ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2006-03-31(Fri)

[] 吾妻橋ダンスクロッシング @吾妻橋・アサヒアートスクエア  吾妻橋ダンスクロッシング @吾妻橋・アサヒアートスクエアを含むブックマーク

 えっと、これで4回目を数える「アズダン」。え、そんな言い方ないか。今回も9組の参加。

●身体表現サークル「ベストセラー」
●たかぎまゆ「独り舞踏会in吾妻橋」
●ピンク「子羊たちの夕焼けボート」
●ボクデス(小浜正寛)「僕道一直線」
●HINOBI(日野武道研究所)「エチュード」
●室伏鴻「DEAD 3」
●ぼくもとさきこ「I Get High on you」
●山賀ざくろ「ヘルタースケルター」
●康本雅子+岡本真理子「オトギ巫コ」
●康本雅子+常樂泰「ブッタもんだすって」

(出演順ではありません)

 今回は、企画の桜井圭介さん流の、ちょっとユルい「コドモ身体(勝手に一人歩きしそうなこのフレーズ、いいのかなぁ?)」的な作品の中で、後半に二つ続いた、HINOBIと室伏鴻さんの硬質な舞台が短くても印象的だった。HINOBIの方々は舞台が狭くて窮屈そうだったけれども、「武術」として対する、二人づつの「組手」が複数絡みつつお団子状態になって、それがひとつのかたまりとして動く瞬間に、ダンスとは異なるアプローチからのダンス的試みとして、新しい可能性が垣間見えたように思った。室伏鴻さんは、ぶったおれる壮絶さ。

 「身体表現サークル」は、横浜トリエンナーレも見ていないので久しぶりなんだけれども、メンバーが増えていて、より複雑怪奇なことを、よりユルくやるようになっていて、その、見た目の「全然うまくならないジャン」みたいなのを、「もっとひどくなったね」みたいに見せるようなところが、さすが美術家だな、と。ショップでストラップや銀製の箸置きまで売っていたのに驚き。ちょっとスメリーを思い出す展開。応援したい。

 その「身体表現サークル」の常樂さんは、エンディングの司会もされ、康本雅子さんとのデュオもやってのけられて驚愕。康本さんは岡本真理子さんとのデュオもあり、その赤い着物での幼女ぶりのダンスは「少年王者舘」を思い出したのだけれども、タイトルとか見れば、それはつまりはオトギノマキコさんなのではないか。オトギノさんと「少年王者舘」をリンクさせて考えたことがなかったので、ちょっと目からウロコ状態。和風ダンスのあり方として、こういう路線の存在理由はある。というか、これだけ踊りまくる岡本さんを見るのも初めてだし、これが着物と似合って、いいのだ。来月の「少年王者舘」の「夕沈ダンス」、やっぱり見ようかな。

 ぼくもとさきこさんのは、要するに3人出て来てペンギンプルペイルパイルズのテイストそのままで、これはこれで楽しかった。断じてダンスではないが。わたしもしばらくペンギン見てないしな。

 ピンクの乱暴さと山賀ざくろさんの乱暴さも魅力的だったし、たかぎさんもいつものように妙なマテリアルを発見してこられる。今回は「愛情障害者」とかいう変な歌をバックに。小浜さんはオチがわからなかった。

 ‥‥こんなところでしょうか。このイヴェントは、ちょっと自分のやっていたことを思い出すところがあって、ま、当分目が離せません。(3月25日観劇)



 

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■ 2006-03-30(Thu)

[] ドイツ座『エミ−リア・ガロッティ』 原作:G.E.レッシング 演出:ミヒャエル・タールハイマー @さいたま芸術劇場大ホール  ドイツ座『エミ−リア・ガロッティ』 原作:G.E.レッシング 演出:ミヒャエル・タールハイマー @さいたま芸術劇場大ホールを含むブックマーク

 これはもう、1年以上前からネット上でそのドイツ本国とかでの評判を読んでいて、ずっと心待ちにしていた舞台。原作のレッシングというのはあれですね、岩波文庫で『ラオコオン』とか『賢人ナターン』なども翻訳されていた、ドイツ文学ではまことに著名な作家/批評家であるわけで、わたし、『ラオコオン』は読んだ記憶がある。全部忘れたけれど。で、この『エミ−リア・ガロッティ(1772年初演)』は、そんなレッシングの演劇論を実践した作品らしいんだけれども、そのレッシングの演劇論というのがどういうものなのかは、これがまったく知らないわたし。

 物語は、イタリアの(横暴でスケベな)公爵ゴンザーカが、平民の娘エミ−リア・ガロッティの姿を教会で見て一目惚れし、(「バカ殿さま」の侍従にそっくりな)マリネッリの助けを借りてエミ−リアの婚約者の(意外とアホな)アッピアーニを殺害し、自分のそれまでの愛人オルシーナ伯爵夫人を裏切ってエミ−リアを略奪する。エミ−リアの父親は復讐と娘を取り戻すためにゴンザーカの屋敷に乗り込む、と、簡単に言えばそういう話。とにかく18世紀の話。

 だから、そんな時代がかったコスチューム・プレイとも言える戯曲を、この21世紀にどう料理するのか、いったいその舞台の何がここまでの評判を呼んだのか、それを見極めたくって。

 さいたま芸術劇場の大ホールの舞台には、ものすごく奥行きの深い、パースペクティヴをきかせた、高さ7〜8メートルもありそうな塀のような壁面がそそり立っていて、その奥に、観客席から見ると、これはひょっとすると実際には不思議の国のアリスの小さな世界のドアのようにとっても小さなドアなのではないかと思わせるようなドアがあって、それだけ。実の所、この日本公演のために、これだけの高さと奥行きのある劇場を求めて、このさいたま芸術劇場での公演が決まったのだといういきさつも聞いていたので、この装置については知らないわけではなかったのだけれども、見た目に巨大でシンプル。ちょっとした現代美術のプロジェクトみたい。

 幕開きは、その薄暗い舞台奥のドアの左右の床に、小さなロウソクの灯火らしきものが置かれ、ドアが開いて、エミ−リア役の女優が、つまりはキャットウォークで客席の方にまっすぐ歩いてくるの。突然にそのエミ−リアの頭上で花火がつけられ、白い光の滝のような中をエミ−リアが歩く、って、いきなり蜷川幸雄ですか、って。それで、チェロのフィーチャーされた室内楽風の曲が流され始めるわけだけれども、この曲が、ウォン・カーウアイの『花樣年華』で使われた「夢二のテーマ」、という曲で、いや、この曲はその『花樣年華』の、ラストのカンボジアの遺跡のシーンで使われていた曲だと思うのだけれども(他のシーンはたしかナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」だけだったように思うけど)、「夢二のテーマ」ということは、清順の『夢二』で使われていた曲なのか。それなら何で今回の紹介が、『花樣年華』で使われた「夢二のテーマ」、という、まわりくどい紹介になっているのだろうか。どうでもいいことだけれども。

 とにかく、この「夢二のテーマ」が、この短くはない作品の上演中、いちどとして止まることがない。同じメロディのリピートというのではないけれども、そのヴァリエーションが、プレイヤーのフル・リピートでプレイされているみたいにずっと響き続けることになる。

 そして、エミ−リアは、その舞台奥のドアから、客席の方にまっすぐに歩いて来て、またきびすを返してドアに消える。これを繰り返す。着ているのはコスチュームでなくって、現代女性のごく普通の普段着というところで、そのファッションショー的なコンセプトの割には、出てくるたびに着替えしてるわけでもなく、ごく普通の、というか、地味といってもいい服装(これは出演者皆そうなのだけれども、公爵とか伯爵夫人とかいう身分で考えるとすごい地味)。

 で、いろんな他の役者たちも出てくるんだけれども、これが皆、舞台を動き回るのではなくって、ほとんどコントのように、舞台の一点に立ち止まって、そこで対話する。ゴンザーカとマリネッリ、マリネッリとアッピアーニ、マリネッリとオルシーナ伯爵夫人とかいう風に。これが、やけに大仰な身ぶりと、対照的に指先だけを使うような微少な演技との奇妙な混合であって、え?それって、チェルフィッチュ???などとちょっと思たりしてしまって。で、ここでの誇張された演技は、かなりコミカルなものであったりもするのだけれども、そのように見せ掛けながらも、展開される人間模様はそれでいてかなり奥深く読み取れる。

 もちろん、この作品のテーマのひとつは、権力者の横暴が、その力で人の心も手に入れようとする、その行為が生む悲劇、と言えるんだけれども、それと、この舞台で見て思ったのは、魅力的な女性、そんな存在がつい人にさらしてしまう魅力、英語でいえばseduction、あ、今はフェロモンというんだった。ちょっと違う気もするけれど、っていうか、わたしは男だからそんな女性の気持ちはわかってないのだけれども*1、その、外に出てしまう魅力の「罪」の話でもあって、つまりそこでこそ、最後にエミ−リアは「自分に罪がある」というのであって、その「罪」を形象化しようとした試みが、このタールハイマーの演出のねらいだったのではないか。それは、もうひとりの魅力的な登場人物、オルシーナ伯爵夫人が、復讐として侍従のマリネッリに、ながぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(〜×100)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いキッスをする印象的なシーンでさらに補強され、それは、そのような女性なるものに屈してしまう、男の弱さの話でもあるのだとも思った。自分の身に照らしてそう思ったのだろうかね。

 だから、それが意表をつく壮大な社交ダンス(男と女の出合いとして)のシルエットで終わるのも納得が行くし、すごいなぁ、と、ため息をついてしまうようなすてきな舞台だったんだけれども、その、なぜコンセプトがファッションショーなのにファッションを無視するのかとか、そのわりに外連(けれん)みがたっぷりの演出、そのコント的な部分とシリアスな展開との関係が一種の非調和(ディスコード)のように感じられもして、実はわたしとしては「絶賛」というのからはちょっとばかり距離をおいてしまう。(3月21日観劇)


 

 

*1:「わたしは(美人だから)ブスの気持ちがわからない」と語ったとある女性は知っていたけれど

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■ 2006-03-25(Sat)

[] 『ウェス・クレイヴン’s カースド』 監督:ウェス・クレイヴン  『ウェス・クレイヴン’s カースド』 監督:ウェス・クレイヴンを含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060325100556j:image

 特にウェス・クレイヴンが大好きだというわけでもないし、ま、『スクリーム』とかは見たけれど、最初のシーン、ドリュー・バリモアが電話の謎かけに答えられずに殺されるトコしか憶えていない。あそこは面白かったけれどね。で、そんなウェス・クレイヴンの新作。よくわからないけれど、久々の新作、という事なんだろうか。『スクリーム3』の公開が2000年とパンフのプロフィールには書いてあって、それ以降の作品名が見つからない。

