ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2006-01-31(Tue)

[]『春の雪』 行定勲:監督 三島由紀夫:原作 『春の雪』 行定勲:監督 三島由紀夫:原作を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060131230739j:image

 いや、今ごろになって観てしまいました。とにかく、リー・ビンピンの撮影ということでだけでも、大きなスクリーンで観ておきたかったんですね。というか、ほかのことは実際どうだってよかったんです。三島由紀夫なんか好きじゃないし、それ以上に、行定勲も好きじゃないのよ。実際の話。原作?読む気ありません。

 で、リー・ビンピン。あなた、見た? って、いきなり「あなた」なんて振っちゃって、わたしゃ淀川長治か、って。いや、だからこのイントロのカメラ、だよね。思いっきり「絵巻物」よ。どアップの孔雀の襖絵から右にカメラが移動していくと、開けられた障子の向こうに大きな桜の木がある和室で、女の子がひとりで百人一首を詠んでいて、さらに右に移動すると手前の部屋で、その女の子の父親と乳母が密談しておる。このふたりがずるりと絡んでくずれ落ちると、またカメラが左に戻って、さっきの女の子の前には男の子がいてね、で、外には雪が降り始めるんだよ。この、外の光と中の陰、色彩の対比も眩しいし、桜の木が、立派だね〜。ま、こんな自己主張の強いカメラをまわせる人ってぇのも、なかなかいませんよね。この導入部からしばらくのカメラの乱暴狼藉ぶりはちょっとしたもので、やりすぎなくらい(いや、まちがいなく「やりすぎ」です。)やたらと移動しまくるカメラは、しかし、先日見た某映画(何という映画かは「な・い・しょ!」)での、同じくやたらと移動しまくるカメラとは、それは当然それなりに意味合いがちがっておりまして、つまりはだから「美意識」だ、とか、「自意識」だ、などといえばいいんだけれども。ちょっと露出オーヴァー気味にして、木陰の木漏れ日が顔に映るさまとか、いいんよ。ま、そうね、トゥーマッチといえばトゥーマッチ。でも、前作の『珈琲時光』では、見ていてちょっと不満があったわけで、そのあとでのコレですから、いいです。お金払います。満足しました。あとのことはもうどうでもいいや。

 あ、でも、そ〜ゆ〜こと以外のことね。どうでもいいこと。って、ど〜なんでしょ。行定勲さんは、三島由紀夫さんに気に入ってもらおうとしてこの映画を撮ったんでしょうかね。で、もしも三島由紀夫さんがこの映画を見たらどう思ったでしょうね。いや、そりゃぁね、行定勲は、三島由紀夫に気に入ってもらおうとしてこの映画を撮ったんでしょうよ。だからこそ遺族から映画化の許可ももらえたんでしょ。例えば、10年ほど前に石井聰互が安部公房の『箱男』を映画化しようとして、遺族に映画化を断られてしまったのは、遺族が、「こいつに撮らせたらとんでもないものになりそうだ」と思ってしまったからだろうし、行定勲はきっと、「平安朝の王朝絵巻のような映画にしますから」とかなんとかプレゼンしたんでしょう。いや、そういう映画にしようとしたらしい形跡がいっぱいあります。先に書いた導入部とか、まさにそういう事でしょうし。とりあえず、真っ当な映画化にはなりそうだったと。ン? 真っ当? 何が、真っ当、か? ちがうじゃん。

 で、もしも仮にこの作品が地獄めぐりをして、三島由紀夫の目に触れる事が出来たとしたら? いやぁ、三島由紀夫は怒ったでしょうね。いや、リー・ビンピンの撮影は、きっと気に入ったでしょうね。トゥーマッチだから。でも、この演出はダメでしょう。某日本放送協会の大河ドラマみたいな演出。華族とか貴族とか、そういう人種を描けないんですね。ま、モデルも手近にいませんし。かろうじて皇族としてみられたのは及川光博ぐらい、ってぇのも面白かったけれども、わざわざマーラーをかけて、「わたしはこの映画を造るのにヴィスコンティを参照いたしました」って宣言しているくせに、ちょっと、どうでしょう。もうちょっと虚飾を取り込んで、大げさなまでに華麗にやってくれなくっちゃ。わたしは三島由紀夫の小説なんてまるで読んでないけれど、ちょっとかじってみた感じでは、「この小説は、オレサマという素晴らしい小説家が書いておるのだ」というような、過剰な意識に貫かれたような書き方でしょう? ちがう? ちがうか。だから、映画だって、「この映画は今、オレが撮っておるのだよ」程度の自意識は、監督としてもスクリーン上に映し出してくれなくっては。そういうこと、撮影監督にばかりやらせおって。うん、たとえば、鈴木清順の『陽炎座』とか『夢二』ぐらいにはね。『夢二』なんか、この『春の雪』のモティーフに似てるところもあるじゃん。ない? ないか。だから、大河ドラマやって、どこが楽しいん? カメラワークだけが大げさに華麗でも、持たないですね。そう思いました。どう? ちがう? そうか。



 

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■ 2006-01-30(Mon)

[] 地点第10回公演『沈黙と光』 松田正隆:作 三浦基:演出 @三軒茶屋 シアタートラム  地点第10回公演『沈黙と光』 松田正隆:作 三浦基:演出 @三軒茶屋 シアタートラムを含むブックマーク

 えっと、今週は安部聡子さんです。ま、こうやって2週連続して同じ作家の戯曲、そして同じ演出家で公演をぶたれると、どうしても主演の俳優を比べたくなってしまうんだけれども、そういうことはちょっと後回しにして。

 って、今回の戯曲は、ほとんど以前観た『天の煙』。架空の九州の離島でもって、そこの廃虚になった教会が舞台だというのはまったく同じではないですか。あ、連作なんですか。で、出てくるのが、司祭と、20年ぶりに島に戻ってくるその妹、島の分校の教師とその妻、下僕のような義手の男の5人だけ。というか、5人も出てくる、というべきか。その、妹というのが安部聡子さんなんだけれども、これが、大逆事件と連合赤軍事件を合わせたような体験をして来たテロリストだったという設定。教師夫妻は信仰の危機に瀕して、教師は自殺しようとしているし、あぁ、な〜んておどろおどろしい世界な〜んでしょ。

 ‥‥はっきり言って、ここまで極端なケースをてんこ盛りにしてくれなくってもよさそうなものなのに、正直、観ていて疲れます。全体にことばの意味が異様に重たいので、この「地点」の演出方法をもってしても、ついつい頭の中に語られたことばが反芻されて浮かんでしまい、けっきょく、自分の頭の中でこんな風になってしまうんだったら、なにもこんな演出でなくても良かったんではないか、などと思ってしまうのであった。

 ただ、このなかで、教師の妻の役の山本陽子さんだけが、演技としては(マイクなどは使いはするけれども)ごくノーマルな、というか、いわゆる「新劇」的な演技で通されるわけで、そんな中で「わたしに救いはあるのでしょうか?」などと朗々と語られるのは、ちょっと、三浦基さんが、そういう「新劇的な演技」それ自体に、「救いがあるのでしょうか?(いや、ねぇよ!)」と問いかけさせているようで、ふふふ、てな感じではあった。

