ワニ狩り連絡帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

       

■ 2006-06-30(Fri)

[] 『冬の旅』振付・構成:笠井叡 @神楽坂・Session House  『冬の旅』振付・構成:笠井叡 @神楽坂・Session Houseを含むブックマーク

出演:畦地亜耶加
   畦地真奈加
   玉内集子
   山口華子
   横田佳奈子

 また絵でごまかします。

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 笠井さんが若いダンサーに振付けたのは、むかし『青空(せいくう)』っていうのを観て、その時もわたしの知り合いが出演していたのだけれども、なんというか、嫌がらせのような体力消費度の高いダンスは、それはそれでサヴァイヴァルゲームのような面白さがなかったわけでもなくって、実際にその舞台からサヴァイバルして生き残ったのが上村なおかさん、などという印象もあるのだけれども。

 今回興味深いのは、出演する5人のダンサーが皆サラブレッドというか、いや、人のことを馬などに例えてはいけませんね。つまり、皆さんがそろってご母堂さまがダンサーでいらっしゃるという経歴。だから皆さんご幼少の頃から踊っていらっしゃるし、とにかく強靱な身体をお持ちであると。だから『青空』のようなサヴァイヴァルゲームもまた興味深いだろうと。はい、笠井さん、若い女子をいぢめてくださいな。って、そんな見方をするわたしは変態か。

 観客席がまわりを囲った舞台の一隅にバスタブが置かれていて、そこにシャワーから水がそそがれているのをバックに、そのシューベルトの『冬の旅』の曲ごとに、5人のダンサーから2人とか3人とかが舞台でダンスを繰り広げるような構成。なかほどの一曲だけで、その音源が(意識的に)音とびを起こし、「ノイズ」として機能するのをバックにして、えっと、たしか横田佳奈子さんだな、彼女がソロで踊るのこそがクライマックスで、たしかにこの人はとっても強靱な身体を持っていて、どうしても彼女に眼が行ってしまう。

 しかし、全体の振付けはそれほどには無手勝流という印象もなく、むしろフォルム(もちろん、笠井叡さん流のフォルムだけれども)を重視したような振付けで、これは意外と、なんというのか、構築的な舞台ではあったと思った。しかし、つまりは、それはちょっとばかりわたしなどが笠井叡さんに期待していたものとは距離があったことは否めない。

 ラストはその、水の適量にたまったバスタブのまわりにダンサーが集まる。この構成はいいっすね。「ステキだ」と言っておきましょ。(6月17日観劇)

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■ 2006-06-25(Sun)

[] ザ・レッド・クレイオラ 『イントロダクション』 The Red Krayola 「Introduction」   ザ・レッド・クレイオラ 『イントロダクション』 The Red Krayola 「Introduction」を含むブックマーク

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 え? 7年ぶりの新作なのか? なんだか最近は来日して下されたり、シングル盤のコンピレーションが発売されたり、知らない映画のサントラとかいうのが発売されたり(聴いてないけれども、佐伯祐三に関する映画だとか)、それなりに話題に事欠かないので、7年もレコーディングしてなかったなんて知らなかった。って、『イントロダクション』っすか。タイトル。デヴューしてからそろそろ40年、ストーンズ(キース、大丈夫か?)とロックバンドの最長不倒距離を競おうかというバンドの最新作のタイトルがこれだわさ。で、ジャケが、ものすごーくインディーズっぽいんですけれども。アコーディオンとウッドベース。この二人の『イントロダクション』ってことですね。

 メンバーは最近の基本メンツ、Mayo Thompsonを中心に、Tom Watson、John McEntire、Stephen Prinaと、おなじみの顔ぶれがそろって、だからそれプラス、Charlie Abelのアコーディオンと、Noel Kupersmithのベース。

 もうとにかく、冒頭の気の抜けたギターの音が最高ですねん。プヮッ、って感じで。う〜ん、なんか、今までとちょっと音の質感が違うな。そうか、そりゃそうだ、アコーディオンとウッドベースが新加入だっけ。でもなんか、最近になく、ピアノの音とかも目立って、ちょっと全体の印象はかなりリリカルな感じ。

 しかし、この、湯浅学氏の書いた「解説」は、いったい何なんだ。ロックのアルバムのライナーノートってヤツには、たまにこんな困ったチャンが登場するのだけれども、久しぶりにこういうのに出会ったな。湯浅氏にとっては、このようにメイヨ・トンプソンになったつもりで(?)文章を書くことが、それで一種の「批評行為」になっていると思い込んでいるのだろうけれども、例えば、そんな、メイヨ・トンプソンの名を借りて、「俺はコンセプトという言葉は嫌いだ。狙いは外れる方がおもしろいことが多いからだ」などと書いてしまうことに、ものすごく「気分的」なものを感じてしまう。もしかしたら、湯浅氏はメイヨにインタヴューして、そんな言葉を彼の口から実際に聞いたのかも知れない。しかし、そうであったとしても、その語られた文脈を無視して突然にこのように書いてしまうこと。「凡庸」以前に、恥ずべき「愚鈍」だと思うぞ。いいですよ、難しいことは考えないで気楽に楽しみましょうということでも。でも、それでは『国家の品格』と同じではないですか。そういうのがロックなのか?

 10年ほど前に、このレッド・クレイオラ=メイヨ・トンプソンが初来日した時、四谷のP3でメイヨを囲んだシンポジウムが開催されたことを憶えている人もあまりいないかも知れないけれど、ま、あのシンポジウムをどのように評価するかというのは微妙なところがあるのは確かだけれども*1、とにかく、あれだけ真摯にひとりのミュージシャンを囲んで「徹底究明」するようなイヴェントがもたれたこと、そういうのはちょっとは次の世代に伝えるような努力がなされても良いと思う。

 つまり、湯浅氏は、そんな日本でのレッド・クレイオラ=メイヨ・トンプソン受容史(って、大げさだなぁ)を等閑視するわけだよね。しかしこの新作『イントロダクション』 には、コンセプトは読み取れる。というか、メイヨにしては珍しいぐらいにはっきりとしたコンセプトが込められたアルバムではないだろうか、と思うんだ。わたし的にはそ〜ゆ〜ことを解説に書かずにどうするんだという気持ちもあるのだけれども。しかも、このアルバムにはメイヨ氏自身から歌詞が送られ、それが掲載されているというのに。

