては断然に二流の作品である。その上にこの作者の文章には、貧民や同性愛者への差別意識を感じるようなところも読みとれる。翻訳も、上質とは言い難い。

 っちゅうか、「テンプル騎士団」とか「プリウレ・ド・シオン」とかって、わたし、すでにいろんな本で読んでて知ってるんだモン。新約聖書の成立過程だって。ダ・ヴィンチがそのプリウレ・ド・シオンのある時期のリーダー(会長?なんて言うの?)だったこともね。この本には書いてないけれど、クロード・ドビュッシーも、この会の会長だったという記録が残ってるらしい。

 だから、この本の下巻の展開、は読まなくっても推測できてしまう。この本には、あまりに善悪二元論で割り切られすぎた一種のカルト教団が悪役で登場するから、そいつらが破滅する(ま、これはあたりまえ)。*1現実はそんな二元論で割り切れるものではないのだけれども。で、肝心の「謎」だけれど、だから、キリストは磔の刑で死んではいないのだよ。キリストはユダヤの王の子孫であり、そのキリストにも子孫がいて、その子孫が今現在も存在してる、「プリウレ・ド・シオン」の使命は、そのキリストの子孫を世界のリーダーにもう一度引き出すことにある、っていうんでしょ。で、巻頭の「主な登場人物」の中に、主人公たちがこの上巻でたどり着く館の主の執事の名前があって、彼がリヨンの出身なんだから、この物語にからんでくるんでしょ? リヨンこそは、この「聖杯伝説」の「聖地」なんだし。

 ‥‥いや、つまんね。おもしろくねぇよ、この本。自腹切って買わなくてよかったよ。ヨーロッパの秘密結社の伝統についてだったら、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』があるわけで、あの、めくるめくような衒学趣味の知の迷宮、あの読書体験に比べたら、この本にはあの時の一万分の一ほどの興奮も覚えることが出来なかったではないか。

 いちおう下巻は読んでみますけれど、期待薄。この予測が外れたらアレだけれど、下巻読んだらまた書きますね。



 

*1:20日付記:ここで出てくる「オプス・デイ」って、現実に存在する教団なんだな。なんか、そこの教義自体をもってして「悪」のように描いてしまうのって、どうなんだろう? やっぱ下巻を読んでみなくっちゃ。

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■ 2005-12-06(Tue)

[] 『イン・ハー・シューズ』 カーティス・ハンソン:監督   『イン・ハー・シューズ』 カーティス・ハンソン:監督を含むブックマーク

 いま、この映画についての情報は、手元に残っている特別観賞券(つまり、前売り券)の半券だけなんだけれども、そこには、キャメロン・ディアス主演最新作、「L.A.コンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン監督、「エリン・ブロコビッチ」のスザンナ・グラント脚本、という3人の名前しか載っていない。って、スザンナ・グラントって誰よ。「エリン・ブロコビッチ」は見てるけど、そんなに卓越した、記憶にとどめるほどの脚本か? ソダーバーグなら『アウト・オブ・サイト』の脚本の方が、ずぅっとイイぞ。ってえか、カーティス・ハンソン自身が脚本やってくれればよかったのに。まぁ、この人の『L.A.コンフィデンシャル』の脚色には驚かされたもんね。今回も原作小説があるみたいだったし、この監督自身の脚色で見てみたかった気もする。いや、そんなことよりも、わたしがこの映画を見ようと思ったのは、要するに、トニ・コレットが主演だからに他ならないのに。名前、載ってないじゃン!

 トニ・コレットは、ABBAの曲がいっぱいかかる、おデブちゃんが幸せな結婚をするまでを描いた映画(彼女はその主役だった)から、結構見てるけど、やっぱ強烈だったのは、『シックスセンス』のお母さん役で、あの作品で、車の中で彼女が泣き出すシーンは、驚愕、というか、あっけにとられた、というか、それは、演技とかっていうよりも、一種の、それだけで独立したパフォーマンスを見ているような気になってしまって、要するにあの映画でおぼえているのは、彼女のそのシーンと、痩せこけた少女の姿、この二つだけなんだけれども、ま、誰が見てもそう感じたのか、(きっと)その演技でアカデミー賞の助演女優賞の候補になっちゃったりした。そして次の驚愕は、『めぐりあう時間たち』という、ま、三大女優そろい踏みっていうような作品で、ジュリアン・ムーアの友だち役でちょっとだけ出てきて、そこでジュリアン・ムーアが彼女にくちづけするんだけれども、その時のトニ・コレットの表情、というか、眼の動きだよね、目線のさまよわせ方。これがまた人間を超えた人間らしさ、っちゅうか、妙なこと書いてるな、わたし。とにかくすごいんよ。だからあの映画も、そのシーンとやさぐれエド・ハリスしかおぼえていないんだけれども。いや、とにかく、ワンポイントリリーフで出てきたピッチャーが突然時速180キロメートルの豪速球を投げるような、そんな女優さんなのよ。だから、彼女がいっぱい出てる『アバウト・ア・ボーイ』だっけ、ニック・ホーンビーの原作かなんかの映画で、ヒッピーみたいな、主人公のお母さん役で出てるのも見たけれど、やっぱこの人はワンポイントリリーフがいいなぁ、そんな感想だったんだけど、今回はお母さん役とかじゃなくって堂々のヒロイン役、っていうんで見てみたんよ。