 安部聡子さんの演技に関してはそりゃあすごいもので、その前半に、脇のスプーンの山からスプーンをつかみ取り、「こうしてわたしは島に戻って来たのです」と、長い自分語りを朗唱する場面こそは圧巻。だから先週の内田淳子さんと比べてしまうんだけれども、安部さんはより情念を感じさせる演技の質であるようで、内田さんの方がもっとコラージュ的、というか、ノイズを含んだ、振幅の大きな演技を見せてくれた気がして、いや、そんな比べっこをしたりしてると申し訳ないのだが、というか、人のモラルとしてはこういうことはやりたくないのだけれども、今回の2作に関しては、わたしは内田さんの演技の方に、より「地点」の可能性を感じてしまった。ま、これは戯曲の内容に自分がどう反応したのかということも絡んでくるので、そんな、俳優さんの演技だけを取り出してどうこう言ってはいけないのだよ。ごめんなさい。って、消しゃあいいのに消さないわたし。(1月28日観劇)



 

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■ 2006-01-27(Fri)

[] 『ジュスティーヌ』(008) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(008) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第008回:もしわたしたちがこうなったら‥‥

 月に一度は『ジュスティーヌ』を読もう。って、そんなペースでいいのかよ。読み終わるのに10年かかるぞ。

 さて、今回は、断片的な、主人公の「ぼく」とジュスティーヌとの対話が、またしてもアレキサンドリアという都市の中でさまようこだまのように語られる。それは、アレキサンドリア人としてのジュスティーヌと、アイルランド生まれだという「ぼく」との、おたがいが抱え持つ背景の違いを確認しあっているようにも聞こえる。そんななかでこの連作のもう一人の重要な登場人物、バルタザールの主宰する集会の話が出てくる。バルタザールは神秘思想の研究家のようで、ジュスティーヌはその会合に出席するメンバー。「ぼく」も、その会に加えてもらうことになるだろう。ジュスティーヌの口から、グノーシスの創造説が語られたりもする。5ページほどのこの対話はパラケルススからの引用で閉められる。

「肉体の昼は精神の夜である。肉体がその働きをやめるとき、精神はその仕事をはじめる。肉体の目覚めは精神の眠り、精神の眠りは肉体の目覚め」そのあとで、雷鳴のように「悪とは変質した善である

 このあとに、ネシム(ジュスティーヌの夫だよ!)と「ぼく」が二人で、スラムの中の「子どもに売春をさせる家」でジュスティーヌの危機を救う短い挿話がある。ジュスティーヌは、その本質で娼婦なのだろうか?

 さて、ここから、決定的なことがおきる。わたしが昔この本をぺらぺらと読んだ記憶でも、この部分の記憶は鮮明なのだ。おお、始まっちゃうのかよ。いったいどうなるのだ、って感じ。

 こういうことすべては、正面から眼と眼を見あったあの最初のほんとうの出合いの、いわば序曲なのだとぼくは考えるようになっている。それまでおたがいに示しあっていた理解──三人共通の趣味にもとづいたなごやかな友情──は崩れさり、愛とはいえぬ何物かに変わっていったのだ。どうして愛などでありえよう。それは、貪欲な官能の枷(かせ)などはほんの小さな役割しかはたしていない、ある種の精神的執着だったのだから。それにしても、どうしてあんなことになったのだろう──たとえぼくたちが他の場所で愛の失望にさらされ、きたえられ、同じような経験をつんできていたとはいえ‥‥。

 つまり、ある秋の日に「ぼく」がネシムの家に二三冊の書物を借りるために立ち寄ると、ネシムは不在で、珍しくジュスティーヌが一人でいた。お茶を飲んだあと、二人は衝動的に、車で近くの海辺に出かける。ふたりは、海辺で長いあいだ並んで寝そべっていた。「もしも、すべてが始まったのはほんとうにこの時だったとしても、ぼくはもう前後の脈絡を忘れてしまった。ただ、かすれた不安気な声がこう言ったのを憶えている。」

「そしてもしわたしたちがこうなったら‥‥あなたはなんて言うかしら」

 しかしぼくが何か言うまえに、彼女はおおいかぶさって接吻した──嘲るように、はむかうように、口のうえに。これはまったく度をはずれたことのように思えたので、ぼくは批難めいた言葉を口にしかけた──しかしその時から彼女の接吻は、身うちに湧き上がる荒々しい哄笑──嘲るようなおちつかぬ笑い──をとぎらせる、すさまじい、柔らかい、息もつけぬ痛みとなったかのようであった。まるで、ひどくおびやかされている人間のような感じだった。もしその時ぼくが、「ぼくらはそんなことをしてはならないのだ」と言ったなら、彼女はこう答えたにちがいない。「でももし仮りによ、そうなったとしたら?」それから──これははっきり憶えている──自己を正当化したいという熱望が彼女を捉えた(ぼくたちはフランス語で話していた。言葉は国民の性格をつくりだす)。そして彼女のたくましい口がぼくの口に重なり、褐色の腕がぼくの腕をしめつける、あの息もつけない幾瞬間かのあいまに、

「これは貪欲でも放縦でもないんだわ。わたしたちは現実的な人間なんですものね。要するにわたしたちにはおたがいからおそわるものがあるのよ。それはなんなのかしら?」

 それはなんだろうか。

 ‥‥それはなんだろうか。わたしも知りたいぞ。

 センテンスの途中だけれども、お楽しみはこれから! 50ページまで読んだ。


 

 

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■ 2006-01-25(Wed)

[] 庭劇団ペニノ The 12th garden 『ダークマスター』 狩撫麻礼:原作 タニノクロウ:脚本・演出 @こまばアゴラ劇場  庭劇団ペニノ The 12th garden 『ダークマスター』 狩撫麻礼:原作 タニノクロウ:脚本・演出 @こまばアゴラ劇場を含むブックマーク

 庭劇団ペニノ2回目。最初は2年前の『黒いOL』で、ま、なにも敢えてこれをもってして「演劇」などとカテゴライズしなければ、もっと楽しめたのに、などとは思っていたわけで、あんまり続けて見ようという意志もなかったのだけれども、なんだかすっごく評判がいいみたいだったので、今回見てしまった。

 ‥‥おぉ、いいではないですか。最初に『黒いOL』から見始めたのがいかんのだよね。って、こういう展開はこの人たちにとっても初めてなのかなぁ。こうであるのなら、次回も必ず見たいと思うよ。

 えっと、演劇空間/演劇時間に対して、特に新しい試みを提示しているわけではないよ。でも、個人のオブセッションを造形化する力は十分に感じ取れて、いいんだけれども、でもつまり、これはデイヴィッド・リンチだね。って、あまりにもデイヴィッド・リンチすぎる所がヤバいのだけれども。

 視覚的なセンスは素晴らしい(これは『黒いOL』でも納得したところだけれども)、と、この際だから(どんな「この際」?)絶賛しておきましょう。実はその展開の中での重要な所を、言葉に頼らないところが、とっても気に入ってしまった。役者は何も語らず、ただひたすら料理を(実際に)つくり、食堂を片付ける。その無音の時間、そんな劇時間をたっぷりと取った効果が生きていて、舞台上での時間が、それこそ「舞台時間」として機能する。極めて真っ当。この人たちはこの点では抜きん出ている。