 うん、この掲載された歌詞にたいして、対訳が付いているんだけれども、コレがよく見ると2曲ほど対訳が抜けてしまっている。翻訳不可能だったとは思えないので、たぶん編集ミスでしょう。いや、その前に、このアルバムのコンセプトと照らして、この対訳では読み取れない部分があるのでは。

 まず、対訳の抜け落ちている1曲、「Puff」の出だしの歌詞は、これは、あのピーター・ポール&マリーの歌っていた有名なフォークソング、「パフ」*2の歌詞をそのまま使っているわけ(メロディは違うけど)。そして、「A Tale of Two...」の歌詞に出て来る"Harry Sundown"というのは、ゴードン・ライトフットによって60年代後期に大ヒットしたフォークソングの曲名。そして、なによりも、2曲目「Breakout」の冒頭の歌詞、"Will the circle be unbroken"というのは、これはカーター・ファミリーの、その歌詞と同名の歌であって、日本では「永遠の絆」として知られている有名な曲なのよ。だからこの対訳は大間違い。「円は徐々に無傷になるのか?」‥‥? いや、そりゃ直訳でしょうが。無傷な円、なにそれ?って感じ。これは、カーター・ファミリーのお母さんが亡くなられた時につくられた曲で、ここでのCircleは、家族の輪の意味、つまりは血縁の絆みたいな意味。「(わたしたちの)絆は、(時の流れとともに)だんだんに強固になって行くのでしょうか?」そういう歌なんです。

 だからどうも、このアルバムでは意識的に、過去のアメリカのルーツ・ミュージックみたいなのに対するアプローチがあると思う(ゴードン・ライトフットはカナダだけれどもね)。いや、だからってわたしはそれ以上どうこうって解らないよ。でも、前作のタイトルには「ブルース」という言及があったわけだし、なんというか、そういうところからこのアルバムを解明するようなライナーであってもよかったのではないかな。

 あ、国内盤のタスキには、「Hazel」を超える大傑作、とありますが、そこまでは行かないでしょう。あなた、「Hazel」を超えたら大変ですよ。うん、でもね、「Vexations」は最高だな! この曲に関しては、このアルバムでのベスト・トラックにとどまらず、彼らの(というかメイヨの)最高傑作、と言いたくなるような気持ちはあります。毎日この曲ばかり聴いてるし。

 しっかし、いつまでも「パワーダウン」という言葉からは無縁ですね。メイヨさん。このあたりが某ストーンズに勝るところか。

※あ、わたし、また大きな間違いを書いてしまった。"Harry Sundown"という曲は、ゴードン・ライトフットぢゃないわな。これもピーター・ポール&マリーの持ち歌だったではないか。

ゴードン・ライトフットの曲は、単に"Sundown"でした。いい曲だったけどね。




 

*1:このシンポジウムにパネリストとして参加されていた灰野敬二氏は、「やってられない」とばかりに途中退席されたし、メイヨの通訳嬢はあるミュージシャンの名前を知らなかったばかりに観客から罵声を浴びせられたり。いや、その時の通訳嬢は、今は美術批評で知る人ぞ知る活躍をされているお方なのだけれども。

*2:実はドラッグ・ソングという解釈もある訳だけれども、日本ではタモリによる「ぱふ、ざ、ま〜じっくドラえもん‥‥」の歌詞で有名?

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■ 2006-06-23(Fri)

[] 『水上アートバス「ダンスパフォーマンス!」』 白井剛 @浅草〜日の出桟橋水上バス船上  『水上アートバス「ダンスパフォーマンス!」』 白井剛 @浅草〜日の出桟橋水上バス船上を含むブックマーク

 隅田川を上ったり下ったり、江戸時代じゃないし、山奥の急流下りではないから船頭さんがいるわけでもない。ってえか、でかい船である。定員500人ぐらい。絵に描いたのはウソの船。下手でごめん。

 

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 つまりはだから、このシチュエイションをどう生かすか。もう四年ほど続いている(去年はわたしの都合に合わせてお休みして下さった)企画で、あれこれといろんなダンサーの方々がすでにこの企画に参加されている。わたしの印象に残っているのは、「枇杷系」のメンバーによるパフォーマンス、だったかな。

 で、今回のダンサーは、7月の「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」にもエントリーされていて、実のところ本命視されている白井剛さん(って、『シンセミア』を書いたあとの阿部和重が芥川賞候補になるようなものだ。白井さんの場合は『質量, slide, &.』だな。)。

 その『質量, slide, &.』の舞台では、プライヴェートな生活空間を舞台に持って来て、そこでの日常と非日常のせめぎ合いをていねいにしなやかに表現して見せてくれたわけで、そういう空間への意識が、この「水上バス」という、日常なのか非日常なのかあいまいな空間でどのような身体として提示してくれるのか、そういうのはとっても楽しみだったのね。

 で、ラグっぽい穴のあいたジーンズに銀糸ラメ入りのシャツ、その上に紺のジャケット(胸の内側に「白井剛」と刺繍で名前が縫い込められていた!)という姿。それで、長髪の前髪を全部顔にかぶせておろし、その上からサングラス。つまり、一見「危ない(不審な)お兄さん」なんだけれど、来てる服がかな〜り日常的なのに、首から上だけ変。その、首から上と下がつながらない気がした。それがこの日の彼のパフォーマンスに感じざるを得なかった違和感。もちろん、そのしなやかな身体からのセンシティヴなダンスも垣間見れたのだけれども、この「水上バス」という場の中での立ち位置。

 つまりそれは、日常の延長としてのパフォーマンスなのか、非日常の導入されたパフォーマンスなのか。日常の延長として場を生かすのであれば、首から上はあまりに不気味(非日常)ではあるのだけれども、その割にはおこなわれる行為は日常から逸脱しきれない。だから非日常の導入という契機はあまり感じられない。銀色の風船を持ち込んでのコラボレーション(?)はそれなりに面白かったんだけれども、これをやるんだったら、別に普通の格好してやればいいじゃん。もしも、そういう変な見かけを貫きたいのだったら、服装も例えばピエロの衣装とかサンタクロースとか、非日常に徹するべきだと思った。

 うん、白井剛さん、照れ性なんでしょうかね。また舞台で「アメリカン・サイコ」を見せて下さいな。(6月17日)



 

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■ 2006-06-21(Wed)