 うーん、ほとんど素っピンでばかり出てくるんだけれど、この人、ちゃんとメイクすればそうとうな美形に見えるな。問題はウエストだけれども、そんな欠点も、愛があれば乗り越えられるさ! うん、今回は、笑顔の素晴らしさ、そのヴァリエーションをいろいろと見せて下さいました。

 ‥‥あ、映画のこと。カーティス・ハンソンの絵作りはとっても上手で、おそらく2時間をこえる作品を、まったく途中だれさせないで一気に最後まで見せてくれてね、見てるあいだは、自分の眼をスクリーンのあちこちに遊ばせることが出来ていいんだけれども、完結したストーリーを持った映画作品としては、これは見終わってすぐにゴミ箱に捨ててしまいたくなってしまった。

 えっとね、定職にも就かず遊び歩いてばかりいる性悪の妹のおかげで結婚出来ない姉、そんな二人のまわりの人情味溢れる人間関係、なーんて紹介すると、それって、スタート時の『男はつらいよ』!? いや、まぁそんなモンよ。ま、「家族の絆」とか、好きなように呼んでやって下さい。で、まぁ、この妹役がキャメロン・ディアスでね。頭悪いんだ。せっかくMTVのオーディションに受かっても、カメラテストでプロンプトの文章をすらりと読めないし、店員やっても「15%割り引き」の計算できないし。って、わたしだって「15%引き」の答をすぐに出せって言われても、できないけどね。あなた、できる? ハイ、3000円の15%引きはいくらでしょう?*1

 いや、まぁそんなことはどうでもいいや。で、その妹は、今まで会ったこともなかったおばあちゃんに会いにフロリダまで行ってね。そのおばあちゃんをシャーリー・マクレーンが演じているのもびっくら、なんだけれども、彼女はその突然あらわれた孫娘に、輪廻転生の神秘を説いて、じゃねぇや、老人ホームの仕事を手伝わせて、ま、そこに目の見えなくなった老教授がおって、彼女に本を読んでくれって頼んで、その本がエリザベス・ビショップの詩集だったりするのもアレなんだけれども、ははぁ、「学習障害」なんだね、って、タダのバカぢゃなかったのかよ!って。

 で、まぁ、その妹もちょっとは尽力して、姉もみごとに結婚式。その結婚式で、妹がプレゼントにe.e.カミングスの詩を朗読したりして。あ〜、e.e.cummingsがわたしの好きな詩人だということは、ずっと昔にちょっと書いたりしたけれど、最近はBjorkが彼の詩に曲をつけたりして、ひょっとしたらブームなの?

 その時に妹が朗読した詩っていうのが、ウチに帰って確認したら「i carry your heart with me」って詩で、e.e.cummingsって人は、だいたい英語文法を無視したような詩を書く人で、いや、わたしだって全然わからないよ。だから、この詩だって、「for beautiful you are my world」なんて、ちょっと引っ掛かりのあるセンテンスも出てくるし、ま、そういうのが朗読出来るっていうのがスゴい、って言うのかどうかわからないけれど、アッパラパーなコが突然e.e.cummingsの詩なんか朗読したら驚きますよね。えぇ、驚きますとも。そういう映画。

 ‥‥だからわたし、こういう映画が嫌い、というのではなくて、こういうお話が嫌い。言い方は語弊があるけれど、バカはバカ。突然吉増剛造を朗読し出したりすることはない(って、これも突飛な例えだな)。そんな親族の存在に苦労してる人物は世の中にたくさんいる。あ、ここでバカ、って言ってるのは、たとえば定職に就かず(就けず)、親族に金をせびってばかりいるような輩、とかのこと。そういう、現実に数多くいる、そんな苦労をしている人たち、もしくはそんな苦労をかけている人たちにとって、この「お話」は、それこそ、屁ほどのつっかい棒にもならない。あ、このバカは、ほんとは「学習障害」なのかも知れないのだろうか。世界の労苦はそんなことでは解決しない。だからわたしは、この映画で描かれる物語を楽しめたりは決してしない。わたしだって、そんな「バカ」のはしくれ、だし。ま、映画なんかにそんな現実の問題の解決法を求める必要もないのだけれども。