 こびと(マメ山田、すばらし)、奇形(「せむし」、そして、『ワイルド・アット・ハート』でのウィレム・デフォーのような「歯茎」)、麻袋の中で痙攣し、泣き声をあげる「それ(IT)」、入っては行けない「禁断の部屋」、そりゃあまさしくデイヴィッド・リンチの世界。「謎」は「謎」のまま残し、極力「説明」を排し、視覚的事象に多くを語らせる演出姿勢が気に入ってしまった。あのラスト近くの、謎の「二階」の現前、おそらくは制約がなければ、その二階がそのまま下降してきて、それまでの一階を押しつぶして、その永久運動を繰り返すのだろうが、いや、いろんな制約がある中でも、この提示のしかたは納得する。とりあえず今後に期待します。(1月22日観劇)

(後記):アップしてみてから思ったのだけれども、この文章だけだと、いったい何の事だか、この舞台を見た人にしか解らないね。ちょっとだけでも、この舞台でおこなわれたことを書いておかなくってはね。

 えっと、舞台は場末のひなびた洋食食堂。食堂の名前忘れたけど。導入部はちょっと抜かして、その食堂に会社をリストラされて家にも帰れない(元)サラリーマン(=モトサラ*1)が訪れる。食堂のマスターはまったく商売やる気ないのだけれども、その「モトサラ」からあれこれと話を聞き、「この店で料理を作れ」という。料理の作り方などは、ワイアレスで耳にイヤホンを仕込み、食堂の二階からマスターが指示を出す*2。美味しい料理が評判を呼び、店に活気が訪れるけれども、年月を経て(?)疲れ飽いた「モトサラ」は店を出て行く。誰もいなくなった食堂の、その「二階」の姿が、観客の前にそのカタチをあらわす。そして、次の店長候補が‥‥。

 うん、こんな基調となるプロットに、さまざまなディテールが詰め込まれているわけよ。あ、やっぱ、こんなプロット書いても無意味だったかな。



 

*1:これはわたしの勝手な命名

*2:このワイアレスの音声を、観客はそれぞれの手元のFMラジオで聴くことができるのだね

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■ 2006-01-24(Tue)

[] 地点第10回公演『Jericho(エリコ)』松田正隆:作 三浦基:演出 @三軒茶屋 シアタートラム  地点第10回公演『Jericho(エリコ)』松田正隆:作 三浦基:演出 @三軒茶屋 シアタートラムを含むブックマーク

 

 「青年団リンク−地点」という呼称から、京都に本拠地を移して独立した*1、三浦基さんの主宰する「地点」。その独立後のはじめての公演は、松田正隆さんの戯曲を2本続けて上演する企画。その最初が、内田淳子さんとピエール・カルニオさんとの二人芝居『Jericho(エリコ)』*2

 ま、『地点』という劇団の現在形は、三浦基さんのアグレッシヴで野心的な演出と、それを支える、内田淳子さんと安部聡子さんという、見た目には対照的な二人の強力な演技、この三本柱から成り立っているだろう、と、言ってしまっていいのだろうと思う、ぞ(歯切れの悪い言い方だなぁ)。

 で、松田正隆さん。この人の作品は、2年ほど前に「青年団」がやった『天の煙』を観たっきりで、ま、あの時の平田オリザさんの演出には違和感があった、というか、こう、一筋縄では行かない種類の戯曲って感じなんだけれども、さてさて、今回はどんなんでしょう。

 事前に得た情報では、この松田正隆さんの作品には、内田淳子さんが絡んでいることが多い。この日の『Jericho(エリコ)』も、やはり内田淳子さんの主演で何度か上演されているし、先に書いた「青年団」の『天の煙』にも彼女は出ていた、って、彼女の舞台歴をみると、圧倒的に松田正隆さんの作品が多い。一種独特のパートナーシップがあるようだ。

 この日の舞台。開場は開演の10分前で、すでに舞台では、内田淳子さんもピエール・カルニオさんもスタンバっている。不動。舞台前方にはキャスターのついた机の上に坐って、白い服にストローハットを深くかぶった内田さん。奥には、顔に包帯を巻いて兵士のようななりをしたピエールさん。ここからはじまる。

 三浦さんの演出姿勢は、今では多くの人に知られているように、テキストの読みを解体して、区切りやアクセント、時には読み方さえも変えて再構築する方法で、それはたとえばドゥルーズのいう「逃走線」としての、「自国語でどもること」などを想起させられるのだけれども、ややっこしく言えば(こういう自分でもよくわけのわかっていないことを書いてしまうのもよくないのだけれども)、パロールとエクリチュールの臨界線が表出されるような感覚でもあり、その独特のコラージュ感覚もあって、いつも深く印象に残ってしまう舞台なのだけれども*3、この『Jericho(エリコ)』の中に示される、ストーリー展開ではないところの、舞台上の時間を支配するテキストの、幾重にも重なりあった意味性、それを強烈に裏づけする舞台上の二人の身体。これはやっぱり、見る前から想像していたとは言えども、ちょっとしたショックで、ラストの二人の身体の絡まりようへと到る時間の濃密さは、約束された事とは言えども「事件」への過程。

 袋の中の数多くの靴、語られる床下の無数の眼鏡の話、ポーランドからイスラエルの「エリコ」への道という設定などから、20世紀のユダヤ民族の受難の歴史について思いをめぐらせるのは容易だけれども、この舞台の上には、それのみでは終わらせられない、インディヴィデュアルな男と女の記憶、少しねじまがった精神の軌跡が厳然と描かれていて、要するに、すごい。って、ずいぶん月並みな言葉で終わらせようとしているな、わたし。あんまり書いちゃうと来週の2作目を観て書く事がなくなっちゃうし、このあたりで。(1月21日観劇)


 

 

*1:独立ついでに、「青年団」から安部聡子さんも連れて行っちゃったけど。

*2:皆さんのことを直接知っていたりはしないけれど、これからは、舞台作品などでの人の名前には、たとえ知らない人でも敬称をつけることにしました。映画とか本とかは、眼の前に本人がいるわけではないから、どうしようかな。

*3:その舞台を支えるのが、先に書いたように内田淳子さんであったり、安部聡子さんであったりするわけで、つまりは演出家と俳優との、舞台上での幸福な出合いがあるんだな。

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■ 2006-01-18(Wed)

[] 最近読んだ本  最近読んだ本を含むブックマーク

『デイヴィッド・リンチ ─映画作家が自らを語る』 クリス・ロドリー:編 広木明子、菊地淳子:訳

   デイヴィッド・リンチ―映画作家が自身を語る

 膨大な量のインタヴューからなるこの本は、このあいだ見たボブ・ディランのドキュメンタリーを思わせられる所があって、ま、つまりは、(当たり前の話だけれども)肝心なことは語られてはいないのだよね、と、そういう本ではあるわけで、読み終えたらとたんにたいていのことは忘れてしまうとは言え、それなりに興味深いエピソードにみたされている。『ロスト・ハイウエイ』までの各作品の製作裏話みたいなのが語られていて、それぞれに「へぇ〜!」って、読みながら驚いてみせることもできる。忘れた頃にまた読んだら、きっとまた面白いだろうと思う。