[] 『quick silver』 Ko&Edge Co. 「Experimental Body 」 vol.III @麻布die pratze  『quick silver』 Ko&Edge Co. 「Experimental Body 」 vol.III @麻布die pratzeを含むブックマーク

 なんか、レポートが遅延してます。もう見てから一週間以上経ってるし、なかなか書く時間が取れないし。だから、絵でごまかします。こんな感じ。スライド・プロジェクター、使ってません。下手だし。(って、昔っからの欠点は全然治らないな。でも、まぁ、人に見せてもイイか。)

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 つまりは室伏鴻さんのソロ・パフォーマンス。すっかりタイトルのこととか忘れていて、見ながら、「えっと、水銀って英語でなんて言うんだっけ?」なんて一所懸命考えてた。だからつまりは、とってもヴィジュアルな要素の強いパフォーマンスで、わたしはとても面白く見ることが出来た。観客席に外国人の姿が目立ったけれども、おそらくは彼/彼女たちが求めていたであろうものが、このステージには見事に形象化されていただろうと思う。わたしがこれは絵にしようと思ったのも、そういう舞台だったからだろう。以上。(6月10日観劇)


 

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■ 2006-06-17(Sat)

[] 『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』 高田里惠子:著 ちくま文庫  『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』 高田里惠子:著 ちくま文庫を含むブックマーク

   文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)

 むかあし、本屋でバイトしていた頃の話だけれども、その、ヘルマン・ヘッセの本を買ったことがあって、その本を買った時に、同僚が、「それを訳したヤツ、戦争の時、ナチスを賛美してたんだぜ」などと、余計なことを教えてくれた記憶。その教示は、まぁ正しかったわけだけれども。

 この本、もう、読んでから少し時間が経ってしまったので、たいていのところは忘れてしまった教養のないわたし。この本は、戦時中の帝大独文科周辺の文学者の言動をメインに、つまりは、「近代日本の発展に役立つ第一外国語」としてのドイツ語、それを旧制高校から帝大、さらに東大への時間的流れの中で学んで行った人々の、その一種凡庸なエリート主義、教養主義のなれの果てを、ちょっといじわるな視点から解き明かした本ということで。

 どうもこのところ、自分の中で「教養」とかいうやつに(はてなマーク)がつくよ、ってぇか、もともと、それ自体が目的としての「教養」というのには興味はないんだけれども、つまりはアレよ、その、先日、藤原正彦という人の書いた『国家の品格』という本を、心ならずも読んでしまって、これはもうずいぶん以前のことなんだけれども、そのあまりの内容の酷さに一種がくぜんとしてしまって、しかもその本が空前のベストセラーになってしまっていること、で、Amazonでの書評(コメント)とか読むと、さすがに「トンデモ本」として距離をおいている人も一定の割り合いでいるのだけれども、ど〜も全体に好評で、「目からウロコが落ちた」とか、「子供に読ませたい」とかゆ〜のがいっぱいあって、いや、そういう読者がどうこう、などということではなくて、つまりはその『国家の品格』という本が、一種の「教養本」という側面(じゃない、表面なのか?)を持っているように思えて、だから、「教養」って何よ、って、そういう次第で、本屋で見つけたこの本の、その目次を見て、つい買ってしまった。

 近代日本の中で、ドイツ語が負わされた「国家形成に役立つ言語」としての役割、その元で一種エリートっぽさを抱え込んでいた「ドイツ文学」専攻という立場は、ナチスの台頭などというとんでもない「躓きの石」にひっかかり、それこそ見事なまでにけつまづいてみせてくれるわけで、そのお見事なけつまづき方を、スローモーションで再現して解説してくれるのが、この『文学部をめぐる病い』という本の骨格であって、いやぁ、つまりは、人がこけるのを見るというのは、なんて楽しいことなんだろう。

 この本で暴かれている(ま、「暴かれている」という言い方が適切かどうかは知らないよ)のは、そんな、ティピカルに言えば、ナチスドイツ礼讃書籍の翻訳をしたり大政翼賛会文化部で要職を勤めた人物が、戦後には節操もなくヘッセやカロッサなどを紹介し(おっと、これらが翻訳されたのは戦前、戦中だったっけ)、彼らのナチスへの抵抗の姿勢を賛美するようになるようなことがらだけではなく、その背後にある、「大学文学部」という、男の子たちの集団生活の中心にある空気(エーテル)の意味を解明しようとし、「教養主義」と呼ばれる現象を暴き、診断する(実際に、この本の目次は「カルテ」の形をとっているんだけれど)。そんな本ではあるけれど。そこに『ビルマの竪琴』(著者の竹山道雄って、独文科だったんだな)や『きけわだつみのこえ』などの書物も分析しながら書き継いでいくわけで、その症例と分析は、適当にスキャンダラスで、戦時下の文化人(およびその予備軍としての学生)の行動記録としても、そりゃあ面白く読める。それらの問題は、結局は「二流」、「凡庸」の問題となるわけだけれども。

 先にあげた「大政翼賛会文化部で要職を勤めた人物」とは、つまりは高橋健二氏のことではあるのだけれども、わたしには、この本に出て来る芳賀檀(はがまゆみ)という人の、狂犬のような言動こそ、めちゃ面白かったな。この人のことはカフカとかヘッセの翻訳者として、おぼろげにその名前は知っていたけれど、日本浪漫派のメンバーで、確信的なナチス讃美者だったらしい。で、おどろいたことに、今わたしなどが平気で使っていることば、「決意」とか、「祝祭」とか「出会」などのことばは、実はこの芳賀檀による造語だったのだというビックリ!