 先も書いたように、映画としての絵作りで好きな所はあれこれとある。深追いしないエピソードの挿み方とか、物語に華をそえる楽しい傍役たちの存在。それは、姉の恋人であったり、姉の友人であったり、老人ホームのおじいちゃんおばあちゃんたちであったりして、皆とても魅力的だ。

 そう、わたしが大好きなシーンは、弁護士を辞めたトニ・コレットが、4匹の犬を散歩させながら、裁判所への長い大きな階段を、(楽しそうに笑いながら)犬といっしょに一気に駆け上がるシーンで、サービスで2回もやってくれる。おお、体力的にも驚異の女優さんだったのか。トニ・コレット。また次の出演作は見に行こうっと。


 

*1:答えは、2550円です。

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■ 2005-12-05(Mon)

[] 『ジュスティーヌ』(006) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(006) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第006回:こんな読み方なら、どんなに間があいてもだいじょうぶなのだ。

 え? いつから読み始めたんだっけ? 9月頃? 2ヶ月以上かけて20ページそこそこですか。いや、でもね、こうやって読んだ所ほとんど丸写しみたいなことやってると、間があいてもかなーり憶えてるんだね。このブログを読んでる人にはちーとも面白くない連載だろうけれど、わたしひとり面白がっている。

 街路が波止場から走りもどってくる、ぼろを着た不潔な荷物上乗人(うわのりにん)のような家々、おたがいのなかに息を吐きかける、転覆しかけた家々をひきつれて。鎧扉をとざした露台には鼠が走りまわり、頭髪にだにの血をいっぱいこびりつけた老婆たちがむらがっている。外皮のむけた壁が、重心の軸をはずれて酔ったように西や東にかたむいている。黒いリボンのような蠅の群が子供たちの眼や唇にまといつく──いたるところ夏蠅が濡れた数珠(じゅず)のようにつらなっている。カフェや売店のすみれ色の扉のそばにさがっている古い蠅とり紙は、その重みにたえかねておちてゆく。まるで腐りかけた階段の絨毯みたいな、汗の泡をふくベルベル人たちの臭い。それから街路の喧騒、金属製のカップを打ちあわせて人を呼ぶ水売人の叫びと響き。時おり騒音をつらぬいて、かよわい動物が腸を切り裂かれるような叫びをあげる。しかしだれも気にとめない。池のようにたまってゆく傷の痛み──これほどの規模で人間の惨めさが孵化(ふか)されてゆくのを眼の前にみて人はあっけにとられ、すべての感情は嫌悪と恐怖の中に流れこんでゆく。

 とにかく、わたしはこういう文章についうっとりとしてしまう。その色彩も、その匂いも直に体験したことがあるような気持になってしまう。「カフェや売店のすみれ色の扉のそばにさがっている古い蠅とり紙は、その重みにたえかねておちてゆく。」なんて、もう泣きますね。しかも、このひらがなの多い高松雄一さんの訳文が美しいのね。

 ジェスティーヌは、ぼくが待っているカフェ・エル・バブにやってくるとき、実におちついた率直さでこういう街々を通りぬけてくる。ぼくもそのまねができたらと思ったものだ。崩れかけたアーチの入口にぼくたちは坐ってなんの邪心もなしに話しあった。しかしその話のなかには、すでにある了解がしのびこんでいた。ぼくらはそれをただ友情が深まってゆく兆(きざ)しとしかうけとっていなかったが。あの黒ずんだ泥の床に坐りこんで、急速に冷却してゆく大地の気筒が暗闇のほうへ傾斜してゆくのを感じながら、ぼくたちはただ、ふつうの人々の会話の思想をふみこえた観念と経験とを伝えたいという欲望に憑(つ)かれていた。彼女は男のように話したし、ぼくも男らしく話をした。ぼくにいま思い出せるのは、この会話の型と重さだけだ。内容はうかんでこない。そこに片ひじついたまま我を忘れ、安いアラキ酒を飲み、微笑みかけながら、ぼくは彼女の着物と皮膚からあたたかい夏の香りを吸いこんだ──それは、なぜか知らないが、「二度トコノ世デハ」と呼ばれている香水だった。

 これらは、ある意味で普遍的に、わたしたちが女性たちとの逢瀬から記憶する感覚の総和であると同時に、この物語特有の、「あの時、あの場所であの人と」という色彩に彩られている。そしてわたしもあの香水の香りを思い出すのだ。わたしはあの新宿の夜を、アレキサンドリアになぞらえているのだろうか???