 しかしながら、その訳注に「ディス・モータル・コイル」のレコーディングにティム・バックレーが参加したなどという、あっと驚くようなデタラメ*1が書かれていたり、訳注があってもよさそうな人物名が等閑視されていたり*2、訳者は(おそらく二人とも)映画にも音楽にも知識は持ってないようだ。


『ノヴァーリスの自然神秘思想 ─自然学から詩学へ』 中井章子:著

 ドイツでは、20世紀の後半に、新しい視点からの決定的なノヴァーリス全集が刊行されているようで、この本は、その新しい全集での視点から見直された、思想家としてのノヴァーリス像を、おもにその断片集から解き明かす本。

 ノヴァーリスは、学生時代からのわたしのアイドルで、例えばランボーが20世紀に生まれていたら、確実にパンクとかビート族になっていただろうとか、そういう(って、たった一つの例かよ!)連想からも、ノヴァーリスが20世紀に生まれていたら理論派のヒッピーだっただろうな、なんて思ってしまっていたのだけれども、この本を読んで、そのノヴァーリスの姿勢、古典と現代(と言っても、ノヴァーリスの生きていたのは200年も前の世界だけれども)、東洋と西洋とかを結ぶミッシング・リンクの、熟すことなく実が落ちてしまったとはいえ、あまりにも豊穣なその果実の果汁を、この本を通じて味わうことができる。やっぱ、ヒッピー的だよ。とりあえずはね。いや、実際に、ノヴァーリスの「全体像」というのは、まったくもってつかみにくいしろものなのだけれども、新しい時代のもとで読まれるべきノヴァーリスへの入門書として、この書物は素晴らしい成果だと思う。これを読んだので、このブログのエピグラフをノヴァーリスのにしてしまったよ。

 まだ現物を見てはいないのだけれども、ちくま文庫で「ノヴァーリス著作集」が刊行され始めたらしい。今度上京したら買ってみよう。


『死の谷’95』 青山真治:著

   死の谷’95

 ものすごく、素っ気ない文体。そんなにも書き急いだのか、と思ってしまったりするのだけれども、『ユリイカ』に連なる、人と人を繋ぐ絆にスポットをあてた小説。10年の時を隔てた二つの事件が、一人の人物の中で収束されるまで。タイトルの『’95』はサリンの年であり、阪神淡路大震災の年でもある。こんなちょっと乱暴な話でもそれなりの感銘を受けてしまうのは、やはり作者の意識しているのであろう「同時代性」とでも呼びうるものゆえ、だろうか。いろんな要素からこれは映画化は出来ないと思われて、そんな、映画には出来ないことをメインに持ってきて、小説と言う枠組におさめたのだろう。もうすぐ公開される新作に期待。


『ゲルマニウムの夜』 花村満月:著

   ゲルマニウムの夜

 遅ればせながら、花村満月初体験。

 主人公の一種全知全能ぶりが鼻につくとは言え、圧倒的な迫力で、性愛、その背後の死の影、そして暴力が描かれ、虚無の奥に「神」という言葉が浮かび上がってくるさまに打ちのめされた。その背景にはつねに腐臭がただよっている。臭いの小説。「愛」とか「死」とか、つまらない言葉遊びをいつもブログ上で繰り広げているある男のことを思い浮かべ、彼の睾丸を蹴破りたくなってしまった。つまり、その、わたしの中にひそむ暴力への衝動のことを言っているのだけれども。公開中の映画は、きっと、見るとがっかりするだろうな。


『ぼっけえ、きょうてえ』 岩井志麻子:著

   ぼっけえ、きょうてえ (角川ホラー文庫)

 タイトルは、岡山弁で「すごく、怖い」という意味とのこと。そういうタイトルの小説など、一般的に面白くも怖くもないのが普通であって、その通例にしたがって、面白くも怖くもなかった。ごめんなさい。「怖いだろ、怖いだろ!」って、そればっかりで書いてるんだもの。

 ちなみに、いままでにわたしが読んでいちばん怖かった小説は、ジュリアン・グリーンの『モイラ』だと思う。余りに怖かったから、もう全部忘れてしまったし。


『ダ・ヴィンチ・コード(下)』  ダン・ブラウン:著 越前敏弥:訳

   ダ・ヴィンチ・コード〈下〉

 いや、上巻だけを読んだ時点での予測よりも面白く読めた。やっぱ、半分だけ読んでの感想というのはやめよう。恥をかく。でもね、自分で買うほどの本ではないのはたしか。暗号があまり面白くないんだよね。教皇(Pope)が詩人のアレキサンダー・ポープだろうって、推測がついたよ。ま、推測できるくらいなのが面白いんだと言えばそうだろうけれど、答えの意外性がないのですね。

 でも、皆がこの本を読んで面白いと思うのは、要するにキリストの謎の部分でしょ? それは、他の本を読んだ方がよっぽど面白いと思うよ。例えばクセジュ文庫には「テンプル騎士団」も「オプス・デイ」も単独で本になってるし。映画は、多分見ないな。


 

 

*1:ティムの死は、「ディス・モータル・コイル」のレコーディングの10年以上前のことだろうって!

*2:これは、例えばリチャード・ベイマーのことを言っているのだけれども、この本では「リチャード・ビーマー」と、御丁寧に誤記されている。

なんすなんす 2006/01/19 01:56 ”Song To The Siren”で勘違いしたのでしょうね。

hibikyhibiky 2006/01/19 02:13 こちらではお久にお邪魔致します。。。
リンチのインタビュー本、かつて読み込んだんですが、たしかに各所いいかげんな誤記が目立ったのを覚えてます。いま担当編集者の名前見たら、何となく納得(笑)まーフィルムアート社は生真面目なシネフィルさんたちの巣窟なので、教養に偏りがあるのもいたしかたなしかと。。。

crosstalkcrosstalk 2006/01/19 06:54  適切な註をありがとうございます。
This Mortal Coil(これは、バンドと言うよりはプロジェクト・チームなのだけれども)が、1984年発売のそのファーストアルバムでTim Buckleyの”Song To The Siren”を取り上げて評判になり、リンチは最初は”Blue Velvet”の中でこの曲を使おうとして、結局、”Lost Highway”の中で使いました。サントラ盤にはこの曲は入ってなかったですね。
 Timが薬物のオーヴァードゥースで他界したのは70年代の始めのことで、ま、このThis Mortal Coilのおかげで、ちょっとしたTimのブームも起きました。ってぇことですか。
 リチャード・ベイマーは、『ウェストサイド物語』の忘れられた主演男優。『ツインピークス』に出てました。
 そうですね、「教養に偏りがある」ということなのでしょう。

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■ 2006-01-15(Sun)

[] 『横浜ダンスコレクションR受賞者公演』 岡本真理子/東野祥子/濱谷由美子 @横浜赤レンガ倉庫1号館  『横浜ダンスコレクションR受賞者公演』 岡本真理子/東野祥子/濱谷由美子 @横浜赤レンガ倉庫1号館を含むブックマーク