 こうして作品のタイトルに監督の名前がくっついてしまうなんて、わたしゃゴダールとフェリーニぐらいしか思い浮かばないけれど、それだけ監督名がポピュラーなんだということなのか、固定ファンが多いということなのか、とにかくこの作品の邦題、最初、読み方がわからなかった。「ウェス・クレイヴン/エス・カースド」とか読んじゃって、謎のタイトルだなぁ、なんて思ったりしてて。

 結局、時間があまってしまって、何か映画でも見ようとして、どうも終映時間のこととか考えて、あと、クリスティーナ・リッチの主演であるということにひかれて、たまにはホラーもいいよね、って感じでこの作品を見ることに決めたんだけれども。

 しかし、この公開規模の小ささは驚いてしまう。宣伝もされずに、単館系でもない東京ではおそらくはいちばん小さな映画小屋で、宣伝もされずにひっそりと公開されているだけ。偶然その映画館の前を通りかかってポスターを見なければ、こんな映画の公開されていることさえ知らなかっただろう。わたしは公開初日の夜の回に行ったのだけれども、当然お客さんも非常に少ない。6〜7人だったかなぁ。

 で、映画は、コニ−・アイランドみたいな遊園地でのロックバンドのライヴから始まる。演奏されている曲はSam The Sham & The Pharaohsがオリジナルの、多分66年のヒット曲、「Little Red Riding Hood」(邦題は「赤ずきんちゃん」というのでした。日本でも多少ヒットしたのだ。)で、この作品は要するに「狼族」、狼男に狼女の話なんだから、つかみはグッド。

 舞台はニューヨークではなくってロスアンゼルス(というか、ハリウッド)で、そのことがこの映画の大事な背景になっていて、つまり、ある意味では、というか、ズバリ、この映画は、「Tinsel Town」ロスアンゼルスで映画を造ることについての映画なんだな。いや、映画を作っている登場人物が出てくるとかいうのではなくて、もっとメタな構造になっているんだけれども、そういう、「狼族」という、いかにも映画的な素材(「狼族」の話には、先行する文学などの原作はなく、ただ映画の中で産み出されたクリーチャーらしいのだ)を使って、映画であること、映画を作ることを、小難しい理屈は抜きにして、ただ遊んでいるのだね。それは言葉を変えて言えば、「虚」を楽しむ、という感覚で、はっきり言って、ものすごく面白かった。いや、娯楽作品としてこんなに楽しい作品に出会ったのは、ほんとに久しぶりですね。

 ハリウッドが舞台にされた、ハリウッドについての映画作品というと、デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』というのがあるわけだけれども、驚いたことにこのウェス・クレイヴンの作品、そのデイヴィッド・リンチへのオマージュに満ちている、というか、各所にリンチへの目配せがちりばめられていたりする。

 映画が始まってしばらくして、登場人物の乗る車が森の中のドライブを走っていて、その車中からの夜の景色が見覚えがあって、「あれ、これって『マルホランド・ドライブ』じゃなかったっけ?」って思ってたらそこで交通事故があって(『ワイルド・アット・ハート』の交通事故の記憶か?)、で、やっぱりそこはマルホランド・ドライブで、そりゃあ単にリンチと同じ場所を選んだだけということもあるけれど、ひんぱんに挿入される夜のロスアンゼルスのネオン、有名な「HOLLYWOOD」の看板の鳥瞰カット、クライマックスに出てくる、「カーテン」の前に立たされたスターたちのろう人形と、素材のテイストは皆限りなくリンチの世界を想起させてくれる。これがひとつの楽しみ。

 もうひとつの楽しみは、思ってもいなかった映画技術の巧みさで、非凡な編集の冴えとか、カット編集のリズムとか心地よく、的確なカメラ・アイを含めて楽しめた。というか、こういった部分で、(脚本を含めて)映画を作るということを楽しんでしまっている作品こそ、この作品なのだということなんだけれども。特に、短いカットだったけれど、クリスティーナ・リッチの見る悪夢の、そのサブリミナル的な情報、まさに悪夢のような感覚は気に入ってしまった。いや、しかしながら、人から狼への変身で使われるCGは、ものすごくちゃちい。このせいで大々的な公開に踏み切れなかったのではないかと邪推してしまうほどに(もしくは、わざとちゃちくしているのではないかと邪推してしまうほどに)、今の時代ではお粗末なものなんだけれども、映画の魅力というのは、そういうものではないのだからね。だから、そういう、本来の映画の魅力にあふれていたということ。

 とにかく、そんな、「虚」を楽しむための映画だから、ストーリーなんかありきたりのものでいいわけで、ハリウッドらしいイヴェント会社に勤めるクリスティーナ・リッチの、トレンディ(死語?)な職場恋愛ドラマとか、その弟の青春学園ドラマとか、適当に背景のスケッチとして楽しめる。クリスティーナ・リッチ以外の俳優についてはまったく知らない人ばかりだったけれど、キャスティングも冴えて、出演者全員がこの作品を楽しんでいる雰囲気が伝わってくるではないか。わたしは、クリスティーナ・リッチの会社の、同僚の女性役の女優が気に入ったね。しかし、『アダムズ・ファミリー』の呪縛から逃れられないかのように、たびたびホラー映画に戻ってくるクリスティーナ・リッチ、相変わらず魅力的なおでこちゃんなのだが、やはり、ホラー・クィーンとして名を残すのだろうか。

 映画の中のちょっとした対決シーンで語られるセリフが、この映画の精神を如実にあらわしていたと思う。

 「正々堂々? ここはハリウッドなのよ!」

 ‥‥実に楽しいホラー映画だった。



 

 

 

ええとええと 2006/03/26 00:56 ↑ここはタイトルかなハンドルネームかな。ぬらですう。
 そうですか。ウェス・クレイブンってそんなに偉くなっちゃいましたか。そりゃ偉くなるのはいいことですよね。しかもうまくなってんだったら何の文句のございましょう。彼は昔の彼ならずちって。確かこの人エルム街でブレイクしたんでしたっけ。
 わたしビデオ創成期に未公開輸入ビデオといふものを基地外的に見まくった時期ありましてね、その頃の印象を一言で言うならばホラー映画のエド・ウッド。あ、エド・ウッドもホラー映画かよっ(^^;)。
 娘を強姦殺害された親のエグい復讐劇のうたい文句が「処女の泉」のリメイク(^^;)(^^;)。頭ぐるぐるしました。そおかあああって(^^;)。やはり当時見たウルトラクソ作品「Hills have eyes」とかが先日リメイクされたそうで、ああ、この人そんなに偉くなったんだあ、と嬉しくなりました。
Sam The Sham & The Pharaohsだなんて(^^;)、流石におぢさんは違うなあ(^^;)。ロン・ハワードの「スプラッシュ」の冒頭、船の上で歌うのが彼等なんですね。歌うのは2作目の「おれぼれーいっ」とかいう歌(^^;)。クレジットされてたかどうかは忘れましたけど。

 当時だったらリンチも目くばせされても素早いスウェイで避けたでしょうけどね。そうですか、今だったら受け止めそうですか。いやあ、いいお話だなあ。

 なんちて、酔っぱらっちまうと、ついついcrosstalkさんにお話したくなっちまいましてね、どもですっ。

crosstalkcrosstalk 2006/03/27 06:38 ぬらさん、どうもお久しぶりです。すいません、酔っぱらっていらっしゃる時にコメントの返事出来なくって、って、今の時間はシラフですよね? 違う?
そうっすか、ウェス・クレイヴンの初期の作品っていうのは知りませんでしたが、そんなにムゴかったんすか。

Sam The Sham & The Pharaohsの「おれぼれ」が『スプラッシュ』で使われてたの、しかも当人たちが出てたのなんか知りませんでした。ヴィデオで見た記憶あるんだけど、そのあたりの記憶がない。やっぱ、妙なエジプト人のカッコしてたのかなぁ。
ぬらさんに喜んでいただけるようなことはあまり書けてない気がしますけれども、また酔っぱらったらいつでもお立ち寄りください。どうもでした。

淋池淋池 2006/03/30 04:25 「カースド」のカメラマンってどなただったんでしょうか?ウェス・クレイブンって「スクリーム」の頃から度々リンチ組カメラマンのピーター・デミング使っていましたが、カメラマンのせいでディティールがリンチに似てきたとか?
あ、でもそういえばクレイブンは92年ごろの作品「壁の中に誰かいる」もツインピークスのガソリンスタント夫婦をそのままサイコな夫婦として起用していましたね。やはり結構リンチを意識しているのでしょうか。
「カースド」ビデオになったら見てみます。

crosstalkcrosstalk 2006/03/31 15:48 淋池様、どうもコメントありがとうございます。
パンフによると、この「カースド」の撮影はロバート・マクラクランという人です。カイルの兄弟でしょうか?
昔の作品の情報、ありがとうございます。クレイヴンとリンチの関係というのも、わたしに面白そうな視点になってきました。
「カースド」が素晴らしいというのは多分にわたしの妄想でもありますので、あまり期待されませぬように。

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■ 2006-03-24(Fri)

[] カンパニー・マリー・シュイナール『牧神の午後への前奏曲』『春の祭典』 振付:マリー・シュイナール @新宿パークタワーホール  カンパニー・マリー・シュイナール『牧神の午後への前奏曲』『春の祭典』 振付:マリー・シュイナール @新宿パークタワーホールを含むブックマーク

     f:id:crosstalk:20060325013501j:image(ちっちゃいなぁ)

『牧神の午後への前奏曲』

 約10分のソロ・ダンス。だから音楽はドビュッシー。かつてニジンスキーが踊ったことで知られている楽曲なわけだけど。とにかく、その評判だけはあれこれと聞いていたマリー・シュイナール初体験。

 無音の舞台に右手よりひとりのダンサーがあらわれる。そのさまを何と形容すればいいんだろう。昔見た美術の本の図版の、ダダイズムのパフォーマンスの写真とか思い出す。全身白っぽいタイツで身を包んだ女性ダンサーの、その頭には大きなプロペラのようにらせん形をした角(つの)がつけられていて、体の半身には黒いトゲのような突起が、極端に拡大された剃り残しの髭のように飛び出しているし、右の太もものタイツの中には何か詰め物がされていて、そちらの足だけ妙に太くなっている。足首もなんか変。で、その顔もへんちょこなメイクであって、えっと、眼の上は赤く塗られ、眼の下と眉の位置には横に黒い線が描かれているの。アダム・アントみたいなの、と言って通じる人ももう少ないだろうな。で、その鼻には、つけ鼻というか、額から直線でまっすぐに鼻りょうがのびている。奇怪だ。