 ま、そんなことは「小耳にはさんだ豆知識」としてしまっておいて、つまりはその「症例集」としてかなり面白い、この本だけれども、ではその「処方箋」はどこにあるのか、というと、これがどこにもないんだな。けっきょく、この著者に興味のあるのは、戦前〜戦中の、特にここでは東大のドイツ文学部という「場所」の中の、その「二流」「凡庸」という問題にしか、興味がなかったように読める。って、そのような問題は今はどうなってしまったのか。わたしは「三流」で「愚鈍」なので、「二流」とか「凡庸」という問題からはまったく自由な立場にいるもんだから、特にどうっていうこともないけれど、例えばこのような二流で凡庸な教養主義というものは、その後もたびたび姿をあらわしてきているわけで、そういうのをただあざ笑っていればいいのか、ということも考えてしまう。もちろんこの著者、高田里惠子さんの中には、本来の「教養主義」を待望されているところはあられるのだろうけれども。

 例えば六十年安保の時の学生運動、その中から生まれた『されどわれらが日々−』という作品のこと(この著者柴田翔氏もまたドイツ文学者なのだ)とか、そのあとの東大闘争〜新左翼運動のような現象の中にも、ここで高田里惠子さんが問題にされたような事象があらわになっていたと思うんだけれども*1

 そして、つまりは、これは今でも、『国家の品格』のような本のなかに、エリート、教養主義の礼讃として繰り返されて来ていると思う。とにかく、最近、一日に一度はこの『国家の品格』のことを思い出しては無性に腹が立ってきて、実に健康によくない。あざわらうだけでは済まない気がしてしまうのだから。やっぱ、ここの場できっちりと『国家の品格』という本を批判しておこうかな。自分がこけるのは、やっぱイヤだもんね。


 

*1:と思っていたら、高田里惠子さんにはこのあとに『グロテスクな教養』という著書があって、そこでそのような問題が検討されているらしい。つまりはそっちも読まなくっちゃダメってことか。

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■ 2006-06-12(Mon)

[] 今さらだけれども、盗作〜模倣問題について  今さらだけれども、盗作〜模倣問題についてを含むブックマーク

 5月のはじめに栃木の野外美術展などを泊り込みで見に行ったり、その後は下館の美術館で「孤高の画家」誰それ展、などと言うのを見たり、かなりローカルな美術体験をしているわけで、そのなかで、その、「ローカル」こそ、という考えがちょこっとありまして、ま、そのあたりをいつかまとめてみようと思っていたんだけれども、その前にね、いや、日本全体がやっぱ「ローカル」じゃん、って事件(?)が起きてしまって、一時期の昼のワイドショーはこのニュースばかり。つまり、和田義彦という人の作品と、アントニオ・スギという人の作品がモニターの上で重ねられる映像を何度も見た。このニュースももう古びてしまったけれども。

 つまりは、和田義彦盗作疑惑などという事件で、もちろんわたしは和田義彦などという絵描きのことは見たことも聞いたこともないし、アントニオ・スギさんも知らない。ただ、私の知人がその和田義彦に「あんみつでも食べに行きませんか」と、彼の個展を見に行ったときに誘われたのだ、という話は、この事件発覚後に聞いて知ったんだけれども。あんみつ。

 今日書くことはもう、ただの暇つぶしのどうでもいいことなんだけれども、ちょっと面白い連想が浮かんだのでメモしておこうと。

 TVの画面上でその和田義彦の作品とアントニオ・スギの作品が重ねられたとき、それはあまりにぴったりと一致していて、いや、一致しすぎていて、そのニュースで、和田氏がスギ氏の作品をやたら写真に撮っていたという事を聞くと、これはもう、あ、スライドで写真を投射して模写していたんだな、って思い当たるのだけれども、そうすると、ニュースなどで聞く、和田氏の弁明、「これは共同作業、コラボレーションであり、スギ氏へのオマージュだ、筆の筆致やマチエールの違いを見てほしい」というのは、これは意外と本心を言っているのであって、和田氏は和田氏として「誠実」なのではないだろうか?って、思ってしまった。いや、「誠実」などといっても、そこには盗作した、もとい、倒錯した感情があるのだろうと。

 わたしが「あ、これは、スライド使ってるな」と思ったときに、真っ先に思い出したのが、ひとつの映画であって、それは、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(60)のことで、ま、この映画は見た人も多いと思う(その当人である和田義彦氏もこの映画は見ているんじゃないだろうか)けれど、この映画の中で、アラン・ドロンの演じる主人公リプリーが、すでに殺してしまったフィリップ・グリーンリーフ(これはモーリス・ロネが演じていた)に成りすますために、スライド映写機を買い求めて、壁にフィリップのパスポートのサインを投影して、そのサインを真似る練習をする印象的なシーンがあって、つまりはそのシーン。

 いみじくもこの『太陽がいっぱい』の舞台もイタリアであって、フィリップの持つ輝かしいばかりのもろもろの富、そこに自分も到達したいと思ったリプリーが、そのフィリップと同化して、「自分もまたフィリップ・グリーンリーフである」との信念を得てそんな虚偽の生活への第一歩を踏み出す印象的なシーンが、その「サインをまねる練習をする」シーン。かつて淀川長治氏はこのシーンを「恋愛シーン」と断じたけれど、そんなものではないと思うが。いや、マスターベーションというか、死姦というか。

 とにかく、ここで勝手に和田義彦氏の内面に踏み込んで解釈すれば、1960年代に、イタリアにフレスコ画の修復の技を学ぶために留学している日本人。ま、よく知らないが、裕福でもないだろうし、例えそれなりに裕福だったとしても、とにかくはヨーロッパの圧倒的な美の伝統の前での無力感もあっただろうし、そんなヨーロッパの豊かさのかけらでも手中に収めたい、との欲望はあったのではないだろうか。それも、強い欲望。これを『太陽がいっぱい』の主人公のトム・リプリーの心境にそのまま当てはめてみたいという願望がわたしにあって。だからこれからは想像。そう、リプリーはアメリカからヨーロッパに渡ってきているほとんど文無しの男だったっけ。しかも、人まねがうまい。そういう意味では、絵画修復技術というのは、これはひとつの「模倣」というスタンスの上で成り立っているものであろう。

 和田氏とスギ氏は、ちょうどひとまわりぐらい歳が離れているのかな。おそらくは和田氏がスギ氏に出会った頃には、スギ氏はすでに、その画家としてのキャリアの第一歩を踏み出していただろうね。だから、和田氏にはちょっとまぶしかっただろうな。でも、めちゃまぶしいというわけでもない。手を伸ばせばとどく範囲、というか、一種の凡庸さから逃れ切れているわけではない。このポイントこそが重要だとも思うけれど、それはまたあとで。