・岡本真理子『プチサバイバル・ガーデン』

・東野祥子『Double-Montage』

・濱谷由美子『R』

 えっとね、この、「横浜ダンスコレクション」は、旧バニョレ国際振付賞(今は名前が変わって、ちゃんと書くとものすごくめんどくさいので書かないよ!)の日本選考会をかねたコンペティションをやっているわけで、この日は、その昨年のコンペで受賞したアーティストの、新作お披露目公演、といいましょうか。昨年は旧バニョレ国際振付賞は開催されてないし、っつーか、前々回ぐらいのこの日本選考会での選考結果にいろいろと疑問があったりしてね、それ以降日程はだらだらと長くなるし、チケット代は高いし、もういいや、って気分にはなっているんですよ。実際、今年はそのコンペ部門には行きまっせんでした。なんだかね、ちょっとフィールドのベクトルが違ってきたイヴェント、って気がしてしまうのですね。

 この日は、岡本真理子さんの作品を目当てで来ました。この日の新作は去年いちどdie pratzeで公演されていて、その時の評判はちょっと耳にしていたので期待していたんです。

 岡本さんの作品の魅力とは、要するにそのインディヴィデュアルな「秘儀性」みたいなところにあって、つまりは、巫女さんなんですよね。彼女は。それが、密やかな、オブジェとの交感の中で、「ダンス」などと呼ぶ必要もないような独自の世界を垣間見せてくれるの。最初に彼女の『まばたきくぐり』という作品を観た時は「衝撃」で、自分が観たいと思っていた時間と空間を合わせ持った、ワンアンドオンリーな作品と写り、いや、これですよ!って感じ、だったのですよ。

 う〜ん、でも、この日の作品はね。ちょっと拡散しすぎてしまったかな。一種の神秘性が消えてしまい、「ダンスへのユニークなアプローチ」みたいな落ち着き場所に落ち着いてしまった印象。スコップの上でのサーフィンとか、魅力的なシーンもあって、さすがに岡本さん!とも思えることもあったのだけれども、この日の印象でいえば、「巫女さん」ではなくなってしまっていた。一種の文学趣味、そして美術との密やかなコラボとか、他の誰にも出来ないような世界を持っている方だから、一挙に崩れていってしまう人ではないと思うけれど。次回作に期待したい、というか、今回の作品でも、もっと別の場所(こじんまりとした所)で観てみたいと思ってしまった。

 東野さんの作品はわからないのね。わたし。現代的でカッコイイ世界観を示そう、というのがまっ先にあるんじゃないかなぁ、とは思うんだけれども、いや、はっきり書けば、例えば、上から生のステーキ肉が落ちてきて、それを女性ダンサーが自分の胸にのせて、男の手を引いて舞台から去って行くような演出、そういうのが「ありえない」と助言してあげられる人がいないらしいことが彼女の抱える問題なのだろうか、と思うね。まとめあげる力がないとは思えない人なので、「カッコイイ」とはどういうことなのか、もっと突き詰めて欲しいです。当人のルックスは「カッコイイ」のだから。

 濱谷さんのはね、既視感に溢れる作品なんです。海外の某カンパニーが10年以上前に同じ振りをやってます。おそらくは知っていてパクってるし、それ以上の展開が見えないのですね。知らないんだったら、そういうマッスルな路線をとるのであれば不勉強すぎます。観客をなめてはいけません。それだけ。


 

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■ 2006-01-14(Sat)

crosstalk2006-01-14

[] 『風が吹くまま』 監督:アッバス・キアロスタミ  『風が吹くまま』 監督:アッバス・キアロスタミを含むブックマーク

(「日本〜イラン現代美術展」関連企画として、「BankART 1929ホール」にて無料上映)

 いやぁ、キアロスタミ、久しぶりです。『友達のうちはどこ』からの「ジグザグ道三部作」は、公開当時に全部見たんだけど、それ以降は、なんでだか一本も見ていない。う〜ん、生意気かましますけれど、多分ね、もうわかっちゃった気分になってしまったんだね。キアロスタミの方法論みたいなの。
 だから、今回もちょうどスケジュールが合致して、それに「無料上映」だから見ましたよ、って感じだったんだけれども。ま、彼の作品歴を見ると、この『風が吹くまま』の前に『桜桃の味』というのがあって、『風が吹くまま』までで考えれば、その一本を見逃しているだけ。あ、『桜桃の味』っていう作品も、かなり評判になっていたよね。

 ‥‥キアロスタミ、面白いっす。やっぱり。いや、すごく面白い。とっても楽しい2時間だった。ってーか、あまり「面白い」とか「楽しい」とか書いてしまうと、そりゃぁ言葉として違うだろう、そんな軽々しい言葉で説明できるようなもんじゃなくって、もっともっと重々しいテーマの作品だろうに、っていう気もするんだけれども、やっぱ、見ている途中の気分、見終わった時の感じは、面白くも楽しいものだったよ、って、まずは言ってしまいたいのだね。

 この作品には、わたしがかつて見た、彼の「ジグザグ道三部作」で見ることのできたキアロスタミの映像世界が、あちこちにパッチワークのようにはめ込まれていて、そんな映像がまずは、わたしをとりこにしてしまう。って、いきなり丘を走るジグザグ道だよ。ここで、車を走らせる主人公たちが道の脇で農作業をしている人たちに何かを尋ねたりするのは、そっくり『そして人生はつづく』の中の印象的なシーンの再現だし、彼らが到着する村の、その建物の青い窓の枠などの色彩は『オリーブの林をぬけて』を思い出させてくれる。そして、村の中を通り抜ける迷路のように折れ曲がった道には、『友達のうちはどこ』の記憶が染み付いている。

 そう、この『風が吹くまま』は、テヘランから700キロ離れた、という村を、その土地の珍しい葬儀の風習をカメラにおさめるために訪れたスタッフたち、というか、そのディレクターと村人たちとのやりとりを中心としたドラマなんだけれども、ここにそのディレクターの携帯電話にかかって来る指示の電話とか、家族からの電話とかが重なって、この、「テヘランから700キロ」という、その「距離」こそが、この作品のもうひとつの主題なのではないだろうか、などとも思ってしまう。つい、帰宅してから世界地図を拡げて、イランの地形を眺めて、その形に見入ってしまった。そして、その「テヘランから700キロ」ということを考えると、キアロスタミが決して語らない、イランという国の抱え持つさまざまな問題についても、ついつい考えてしまうのだよ。

 この映画には、見えないものがいっぱい出てくる。もちろん、主人公にかかって来る電話の主は観客には見えないし、主人公に携帯がかかってくるたびに、良好な電波を求めて車で直行する丘の上、そこで井戸だかなんだか穴を掘っている男の姿も、一瞬写る彼の足の裏を除いては、まったく見られない。そもそも、主人公と同行したスタッフの姿さえも、最後まで出て来ないのだし。うん、この映画の魅力のひとつは、その、「見えない」ということの映像化に他ならなくって、実はそれこそが映画、映像の持つ魅力なのだよと、キアロスタミが言っているようだ。だから逆に、その一瞬写る穴掘り男の足の裏、これがものすごく鮮明にわたしの脳裏に焼き付く。ここに映画の魅力があるのだよ、と。そう、わたしにとっては、この映画のクライマックスは、それこそ、その男の足の裏が垣間見られる瞬間なのだ。