 そんなダンサーが、呼吸音を会場にひびかせながら、これまた奇怪な姿勢をとりながらうごめいて、少しずつ左に移動していく。な・な・な・な・なんなんだ、これは。「仮面ライダー」の出来損ないのショッカーの悪役のようでもあり、明石家さんまが「ブラックデビル」の次に考え出した新しいキャラクターのようでもある。で、手のひらをまっすぐ硬直させて観客席に向けながら、カクッ、カクッと動いて行く。いや、音楽だって始まっちゃうよ。

 ひとつ想像がついたのは、これは動くエジプト美術なのではないか、ということ。そう、顔は観客席に対して横顔を見せ(だからつけ鼻が効果を発揮する)、胸(からだ)は観客側に向いている。そして、腰から足にかけては、これが横を向いているわけで、それはまさに古代エジプト人が人の姿を二次元的に描写した時に用いた手法ではないか。で、それで、「ダンス」を踊る。面白い。まったく先の展開が読めない。

 っていうか、そんなことを真面目にダンスでやろうとする、そんな行為がちょっとアンビリーバブルであり、変態じみていて、なんだかそれは赤塚不二夫のマンガの登場人物が動き出したようでもあり、いつ「レレレのレ〜」とか、「シェ〜〜〜」とか繰り出すんじゃないかと。いや、それに近いことはやったんだけれども*1

 とにかく、ありとあらゆる奇怪なフォルム、奇怪な動きをとりながら、そして妙な呼吸音を出しながら(蒸気機関で動いているのか?)踊るダンサーの姿は、ごく一般常識的な美的感覚からほど遠いものがあり、とにかくダンスというものが一面でフォルムの美しさとかを追求するものだとしたら、ここで繰り広げられているダンスは、まったく既知のダンスではない。しかし、なぜか眼を離すことのできないこの魅力はいったい何なんだろう。

 う〜ん、ここにあるのは、ダンスプロパーではない、一種ハイブリッドな混合物としての舞台が現出している、その魅力なのではないだろうか。例えばロックとかの世界での、クラウス・ノミなんかの奇怪なメイクと奇妙なパフォーマンス、着ぐるみを着てステージに上がるジム・オルークの姿とか。例えば映画ではハーモニー・コリンの『ガンモ』での唐突なウサギ、とかと通じる世界でもあるように思えるんだけれども。それはつまりは、意味性から自由に逃れる事のできた、希有な現代的表現のかたちと言えるのではないかと思うんだ。

 で、この舞台の終盤は、ダンサーがその頭の角のひとつをポキリとへし折って、それを自分の股間に張り型のように装着して、床に四つん這いになってひとりピストン運動を始める。いかんよ。そんな通俗的な、わかりやすい事をやっては。うん、このラストは見なかったことにしよう。それを差し引いても、強烈な名刺代わりの驚愕の10分間。


『春の祭典』

   f:id:crosstalk:20060325014145j:image

 今度はストラビンスキー。基本的な方法論は『牧神』と同じ(作品としてはこちらの方がずっと早くに作られているらしい)。わけのわからない変態ダンスである。しかし、こちらはダンサー8人の群舞。これがまたすごい。

 床にたくさん置かれた、先ほどの『牧神』の角のような突起物。この形状への偏愛というのか、執着というのか、いや、その無意味さなのだけれども、それがやはりパワフルで、とにかく、「シャカシャカ、シャカシャカ」という、ゴキブリが這い回っているような音に合わせて、黒いパンツ一丁のダンサーたちが左右から這って出てくる導入部からして、またしてもあっけにとられる。

 これから、『春の祭典』の全曲、ダンサーたちが入れ代わり立ち代わり、ありとあらゆる多彩なムーヴメント、フォルムをこれでもかとばかりに繰り出す。よくもまぁこれだけのヴァリエーションを考えつけるものだとただ感心。しかも、アテ振りというか、この曲の構造の各パートをそれぞれのダンサーに振り分けて踊り別けさせたりする構成も巧みで、いやぁもうゾクゾクしてしまった。途中、ダンサーがその角型の突起を指先につけたり、腕や足にぐるりと巻き付けて登場したりしたときには、またしても鼻血が吹き出そうになってしまったではないか。

 いや、もう、今日決めたね。わたしはマリー・シュイナールのファンになる。決定。海外にも追いかけて行きたい。で、この作品のDVDとか出てないのかいな。欲しい。探し出したい。(3月18日観劇)


 

 

*1:一瞬、ダンサーが、「ホホホ」とか「ハハハ」とか笑い声をあげながらジャンプした瞬間、わたしは本当に鼻血が吹き出すかと思たよ。

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■ 2006-03-22(Wed)

[] MSI・VII写真展「コンゴ民主共和国:忘れ去られた戦争」国境なき医師団日本主催 @新宿パークタワー 1F アトリウム  MSI・VII写真展「コンゴ民主共和国:忘れ去られた戦争」国境なき医師団日本主催 @新宿パークタワー 1F アトリウムを含むブックマーク

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 この10年ほど継続されているコンゴの内乱はほとんどニュースにならないけれど、実は信じられないようなジェノサイドが繰り広げられた、20世紀〜21世紀を通じて最悪の混乱であることを、知っている人さえ少ない。ルワンダからの難民も巻き込んで、1990年代末から2000年代にかけて、この地では、(ほんとうに信じられない数字だけれども)一説では数百万人の人の命が失われてしまっているらしいのだ。この数字は事実として立証されているのではないし、これからも当分、「いったいコンゴで何が起こったのか」が正確に伝えられることもないだろう。すべては森の奥に消えてしまい、例えば旧ソ連での20世紀初頭の流浪の民の国家的放置による北方での大量死のように、永久にその真の姿は解明されないのではないだろうか。わたしは、免罪符のように「ホワイトバンド」とかいうものを身につけて、「アフリカの飢餓」などとしたり顔に語る人を好まないし、そのホワイトバンドを腕にまいている人は、いったいいつ、どのようにして、その「ホワイトバンド」を腕から外すのか、そのバンドを腕から外す時に、どのように自己合理化をするのか(アフリカの飢餓は終わったと思える日が来るのだろうか?)聞いてみたいと、いつも思っているのだけれども、この20年ほどのあいだのアフリカの窮状は、もうただ事ではないと思う。

 調べればわかることがある。アフリカの経済は、例えば西欧諸国の自国内の農業保護政策の前で対抗手段がない。アフリカで収穫される野菜よりも、ヨーロッパからアフリカに輸入される野菜の方がはるかに値段が安い。綿花なども同様だし。ただ今のアフリカはその資源の面で西欧から狙われているのだけれども、つまり、石油とか、貴金属。コンゴの場合は、世界有数のタンタルの原石の産地であって、つまり、タンタルとは、コンデンサの材料として電子機器に欠かすことの出来ない資材であって、近年の携帯電話の小型化などにともなう技術開発ではなくてはならない材料で、これはわたしも仕事の中で「これはタンタルコンデンサ」などと、重要な回路の中でその製品は使用しているのだけれども。そのタンタル原石、コンゴなどでは不正な手段で西欧に輸出され、その対価はなんと武器で支払われたりしているらしい。それが難民を森の奥に消えさせる力になる。そう、だから、携帯電話を自分の手に取る時、その中にはコンゴで採掘されたタンタルが使われていて、そのタンタルがコンゴの難民の命を奪うこと、その連鎖の中で自分が携帯電話を手にしていること、その事をいちど認識すれば、「ホワイトバンド」など不要なのだ。携帯電話は実の所、その「ホワイトバンド」なんだから。

 正直な所、この国境なき医師団日本主催の写真展に並ぶ写真には、その時、その場で、というインパクトはない。そこはテントに囲まれた「治療」の場の記録であって、このテントの外にいったいどんな地獄絵が展開されていた/いるのか、想像するのは難しい。しかしながら、わたしは今ここでロバート・キャパとか一ノ瀬泰造が出て来てくれれば、などとは思いたくはない。写真は事実を写す、それはたしかで、例えば1枚の写真が100冊の書物よりも雄弁に事実を伝えるという事もあるだろうけれども、そんな現場主義のカメラマン(メディア)がいなければ事実を認識出来ないというのは、もう過去の一時期のメディアのあり方として、忘れてしまっていいのではないだろうか。

 ここに展示されている静かな写真、その奥でいったい何が起こっていたのか、そのギャップを、想像力などというあいまいな機能で埋めようとしてはいけないのではないだろうか。そういう提案。「写真す〜実を」から、脱却する。

 「国境なき医師団(MSF)」については、わたしがここであれこれ紹介する必要もないでしょうが。

http://www.msf.or.jp/



 

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■ 2006-03-21(Tue)

[] ポツドール vol.14 『夢の城』 脚本/演出:三浦大輔 @新宿THEATER/TOPS  ポツドール vol.14 『夢の城』 脚本/演出:三浦大輔 @新宿THEATER/TOPSを含むブックマーク

 今年の岸田戯曲賞を受賞した三浦大輔さんによる、ポツドールの新作。ちょっと、村上龍のデヴュー作、『限りなく透明に近いブルー』を思い出したりした。

 三浦大輔さんの脚本、そしてこの演出は、ある意味で卑怯で狡いと思う。その卑怯さ、狡さをサポートするのはそれこそ役者の身体ひとつにかかっているわけだけれども、その卑怯さと狡さをわたしも引き継いでみて。この舞台を「演劇空間」と捉えることで読み取れること。

 哀しさ、そして空しさ。オレたちのやっていることは何なんだ。欲望を全開させた後に来る世界は? そういった、行き場のないやるせなさに貫かれた100分間。どこでオレたちは世界とつながれるのだといういらだち、世界はわたしを素通りして進行しているのではないかという哀しさ。見回してみてもなにひとつ確かなものが見つからない。空転するジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、そして、ジム・モリソン。

 救済は訪れるのか? 世界はもう停まってしまっている。毎日TVのワイドショーで放映される最新型ニュースはどの日も結局均質で、たとえそれが世界の終りを告げるニュースだったとしても、それが今ここにいるオレとどんな関係があるというのだ? オレではないワタシは、皆が寝静まった時に、ただキーボードを弾き、密かにすすり泣くしかない。いったい誰がそのキーボードを聴き、すすり泣きを聴くのか?