 いったいぜんたい、この和田氏が、その「盗作」の第一歩を、どのような決意のもとに踏み出したのかはわからない。きっと、『太陽がいっぱい』でのように、太陽の光が何かに反射して、彼の眼を射抜いてしまったんだろう。ただひとつ言えることがあって、和田氏は、スギ氏の作品を模倣するに際して、オリジナルに対しての審美眼は捨てている気配があるのね。どうも、ただスギ氏の作品であれば何でもいい、という感じがする。それは特に、スギ氏の描いた風景画、TVに出ていたんだけれども、海岸の岩と階段のある風景。これはどう見ても(マチエールのことは解らないけれども)愚作というか、スギ氏の作品にある種の指向性を認めるにしても、その風景画は箸にも棒にもかからない作品で、だいたいこの人の作品は、人物の配置のその妙にこそ一日の長があるかも知れない、そういう作品群だから、普通の審美眼からしたらその風景画はまったく問題外。ではなぜ和田氏はそんな愚作まで模倣したのか。

 だからやっぱり、というか、突然だけれども、和田氏は、スギ氏の作品製作過程にこそ、自分を同化したかったのだろうとしか思えない。「絵画」が目標なのではなくて、「スギ氏」の絵画こそが目標だったのかな。そこに、『太陽がいっぱい』での「サイン練習シーン」との類似が見えてくる。

 スライドで白いキャンバスに投影されたスギ氏の絵画。それをなぞって行くというのは、どんな気持ちなんだろう。100%忠実になぞるのではなくて(というか、この場合そういう行為は不可能なのだけれども)、その中で、意識的にか無意識にか、自分でしかないものがキャンバスに現われてしまう(このあたりはリプリーの行為からは距離があると言えるのか)。それは、中途半端に絵心のある人間にとって、いかに蠱惑的な出来事か。いや、もうこの段階は「サインの練習」からは逸脱しているのだろうけれども、そこに、和田氏の言う「スギ氏へのオマージュ」、「共同製作」という言い方のリアリティが浮かんでくる。

 和田義彦氏は、スギ氏、スギ氏の絵を、ある意味で崇拝している。それはひょっとしたら、その、スギ氏の絵の背後にある、ヨーロッパの文化、富への崇拝なのかもしれない。ここは『太陽がいっぱい』のリプリーと相似形だろうか。だから、彼の絵を模倣することは、彼と自分が一体化されたいという、屈折した「オマージュ」なのだよね。ついでに自分にもちょっとした「富」をもたらしてくれる。そして、その、キャンバスに投射されたスギ氏の作品をなぞる時、当然ながら生まれてしまう差異、逸脱、そこの中にこそ、和田義彦という「絵を描く=まねる人」のアイデンティティーが顕われているのだと、和田義彦氏は思っていたのではないだろうか。わたしはそう思った。だから、ある意味で、彼は自分に誠実に語っていたのかも。

 ただ、そんな和田氏の作品が、文化庁芸術奨選とかなんとかの賞までとってしまったのは、これはまたまったく異なるたちの悪い問題で、要するに、21世紀にもなって、こんな100年近く前に流行したようなオールド・ファッション絵画に賞をあげてしまうことが問題なのであって、これは結果として和田氏の作品が模倣であったとかそういう問題以前のことなんだから(しかし、同じ賞を村上隆も受賞しちゃっているというのが大笑いだよね)。やっぱりココ「日本」は、「悪い場所」でしかないのだろうか。逆に言えば、この日本がそんな「悪い場所」でなければ、和田氏も一生「偽画家」であることを知られずにやって行けたかも知れない。それこそ、「一番高いホテルへ!」(パトリシア・ハイスミスによる『太陽がいっぱい』の原作の、ラストのリプリーのセリフ)と、言えただろうに。あ、和田っちは一度は言ったのだろうな、このセリフ。ご愁傷さま。



 

ケロちゃんケロちゃん 2006/06/14 08:34 「太陽がいっぱい」ですか。
これが出てくるあたりがcrosstalkさんらしいです。
というか、ショッキング。

子供の頃、日曜洋画劇場でみました。
かのシーンは暗い部屋にでも全体的に黄色っぽい
感じの「画=シーン」として残っています。

今回の和田氏の事件から太陽がいっぱいを
導きだすセンスにちょっと惚れちゃいますねー
うふふ

あのころのアラン・ドロンは本当に美しかった

crosstalkcrosstalk 2006/06/15 00:12 ケロちゃん、どうもです。楽しんでいただけたでしょうか。
和田氏のキャンバスからは隠れたワイヤーが伸びていて、その先っちょはイタリアまで届いてて、アントニオ・スギ氏のあつかましいボディがぶら下がっていたわけですが。

和田氏にはその後もセクハラ疑惑とかあとをたちませんが、彼にはイタリアが憑依していたんだからムリないです。

ケロちゃん、こんど、あんみつ食べにいきませんか?

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■ 2006-06-06(Tue)

[] 『ダ・ヴィンチ・コード』 ロン・ハワード:監督   『ダ・ヴィンチ・コード』 ロン・ハワード:監督を含むブックマーク

‥‥ついに、ラングドンとソフィーは、チューリヒ銀行に預金された、夢にまで見たキリストの遺産三億円のキャッシュカードを入手した。あとは暗証番号さえわかれば‥‥。

「う〜ん、4桁の数字の組み合わせということは、1万通りの可能性があるわけか。こりゃ容易なことじゃないな。とりあえず、わたしのキャッシュカードの暗証番号でやってみよう。1、1、1、1、と‥‥。あ〜、ダメじゃん。ソフィー、何か思いつくかい?」
「あら、わたしなんか、暗号学やってるわけだしぃ〜、自分の暗証番号なんか純粋数列なのよ。ぜったいに他人にはばれない組み合わせね。この暗証番号考えた人は、きっと、わたしたちぐらいは頭がイイはずだから、これはきっと純粋数列使ってるわね。やってみるわね。えっと、1、2、3、4、と‥‥。きゃぁ〜、ちがってるわぁ〜! なかなか手ごわいわね、って、もう2回間違えたから、あと1回しか出来ないわよ。どうすんのよ、三億円! あたしの先祖の遺産なのよ!」
「きっと何かヒントがあるはずだよ、ソフィー。そうだ! これって、例えば、電話番号という可能性はないだろうか。それだったら、いざという時に忘れてしまうこともないじゃないか」
「あらぁ、ラングドン、ホントにあなたって頭がイイわね。ステキよ。そうよ、きっとキリストんちの電話番号に違いないわ。でも、いったいどうやってキリストんちの電話番号を知るのよ。イエローページに出ているかしら?」
「いや、こういう時こそGoogleを活用するんだよ。ホラ、あそこにいる少年のケータイをちょっと借りて来てくれないか」