 しかし、この作品でキアロスタミが仕掛けた物語、主人公のディレクターはキアロスタミの分身のように思えてしまうのだけれども、彼をめぐる物語の中に、香辛料のようにふりかけられた「意地悪心(いじわるごころ)」としか呼びようのないような展開、それがわたしは大好きで、いや、そういうスパイスを「大好き」と呼んでしまうのはちょっと気が引けるし、人の生と死をめぐるもうちっと高尚な表現を読み取る人も多いんだろうけれど、というか、そういうテイストを押し出しながらも意地悪してしまうキアロスタミがやっぱりすごいんだけれども、そんな意地悪がキアロスタミ自身に向けられているように読み取れるからこそ、この作品が観客に一歩引いたスタンスを与えて、とりあえずは、そんな深刻な問題に観客を巻き込まずにまずは観客を楽しませ、そしてゆっくりと、暗闇の中で、そのスクリーンとの距離を計るように、観客に何かを思わせ、考えさせてくれる。これは、ある意味では「理想的な映画作品」と呼んでしまっても良いように思えるのです。って、絶賛してみます。


 

 

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■ 2006-01-13(Fri)

[] 黒沢美香ソロ・ダンス『薔薇の人-ROLL-』 @神楽坂die pratze  黒沢美香ソロ・ダンス『薔薇の人-ROLL-』 @神楽坂die pratzeを含むブックマーク

 再々演。わたしは再演時の舞台を見ているけれど、てっきり中野のテレプシコールで見たものと思い込んでしまっていた。なんか、この神楽坂die pratzeと、中野テレプシコールって、ごっちゃになる。

 ものすごく刺激的な舞台で、客にはこれをもう何度も見ているリピーターもたくさんいらっしゃって、黒沢美香さんに「代表作」などという概念を持ち込んでもしょうがないのだけれども、これを彼女の「代表作」と、とりあえず呼んでしまおうか。

 ここにあるのは、「ダンサーがステージで踊る」という行為そのものを「ダンス」にする、という試み、というか、平たくいえば、ダンスについてのダンス、踊る自分に対してとの批評的対話を、踊りで持ってする、そういうメタな構造の作品で、ダンサーがステージ上に別のステージを自分でしつらい、服を脱ぎ、「ストリップ用の衣装」(!!!)をまとい、ビートルズ・ナンバーをバックに、ショー・ダンスを踊る。そんな構成を基本に、黒沢さんが(5歳の時から踊り始めたという)ダンサーとしての自分の身体との対話を繰り広げる。それは、ある意味では「踊る」ということへの批評的行為でもあり、「ダンス」を見に来る観客への問いかけでもあって、舞台空間に「舞台の日常」と「舞台の非日常」がせめぎあい、フィクションでもあり、ドキュメンタリーでもあって、die Pratzeの黒い壁のむこうには広大な空間、宇宙が拡がっていて、そこではある家族が一家団欒で食事をしていたり、火山が溶岩を吹き上げて噴火していたり、宇宙船が惑星に擬態して地球のまわりを周回していたりする。わたしはわたしとしてこのdie pratzeの客席に坐り、黒沢美香さんのダンスを見ていた。そんな2006年1月8日の日暮れ時だった‥‥




 

 

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■ 2006-01-12(Thu)

[] 『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム/Bob Dylan:No Direction Home』監督:マーティン・スコセッシ  『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム/Bob Dylan:No Direction Home』監督:マーティン・スコセッシを含むブックマーク

    ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック 

 最初から脱線します。

 わたしが洋楽を聴くようになり、レコードを買い集め始めたのは、中学1年の冬の頃からの事で、ちょうどビートルズ旋風がその猛威を振っていた頃になる。とにかくレコードが欲しくって欲しくって、親から昼食代として毎週もらったお金、本来ならそのお金で、毎日学校に売りに来るパン屋から焼きそばパンとか買って食べてなくてはいけないんだけれども、つまりは、毎日昼食は抜きまして、そのお金で、週に1枚とかのシングル盤(ドーナッツ盤)を買っていた。ちょうど一週間分でシングル1枚買えたな*1。その他の小遣いの大半も「塩ビ」に化けた。
 結局、わたしが毎週のようにシングル盤を買い漁ったのは、わたしの中学時代の、二年とちょっとの間だけだった*2。その間に、おそらくは200枚ぐらいのシングル盤を買い集めていた。この間の欠食状態は、もちろんわたしの脳の発達、そしてわたしの足の長さの発達に深刻な影響を与えたわけだけれども、その頃に買って聴いたシングルの音の数々は、みんな今でも深くわたしの胸の中に残っていて、ちょっとしたきっかけがあれば、いつでも再生可能な状態でスタンバイしている。

 ボブ・ディランのシングル盤は、2枚持っていた*3。ひとつは『ライク・ア・ローリング・ストーン』("Like a Rolling Stone")だね。B面はなぜか『風に吹かれて』だった。シングル盤のくせに演奏時間が6分もあって、お得だった。もう一枚は、『窓からはい出せ』("Can You Please Crawl Out Your Window")というシングルだった。こいつはすごかったぜ。今でも、ディランの曲ではトップ3に好きだ(他の2曲はその時の気分で変わるけれど、この曲は動かない)。この曲は「パンク」だ*4。そして、この曲は「不遇」でもある。どのオリジナル・アルバムにも収録されていないし、どのベスト盤にも入っていない。ただいちど、『Biograph』という3枚組のセットに収録されたっきり。で、わたし自身も、この曲をもう30年ぐらい(!)ちゃんと聴いてはいない。でも、先に書いたように、この曲はいつでも再生可能な状態でスタンバイしている。崩れ落ちるようなバンドの音からなるイントロに続いて、印象的なハイハットの音が基調リズムを刻む。チューニングが狂ったようなギターとともに、ディランの声が響く。"He sits in your room‥‥"。メロディーは、見失われている。ただ聴くものを挑発するように、混乱したようなバンドの音とディランの声が3分間続き、終わるでもなく永遠に続くでもなくフェイドアウトして、シングル盤はその最後の溝にプレーヤーの針を送り込んでしまう。わたしにとってのディランがここにあった。

 だから、映画の事を書けって。

 うん、久しぶりに、この『窓からはい出せ』を思い出した。いや、映画の中でこの曲が演奏されるわけではないのだけれども、ココではじめてわたしが眼にする66年のディランのライヴ(イギリス・ツアーの映像)。これが、すごい。映画はいきなりに『ライク・ア・ローリング・ストーン』のライヴ。30年前の映像とは思えないぐらいに鮮明で、ステージで逆光のライトを浴びたディランのもじゃもじゃのあたまの映像は、彼のベスト盤のジャケットそのまま、というよりも、その一万倍も美しい。そう、ここでのディランはあまりに美しいのだ。そして、その『ライク・ア・ローリング・ストーン』の演奏が、わたしに『窓からはい出せ』を思い起こさせてくれた。その歌詞の中の、例えば「Didn't you」や「Kiddin' you」の部分を唄うディランは、「飛ばしている」。わたしは涙を流したよ。もう、もうもう、これだけで終わってもいい。いやもう、どうでもいいんだよ。スコセッシがどれだけ丁寧に編集して、60年代前半のアメリカの状況とディランを重ね合わせても、どうでもいいんだよ。不満なんかないよ。3時間30分はあっという間に終わってしまった。