 卑怯で狡くなくてはあらわせない世界としての舞台。「負けるが勝ち」の爽快さ、その裏返しの、勝負がどこにあるのか見えない、いつのまにか「負け組」にされてしまう世界。この世界で「勝ち組」になるには卑怯で狡くなくてはならないという逆説。貫き通してほしい。

[] 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』 デイヴィッド・クローネンバーグ:監督  『ヒストリー・オブ・バイオレンス』 デイヴィッド・クローネンバーグ:監督を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060321093317j:image

 いやぁ、久々のクローネンバーグだというのに、単館での公開。いったいどうしたということなのか。おかげで、上映館の銀座・東劇にはけっこうな開場待ちの行列が出来ていたりする。

 で、原題は「A History of Violence」であって、つまり、ひとつの、ある家族を貫いていく暴力の歴史、そういう話として。

 驚くほどに起承転結のはっきりした、きちんとしたたたずまいの展開もちょっと意外なんだけれども、考えてみれば、クローネンバーグはいつもこんな作品作りだったわけだし。

 とにかく、導入部において、郊外に住むごく普通の家族の世界に、外から得体の知れない暴力の影が、じわりと忍び込んでくる描写は、実に不気味で気持ち悪くって、それはまぁエド・ハリスの無気味なメイクのせいもあるんだけれども、このあたりはまるでデイヴィッド・リンチの世界で、そう、あの『ブルー・ベルベット』をも彷佛させる、などと書くと誉めすぎだろうか。でも、この世界はほんとうにリンチの作品世界に近似しているではないか。つまり、家庭内の描写と、家から外の世界、そして、後半に出てくるフィラデルフィアの街との、それぞれが持っている社会的側面の描写、それぞれの関係が、ゾクゾクするほどにみごとに描き別けられていて、やはりクローネンバーグはいいなぁ。

 特に、この主人公家族の住む家、これがきっちりとその構造を持っていて、その中でも、外の世界との境界としての窓ガラス、その窓という存在の際立ち方が象徴的で、そこを境にして中の社会(家族)と外が別けられて、窓の中から外を覗くという視線の位置が、はっきりと、この作品の中での構造をあらわしていると見えた。

 そして、家族の中での分裂があらわになった時での、階段でのセックス・シーンこそが、この作品のクライマックスというか、このシーンのの撮影も編集も、見事としかいいようがないのだけれども、ここでの力関係の変化を何と言えばいいのか、つまり、この作品で言われる「バイオレンス」とは、セックスのことではないのか、そんな、暴力としてのセックスの描写として圧倒的で、それは映像が過激であるとかいうのではなくて(そういう期待をして見に行かないように)、つまり、外に出てくる暴力ではなく、セックスが本来持っている暴力的側面、それが家族としての二人の関係を変質させて行く経過として圧倒的で、だから、このあとの表面的な暴力描写なんか、ジョークでいいわけで、実際にこの作品の原作がコミックであるように、そんな、誇張された、ある意味それこそ映画的な暴力描写(に過ぎない)。

 そして、印象的なラストの簡潔な描写、食卓を一緒に囲むという、ある意味もっとも家族的な行為の中に、娘によって迎え入れられる父親、これはまるで神話のようなラストなのだけれども、その背後に、暴力の連鎖の中に身を置くことを決意した父を迎え入れる、アメリカなるものの、家族としての姿を読み取ることも、こっちの勝手でしょ!と。



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■ 2006-03-20(Mon)

[] チェルフィッチュ『三月の5日間』 作・演出:岡田利規 @六本木SuperDeluxe  チェルフィッチュ『三月の5日間』 作・演出:岡田利規 @六本木SuperDeluxeを含むブックマーク

 もうこの公演を観てからずいぶん時が経ってしまった気がするけれど、そう、今日3月20日は、そのアメリカのイラク侵攻から3周年の日。その『三月の5日間』の始まりの日から3周年。ついでに言うと、地下鉄サリン事件から11年目の日でもある。

 つまらない所からアプローチすると、男女二人が何日もただセックスしまくる(それだけがこの『三月の5日間』の主題というわけではないけれども)という話は、先行して、映画として二つの作品を観た記憶があるのがよみがえって来た。

 ひとつは大島渚の『愛のコリーダ』で、もうひとつは、実はそのタイトルとかうろ覚えなんだけれども、新作『バッシング』が海外でも評判になった小林政広監督の、『愛欲日記〜濡れたままもう一度〜』。このふたつ。『愛のコリーダ』については何も説明する必要もないだろうけれど、『愛欲日記』についてはちょっと説明が必要かな。タイトルからもわかるように、これは「ピンク映画」として公開された作品。主演は、「水族館劇場」でも活躍する葉月螢で、アパートの一室で、ふたりがただいつまでもセックスを繰り返す。たまに外に食料を買いに出かけ、朝になると毎日勤め先に電話して欠勤届けをするが、最後にはクビになってしまう。カメラはそのアパートから一歩も外に出なかった記憶があるけれど、ちょっと今では記憶も曖昧になってしまった。

 『愛欲日記』の製作/公開されたのが何時だったのか、ちょっと今すぐにはわからないのだけれども、多分10年ぐらい前、このような状況を言葉にすれば、「終わりなき日常としてのセックス」とか、そんな時代気分だっただろうか。『愛のコリーダ』で記憶に残っているのは、藤竜也がひとりで外を歩いて軍隊の行進とすれ違うシーンで、彼と彼女の物語の背後では、日本の軍国主義への歩みが確かに進行していたという時代背景が明確に立ち上がって来て、それはわたしにはとても印象的なシーンだったのだけれども。

 この、『三月の5日間』でも、ふたりは渋谷の街でデモ行進とすれちがう。そのことから、ただラブホテルにこもりっきりでヤリまくる男女と、アメリカがイラクに侵攻した外の世界との対比が明瞭に浮かび上がって、それこそがこの舞台のひとつの大きな魅力でもあるのだけれども。というか、この舞台は、当然ながら、ヤリまくる男女を主題として描くようなものではなくって、その当事者、周辺にいた人たち(わたしはミッフィーちゃんが好き)が語る、「こんなことがあった」みたいな、その特定の時と場所を切り取って提示してみせるような、「語り」と「身ぶり」の集積としての演劇。

 独特の、「〜みたいなぁ、」のような現代風の若者言葉(っていうか、わたしだってそういう話し方をするわけだし、現実に、先日若い友だちと話していた時、ある瞬間に「これって、チェルフィッチュ???」って思ってしまったりしたんだけれども)を駆使した台本と、有名になってしまった、身をよじるような仕種の振付け、そして、(今回気がついたんだけれども)意識的な照明の試み。この総体としてのチェルフィッチュの舞台は、ついすんなりとその世界に入ってしまえて、それがまったく新しい舞台体験であること、従来の演劇に対抗する野心あふれる行為であること、そのラディカルさをつい忘れてしまうのだけれども、ここにある、眼の前の「現代」を相手にして、そいつを切り刻んで料理してやろうという意志には、やはり感銘を受けるのだ。

 ただ一点、「デモ行進」ではなく、2003年らしく「ピースパレード」との呼称を使ってくれたら、そこに確実に2003年の六本木/渋谷が浮かび上がって来たのでは、と思う。

 次回はついに新国立劇場、ということで、楽しみにしております。(3月11日観劇)



 

■ 2006-03-15(Wed)

[] 田中泯 独舞『生理歩測』●地図−01−カラダカラダノダカラダ。 @東京都立戸山公園(箱根山地区/児童コーナー・スズカケの広場)  田中泯 独舞『生理歩測』●地図−01−カラダカラダノダカラダ。 @東京都立戸山公園(箱根山地区/児童コーナー・スズカケの広場)を含むブックマーク

 久々にみる田中泯さんの公演は「屋外公演」。早稲田と新大久保の間にある公園の一画が舞台。

 最初、舞台となる高台の裾で待たされている間に、この日の音楽の担当である大熊ワタルさん他のジンタ楽隊の演奏がひとしきり行われ、これは、客であるわたしとしては、自分のスタンスは「入場待ち」で並ばされている状態だったので、ふいにこんなかたちで余興のように演奏されてもなぁ、と、ちょっと気分的にはへこんだ。

 いや、大熊さんの音を聴くのも実に久しぶりのことで、やはり、チンドン屋のアルバート・アイラーが肩の力を抜いてストラビンスキーをこましているような、そんな音の流れが気持ちいい。昔から好きなミュージシャン。しかし、こんな音が田中泯さんの舞踏にはたしてマッチするのだろうか? いや、それがこのプログラムを知った時からの不安材料ではあったのだけれども。

 演奏が終わって、階段を上ってその高台のてっぺんに行ってみると、そこの中央の丸くなっている広場のへりに、すでに田中さんが横たわっている。カーキ色のアーミージャケットのような上着とオーバー、そして半ズボン、軍隊帽のような帽子*1という姿は、これはどう見ても旧日本軍兵士のようにしか見えないのだが。実際、このイヴェントに先行して、インドネシアで連続してこのような野外公園を重ねられていたとのこと。なおのこと太平洋戦争が想起される。

 だから、この光景は、1945年春の、アジアのどこかの光景なのだろうか? 隊からはぐれたのか、そもそも隊が全滅してしまったのか、たったひとりの兵士が野原の中でひとり横たわっているのを、わたしは目撃してしまう。カラスの鳴き声、野鳥の鳴き声がそんな幻視のBGMになる。

 そして、もうひとつの幻視。それはミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』で、公園で発見される死体。おそらくはすべての映像表現の作品の中に顕われたもっとも謎に包まれた死体。その死体を、わたしは今になって、この東京の公園で目撃してしまう。

 いや、しかし、そんなわたしの中の幻視、ある種の文学趣味は、ゆっくりと動き出す田中泯さんの動きとともに、いとも簡単に忘れ去られて行く。そこにあるのは、まさしく田中泯さんの身体でしかない。どんな種類の幻想の介入する余地などないのだ。ここは何かが演じられている「舞台」なのではなく、ただこの「土地」と「肉体」が、静かに、しかも激しく接触し続ける「現場」なのだから。眼の前の田中泯さんの肉体が風景の中をゆれ動きながら土と枯れ葉にまみれ、前進して行く。

 田中さんの動きに合わせて、その見る位置を変え、移動して行く観客の動きも、それはそれとしてひとつの光景で、トータルに、そこには濃厚な空間軸と時間軸とが交差していた。

 危惧していた大熊さんの音楽は、やはりわたしの思うところでは、観客の想像力に方向付けをしてしまうように聞こえ、正直すこし邪魔な気がしたのも確かだけれども、それも田中泯さんの望んだ新しい展開と捉えれば、これから今後それがどのように発展して行くのか、それを楽しみにしてみたい。(3月11日観劇)



 

*1:この帽子、あとで近くで見たら、「光州ビエンナーレ’97」って書いてあった!