〜間〜

「ちょっと抵抗されてしまったわ。この大事な時に。っんとにもう、近ごろの若いモンと来たら」
「ソフィー、大丈夫かい? 袖に血がついてるよ」
「あん、これは返り血よ。どうってことないわ」

「よかった、さっそく調べよう。‥‥ン? バチカンが出て来たなぁ? バチカンって、ローマにあるお城だろ? キリストはバチカンにいるのかなぁ?」
「や〜ね、キリストはもう死んじゃってるのよ。バカ。バチカン。バカチン。でも、バチカンに聴けばきっとわかるわよ。この際、教えてもらいましょ!」

ラングドンはバチカンに電話しようとしたが、その時にソフィーはあることに気がついた。

「ちょっと待って! 大事なことを思い出したわ。あのね、キリストの生きていた頃には電話ってなかったんじゃないこと? だって、電話器って、レオナルド・ダ・ヴィンチの発明でしょ?」
「ソフィー! 君ってなんて頭がイイんだ! たしかにキリストの時代には電話はなかったんだ。いや、でも、電話を発明したのは、アイザック・ニュートンだね。レオナルドは電話のコードを発明しただけだよ。ほら、ダ・ヴィンチ・コードっていうだろ?」
「そっか〜! いや、失敬失敬。でも、だったら電話番号じゃないわね、暗証番号」
「う〜ん、そうだなぁ。こりゃ困ったなぁ。何かほかの手がかりを探さなくっちゃ」

「‥‥あっ! 今、ちょっと思ったんだけれども、4桁の数字でしょ、暗証番号って」
「そうだけど?」
「日付けってさー、月を2桁、日を2桁で考えると4桁の数字になりはしない?」
「たしかにそうなるね」
「そしたら、暗証番号って、何かの日付けを当てはめることが出来なくできなくな〜い? ウッフ〜ン?」
「ソフィー、本当に、ひょっとしたら君は天才だな? なんて冴えてるンだ。でも、どんな日付けを考えればイイんだろう???」
「ウ〜ン、何かしらねぇ? ウッフ〜ン?」

「おぉ、そうだ、ひらめいたぞ! 人が一番忘れない日付けって何だかわかるかい? ソフィー?」
「って、なぁにぃぃ? ウッフ〜ン?」
「それはつまり、その人の生まれた日、つまり、誕生日だよ!」

「まぁ、乱愚鈍(いけない、名前間違えちゃったわさ。でも、声に出せばいっしょだもんね。わかりゃしないわよ)、あなたってホント〜にジーニアスだわぁ! ウッフ〜ン?」
「だったら、暗証番号はきっとキリストさんの誕生日に違いないぞ! って、それはいつなんだろう? ソフィー、知ってるかい?」

「いやぁね。乱愚鈍(また間違えちゃったわ)。人の誕生日なんか知ってるわけないじゃないの。 でも、ジョージ・ハリソンの誕生日は2月25日なのよ。なんで知ってるかって、わたし、ジョージの大ファンだったんですもの。ウッフ〜ン?」
「そりゃそうだよな。知ってるわけないって。ではまたGoogleに頼ってみよう。有名人の誕生日なんか一発でわかるサイトもあるんだぜ」
「ふうん、Googleってすごいのね ウッフ〜ン?」

「‥‥ホラわかった。アッという間だろう? えっと、12月25日だってさ。ははは、クリスマスと同じ日だなんて、憶えやすい誕生日だねぇ、キリストちゃん」
「すごいわぁ〜、きっとそれよ。1225。それが暗証番号よ。う〜ん、もう、胸がバクバクしちゃう。ウッフ〜ン?」
「ソフィー! その、ウッフ〜ン? っていうの、ちょっと今はやめてくれないか。わたしは今とっても真剣なんだ。なんてったて、三億円がかかってるンだよ。それを忘れないでくれたまえ。見事に三億円をせしめたらそのあとにたっぷりと ウッフ〜ン? ってやろうじゃないか。‥‥神さま、仏さま、どうか夢を叶えて下さい。この暗証番号が正解でありますように」
「乱愚鈍(もうこの名前でいいわさ)、あのね、今、仏さまに願かけるのは良くないような気がするわ」

乱愚鈍はATMに暗証番号を打ちこんだ。これが三回目。間違えればもうチャンスはないのだ。1、2、2、5。ディスプレイが一瞬真っ青になり、次の瞬間に新しい画面が二人の目の前に現われた。「預け入れ」、「払い戻し」、「通帳記入」、「振り込み」などなど。

「やったぁ〜! ソフィー! ぼくたちはついにやってのけたぞ!」
「乱愚鈍、なんて素敵なんでしょ! わたしたちはこれから、キリスト様の遺産の三億円を自由に使えるのね!」
「そうとも! そうなんだよ! 今夜は一生で最高の晩餐を、二人だけで開こうよ!」

こうして、乱愚鈍とソフィーはATMからとりあえず30万円を引き出し、六本木ヒルズでの豪勢な夕食のあと、六本木プリンスにしけこんだ。その夜、イエス・キリストの跡継ぎが、次の世の救世主になるべく受胎されたことこそが、この地球の未来を救ったのだった。[教訓]:暗証番号に電話番号や誕生日を使うのはやめましょう。

 ‥‥言ってみればこんな話だが、本当はそうじゃない。よ。

 ごめんなさい、遊んでしまいました。

 いや、でも、面白いところもありますよ。この映画。

 十字軍のイェルサレム遠征のシーンとか、空に大砲の弾丸が飛び交うのなんか、完全に湾岸戦争のアナロジーではないかと思ってしまったし、この、断片的に3〜4ケ所はさみこまれる、初期キリスト教史の映像がとってもパワフルで、いかにも映画的で、ちょっと感動してしまった。

 あと、ほんとうに久しぶりに見るユルゲン・プロフノフのお姿。実はわたしはこの俳優さんのファンだったりして、なんだかわけの解らない役だったけれども、とにかくその「眼力」で演じ切ってしまわれていたのがうれしい限りではありました。

 う〜ん、でも、なんで原作者のダン・ブラウンが、プロデューサーの中に名を列ねているのだ。そりゃ思うように換骨奪胎出来はせんだろう。原作が長いのだから2時間ちょっとで映像にまとめるのはそもそもムリ、という意見を多く目にするけれども、『薔薇の名前』の方がもうちと長い原作ではなかったかな。決して『薔薇の名前』を「素晴らしい作品」と言おうとは思わないけれども、エンターテインメントとして、あれだけの長篇をたいていの人に楽しめる映画にしたという前例はある。