 いや、不満はあるよ。その、66年のあまりに美しいイギリス・ツアーの映像。そんなものが残っていたのだったら、他の何もいらない。それだけを、何の編集も加えさせずに、ただただ見たかった。聴きたかった。この映画(?と呼んでいいのか?)を見て、わたしは、その『窓からはい出せ』の収録された『Biograph』を、探して手に入れることにした。そういう映画、だった。サンクス。

(おっと、書き忘れるところだったけれども、菅野ヘッケルによるこの映画の字幕は、対語訳ではなくって、ひとつのセンテンスをまとめて翻訳して字幕にしていて、中途半端に英語のわかる人間にとっては、実に困ったものだった。つまり、英語で語られているセリフの、続きの部分が先に日本語訳で出てしまう。ものすごく違和感があったことは書いておこう。それから、60年代のグリニッジ・ヴィレッジを紹介する写真の一枚の奥には、ティム・バックレイの姿が、確かに写ってましたね! タイニー・ティムも写真で出てきて、コメントされていたのだけれども、字幕には訳されていなかった。)

  

*1:後に、何かの雑誌で、RCのギタリストのチャボが、中学時代にまったく同じようにしてレコードを買い漁っていたことを知った。ちょっと感慨深いものがあったな。

*2:わたしが高校に進学した頃には、洋楽はすっかり「ロック」と呼ばれるようになり(というか、「ロック」が主流となり)、アルバム中心のリリースに移行してしまっていた。

*3:その後、アルバムは5〜6枚は買った記憶があるけれど。えっと、つまり、わたしは決してディランの熱烈なファンではない。

*4:ニック・ホーンビーという、コンサバなライターの本を2冊ほど読んだのだけれども、その『ソングブック』という本の中で、まさしく、この『窓からはい出せ』を「パンク」と規定していた。この部分と、リチャード・トンプソンへの敬愛ぶりという点においてのみ、わたしはニック・ホーンビーが好きだ。

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■ 2006-01-05(Thu)

[] 『ジュスティーヌ』(007) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(007) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第007回:少しペースを上げようか。

 結局、当面は、この書物の上で、ストーリーらしいストーリーは展開されないようだ。まず「アレキサンドリア」という土地があり、その「舞台」の上で様々な登場人物が入り乱れ、そのさまは、今はそのアレキサンドリアから遠く離れた「ぼく」という主人公の、切れ切れな追想として、ことばにされてゆく。「ぼく」という主人公は、「文学」という形式を信頼している。その信頼は、1950年代的な屈折を含んでの信頼なのだけれども、その中で、多くの人たちの断片的な肖像が、空から降ってくる紙切れに書きつけられた言葉が突然読み取れてしまうように、はらはらと、通りすぎていく。

 23ページから先。もう引用はあまりやらない。ここでは、ジュスティーヌのあらたな肖像、ネシム(ジュスティーヌの夫であり、笑ってしまうほどの富豪)についてのはじめての描写、ここでやっと登場するカポディストリアの紹介、そして、理髪店のムネムジャンの紹介など。そのあいだに、「ぼく」があるサークルでの講演会で講演をして、聞きにきていたジュスティーヌとのはじめての出合いのいきさつが語られたりする。

 「ぼく」とジュスティーヌの関係は、ここでは作者によって以下のように語られている。

「このような親密さをこれ以上おしすすめるべきではない。なぜなら、ぼくたちはもう、それぞれの想像のなかでその可能性をすっかり極めつくしてしまったのだから。肉欲の暗く織りなされた彩りの裏にぼくらが結局見いだすものは、二人を永遠の奴隷とするほどに深い友情なのだ」

 あー、少しはわかる気がするけれども、これって、おしすすめてもおしすすめなくっても結局は同じではないか。きみたちは早く別れるべきだね。ってえか、当事者が奴隷にされてしまうような「深い友情」って、理想的なんじゃないのかな。お互いの人格を捨て去ってさ。よくわからんけれども(勝手な感想)。

 このあたりは、二人の会話で次のように語られる(って、また引用いっぱいしてるじゃん)。

「貧乏な学校教師とアレキサンドリア社交界の女の恋愛なんて、どうにもなりやしない。ありきたりのスキャンダルにおわって、二人だけとり残されて、ぼくをどう始末したらいいか決めるのがきみの仕事になるなんて、つらいことだろうな」

 ジュスティーヌは真実を聞くのがきらいだった。彼女は片ひじをついてこちらを向き、あのすばらしい苦しげな眼ざしで、長いあいだぼくの眼をみつめていた。

「このことではもう選ぶ自由はないのよ」彼女はぼくがとても好きになっていたあのしゃがれ声で言った。「あなたはまるで選ぶ自由があるような話しかたをするのね。わたしたちは選択できるほど強くもないし、悪人でもないの。これはみんななにか別の存在によってきめられた実験の一部なのよ。それがこの町なのか、わたしたちのなかの別の部分なのか、わたしにはわからないけれど」

 ‥‥ま、女性からこういうことを言われたら、屈しますね。これは漱石の『それから』の美千代のセリフ、「覚悟を決めましょう」にも匹敵するね。いや、美千代には及ばないか。説明しすぎ。で、このすぐあとに作者は、ジュスティーヌに、洋裁店の多面鏡の前で次のようなセリフを言わせる。

「ごらんなさい! ひとつのものが五つの違う形になって映るのよ。わたしが小説家なら、性格描写に多次元的な効果を出そうとしてみるところだわ。プリズムをとおして眺めるようなものを。人が一時にひとつのプロフィルしか見せてはならないってこともないでしょ」

 つまり、これはダレルが、この『アレキサンドリア四重奏』でやろうとしていることなんだけれども。

 そう、ここでは、この小説の中で大事な役割を果たすカポディストリア(ダ・カポと呼ばれる─こう呼ばれるのは、彼の財産、醜さと同じくらいにすごいという評判の性的能力ゆえ、らしい─)が紹介される。内に狂気を秘めた猟色家。そして、この都会の生き字引、死者を含め、町中の人のことを知っている、ちびでせむしのムネムジャンも紹介される。

 今日はすごい。40ページまで読んだ。


 

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■ 2006-01-02(Mon)

[] 『除夜舞 28周年』 2005/12/31 @ 明大前 キッド・アイラック・アート・ホール(KID AILACK ART HALL)  『除夜舞 28周年』 2005/12/31 @ 明大前 キッド・アイラック・アート・ホール(KID AILACK ART HALL)を含むブックマーク

 どちらかというとパーソナルなイヴェントで、ここにあえてレポートすることもない気もするのだけれども、いくつかのパフォーマンスは突出していて、わたしにとって、2005年という年におとしまえをつけるにはふさわしい企画だったし、印象に残ったパフォーマンスをレポートしてみます。ここに取り上げなかったパフォーマンスにも好きな(気に入った)パフォーマンスもあったのですけれど、とりあえず、書けそうなモノを取り上げます。