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■ 2006-03-11(Sat)

[] ネオリベラリズムに抗して  ネオリベラリズムに抗してを含むブックマーク

 ベネズエラが、国旗(国章)のデザインを変えました。

   「馬が左向けば国は…」ベネズエラ、国章デザイン変更

 なんか、どこかの回覧板みたいに文章の不自由なニュースだけれども、要するに、「右」に向かって走るのではブッシュアメリカと同じではないか、ということなのでしょう。徹底しておられます。このニュースにはそのベネズエラ国旗が掲載されていないので、よそからいただいて来てみました。これ。

   f:id:crosstalk:20060311091921g:image


 これは、その馬が右向いている旧国旗になるわけです。

 最近ちょっと、ブッシュアメリカの主導する、政治的にはネオリベラリズム、経済的にはグローバリゼーションへの世界的な動き、それへの抵抗運動なんかを調べたりしていますけれど、近年の中南米、つまり、ラテンアメリカの政治動向というのは、とても興味深いものがあったのですね。いわば、そんなアメリカのネオリベラリズムに抵抗するかたちで、いろんな国でそんな運動があったり、実際に政権交代が現実のものになっている。今までこういう動向をちゃんと認識していなかったわたしもやはりバカだけれども、これからはもう少し意識的に情報を収集して行きたい。

 有名なのでは、メキシコのサパティスタ民族解放戦線(FZLN)の存在があるけれども、基本的に武力闘争、テロリズムの道を選択せず、ひろくインターネットなどの手段で、世界規模での支援、連帯を得ているのは、新しい時代の新しい闘争手段を予感させてくれる。彼らはすでに2001年の9月11日直後に、「戦争や敵対する両者によるテロリズムは、進むべき道ではない」として、そのスローガンの中に『人間性を求め、新自由主義に反対して闘おう!』との文字もある。

 今回国旗を変えてしまったベネズエラのチャベス大統領は、1998年から政権の座についているけれども、2002年には(いつものように〜まだやっている)アメリカの支援を受けてのクーデター未遂事件も起きていて、チャベスは危ういところで難を逃れている。

 ブラジルは2003年からルーラ政権で、去年だかには北側のサミットに対抗して「南−南サミット」を開催して、イスラエル〜アメリカ批判を繰り広げたらしい。こないだのリオのカーニヴァルでも、ベネズエラのチームがなんかの大賞を取ったっちゅうのも、一種の国家間の連帯意識だったんだろう。

 アルゼンチンも今は反ネオリベラリズム路線の政権らしくって、一度民営化されてしまった郵便システムをふたたび国営化に戻してしまったらしいのとか、日本人もちょっと注目してもいいのではないだろうか。

 その他にも、パナマとかパラグアイとか、反ネオリベラリズム政権がいくつも誕生している地域が今のラテンアメリカで、少しこれからも注目してみたいと思っている。

 ヨーロッパにも当然そういった反ネオリベラリズムという動きはあるわけだけれども、逆にそれが右翼勢力の台頭、みたいなかたちで表面化してしまっているのが難しいところ、なのだろう。ただ、スペインなども新しい政権になってすぐにイラクから撤兵しているし(現在もなお米英に協力してイラクに派兵しているのは、日本、韓国、オーストラリアくらいのものだということに、日本人はもっと敏感になるべきだと思う)、何年か前の世界同時に行われた反戦デモに、何百万人単位のの参加者のあったのが、今のヨーロッパだ。

 ネオリベラリズム、グローバリゼーションの勢力拡大というのが、ヨーロッパの政策面では福祉、文教政策の縮小というかたちで具体化しているのは周知の通りで、わたしはそういう意味では、近年、「ローザス」のアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルがジョーン・バエズの音楽でソロを踊ったこと(来日もしたけれども、わたしは残念ながらこれを見ていない)、そしてピナ・バウシュが今になって、自らも踊る『カフェ・ミュラー』を再演してヨーロッパ・ツアーを行ったことも(もうすぐ日本にも来る)、こういった反ネオリベラリズムという視点から眺めてみたい誘惑に駆られるし(ヴッパタールの劇場をオペラ劇場にしようという声が上がったらしいというのも、このような文脈の中で理解されるべきなのだろう)、フランクフルト・バレエ団を解任されたウィリアム・フォーサイスが、虚飾を排した小回りの効く規模でアグレッシヴな演出を見せてくれるようになった背後にも、そんな影を見てしまうことにもなる。

 日本? 日本はもうダメだと思う。どうでしょう?


 

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■ 2006-03-08(Wed)

[] 『The Forsythe Company 2006』Bプログラム @彩の国さいたま芸術劇場 大ホール  『The Forsythe Company 2006』Bプログラム @彩の国さいたま芸術劇場 大ホールを含むブックマーク

 ついに、フランクフルト・バレエ団から外に出て、そのカンパニー名から「バレエ」の文字が消えた。現在のウィリアム・フォーサイスは、18名のダンサーをひきいて、倉庫のようなスペースに本拠を置いて活動をしているらしい。いったいどんなことになっているのか、この春いちばん楽しみにしていた公演。20分づつの休憩をはさんでの三つの作品。ちょっと、上演順とは逆に書いてみたい。(写真は「The Forsythe Company」のHPから)

「One Flat Thing, reproduced」(2000)

   f:id:crosstalk:20060308230707j:image

 だから、実際には、この演目がこの日の最後に上演されたのだけれども。

 ‥‥舞台にライトがつくと、舞台奥からダンサーたちが「ズザーッ!」と音をたてて、テーブルを引きずって舞台手前に出てくる。圧倒的なつかみ。0.7×2メートルぐらいの大きさのテーブルを瞬時に横に5列、奥に4列、合計20、そのすきまを6〜70センチほどずつ開けて、マトリックスに並べる。

 そのテーブルとテーブルのすきま、テーブルの上、そして下を使って、十数人のダンサーたちが超高速で踊りまくる。つまり、テーブルの上に足を跳ね上げたり、腰を預けて踊ったり、テーブルの上に寝転がる体勢をとったり(その上に立ち上がって踊るというのは、基本的にやってないと記憶している)、これはこれだけのスピードでやるととてもデンジャラス。中学の頃に教室でふざけて追いかけっこをした事とかを思い出すといい。とにかく、ここの狭いすきまをこれだけ動き回るって、それだけでもすごい。ひとつ間違えれば簡単に担荷に乗って病院行きかも。しかも、それが、各ダンサーそれぞれの複雑系からみ合い動きの総体として、作品として大きなグルーヴ感を生み出したりするわけで、圧倒的。最後にまた「ズザーッ!」と皆がテーブルを奥に引き戻しておしまい。見事な導入部、そして見事な幕引き。

 しかし、ダンサーは十数人しかいなかったはずなのに、どうやって20脚のテーブルを移動させることができるのか? こんなつまらないことが見ていたときから疑問だったのだけれども、何のことはない、最初と最後の部分だけ、スタッフが何人か加わって、テーブル移動のお手伝いをしていたとの事だった。


「7 to 10 Passages」(2000)

   f:id:crosstalk:20060308230753j:image

 これが2番目の演目。舞台両サイドにテーブルが5列、縦に並べられ、左右それぞれのサイドのテーブルに、二人づつの男女が坐っている。奥に6人のダンサーがいて、要するにこのダンサーたちが、実にゆっくりと、つまり30分かけて、微少に動きながら舞台手前ににじり寄ってくる。その間、両サイドの人たちがテキスト(英語)を読む、というか、議論を繰り広げるような、そんな作品。

 中央のダンサーたちは、まるで関節を外したような、身体が麻痺したような、奇矯なねじれた姿態をとっているんだけれども、これに合わせて語られるテキストが、どうも、「monster」によって語られ、それを脇の女性が通訳している(というか、[The monster says, ‥‥」と同じ構文を繰り返す)ように聞き取れて、それがわたしの印象としては、ダンサーがモンスターの前でオーディションを受けているような印象で、そのモンスターの最初の発語が、「Do you know what you are doing?」という言葉であって、わたしとしてはこの部分だけつい聞き取れてしまったので、このあと、いったい何が語られているのか、すごく気になってしまった。

 そう、上の設問に対しては、別の声で「Yes, I know what I'm doing」と答えられ、このあとちょっと聴き取れない対話が続いて(「Our ○○ is yours」、みたいなこと言ってた? Our skill is yoursだったか?)、何度かこれが最初からリピートされ、そのあとの方では答えが「Yes, I know what I've done」と変化していたり、そのあとに、女性の声で「あなたのなすべきことは、誰かをあなたのひざにのせて、その口を閉じさせ、また開けさせることだ」などとも語られていた。

 で、舞台上ではその後半に、後ろの方に、ダンサーの衣装で真っ当な(?)ダンスを踊るダンサーが、左から右に移動していく。

 結局、ここでのモンスターとは、今回のフォーサイス来日公演のAプログラム、わたしの見ていない「You made me a monster」との関連を思ったりして、帰ってからちょっと調べたりしたんだけれども、ネットで検索してもこのテキストの内容についてはどこにも触れられていなくって、逆に、実はこの作品が、フォーサイスの前回来日時(@世田谷パブリックシアター)で上演されてもいた、スコットの南極探検隊に関わる作品に連なるものだということがわかっただけで、よけいにこの作品のことがわからなくなってしまった*1

 そんな、検索したレヴューとかを見ると、この作品、海外ではことのほか受けて、舞台では大喝采だったらしいのだけれども、どうも、この日本では、これはあまりにも「大駱駝艦」なので、観客も皆困ってしまったようだ。舞台と観客席との配置もこの作品には向いていなかったのかな。


「Clouds after Cranach (Part 1)」(2005)

   f:id:crosstalk:20060308230838j:image

 実際には、この作品がこの日の最初に演じられた。実のところ、こいつがあまりに強烈だったので、これを書くのを最後に持って来たわけだけど。

 しかし、フォーサイスの作品は皆タイトルがキマってる。「クラナッハの後の雲」なんて、何のことだかわからないけれども。

 そう、書くのを忘れていたけれども、舞台でのダンサーは皆普段着、というか、ジーンズやチノパンツ、ポロシャツとかTシャツ姿で、まったく飾り気がない。倉庫のようなスペースにはフィットした装いだろう*2