 今日は読んだ部分を全文書き写し、1ページしか読みすすめなかった。23ページまで読んだ。


 

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■ 2005-12-04(Sun)

[] 最近読んだ本をまとめて   最近読んだ本をまとめてを含むブックマーク

 とりあえず少しは書く習慣を取り戻さなくっちゃね、って、そんな習慣忘れてしまってもいいんだけれど。ま、最近は他にもあれこれ読んだ気がするけれど、ここに書きやすいのをセレクトして。


 『古道具 中野商店』 川上弘美:著

   古道具 中野商店

 もちろん好きな作家で、ここであまり取り上げる機会がないけれども、おおまかな所はだいたい読んでるかな。なんとなく、ここのところ作風に変化がでてきた、というか、セックス、というか、性についてのファクターが作品の中で強くなってきているようで、それが、なんちゅうのかなぁ、「えっち」というのとは違うんだけれども、独特のなまめかしさが作品にただようようになってきていて、最初はちょっと抵抗があったんだけれど、結局、この人は最近は「愛」というものを手元にたぐり寄せようとするような作品を書いているんだな、と。

 前作『ニシノユキヒコの恋と冒険』なんかでも、ロンド形式の連作短編として、幾人もの女性に「ニシノユキヒコ」という男との思い出を語らせて、どうしても人を愛しきれない(?)男の悲しさを外から描いて、それは主人公ひとりの悲しさではなくて、ま、なんちゅうか、愛し合う男女の悲しさだね、そういうのがとってもアンチームに描かれていて、やっぱり好きな作品だったけれど、この『古道具 中野商店』も、連作短編集。中野商店という古道具屋を舞台に、そこでアルバイトする女性を主人公(語り手)として、その女性とやはりアルバイトの男とのちょっとぶきっちょな恋愛を軸に、その店に出入りするいろんな人のいろんなエピソードを織り込んでいて、やっぱり、なんだか、時の移り変わりの悲しさみたいな、密やかなしっとりとした読後感を残してくれる。そう、読んでいる途中で、何年か前にTVでやっていた『すいか』というドラマ(視聴率が芳しくなく、最後は予定より早く打ち切りにされてしまった)を何度か思い出していた。とっても好きなドラマだったけれど、あんな感じでこの小説をTVドラマ化したらきっと面白いだろうなぁ。主演はね、麻生久美子とかがいいな。いや、単に自分の好みで。



 『女たちのやさしさ』 J・G・バラード:著 高橋和久:訳

 『太陽の帝国』に続くバラードの自伝的小説、という紹介をされているし、途中のエピソードからはどうしてもバラード本人を思い浮かべてはしまうのだけれども、結局、この小説で書かれているのは、トラウマを負った(という言い方はおそらく、いや、間違いなくちょっとずれているんだけれど)男を癒す、オーガニックな器官としての女性たちの「Kindness*1」のことで、精緻に書かれていながらも即物的な性描写の対象はいつも、「ソフト・マシーン」としての器官と精神を合わせ持った「女たち」という存在であって、書き表わそうとする主題と書き表わす手法とがこれほど一致して、男が女たちから受け取るものを描いてくれた小説に出会ったことがない気がする。そうして読んでみると、この本の装丁をした横尾忠則のカヴァーのCGが顕わしているものは実に適切であって(特に裏の方)、横尾忠則もすごいなぁ、と、ちょっと感心してしまった。というか、このブックカヴァーを許した岩波書店もなかなかやるな、って思ったりもしたけれど、きっと気がつかなかっただけなんだろう、とも思う。わたしも読んでみるまでわからなかったもん。いや、読んでしまうとね、そうとしか見えなくなってしまう。バラードの本はもっといろいろ読んでみたくなった(『結晶世界』と『太陽の帝国』ぐらいしか読んでないもんね)。



 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 J・D・サリンジャー:著 村上春樹:訳

   キャッチャー・イン・ザ・ライ

 『ライ麦畑でつかまえて』として昔読んだ、気に入らない著者の気に入らない本を、好きになれない作家の新しい訳文で読む。閑人だな、わたし。
 前読んだ時もそうだったけれど、読んでいてどうしてもこのホールデンという主人公が12歳ぐらいのガキンチョに思えてしまって、途中で、あ、いかん、コイツ、17歳なんだよな、って、読み方を修正する。それは今回も同じ。やっぱり何が面白いんだかじぇんじぇんわかりましぇんが、著者自身がこのホールデンという造型をあまり肯定的にとらえてはいないんではないか、という気もしてしまった。12歳みたいだと思えば、時には40過ぎのオヤジみたいになったりもする。やっぱ気味悪い。

 

*1:わたしはこの文を書こうとして、つい「Tenderness」と書いてしまったのだけれども、原題は「The Kindness of Women」。なぜ、「Kindness」なんだろう?

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