 しかし、実は移転後のキッド・アイラックを訪れるのは、これがはじめて。うわぁ、狭くなってしまったんだな。タッパとか、黒壁とかは昔と変わらないんだけれども、半分ぐらいの面積になってしまったようだ。で、この日は次々にやってくる客にだんだんとスペースが圧迫されて、かなりぎゅうぎゅう詰めというか、ま、年越しに相応しい、熱気の溢れるイヴェントにはなりました。


 竹田賢一 (音楽)

 ちょっと音響的にトラブルもあったようだけれども、大正琴の演奏とミキシングされた別音源とのせめぎあい。最初に中近東風のメロディでの演奏があり、それにかぶさって、おそらくは様々な国の国歌であろうような音源が流される。そのあとにアメリカ国歌が演奏され、竹田さんの手によって徹底的に解体される。つまり、2005年版竹田賢一スタイルのジミヘン、というか、いや、そういう言い方はまったく本質的ではなくて、1969年のジミヘンの方法論を、2005年に竹田賢一が引き継いだ、と。とにかくこの演奏はまったくもって刺激的で、エアコンがききすぎてちょっと暑いくらいのホールのなかでも、背筋がゾッとしてしまった。

 実は終演後にちょっとだけ竹田さんにお話を伺い、やはりミックスされていたのは世界各国の国歌であって、最初に演奏されたのはイスラエルの国歌だったらしい。わたしは他の曲でナチ時代のドイツの音楽と勘違いしていたものもあったのだけれども、そうではなかったらしい。だから、わたしは、このステージを、全体主義やアメリカ主導のグローバリゼーションへの抗議のパフォーマンスと受け止めたのだけれども、ま、当たらずとも遠からずだろうか。竹田さんに、「今夜はデレク・ベイリーへの追悼をやられるかと思ってましたよ」と話すと、「ベイリー一人よりも、世界は追悼されるべき人で溢れているんです」との返事をもらった。じ〜〜〜〜ん! そういう演奏でした。


 岩名雅記 (舞踏)

 暗いステージの中央に、天井から細いリボンのような布が吊るされていて、そこにゆっくりと、岩名さんがほぼ全裸で現われる。頭には旧日本軍の軍隊帽をかぶり、左足にはゲートル、陰部には申し訳程度に隠すように小さな紙が置かれ、そこには何か書いてあったのだけれども、わたしの席、わたしの視力では読み取ることは出来なかった。右手に南部鉄の風鈴をぶら下げ、口にも同じ風鈴(こちらは風を受ける短冊が着いている)を喰わえ持っている。その風鈴の音が時々響く。天井からのリボンはもう片方の足のゲートルで、いつの間にか右足と繋がれている。

 ‥‥こうして、コスチュームとして外から与えられた衣装/意匠だけで、実はこのパフォーマンスは完結しているとも言える。岩名さんはほとんど動かないで、爪先立って、ゆっくりと体を回転させる。上からのライトが、岩名さんの肋骨の浮き出た、ある意味では貧弱な体を際立たせる。バランスを崩しそうになり、体勢を立て直してまたゆっくりとした動きを続ける。その一瞬の体勢の立て直しが、外的な意匠と内的な身体とのせめぎ合いのようで、緊張感を伴って眼が釘付けになってしまう。

 考えさせられることの多いパフォーマンスだったけれども、まだわたしにはまとめ切れていないというのが正直なところ。舞踏というジャンルの、視覚的な側面を拡大した解釈、というか、日本の中世からの演劇史のなかで継承している大事な部分が、ここにはあるのではないだろうか。

 岩名さんは現在はフランス在住。何年か前から映画製作を続けており、この日の報告で、その映画作品がようやっと完成。今年のカンヌ映画祭への出品を目論んでいらっしゃるそうで、秋にはなんらかの形で日本でも公開したいとのこと。カンヌでの成果など、期待しますね。


 若尾伊佐子(ダンス)

 若尾さんは古い知り合いではあるんだけれど、こうして彼女が盛んにソロ活動を始められたのはごく最近のこと。そんな彼女のソロを見るのは、これがはじめて。

 う〜ん、たいていのダンスというのは、ダンサーの身体の強度とか、その自律性がまずは視野に入ってくるのだけれども、若尾さんのダンスはまったく違う。ソロでありながらも、他者に体を引っ張られてしまって動いてしまっているようなダンスには、「他律性」などという言葉を思い浮かべてしまうし、何よりも、彼女の身体、その表情の弱々しさが印象に残る。特筆すべきは、「悲しみ」としか表せられないようなその表情で、それは、マラソンのゴールを切る野口みずきの焦燥し切った表情のようでもあり、銀盤に舞う村主章枝の思い入れたっぷりの表情のようでもあり、失語症に陥った皇后陛下の悲しみの表情のようでもある。

 目の前で繰り広げられる、その「弱さ」の展開、「悲しみ」の連鎖の印象は強烈で、これは一種希有な「ポエジー」の表現、と、言ってしまって良いと思うのだけれども、これが非常に日本的な展開と言うか、例えば竹久夢二に描かれた女性像のような印象でもあり、そのゆったりとした適格な動きと合わせて、不思議にノスタルジックな印象がかもし出される。こんなダンスの体験ははじめてのことだ。魅せられた。

 終演後の挨拶でも、彼女への拍手がひときわ大きかったような気がしたのは、それはわたしの錯角だったろうか。舞台がはねて、ただ彼女の所に駆け寄って「よかったよ!」って伝えるのが精一杯だった。

 彼女はこのあと、1月10日の、神楽坂die pratzeでの『ダンスがみたい!』に出演されるのだけれども、残念なことにわたしは行けないな。この『ダンスがみたい!』では、翌11日にも知り合いの中村公美さんが出演されるのだけれども、やっぱり、行けません。残念。


 今年は去年よりももっといろんな舞台に出かけたいけれど、やっぱり平日はキツイです。


 

NakanishiBNakanishiB 2006/01/02 17:02 私は最初の竹田さんのは間に合わなかったので、今はじめて知りましたが面白そうですね。「ショアー」の中でギリシャのシナゴーグで歌われている歌がとても耳に残ったので、何だろうと探していたらイスラエルの国歌(正確には建国後採用された)だったというので複雑な気持ちになりました。(ヘブライ語を国語とすることで結果として)イディッシュ語を抹殺することになったイスラエルの国歌に東欧(バルカン)起源のこの歌が採用されていることは皮肉な感じです。

 相変わらずだけど、入り口がわからなくてかなり迷ったりもしました。

crosstalkcrosstalk 2006/01/03 03:14 NakanishiBさん、どうもです。このイヴェントはそちらでも紹介して下さっていたんですね。イスラエル国歌の情報、ありがとうございます。まったく無知でした。

わたしも新しいキッド・アイラックははじめてで、最初はあのあたりをぐるりと一周してしまいました。そばや「やぶそば」との位置関係は昔と同じだったんですね。

あ、NakanishiBさん、ひょっとしたらどの人か解ったかも。

NakanishiBNakanishiB 2006/01/03 20:33  ちなみに私は明大前の駅で降りるのは初めてですw。そうです菅原さんの上演の途中で来た人です、とんでもない忘れ物を入り口にしてましたがw。

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