 で、この作品。舞台中央に進んできたダンサーたちがそれぞれ好き勝手な姿勢で好き勝手な動きを見せる中、舞台にひざをついていた安藤さん*3が、ふいに床を両手のひらで「バタッ」と打ち、その瞬間にダンサーたちは皆フリーズし、一瞬の間を置いてまた動き出す。この基本的なメソッドが、ダンサーがその役割を入れ代わり立ち代わりしながら、さまざまなヴァリエーションに膨らんで行きながら、それは超高速な「だるまさんがころんだ」のようでもあり、バスケットボールのない、J・ロビンスの『ウエストサイド物語』の「Cool」の21世紀型発展系のようでもあり、一見それぞれバラバラな動きをしているようなダンサーたちの間を、ひとつの動きが、水面に投げ込まれた石の産み出す波紋のようにまわりに拡がり、グループが生まれ、そのグループの中で親和する力と反撥する力がからみ合って、それは全体に大きなカオスのようでもあり、しかしあくまでも抑制され、確実にそれぞれのダンサーによってコントロールされている。

 この、ものすごく複雑なゲームのような、もうとても「群舞」などとは絶対に呼べないようなダンス、ここでは音楽も一切使われていなくって、会場にはだた「ぱたぱた」というダンサーたちの足音と、その、時々両手が床に打ち付けられる「バタッ」という音だけが響いていて、だんだんと耳に心地よくなってくるそんな音と、ダンサーたちの複雑で高速な動きが、わたしを見たことのない世界、聴いたことのない世界、でもどこか懐かしいような、ヒューマンな、既知感のある世界へとわたしを誘ってくれる。

 前回から気に入って使っている電子回路の用語(これが実はわたしの本職なのだし、リチャード・パワーズとか読んで影響されたのかも)を使えば、ここで繰り広げられているのは、1GHzにも相当するような高速周波数のCPUを搭載したマシーン、そんなマシーンたちが精密なプログラムを遂行して行くような、プログラマブルな高速マシーンと、負荷をともなった装置が一体となった身体装置として、それはもう、一種の「テクノロジー」と言ってしまいたくなってしまうのだけれども、それでもそれはそんな冷徹な非人間的なものではなく、あくまでもダンサー個人のエモーショナルな息吹きが伝わってくるように思えるわけで、そんなヒューマニティーを感知していなければ、このラスト、照明がだんだんと落ちて行く中で、ひとり舞台に残った赤いポロシャツのダンサーの姿が、その舞台の闇の中に溶け込んで消えて行くその刹那、その瞬間を「美しい」と感じ、記憶に留めようとする心もなかっただろう。


 しかし、この日に演じられた三つの作品、共に新しいフォーサイス・カンパニーにふさわしい肌触りを持っていて、「倉庫のような」と言われる、その彼らの新しい拠点での上演にふさわしい作品と思えた。

 「7 to 10 Passages」、「One Flat Thing, reproduced」の二つは2000年の作ということで、これはフランクフルト・バレエ団時代の作品なのだけれども、「Clouds after Cranach」は2005年の作、正真正銘のフォーサイス・カンパニーでの新作であり、この戦闘的なまでにアグレッシヴな作品こそ、新生フォーサイス・カンパニーの「マニフェスト」とも言いえる作品であって、フランクフルト・バレエ団とは異なる位相でのフォーサイス・カンパニーの今後には、熱烈に期待してしまう。


 

 

*1:モンスターについては、たしか何年か前に見たヤン・ファーブルの『美の戦士たち』という映像作品に出て来ていたフォーサイスが、やはりそこでモンスターのことをしゃべっていたような記憶がある。

*2:これも何年か前に見たフォーサイス/フランクフルト・バレエ団のドキュメンタリー(監督は『リーヴィング・ラスベガス』とかのマイク・フィッギスだった)の中で、フォーサイス自身が、劇場のロビーにダンスと関係のない商品を並べるスポンサーとか、ダンサーたちにストリップのような衣装を着せたがるスポンサーのことを苦々しげに批判していたけれど、この新しいカンパニーも当然スポンサーがついているとは言え、これらのプロブレムはきっと解決されたことだろう。

*3:蛇足だが、安藤さん絶好調であった。あと、中国系の長髪を束ねた男性ダンサーとか良かった

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■ 2006-03-06(Mon)

[] 『フランス国立リヨンオペラ座バレエ団』 @神奈川県民ホール大ホール  『フランス国立リヨンオペラ座バレエ団』 @神奈川県民ホール大ホールを含むブックマーク

『大フーガ』 振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル

 舞台を見ていて、これはたしかに『ローザス』だ、いや、つまり、ケースマイケルの振付けだと合点はいくのだけれども、何かが違う。それは、踊っているのは「ローザス」ではないのだから当然のことなのだけれども、そのダンスの中に、「ローザス」にあったなにか大事なものが欠如して見えてしまう。

 たしかに、複数のダンサーが舞台上でいくつかのグループで踊り、ユニゾンで踊るそのグループが目まぐるしく変容していくさま、そのグルーヴ感、待機状態で脇にしりぞいたダンサーが、その「待ち」状態で踊るダンサーを見つめる姿勢など、まさにローザスの舞台でなれ親しんだ風景であるし、ここで、その音楽に精密に合わせられたダンス自体も、ちゃんとした成果を出してはいたと思う(ただし、各ダンサー間のユニゾンとかの動き、つまり、腕やからだの角度などはそうとうバラバラで、そんな点で「もうちょっと揃えようと努力してもいいのではないか」との不満はたしかにあるのだけれども)。

 何が違うのだろう。何が欠けているのだろう。

 おそらくそれは、舞台と観客席との関係のとらえ方なのではないだろうか。

 ローザスの場合、例えば『ドラミング』の時なども、客入れの段階からすでに舞台上でダンサーたちがたむろしていて、「今日はどんな客が来るのだろう」みたいな感じで客席を眺めていたりして、そんなダンサーたちのたたずまいが、実際に開演してからの舞台上の空間/時間に影響を与えていたわけで、去年の『ビッチェズ・ブリュー』にしても、その幕開きはまるでパーティーに集うように普段着のダンサーたちが舞台にバラバラと集まってくるところから始まるわけで、おそらくはケースマイケルはそういうところに演出上の工夫をこらして舞台空間/時間を変質させようとしているのだと思うのだけれども、つまり、この、リヨンオペラ座の舞台ではそういう工夫はまったくなされるわけでもなく、だから、端的に言えば、そんな脇で待機しているダンサーの姿が、舞台上で有機的にからんではこないのだ。単純にその振付けだけをなぞって舞台に持って来ても、そこに表れ出ないものがある。

 いや、わたしは何でもオリジナルがいちばんだよ、などと言っているのではなく、そんな他者の作品を取り上げて上演する方法はちゃんと存在する、と思っているのだけれども。


『ファンタジー』 振付:サシャ・ヴァルツ

 近年注目されているらしいサシャ・ヴァルツだが、わたしがサシャ・ヴァルツを観たのは、ずいぶん以前の『宇宙飛行士通り』という作品だけ。でも、この日の舞台を観て、あぁ、サシャ・ヴァルツって、たしかにこんなだったなって、あれこれと思い出して来た。つまり、ほとんど忘れていた。

 そういう意味では、先のケースマイケルの作品のようにわたしの側にバイアスがかかっているわけではなく観たのだけれども、これは面白く観ることが出来た(いや、これにしても、わたしがサシャ・ヴァルツの作品をあれこれと観たあとで観ていれば、それこそあれこれと言いたいことが出てくるのかも知れないけれども)。

 この日になっておぼろげに思い出した、そのサシャ・ヴァルツの『宇宙飛行士通り』の記憶で言うと、彼女の作品ではダンサーの動きはかなり日常の普通の動作に近くって、その舞台はかなり演劇的なものだった。ダンサーの身体は、そのテクニックによって自由に操れる特権的な身体というわけではなく、むしろ、やっかいなもの、「負荷」とでも捉えられるような、つまりは平たく言えば「お荷物」になる。そんな、やっかいな「お荷物」をどう処理するか。無造作にかつぎ上げたり、逆さに抱き上げたり、一瞬、そんな身体を自由に扱えているように見えると言っても、それは両手を横に拡げて駆け回る、こどもたちの「ヒコーキごっこ」みたいなものでしかない。どこにもダンサーの特権は見えない。そんな身体に、ちょっとドラマチックな、いわくありげな男女の物語の連鎖が重なり、これはわたしには見て楽しめる作品だった。


『グロスランド』 振付:マギー・マラン

 ダンサーたちが皆、全身をちょっとした着ぐるみでおおい、「おでぶちゃん」になってユーモラスに踊る、というもの。太った人がダンスを踊るとこうなるだろうという想定内の出来事で、わたしにはまったく興味の持てる作品ではなかった。いや、太った人が踊るとこんなにすごいことになる、などというのならば見てみたい気もするが。

 マギー・マランという人は、前回来日した時には『拍手は食べられない』などという、文化行政批判みたいな作品をやっていたと思うけれど、それと並行してこういう作品も作ってしまう人なのだというのが、よくわからない。



 結局、総体として見て、現在のヨーロッパを代表するような振付家の作品を三本並べて上演するということで、昔の名画座のヨーロッパ名画特集みたいなイヴェントだったわけだけれども、わたしにしても、ここでケースマイケルとサシャ・ヴァルツの作品が並んでいなければ、見に来ることもなかったと思う。でも、ある意味、ダンスとはその振付けだけで成り立っているのではないという、ごくあたりまえのことを改めて認識させられたような舞台だったわけ。

 それから、この日の三つの演目を並べると、ケースマイケルのそれは「能動的素子」としての身体、繰り返せばサシャ・ヴァルツのは「負荷」としての身体、マギー・マランのは「効率の悪い能動素子(?)」みたいなとらえ方も出来ると思うけれど、けっきょく、そのような差異が舞台から観客に伝わるには、正直言って、特に、その「能動的素子」としてのバレエ団としての力量が、ちょっと及ばないというところで、トータルな舞台としての魅力に欠けていたという気がする。



 

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■ 2006-03-05(Sun)