 レオナルドの「最後の晩餐」で、この映画で「マグダラのマリア」だろうが、と言われた人物像は、一般には「使徒ヨハネ」として了解されているはずなので、そのあたりの言及が10秒でもあればよかったのにな。10秒あればごまかせるのに、それを省いたから「インチキ」になる。このあたりが、「二流」の宿命なのか。某「和田義彦」と同じだ。


 

TetsuoTetsuo 2006/06/07 17:31  映画のことや、トラッド・フォークなどで、話題が盛り上がっていますね。私も、ペンタングル、ジョン・レンボーン、バート・ヤンシュなどの系統の音楽が好きで、また、たまに、私のサイトの日記で映画のコメントなどを描いています。
 最近、イギリスのギタリスト、ゴードン・ギルトラップのCDを集めています。
 何か、こうした関係で情報交換できると嬉しいですね。
 よろしく。
 http://el-condor.hp.infoseek.co.jp/

crosstalkcrosstalk 2006/06/07 23:26 Tetsuoさま、はじめまして。コメントありがとうございます。HP拝見させていただきましたが、多彩な趣味をお持ちなんですね。わたしはこうやってひっそりと書いているだけですが、お目にとまることが出来まして僥倖です。
ゴードン・ギルトラップは残念ながら聴いたことがありませんが、なにか情報がありましたら。
これからもよろしくお願いいたします。

crosstalkcrosstalk 2006/06/07 23:31 トラックバックをいただきましたが、すみません、意図不明なので、申し訳ありませんが削除させていただきます。トラックバックをいただくのは厭いませんが、ただ一方的にそちらに誘導するだけのもの、また、なにゆえにトラックバックいただけたのか不明なものに関しましては、これをお断りいたします。

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■ 2006-06-03(Sat)

[] 三条会『砂の女』 安部公房:作 関美能留:構成・演出 @北千住1010ミニシアター   三条会『砂の女』 安部公房:作 関美能留:構成・演出 @北千住1010ミニシアターを含むブックマーク

 三条会のお楽しみ、見どころは、やはり、まずはここの役者である榊原毅のその汗、そして、大川潤子の鼻水(ごめんちゃい!)であることは、一面たしかなことであって、ま、見に行くたびに、「うわ、まただ!」とか、「相変わらずすごいなぁ」とか、とにかく感心してしまうのだけれども、それはつまりは、「スズキ・メソッド*1」とか言うんですか、その成果と言えるんですけれども、ある意味でその、演劇的に鍛練された身体の強靱さ、として受け取れるわけで。ま、それをそのまま「鍛練された身体」の提示の場としての舞台、と捉えれば、一種ティピカルな演劇の位相として、「暗黒舞踏かよ!」みたいな乱暴なくくり方、見方に落ち着いたりして。

 いや、三条会の舞台の面白さは、もちろんそんなことだけにあるのではなくて、その演出の妙にあることは言うまでもない。そこでは、テキストと、身体と、舞台空間、それらの要素が、錯綜しながらもこんがりあいつつ(同じことか)、ある意味では非常に漫画チックな不条理空間を産み出しているよね、と言いたくなってしまうのだ。うん、ここで「漫画チック」というのは、わたしにとってはかなりの「褒め言葉」で、そうね、例えば赤塚不二夫とか、山上たつひことか、究極は谷岡ヤスジであるとか、いや、わたしもやはり世代が古いかね、でもこれ以降の、最近に到るまでのギャグ漫画の、なんちゅうか観念論っぽい語り口は、これら赤塚〜山上〜谷岡ギャグの身体性(と言ってしまえると思う)とは違ってると思うし、そういう、異化された身体みたいなのを舞台で現出させているのがこの三条会だろう、なんて思いで見に来ている。そう、それは、まったく無意味な、効率の悪い身体の酷使、と言ってしまってもいいような側面もあるのだけれども。

 結局、今のところこの三条会の最高傑作は、武田泰淳の『ひかりごけ』であるだろう、というのは間違いないと思うし、このことは以前にも書いたのだけれども、その、原作自体を学校の国語のリーディングの授業に置き換えての、ハンバーガーを食べながらも進行する、ある意味で原作をコケにするような読解、演出はクセになるほどに面白かったわけだし、その意匠は、この『砂の女』にも引き継がれている。

 しかしながら、今回はわりと原作に忠実な読み解きであって、男性4人、女性3人の役者陣で進行していく構成の中で、三人一役というポイントはあるにせよ、設定自体を置き換えてしまったりするような展開は見られなかった。いや、冒頭こそ、男3対女3の「合コン」という設定から、まるで「ウエストサイド物語」の「アメリカ」のダンスシーンのような掛け合いダンスの端緒が見られて、これこそが今回の収穫とも言えるのだけれども(やはり、あれだけ身体を鍛えていると、ダンスも強靱だわさ)、その砂の穴へと下降する縄梯子が、垂直から水平に転換され、「深さ」が「隔たり」に読み替えられるおもしろさはもちろんあるし、唐突な小泉純一郎の登場などという「観客サーヴィス」はあるにせよ、舞台に現前していたのはあくまでも、安部公房の『砂の女』の世界だった。

 そう、わたしが『砂の女』を読んだのは、もう30年以上昔の事だし、それから読み返すこともしていないのだけれども、この舞台の最後での台詞を耳にした時に、ふいに、「あぁ、この一節こそが『砂の女』の最後の行だったなぁ」と思い出し、それが実際にこの舞台のフィナーレだった。

 もちろん今回も、役者陣のおきまりの「身体の酷使」も「楽しめた」のだけれども、今までにわたしが見た彼らの舞台に比べると、その原作との乖離の差が小さかった分だけ、そのような身体性が突出して感ぜられるまでには到らなかったのだけれども、逆に、劇団としての、トータルな力量を感じ取ることが出来た舞台だったかな。そんな感想。やはり、これはこれで、演劇的空間/時間の豊穣さ、だとは思う。また次回見に行きます。(5月28日観劇)


 

*1:舞台俳優の基本は、呼吸と下半身の集中力を養うことから始まる。日常生活のなかで退化させてしまった身体感覚を活性化することを目的とし、鈴木忠志によって創りだされた俳優のための訓練。世界の劇団や大学で学ばれている。

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■ 2006-06-01(Thu)

[] 『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ:監督   『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ:監督を含むブックマーク

   f:id:crosstalk:20060601230100j:image

 イタリア映画というのは、本当にあまり公開されなくなってしまっていて、このマルコ・ベロッキオ監督にせよ、40年以上のキャリアと20本近い映画作品があるのに、日本で正式に公開された作品はこの『夜よ、こんにちは』でやっと5本目にすぎない。そのうち、わたしは『肉体の悪魔』と『サバス』は観ているけれども、それももう20年も前のことになるわけだわさ。いや、その2本はそれなりに面白く観た記憶があるのだけれども、でもただ、このマルコ・ベロッキオという名前を憶えていたにすぎない、というところかな?