[] 『横浜ダンス界隈 番外編』 @横浜・馬車道から日本大通周辺あちこち  『横浜ダンス界隈 番外編』 @横浜・馬車道から日本大通周辺あちこちを含むブックマーク

 横浜という街のことに、わたしは詳しいわけではない。表面的に見れば、「明治」と「平成」が直列されてしまって、すきまが飛ばされてしまっているような印象なのだけれども、そんな街にすきまを見つけ、活性化させる「すきまイヴェント」。いったいなんでこの街にこんなにすきまが見出せるのか、それはこの地で根気よく文化活動に尽力されておられる方々の、その多大な努力に寄るところがまずは大きいと思うけれど、街自体がそんなことを受け入れるキャパシティを持っている。いや、そういう言い方は間違っていて、どの街も本来的にそのようなキャパシティは内包している。そのような可能性を引き出すことが出来るスタッフの力があってこそはじめて、このようなイヴェントは実現する。どうだろう。やはりここには街自体の力があるのだろうか。わたしはやはりスタッフの尽力に敬服する。

BankART1929のカフェライブシリーズでおなじみの、街を舞台にした「横浜ダンス界隈」。今回はみなとみらい線開通2周年記念を機に、馬車道駅の構内から日本大通り駅へ、さらに周辺の旧市街地へとパフォーマンスを繰り広げていきます。
お気軽にご参加ください。

 要するに、町中のいろんなところを舞台としてダンスを繰り広げるイヴェント。わたしは多分この第1回は見に来ているけれども、久しぶりの「ダンス界隈」。約20組のダンサーたちが参加したらしいけれども、見た範囲の中で印象的だったものを。

『デ・タラメルンバ』 尹明希×Frei MusiKapelle @馬車道駅コンコース

 だから、ファンなんですけれども、それだけでなくて、この「馬車道駅」のコンコースというのはちょっとしたもので、最深部の駅改札口まで階層的に、ドーム状に下降する空間。説明が下手ですけれど。その途中の階段を舞台にしたパフォーマンス。金ラメのワンピースに、その肩口に赤いリボン、そして、ついつい下から見えてしまうそのパンツ(パンティっていうとなまめかしすぎるでしょ?)も赤。わたしの鼻血も赤。それは嘘。とにかく、駅の階段というあまりにも日常な空間を、力技であまりな非日常に組み伏せてしまうだけで、もう涙と鼻血が止まらない。

『横濱ルビィ』 岡田智代 @横浜開港記念館の中庭

 外からの喧騒が鳴り響く中、突然の密やかなBillie Holidayの「I'll be seeing you」。砂利を敷き詰めた中庭を、ヒールを履いた岡田さんが、不安定に歩を進めながらフォルムを決める。その不安定さと、決定されようとするフォルムとの葛藤。それが、雑踏の中で押し流されながらもなおも「個」であろうとする「意志」のようにわたしの目に映り、それは都市の中での「わたし」なるものの発見への道を思わせてくれた。

『眺めのいい部屋』 山賀ざくろ @ZAIM(旧関東財務局)

 ホテルの客室の掃除夫が、床にモップをかけながら踊り出し、荒川静香へと変身して金メダルを授与される。イナバウアーこそ繰り出されなかったが、実はものすごくしっかりとダンスの表層を捉えられていて、そんな生真面目さとコント的落ちの、そのエッジに着地するさまは爽快。


 その他、このZAIMでは、短時間にいろいろなアーティストが同時多発的にパフォーマンスを繰り広げられていて、それはいくらなんでも詰め込み過ぎだろうとも思うのだけれども、断片的に見たもので印象に残ったものを。

『不埒な身体 Flatinum Body zaim version』 高野美和子

 タイトルがいいです。ますますもって奇矯な変態じみた表現になって来たのでしょうか。いつもながら、構成がしっかりしているようで、ちゃんと全部見られなかったのが悔やまれる。

『白濁』 オトギノマキコ

 こういう場所だったらコレよ!という意志が明確に感じ取られた。日常がダンスに変容する。すいません。あまり見る時間がありませんでした。

『urai ush』 岡本真理子

 例えばネイルアートなどを使った微少な表現は、これはこのような場所であってこそやっと確認できるような表現で、間近でその繊細さに触れることが出来たのがうれしかった。彼女にはほんとうはこんな場所での表現がいちばん似つかわしい気がしたけれども(それでは広範な評判が得られないか。むづかしいところだな)。

 というわけで、8時頃まで続いたらしいイヴェントの、その6時頃までの観客ではありました。


 

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■ 2006-03-04(Sat)

[] 最近の読書  最近の読書を含むブックマーク

 

『マルコの夢』 栗田有起:著

   マルコの夢

 彼女の現在までの最新作。ふう、デヴュー作のあまりのおもしろさにここまで引きずられて来たけれども、途中はちょっとキツかった。デヴュー作、とりわけ『豆姉妹』にあったような、意味性をはく奪されてしまったような、しかしながら明確な思索の経路をたどり読める文体の跳躍、そんな魅力からはなれて、その文のなかに滑り込まされた意味性、そういうのが近作を読むわたしの邪魔をしていたようで。

 でも、この『マルコの夢』は、かなり面白く読むことができた。

 そのデヴュー作を読んだ時に、この人は尾崎翠を目指しているのかな?などと漠然と思ってしまったのだけれども、この『マルコの夢』を読むと、その思いはより強くなる。それは、一軒のアパートのなかで栽培される巨大なキノコの登場、それはもちろん、尾崎翠のあの『第七官界彷徨』での、恋愛する「苔」のイメージに、わたしの想像の連鎖がそのまま直結して行ったからではあるのだけれども、たしかに、栗田有紀の密やかなユーモアの軌跡、大胆な文体の跳躍は、尾崎翠のことをわたしに思い起こさせずにはいない。

 しかしながら、「パカラン、パカラン」と主人公一馬の夢の中にあらわれるキノコはあまりにもアホらしく、すっからかんであり。今のわたしは、そんな栗田有紀の小説の中で遊び歩くのが楽しい。


『虹とクロエの物語』 星野智幸:著

   虹とクロエの物語

 サッカー、というか、ボール蹴りで幼い頃から結びついて来た女の子、虹と黒衣(クロエ)の四半世紀にわたる関係。サッカーをカーリングに置き換えると、まるで「青森チーム」の小野寺/林選手みたいで、それでは『シムソンズ』になってしまうが、ここは星野智幸の作品なのだから、単純な友情物語ではない。あたりまえだが。

 80年代の「ものみなつるむ」世相に反抗して、ボール蹴りに熱中するふたりにとってのサッカーは、明らかに社会への対抗手段なのであって、反逆の姿勢であるのだから、決して学校のクラブ活動などの中に吸収されてしまうようなものではなく、チームを作ろうとするのでもない。そんな、ふたりの「ボール蹴り」を横軸に、彼女たちの生き抜いて来た80年代から現在へ到る時間の縦軸、そこに、20年前からずっとクロエの胎内にとどまり続ける、頭だけの20歳の胎児、その胎児を孕ませた、九州の孤島に独り住む「吸血族の末梢」、ユウジの物語、そして虹、クロエの物語が、交差して描かれる。

 どうもこのあたりの星野智幸の近作は、わたしにとってちょっとやっかいもので、前作『在日ヲロシア人の悲劇』も、読む上で抵抗があったし、これは最近の作品だったかどうだかわからないけれども、サッカーを通じて現代日本の社会状況を戯画化したような『ファンタジスタ』も、ちょっと読みあぐねてしまった記憶がある。

 虹とクロエの、ちょっと同性愛的な友情とその破たん(?)、その二人の関係こそが産み出そうとしたような胎児、その三者の関係はきっと面白いんだろうけれど、そんな中で、ひとり、ユウジの存在が、この小説の結晶化を阻む「異物」のように思えてしまうのだけれども。もっと「長篇」であってもよかったような気がする。


『ガラテイア2.2』 リチャード・パワーズ:著 若島正:訳

   ガラテイア2.2

 ガラテイアとは、ピグマリオンが造り出した「人造女性(?)」の名前であって、ピグマリオンはそのガラテイアに恋してしまうというのは、『マイ・フェア・レデイ』の元ネタとしても知られている話だと思うけれども、文学の世界では、近世になってから、リラダンの『未来のイヴ』などというのも産まれているし、ロレンス・ダレルの『トゥンク』、『ヌンクァム』の「アフロディテの反逆二部作」でも、そんな人工の女性が登場していたはず。もちろん、SFの世界にはもっともっとこの種の作品が存在するのだろうけれども、わたしは知らない。そして、ここに、コンピューター時代のサイバー空間内に、まるでウィリアム・ギブソンの小説のような語り口の中に、「ヘレン」という存在が産み出される。

 わたしは一応コンピュータ関係の仕事の末端にはいたりするので、この小説の中のプログラミング関係、コンピューターのハード関係の用語とか概念も、多少ならば解らないではないのだけれども、そんな用語/概念の小説世界からの縁遠さに加えて、この晦渋を極めた、屈折したリチャード・パワーズの文章を読み進めるのは、その若島正さんの翻訳を持ってしても、ちょっとわたしにはキツいものがあって、ま、通勤電車の中での読書時間というのも、ここまでヘヴィーなマテリアルを読み解くには適切な環境ではなかったであろう。ちょっとあまり熟考せずに表面を読み飛ばした、ぐらいの読み方だった、というのが適切なところでしょう。   

 アメリカのどこかの巨大な情報研究所、みたいなところを舞台にして、パワーズ本人が登場し、シニカルな神経学者のレンツと共同で、「コンピューターに、大学生の修士試験に合格するぐらいの英文学の知識/判断力を身につけさせる」ことを目標に、コンピューターのネットワークシステムを構築する話と、パワーズの「C」という女性に向けられた、痛みを伴った過去の恋愛の回想、この二つの話が交互に語られる。

 ヘレンと名付けられたシステムは、まるで自らの意志を持つように、パワーズに「もっと聞かせて」とせがむのだが、パワーズは文学作品のみならず、世界のあらゆるニュース、そして、結局はそのCと交わした手紙もヘレンに読み聞かせ、Cとの恋愛をも語って聞かせる。しかしそこまでしても、ヘレンには世界の総体はけっして伝えられない、ヘレンに嘘をついている、そういう意識に囚われてしまう。ヘレンはおそらく「意識」を持っている。要約すればそんな話だということだけれども。

 そんな、「心ここにあらず」のような状態で読み続けた本ではあったのだけれども、でもふいに、この作品の終末の部分に来て、ぐいっと心をつかまれてしまった。この作品はもちろん「愛」についての長い物語であり、ここで書かれる「愛」という概念、その複雑さ、深さ、そして親密さに、心動かされ、「いかん」と思いながらも、つい、電車の中で本を読みながら涙がこぼれてしまった。