 この『夜よ、こんにちは』という作品は、1978年にイタリアで起きた、「赤い旅団」による、モロ首相誘拐暗殺事件、そのヨーロッパ近代(現代?)史のダークサイドを真正面から捉えた作品ということで、前からその評判は聞いていた。これを「ダークサイド」というのは、その事件の表面的な大きさにとどまらず、このイタリアの「赤い旅団」、そしてドイツの「バーダー=マインホフ」などの急進左翼運動に少なからずシンパシーを表明していたジャーナリズム、知識人たちに深刻な動揺を与えたこと、それはこの事件に少し先行する日本での「連合赤軍事件」〜内ゲバ抗争による、一般の左翼急進派への幻滅などの比ではないのだけれども、そう、日本でいえば、オウム真理教による地下鉄サリン事件が一部少数の知識人に与えたダメージに近いのかも知れない。

 この1978年には、ローマ法王ヨハネ・パウロ1世が、その即位後わずか一ヶ月ほどで謎の死をとげて*1、そのあとをポーランド出身のヨハネ・パウロ2世が継ぎ、東側の崩壊に大きな後押しを果たすことになり、つまりはヨーロッパの激動の端緒となった年とも言える。

 「ジェネレーション」って言葉があるけれども、「世代」を意味するこの言葉、これは時間の流れとして30年という時間の長さをあらわしているという話を聞いたことがある。つまり、一世代(ジェネレーション)30年。この深刻な事件を映像作品として製作するのにひとつのジェネレーションがかかった。それはなんだかわかる気がする。日本でも「あさま山荘」〜「連合赤軍事件」を(その出来はともかくとして)映画としてあらわすまでにちょうどそのくらいかかっているわけだし。そういう意味ではオリヴァー・ストーンがもう「9.11」を映像化してしまったというのは、いくらなんでも早すぎるだろう。まだすべてが進行中なのに。ま、オリヴァー・ストーンだからしょうがないか、と済ませていいのかね。そうだ、『ダ・ヴィンチ・コード』なんかは、オリヴァー・ストーンに任せればよかったんじゃないか。ぴったりだ。

 ‥‥脱線。っちゅうことで、この『夜よ、こんにちは』。むかし、『夜よ、さようなら』というフランス映画があったからややっこしいんだけれども、現代は「ボンジョルノ・ノッテ」。うわ、わたしも知っているイタリア語だけで出来ているではないか。‥‥ヒロインがいる。「赤い旅団」の実行犯4人のうちのひとりの女性。この作品は、この事件のまっただ中にいた彼女の視点から描かれた、彼女の心情からひとり歩きした、リアルでありながらも夢見られたような、この事件の始まりから終りまで。当時の映像がふんだんに使われてもいる。その、一人称視点とメディアの映像の複合という意味では、スピルバーグの『ミュンヘン』が当然想起されてしまうのだけれども。

 しかしながら、『ミュンヘン』においては、敢えて言って、「告発」と言うのにはことばが激しすぎる気もするけれども、とりあえず、現在に通底するスピルバーグらしい問題意識があったわけだけれども(観た当時はかなり共感したけれど、今になってみればちょっと距離感のあるわたしなのだ)、このマルコ・ベロッキオの作品の根底にあるのは、それは、「救済」という言葉であらわされるものだと感じた。そして、その「救済」の手腕の見事さ。この作品は、当時の問題と捉えても現在の問題と捉えても、この事件の孕んだ大きな問題に対してなんらの回答を提示しているわけでもない。でも、この作品では、この事件で、生を永らえたままにせよ、その生をも失われてしまったにせよ、失われた魂が、「いかにも映画的に」救済されている。

 この、「映画的に」なにか(ってぇか、「魂」を、ね。)を救済するという、いかにもイタリア映画的な、というか、そのイタリア映画らしい伝統こそが、この作品を他の映画作品から差異化する、もう今ではなかなかめぐりあうことも出来なくなってしまった映画的体験を堪能出来るということ。それ以上のものを要求してどうなるというのだろう。

 ‥‥と、ここまで書いてしまうと、もうあとに書くことがなくなってしまうのだけれども、近ごろは映画ばかり見ていて、それが皆、従来の映画の枠から外れてしまうような作品ばかりのような気がして(ハネケさん、あんただよ)、なんかやっぱ映画を見るって歓びはこんな体験だよね、なんて思ってしまったのかも知れない。

 内容に立ち入って書こうとすると、なんかうまく伝えることが出来ない気持ちになってしまうんだけれども、一つだけ書いておくと、モロ首相が誘拐された時になぜか彼が持っていた映画のシナリオ、そのタイトルが『夜よ、こんにちは』であり、また、ヒロインの職場(図書館)の同僚が『夜よ、こんにちは』というタイトルの映画のシナリオを書いているということ、そういう入れ子構造がスマートに機能していて、この作品のラストで、モロ首相が監禁されたアパートからひとり抜け出して道を歩く、ファンタジーのような映像をすっぽりと覆い包んで、これこそが映画空間なのだというカタルシスを与えてくれるんだ。お見事、と思った。


 

 

*1:いや、この「謎の死」の真相は、『ダ・ヴィンチ・コード』なんかのカトリックの秘密よりよっぽど面白いんだけれどもね。それこそバチカンの陰謀(見方を変えれば決して陰謀とは言えないのだけれども)と言えばいいのか、わたしは当時、ヨーロッパの右翼運動に詳しい人に「ことの真相」というのを聞いたんだけれども、「ウヘェ〜」って話だった。

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