 たぶん、この解説でも若島さんが書いているように、この作品には「知」と「情」の一致があり、その一致点が、ヘレンという存在なのだと思う。

 いろんな本を読んだり、映画や演劇を見たりして、そのたびに「ここには愛の本質がある」と、重々しくブログに書きつける人がいて、しかも、その「愛の本質」って何なのか、いつも書いてくれなくって、知らない人ではなかったのだけれども、それはあまりに馬鹿げていて、あまりに何度もそれを繰り返すので、その人に「あなたはバカです」とご注進申し上げて、期待通りにケンカ別れしたことがあるわたしは、もちろん彼以上のバカだが、愛とは、きっとそんなものではない。あちこちに本質が転がっていたりしない。そう思っている。自分が、「愛している」と思った時から自分への嘘がはじまり、その思いに忠実であることと「しつこさ」の区別がつかず、その愛の対象にも嘘を投射し、愛し合っているという幻覚の中に相手とともに墜ちて行く。それがバッド・トリップで、ナボコフなんか読んでいると、そこにこそ「愛の本質」がある、と思ってしまう。でもそこでいつの日か出来の良い「愛の妙薬」にめぐりあい、まれに見る至高のトリップも体験出来るのであろう、そうであるはずだという思いが、また次の愛にその可能性を信じ込ませる。文学や映画とかは、それぞれがそんな無数にある臨床カルテの一つに過ぎない。恋愛小説、恋愛映画と呼ばれるジャンルとはそんなものだろう。そこには本質はないよ。

 などと、ここにわたしの恋愛観を書いてどうするつもりだよ。恥ずかしいなぁ。つまり、この『ガラテイア2.2』を読んで、そんな、わたしの、愛についてなど、ついつい考えてしまうのは、きっとここに「愛の本質」について語っているところを、わたしが読み取ってしまったからなのだろうか。いや、近いうちにまたもう一度、じっくりと読み直してみたい本です。


 

 

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■ 2006-03-03(Fri)

[] 『ジュスティーヌ』(009) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳  『ジュスティーヌ』(009) ロレンス・ダレル:著 高松雄一:訳を含むブックマーク

 第009回:だからどうなったのか?

 月に一度は読もうと言ったのに、結局2月はこの本を開かなかった。さぁ、続きを読もう。

 それはなんだろうか。
「そしてこれがそのやり方かい」
 ぼくがそうたずねたとき、夕方の空にネシムのたけ高い姿がよろめくのを見たような気がしたことを憶えている。
「わたしにはわからない」彼女は荒々しく頑(かたく)なな絶望的な屈辱の表情をうかべて言った。「わからないわ」

 「そしてこれがそのやり方かい」とはまた、ずいぶんと不粋な返答をする男ではあるな。ダーリーちゃん。このあとにジュスティーヌはダーリーにちょっとしたいら立ちを示し、「結局のところ、これは性とはなんの関係もないのよ」と言うんだけれども、ここでダーリーは「その時になって、ぼくは、もっと前にわかっているべきだったことをやっと知ったのだった。つまりぼくたちの友情は、二人がおたがいを所有しあうところまで熟しているということだ」とのたまうのだけれども、どうだろう。少しいい気になり過ぎているように、有頂天になっているようにも読み取れるのだけれども。

 ジュスティーヌとそれから言葉も交わさずに別れて、ダーリーはメリッサのところに帰ってくる。メリッサは察し良く「何かあったのね」と尋ねるのだけれども、ダーリーは答えられない。メリッサが「あなたが見ているのはわたしじゃない、だれかほかの人なのね」というあたりは、どうも安っぽいメロドラマって感じなんだけれども、ダーリーはこの瞬間にはほんとうにメリッサを見つめていて、自分が彼女を愛していることを確かめている。これもまたメロドラマだ。

「あなたはジュスティーヌを好きになりかけている」
 ぼくは苦しかったが、できるだけ誠実に、正直に言った。
「いや、メリッサ、それよりもっと悪いんだ」

 ‥‥こういう誠実さ、正直さは、いったい誰に対しての誠実さであり正直さなのだろう。これまでの錯綜した文体の魅力が、一気に「もっと悪い」メロドラマに堕する思いで、多少は読む気が失せてしまう。

 このあとに、ジュスティーヌの日記(ダーリーは、このロマンを書いている地中海の島に、ネシムから託されたジュスティーヌの日記を持って来ているのだ)からの、愛についての書き込みを引用する。「あらゆる男は土と霊(ダイモン)からできている。どんな女もその二つながらを養うことはできない」ふむ。ここで「養う」という役割を女なるものに振り当てるロレンス・ダレルの視点を、批判的に読み取るべきなのか。とにかく、あまりマジには読みすすめるのが困難になって来たぞ。

「ああ、ネシム、わたしはいつもとても強かったわ。ほんとうに愛されたことがないのはそのためなのかしら」

 はいはい、そうでしょうとも。

 ふう、とりあえずジュスティーヌとの話は一段落。ここで、これまであまり書かれなかったメリッサとダーリーとの関係が書き足され始める。ナイトクラブで踊るメリッサのところに、ネシムのおかげで(ダーリーの稼ぎではそんなナイトクラブには通えない)、ネシムとジュスティーヌといっしょに足を運ぶ。ナイトクラブから帰ってくるメリッサは、ダーリーの部屋の前で低く口笛を吹く。ダーリーはそれを聴き、読みさしの本をおいてそっと階段をおりていく。

ぼくたちは言葉もかわさず、手をつないで、ポーランド領事館の傍らの迷路のような小道を走りぬけた。時おり暗い門口で立ちどまっては、跡をつける者がいるかどうかを確かめた。ついに店々の光が青くかすんで見えるところまで来てしまうと、ぼくらは海の輝く乳白色のアレキサンドリアの夜のなかへ入ってゆくのだった──心配事は美しい暖かい空気のなかに消えさり、ぼくらは明けの明星のほうへ歩きつづけた。星は風と波になぶられてモンタザの黒いビロードの胸の上に息づいていた。

 ほっ。いい文章だねぇ。例え「モンタザ」がなんのことだか判らなくっても。57ページまで読んだ。


 

 

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■ 2006-03-01(Wed)

[] 『踊りに行くぜ!! Vol.6 SPECIAL IN TOKYO』 @天王洲アイル・スフィアメックス  『踊りに行くぜ!! Vol.6  SPECIAL IN TOKYO』 @天王洲アイル・スフィアメックスを含むブックマーク

 

 だから、こうやって、ある程度この日本国内で、コンテンポラリー・ダンスっちゅうの、中には「コンテ」って略すような人もいて、わたしゃそ〜ゆ〜らんぼーな省略のしかたをする人とはお近づきになりたくないなー、って気がしてしまうのが正直なところだけれども、だから、わたしに近づきたくなければ、「コンテ」とかって叫んで下さい。いや、そ〜ゆ〜ことではなくって、その、日本の国内でコンテンポラリー・ダンスというのが認知された、そういうのがこの7〜8年の事だと思うけれども、そんな、コンテの認知に大きな後押しをしているのが、この『踊りに行くぜ!!』というイヴェントを日本中で展開されている、JCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の存在ではあったろうと、自分で「コンテ」とか言ってどーするんだよー。そんな感じなんだけれども。そのvol.6ってぇのは6年目ということなのか、その平成17年度も日本中の17ケ所でこのイヴェントを開催され、その中での各地からのセレクション、年度のラスト・イヴェントが、この東京大会。いや、「大会」ぢゃないって。うん、この何年かはこの東京イヴェントに駆け付けるのが恒例になってしまってるけれど。

 今回は、その当日配付のパンフに、JCDNの水野さんが、参加アーティストの出身地の文化的背景のようなのをそれぞれお書きになっていて、それがとっても興味深い。これをもう少し突っ込んでいけば、今現在少しあらわになって来ているような、東京と関西との温度差とか、それ以外の地域のモティヴェーションとかがもっとはっきりしてくるんだろうと思う。ま、そういう課題は例によって先送りにして、今回は沖縄から東京までの6組のアーティスト。知らない人が多い。アーティストは以下の通り(出演順)

桑野由起子(福岡)

伊波晋(沖縄/京都)

赤丸急上昇(松山)

カワムラアツノリ(東京)

花嵐(京都)

尹明希(東京)

 そんなアーティストたちの、ちょっと見た感じを無責任に。

桑野由起子

 う〜ん、多分、「自分探し」の旅の途中なんだろうと思う。わたしは、他人が自分探しをしている風景とかにはあまり興味が湧かないのだけれども、この人は手とかひょろ〜って細長いんで、例えばうつぶせて、つまり、「orz」の姿勢で、腕を前に伸ばしてくねくねと踊るところが好きだった。


伊波晋

 「踊る美術家」、だということ。そう、「美術家」だということは、「見る」〜「見られる」という関係に、より意識的なんだと、身びいきして考えてみるけれど、たしかに、その冒頭で、観客席からラジカセをぶら下げて降りて来る時の彼の目線、というか、表情、というか、観客席への視線は、ちょっとぞくぞくしてしまった。


赤丸急上昇

 マジックのマッキーとか50本以上は用意してあったりして、お金かかってるな〜って思ったけれど、こう、だから、仲のよい他人同士がいて、そういう気のおけない関係性でのダンスは、ちょっとあまりにも日常からの乖離がなさ過ぎる気はするけれど、見ていて嫌ではなかった。


カワムラアツノリ

 ちょっとフリーキーな身体の、歪んだ面白さ。でも、あんまり記憶に残ってないのはどうしてなんだろう。


花嵐

 京都の舞踏グループ、とのこと。前半分しかないような奇妙な衣装と合わせて、コンセプトとかは明確なんだと思った。単純に「舞踏」と割り切ってしまう以上の魅力はあると思うけれど、なんだか見ていて暗うつな気持ちになってしまったのは、やっぱ「舞踏」だからなのかと、極めて乱暴な意見。


尹明希

 ‥‥実のところ、わたくしは10年来の彼女のダンスのファンでありまして、今回もおおかたは彼女のダンス目当てで足を運んだというのが正直なところ。いや、実は彼女のダンスを見るのは久しぶりのことで、この「ぺヴェラータ」という作品も、ちょっと前の作品らしいけれども。

 って、やっぱりすごい。今まではちょっと、その力技に頼りすぎたり、試行錯誤の時期もあったと思うけれど、もともとダンサーとして類稀なる資質を持っている人だし、その引き出しの多さ、表現の多様さにはずっと目を引き付けられていたのだけれども、今回の作品は、そんな彼女の硬質なダンスの魅力が、またもや松本じろさんの生ギターから、最大限に引き出された、強烈に蠱惑的な作品だった。うん、やはり彼女には、早い機会でのソロ公演をやって欲しい気がする。これからも応援します。


 

 

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